「治療」としての情報提供~後編

今回のブログは、エリーといさどんの対談第2弾「『治療』としての情報提供」の後編です。

エリー:
個人的な質問ですが、私には「難治性うつ病」、
つまり、治癒するのが難しいうつ病という診断名がついていましたので、
精神的にハードな人格を生きてきたのだと思っていました。

しかし、ここに来た時に最初から「あなたは病気ではない」と色々な人から言われたことで、
非常に戸惑ったのを覚えています。
病気を治してもらいたくてここを訪れたわけですから、
病気ではなく性格の問題であるということを当時は理解することが出来ませんでした。

病気から抜け出した今ならわかることなのですが、
自分が病気だと信じ込んでいた時には「あなたは病気ではない」と言われたことが、
自分自身を否定されたような気がしていました。

いさどんは、病気というものをどう捉えているのでしょうか。
私は今まで病気というものをつくり上げ、病気の中に逃げ込んでいたのでしょうか。

いさどん:
病気の中に逃げ込んでいるというのも一つの捉え方です。
それはネガティブ、ポジティブで言うと、ネガティブな捉え方です。
「病気に逃げ込んでいる」という言い方に対して、
「病気の状態でいる必要があった」という表現もあるのです。

エリー:
ということは、言葉遊びになってしまうかもしれませんが、
それは病気であるということですか?

いさどん:
それを病気と言うのかそうでないのかは、捉え方によって大きく違います。
病的な捉え方がなくなれば、自動的に病気ではなくなるわけです。
私はそういった捉え方をしています。

エリーがここを訪れた時に、「この人は病的な状態である」という診断をしました。
しかし、病気であるかどうかというのは、捉え方によってはたちどころに病気でなくなるのです。
だから私は、これから病気がなくなるためにここに来ている人に、
「あなたは病気ではない」と伝えることがあります。
それは、今の状態の捉え方によって、どちらにでもなることだからです。

エリーの場合は、難治性うつ病ということですよね。
では、なぜうつ病に「難」までついているのかと言いますと、エリーは非常に優秀な方です。
その優秀な部分が難治性となっていたと僕は捉えました。

つまり、エリーのお話を聞いていればわかるのですが、
エリーは非常に思慮深く、物を深く捉えることが出来ます。
物を深く捉えることが出来るということは、
物を正しく捉えられるという点では大変重要なことですが、
難しく捉え過ぎてしまった時には深みにはまってしまいます。
それが難治性になっていたのだと思います。

それから、エリー自身が物事を捉える時に受身的な思考になります。
自分から物事に対して積極的に進めていくのではなく、
何かの作用を受けてそれに反応するというタイプです。

そういうタイプの人は健全な状態であれば、
物事を受けてからそれに対して必要なだけの反応を相手に返していくことが出来ます。
そうやって常に受け身の側で相手から出来事を受けて返す状態でいられればいいのですが、
そういった人が自分で何かをつくっていかなければならない状況になると、
その人の元々持っている性質以外のものを要求されるわけです。

これは、優秀である人がとかく陥りやすい状況です。
受けたものを返していく以上のことを要求され、
自分の中から何かをつくり上げ人に提供する側になった時に、無理が発生します。

つまり、この世界には役割分担として、
リーダー的な役割の人とアシスタント的な役割の人がいるとします。
リーダーが指示を出し、アシスタント的な人がそれを受けて
具体的な行動をすることにより事が成っていくとしたら、
それは優劣ではなく、その両方がないと一つの事が成り立っていきません。

そうすると、エリーはアシスタント的な役割を持っている人です。
その人が優秀であるがために、リーダーの役割や、
その両方をしなければならない立場に立った時に無理が発生したということです。
そこではバランスを欠いた状態になっています。

そういう場合は、自分にふさわしい役割に徹することが出来る環境と、
自分の役割に対する自覚を持てば、安定した状態を保つことが出来ます。
しかし、エリーは優秀ですから、まわりがそういったことを要求する環境にいましたし、
自分に合わないところで発想や行動が求められてきた、ということだと思います。

そのように求められると、エリーの場合はNOと言えません。
「それを受けてやらなければならない、~ねばならない」という発想になり、
それに常に応えようとする心が湧いてきます。
これも受身の人の特徴です。
わかりやすく言えば、「ええかっこしい」ということです。

受身ではなく、自分を積極的に表現する人はNOと言うことが出来ます。
しかし、NOと言えず、一生懸命それに応えようとするところに
そういったタイプの生真面目さが現れています。
そして、生真面目なエリーが色々なことを受ければ受けるほど、
それをやらなければいけない状況に自分を追いやってしまいます。

