今朝は、起きた途端にネガティブな想いが湧いてきた。
世の中にはいろいろな人がいる。
フリーな立場にいる人たちが、
ここの活動や発信していることについて
どのように考えるだろう。
最近の僕のブログにしろ、
木の花が発信している情報にしろ、
非常にマニアックだと思っている。
ここの世界の中だけにある、
内弁慶のようなものと取れないこともない。
それに対する外からのブレーキや
メッセージを客観的に検証してみると、
たとえば、以前ここを訪れた方から、
「対外的に発信することは、多少調整して、
出すことと出さないことを
考えるべきなんじゃないだろうか」
というメールがあった。
元メンバーからは、事実を捻じ曲げて、
自分の都合のいいように解釈する手紙が送られてきた。
「結局、いさどんワールドなんだよ。
理想のところに共鳴しようと思ったけれど、
強制が強いから出てきてやった」と。
ここのところ、
体験ツアーの参加者の人数が落ちてきたり、
野菜などの消費者の伸びも落ちてきたりしている。
これも、ここが発信しているものが
影響しているのではないか。
また、ブログに対するコメントが
最近少なくなったことについても、
ここが非常にマニアックな世界に
入っていくことに対して、
ついていけないということの表われではないか。
ここには、沢山の人たちが訪れるけれども、
継続してここに関わるということが定着しにくい。
ここは、今まで人々が歩んできた
価値観を否定する存在である、という見方もできる。
私たちが進めようとしている綾部のプロジェクトも、
とんとん拍子にはいかない。
そういったことも、
私たちが一方的に事を進めていこうとする結果として
起こっているのではないか、
と考えてみる必要がある。
僕がバランスを欠いて、
マニアックなところへ走っていることに対して、
皆を巻き込んですまない、と
皆に伝えるべきかなと。
なぜかというと、ある見方からすれば、
確かに一つ一つの言葉や
ここの在り方について話していることは、
筋道が通っていて、その通りである。
しかし、筋道を通していった時に、
誰もがそれを正しいんだと思ってしまって、
一種のマインドコントロールのような世界になり、
内弁慶のような場をつくってしまうことになる。
今朝、なぜ自分に
いきなりこんな発想が浮かんできたかということを、
客観的に検証してみようとするのだけれど、わからない。
「朝の想いは、神の意志」ということからしたら、
神様の意思であるという見地からものを観る必要もある。
全くここに利害を持たないところから、
ここはどんなふうに見えるんだろうとずっと考えてみた。
超否定的な、非難的なメッセージが、
そこにはありえるなと思う。
では、どうしてそういうことが起きるのかというと、
自分たちがやっていることを一方の方向だけから観て、
他方の方向を観ないから。
一方をいいものにして、
他のところを一切観ない時に、
陥りやすい現象である。
それを追っていった時に、
今朝のこの想いは何だろうと。
未来に対して暗くて孤立したここの景色が観えてくる。
ここの存続が危ぶまれるような状況になっている。
そういう発想にもなってくる。
それをさらに展開させると、
そういう懸念があるからこそ、
それをかき消そうとして、
最近の僕のブログにしろ、
ここから出ているメッセージがあるのだとも思う。
見えない危機を感じて、見えない意識を働かせて、
そういうところに陥っていくのではないか。
私たちはここで、
一般社会とはちょっと違う生き方をしている。
ことによっては、大いに違う生き方をしている。
それは全ての人に否定されるものではないけれど、
一般社会という枠からすると、
なかなかできないことであったり、
アレルギー的に否定されるものである。
それを私たちが、
新しい社会の概念として捉えている。
それはこちらにとって都合のいい勝手な解釈で、
マスターベーションのようなものだ。
今、ここに対して
ネガティブに受け取った場合の表現を全部出してみた。
僕自身としては、
巧みに語ることによって、
皆をそこへ巻き込んで、
もっと悪い言い方をすれば、
皆をマインドコントロールしている。
だから、皆に詫びなきゃいけないという心が湧いてきた。
こういったネガティブな考え方を
心の専門家として見ると、
うつ病の始まりになる。
物事を悪く悪く、
どんどん悲観的に取っていった時に、
心の病気になっていく。
ここ2、3日、僕は重い夢を見ていた。
それから、ここのところ、
ちょっと疲労が溜まっている。
僕はうつ病を患っている人に
「まずは休みなさい。
環境を変えてフリーな時間を持ちなさい」と
提案するんだけれど、
自分にもそう言えるなと思っていた。
今、湧いてきたネガティブな思考は、
ただネガティブなだけなのか、
それとも、そこのところへ
気づかずに進んでいった結果なのか、
どういう捉え方をしようとも、
いずれにしろ、
ここの状態を否定する考えがずっと出てきた。
大人のメンバーに対しては、
そこへ皆を引っ張ってきた自分がいて、
申し訳ない。
子供たちについては、
皆の未来を極端な強制の中に置いて申し訳ない、
ということを想っていた。
