「大正直」から「大調和」へ ~ 新時代「令和」を読み解く 2

時代が「令和」になって数週間が過ぎたある日、ある若いご夫婦が木の花ファミリーを訪れました。奥さんはかねてよりファミリーをよく知っており、お坊さんであるご主人にも紹介しようと一緒に訪問したとのことで、見学ツアーやウェルカムコンサートを体験してご主人も感銘されていた様子でした。そしてその日の夜の大人ミーティングで、ジイジはこんな話を始めました。


ジイジ:
お坊さんは、長年の慣習の上に乗り、今の地位を保っています。それは本人の実績ではありません。ですから、その姿勢で生きていると、どこかに矛盾が発生します。これまでは職業としてそれで食べていければよかったのですが、時代が変わり、一人ひとりの生き方が問われるようになると、これまでのような在り方では、自らの内に疑問が発生します。
現代のお寺の在り方では、これからの時代を生きる人々に、生き方を提案することはできません。人々の心の問題も解決できません。今日ここを訪れたお坊さんは、お寺は今や葬儀のためにあるようなものですと話していました。精神的な活動もするものの、基軸が伝統の上に腰かけているわけですから、斬新さがないのです。そのお坊さんも、どこかでそれをわかっています。わかっているからこそ、「これが正しいのだ」と思い込まないとやっていけないのです。そうでなければ、挫折するかのどちらかです。
お寺では、人間はどのように生きたらよいのかということに対し、その教団の過去の実績という限定された世界から答えを出そうとするので、無理が発生します。それでは画一的な解決策になってしまいます。これからは、宗教が示すような解決策は通用しなくなるということを、僕はずっと語ってきました。一人ひとりの人間が出会う出来事は、それぞれにオリジナルなものです。宗教は、そういったものにも対応してきたかのように思われていますが、一人ひとりそれぞれに違う問題ごとに対し、マニュアルを設けて解答を出しているようなものなのです。マニュアルを出しているようなものでは、解決策は見出せません。では何が解決するのかというと、開眼です。目が開くということは、一人ひとりがそれぞれの中に眠っているものを目覚めさせるということです。一人ひとりの実体は、それぞれにオリジナルな目覚めを促すために用意されているのです。

生きていると、外からたくさんの刺激が来ます。明治、大正、昭和、平成、そして令和と時代は移り進んできましたが、いつの時代も同じ刺激が来ているわけではありません。昭和の初めのころは、まだ日本は世界の大国に追いついていませんでした。しかし見栄を張るように無理をして軍事力を強化し、その盲目な判断が大東亜戦争につながりました。
その後、戦争に負けて自分たちの愚かさを知ったと同時に、日本人の高い能力、即ち精神性を完全に失いました。それは大和魂の喪失です。そして西洋物質至上主義にかぶれていきました。中国でも、共産主義によって東洋の叡智が失われました。共産主義は中国の人々の伝統的な誇りを奪い、日本人は戦争に負けたことによって大和魂を失ったのです。戦争でゼロ戦に乗ってアメリカの軍艦に飛び込んでいくのは、大和魂とは言いません。本来の大和魂とは、そのように命を粗末にするものではなく、争うことを避け、真実の探求のもとに大調和の精神を養うものなのです。それを日本人は失ったのです。

何かを失えば、何か代わりのものを見つけなければなりません。それが西洋物質文明でした。精神的支柱を失ったところへ、欲望をくすぐられ、人々は柱のないまま、与えられるままに「これが正しい」と向かっていきました。共産主義によって本来の精神を奪われた中国も、日本と同じように代わりのアメをもらったようなものです。改革開放によって欲望をくすぐられ、今も強大な国になろうとしていますが、その精神は西洋的な覇権主義です。
日本も、中国も、他の東アジアの国々も、西洋的覇権主義の汚染から未だ抜け出せずにいます。しかし時代は、800年間の隆盛期を終えた西洋文明が停滞期へ入り、東洋精神文明が花開く時代に入りました。ですから、そういった借り物精神の上に国を築き上げてきた日本や中国では、より多くの矛盾が起きています。アメリカやヨーロッパでも矛盾は起きていますが、それは元々の西洋文明が熟した上で発生しているものですから、ある意味当然のこととして定着しているのです。しかし、日本や中国のような東アジアの国々の西洋的発展は、人々の精神的成り立ちに馴染まないために、西洋に現れている矛盾よりも、より過激なものとなって現れるのです。

そこで今、僕は何を伝えようとしているのでしょう。
多くの人々には、新しいものが信用できない背景に、古いものに固執している習性があるものです。これまでの時代は、技術革新でも社会改革でも、新しいものに飛びついて物事を進めてきました。しかしそういったものに確信が持てなくなると、今度は単純に古いものに解決策を求め、また宗教回帰のような動きが起きているのです。ですから今、日本だけでなく西洋でも、お寺で瞑想するなどの修行的な行が流行っています。しかし、それでは根本的な解決策を見出すことはできません。それは過去のある時点でのレベルで通用するものでしたが、時代が未来へ向かって進化していく中で、そういったものはもはや通用しなくなり、結果を生み出すことはできません。ところが現代人は、未来への見通しが立たないために、過去へしがみついているのです。
視野を広げて時代の変遷を正しく捉えれば、宗教の歴史は3000年余りの歴史にしかすぎません。太陽の1らせんは25800年です。人間の歴史は400万年です。地球の歴史は46億年です。そういった尺度からすれば、宗教の歴史は一瞬のことなのです。過去に戻り、それで安心しようとしてはいけません。それは単に、自分の心が納得できる理解の範疇で、落としどころを探し求めているにすぎません。

僕は難しい話をしていますか?それは、今朝、重要なことがあったからです。それをすべてみんなに伝えようと思っても、みんなはまだ受け取る心の準備ができていませんから、みんなにも理解できるように話します。

2012年12月21日に銀河の冬至を越え、太陽の1らせんである25800年のサイクルがひとつの区切りを迎え、次の段階に入りました。有史と呼ばれる地球上に表現された人類の文明の歴史は、その1サイクルの1/4の6450年です。それ以前には、人々は自然と共に生き、文明と称されるような記述はありません。そして、25800年の1/4を経た現代文明の物質的発展はピークを迎え、人類の精神性が闇のピークを迎えた今、私たちはその歩みの軌道修正に入ったのです。
軌道修正をするとは、生きることへのエネルギーの使い方が変わることです。25800年のサイクルを終えて次のサイクルに入るということは、元へ戻ることが始まったのではなく、次の段階のサイクルへ進むことなのです。そしてその軌道はらせんを描いているのですから、直線のように進んで急に方向転換するのではなく、常に軌道修正をしながら進んでいるのです。ですから、伝統を重んじ、語ることは大切なことですが、それを真実として固定し、直線的に進み続けることは、時代の流れや変化に基づく進化とはずれていくものです。今日ここへ来たお坊さんはまだ若いですが、既に限界が来ていることをどこかで感じているのでしょう。だからこそ、「自分の道はこれでいいのだ」と自らに思い込ませるために、かえって言葉が強くなるのです。その響きを、一緒に来た奥さんは日々の生活の中で感じているから、「お寺にいると気持ちがもやもやしてくる」と言うのです。簡単に言うと、お坊さんは頑固者になってしまっているということです。

これは仏教だけの話ではなく、現代に存在する様々な宗教にも共通する話です。宇宙的には、宗教の時代は、それが必要とされた時代の余韻は未だに残ってはいるものの、既に終わりを迎えています。そこで私たちは、どのように次の時代を迎えるのかが大切なのです。縁あって出会った聖人の教えに則り、何百年も何千年も同じことをやっていては、古くなるに決まっているのです。
これからの時代は、一人ひとりが天と直結した信仰のもとに、自らの進む方向を見出していく、そのために一人ひとりが自らの存在する意義に目を覚ます時代です。宗教が果たしてくれた役割は終わりを迎えますが、私たちに信仰は永遠にあり続けます。それは、信じることの対象が変わるだけなのです。しかし現代の人々には、そのことがなかなかわかりません。なぜなら、自ら考えて判断をしないことに慣れてしまっているからです。考えなくてもいいように法律で縛られ、宗教で縛られ、教育で縛られ、マスコミの情報に操られ、いかに考えなくてもいいように現代人は仕向けられてきたことでしょう。考えなければ、自然界の動物や植物のように、無の境地において、世界に害をもたらすようなものではなくなるのかと言ったら、人間についてはそれも違います。では、考えないように仕向けられると何が起こるのでしょうか。それは、与えられる情報のままに、与えられるもののままに、何も考えず、欲に囚われ闇雲に生きていくのです。
その欲は自我を増幅させ、目覚めることから人々をより遠ざけます。こういった現象をもたらすものとして、宗教も例外ではないのです。これが、現代社会の奥に仕掛けられている、何者かによる罠です。その罠に、現代の人々ははまってしまっています。そしてその罠は、誰か一人がいい思いをするために仕掛けられているのではありません。人間であることの限界を超えるための定めなのです。地球人間であることも超え、宇宙人間である意識レベルに到達した時に、人々はその罠から抜け出せるのです。

僕は現状の人々の姿を観ていると、嫌になることがあります。しかし、人であることの重要な目覚めの時は、熟しているのです。今のあなたにとって「これが絶対だ」と思うものを、捨てなさい。これをやったら救われる、などというものを、捨てなさい。そしてどうするのかは、自らの目を開けることです。
みんなは、頭を使うことを損だと思っていませんか?そして、物事を集中して観ていない。集中して観ないから、いい加減な状態でもそのまま進んで行けるのです。だから僕はみんなに、「脱いだ履物をそろえなさい」と言うのです。
外国の人は、履物をそろえません。それは振り返る気がないからです。(この時、メンバーの一人がテーブルの上の水筒を倒して大きな音を立てました。)ああやって話の最中に大きな音を立てることも、本当は振り返らなければなりません。そのように流れを壊す自らの人間性を観る必要があるのです。何だか細かいことをいろいろと言われて嫌だな、と思うでしょうか。しかしそのくらい丁寧に互いを観合うことで、自分自身の本当の姿が観えてくるのです。

この世界は、運命共同体です。地球上に起きることはすべて、自分自身に対してのメッセージです。こんなにも地球を汚しておきながら、それを他人事にしておけるわけがない。それは環境問題で議論するようなこととは違う話です。
人間のスケールが大きくなり、個人から地球人、さらに宇宙人という意識になれば、地球がいかに奇跡的な存在であるかということがわかり、それを汚すような愚かなことはしなくなります。それは当たり前の話です。しかし環境活動家は、その当たり前のことを言って、自分たちは偉いと思っています。そのくらい現代人は意識レベルが低いのです。さらに、環境意識のない人々は、その当たり前のこともまったくできずに地球を汚しながら、それでいいと思っています。
そういったことが理解できると、何がやっていいことで、何がやってはいけないことなのか、ここではどうすればいいのか、ということが観えてくるはずです。

ありがたいことに、日本では、家に上がる時に靴を脱ぐ習慣があります。外で土を踏み、帰ってきて玄関から家の中へ上がる時に、靴を脱ぐでしょう?土を踏む場と生活の場が分かれているのです。そして家に上がった時に振り返ると、自分の脱いだ靴がどうなっているのかが見えます。そこに観えるのがあなたの人間性です。それは過去を観ているということです。自らが脱いだ靴の状態を観て、自らの過去を振り返り、自分の姿勢がどうであったかを判断していくのです。
では過去を振り返らなくても靴をそろえれば過去が正されるのかというような、愚かな考えをする人がいますが、そういうことではありません。靴をそろえるのは、自らの過去を振り返る姿勢があることの証でなければなりません。その行為を通して、今日一日の自分がどうであったかを振り返り、姿勢を美しく整える。それをいつも忘れない。令和には、そういったことが示されています。揺るぎがなく、筋が通り、美しい。そして次のステージへと進むのです。家から下りて靴を履く時も同じです。きちんとそろえられた履物に向かう時、これから進む未来に対する姿勢を整えるのです。それをいい加減にやっているとしたら、それがその人の人間性です。
子どもたちはまだそのことがわかりませんし、逆に言えば、子どもたちがだらしなく靴を脱いでいたら、そこにいる大人の人間性が反映されている結果ですから、子どもたちはその行為を持って大人に教えてくれているのです。そのいい加減な子どもの姿勢に対し、何も言わない大人がいる。子どもは鏡ですから、大人がだらしなければ、子どももだらしなくなります。その状態を問題だと思う意識が大人になければ、子どもはさらにひどくなって、さらに大人たちに教えることになるでしょう。

