現代医療について語る

9年間にわたるうつ病をここに来てから3ヶ月で克服し、今はメンバーとして活躍しているエリー。
大学教授として言語病理学を研究していた経歴を活かし、週末は東京に通い臨床のお仕事もしています。
今日は、現代医療、特にうつ病への精神医療についていさどんにインタビューしました。

エリー:
現代医療、特にうつ病への精神医療について考えるところ、感じるところをお話し下さい。

いさどん:
まず、私が病気をどう捉えているのかについてお話します。
人が生きていく上で出会う色々なトラブル、困難の中の一つに、
医療で捉えられている「病気」というものがあります。
困難には病気だけではなく、人間関係の対立など色々な問題があります。
その中でも病気については、
「病気」という切り口で捉えると、病気を問題事として捉えています。

この世界はどんなものも、相反する二つのものによって形成されていると考えています。
ということは、全ては陰陽で成立しているということです。

そうすると、病気でもトラブルでもそうですが、それは陰陽どちらか一方に偏った現象です。
マイナス現象というのは、物事が起きた時に現象を終息させ、収めていく力です。
それに対し、プラス現象というのは物事が起きていく時の力です。
それを収めていく力がマイナス現象だとし、収める作用として病気を捉えれば、
そこに病気が発生する原因、つまりプラスの要因が働き、
その結果病気やトラブルが起きているということになります。

プラスが極端に発生した場合にマイナスを起こし、
本来の安定した状態に戻そうとする力、それがトラブルということです。
その一つの表われが病気であり、うつ病はその精神疾患の一つであるわけです。

一方、現代医療の病気に対する捉え方は、
症状を現象として特定し、その症状をなくすという考え方です。
例えば、湿疹が起きているとか、怪我をしたということに対して、
その湿疹をなくしていくこと、怪我を治療するという捉え方です。
湿疹をなくすということは確かに有効で、
湿疹がなくなれば見栄えも良いですし、苦痛もなくなります。
怪我も、当然治すために治療をしていくことになります。

ただ、湿疹が出た背景を捉えてみると、それは内蔵疾患かもしれませんし、
内蔵疾患につながる自律神経の問題かもしれません。
また、自律神経を不安定にさせている精神性にもつながっていきます。

怪我についても同様で、単に偶然に怪我が起きたのかといったらそうではありません。
怪我をした時のその人の注意不足、それは心の不安定が原因していると捉えられます。
そうやって観ていくと、その背景には必ずその人の精神性が現れてきます。

湿疹が起きている原因が内蔵疾患だとしたら、
適度な食を超え、食べ過ぎてしまうような原因がその人にあるのかもしれません。
そうしたら、なぜ食べ過ぎてしまうのかということを考える必要が出てきます。
それは、その人を取り巻く環境や環境に影響を受ける人柄、人間性につながっていきます。

人間に限らず生命には、常に健康体を保っていこうとする力が働いているものですが、
その生命が健康体になろうとする力以上に偏った行為をしてしまうと、
バランスを欠くことになってしまいます。
そこでは、何かストレス的なものやそういう自然に反するような精神性が原因となり、
そういった行動から症状を起こしています。

そうすると、精神疾患でも何でもそうですが、
バランスを整えるために薬で精神性を操っていくような治療を行ったとしても、
根本の精神性は変わらないために症状は改善されません。
病気というものは、まわりの環境から来る様々な心の葛藤や、
本人が元々持っている心の癖によって、バランスが崩れた結果起きてきます。

環境に起因することや、本人が元々持っている病気を引き起こす癖に起因することもあると捉えれば、
そこのところを観ずに治療を行うということは、「人を観て心を観ず」ということになります。
「人を観て心を観ず」の状態で相手と接していたのでは、
相手を観ていても相手を観ていないということになります。
今、そういう医療が多く行われていると思っています。

病気については、原因のところまで捉え対処していくことが出来れば、
表面的な治療をしなくても状況は改善されるでしょう。
元の原因とは心のボタンの掛け違いです。
ボタンの掛け違いというのは、全部のボタンがずれて掛けられている状態で、
やることなすこと違う結果が生まれてくることになります。

しかし、元は最初の一個のボタンが掛け違っていたに過ぎず、
そのままにしていくから、全部掛け違うということになるのです。
これを逆に捉えると、最初の一個だけ正せば、全て正され健全になっていくことになります。

そういった捉え方をすると、精神医療だけではなく他の病気でも、
広い意味で捉えれば人間が生きていく上で出会うトラブルの一つであり、
根本的な原因を観て振り返ることが出来れば、その問題は解決に向かっていくものです。

根本の原因を観ることが出来れば、そこに気づきが生まれます。
気づきというのは自分の中から湧き出てくるものです。
「自分は自分にバランスの悪い、負荷をかけるストレスを与えていたんだ」ということに気づけば、
たちどころにそれを止めることが出来ます。

私たちはここに滞在する人たちにそういった気づきを提供しています。
「健全な精神に健全な肉体が宿る」ということで、
心のバランスが良くなれば、体のバランスも自然に良くなるものです。

ホリスティック医療が叫ばれている中で、
医療現場がなぜそういったものの見方をずっとしてこなかったのかということを考えると、
近代医療はそこにお金が絡み、利益を生む産業になっているということが言えます。
人々の問題事を解決し社会に寄与していくために医療があったはずなのに、
それが産業になっていることに一番の問題があるのではないか、
そういう産業の担い手としての医師の教育がされているのではないか、
ということも大いに考えるところであります。