これを、うつ病の始まりとも言えるな、と診断していた。
今、ひとつずつ挙げてきたことを検証していくと、
そうとは言えない。
どれも、「それはこういうものの見方をしたらこうなる」という、
違う解釈ができる。
世の中にはいろいろな人がいて、
人々の受け取り方は自由である。
マイナスな発想は、私たちの中にも常にあるはず。
自分の願いを叶えて、
自分の好きなように生きていきたいという心は、
誰にでもある。
それを、自分の意思で制御して
生きていくことが大事という心も出てくる。
その葛藤はなんだろうと思う。
私たちがどちらを選んだかというと、
自分の中から湧き出てくる葛藤をコントロールして、
自分の中に秩序を持たせようとしてきた。
悪く考えていけば、
うつ病のようになっていくし、
自分の中にある欲望をどんどん叶えていけば、
体のバランスを崩す。
それは、自分の内には心や体の不健康、
外には社会の不健康をもたらすから、
コントロールして生きているのが私たちである。
神様に、この想いは何ですかと問うてみた。
最近、全然心を向けていなかった。
一人で歩んできたなと思って、心を向けてみた。
そうしたら、何も回答がない。
かすかにあるなと思うのは、進んでいけばわかる。
そこには、何も問題はなしともあるとも、何もない。
それを、見捨てられていると捉えることもできれば、
もう十分に託してあるので自分の道を歩め、とも取れる。
「我即神也」である。
ずっと今朝の想いを挙げながら、
常にいい方向いい方向へ誘導しようという心を、
もし一方通行としたならば、
逆の悪い方向へ悪い方向へ、
いろいろと考えてみた。
僕は、そういう一方通行で
皆を誘導しているのではないか。
それこそが、
マインドコントロールなんだというところに行き着いた。
そこから、さて、どうしていくのか。
僕のワールドの押しつけ、
マインドコントロールを皆に問うて、
一人一人にどうしていきたいのか考えてもらう。
それが必要なんだなと。
でも、必要なんだな、と言うと、
必要なということをもう既に押し付けている。
つまり、今の世の中に、右と左があって、
だから真ん中があって、この世界ができている。
いろいろなことが移り変わって、
今の世の中の状況があり、
その中に私たちもいるのだから、
一人一人がそのことに気づいて、歩む道を選択する。
それが大事だと思った。
僕の中には、
さっきの悲観的なものの見方に対する代替案がある。
マイナスだとしたら、
それを打ち消すプラスの考え。
プラスだとしたら、
それを打ち消すマイナスの考えや見方がある。
今までも、そこのところを社会や人の
トラブル、不健康と捉えて、
私たちがどちらの方向へ行くべきか考えて歩んできた。
それが一方通行であるということ。
しかし実際、世の中にはいろいろな考えがあって、
人間がどちらへ行くかは自由である。
そうしたら、自分の進む方向を
一人一人がもう一度、自分で検証して、立つべきだと思う。
それをまた、大事というと、
それもまた方向付けになる。
そこで、一切方向付けをしない。
材料だけを提示する。
敢えて、今は「こちらの方向が大事」という
ポジティブな発想は語らないで、
ネガティブな発想だけを語った。
ずっと今まで、ポジティブなことばかり示して、
「そちらに行くことが大事」と語ってきたから。
敢えて、そちらのほうは全然語らず、
ネガティブな発想だけを語り、
それ自体も自由な選択肢の一つですよ、と。
誘導は一切なくて、個が自分の道を選んだ結果、
もし共にあるとしたら、結果同じだったね、と。
共通の意識を持つ人が集まったね、ということ。
今もそうなんだけれど、
よりそのことをしっかりと確認したい。
敢えてこんなことはする必要はないのかなとも思うんだけれど、
敢えてする必要があるのかなと。
私たちがどうするべきなのかということには、
もう一つ、尺度があって、
この社会やその中にいる私たちの位置。
それは、心の位置であったり、
具体的な生活の位置であったりする。
この世界ができてきた成り立ち、
人間的な概念を超えた自然や地球、
宇宙というものの見方から、ここを観ることもできる。
この世界は、創られて維持されている。
そこから捉える。
未来についてはわからない。
過去と現在の視点から、これを捉える。
その視点と合わせて、
さらにこのフリーな世界で、
どう私たちが生きていくのか、
考える必要があるなと思う。
この結論は、個々に任せようと思う。
憲章を創る前に、
これを皆に提示しようと思っている。
そうやって、僕の縛りから皆を解き放ちたい。
皆に皆を預けたい。
もしあなたの中に神がおられて、
それを信じたら、行動して下さい。
あなたの意思として、行動して下さい。
決して一つの方向や、
イデオロギー的なことや
宗教的な方向に誘導して、
それに誘導されたものたちが集まって
生きている場所ではない。
独立した個人が、その個人それぞれの思考の中で
大事と思うことを選んで、
選んだ時に共通するものに出会って、
それが集ったものである。
だから、これは特定の誰かワールドではない。
皆ワールドである。
こんにちは、先日このはなMLでのっていた、
みかん畑にお邪魔してきました。