現代は、生の情報を肌で感じ、自らの頭で思考して未来に向けてのプログラムを組み、自信を持って確実に歩んでいくということができなくなりました。情報はすべてパソコンやスマホから仕入れ、便利で豊かになったようですが、人々の生きるための生命力センサーはどんどん退化しています。
今は5月ですが、これから夏に向かうにつれて、また世界中に災害が起きてくることでしょう。それは自然の問題で、自分に問題があるわけではないと多くの人々は思っています。しかし、それはすべて、履物の話と同じなのです。履物が散乱しているのはその人の人間性の現われであるように、病気になるのも、その人の人間性です。災害が起きるのも、今の人類の人間性の結果なのです。そういったことを緻密に観て、しっかりと振り返り、改めて、先へ進むことが大切なのです。

そこで大切なことは、常に新鮮な出来事に新鮮な心で向き合い、自らの枠に囚われず、物事の実態を冷静に捉え、進化につなげていくことです。これまでは、過去のものを実績として積み重ねていくことが大切な時代でもありました。過去から学ぶことは大切なことです。しかし、そこで過去に執着したり、特定のものに正しさを求めると、古びたものに真実を固定してしまうことにもなります。正しさとは、未来に行って与えられるものなのです。
その時に、まだ来てもいない未来のことで結論を出してはいけません。わかるはずがないのですから。まずは今、自らが行うべきことをする。そうすれば、それにふさわしい答えが未来に結果として与えられます。宇宙や地球の仕組みは、常にその答えを返してくれるのです。自分で結論を出すのではなく、今やれることに最善を尽くし、その結果を未来に受け取っていく。それがこれから求められる地球上での人間の立ち位置です。

今、地球上に聖者はいません。しかし、人間は本来誰しもが、優れたものとして地球上に生きることができるのです。本来、そのために人間は地上に降ろされたのです。これまで、過去にどんなに優れた人が降ろされていたとしても、結果として人間たちは今、地球のガン細胞のような存在となりました。ですからその証として、現代に優れた人はいません。本当に優れている人ほど、自らの実力のなさが今の地球の現状を招いたのだと、謙虚に振り返っているはずなのです。
お坊さんたちは、もっと自由な生き方をしたらいいのです。僕の田舎のあるお坊さんは、僕が田舎へ帰ると会いに来て「偉佐美さんは自由でいいですね。私は職業としてこの道を生きていますから、道が限られているのです」と言うのです。しかし、僧侶であるからこそ、娑婆のしがらみから離れて仏の道を自由に歩める存在であるべきなのです。むしろ私たちこそ、娑婆にいて、しがらみに縛られているのに、何を娑婆の人間を羨んでいるのでしょう。
「家がお寺だから僧侶にならざるを得なかった」というのは、ならざるを得なかったのではなく、そういう決断をした自分がいるということです。それだけ親や家に囚われているのです。過去のしきたりを守ろうとするのは囚われであり、自らの魂を濁らせます。
仏教の中でも禅宗では、座禅を組み、自らを無にしろと言いますが、思考を無にしようと思えば思うほど現実逃避になります。だから迷いはさらに増すのです。そして求める一方になります。それは今の宗教の信者たちと同じです。何かいいことはないだろうかと、自ら考えずに求めるばかりになるのです。

この暮らしは、僕が言い出したことから始まりました。そこに集った皆さんは、それに便乗するために来たのでしょうか?僕が最も問いたいのはそこです。便乗するためにここに来たのであれば、それはこの暮らしの求める在り方とは違うのです。過去の経典や誰かの教えにすがるのでは、学校の勉強と同じです。一人ひとりが自らの足で立ち、オリジナルの道を歩むのが、ここの生き方なのです。
では、それが未だ不十分なここに暮らす人たちは、レベルが低いのでしょうか。一般社会で暮らす人々は、現代社会の価値観に汚染されている状態です。しかし、そういった中に紛れて暮らしていると、汚染されていることがわからないのです。こういった一般社会とは違う価値観の場所を訪れると、どのくらい自分自身が汚染されていたのかが観えてきます。今、ここに暮らす人たちは、僕に便乗はしていても、自分自身には汚染されていません。お金も時間もプライバシーも、ここの人たちはすべて共有しています。その状態に生きるには、相当意識レベルが高くなければできないことです。
もともとは、お坊さんたちもコミュニティで暮らしていました。しかし、やがていくつもの宗派に分かれてそれぞれの理屈をつくり、今ではお坊さんであることが飯のタネになってしまいました。それでは一般社会の人々と同じです。ですから、現代のお坊さんの魂は優れているとは言えません。
本来僧侶とは、一般人にはできない生き方をする人々だったのですが、今は一般人からも求められる存在になってしまいました。昔は「乞食坊主」などと言われて何も持たずに托鉢で生きていたように、普通の人々にはできない生き方をしていたからこそ、優れた存在だったのです。今は、お坊さんは優れていると讃えられ、良いことの教えを伝える立場に立っています。それは、一般人にとってわかりやすい話です。わかりやすいということは、それだけレベルが下がったのです。

真理は、常にわからないものです。では、そこへ向かうためにはどうしたらいいのかというと、自らを保つことを手放し、わからないところへ進むのです。僕の言っていることは、わからないでしょう?でも、わからなくてもいいのです。僕には観える景色があるのですから。

さて、ここからが本題です。
今朝、夢を見ました。そして目が覚めてすぐ、その夢を振り返りました。
夢の中で僕は、何かを語っている人を見ていました。その場は、コミュニティの中です。コミュニティの中の人々が、一生懸命何かを語っているのです。その空気感は、僕が記憶している限り、初めて出会うものでした。僕には現世以外の記憶も、そして地球規模を越えたスケールの記憶もありますが、それも含めたすべての記憶の中で初めての空気感に触れたのです。
その空気感が、我々の日常であるコミュニティの生活の中に表現されていました。その時僕は、人間社会にもこのような境地が表現できるのだ、と思いました。「突破できる!」その確信を持ちました。

これまでどれだけ、現状を突破できないことに試行錯誤してきたことでしょう。それを突破できる道筋が観えたのです。それで「よし!」と思い、目が覚め、その場にいた人たちに今見た夢の空気感を伝えようと、言葉にし始めたら・・・・・その響きが表現できないのです。目覚める瞬間まで感じていた空気が、その空気感を言葉にしようとすると、表現できないのです。その空気とは、おそらくこれから私たちが到達し、体験するものです。そうなるかどうかは約束はできませんが、それを私たちは目指しているのです。
その空気を、感じられたのに、言葉に表せない。しかし今でも、僕には確かにその響きを感じた記憶があります。ですからこの事実は、伝わらなくても、語るべきなのです。

皆さん、時代は既に、次のサイクルに入っています。いつまでボケているのですか。そのことがわからないという人に「わからないからダメだ」とは言いませんが、わかろうとする意志を持つことは、誰もができることです。わかろうとしない自らの姿勢に向き合うことはできるのです。

「簡単なこと」です。大調和という大和の心を呼び覚ますために私たちがするべきことは、「大正直」です。

私たちの創るこの場は、正直がモットーの場です。コミュニティ外の人々がいる場でも、お金のことでもプライバシーのことでも、どんなことでも正直に話し合います。しかし、さらにその先があるのです。
私たちは、ものと対話する時に正直でないことはあまりありませんが、人と対話する時には、自らの心の中で思ったことを出さないことが多くあります。中にはほとんど出さない人もいます。それでは心は濁ります。
どんなに言い辛いと思っても、すべて正直に出す。それを笑って積極的に取り組める。こういった人と人の距離が近い暮らしの中で「本当はこうなんだよ」「本当はこうなんだよ」とみんなが出し合い、やがて「本当は」と言う必要がなくなって「こうなんだよ」「こうなんだよ」と出すようになり、そのうちに「こうなんだよ」とも言う必要がなくなって、言葉にしなくとも顔を見ただけでわかり合うようになる。やがて人々は、心の中で思うことを、その人の姿勢ですべて表現できるようになるのです。
そこで僕は自分自身を振り返りました。僕は何か心の中にあって出していないものはあるだろうか。そう思って自分自身の心の中を観てみると・・・・ありません。気付いていないこともあるかもしれませんからゼロとは言えませんが、95%は出しているでしょう。しかし多くの人は、95%出していないのではないでしょうか。それでは通りの良い世界はできません。

厳しい修行などいらないのです。ただ正直に生きることで、心が解放されれば、ことは自ずと整い、ものを言わずとも通じていくようになります。
今朝、この話をその場にいた二人の人たちにした時には、通りが悪いと感じました。なぜなら、人数が少なかったからです。しかしこの大人ミーティングの場で語ると、もう少し理解が進む感覚があります。しかしそう言うと、みんなはいつものように話を聞いて「なるほど」と満足し、この場が終わればもう忘れて、その大事を実践しないでしょう。
それを実践するには、真剣な努力が要ります。つまり、自らの中に出していない、相手から隠している心があるということに気付かなければなりません。みんなクセのようにそれを持ち続けているのです。
正直を出して失礼なことはありません。それは自分の目から見た真実だからです。そして自分の目が歪んでいたら、相手や現象が正してくれます。それが人生で与えられた修行の意味です。何も座禅を組んだり経典を学ぶ特別な修行をする必要はありません。誰でも、人生という場で、完璧な修行を与えられているのです。脱いだ履物は、私たちにそのことを教えてくれているのです。

今朝僕が夢で感じたものは、20世紀から30世紀にかけての千年紀を生きる人類にとってとても重要なものだと、僕は感じました。その場をあえて例え話で表現するとしたら、ロータスランドでスタッフがお客さんから注文を受けて、出来上がった料理を持っていくでしょう?そしてお客さんの前に料理を置いて、「これはうちで無農薬で育てたものです」「これはうちで育てられなかったので、どこどこのお店で何円で仕入れました。利益率はこれだけです」と説明し、お客さんはそれを全部わかって食事する。顔色の悪い人がいれば「お客さん、今日は顔色が悪いですね。何か心に問題がありませんか。自然療法プログラムを受けて自分の心を見直したらどうですか。」大食いをする人には「そんなに大食いしたら体に悪いし、地球も喜びませんよ。みんなが健康に生きるのにちょうどいい量を地球は与えてくれているんですから、そんな食べ方はやめましょう。」無駄遣いをする人には「いくらうちが安くていいものがそろっているからといって、そんなに無駄遣いをしないで、家のローンの返済にあてた方がいいんじゃないですか。」そんなふうに、スタッフが正直に話しかけている。(みんな:笑)そんな店があったらいいでしょう?

みかこ:
今の話を聞いていたら、『むかしむかし』の歌の歌詞を思い出しました。

こころですべての いのちたちと 自由に話していた
かつての日々へ わたしたちは またかえってゆく

ジイジ:
いつの頃だったでしょう。まだこういったことを語っていなかった頃、もしかすると、命であることはとても重要なことなのかもしれない、と思ったことがあります。
その頃の僕は、宇宙の実体を想像したり、UFOの存在を考えたりしながら、この広大な宇宙の中にある地球というものに対して、あまり特別なものだという認識がありませんでした。日常を生きていても、たとえば学校に行って勉強の出来がどうだとか、将来どんな職業に就くかとか、年頃になったら相手を見つけて、というのもそれが尊いことだという意識もないものだから、当たり前のように欲望のおもむくまま世間並みを生きていました。そうすると、自分というものはどこにでもある、いくらでも代わりがあるものという感覚で、とてもそれが特別なものという認識はないのです。例えば、日本の天皇家の歴史であっても、昔なら権力争いの渦に巻き込まれていたように、もっと言えば神話の世界であっても嫉妬や妬みが織り込まれた世界が描かれているように、天上界すらもそのような状態なのです。それが当たり前のように地上に降りてきて、私たち人間は気楽に自己表現をしながら生きており、その一人ひとりはたいして重要なものではないと思っていた時期がありました。しかしそう思いながら、どこかで、もしかすると命であるということは特別なものであり、奇跡の存在かもしれない、と思うところもあったのです。
子どもの頃、日本人一人当たりの所得が世界で26番目くらいで、アルゼンチンのようにあまり馴染のない国よりも低かったデータを見たことがあります。その時に僕は、世界には上がたくさんいるのだと思いました。大人の給料の平均が月給2~3万円で、5万円の給料をもらっている人がいたら理想の結婚相手だと言われていた時代に、アメリカ人の平均給与は15万円と聞いて、別世界の人々の暮らしのように感じたことを覚えています。その後、日本は高度経済成長を遂げてどんどんアメリカに追いつき、僕が20代の頃には『Japan as No.1』という本が出版されました。日本の土地の平均単価が世界で一番高くなり、所得もむしろ日本の方が高くなるほどでした。ところが、まったく豊かさを感じないのです。なぜなら物価も同時に上がるものですから、豊かになった実感がなく、そのうちにバブルが崩壊して、現在に至っています。
自分たちは世界の下の方だと思っていたらいつの間にか経済大国になり、世界No.1になるかと思ったらガタガタと崩れ、日本は豊かな国だと言われていても、実際に国民に意識調査をするとその実感がない。そのように、日本人であることの尺度は、いくらでも変化するのです。

