根本の心が何ものか

人間はひとつの種で成立しているけれど、
それぞれの個性は思考によって大いに違いが見られる。
それに引き換え、動物たちの個体差は、
人間ほどは見られない。
こっちのライオンとあっちのライオンの違いが
どれくらいあるかといえば、
地域性や性質、習慣その他で多少違っていても、
おおむね大差は見られない。

それに対して、人間という生き物は、
思考、性質、習慣その他で、非常に差がある。
それぞれの舞台で、個性的な人生を演じている。

「人間はこういうものだ」と
ざっくりと語ることはできても、
人間の数だけ、ひとりひとりはオリジナルである。
それが人間の能力の高さ、特殊な存在の証でもある。

今後、人間が進化していくと
この多様性はなくなって、
この世界の仕組みに目覚めて
調和のもとに近づいていく。

過去に戻ってみると、この多様性はなく、
もっと野性的な時代であった。
ひょっとすると、今の時代が一番
人間は個性的でバラバラなのかもしれない。

仏教経典の中の法華経に、
正法、像法、末法という言葉がある。
お釈迦様が仏教を説いた時代は正法の時代といって、
人々は法華経を習ったことをまだ覚えていた。
心がまだきれいだから、
正しいことはこういうことですよ、
悪いことはしてはいけませんよ、
正しく生きましょうねと言うと、
素直に正しいことはいいことだと、
正しい道を歩むことが出来た時代。

像法の時代というのは、
人々の心の中に法華経の教えが
まだ残ってはいるが、道が掴めない。
しかし、その時代の人々には、
まだ正しいことを求めようとする心があった。

今の時代を末法の世といって、
人々が道理や理屈、知識が大変豊富になり、
上手に語るようになった。
しかし、真実の教えである
法華経の根本を失ってしまって、
物や形に捉われてしまい迷いの中にある。
そういう人たちが生きる時代である。

だから、この世界の根本をわかるために
法華経を学びなさい、と。
それが、末法の衆生を救済する道で、
この法華経をもとにしてそれを広めるのが、
経典の中に記されている上行菩薩といって、
菩薩の中でも特に優れた菩薩。
それが、法華経を根本にして宗門を開いた、
日蓮さんである。
そのことは、
日蓮さん自身も御書の中に残している。

法華経の中には、
そういう優れた菩薩が現れて、
法華経を根本に人々に教えを説くであろう。
ただ、その上行菩薩は、
末法の世の中で
真実を忘れてしまった人々に説く存在であるために、
大変な迫害を受けたり、
命を奪われんがごとくの法難を受けるであろう。
しかし、この世界の法を動かしている神々が
その者を守るであろう、
と記されている。

どんな優れた教えであっても、
その根本の精神が伴っていかなければ、
ただの方便になってしまう。
それには、日常の生活のもとにある心が何であるのか、
しっかり見ていかないといけない。

僕がいつも大事に想うのは、
何を語っているのかというよりも、
どういう心をして語っているのかということ。
本当にこの世のこと、
自分のことを想って日々を生きているのか、
相手のことを想って語ったり行動しているのか、
ということが大切である。

人々の想っていることと語っていることは、
必ずしも同じではない。
つまり、相手のことを想っているように語っても、
実は想ってないことがある。
そのカラクリをよく観ていくと、
自分に対する想いが強くて、
相手のことを想っているように見えても、
自分事が優先していることがある。

いろいろな経典や教えは沢山あるけれど、
自分の組織や教えを正当化するものになりがちである。
今、宗教が信じるに足りるものであるかどうかは、
考えものである。
自分のところだけが全ての真理で、
他は違っているものであるような表現をしていることがある。
しかし、そんなことをしていたら、
それぞれの主張が原因で対立が起きるばかりである。

そこで考えられるのは、その根本の心。
一体全体、その言葉の背景にどんな心があるのか。
わかりやすく表現すれば、世を想う清い心、人を想う心。
それは、キリストの言葉で、
「汝を愛するがごとく、他を愛しなさい。」
この世界をひとつの命として、あなた自身と観ていく。
そのことを前提に、根本を観ていく。

それは誰の考えでもなく、
この世界の命の仕組みそのものである。
そこに自分の根本を置いて、
ものを観ていくことが大切である。
この世界があって、この世界が動いて、
その中に私たちもいて、
私たちのもとはこの世界の始まりに生み出されたものであり、
今も生き生きと続いている。

この時代、人間の歴史の中では、
もっとも個が激しく強い時代だと思われる。
お互いが違う生き物のように自己主張を繰り返し、
個性的で、バラバラである時代。
競争や対立の中で、
人間は優れたところを沢山発揮してきた。
しかし、その結果、人間の世界はバラバラである。
高い能力は発揮しているが、
非常に愚かな現象が、今この世界に現れている。

過去を辿ると、人間は動物と同じように、
ひとつの種として違いはなかった。
それが今、個がバラバラの状態になってきている。
これがまた過去のようにひとつに戻る。
これは戻るのではなくて、進化である。
進化していくと、またひとつになっていく。
それを束ねる根本は、
自然の仕組み、命の仕組み。
私たちを生みだしたものの仕組み。
そこに思考を働かせて、
自分の行動が自然の仕組みに沿った行動をするということ。
今はそこに移行する段階で、
個々の自己主張がピークに達した時代である。
いろいろな人がいて、そういった主張を認めながら、
成長のプロセスとして学んでいくことが大切である。