みかんの実と、外皮を少々、お口に直接ほうりこむと、
無糖のマーマレード つくりたて になって、
とてもおいしゅうございます。
無農薬って いいですね。
とても正直で誠実で、
勇気あふれる(?)文を、ありがとうございます。
わたし自身は、いさどんブログに今までの方向が
好きですし、もっと突っ走って頂きたいぐらいです(笑)。
でも、ワタシの個人的な好みはおいておき、
ファミリーの対外的な「印象」「広報戦略」「世間体」を
考えますと、時期的に考えても、
落ち着いて読んでいられるような時間も
もうあまりなさそうではありますが、
インターネットで不特定多数に「神様話」を
公開するのが効果的かはわかりません。
■ ブログ文字だけで伝えることの限界
▲ 利点1 不特定多数に広めたい
ブログでやる利点は、低コストで、
今までファミリーに縁がなかった方に、
広めることしか思い浮かびません。
でも、リアル木の花に接触していない方で、
この文章を読んで何かを得るとして、
ポジティヴなものを得る人よりも、
ネガティヴな反感を感じる人の方が多いのではないか
と推測してしまいます。
例> やっぱり新手の やま○シかい かよー
オウ△ も資金源に、農業やりだすなんて、かしこいね
客観的に成果を推定するのなら、ファミリー新規来訪者で、
エコの話でなく、いさどんブログの話を予習していて、
富士宮で直接ききたがるような「まともな人」が
どれくらいいたかで、判断できると思います。
変な精神世界オタクとかではなく。
むしろ、リピーターからの反応しか、
良い反応は無かったのではないかと邪推します。
文章のみ、とくにパソコンから読む文字情報から、
何か良いものを得られるかは、非常に疑わしく思います。
本のように物質的で、手触りがあり、固定された文字ではなく、
うつろいやすい、毎秒60回以上点滅している画面上の文字だけ。
読み捨てゴメンですね。
文字だけから何かを得られる人は、
既に語り手とリアルで接触しており、
文字から語り手との「つながり」などを補完できる
語り手と接触しようがしまいが、「わかる人」
あえてオープンなブログで、新しい縁を広げるのが
目的でしたら、後者がターゲットになると思いますが、
そのような方は、別に木の花に来なくても切実では
ないように思います。
へびのように聡くやるなら、
マニアックな話は、富士宮に来訪された方や、
リアルに縁がある方々に限定した、
クローズな形でやる方が
「無難だろうなぁ」とは思います。
つづく
▲ 利点2 コメントで双方向、対話のまねごと
一方通行ではなく、コメントによる
双方向性を利点とするなら、
いままでのコメントの反応から、もう
結果が見えているかもしれませんが、
あえてオープンなブログでやるかは
再検討の余地があると思います。
クローズなMLでもできますし
(IT嫌いには、使い勝手が悪くなるでしょうけど)。
ちょっと否定的な意見に見えるかもしれませんが、
かみさま話は、現時点では、
コメントしにくいテーマ、
お高い雰囲気ととらえられてしまって、
気軽におばかに投稿しにくいのかもしれません。
そうすると、ありがとうございます系の、
賛辞だけのつまらない、膨らみの無いものしか
出てこないのかもしれません。
コメントする側からの観点ですが、
私のように他の方々が慎重かどうかは
わかりませんが、たとえハンドル名の投稿でも、
やはり不特定多数にさらされるコメントは
警戒して、薄めた表現(?) になります。
まわりをみて感じますことは、
平均的、
またコノハナに来るような方々の中でも(平均よりも敏感)、
神様ばなしに踏み込むと、機械的/反射的に嫌悪感を感じるものと
思います。もう、こんな時期になってもです。
実感されているかはわかりませんが、
ファミリーに直接来訪される方々や、
出張先の講演にくる方々でも、
平均から比べると随分敏感な人種だと思います。
彼らを基準にして、インターネット不特定多数を
相手にするのは、ナイーヴだと思います。
ワタシは、「縁」の力を実感しておりますので、
必要な方には、木の花の農業やファミリーブログのみで、
かみさまマニアックでないページだけからでも、
何かを感じて惹きつけられてくると思います。
わかる人は、薄められた情報だけでも、嗅ぎつけてくると思います。
>>>そもそも「木の花」と名づけられているだけで、
わかる人はわかるでしょー(笑)
そして、やはり、本人のエゴから見て、
良くても悪くても、深い、本当の影響を実感するのなら、
直接の対話しかないと思います。奥の内容が同じであっても、
相手にあわせて適切な「脚色」がないと、やはり効果が
薄れてしまうのではないでしょうか。
それは、効率的に多人数には、残念ながら伝達できない
貴重なものなのではないでしょうか。
いわんや、このブログのターゲットが、どのような
客層を対象にしているのかわかりませんが、
マニアックなものほど、理解ではなく、誤解が
多く伝わる可能性が大きいと、哀しいですが、
推測してしまいます。
広い客層に対しては、他の方々が、
たくさん奮闘(?)しているので、
木の花さんは、そっちのお仕事まで
手を伸ばす必要があるのか?