そんな中で、命であるということは、比べる対象がありません。これは、地球生命が共通して持っているものです。日本人であるということは上がったり下がったりしますが、宇宙にあって命であることの価値は、変わらないのです。そこで、命に対する捉え方の違いがあるとすれば、命に対して自分がどのような見解を持っているか。その一人ひとりの視点に違いがあるからです。
この世界では、命であるということがものすごく貴重なことなのではないか。地球に生命として生きることは、とても重要なことなのではないか。そんなことを僕は思うようになりました。愚かな命も尊い命も、命であるということは特別なことなのだ、と。命とは、多様性を表現しているのです。
例えばミミズのように小さな生き物であっても、それはただその生き物がそこにいるというだけでなく、その存在を通して、その奥にある、もっと大きなスケールでこの世界を動かしているものの実体が感じられるのです。命とは、私たちが認識している現象界にある命というものを越えて、もっと巨大な、宇宙を包括する存在である。そのとてつもない存在を、どこにでもたくさんいる、何気ない生命の息吹から感じるのです。そのように命と向き合った時に、自らの欲で何かを支配しようとするような心は、湧いてこなくなります。ただ、自らがその大いなるものの中に漂っているような、それこそ母親の子宮の中で羊水に漂っている赤子のような、安心感を感じるのです。
そのようなことを考えながら生きてきて、68年が経ちました。今は、自分が生命であり、思考し、宇宙を解釈できることが、どれほど優れたことなのかを思います。死んだ先の世界や、この世界を運営する側の存在があるのかというと、それは我々生きている人間にとっては関係があるのか。実はこの生きている人間が、生命としての自らに目覚め、自我を捨て、宇宙を解釈していくと、その我々とは関係ないと思っていた世界の延長に自らが存在しているのであり、それを探求していくと、最終的には宇宙と一体となり、すべての存在と合一することになるのです。

「命」という字の成り立ち

「命」という字は、人が儀礼用の帽子をかぶり、祭壇に膝間づいて、天の命(めい)を受ける姿を表しています。
生きること、即ち命であるということは、天の命に従って生きることです。それは、生命の側が自らの思うように生きるのではなく、すべて天の法則に則り生きるということです。地上にいれば、天が命を下しますから、地上のものは「どのように生きれば良いでしょうか」とお伺いを立て、命を頂き、それに従って地上を生きるのです。その時に、地上の概念は天の命となり、地を生きるものが天の国を地上に降ろしてくるのです。そして天の意思に基づいて地上を生きる。それが「地上天国」の表現となるのです。
命とは、天(宇宙)から地(地球)に降ろされた、神の響きです。即ち、現象界に生み出された神であり、それを命(みこと)と言います。そして私たち地上を生きるものの最終目標は、この現象界にあるのではありません。しかし、現象界にあるのです。人間とは、現象界を通り、神の存在する境地まで到達できる存在なのです。

日蓮さんの教えの中で僕に響いた言葉があります。それは「宇宙とは生命である」という言葉です。それを聞いた時、自分は宇宙の実体である、と思いました。普通に欲があり、これといったとりえもないごく普通の人間である自分が、宇宙根源と同じなのです。それが生命としての悟りの位置なのです。
小さな虫も、道端の草や木も、皆、宇宙を運営する側の存在として、この世界を生きています。しかし人間だけが、自我に染まり、こちら側に生きているのです。人間の能力を生かしながら、もしもその、自我で生きるのではない境地に至ったならば、人間とは何と尊いものであることか。その時に、私たちは初めて、自らの価値を知ることになるでしょう。
地球には、溢れるほどの命が存在し、それらがすべてつながり、循環し、ネットワークしています。それは大調和です。それが私たちの国のもうひとつの呼び名である「大和」の精神です。一つひとつの細胞が健全に配列されることで私たちの体が健康となるように、一つひとつの命が健全に配列されることで、地球が健康になります。
時代は令和となり、これから命の本質が問われる時代がやって来ます。どこかで私たちは、一人ひとりが自らと対話し、生きることの決意のスイッチを入れる必要があります。それが、命ということの意味だと思うのです。意志がはっきりして、決意が明快であれば、行動も明快になります。ところが意志が曖昧で、決意がはっきりしていないと、行動も曖昧になるのです。それを無駄と言います。しっかりとした決意のもとに生きれば、無駄は起こらず、物事はとても効率よく進み、たくらみのない思考が湧いてくるようになります。それを「閃き」と言うのです。

これからの時代がどれほど困難であるのかは、行ってみなければわかりません。平成は、その困難な時代の予告編だったのかもしれません。令和になり、いよいよ本番です。ではなぜその本番を与えられたのかというと、その先があるからです。
過去6億年の間に6回大量絶滅を繰り返してきた地球の生命の歴史に照らし合わせてみれば、現代を生きる人類は、次の生命大量絶滅の引き金となるかもしれません。人々は、何かが壊れる前はそれを守ろうとします。そして壊れれば、それを惜しみます。しかし、壊れるからこそ新しいものをそこに表現できるのです。それは、大量絶滅をするたびに進化してきた生命の歴史と同じです。
ですからやはり、壊れなければなりません。そこで、積極的に壊れていくことを喜べる生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、使えるものを壊していくということではなく、価値観を変えていくということです。出会ったことをポジティブに捉え、変化することを喜ぶ。その時の変化は、進化になります。
変化は積極的に喜びを持って受け入れるものですが、現状の自分を守ろうとすると、出会ったものを拒絶したくなります。さらに、その自分に執着すると、変化は苦痛になります。それは、地上にいて地獄を生きることとなるです。しかし、それが喜びとなった時、尊いものへと向かう目覚めが始まるのです。

火山が噴火する、地震が起きる、台風もたくさん来る。そういう日本にいて、それが喜びになる。大変なことがあるから、大調和になるのです。それが大和という国であり、その証として、令和という時代がいよいよ始まったのです。
令和は、平成よりも物理的にはさらに厳しい時代となるでしょう。それを、大調和を持って乗り越えなさいということです。その厳しさは、ただ乗り越えるためではなく、大調和することを呼び覚ますためにあるのです。これから、今までに人類が積み上げてきたものがどんどん壊れていく時代が始まります。それを乗り越えるために必要なことは、力を合わせること。そして、壊れた先には、これまでに出会ったことのない新しい世界が待っているのです。そのことを、令和という時代は、私たちに示してくれているのです。

 

 


川崎殺傷事件を受けて、子どもたちへ ~ 悪いのはだれですか?

神奈川県川崎市で18人が負傷し、加害者を含む3人が亡くなった川崎殺傷事件から数日が経ったある日、事件を非難する報道でマスコミが賑わう中、ジイジは「子どもたちに大切な話をしよう」と子どもミーティングにやって来ました。司会を務める子が「では、みんなでジイジの話を聞きましょう」と言うと、ジイジはこんなふうに話し始めました。


ジイジ:
あのね、ジイジの話を聞くだけではなく、みんなの考えも聞きたいです。
自分の考えをしっかり持つことは大切なことです。でもその考えが、自分だけの考えであってはいけないでしょう?自分はこれが正しいと思っていても、人から見たらそれはおかしいということであれば、問題が起きます。そこで自分の考えと人の考えを合わせていったり、お互いの違いを認め合うことで、みんなが仲良く暮らせるようになるのです。
それは、安心して暮らすためには、とても大切なことです。どこでも、みんなの意見を聞き、人に自分の意見を伝えて、この場合はどうしたらいいかを自分で判断できる人になることが大事なのです。

今日、ジイジはみんなと話したいと思うことがあって、ここに来ました。この間、川崎市で通り魔事件がありましたね。それについてみんなはどう思っているのかを聞きたいと思いました。この事件では、たくさんの人が包丁で刺されました。その刺された人たちは、それぞれにそれまでの人生を生きてきました。では、刺した人はどうだったのでしょうか?

あきよし:
刺した人も、今まで生きてきた。

ジイジ:
そうですね。そしてその人は、自殺しました。そこで、この事件をどう考えますか。この事件で悪いのは誰ですか?

子どもたち:
犯人!

ジイジ:
なるほど。では、いい人は誰ですか?

ひみこ:
わかんない。会ったことないもん。

ジイジ:
では、かわいそうな人は誰ですか?

子どもたち:
刺された人たち?

ジイジ:
今日、ニュースでこの事件を報道していました。この事件では3人の人が亡くなりました。1人はカリタス学園に通う小学生の女の子、もう1人は外務省職員の男性、そしてもう1人は犯人です。
先日、みんなに令和の話をしましたね。これもテレビの番組で言われていたのですが、最近の若い人たちは「れいわ」と発音せずに「れーわ」と言う人が多いのだそうです。きちんと「い」を発音しない。「い」が無くなったら、「いさどん」もいなくなりましたね。

なお:
「ジイジ」も「ジジ」だね!(笑)

ジイジ:
これはどういうことだろうと考えたら、時代が変わってきて、人々が物事を正しく表現することを面倒だと感じるようになってきたのだと思いました。だから何でも簡単にしてしまう傾向があります。例えば、「いただきます」を言うのも面倒だからご飯ができたらそのまま食べるとか、靴を脱いだらそろえるのが面倒だから脱ぎっぱなしにしておくとか、あちこちでけじめが無くなっていき、話す言葉もそうなってきているようです。
けれども、音には一つひとつに意味があります。ここでは毎日子どもミーティングの前にカタカムナを奏上しています。それには、一音一音に意味があるのです。それをいい加減に発音していくと、どうなるでしょう。時々、日本語を話しているのに何を言いたいのかよくわからない人がいます。それは話す内容の意味がわからない場合もありますが、発音がおかしい場合もあります。では、どのような人がそうなるのかというと、自分から発せられる考えや思い、生き方が明快でない人がそうなります。
現代の人たちは、それが明快ではない人が多くなりました。ですから「ながら勉強」と言って何か他のことをやりながら勉強をしたり、常にスマホをいじっているなど、一つひとつにけじめがないのです。そういった人が増えてきたことが、話の内容や発音に表れているのです。
言葉がはっきりしないとどうなるのかというと、自分の考えをはっきり伝えることができません。相手の考えをしっかり聞くこともできません。自分がはっきりとしていれば、人の考えもしっかり聞けるものです。それが、けじめのある人が取る姿勢です。

令和が始まった日、「新しい時代はどんな時代になってほしいですか」というインタビューに対して、日本人が最も多く答えていたのはどんなことだったか、覚えていますか?

子どもたち:
災害のない時代になってほしい!

あきよし:
あと、平和な時代になってほしい。

ジイジ:
そうですね。では、その5月1日からこの1ヶ月間の間に、災害はなくなっていたでしょうか?

子どもたち:
あった!

ジイジ:
そうです。本来、5月というのはあまり災害のない月ですが、このわずか1ヶ月の間に屋久島では50年に1度の大雨が降り、北海道の佐呂間町では観測史上、5月の全国最高気温が記録されました。5月なのにこの状態では、これからどうなるのでしょう。「災害のない時代になってほしい」と思っても、実際に災害はたくさんあるのです。
災害は、これからもっとたくさん起きるでしょう。なぜだと思いますか?今年の災害は、今年あったことが原因で起きていると思いますか?

なお:
今までのことが原因で起きてる。

ジイジ:
今までの何が原因だと思いますか?

なお:
人間の生活!

