あってあるもの、なきてなきもの

この部屋の窓からは、西の空や田んぼ、家々が観える。
屋根の上にはつがいなのか友達なのか、2羽のカラスがいる。
カラスたちは一緒にいるのが当然のように、カーカ―と泣いている。
まるで彼らは会話をしているようだ。
「これからどこに食べ物を探しに行こうか?」と打合せをしているようにもみえるし、
悪だくみをしているようにもみえた。

カラスにしてみたら悪だくみもしていないし、悪い考えも持っていない。
生きるため、本能のままに、一日の始まりを過ごしている。

「あんなふうに生きられたらいい」と時々思う。
人間は色々と考え、賢いなら賢いなりに、愚かなら愚かなりに思い悩む。
「野のもののようにありたい」と思う。
物を所有する人間にとって、それは願望でしかない。

カラスは家を持たない。巣を作っても材料は現地調達。用が済んだらそれで終わり。
雨が降ったり嵐が来ても、その時間をやり過ごせばそれでよい。
一時、大変な環境にいたとしても、それが過ぎたら忘れて今を生きる。

過去に捉われることもなく、今に想い悩むこともなく、未来に想いを馳せることもない。
「あってあるもの、なきてなきもの。」
なかったらないでいいんだし、今をあり続けるもの。
この世界そのままに生きている。

自分が悪賢いとか、見栄えが良くないとか、そういうことは考えない。
しかし、人間は考えずにはいられない。
「もし、自分がカラスだったら」と思う。
「カラスの方が楽に生きている。余分なことを考えないで済むし」と思う。

この生活が始まって2,3年経った頃、僕はまだバリバリのお百姓さんだった。
畑へ行って土手草を草刈り機で刈っていた。
その畑ではウコンとショウガを育てていた。
以前は、ウコンとショウガをセットのように同じ畑で、
ショウガの方が背が低いから南側に、ウコンの方が背が高いから北側に作っていた。
その時の作業では、ウコンとショウガの畑の草取りと土手草刈りをしていた。

土手草刈りをしていた自分の中に想いが湧いてきて、
「同じ植物なのに、ショウガやウコンを大切に扱い、
畑の土手草を刈り取っているのはなぜだろう」と不思議に思った。
「作物と草は同じ植物なのに、なぜ差別するのか。この差別は何だろう」と思った。

それで、草に聞いてみた。
「草さん、僕は畑にあるショウガやウコンを大切に想って手入れしていますが、
あなたたちを草刈り機で刈り倒しています。
これは差別だと思いますが、あなたたちから観たらどう思いますか?」と聞いた。
草は答えをくれた。

「それでいいんです。私たちはそういうものなんです。
今あなたが刈り倒した草は、そこに留まればいつか土手の土となり、また草になります。
それをあなたが刈り取って、その隣のショウガやウコンのところに入れれば、
私たちはそこで土になり、いつかウコンやショウガになります。
そうやって私たちは変化し続けるものであり、今は草であるだけです。
だから、刈り取られたとしても、私たちという存在は形を変えてあり続けるのです。
そういうものなんです。」

人間はそういう意識を持っていない。
私たちはこの世界にいて、そういう意識を持っていない。
「自分が」という願いを叶えていった結果、今の進化や発展がある。
「人間が『自分が』という想いから解放されるためには、
この草たちのような心が必要なんだ」と思った記憶がある。
何も考えを持たないものたちは、「あってあるもの、なきてなきもの。」
そのままに存在している。

それで、今度は同じ畑の私たちが大切にしている作物である、
ショウガとウコンのところに行って語りかけた。
「ショウガさん、あなたのために今日ここに来て畑の手入れをしています。
あなたはどんなふうに扱ってほしいですか?」
するとショウガは、「私は今、水が欲しいです」と答えた。
水が欲しいのなら水をあげることが必要だし、
水をあげなくても株元から水が蒸発しないよう水を保てるような環境を与えてあげることを考えた。

次に、隣のウコンに語りかけた。
「ウコンさん、今日はあなたを手入れに来ています。
あなたはどんなことをしてほしいと望んでいるのですか?」
すると、ウコンはこう答えてくれた。
「僕は体が大きいから自分で根を沢山張って、水分を取ることが出来る。
今は体を大きくするための栄養が欲しいです。」

そこで気づいたのは、「今までショウガとウコンを同じように扱っていた。
同じ畑に作付けし作っていたけれど、それぞれにふさわしい個性があり、
欲しいことが違うんだ」ということを知った。

ここに訪れる人の中に、「私は草取りをしないで作物を作りたい」と言う人がいると、
この話をよくしたことを今思い出した。
この世界は「あってあるもの、なきてなきもの。」
今目の前の瞬間瞬間をつないで存在している世界。
そして、世界はそのままであり続けている。

しかし、人間はその意識を保つことが出来ない。
全ての世界がそうであるのに、
人間はこの小さい世界の中ですら、それを保つことが出来ない。
それを人間の能力の高さとして評価すべきなのか、
人間の愚かしさとして人間についている迷いの種として観るべきなのか、微妙なところである。
人間は「あってあるもの、なきてなきもの」という世界の中でそれを認識せず、
自分の想いの枠の中に自身を閉じ込めている。
人間にはこの世界に降ろされた役割がある。
あってあるべき姿がある。

そうやって物事を外側から捉えていくと、多様な捉え方があり、多様な存在がある。
執着を生んでしまうような価値観も、
多様な価値観の一つとしてそこにただあるだけである。
思い悩むことなど何もない。
なくてなき姿と捉えれば、たちどころに消える。

屋根の上にとまっていた2羽のカラスは、今をあるがままに生きている。
しかし、カラスを羨ましいとは思わない。
今を不満にも感じない。
出会ったことに常に一喜一憂しない自分でありたい。
「あってあるもの、なきてなきもの。」
それが続けられる自分でありたい。

自分しか出来ない役割、自分しか歩めない人生を誰もがもらっている。
今を生きて、つながり、役割が終わるまで進むだけのこと。
終わったら、この世界に形を変えてあり続け、そしてまた帰ってくる。

人間は、自分の中の思考を巡らせ、その想いに翻弄され生きている。
それを意識している人も無意識の人も、自分の想いに翻弄され生きている。
そこを超え、自分という存在を超えていくと、翻弄されない自由な世界がある。
この世界のままにあり続ける。
あってあるもの。

自分の意識をしっかりと保ち生きている人が幸せなのか、
機能が停止して壊れている人が幸せなのか。
自分を保つことが幸せなのか、保たなくなったことが幸せなのか。
どちらも、この世界の在り様の一つでしかない。

今を生きること。
それは捉え方によっては、ないものに等しい。
常に瞬間瞬間切り替わり、次の世界へ移行していく。
あると思うとあるだろうし、ないと思うとない。

私たちは、そういう面白い世界に存在している。
カラスのように自由な世界にいる。


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