病気やトラブルが私たちの人生に発生しているということは、
生きている上で私たちがそういった形の自己表現をしているということです。
私たちは、自分の心を表現し日々を生きています。
その表現が偏ってバランスを欠き、
プラスの過剰、「自分だけが」「自分さえよければ」という心で表現した時に、
マイナス現象が働き、病気を発生させているという仕組みになっています。

そうすると、病気などのマイナス現象は、「プラスが過剰ですよ。
あなたの心はバランスを欠いていますよ」ということを教えてくれているメッセージということです。
バランスを欠いていれば、人生という道を歩む時に不安定になり、辛いことになるのは当たり前です。
バランス良くいけば、健康で豊かに持続可能な人生を歩むことが出来ます。

また、バランス良く人生を歩むことが出来れば、
冷静さを持ってまわりの出来事から学び、
自らの心の問題事の種を取り去って成長していくことが可能です。

バランスを欠いていると何も成果がないどころか、苦痛が与えられることになります。
しかし、苦痛を与えられて問題なのかといったら、
苦痛はそこから学び、人生を尊いものにして自分の価値を高めるために与えられていると考えれば、
医療という視点から観た問題事としての疾患とは捉えられないと私は考えます。

そのことを人々が理解しなければいけません。
そういう視点で病気というものを捉えると、病気に対する認識が随分変わってくると思います。
病気は嫌なもので問題事である、退けるものである、病気はない方がいいという考え方は狭い視点です。
確かに病気はない方がいいのですが、
病気を生業の対象にする人がいていいのかということについては、そういう人は少ない方がいいでしょうし、
病気がなくなっていけば、そういう職業こそなくなっていくことが社会にとっては良いことでしょう。

そういう意味からすれば、現代医療が今のままでいつまでもあり続けるということは問題です。
問題といっても、人間がこの世界に生まれてきて、
その問題事に出会う意味を理解するために今の段階があるのだと捉えています。

今現在、病気が沢山起こり、問題事が山のようにあるということは、
その現象の奥にある根本的な意味を、
社会的にも個人的にも学習していくことが問われているのではないかと考えています。

社会と、その社会を構成している個人という二面で今の時代を捉え、
医療や社会に対する新しい在り方を皆で考えていくことが、
こういった現象の奥にあるメッセージとしてあるのではないかと思っています。

今朝読んだ新聞記事の中に、15年前の阪神・淡路大震災で6千数百名が亡くなったこと、
6年前のスマトラ沖地震では22万6千人が亡くなったこと、
そしてハイチの大地震では23万人が亡くなったと書いてありました。

その後に68万215人という数字があったのですが、
これは日本でこの4半世紀、約25年の間に発生した自殺者数です。
20年間で55万人を越えた人が亡くなっていて、
昨年には3万2千845人が自殺したという記事が載っていました。

日露戦争の時には年間1万人が死んだと言われていますが、
その3倍以上の人が自殺で亡くなっているのです。
そういった数字が12年も続いています。
自殺者をなくすには、社会的な問題と個人の心の問題の
2面の根本的な原因を捉えていくことが非常に重要だ、ということがこの記事からうかがえます。
動機が判明した中ではうつ病などの病気の悩みが最も多く、
その次に負債等のお金の問題が原因であるということです。

そうすると、お金というものの捉え方が心の問題になっているということです。
お金や心の問題で発生した病気を、
医療が薬だけで抑え込もうという矛盾的行いが起きているのが現状です。
その人の心の癖は個人的な問題であり、その背景にある負債は個人的かつ社会的な問題です。
そういったことを多角的に捉えて初めて、問題を解決することが出来ます。

単に病気を治すということよりも、社会にそういった問題が発生しているということに皆が気づき、
それを絶ち切っていけば、現代医療が今の限界を超え、
本当の意味での健全な社会と健全な人を生み出すことにつながるのではないかと考えています。

エリー:
今の話は、今まで自分が聞いたこともないような話なので目から鱗でした。
今のような捉え方をしたら、社会における全ての問題が解決出来るような気がしています。

今まで、「病は気の病」ということで、精神が大きく関わっているとはいうものの、
そのことによって脳に器質的な変化が起き、
それを薬によって調整していくから薬も必要であるし、
現代医療の価値はそこにあるのではないかと思っていました。

いさどん:
そうですね。脳に問題があるということは、
例えば分泌物が足りないとか、多く出てしまうというような症状を捉え、
そこを解明していくということはとても大切なことですし、それは医療の大きな使命だと思います。

先程の内蔵疾患であっても、脳の中に異常な分泌物が出たり足らなくなったりすることも、
元をただせばそうなるべき理由があるということです。

例えば、心が不安定でストレスが溜まっていくと、自律神経のバランスが崩れていきます。
自律神経は臓器の安定を司るところですが、
心が不安定になったからと言って、内蔵が悪くなる必要はないはずです。

しかし、そうなるような仕組みを私たちはいただいています。
ところが、医療現場ではまだ現象だけを捉え、治していこうとしています。
しかし、現象にはそれが起きる理由があり、
さらに観ていくと現象を引き起こしているストレスや、
ストレスを引き起こしている心の癖とつながって現象が起きている、ということが理解出来ます。