ジイジ:
そう、人間の生活が原因です。人間の生活に、けじめがなかったのです。けじめがないからみんなが好き勝手なことをやり、あれもこれもと欲しがって次々と物を作っては捨て、処理しきれないほどのゴミを出し、石油や石炭をたくさん使い続けた結果、地球温暖化が起きて、今のような状況になっているのです。
実は温暖化にはもうひとつ、原因があります。それは太陽の活動です。太陽は、太陽系の中心です。ジイジは宇宙的視点で物事を捉える考えを持っていますから、太陽が地球上の人間たちの行動に対して「その考え方は間違っているぞ」というメッセージを送るために、地球に災害が起きるように活動を変化させていると観ています。それは宇宙からのメッセージです。

今地球上で起きている温暖化や、それに伴う災害は、ある日突然起きるものではありません。それまでの積み重ねがあり、その結果として、今それが起きているのです。だから令和元年になり、人々が「災害のない時代になってほしい」と願っても、実際には災害が起きるのです。そもそも「災害のない時代になってほしい」と人々が願うのは、それがありそうだという予感がするからでしょう。まったくありそうにないことを、それがありませんようにと願ったりはしないでしょう?
では、なぜ災害があることが予感されるのかと言えば、私たち人間がそのように生きてきたからです。そしてなぜそのように生きてきたのかと言えば、先ほどの「れーわ」という発音と同じ話です。実際は「れいわ」なのに「れーわ」と発音する。よく、コントでもあるでしょう?(お笑いのモノマネをしながら)「おぅ、たらいま~。」「あぁ、ごはんはぁ?」「はぁ、いらん~。」(子どもたち爆笑する。)ほにゃ~、ほにゃ~、とまるでアヒルがしゃべっているようでしょう。むしろアヒルの方がずっとはっきりしています。

あやな:
それってヤバくない?

ジイジ:
ヤバいと言っても、実際にそういうやり取りをしている人たちがいるのですよ。それは、自分の意志がはっきりしていないということです。はっきりしていないということは、相手にも伝わらないということです。それはつまり、毎日一緒に生活したり仕事をしたりする人たちと、心が通じていないということです。
大切なのは、自分の思っていることを相手にしっかり伝えること。そして伝えるだけではなく、相手の言っていることもしっかり聞くこと。そこでお互いの考えを比べてみて、ここは違っていますね、でもいい関係にするためにはここはこうした方がいいですね、私はこうできますがあなたはどうできますか、とすり合わせていくと、いい関係ができるのです。けれども、思っていることを言わずにいることがいいことにつながることだと思っていると、関係はだんだんおかしくなっていきます。物事を曖昧にしていては、良い関係はできないのです。

今回の川崎の通り魔事件では、なぜ犯人があのような行動を起こしたのかについて、はっきりしたことはわかっていません。ただ、周囲の人たちの証言によると、子どもの頃に学校に遅れてきたり、授業が終わる前にいなくなってしまったり、いつも一人でいるような子だったといいます。先生は、その人について「一人でいるといい子なんですが」とコメントしていたようです。ということは、みんなの中にいると問題が起きるということです。そして、何を考えているのかわからない子だったと言います。
その人が大人になり、今回の事件を起こしました。新品の包丁を4本用意して川崎市の登戸にやって来ました。そして、手には手袋をはめていました。なぜ手袋をはめていたのかといったら、包丁で人を刺せばものすごい抵抗がありますから、自分の手まで切れてしまうことがあるのです。人間の体を刺すというのは、とても大変なことなのですよ。だから犯人はきちんと手袋をはめて、準備していました。そして、どこへ行くのかということも計画していました。スクールバスを待つ子どもたちが列を作る時間に合わせて、そこへやって来たのです。
明らかに犯人は、人を殺すつもりでそこへやって来ました。でも皆さん、考えてみてください。両手に包丁を持ち、何の関係もない子どもを十何人も次々と包丁で突き刺していくのです。それは、普通の精神状態ではできないことでしょう?そう考えると、犯人は悪い人だと言うこともできますが、もうひとつ、心が異常な状態だったということも言えるのです。では、なぜそれほどまでに異常な状態だったのか。
そこで、先ほどの話に戻ります。今年もすでに異常気象が起きていますが、異常気象はある日突然起きるのではなく、そこに至るまでの積み重ねの結果起きるのです。令和という時代は、平成や、昭和や、そのさらに前の時代からずっと積み重なってきたものに対する答えが出る時代です。そしてこの事件も、そういった人々が曖昧に生きてきた結果起きたことだとジイジは思うのです。

事件の後、テレビでは「これからはこういった事件が起こることを前提に、どうやって子どもたちを守っていくか」ということが語られていました。親も学校も市も警察も、そう言うのです。しかし考えてみれば、そもそもそういった事件が起きない世の中にした方がいいと思いませんか。

みのり:
そう思う!

ジイジ:
こういった事件が起きるから、それに対処しなければいけなくなるのです。ならばそのような事件が起きないようにするべきだとジイジは考えるのですが、それにはどうしたらいいかという話はなかなかテレビには出てきません。そこで、このことについてみんなと話したいと思いました。あの事件でかわいそうだったのは、誰でしょうか?

きよみ:
(小さな声で)犯人。

ジイジ:
言葉は言霊です。自分の考えを言葉にする時には、相手にしっかり伝わるようにはっきり言わないと、話す言葉に魂が入らず、いい結果にはつながりません。もっとはっきり言いましょう。

きよみ:
犯人がかわいそうだと思う。

ジイジ:
でも犯人は、生きていたら殺人犯ですよ。どのような刑を受けるのか、もしくは精神病院に行くことになったかどうかわかりませんが、とても大きな責任を取らなければなりません。きよみはどうして犯人をかわいそうだと思うのですか?

きよみ:
(口ごもりながら)犯人は間違ったことをしたから・・・

ジイジ:
相手に伝わるよう、しっかり発音しなさい。今話している姿もダラッとしているでしょう。そういうのを、けじめがないと言うのです。
発音が曖昧ということは、言葉が曖昧ということです。言葉が曖昧ということは、意味が曖昧ということです。意味が曖昧ということは、コミュニケーションが曖昧だということです。そうすると、自分の思うことも相手に伝わらず、相手の言うこともわからないまま適当に解釈することになって、曖昧な人間関係をつくることになっていくのです。そのように意識しないうちにすべてのことを曖昧にしていくと、やっていいことと悪いことも曖昧になります。そして、自分の行動に矛盾が発生してもそれをいいとも悪いともはっきりさせないまま、ただ都合のいい豊かさだけを追い求めていくからその豊かさも曖昧になります。そういった一人ひとりの小さな行いを曖昧にしていった結果、地球上にたくさんの矛盾が積み重なっていったのです。そして今、明快な災害が起きるようになりました。
人間関係も同じです。曖昧なまま進んでお互いのことを本当に理解し合わないうちに、人と人との関係にもたくさんの矛盾が発生し、そういった日々の生活の積み重ねが長い間にストレスとなって溜まっていった結果、ある日爆発して、明快な犯罪を犯すことにもつながるのです。
犯罪が起きる時は、とても明快です。今回の犯人も、積もり積もったストレスの結果、「やってやる!」という明快な意志を持ち、包丁を4本も用意して、手袋をはめ、子どもたちがバス停に並ぶ時間を狙って現場に行き、計画を実行したのです。

きよみ:
人を殺そうと思ったその考えが、おかしいと思った。もっと楽しい人生を送れるはずなのに、そういうふうになってかわいそうだと思った。

ジイジ:
そういう考えになったことがかわいそうだということですか?

きよみ:
ん~・・・ちょっと違うけど・・・

ジイジ:
違うなら自分の思うことを言いなさい。

きよみ:
それがわかんないんだよ。

ジイジ:
わからないのにかわいそうだと言ったの?それでは話が曖昧でしょう。自分がどうしてそう思うのかという元のところを探っていくと、ああ、自分にはこういう理由があってそう思ったのだということがわかり、明快になっていくのですが、そういった心の仕分けをやらずにいると、自分がなぜそう思ったのかがわからないまま進んで、後から自分でも変だと思うような曖昧な思考になっていきます。それは、言葉をはっきり発音しない、食事の前に「いただきます」を言わない、脱いだ靴をそろえないことと同じです。そのいい加減な状態が自分の人生に反映されて、いい加減な人生を歩んでいくことになるのです。つまり、自分の毎日の姿勢が、自分の人生を創るのです。
きよみは意見を発表したことによって、今の自分の状態を知る機会をもらいました。その時に、「これではいけない」と思って自分を変えていく心が大事です。その心がなければそのまま進んでいって、いつも「どうしてうまくいかないんだろう」と思う人生を生きるようになります。うまくいかないのは、自分がそうしているのです。
人生は、もっと明快に生きることができます。現代の人々は、本当のことを言うと損をするのではないかと思い、自分の考えをしっかり言わないまま周りに流されて生きてきた人たちがたくさんいるのです。そして、そういった人たちが今の社会をつくったのです。しかし時代が令和になり、これからはそういった曖昧な状態がどんどん明快になっていきます。新しい時代は災害の起きない時代になってほしい、平和な時代になってほしいと言うのは、どこかで、これから災害が起きそうだ、平和ではなくなりそうだという予感がするからです。けれども自分の中にある予感すら曖昧にしているから、「なぜそう思うのですか」と聞かれても答えられない。しかしそこのところを明快に観ていくと、自分の生き方がいい加減であったことがわかるはずなのです。

最近では、日本語も英語のように簡略化されるようになりました。例えば、取り扱い説明書のことを「とりせつ」と言いますね。「インスタばえ」という言葉がありますが、最近は更に簡略化されて「ばえ」と言うそうです。それは、簡略化した方が効率がいいということも言えるでしょう。効率がいいということは、そこに何か得することがあるということです。
しかしそもそも、音には一つひとつに意味があります。そしてその音が組み合わさることによって、一つひとつの単語にも意味が生まれます。その音の組み合わせの中に、本来の意味が秘められているのです。それを効率がいいからと言って簡略化していくと、どうなるでしょうか。
英語は頭文字を取って簡略化をしますが、日本語はもともとそういったことをしない言語です。それは、一つひとつの音や言葉に魂が込められているからです。けれども最近では日本語も英語と同じように簡略化されていって、元の意味がわからないようになりました。元の意味を失ったまま、簡略化された音だけが独り歩きをするようになると、それでも意味が通るようになるのです。しかしそれでは、魂の抜けた言葉を話すことになります。効率がいいから、便利だからと言葉をどんどん簡略化していけば、知らない間に魂が抜けて、それでも便利だからいいことになっていくのです。それが現代の人々の表面的な、意味のない行動につながっていくのです。
本当はこうだけど、それを簡略化するとこんなに便利だよ、こんなに得するよ、となって、そこに本来の意味が失われていても、そういったことの大事を吟味しない。その状態が蓄積されていった結果が、今の世の中です。人間関係も同じです。本来、子どもが育っていく時には、こういう風に人と人はコミュニケーションを取っていくのだということを学びながら大きくなるはずなのですが、便利がいいこと、得することばかりを追い求める時代の中で、まず大人たちが簡略化をしている。本当は、便利なことはより豊かになるためにあるのに、自分が得をすることが目的になっているから、そこに大事なものが抜けていくのです。そして誰も矛盾の発生源を突き止められなくなりました。

今回のような事件が二度と起こらないように、これからは子どもたちを守れる体制を作りましょう、と大人たちは言っています。今日は、静岡県の全小中学校にエアコンを設置するという話がありました。なぜだと思いますか?

ゆうとう:
暑いから。

ジイジ:
そうです。今までは要らなかったのに、暑くなってきたから必要になったのです。そこで、エアコンが付いてよかったねということではなく、なぜこんなに暑くなってきたのかということを考えなければいけなのです。

みのり:
かわいそうなのはつまり、大人たちと犯人だと思う。

ジイジ:
どうして?子どもたちはかわいそうじゃないの?