つづく(笑)
つづき・最終回
>ここが非常にマニアックな世界に
>入っていくことに対して、
>ついていけないということの表われではないか。
はい、そう思います。
分かる人、やや分かる人は、読む必要なし。
分からない人、誤解する人、曲解する人は、読んで害しかない。
分からないけれど、分かりたい人は、直接対話した方が効率的(笑)。
● 一方で、このブログの真の目的が (笑)
外をターゲットにしているように見せかけて、
実は、、、
内部で直接いいにくいことを、
ぼやくためのものなのでしたら、
ええんじゃないかと思います。
上記デメリットよりもメリットが多いのならば(笑)
以上、長くなり、
やや失礼な表現もあるかもしれませんが、
やや薄めて(笑)、思うところを述べました。
つい先ほど このブログを読んで すこしびっくりしています。
ここ数日 わたしも同じような思いになっているからです。
得体の知れない不安や、自己批判 原因追求・・・ これからどうするべきか・・・
リーダー(わたしはリーダーとよべるほどの者ではありませんが)や言い出しっぺがさけることのできない壁なのかもとおもってみたり・・・。何か 波動のようなものを 敏感な人は感じ取っていて思考が乱れているのかとか
あれこれぐるぐるめぐっています。
体もかなり疲れているような気がしますし・・・。
ところで
依然たまたまテレビでみた粘菌の生態に大いに学ぶことがあったので書き添えます。
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp210.html
不思議生物 粘菌の力を生かせ! より
原始的な生き物なのに、変形や合体をして「動物」のように動いたり、「キノコ」のようにもふるまう「粘菌」。いま科学の分野で、この粘菌のさまざまな能力に注目が集まっている。
入口と出口にエサがある迷路に粘菌を置くと、最短距離を結ぶように変形することができる。これは粘菌の中の細胞質が流動するという、実に単純な仕組みで獲得された能力で、この生物的な原理を用いて経路探索に応用しようという研究が行われている。粘菌の動きを参考にした「粘菌型ロボット」の研究も行われている。
単純な動きしかできない小型ロボットを複数組み合わせたものだが、障害物を巧みに避けながら進むことができ、ロボットの半数近くが故障していても、全体として動くことができる。現代科学に新たな視点を与えてくれる粘菌の能力に迫る。
リーダーや組織といった難しい構造無しに
単純思考で(おめでたい?)
『半数近くが故障していても、全体として動くことができる』
気が付いたら そんな流動的な共同体に なっちゃってました!」というのにあこがれています。
わたしも やっぱり故障してますね!
いつもありがたく拝見させていただいてます。
私はこのブログを一つの頼りとして毎日を送っています。
木の花に巣立ちの時期と世代交代の時期が近づいてきているように感じます。
木の花憲章の完成を境に木の花の遺伝子は今までとは違った形の広がりをするのではないでしょうか?
いさどんの不安?や疑念?はそういった流れの中で自然に解消していくように思います。
おはようございます
いろいろ考えたけど
やっぱり大切なのは心を耕すことだと思うよ
自分の心をできるだけみていくと
詰まりがだんだん取れてきて、とらわれやこだわりがなくなってくる
そのうち本来の心のなかにある平和(完全な調和)や愛(すべてはひとつ)が溢れ出てくる
その溢れ出てくる平和や愛は止めることはできないし
まわりの人にも影響をもたらさずにはいられない
最近、わたしのまわりには、そういう光を放っている人が多くなってきたように思う
最初に木の花に行った時は衝撃だったけど
最近は行く先々でそういう人と出会うよ
やっぱりそういう時なんだよ