さらに、その人にはそのストレスを受ける必要がある、と言うことも観えてきます。
魂の不完全というものがあり、その不完全に気づくためにそういった現状を与えられているのです。
全てはプロセスの一部であり、それに沿った現象が起こり、
そこから最終的に対処療法的治療を受けていくことは、その現象の根本的解決にはつながらないのです。

今エリーが言った医療の考え方というのは、あるところまで来るとその先を捉えず、
表面的な症状を治せばいいということになるのです。
それだけでは「なるほど、そうか!」と納得がいくものにはなりません。

エリー:
今の現代医療を支えている人たちは、まず魂や心というものの存在を認めていない人が多いですからね。
心や魂というのは脳の活動の結果生じてきているものという捉え方からすれば、
原因を魂や精神性に持っていくという捉え方は最初から排除しているわけです。

そこに観えてくるものは現象と言われているものですが、
そこで観えている病気の症状にいかに対処していくのかということ以外に、
唯物論的な観方からすると限界があるわけです。
限界があるという考え方は唯心論の立場からするとそうですが、
唯物論の立場からすればそういう捉え方はありませんから、
限界と捉えないでそのまま行ってしまうということになります。

いさどん:
そこでは、症状を治せばそれで良しということですよね。

エリー:
それ以外にないというか、人間というのはそういうものだという観方です。

いさどん:
ここではうつ病がテーマになっていますが、
明らかに現象を起こしているのは、人の想いや想いにつながっている行動です。
想いというのは、唯物論で言われる「捉えどころのないもの」です。
それが元になり、うつ病的な現象が現れてきているわけですから、
そこを切り離してしまうと、逆にこういった医療現場に従事する人すら、
心の矛盾が発生する状態になるのではないかと思うのですが。

エリー:
そういったケースは非常に多いと思います。

いさどん:
そこから目を背け、とことん機械的に医療に従事するような人は
医療現場にい続けることが出来るかもしれません。
しかし、そこに矛盾を感じるような心を持っている人は、
自分が治す立場にありながら、バランスを欠いた不安定な状態になってしまいます。
しかし、それは物事の本質を捉え出してきた結果ですから、好ましいことだとも捉えられます。

エリー:
だから、精神医学者や精神科医、臨床家のかなりの人たちが、
心を病んだり、お酒に溺れたり、生活破綻者になっている現状があると思います。

いさどん:
そこのところは、先程お話した、それこそ「人を観て心を観ず」ということだと思います。
つまり、そういった人たちは原因がさらに遡ったところにあるのに途中までしか観ず、
立場上の仕事をしているところに問題があるのではないかと思います。

エリーは、現代医療の治療現場に今までいたわけですよね。
それは良い悪いは別にして、結果としてここと出会ったわけです。
エリーはここでの治癒に対して、唯物的な治療方法ではない、
何か他の理由によって治っていったと捉えていますか。
どのような要因がエリーの病気の治癒につながったと捉えていますか。

エリー:
元々私は宗教的な家庭で育ちましたので、唯物論に対しては否定的な立場でした。
ただ、成長の過程で生きることのしんどさに耐えられなかったのではないかと思うのですが、
そういったことについては割り切って生きていきたいと感じていました。

そしてここと出会い、自分が今まで一生懸命目を背け、
逃げていたというか、忘れていたものと向き合わざるを得なくなったように感じました。
懐古的な言い方になるかもしれませんが、
ここにいることで、昔の自分の心に引き戻されたというふうに感じています。

今は素直になってしまえば、現代医療に対しては非常に否定的で、
唯物論の考え方の浅さ、愚かさを強く感じています。
自分のうつ病は、「心の問題から逃げない」というスタンスに立つことによって治癒したのだと思っています。

いさどん:
元々エリーは信仰的な家庭に生まれ、唯心的な育ち方をしました。
それが大学という学問の世界に入り、唯物的な視点で学問をしてきました。
そして、自分自身が心の疾患と出会うことにより、
また唯心的なところに出会って自分らしさを取り戻した、ということですか?

エリー:
そうですね。

いさどん:
そうすると、今エリーは唯物的なものを否定するという話をされたのですが、
そうではなく、唯物的なことと唯心的なことのバランスを取って織り交ぜて考えていく、
と捉えた方が適確なのではないかと思います。

私は現代医療に対して否定的ではありません。
ここでの効果は私たちの働きかけに反応する段階の人には有効です。
私たちは相手の心に働きかけ、
相手がその働きかけを受け取り、自分の中で解釈し、反応を返す、
それに対してこちらがまた働きかけるというキャッチボールが出来て初めて、
ここでの対処は効果があります。

それが出来ない段階の人、混乱してしまっている状態の人に私たちの対処法が効果的なのかというと、
強制的な場も必要でしょうし、ある意味では苦痛を和らげるための投薬的なものも必要だと思います。

本来はそこまで行く前に、唯心的なことと唯物的な捉え方のバランスを取ることが理想です。
しかし、現実には唯物的な治療も非常に有効だと捉えていますし、
過去にも自然の中にある薬草や鉱物を使って症状を治してきたと思うのです。
車の両輪のようにその二つのバランスを取っていくということが大切で、
今エリーが言ったような「唯物的なものが問題だ」ということではないと思っています。

ただ、唯物的なことが栄え過ぎ、そちらの方に偏り過ぎたとは思っています。

エリー:
普段から極端に走る自分の癖が出たのだと思います(笑)。
また、極端な教育を受けてきましたから、
その反動が大きくて、こういう考え方になったのだと思います。
私の性格はエキセントリックと言いますか、すごく極端なんですよね。