みのり:
刺されたのはかわいそうだと思う。だけど大人たちは、こういう事件が起こらないような社会を創るにはどうしたらいいかということに気付かない。犯人も犯人で、そこまでのことをしてしまった。かわいそうなのは、本当の原因に気付かない人たちだと思う。

ジイジ:
そこが大事なところです。今の大人たちは何か事件が起きると、事件が起きた時に自分たちが助かるにはどうしたらいいかとか、災害が起きた時にどのように避難すればいいかというような表面的な対策ばかり考えています。しかしそもそも、なぜそのような事件や災害が起きるのかということを考えた時に、自分たちにその原因があったら、それを改めなければいけないのです。そういうことを言う人が、今の世の中にはいません。そこが問題なのです。
この事件では20人が刺され、そのうちの2人が亡くなりました。みんなかわいそうです。では、その事件を起こした犯人は、なぜそのようなことをしたのでしょう。何かが起きるには、必ずそのずっと前から、そこに至るまでの道のりがあるのです。

犯人がどのような人物だったのかということは、まだよくわかりません。ただ、今の時点で報道されている情報によると、子どもの頃に孤独だったといいます。両親が離婚し、お父さんにもお母さんにも引き取られず、伯父さんの家に引き取られて育てられたそうです。その伯父さんの家には子どもが2人いて、その子たちはカリタス学園に通っていました。その学校はとてもお金のかかる学校で、受験をして入ります。伯父さんの子ども2人はその学校に通っていましたが、彼は普通の学校に通いました。詳しいことはわかりませんが、周りから見ると、伯父さんの子どもたちと彼は差別されているように見えたそうです。彼は学校でも、みんなとは違う行動を取るような子どもだったようです。その後どのような人生を歩んだのかはわかりませんが、事件を起こす前は伯父さん夫婦と同じ家に住んでいて、51歳で毎日ゲームをやっていたそうです。
そして今回、わざわざその伯父さんの子どもたちが通っていた学校の子どもたちを狙って、事件を起こしました。何か心が歪んでいるでしょう?でも、そこで考えてみてください。勉強ができればいい生活ができるようになる。勉強ができてお金がたくさんある人が優秀な人。みんながそうやって同じものを目指す社会のあり方が、彼のような人をつくったとは思いませんか。

みのり:
そう思う。

ジイジ:
きっと彼は、昼も夜もゲームをやって、だらしのない生活をしていたのでしょう。ところが、事件を起こした時にはとても明快でした。「やってやる!」と。そして捕まる前に、自らを刺して自殺しました。どんな人でも、死んでしまえば裁かれることはありません。罪を犯した時の最も重い刑罰は死刑ですが、その刑を自らに課したのです。ですからもう、罪を問われることはありません。
何かがおかしいでしょう?彼は死んでしまったから、行った行いについて、もう問われることがない。しかし本当は、なぜそれが起きたのかを明らかにするべきであり、彼が行ったことは、この社会の中で起きたのです。つまり、こういった事件が起きるような人間関係が、今の世の中にたくさんあるのです。一つひとつのことにけじめがなく、曖昧で、それをそのままにして進んでいく。その結果、人と心が通じない。互いを理解し合えず、誤解し、相手はこうだと思い込み、人間関係が悪くなっていく。まるで、日常生活の中に戦争が起きているようなものです。だからこそ、自分の思うことをいつでも正直に出すことが大切なのです。そして相手の思うこともよく聞いて、互いを理解していくのです。

これから、災害はますます増えていくでしょう。だからこそ、そうやってみんながお互いを理解し、助け合わないと、乗り越えられない時代になるのです。
災害のない、平和な時代になってほしいと人々は言います。しかし、日本は今のところ戦争はしていませんが、先日トランプ大統領が日本に来た時に、日本の護衛艦を空母にするということを話していました。空母は戦争の道具です。戦争はしていなくても、戦争のための道具に、たくさんのお金を使っているのです。そして戦争はしていなくても、子どもたちが学校へ行こうとしたら、見知らぬ人に包丁で刺される時代になったのです。そんな社会は、平和な社会とは言えません。
家の中では家族でいがみ合い、ケンカをしている。それは、本当にわかり合うための努力をしていないからです。自分の主張ばかりして、相手のことを理解しない。それも、一つひとつにけじめがないということなのです。そういった世の中全体のあり方が、この事件をつくったのです。

今の時代は、誰もが間違っていることがあります。それをジイジに聞いて勉強するのではなく、自分で考えられる人にならなければいけません。これからもたくさんの事件が起きてくるでしょう。災害もたくさん起きるでしょう。日本だけでなく、世界中で災害や事件が起きます。その時に、なぜそれが起きているのか、原因は何なのかを考えることです。そしてそれがわかった時に、では自分はどうしたらいいのかを考えるのです。さらに、自分を含めたみんながどうしたらいいのか。それを考えられる人になることが大事だとジイジは思うのですが、みんなはどうですか。

子どもたち:
賛成!

ジイジ:
それならば、みんなのこれからの生き方は、まず言葉を一つひとつはっきり言うことです。そして自分の考えをきちんと人に伝える。嘘はつかない。そして人の考えもしっかり聞く。そうやって互いの考えを合わせて、みんなで力を合わせて生きていくのです。
そのためには、どんなに小さなことでも、自分の行いをしっかり振り返って明快にしていくことが大切です。鉛筆の使い方ひとつ、消しゴムの使い方ひとつ、脱いだ靴のそろえ方ひとつに、すべて自分の姿勢が表れています。それを一つひとつ振り返って正していくことは、学校の成績を上げるためではありません。その行いの一つひとつが、自分の人生の答えとして未来に現れてくるのです。
今のいい加減な姿勢をそのままにして大人になれば、それが当たり前になり、問題が起きてもどうしてそうなったのかがわからない人になります。今の世の中がそうでしょう?今回のような事件が起きれば、表面的な情報があっという間に社会全体に広まって、みんなで誰が悪者かを決めつけて、それを叩くのです。しかしその事件は社会の中で起きたのであり、その社会を創っているのは他の誰でもない、私たち一人ひとりなのです。ところが誰も自分を振り返らない。悪者を見付けて、原因をそこに押し付けています。だからいつまで経っても社会が良くならないのです。

みんな、大人はできていると思ってはいけませんよ。子どもの頃から一つひとつのことにけじめをつけずに大きくなり、曖昧なまま生きている大人たちが世の中にはたくさんいます。だから今の世の中がこのような状態になっているのです。
だからこそジイジは、これからの未来を創っていくあなたたちに話をしています。今ここに、うたくん(1歳)がいますね。うたは言葉はわかりませんが、ちゃんと話を聴いています。それは魂の違いです。だらしのない人は、いくら耳で言葉を聞いても、その言葉の中身を聴いていません。それをきちんと聴けるかどうかは、学校の成績には直接関係ありませんが、人生に大きく影響します。
どうかみんなは、その人生で一番大切なことを大事にする人になってください。そうすると、自分自身の人生が価値ある人生になります。なぜなら、そのように生きる人は孤独ではないからです。すべての問題は、孤独から生まれます。争うということは、孤独になることです。もしもみんながこの大切なことを身に付け、そして明快な人生を生きるようになったら、自分が孤独でなくなるだけではなく、社会全体が良い世の中になるでしょう。

そういったことを、一人ひとりが自ら考えられる人になってください。そして良い人生を生き、良い世の中創りにつなげてください。

 

 

Source of photo:朝日新聞社

 


麗しく、揺るぎのない、凛とした美しさで 〜 新時代「令和」を読み解く1

30年間続いた激動の「平成」の幕が下り、新たな時代「令和」の扉が開いた2019年5月1日。木の花ファミリーで毎晩夕食後に行われる子どもミーティングの場で、ジイジは子どもたちに向けて、「令和」という時代が到来したことの意味を宇宙視点から語りました。


ジイジ:
今日は日本の元号が変わった節目の日です。新しい元号は「令和」です。それで、令和という時代がどのような時代なのかということを、ひも解いてみたいと思います。

今日は令和最初の日で、今年はお正月が2回あるのかというくらい、朝から日本中が明けましておめでとうございますという感じでした。そしてテレビはいろいろな人たちに、新たな時代にどんなことを望むのかをインタビューしていました。その中で一番多かったのが、災害のない時代になってほしい、ということ。そして、世界中が平和であることでした。それが、日本人が最も願っていることです。新しい天皇陛下も、同じように世界の平和ということを語られていました。
今日は、子どもたちにはちょっと難しい話をするかもしれません。しかし、この新しい時代ももう少し先へ進めば、みんなもすぐに大人になります。そこでその新しい時代を生きていく子どもたちに、令和という時代がどのような時代なのか、そしてそういうことが語られる場所で自分は育ってきたのだということを記憶に留めておいてもらいたいと思い、この場所を設けました。

まず、令和の話ではなく、人の話をします。
人と言えば、みんな人ですね。人間です。人間は、地球上にいる命です。人間は命であり、他の動物や植物と同じように、地球を構成しています。では、人間以外の動物や植物は何をしているかと言うと、地球の自然の仕組みを担う役割をしています。人間も、本来は地球の自然の仕組みを健康にする役割をもらって、生まれてきました。しかし、現代の人間は、本来の役割を忘れた姿で、今を生きています。けれども今日、大きな転換の時を迎える証として、30年にわたる平成の時代が終わり、新しい天皇陛下が即位され、令和という新たな時代が始まりました。元号を持っている国は、今は世界中で日本しかありません。今日は日本中で多くの人が、新しい時代が来ることを感じながら一日を過ごし、各地で様々なイベントが行われました。平成という時代から令和になり、たくさんの日本人の心の中に、「何か時代が変わる」という予感がするのです。大晦日から元旦になると、何か空気が変わったような感じがするでしょう?それと同じように、私たち人間には意識というものがあり、一つの節目を越えると、次の世界を感じるのです。
今日、令和元年の最初の日にあたり、テレビ局がいろいろな人にインタビューをしていました。そこでは、災害のない時代になってほしい、平和な時代になってほしいと答える人が最もたくさんいました。それはなぜだと思いますか?

れいじろう:
今までに、震災とか洪水とかがいっぱいあったから。

ジイジ:
そうだね。特にここ数年、毎年たくさんの災害が起きています。日本だけではなく世界中で、テロや戦争がまだまだあります。ですから、これからはそういうものがなくなってほしいと人々は願っているのです。
そこで皆さん、考えてみてください。令和の時代になり、日本人の多くは、災害のない、平和な時代になってほしいと願っています。それに対して、本当にそうなると思う人!
(子どもたちは、一人を除いて全員が手を挙げない。)

みのり:
なるわけないじゃん。

ジイジ:
それはなぜですか?

みのり:
人間の思考が変わらない限り、変わらない。

ゆうとう:
二酸化炭素とかが増えていって環境が悪くなっているから、自然災害が多くなる。

ジイジ:
どうしてそうなったと思いますか?

ゆうとう:
ガスとかいろんなゴミを、人間が出し続けているから。

あきよし:
植物も減らしちゃった。

ジイジ:
つまり、地球の環境を悪くすることを、人間はたくさんしてきたということです。そうでしょう?ウソをつくのも同じです。みんな地球環境を悪くするのはいけないことだとどこかで思っているから、隠れてそれをやるのです。
残念ながら、時代が新しくなっても、人間が今まで地球に積み上げてきた問題は変わらずにあり続けます。時代が変わったからと言って、そういったものはパッと消えるものではないのです。それどころか、今まで積み上げてきたもののツケがさらに明快になって現象となって現れてくるでしょう。いくら災害のない、平和な世の中になってほしいと願っても、時代が変わったからといって問題ごとはなくなりません。そして、人間たちの姿勢も、そんなに急には変わらないのです。
今日は天気も良く、令和元年の幕開けをみんなで祝いましたが、これから夏に向かって災害がたくさん起きてくるでしょう。そして、ついこの間スリランカでテロがあったように、世界中で紛争は続いています。世界の大国は、軍事力で一番になることに一生懸命になっています。まだまだ、そういった時代です。
けれども、地球はひとつです。そして地球には、たくさんの命が生まれ、存在しています。そのたくさんの命たちはみんなで仲良くして、美しい世界を創るのが、地球に生まれてきた本当の目的です。もちろん人間もその中の一つです。

僕はこれまでもこういったことを語り、木の花ファミリーという場所を創ってきました。そして、変わった人だと思われてきました。それは平成までの時代です。しかしこれからは、実際に、もっと環境が厳しくなる時代が始まります。ジイジのことを変わり者だなんて言っている場合ではありません。そんなことより、なぜ今のような世の中になってしまったのかを考え、一人ひとりが自分の行いを振り返らなければならない時が来ます。
自分は地球に対して何も悪いことはしていない。ただウソをついただけ。自分は何も悪いことをしていない。ただゴミを捨てただけ。みんなが自分のことだけを考えて、何の自覚もないままに地球を汚し続けていくと、地球の環境はもっと悪くなり、みんなが住みにくい場所になるでしょう。
令和という時代は、そういったことを行ってきた人間一人ひとりの心を見つめ直し、それまでの行いを振り返って、改めていく時代です。そうやって自分を振り返って改め、自分にも世の中にも良い行いをできる人になることを、何と言いますか?

みのり:
軌道修正。

ジイジ:
確かにこれまでの軌道を改めるのだから、そうですね。その軌道修正をするために一人ひとりがやることは何ですか?

みのり:
ああ!心磨き!