そのうちにエリーの中には、元々自分がやっていたはずなのに、
「私は何でこんな要求を受けないといけないのだろうか。誰のためにやっているのだろうか」と、
知らない間に人に圧力をかけられて
人のためにやっているという思考が生まれてくることになるのです。

そういったことは優秀であるがために起きてきます。
応えられなければ相手はそういったことを求めませんし、
自分も応えることが出来なければ、もっと早いうちにパンクして応えなくなります。
応えられるがゆえに、その連鎖が起き、
それが知らない間に被害妄想的になり、トラウマになっていきます。

これを紐解いていけば、「そういうことだったのか」という簡単な話です。
しかし、ずっとそういった連鎖が続いていくと、収集のつかない精神状態になっていきます。

私が先程から言っている情報提供と分析、
そこから自分を知ることによって、問題事から自分を解放していくことが出来ます。
こうやって私とエリーは対談していますよね。
私が情報提供をすることによって、
エリーは「なるほど、そういうことだったのか」と笑いながら聞いています。

深刻な状態にいる人は、こういったことを理解するのは難しいものですが、
こうやって客観的な情報として捉えれば、
自分のことすら笑えてしまうような状態になっていきます。

エリー:
大学時代に所属していた研究会の指導司祭が、私を呼び、
「あなたは今後、絶対にえらくなってはいけません」とおっしゃったんですよ。
私は自分がえらくなるために大学に行っていたわけではないし、
「なぜこの人はこんなことを言うのだろう」と、ずっとわからなかったんですね。
えらくなるという意味もよくわかっていませんでしたし、
それ以来気にもしていませんでしたが、ここに来てから時々思い出すことがありました。

自分の身の丈に合わないところに自分が知らない間に追いやられてしまう、
というある意味危機的な状態を神父様は感じたのでしょうか。
当時は私も若い娘でしたので、歌ったり踊ったりということが大好きで、
先輩を集めてテレビのコマーシャルソングに合わせて歌ったり踊ったりして遊んでいたんですよ。

だから、「なぜお馬鹿キャラをしている自分が、
そういうことを言われないといけないんだろう」と思っていました。
ただ、神父様がすごく深刻にきつい顔をされておっしゃっていたのが印象的でした。

いさどん:
深刻できつい顔をしておっしゃったということは、
きっと何か確信めいたものを感じられたということなのでしょうが、
私は深刻できつい顔はしないで同じことを思っています。
エリーがえらくなってはいけないと私も思うんです。

ただ、「えらく」というのは「立派」という意味もありますが、
これは方言かもしれませんが、えらいというのは「辛い」という意味もあるんですね。
辛い立場、つまり責任を負うリーダー的立場ですね。
そういう意味でのえらくなってはいけないというその両面があります。

そうすると、その人の人間性や魂の形によって役割分担、適材適所のポジションがあるとしたら、
エリーはどちらかと言うと、リーダー的立場よりも
サブリーダー的立場の方が自分をより発揮出来る人です。

しかし、逆にえらくなることによってそれを知るということも大切です。
つまり、サブリーダーのところにずっといたら、
そうでない立場に立った時の問題点を体験出来ませんから、
全体像を捉えるための表現をすることが出来なくなってしまいます。

だから、えらくなる立場に立ってはいけない人が、敢えてえらくなることによって、
「自分に合わないところに立つということは、どういうことなのか」
ということを理解することが出来るのです。

この場合、えらくならないということは、精神医学上では健全ということになりますが、
そういう人が敢えてえらくなることによって、
その人の人格的全体像を知るという意味ではえらくなる必要もあった、と私は捉えます。

だから、私はエリーの今までの歩みは正解だと思っています。
神父さんが言われた「えらくなってはいけない」というのは、
エリー個人の安定した精神状態を考えた時の話です。
エリー個人に貢献するという意味では必要だったと思います。

いみじくもその懸念された方へエリーは歩んできたわけです。
その結果、えらくなってしまって、その辛さや問題点を知りました。
今現在もこうやって話しながら、エリーの中にネガティブな発想が所々出てきますよね。
そのことによって、今話しているような全体像や社会の仕組み、
人の心の状態を捉えられる立場にいるのです。

そして今、こうやって対談をしていることが、
これから私たちが行おうとしている元にもなっていきます。
これは、そういう立場に立ったからこそ与えられていることであり、評価出来ることでもあるわけです。
敢えて自分に合わないところに行ったからこそ、わかったことです。
しかし、敢えて合わないところへ行ってわかったとしても、
皆が耳を傾け、誰もがわかるわけではありません。