現代はヒステリー的社会だと思うのですが、ヒステリックに物理的なものを求め、
一方で非常にスピリチュアルを求めていると思っています。
私の目から観ると、それがすごくおかしく思える時もあります。

いさどん:
そうですね。今、やたらと物理的な世界が進んできた結果、
非常にスピリチュアルな、それこそバーチャル的な世界がもてはやされています。
私もそれは危険なことだと思っています。

全てが陰陽で成り立っているというところに話を戻しますと、
私たちは霊性と肉体という両方を持って存在し、そのバランスによって生きています。
そこにアンバランスが発生することによって、
そこから痛みをいただきながら学び、成長しているということが人生だということです。

成長するということを目的に問題事を捉えれば、
問題事も悪いものではなく、成長するための糧として希望が湧いてくるものです。
自分を発見するチャンスになります。
そうやって、広い意味での病気に対する捉え方が必要なのではないかと思います。

現代医療に対する想いということからすると、
そういった多面的な観方を医療現場の方たちが取り入れ、
精神疾患といったものを捉えていくことが必要な時代が来たのだと思います。
しかし、それすらもプロセスとしてそういう段階に来たということで、
決して今までの医療の在り方を否定してはいけないと思います。

今までの医療は非常に有効でした。
しかし、次の段階に進む時には、必ず今有効なものにも限界が来て、
問題事がそこから観えてきて、次のステージに行くということだと捉えています。

(エリーの対談後の感想)
私は宗教教育を受けて育ってきましたから、教祖的なものにすごくアレルギーがあるのですが、
いさどんの考え方というのは、すごく冷静で健全でいらっしゃるので感銘を受けました。
唯物論と唯心論を自分が分けて考えていると言われたことで、
自分が対立を生むような捉え方をしていたということにも気づきました。
いさどんのような考え方を自分が今まで求めてきて、今自分がここにいるのだと思っています。
今まで二極の対立する考え方のどちらかを選ぶ生き方しかしてきませんでしたから、
第三の道、新たな生き方があるということを知り、目から鱗でした。


ようこそ、ここへ

珍しくメンバーのひろっちが、
「大人会議前にいさどんと話す時間を持ちたい」ということで、
今日の夕食後、ひろっちといさどんの面談の場がもたれました。

ひろっち:
今日の大人会議でもシェアするけれど、
まずはいさどんに話をしようと思いました。
陽子ちゃんから手紙をもらったことがきっかけで、最近色々と思うところもあって。
とりあえず、考えがまとまってブログにしたので、読んで下さい。

(いさどんがひろっちのブログを読み終わりました。)

そういうことなので、いさどんに育ててもらいたいなと思っています。

いさどん:
はっはっは(笑)!共に歩むということだよ。
それと、そういう心境になった人というのは、
それこそ独立して一人の人としてあるのだから、本来は上下なんてないんだよ。
その状態に至るまでには、上下があるのかもしれないけれど。

このような心境になったということは、
「自分対この世界」であるし、「自分対神」だからみんな平等なんだよ。
それに気づいたということは、共に歩むということだから、
上下なく仲間として一緒にやっていこう。

今までの歴史のように、
教団や組織をつくるという発想に基づく目的があるのなら、
そこには上下もあるのかもしれない。
しかし、これからは、
もっと大きなものがこの世界で何かを表わそうとしているわけだから、
その役割をしっかり果たしていくことだと思う。

そうしたら、私たちはその中の一つ一つの材料であったり
手足なのだから、みんな平等なものです。
まして、そのことに気づいた人たちは全く対等なものです。

それこそ、桜田淳子の世界。

ひろっち:
桜田淳子?

いさどん:
♪ようこそここへって(笑)。
ようこそ、この心境になったんですね、ということだよ。

ここの人たちは、
どの人もそういう心を目指してここにいると思います。
しかし、人によってはそれが漠然としていたり、
まだつかみ切れていなかったりしています。
でも、最終的にはみんなそうなるために生きていると思うんだよね。
そうすると、ひろっちはけじめをつけてすごくいい方法をとってくれました。
みんながこれに見習い、しっかりとした決意を持って歩んでもらえればと思います。

気づきが生まれてこない人との違いは、
やはり決意が出来ているか出来ていないかということだと思う。
そういった決意さえあれば、気づきがどんどん出てくると思います。
その違いは大いにあります。

だから、ひろっちの決意は、
みんなの見本になって大変いいんじゃないかと思う。

ひろっち:
「師匠として、僕を弟子にして下さい!」という想いで今日は来たのですが。

いさどん:
それはそうかもしれないけれど、
私たちはあくまでパートナーであり、対等な人間関係であり、
仲間であり、家族であり、そこには上下がないと思う。
ただ、今までの心境のところでは差があったのかもしれない。

僕はひろっちの書いたブログを読ませてもらって、
自分もひろっちと同じ心だと思うし、
ひろっちもその扉を開いた限りはこれから一緒だからね。
ただ、経験上、多少僕の方が
色々な物の観方などは持っているかもしれないから、
大いに話し合ったり、お互いを活かし合っていければいいと思います。