ジイジ:
そう。心を磨くということです。
つまり、いくら環境を良くしようと思っても、心がウソをついていたり、他の人や自然のことを考えなければ、環境は良くはなりません。人のことを考えないということは、人と仲良くなることはできないのです。そしてその一人ひとりの小さな問題が、大きくなって国の問題になり、さらに大きくなって世界の問題となり、戦争や災害のようなことがたくさん起きるのです。人々が、他者のことを考えず自分のことばかり思っているということは、自然のことも考えないということです。そういった一人ひとりの心が積み重なって問題が大きくなり、今地球はゴミだらけになり、温暖化が起きています。もっと言えば、火山の噴火だって人間の行いに対するメッセージだとも言えるのです。

今、みんなの後ろにいる大人たちは、こういった生き方を志して木の花ファミリーに集ってきた人たちですから、自分のことを責任を持ってやってもらうということで、その歩みは一人ひとりに任されています。そして子どもたちには、こういったことを考え、語り合う場所で育ったことを、心のどこかに置いて育っていってもらえたらと思います。たとえ話の最中に寝ていたとしても、その空気を感じながら育っていくことは大切なことです。
ここには、心の病気を抱えた人がたくさん来ます。ジイジは、その人たちが健全になっていくお手伝いをしていますが、そういった病気を抱えている人々の多くは、小さなころに育った環境の影響を大きく受けています。例えば親との関係が良くなかったとか、学校でいじめにあったということが、自分の中で解決できないまま大きくなり、大人になってもそのことがいつも内にあり、うまく社会に馴染めないのです。現代には、そういった状態の人がたくさんいます。両親がいつもいがみ合っている家庭の中で育っていくと、子どもはその空気を感じ、それがその子どもの人間性を形成していきます。嫌だ嫌だと思いながら大きくなり、大人になって「あんな家は嫌だ」と別のものを求めるようになりますが、そんなものごとに対して否定的な心でいれば、正しくものを観る目は育ちません。ですからそこでは、新しい人との出会いも、歪んだものとなり、いずれ病気になっていくのです。
その歪みを正しく直していくと、人は自然と病気でなくなります。そこでは治療などしなくても、それまで歩んできた道がどのように病気につながってきたのかを振り返り、どこが問題であったのかを突きとめて改めれば、良い人生を生きられるようになります。そういったことは、人生を健康に生きていくためには、優先して大切にするべきことです。そういった大切を忘れ、お金が欲しいだのゲームをやりたいだのと好きなことばかりをやりたければ、やればいいのですよ。でも心がきれいでなければ、必ずそういった優先するべきことを忘れた自分本位の行いは、いずれ悪いこととなって返ってきます。これは、人生にとってとても大切なことです。そしてみんなに約束します。この世界はそうなっているのです。それが地球の法則であり、宇宙の法則であり、もっと広い意味で言えば、神様との約束のもとに人は生きているという証なのです。

人生において、それを知るのはとても大切なことです。そもそも人間にとっての人生とは、そういった仕組みの中で自らの実態を知り、自らを美しく高めていくことを目的として与えられているものだとも言えるのです。多くの人々は、その大切を忘れてしまいました。人々が自然と共に生きていた時代には、そういった約束のもとに生活が営まれていました。人々は自然に生かされると同時に、この世界のたくさんの存在と交信していたのです。今、そういった大切を忘れてしまった人々は、自らの欲だけの人間本意の考えで生きるようになったのです。
人にとって大切なことは、人とつながることです。そして自分の意見を伝え、他者の意見を聞き、互いに認め合い、絆を結び、調和して生きていくことです。そういったことが良い世の中を創り、良い地球を創るのです。さて、そういった私たちが生きることに関わる深い洞察が、なぜ令和という時代に関係があるのか、ということです。それは、令和という文字や、その文字が元号に使われる今の時代に示されているからです。

日本のことを、日の本とも言います。それは太陽のもとにある国という意味ですが、太陽のもとにある国とは日本だけではありません。地球は太陽の光が注ぎ、太陽と共に宇宙空間を旅しながら、その太陽の光が元となり地球に命が発生しているのですから、地球上はすべて日の本なのです。そして太平洋の真ん中に日付変更線がありますが、世界の中でも日本は最も早く夜が明ける国のひとつであり、「日の本」と書いてニホンと言うようになったのです。
日本にはもうひとつ呼び方があります。知っていますか?

ゆりか:
ジャパン!

ジイジ:
それは英語ですね(笑)。日本語の呼び方ですよ。

みのり:
やまと!

ジイジ:
そうです。やまとです。では、やまととは、どのような字を書きますか?そうです。「大和」ですね。和は、令和の和でもあり、調和を示しています。調和というのは、みんながお互いの個性を認めながら、力を合わせ、助け合っていくことです。それが大きな和になっているのが、大和です。その和とは、物理的な輪を示すと同時に、そこでみんなが和んでいる場も示しているのです。そのような場のモデルが、地球の命の世界なのです。地球にはたくさんの生命がいて、それがみんなつながって、循環し、健康でいる。その大調和の世界が、大和です。ですから大和の国の人々は、地球に本当に美しい世界をもたらす存在であり、日本の国の名前には、そのような大切な意味が込められているのです。

さてそこで、新しく始まった令和とはどのような時代なのかを考えてみました。
ジイジは昭和に生まれました。戦争の後に生まれ、昭和、平成、令和と、これで3つ目の時代を体験します。どの時代でも、新しい時代が始まる時には、その意味を考え、新たな時代を想像するものです。そして時代は、その元号にふさわしく変化していくものです。それは日本だけのことのように思えるかもしれませんが、実は太陽系の冥王星の周期で観ていくと、日本の元号が変わることは世界にとってとても意味があるということがわかります。

〈ここでジイジは、冥王星の周期と日本の元号の関係について解説しました。〉

冥王星の周期と日本の元号の深い関係性
冥王星が太陽を1周する248年の周期上に現れるいくつかのポイントと、日本の元号が変わる時が、不思議な一致を見せている。これは、日本の元号が変わることが日本一国のことだけではなく、宇宙的な意味合いを持っていることを表している。
・1760年〈光のピーク〉… イギリス産業革命始まる。
・1867年〈遠日点=冥王星が太陽から最も遠い点〉…江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上(大政奉還)し、明治時代が始まる(明治維新)。
・1913年〈闇のピーク〉… 前年の1912年に大正が始まる。1914年には第一次世界大戦が勃発。
・1930年〈昇交点・冥王星発見の年〉… 1926年に昭和が始まり、翌1927年に白陽期(中国の「天盤の巡り」が示す庶民の目覚めの時代)が始まる。
・1989年〈近日点=冥王星が太陽に最も近い点〉… 平成が始まる。バブル経済がピークに達し、崩壊する。
・2008年〈光のピーク〉… リーマンショックで世界経済が大混乱に陥る。日本の人口減少が始まる。
・2020年〈降交点〉… 2019年に令和が始まる。2020年には東京オリンピックが開催され、それを越えた先に日本は大きく変化する。

*昇交点と降交点 … 太陽系の他の惑星軌道の盤面に対して傾斜のある軌道を描く冥王星が、盤面より上(北極星の方向)に上がる点(昇交点)と盤面より下に下がる点(降交点)。

ジイジ:
日本の元号が変わるということは宇宙的なセレモニーであることが、ここから観えてきます。宇宙的に変わるということは、人間の考えも変わるということです。今まで自分のことだけを考えていた人が、行き詰まるようになります。そんなことは信じられないと思う人がいるかもしれませんが、実際にはそうなります。その行き詰まった時に、この話が思い出されたならば、自分を変えられるチャンスです。しかし、まったく耳を傾けずにそのまま進んでいけば、行き詰まっても「何でこうなるんだろう」「どうしたらいいんだろう」と迷うだけです。
時代は確実に変わります。これから災害もたくさん起きます。日本政府も、地震が来ることを自信を持って保証しています。(チーン♪)台風もどんどん強くなります。いくら防災訓練をやっても、災害が来れば被害は起きるものです。今日が新しい元号の年の元旦だとしたら、毎年1年を振り返った時に、これからは「ジイジの言っていたことは本当だった」と思うことでしょう。ですから、そういった様々な地球規模の変化に対応するために、考え方を変えなければいけないのです。
災害なんて、考え方を変えたってどうしようもないことじゃないかと思ったら間違いです。人間の考え方が間違っているから、その自分のことしか考えない人間のわがままの心が束になり、地球に影響をもたらしているのです。自分のことしか考えない。頭を使わない。考えが狭い。そもそも宇宙の法則によって生かされているのに、宇宙は愚か自然のことすら考えない。今はそのような考えの人間ばかりだから、宇宙や自然は人間たちにたくさんのメッセージをくれているのです。そういった物事の捉え方はこれまで迷信のように語られてきましたが、これから現実となってくるでしょう。

令和という時代は、地球上に生きるもの、特に人間に、困難をたくさん与えてくれる時代です。それは、人間がこれまでそういった出来事を引き起こす元となる生き方をしてきたからです。そしてそれを改めるチャンスをくれるのです。
子どもたち、よく覚えておきなさい。なぜ子どもたちに向けて語るのかと言えば、大人は子どもたちほどこれから長くは生きないからです。災害が来たら「大変だ」と言ってそのまま死んでいければいいのです。けれども、子どもたちは先が長い。大変だからと言って自殺するわけにはいかないのですから、これからの時代を生きる人々は、その大変を生きていかなければなりません。
その時に大切なことは、みんなが正直で、心を開いて、助け合って生きていくことです。そういった心にみんながならなければ、これからの困難な時代は乗り越えられません。正直で、お互いに助けあい、尊重しあって暮らすこと。そのことを、宇宙が示してくれている地球の命の世界、大調和と言い、それが大和の国の精神です。それが本当の大和魂と言うのです。
昔、日本が戦争をした時にゼロ戦に乗ってアメリカの軍艦に飛び込んでいきました。あのように命を粗末にするのは、本当の大和魂とは言えません。命を大切にし、争わず、助け合い、仲良く暮らして調和の世の中をつくるのが、本当の大和魂なのです。

そこで考えてみてください。どこかにそういう場所があるでしょう?令和にならなくても、既にどこかに、そのように暮らしている場所があるでしょう?

子どもたち:
ここー!

ジイジ:
そうです。だから、ここは大切なのです。その大切な場所にみんなは住んでいます。今は「ヘンなところに育ったなあ」と思うかもしれませんが、新しい時代が来たら、「こんなに大切なところに生まれて育ったんだ」「新しい時代の見本だ」と誇りを持って生きるようになるでしょう。

今、ペイペイたちが中国から来て新たにメンバーになったように、たくさんの人々が外国からやって来て、この生き方を学んでいます。その心をこれから子どもたちは受け継ぎ、木の花を良い場所にするだけではなく、未来の地球のために生きる大人になってください。


◆「令和」の意味
新元号「令和」の考案者とみられる万葉集が専門の国文学者、中西進さんは、「令和」の「令」の字について「麗しいという概念を表す究極の言葉で、『麗しい』という言葉は、乱れていない、破綻していない、整っていることを表している」と述べ、「和」については、「一人ひとりがそれぞれの価値を持っていて、それぞれを生かしながら、みんなが仲良しであるという事が『和』です」と話した。


ジイジ:
どこかで語られてきたような話ですね。麗しいというのは、凛として、揺るぎがなく、そして美しい。ダラダラとゲームをやったり、お金を儲けて成功したと言っていても、そんなものは麗しくありません。生命にとって正しい生き方をして、世の中を乱さない。自分の心も乱さない。それが麗しいということです。
お酒を飲んだり、賭け事にはまり破たんするのは、麗しい姿ではありません。ゲーム中毒もそうです。ゲームに夢中になって破たんしている状態です。そんな生きものは自然界にはいません。人間も生命ですから、人生の中でそんなことをしていると、必ず破たんします。けれども闇のピークに向かっていたこれまでの時代は、そういった矛盾を世の中に広めることを進める時代だったのです。しかし令和になったら、麗しい、乱れていない、破たんしていない、整っている時代が始まります。なぜあなたはそれをやるのですかと問われたら、私はこういう理由があってこれをやっているのですとはっきりその行いの意義を言うことができ、それが崩れない。その凛とした姿勢が、令和の「令」という字に示されています。
「和」は、一人ひとりがそれぞれの価値を持ち、個性を認め合う。自分の個性を尊重してもらいながら、その個性をみんなのために使う。そしてみんなが仲良しであること。それが「和」の意味であり、それが大きく和になっているのが、「大和」の精神です。それが大和魂です。神風特攻隊や武士の腹切りは大和魂とは言いません。それは命を無駄にしているのです。