今の世界は、
沢山の国々にそれぞれの法律があるように、
ルールだらけ。
その中でルールとルールを比べると、
それぞれにまったく違う世界が展開されている。
さらに、それぞれが生まれてきた素性から、
いろいろな人生があって自己主張がある。
個々に辿っていけば、全て認められることではあるが、
自己主張を通して得られるものは、
不調和であり、対立であって、豊かさではない。

多様性がある人間には、
根本に共通の目的があるはずで、
大切なのは、
個々が自己主張するような我の部分ではなく、
生命としての根本の部分。
この世界の命として、万物と共有している部分。
そこから出てくる仕組みで生きていくことが
大切である。

今はまだ、
そういったことが理解される時代ではないから、
なかなか難しいことではあるけれど、
進化の過程で必ず人がそこへ行き着くことは間違いない。
だから、それに気づいた者は、
世のため他人のためという大事を信じて歩み続ける。
世のため他人のためというと、
人間世界のことだけみたいだけれど、
この地球に訪れる未来にふさわしい生き方を生きる道である。

富士山に移住する時に、皆にこんなことを伝えた。

「小さな志を持って生きていくと、人に認められたい、
人に理解されて生きていきたいという志になってしまって、
まわりの人たちの御機嫌伺いをしなければならない。
けれど、大きな志を持てば、
まわりの人たちが理解しなくても、
自分の姿勢に信念を持って、
歩んでいくことができる。

無理解でも行けるというのは、
大きな志があればこそできること。
あなたが、誰か一人、
例えば僕を信じて行こうとするのではなく、
自分の中にある大切を生きようとする心。
あなたの中に神がおられて、
それを信じられたら行きましょう。
人間を信じて歩むようなことでは、長続きしない。
それは、自分という個の満足になってしまう。

大きな志。それを持って歩んでいけば歩める。
この生き方は、世の中の二歩先を行く歩み。
一歩先というのは、皆がそのことに対して、
大切ということは理解できているけれど、
実際にはやれない道。
しかし、二歩先を行くというのは、
世の中がまだそこに至らない。
志に目覚めている人々であっても、
その生き方は大切だなと思えても、
本当にそのように歩みきれない。
そして、ほとんどの人たちは、
そのことの大切さをまだ理解できないから、
不可思議なものに見えてしまう。

そういった中で、先駆けとして生きるということは、
大きな志を持たないと歩んでいけない。
無理解な人たちのためにも、
それを生きていかないといけない。
それは、しっかりとした大きな志。
己を捨てて、世のため他人のために生きるという志。
そういう志を持って生きていかないといけない」

このことを皆に伝えて、この生活が始まった。
そして今、まさしくこの道を歩んでいる。

多くの人々には
まだそのことが理解できないけれど、
必ずその理解者はいて、この道の歩みを守ってくれている。
それがこの世界の根本の仕組みを信じていくと、
神様の後ろ立ての現象が表われてくる。

いろいろな人がいて、いろいろな主張がある。
それをどれも否定しない。
しかし、それが心の中のどこから出てきているのか。
心の根っこを観て、
それがこれから来るべきこの世界の目的、
役割として捉えていくことが大切である。
一歩先だろうが二歩先だろうが、
間違いなく世の中が後からついてくるわけだから、
信念を持って生きていきたい。

人間は、日常の中で、
何かが変化しそうになると不安になるものである。
例えば、食糧危機が来るのではないかとか、
会社の経営が行き詰って失業するんじゃないかとか、
いろいろなことを思って不安になる。
今現在の状態を壊したくない、
それを守ろうとする心がそこには働く。

現状を守るという意識になると、
少しの変化でも不安になるもの。
しかし、視点を少し変えると、変化することは、
新しい自分がそこにいるということ。
もっと良くなるかもしれないぞ、という発想になれば、
変化することはすごく楽しみで、
何かが壊れていくということは、
新たなことが起きる始まりである。

守ろうとする心があると、
変化することが悪いことのように思えてしまう。
その心の根っこにあるもの。
それが全部、その人の未来に起きる出来事を誘導している。
そこのところに気づいていくことが賢明である。

人類は、生命として誕生してから、
貧しい時代を過ごしてきた。
長い間自然のままに、
自己主張を全く許されずに歩んできた。
しかし、その時その時、不自由があればこそ、
喜びがあって生きてきた。
郷に入っては郷に従うように、
価値観が変われば、
違う価値観の中でも喜びはあるはずなのである。
今の時代のように、何でもあるのに喜べない時代は、
それとは対照的である。

そのことに気づけば、何でもいただく心を持てる。
縄文時代の人間と私たちとどのように違うのかと言ったら、
ほとんど変わらない。
チンバンジーと人間のDNAがほとんど変わらないように。
全体のルールが変われば、
そこには新たな生き方があって、何も恐れることはない。
それは、退化することではなく、
新しい価値のもとに進化することである。

今を守ろう、維持しようとして、
自分を自分の中に閉じ込めている。
成長させないでいる。その根本を忘れてしまう。
全体を忘れて、個々に自分を成り立たせようとするのである。
これは、個性的な表現の仕方の生き方である。
それは人間が能力が高く、
特殊な生き物である証ではあるけれど、
そのことがこの世界に混乱をもたらしている。

どんなことでも、根本が何であるか、
そのことをしっかりと吟味していくことが大切である。
それをどう使うかによって、
自分にとっても、他人にとっても、社会にとっても、
有益にも有害にもなるのである。