ひろっち:
でも差はあるので。

いさどん:
はっはっは。そうかな(笑)。

ひろっち:
ちゃんと神様に使っていただける人材になれるように、
力をつけていこうと思っています。
まずは、その邪魔をしている我を取っていきたいと思っています。

いさどん:
その心を強くすればするほど、我は取れる。
例えば、自分が心細くなって天に向かって嘆いたとしよう。
心細いということは何か悩み事があるわけだけれど、
そこで「神様、私の問題事をどうしたらいいのでしょうか」と言おうが、
「世の中を救いたいのです。だからお力を下さい」と言おうが、
神に対してそういう形で語りかけている限りは、まだまだだね。

それは、神と自分を分けているということです。
そういうふうに語りかけた時に、
「自分は何て馬鹿なことを言っているのだろう。
神の表われが自分であるのに、神に願いを言ったり、
迷い事を言っているような心境になっていた」ということに気づけばいい。
「我即神なり」だから。

これは一般の人にはなかなかわかりづらいことかもしれないけれど、
宇宙の法則だからね。
そこで道が開かれる。
そういう心境になったら、いくらでも道は開かれる。
最も、どんな人間にもその人にふさわしく、道は開かれているのだけれどね。

ただ、私たちは二人三脚のように神と一緒に生きている、
生かされているわけだよね。
神が生きている状態が自分だから。
そうすると、よりその存在が感じられるようなことが起きてくる。
そういうふうに生きる人が、これから時代をリードしていくんだと思う。

今これを読んでいて、
そういえばひろっちは今度のエコビレッジ国際会議で発表するのに、
こういう精神を表現するんだなと思った。
ひろっちがやろうとしていた「みろくビレッジ」は、
一か所のみろくではなく、この世にみろくをもたらすということ。
今回の決意があって、発表者にふさわしい心になったんじゃないかなと思います。

ようこ:
ひろっちは、メンバーが誕生日を迎えると
その人にお祝いのお手紙を書いてくれるのだけれど、
先日、私の誕生日の時にもお手紙をくれたんだよね。
きっと、ひろっちはお手紙を書くことはあっても、
もらうことはあまりないだろうと思って、遊び心で返事を書いたの。

そうしたら、ひろっちが「5月の末か6月の頭には、
ようこちゃんに手紙の返事を出すから」と言うものだから、
「返事をもらえるのであれば、ちょっと時期を早めて、エコビレッジ国際会議前にほしいな。
その方がひろっちも、よりふわさしい発表が出来るだろうから」と言ったんだよね。

いさどん:
ということは、これは全部、上の意志が働いて私たちが動いているわけだ。

ようこ:
でもこれって、すごい進歩だよね。
ひろっちがまだここに来たばかりの去年の11月に、
全く同じような内容の話をひろっちにした時には、ひろっちに聞く耳がなくて。
ここの大人会議の在り方が指摘モードに偏りすぎているんじゃないかとか、
当時のひろっちの中にはいさどんに対する反発心があったよね。
まあ、男の人であれば多くの人が通る道だけれど。

それが今は、「いさどん、弟子にして下さい」という心になり、
ひろっちはこの半年で色々なことがあって、心が変わっていったんだと思います。

いさどん:
ただ、僕はどの人にとっても師匠という気持ちはないんだよね。
あくまでもパートナーシップだから。
でも、僕はこの道を先に歩んできただけのものを持っているから、
いくらでも惜しみなくそれを提供する。

なぜそれを提供するのかといったら、
この世界でその人により働いてもらわないといけないからね。
まだまだ、これからみんながやることは沢山ある。

それと、僕もだんだん年をとってきて、
役割の転換をしないといけなくなってきています。
その空いた部分にみんなに入ってもらわないといけないということもある。
大いに条件をつけずに活躍してもらいたいと思います。

ようこ:
与えられたものをいただきながら。それこそ、みんなに委ねて。
人間も神のうちだもの。そこに区別はないから。

ひろっち:
自分の我の強さというのが大分取れてきたと思っていたけれど、
「ここまでまだあったんか!」とこの数日でまざまざと見せつけられて。

いさどん:
我はあり続けるものだよ。
ただ、我というものがどういうふうに表現されているのか、ということだよね。

まずは自分だけの我、
つまり、自分の健康やバランスの良さを見ないといけない場合もある。
また、自分と今目の前にいるパートナーとの関係で我を見ていかないといけない場合もあるし、
木の花という我やもっと大きな我で見ていく場合もある。

自由自在に我を使い分けた時に、
我が有効に活かされているという状態だと思う。
我を取り去るというと、何にもなくて
色即是空の話みたいだけれど、それは違うと思うんだよね。
もちろん、そういう解釈もあるけれど、
それは解釈であって、解釈で人は生きているわけではない。
この世界の仕組みの中で生きているわけだから。

その仕組みの中で、しっかりと自分を有効に使い切るということです。

ひろっち:
今までは小さい我だったと思うから、
まずは、それを広げていけるようにと思っています。

いさどん:
ひろっちだから、広げていけられる(笑)。

ひろっち:
大和には、せまっちとか言われているから(笑)。
「おでこはひろっち、心はせまっち」って(笑)。

いさどん:
大和がそう言った?それは面白い(笑)。
まあ、そんなところだから、後はみんなに発表してもらえればいいね。
大変いいことだと思うから。

そういう心になれば、
何の制限のない、自由な生き方が出来ると思う。
その心が出来ないと、人間というのは自由に生きているはずなのに、
ものすごく狭い世界を生きていることになる。

だから、その心であれば人生を楽しめる!
これからもよろしく!