「令」とは、麗しい。秩序あること。凛とした美しさ。それは魂の話です。魂が麗しく、秩序があり、凛とした美しさを保っていると、姿形もそのようになってきます。そしてそういった状態になると、あなたの人生に問題ごとは起きなくなります。そこでは、無駄な考えを起こさず、理に適った考えに基づいて行動しますから、物事は流れよくとんとん拍子に進むようになります。
みんなが、自分の願いが叶うのはいいことだ、お金があるのはいいことだと思い競争してきたら、いつの間にか世の中はこんなにも矛盾だらけになってしまいました。そこで、自分一人だけを見るのではなく、広く世の中を観て理解しないと、自分の行動を改めて世の中を良くすることはできません。自分の行いが世の中を悪くしたら、いずれ人生の終わりを迎えた時に、あなたはこの世界にこんな問題をもたらしましたと突きつけられることでしょう。しかし、自分のことばかりを考え、視野が狭いと、そのことがわからないのです。
ですから、もっと広い視野でものごと判断し、観る心を育てないといけません。地球全体のことを考えようという時代から、令和は、宇宙はなぜ地球を創ったのか、そしてなぜそこに人間を降ろし、なぜ今あなたはそこにいるのか。そういった広い世界観を元に、あなた自身の存在について考える時代が来ています。そうでなければ、私たち一人ひとりは単にこの世界に問題をもたらすガン細胞のようなものになってしまいます。それは、私たちにとっても世界にとってもとても大きな問題であり、みんながそのことを考えなければ乗り越えられない時代に入ったのが、令和の始まりなのです。

現代は、宇宙的にとびきりのターニングポイントを迎えています。

ジイジ:
これは、太陽の1らせんのサイクルを表した図です。太陽は、およそ2億2600万年をかけて、約9000回のらせんを描きながら銀河を1周します。その1らせんは25800年です。そして25800年ごとに、太陽系は光のピーク、即ち「銀河の夏至」と、闇のピーク、即ち「銀河の冬至」を迎えます。2012年12月21日、太陽系は闇のピークを越え、光のピークへと向かって舵を切りました。それは、これまで闇にまぎれて真実が見えなくなっていたものが、光に照らされ、明らかになっていくプロセスに入ったのです。

闇が増していくサイクルの時代では、間違ったことをどんどんやっても、人々はそれを正しいと思って生きてきました。幸せになりたくて一生懸命勉強し、競争していい会社に入ったらそこでも競争をしてぼろぼろになったり、勝った人と負けた人の差が生まれ多くの人にストレスが溜まり病気になったり、お医者さんは病人がいっぱいいることでお金儲けになったり、弁護士も世の中が乱れれば乱れるほど仕事が増えてお金が儲かる。そういった奇妙な時代でした。しかし、そういった闇雲に突き進んだ時代の真実が、闇のピークを過ぎることで、だんだんとわかり始めてきました。だからこそ今、こういった情報が人々に伝えられるようになってきたのです。そして、心の内に「何かがヘンだ」と感じ出した人々が世界中からここへ訪れるようになったのです。
時代はこれから光のピークへと向かっていきます。この光は、今のところ闇を照らし真実を明らかにする光ですから、これから今まで築き上げられてきた世の中の間違いがどんどん観えてきます。そういった間違いの実体が明らかになった時、私たちは今までのように闇の方へ行くのではなく、物事を正しく観るための光の導きに従い、光の方へ行くことを心掛けましょう。しかし、汚れた心をしていると、そこで出会う真実の光は、とてもまぶしいものです。そしてそのまぶしさから逃れようと、闇の方へ行こうとする者もいるものです。ジイジから「あなたのその心は間違っていますよ」と伝えられた時に、何だか怖い人がそこにいると感じ、何を伝えられているのかわからなくなり、避けようとするようでは、自分の心を闇の方へ向けていることになります。一見厳しいことを伝えられているように受け取れたとしても、それはあなたの姿勢がそのように受け取っているだけで、ジイジはいつも、光の方に向かっていきなさい、と伝えているだけなのです。

闇のピークに向かっていた時代は、すべてが拡大していくサイクルの中にありました。拡大するとは、人と人の距離が遠くなりますから、人々は孤独になります。人々は分離し、互いの違いから争い、そこに格差が生まれした。しかし闇のピークを越えた今、時代は収縮のサイクルへと入りました。収縮するということは、再び距離が近くなっていくということです。
みんなで一緒に暮らせば、互いに助け合い、少ないお金やエネルギーでいろいろなことが効率よくでき、豊かに暮らせます。それが、皆さんが暮らしている木の花ファミリーの生き方です。「自分さえよければいい」「自分だけがたくさん欲しい」と思う人は、それがその人にとっていいことだと思っているかもしれませんが、そういった不調和を世界にもたらす心は、地球に悪い影響を与えていきます。私たちはみんな同じ地球に住んでいるのですから、地球の状態が悪くなれば、みんながその影響を受けることになります。これからは、みんなでそのことをよく考え、一人ひとりが自分の行いに責任を取らなければならない時代が来ます。その進む指針は、収縮すること。そしてよりコンパクトになり、みんなが心から通じ合い、助け合い、深い絆で結ばれた豊かな生活を実現することです。

〈さらにジイジは、太陽の1らせんの1/4が示す人類の文明史、そして、800年ごとに東洋と西洋の文明の盛衰が入れ替わる文明1600年周期について解説し、現代が様々なサイクルのターニングポイントにあることを説明しました。〉

ジイジ:
2000年を境に、この800年間隆盛を極めた西洋文明は停滞期に入りました。それに対し東洋文明は、停滞期を終え、これから隆盛期に入ります。2000年から2100年までの100年間は、次の800年周期の宇宙時代への移行期にあたります。
今、アジアの人々は、西洋的物質至上主義のもとに発展したテクノロジーの進化に翻弄され、そういった価値観以外の指針を見出せずにいます。それは、西洋的物質至上主義の影響を受けて汚染されている状態です。これからは、自然環境を無視した人間の活動が行き過ぎると地球上に様々な矛盾をもたらすことに気付き、大局的なものの捉え方による古の東洋の叡智を蘇らせることが求められます。それが、次の人類の進化となります。星と対話し、土と対話し、動物や植物と対話し、天の気を読み、自然と共に生きる精神が必要になってきます。そうでなければ、人間は自らを生かしている大いなるものにとっての、不調和な存在になってしまうからです。
歴史を振り返ると、この東洋と西洋の文明の盛衰が入れ替わる転換点では、大動乱が起きています。現代においても、約束されたかのように大動乱が発生しています。そしてその動乱は、およそ100年続きます。ですから令和の時代になっても、ますます混乱が起きてくるでしょう。その中で自分のことだけを考えていると、その混乱の渦に巻き込まれてしまいます。そのことを覚えておいてください。
そこで、これからいったいどのような心を持って生きていけばいいのか。それを自分で考えてください。人間の中には、正しく生きるための智恵があるのです。自分の欲ばかりで生きていると、それは湧いてはきません。湧き出すようにとジイジがいろいろなことを伝えても、そういう心の人は、その話がまったくわからないのです。しかし必ず、誰の中にも、宇宙の法則や自然の仕組みが、小宇宙として存在しているのです。
今、世の中にどんどんAIの技術が広がっていますが、人間が考えることまでAIに考えてもらったら、人間はどうなるのでしょう。時代や世界の流れを読み、自らが正しく生き、その結果、世の中にとっても自分にとってもいい世界を創ることができる。それが人間です。AIは、それを作った人間の欲の心の上にデータをインプットされ、それを忠実に実行するだけなのです。ゆうくんが、ちょっと忙しいから田んぼの代掻きを代わってと言ってAIにやらせたら、一晩中でも作業を続けます。しかしそれで人間は何もしなくて良くなるとしたら、人間の感覚や身体能力は衰えていきます。では暇だからといって、カルチャーセンターに行って運動をしますか?そういった姿勢から得られるのは、本当の健康とは言えません。
これから、人間が発明したものが人間の存在を超え、それに人間が翻弄される時代がやって来ます。それは、本来人間とは何者なのかが問われる時代になるということです。人間の本質が問われることで、人々が本来の人間の価値に目覚める時代が始まるのです。

これからますます、世界中で地球規模の矛盾が現象化していくことでしょう。その矛盾とは、人的矛盾、社会的矛盾、そして環境的矛盾です。
人的矛盾と言うのは、人間一人ひとりが良いと思ってやることが間違いを起こし、世の中を悪くしたことです。そして一人ひとりが自分のことしか考えず、魂としてもレベルの低いものになってしまったということです。良いと思って間違いをやるのは矛盾です。ですから、悪いと思ってやる方がまだましかもしれませんが、それはそれでなお問題です。
社会的矛盾とは、例えば良い世の中を作るためにあるはずの教育が、格差を作っています。人々を健康にするための医療が、お金儲けの手段になっています。裁判所では、たくさん勉強をした優秀な人たちが、自分の利益のために罪のある人を無実にしたり、無実の人に罪を着せたりしています。お金を儲けて豊かになろうとする人たちが、何も生産しない仮想経済金融システムや、裏に隠されて表に出てこないアングラマネーの世界を作り、さらに格差を広げています。それらはすべて社会的矛盾であり、そういった現代にはびこる矛盾は数え上げたら切りがありません。
そして、地球温暖化に代表される環境的矛盾があります。太陽の黒点活動により、地球は今プラスエネルギー過剰になっています。人間が「もっともっと」「たくさん欲しい」というのはプラスでしょう?太陽がそれに応えて、エネルギーをどんどん地球に送り込んでいます。そして地球のマグマのエネルギーが強くなり、火山が噴火するようになります。日本では、地殻変動や火山の噴火が近い将来起こると予想されていますが、そういったことを誰が引き起こしているのかと言えば、人間のこれまでの地球上での生き方が、それを引き起こしているのです。

学校でいじめにあったり、社会に通用せず引きこもりになってしまうのは、子どもの問題のようですが、実はその家のお父さんとお母さんの仲が悪くその影響を受けていたりします。ではその両親の仲がなぜうまくいかないのかと言えば、そのまた両親の関係から来ていたりするのです。そういったことを正しく振り返り、いったいどこに問題があるのかを観て、最終的に自分自身に問題があることに気付き、自分をきれいにしていく。そうすると、そこから初めて自分自身の人生も、自分がこれから生み出すであろう子孫も、社会も良くなっていきます。
そういった学びある生き方をしなければ、人間は大量絶滅する可能性もあります。今のようにガン細胞のような生き物でいては地球にとって迷惑ですから、必要ないのです。しかし人間は、優れた生き物でもあります。その優れたところに気付き、それをこれから表現していけば、誰もがいい時代を生きることができます。その結果、世の中が良くなります。「自分だけ」なんて考えていてはいけません。もっと心を広げ、みんなのことを観なければいけません。世の中のことを観なければいけません。

なぜジイジはこういうことを言うと思いますか?そう、令和になったからです。今までは、こういったことを言いませんでした。一人ひとりが自らの心で目覚めていけばいいと思っていました。そう思って観ていました。
でもこれからは、言います。「それではダメだよ」と。なぜなら、そういう時代が来るからです。もっと明快な時代が来るからです。


「これからは本物の人の価値、麗しき、揺るぎのない、凛とした美しさ。それでいて一人ひとりは極めて個性的で、その個性を生かしあい調和していく時代が始まる。それが『令和』という時代に込められたメッセージなのだろう。」


今ジイジは、世界中から訪れるたくさんの人々に、こういったことを伝えています。その時に、ここに暮らしている人々や、ここに関わる人々が、その語られていることを表現していなかったら、ウソつきです。詐欺師です。けれども、これは絶対に大切なのです。

いよいよその扉が開きました。子どもたちには、これからの長い人生をジイジの思う通りに生きなさいなんていうことは言いません。しかし、自分の人生に起こる様々なことを、逃げずによく観ていかなければなりません。そうすれば、この問題が起きたのは自分があの時こういうことをしたからだ、ということが観えてきます。その問題と関係のないように思えることであっても、自らの心の汚れが現象化し、問題となって現れ、自らの姿を教えてくれているのです。それは、神様がいるからです。この世界は神様の世界なのです。

そういったことを、ジイジはみんなに伝えていきます。ですからこれからも時々このような場所をみんなと持ちながら、「みんながいてくれてよかった」と地球が喜ぶ、そういう世の中にしていかなければなりません。どうぞ、価値ある人生を自らに与え、それを生きていってください。

 

 

「新時代「令和」を読み解く2」へ!