ひろっち:
こちらこそ、よろしくお願いします!

ツꀀ

※ひろっちが書いたブログは、木の花ファミリーブログに載せてあります。


ちよこさんのその後

ちよこさんの娘さんに電話をかけ、
ちよこさんの近況について伺いました。
4月24日に現在いる病院に入院し、
5月24日で1ヶ月になるので、とりあえず退院する予定になっているそうです。
ただし、それは5月24日の状態で安定していればということです。

今は病院にいるので、
携帯で誰にも連絡出来ない状態になっていますが、
ちよこさんの状態は比較的安定しているそうです。
しかし、霊がついているということについては、同じように言っているそうです。

病院の先生は大変親切で、いいところに入院出来たようですが、
手にはギブスをはめ、転んでも絶対大丈夫な状態にしているそうです。
始めは、「手が全然動かないのではないか」と思ったそうですが、
リハビリを1週間した後、ぐーが握れるようになったと言っていました。
手については、不幸中の幸いですという話でした。

娘さんは、「24日に退院してからがすごく心配です」と言っていました。
「お母さんを家に一人に置いておけないし、
でも置いておかないといけないことから、すごく心配です」と言っていました。
ただ、病院側もいつまでも預かることが出来ないので、
退院することになっているそうです。

霊について解決がつかないということが一番の問題で、
「明日、霊能者に見てもらうことを非常に期待しています」と
ちよこさんは言っているそうですが、
娘さんは、「今までどれほどそういう人たちに見てもらってダメだったのか。
私は全然信じていないので、わからないんですけれど」と言いながら困っていました。

僕も、「そういうものはあるでしょうが、仮にあったとしても、
そういうものと共鳴しないような心をつくるということが一番だと思います」という話をしました。
そうしたら、「どこに行っても、そう言われるんですよ。
それしかないんですよね」と困っていました。

木の花のことについて、
ちよこさんは「本当にいいところだった」と言っているそうです。
娘さんも、「将来、私とお母さんと子供で、木の花へ行きたいという想いもあります。
そうなったらよろしくお願いします」と言っていました。


感謝すら消えてしまう世界へ

「生きることが答え」に沢山のコメントをいただき、
ありがとうございました。
皆さんからの色々なコメントを受けて、
いさどんからのメッセージをシェアしたいと思います。

どこかで区切って答えを出していくということも大切なことではありますが、
それ自体は次につながる過程と捉えることが出来るものです。
今まで私たちは出来事を検証しながら、
次がどうなっていくのかということを検証してきました。
私たちは、常に正解を求めている人たちと違い、
縁があって出会った人、そういった出会いからもたらされる出来事をいただき、
その結果わかったことを学び、次の行動につなげていくという方法で今まで歩んできました。

縁ある人々との出会いから求めるものと提供するもののニーズが合うと、
私たちが最初からわかって提供することもあれば、
出会いによって新たに提供出来るものを育てたり、
元々持っていても今まで提供出来なかったものに気づいていく場合もあります。

だから私たちは、答えをわかっていて提供しているばかりではありません。
積み上げてきた実績の中で見通しが立てられたり、
色々な出来事を経験しながら、
私たちも新しい情報を手に入れ次の糧にしています。

ケアで滞在している人に伝えていることは、
「あなたの人生はあなたの想いをあなたが表現した結果与えられるものだから、
その結果は自己責任ですよ」ということです。

私たちは常に、客観的な視点に立った情報提供をしてきています。
人が生きているということは、
自己表現の結果が返ってくるようになっています。
この世界は因果応報であったり、
類は友を呼ぶという仕組みで現象が自分に返ってくるのです。

そういう仕組みの中で生きているということは、
自分が求めていることを自分で掴むというよりも、
自分自身の中にある想いを行動として表現することによって、
この世界という鏡に映り、結果として現象を自分が見ることになります。

そうすると、一人一人、人生を通して自分を学習していることになります。
自分の行いに対して学習出来る状態の人もいれば、
自分の行いを冷静に判断出来ず、自分の行いで混乱している人もいます。
そのように人それぞれの人生があるものです。

どの人もその人なりに生きて、その人なりの答えをもらって生きています。
それをよくわかっていないと、問題事が起きると他のせいにしてしまいます。
そうではなく、自分の中に種があり、
その種の存在を教えてくれるためにこの世界はある、というふうに捉え、
「それはあなたの中にある種が引き寄せているんですよ。
それがこの世界のあなたに対する働きですよ」と伝える。
そうやって、私たちは客観的な情報を提供しています。

ここで、その人の中にある問題の種を
代わりに解消してあげることは重宝でいいことのようですが、
それをすると、なぜその人にその種が与えられたのかという意味を知ることと、
その学びを奪ってしまうことになります。
いつも他人に解決を求めないといけない人が出来てしまうのです。

最終的に人は自分の存在を正しく認識し、
自分が何ものであるのかということを悟っていく旅をしています。
出来事は、自分自身が何ものであるか、
自分自身がいるこの世界は何なのか、
ということを知っていくためのきっかけになるのです。

常に他人によって物事が解決されていくと、
そのことがいつまでたってもわからない人間になってしまうので、
その人が出会った出来事をその人に返してあげるというのが私たちのスタンスです。
これが一番大切です。

自分の心にふさわしく出来事が表わされ、
そこから学び、自分を知るための旅をしています。
それが人生なのです。

そうしたら、どのような出来事に出会い、
結果どのように死んでいくのかということは全てその人の自己表現です。
中には他人のせいにして被害者として、
自分が表現したものを受け取っていく人もいるのですが、
全て自分自身の表現が自分に出来事をもたらし、
自分を知るためにあるのです。

そこへ至るまでには人間関係にしろ出来事にしろ、
色々なことが複雑に絡みあっていて、
それをどこで区切るかによって、
「良かった」とか「悪かった」という表現が生まれてきます。
無限なる世界で起きている出来事ですから、
より広くそれを捉えた時には問題事は何一つない世界です。
全ては学ぶ過程の出来事となります。
しかし、それを狭く一つ一つのこととして捉えると、
「良かった」とか「悪かった」という世界に陥ります。

そこで僕はこういった中で何をしているかというと、
「こういうケースの場合はこういうことによってこういうことが起きて、
こういう結果になる」とデータ収集をしています。
過去に同じ出会いは一度もなく、
出会う人々の事情は全くオリジナルなのです。

ここへ来て、意識を変えて社会へ戻る人は多いです。
ここで見事に問題事を解決していった人は、
自分の新たな歩みを見つけ進んでいきます。

しかし、一見問題事を解決していないようで、
「卒業」に至らずケアを終わっていく人もいます。
しかし、そういった人にもここでの体験は無駄になっていないのです。
例えば、ここにいることが苦痛だった人にとっても、
それが次へ進むための土台になっていきます。

こうやって色々な人に出会っていくと、
誰一人として無駄な出会いはありません。
偏った捉え方をすると、「これが正しい」ということになったり、
「あれは失敗だった、ダメだった」ということにもなります。
しかし、そういうことはこの世界に何一つないのです。

これは、出来事を通してプロセスに出会っていることであり、
その現場に居合わせる時に初めてわかることです。
部分的な情報ではなかなかわかりづらいことであり、
だから、私たちは常に現場に居続け、長い物語をいただいているのです。

一時区切って良い悪いと見えることでも、
ファミリーの外の人たちに公開したいと思っています。
公開しないとそこに疑問も湧きませんし、肯定も出来ません。
ただ、悪いと見えることも確かな手ごたえとしてあるからこそ、
それが私たちの次の歩みの糧になっているのです。

出来事に出会えば出会うほど、
私たちのデータ集積も進んでいきます。
確実に次のためのステップにつながっていきます。
新たな出会いから情報が与えられ続け、そうやってここ自体が育ってきました。

私たちは魂の存在です。
いつかは旅立っていくものです。
その時にこの世界が何だったのかを知るために、ここで生きているのです。
それが、この世界の価値観に一喜一憂しすぎると、
生死を越えたもっと大きな目的が見えなくなってしまいます。
生きていることの意味やこの世界がなぜあるのか、
ということをわかっている人は意外と少ないものです。
それは一生の探究です。

自然の世界を区切って見ると、
弱肉強食の世界がどこにでも展開されているように見えます。
しかし、自然の世界をつなげてみると善意と愛と調和で成り立っており、
全てのものがひとつらなりでこの世界に死はなく、
問題事が何一つない世界です。

この世界に悲惨だと言われる出来事は沢山あります。
平和な時代がもしあるとしたら、平和は争いの上に成立しています。
自然界では、常にいのちを連鎖してきた結果、
部分的に見ればいのちの奪い合いでもあるのです。

だから、物の捉え方を部分的に拡大して見ると、
良い悪いということも生まれてくるものです。
それをこの世界の新陳代謝のように捉えれば、
この世界に問題事は何一つないことになります。
もっと広い視野で物事を捉えたら、それが観えてくるものです。
逆に狭い視野しか持たないものが狭い視野で一喜一憂することによって、
狭い視野を広くするために育てられている、
と考えればそれも問題のないことになります。

私たちはありがたいところにいて、
この世界にいることに感謝して生きていくことで、
全ての出来事から学んでいくことが出来ます。
そして、最終的には万物の中にある一つとしてこの世界を構成しているのだとしたら、
実は「ありがたい」という感謝すら消えてしまうような、そういった世界にいます。
私たちは「ありがたいこと」すら、違和感のある世界にいるのです。

それがわかれば、問題事に一喜一憂する必要はありません。
一種の宇宙の新陳代謝のようなものですから。
そこのところに心が到達した人は、
「そういうことだね。ああ、やっと解放されたね」と捉えるでしょうし、
もっと先の心の世界もあるのです。
未だそこに至らない人にとってみたら、
現実の苦しみは避けて通れないことになります。

私たちはここで縁のある人々に情報提供しているだけであって、
今混乱が必要な人は混乱の中にいますし、
混乱が必要なくなれば自分で抜け出してくるものです。
そして、私たちは情報提供をしていると同時に、
私たち自身が感謝しながら学んでいます。
しかし、感謝するということは与えられている立場であり、
そこには区別があり、それすらも取り去って、
感謝すらいらない世界へ行こうとしています。

今後も色々なことが起きて、皆が一喜一憂していくことでしょう。
私たちは育てられ確実に進化しています。
そういった中で、私たちには想像出来ない大いなる目的があり、
この世界を旅しているということなんだろうと思います。