 


毎日が「明けましておめでとうございます」

2月2日、木の花ファミリーでは、新たな時代の幕開けを祝いうれしたのしと舞い踊る「富士浅間木の花祭り」が開催されました。世界中から届けられたご清水が祭場の中央の釜の中でひとつに融合し、人々は祭りの最後にその湯を浴びて、生まれ清まった新たな心で、農の始まりである立春正月を迎えるのです。以下、2月4日の立春正月祭でのジイジの挨拶をご紹介します。

立春正月祭にて

毎日が「明けましておめでとうございます」

皆さん、明けましておめでとうございます。
先月も明けましておめでとうございますと言いましたが、正月の月が終わり、富士浅間木の花祭りが明けまして、おめでとうございます。そして立春正月が明けまして、おめでとうございます。3月21日になれば、それは木の花ファミリーの誕生日でもありますが、春分で本当の意味での一年の始まりとなり、農の正月を迎えることになりますから、これもやはり明けましておめでとうございます。
今朝も、夜が明けました。毎日夜が明けます。今朝私は倉庫に行って、「おひさまハウスひまわり」の新しい看板を作っていました。今日は朝からとても暖かく、天気も良く気持ちの良い日で、暦の上の立春という日を感じながら作業をさせていただいていました。
ここで何が言いたいのかというと、毎日毎日、瞬間瞬間、私たちは時と共に生きているということです。

もしもこの世界に時がなかったら、どうなるでしょう。すべてが存在しないことになります。私たちは時の旅人であり、時と共に、こうして存在しています。時と共に生まれ、時と共に死んでいく。そしてまた、その時の中に生まれてくるのです。
それを平面で表せば、円になります。しかし実際に、人生では、いろいろなことを体験し、変化しながら進んでいきますから、それは円ではなく、渦になっています。そのような仕組みの世界のことを、「宇宙」と言います。
「ウチュウ」をカタカムナでひも解くと、渦(ウ)が持続(チ)して、極めて不思議なユラユラとした揺らぎ(ユ)が渦(ウ)になっている。それが宇宙です。私たちは毎日を、その中で生きています。

今日は立春正月祭という祭事が行われました。私たち木の花ファミリーは、「マワリテメクル」、つまり、毎日地球が自転し(マワリテ)、そして一年を通して公転する(メクル)という宇宙の法則を感じながら生きています。毎日朝起きて「おはようございます」と言い、お昼にはご飯を食べ、夜はみんなで集まってミーティングをして、「おやすみなさい」と言って眠ります。それは「マワリテ」という時の流れの中にあるけじめです。そうして四季を迎えながら、「メクル」時の中で季節に応じた祭事を行います。私たちは自然から命をいただき、自然の中で命を巡らせています。自然から食べ物をいただきながら、そのことを意識し、「マワリテメクル」時の中で一つひとつにけじめをつけながら生きているのです。

今日、今年の立春正月祭という祭事を迎え、とても厳粛な気持ちでいます。なぜ厳粛なのかというと、宇宙の仕組みと共に生きていることを感じるからです。その宇宙の仕組みの元である、時空をつくっている時が、私たちの存在を保っているのです。
今、その厳粛なる宇宙の仕組みの中にいることを感じながら、祝詞を聞いていました。すると、祝詞の中にその仕組みが表現されているのです。それを聞きながら、昔こういったことをまったく意識していなかった頃に、神社へ行って神主さんが祝詞をあげるのを聞きながら「何を言っているのだろう」と思っていたことを思い出していました。お寺でお坊さんがお経をあげるのを聞いても、「意味不明なことを言っているな」と思っていました。
これまで宗教は、神の御前において、宇宙の法を語ってきました。私たちは宇宙と共に生きているからこそ、それに倣い、少しでも神様の方を向いて、自我から湧き出す欲の心をきれいにして生きていく。毎日毎日、私たちは時と共に現象に出会います。現象は、神の意思の顕れです。その現象をいただいて滞りとなれば、そこから自らの自我の存在に気付き、欲に溺れていることを知り、きれいになって、生きて、この世界に貢献しなさい。そういった優れた生き方をして、帰ってきなさい。どこへ帰るのでしょう。私のところへ帰ってきなさい ──── それが、現象の奥にある神様の心です。
ところが現代の人々は、自然を見て、自然を自分にとって都合の良いものであってほしいと思い、その心の存在を忘れてしまいました。ですから日本には仏教という教えが伝承され、宇宙の仕組みや人間の心の仕組みを説いて聞かせ、生きるとは修行であること、そして人間は宇宙の理に則って生き、宇宙へと還っていくことを説いたのです。
キリスト教では、私たちがこの世界に生きるということは宇宙の根本に存在する愛によって生かされている、つまり私たちは、神様の愛の中に存在していることを説いています。人間は、自らにとって都合の良いことを愛だと思うものですが、自分にとって「問題ごと」と思えることも、その根底には、愛があるのです。そして実は、問題ごとの方が愛が深いのです。それは、間違っている者にふさわしい現象を与え、「あなたは間違っているよ」ということを教えてくれているのです。

心が歪んでいると、問題ごとを与えられた時に「神様は私に意地悪をしている」と思うでしょう。そして他人に都合の良いことが起きるのを見て、その内容をよく知りもしないのに「羨ましい」と思い、自分だけが意地悪をされていると思うでしょう。それは、意識が低いからです。意識が高くなれば、どんな出来事からも、愛の存在を感じられます。
イスラム教は、人々が自然世界と同じように、宇宙と同じように、調和して、助け合って生きることを説いてくれました。それは宇宙の真理です。人間がこの世界を生きるということは、地上にその真理を顕わすという役割を持っているのです。
マワリテメクル大きなサイクルの中で、銀河の夏至から冬至に向けて、霊的な闇の時代が1万2900年間続きました。しかし、2012年12月21日の銀河の冬至を境に、闇が深まっていく時代は終わりを告げ、光の方へと向かうサイクルが始まりました。去年から今年にかけての世相を観ると、世界はますます混乱を極めています。しかし、ひとつおもしろいことがあります。以前は、混乱の元が現象化すればするほど、人々はそれが豊かになることだと勘違いして、勢いを持ってさらに混乱の方向へと進んでいました。けれども今は、混乱が起きれば起きるほど「何か世の中が変だぞ」と人々が感じ始めたのです。それは、霊的な光が差してきたからです。ですから人々は真実に気付き始めたのです。

立春正月を迎え、木の花ファミリーではいよいよ、2月24日からスタートする「1ヶ月間の真学校」の準備が始まります。そこで、たくさんの情報の中から何を伝えるか。
皆さんは、地球に生き、そして宇宙を生きています。天体と共に、時の旅人として生きています。それは「生かされている」ということです。私たちは自我にまみれ、一番大切な、生命としての自分自身の根本を忘れてしまったがために、豊かであるはずなのに混乱した世の中をつくることになりました。真学校に参加することを通して、どうかそのことに目覚め、世界が正しく調和するよう導ける人になっていただきたい ──── それが、今年の受講生に伝える私たちのテーマです。
知らない人々から見れば、こんなふうに祭壇に作物をお供えし、狭いところにたくさんの人が集まって何をしているのだろう、と思うかもしれません。しかしこの生き方の大切さを知ってしまったなら、それが人として生きることの本当の喜びです。大切なのは、今日の祭事ではありません。毎日毎日、瞬間瞬間が「明けましておめでとうございます」です。そして本当にめでたい日々を送り、それをやり尽くして、一生を終える。それを繰り返しながら、世の中を良くする人になるのです。

今日はこの場で何を話そうか、と思っていました。そして立春正月祭という神事に出会い、改めて、この神事の奥に宇宙の法があるということを感じました。今、宗教を学んでいる人たちは、そのことをほとんど知りません。みんな自分の都合を優先して、自分が幸せになるように、自分が困ったことから解放されるようにと、自分のことばかり考えているのです。しかし真実は、どの宗教も、宇宙の法を説いているだけなのです。
縁あってここに出会った皆さんは、そういったことを理解して生きる人たちです。新しい時代は、人々がそれを理解して生きなければ、この世界的混乱を正すことはできません。そのことを先にわかった者として、一緒に世の中の指針となっていきましょう。

今この瞬間も、留まることなく時が経っていきます。本当は、私たちは常にそのことを実感していなければいけないのです。時が経つ仕組みは、天体の動きによって成り立っています。地球は24時間で自転し、365日で公転しながら、機械のようにきっちりと周っているのではなく、そこには遊びがあります。だから問題ごとが起きるのです。遊びがあるからこそ、思わぬことに出会う。そこで私たちは考える力、生き抜く力を身に付け、たくましくなるのです。
この世界では、問題ごとが起きれば必ずそれに対する答えが出るようになっています。ところが人間は、宇宙の法からではなく、自分の考えで答えを出そうとするようになり、その結果、今のような世の中となったのです。もう一度、私たちは宇宙の法と共にあることに気付かなければなりません。

それでは今、この瞬間に、乾杯しましょう。
改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます!

 

 


新たな時代に生きる人々の目覚め

深夜2時過ぎ、ジイジが見えたビジョンを語り始めました。


 

ジイジ:
今、たくさんの花飾りをつけた神様がおいでになった。観音様かと思ったが、観音のような繊細な顔立ちではなく、おおらかな丸い顔立ちのその方は大日如来だった。
大日如来は銀河神であり、僕の守護神。つまりそれは、神道でいう天之御中主のこと。

七色の光の柱がこちらに向かって降り注いでくる。広大な世界に余すことなく降り注いでいる。その虹色の光の柱のいたる所に、ラメのように光り輝く金粉が、宇宙空間を漂いながら虹の柱と共に降ってくる。全体が巨大な光のシャワーのように流れている。そのシャワーが眉間に降り注いでくる。
そのシャワーを浴びていると、何があっても生涯この役割を果たし続ける、という決意が湧いてくる。

(ジイジしばし深呼吸の時間が続く)

ジイジ:
なるほど、面白いね。今まで、光とは一直線に飛ぶものだと思っていたが、綿のように塊になっている。そしてその綿のような塊が発光している。それが光の実態なんだよ。我々は光の源から発せられたものしか見ていないから、光というものは一直線に進むものだと思っているけれど、光の発生の元は綿のようで、入道雲のように、もこもこもこもこと増殖し、それが光源となってそこから発射されるんだよ。つまり発光源は核融合のようなプロセスを経て光を発する存在となる。それが、光が発生する原理だ。無から有を生み出す原理は、核融合なんだよ。
光のイメージが完全に変わってしまった。これは、光の種を持てというメッセージなのか。そうすると光を受けるものではなく、光を発するものになれるということだ。その素質はみんな持っている。一人一人の中に光源があるから、そのスイッチが入れば、光を受けるものではなく発するものになれる。

みかこ:
それが目覚めるということかな。

ジイジ:
その目覚めは、過去に人類が目覚めてきたものとは異質のもので、生命の本質に目覚めること。宇宙の根源に目覚めるということ。

みかこ:
過去の目覚めはどういうものだったの?

ジイジ:
それは、ものの仕組みとか道理に目覚めることであって、それを悟りという。悟りというのは低いレベルから高いレベルまで、たくさんあるものだけれど、僕が今言っている目覚めは、根源にスイッチが入れば、心の核融合が始まるということだよ。だから今までとは異質のものなんだよ。

みかこ:
照らされる側から照らす側になるんだ。

ジイジ:
つまり自分に内在する宇宙にスイッチが入ったということ。

みかこ:
いわば、太陽に照らされていた惑星のような存在から、自ら輝く太陽となって、銀河の一員になるということだね。

ジイジ:
それでこそ、初めてセントラルサンの命(めい)が果たせる。

みかこ:
そうだね。直接セントラルサンの命(めい)が受けられるものになる。

ジイジ:
だから、光を受け取る側から、光源となることが大事なんだよ。光に照らされて真理の明かりを見るのではなく、真理の光を発する位置に立つことが、今までの人の悟りの道の奥にあったということなんだよ。
この肉体の器に入っていると、そのことを理解するのは難しいけれど、肉体から魂が解き放たれれば、その魂に相応しい次元に存在することになる。だから魂が何者であるかが大切なのであって、肉体の中にいる限りは、肉体の世界の限界の枠がある。だから、中にある魂の意識レベルが問われるんだよ。

(ここで、四拍手する)

これは宇宙創造の原理だから、気楽にやっているけれど、この宇宙の創造原理を理解して生きるということは相当な精神レベルにあるということだ。そこまでわかると、いろいろなことがどうでもよくなる。そして、わからなくても行ける人にならなければいけない。