私たちは、いつでも問題事から抜け出せる。
そしてまた、新しい問題事に突き当たる。
それがこの世界です。

このカラクリがわかって世界が観えた時、
どんな出来事も楽しめるようになります。
そこでは問題事すら楽しめるという世界が待っているのです。
そこに、人間たちが存在する次の意味が隠されていると思います。
人生を大いなる存在と共に、
ゲームのように楽しんで学んでいきたいと思っています。


17年の人生でベスト3に入る良い時間

4月4日からうつ的な心を立て直すため、
ケア滞在していたあーちゃん(17歳)の卒業コンサートが昨日行われました。
あーちゃんの大好きな歌を2曲、
皆のためにとてもかわいらしい声で歌って踊ってくれた後、
こんな卒業のあいさつをしてくれました。

あーちゃん:
1ヶ月とちょっとここに滞在させてもらいました。
来た時はうつ病と言われていたのですが、
自分としてはその自覚が全然なくて、
自分は病気ではないと思っていたからここまで来られたと思っています
でもそれ以上に、ここの皆さんのあたたかさのおかげで良くなれたと思っています。

昔から両親の仲が悪くて、
自分は全然甘えられないし、甘えたくないというのもあったと思うんですが、
両親から愛をもらうということが無かったから、
ここに来て色々な人に愛されているんだという気持ちにやっとなれました。
心が安心して、ここまで元気になることが出来ました。

ここにケアで来ている人たちがどんどん良くなっていくのを見て嬉しくなったり、
人のことを思いやれる心も身に着いたと思っています。
今までは人に興味がなかったので、そういうところも変わったなと思って、
すごく感謝の気持ちでいっぱいです。
どうもありがとうございました。

麦が色づく頃にまた帰ってこようと思っています。

いさどん:
今日のあーちゃんの姿を見て、帰すのがもったいないなあーと(笑)。
家に帰ってまた学校へ行けなくなったら、いつでも戻っておいで(笑)。

あーちゃんを見ていて、どこか悪かったんだろうかと(一同爆笑)。
どうしてこういう子がうつ病になるんだろう、
なんで病気だったんだろうということを改めて思います。
お医者さんの見立てって何だろうなと思います。

あーちゃんは時々僕に甘えてくれて、
これは大いに役割として甘えさせてあげるのがいいと思い、やっていただけで、
何か特別彼女に対して治療的なことをしたことは全くなかったのですが、
結果こういう姿(明るくかわいく歌って踊ってくれました)を見せてもらい、
木の花ファミリー始まって以来、今日は歴史的な日でした(笑)。
感激で胸がいっぱいです!

ケアで来た人の卒業式には「おめでとう」「ありがとう」と言うのですが、
こんなふうに手放すのが惜しいなと思ったのは初めてです!
いつでも具合が悪くなったら帰ってきていいからね(笑)。

とりあえず、麦が実る頃には来るそうですから待っています。
というわけで、卒業おめでとうございます。
ありがとうございました。

みっちゃん(司会):
あーちゃんに対してコメントがある人はいますか?

きょうこちゃん:
あーちゃんは「世の中の役に立つ勉強がしたいの」と言っていて、
素晴らしいなと思いました。
今の歌もかわいかったよ!

のんちゃん:
来たばかりの頃は「食べることに興味がない」と言っていて、
「食べることが楽しくなったら、生きるのも楽しくなるかな?」と話していたのだけれど、
今は生きることを楽しんでいるなと思いました。
これからどんどん、楽しんでいっていほしいと思います。

ちなっぴ:
ミーティングが終わったある日、
「踊ってもいいですか?」とさっきの歌を披露してくれました。
「私一人だけで見るのはもったいない!」と思って今日歌ってもらいました。
衣装も色々な人から借りたものをコーディネートして、
前髪もさっき、ちーちゃんが切ってくれました。

今日、あーちゃんと一緒に山羊の乳しぼりをした後、
「私の大好きな場所を案内するわ」と麦畑に行ってきました。
二人で「綺麗だわ、綺麗だわ」とキャーキャー言って、
「今はグリーンで綺麗なんだけれど、これが黄金色になるとさらに綺麗なんだよ」
と言ったら、また来ると言っていました。

みっちゃん:
今度はぜひ、お父さんとお母さんも一緒に来られるといいね。
皆で待っています!

翌日、あーちゃんをお迎えに来たお母さんと
あーちゃん、いさどんの3人が話す場がもたれました。

いさどん:
昨日の卒業コンサートはとても良い時間でした。
あとは、本人の自覚と、その自覚の実行あるのみですね。
コツは、自分の世界に入り込まないことと、
人と無理に合わせようとしないでマイペースで行くことです。
逆行することのようですが、それを両立させないといけません。
人に合わせすぎてもいけないし、自分に入り込みすぎでもいけない。
でも、この1ヶ月で成果は出たと思います。

お母さん:
おかげさまでありがとうございました。
本当に元気になってくれて良かったです。

いさどん:
色々と心の学びもあって新しい世界も見たし、
ここでいい時間を過ごしたでしょ?

あーちゃん:
これまで17年間生きてきて色々と楽しいことがあったけれど、
ここで過ごした1ヶ月は17年の人生の中でベスト3に入る良い時間でした。

いさどん:
これからも、ここでの経験はあなたの人生に大きな影響を及ぼしていくよ。
自分が人に良い影響を与えられるということは大切です。
さらに、自分らしさは失わずに。

またヒントが欲しかったり、
だじゃれが聞きたくなったらいつでも帰っておいで!

ツꀀ

ツꀀ