そうすると、エリーのように、
そういったことを社会に伝えられるような立場にいる人が表現していくということは、
とても大切な役割だと捉えています。

エリーが難治性うつ病だったというところに話を戻しますと、
簡単に治ってしまっていたら、
エリーにとってうつ病をより深く知るということが出来なかったと思います。
難しかったからこそ、大変だったからこそ、
そしてエリーの特性である深く深くものを考えてきたからこそ、
今この場所まで来ているのだと思います。

そのように捉えたら全ては必要であったということです。
難しく深くネガティブに捉えられるエリーがいて、
それも常に受け身で、しまいには被害妄想的になって捉えていったからこそ(エリー笑)、
この事例に対してこのように考えられ、分析出来、それを表現出来るまでに至りました。

僕流にこれを捉えると、
「神様はこのくらい緻密で、心憎いくらいの配慮を持って、
私たちに知恵を与えて下さっている。育てて下さっている。
それも病気という、人間からしたら一見苦痛のように思えるようなことにまで配慮して、
私たちに奥深さを与えて下さっている」ということになります。
いかにありがたい世界に私たちは生きているのか、と考えています。

そういったことを心理学的にも科学的にも捉えることが出来ます。
科学的に捉えても、実際に難治性うつ病がここで治ったんです。
今、エリーにうつ病という状態は全くありませんよね。
それが一般の医療や大学の研究室では「難治性」ということなんです。
医療現場で捉えられているのは、難治性うつ病という病気なんです。

でも、私はエリーの状態を見て、それを病気の症状ではなく、
「人格的な表現から来た現象」と捉えています。
だから、これは心理学と言えば心理学ですが、数学のようなものでもあるのです。
足していった結果、引き過ぎた結果、掛け過ぎて拡大し過ぎた結果、
割り過ぎて縮小し過ぎた結果といったものです。
これは科学的、数学的と言ってもいいですし、物理的と言うことも出来ます。
実際に、18歳の頃は健康で明るくにこにこ笑っていた少女が、
えらい人になって難治性うつ病という負のスパイラルの中に入っていくわけです。

どのように捉えてもいいのですが、これには全て理由があって事が起きています。
その理由というのは、因果の法則から言えば、原因と結果の連鎖です。
その原因と結果の連鎖の先には目的があり、
病気の元が何であるのか、生きている目的は何であるのか、
そういった人が沢山いるこの社会の目的は何であるのか、
そして、この世界の目的は何であるのかというところに気づき、行き着くのだと思います。

だから、病気というものは、病気であると捉えた時に誰でも病気なんです。
健康食品を求め、毎日散歩をし、日々をバランス良く生活していかなければと考えた時に、
それもある種の「健康病」という病気じゃないですか。

それは、情報の連鎖から来ている現象にしかすぎません。
今のその人の魂、心を表現している現象だとすれば、それは単なる情報です。
現象というものは、次から次へと移り変わるものです。
ですから、「敢えて自分は病気的現象を楽しもう」という心になれば、
大いにその現象を楽しみ、表現すればいいことです。
それを楽しむために、情報として現象があるのです。

ただ、楽しんでいると、たちどころに病気ではなくなってしまいます。
逆に、苦痛が好きな人もいますから、魂が望むならそれをすればいいことです。
それも、いつかそこから抜け出すためには有益なことなのです。
どんな出来事もエネルギーの消費ですから、消費し尽せば消えていきます。
その時にありがとうという感謝の念が全てに表われてくるものです。

これはあまり良い方法ではないのですが、
ちょっと指に怪我をした。痛くて仕方がない。
それが辛くて仕方がない人には、もっと深刻な問題を与えればいいのです。
もっと大変な心配事を他につくってしまえば、そんな痛みは忘れてしまいます。

だから、いつでもそこから抜け出せる状態に私たちはいるということです。
私たちはそういう自由な世界にいます。
敢えて今、自分が心の目線をそこに集中し、
そこに目を向けないといけない状態にいる、それを見せてもらっている、
自分が望んでそれをしているとしたら、「もう、やめた」と思えばいつでもやめることが出来ます。
うつ病はそういうものだと思っています。

ここでうつ病が治るのは、その気づきを提供しているからです。
つまり、当事者が「自分は今こういう状態です」と言った時に、
「こういうふうに考えたらどうですか?
こういうふうに捉えたら楽じゃないですか?」とこちらが提案します。
こうやって、薬に頼らず、
代替案で薬を飲んでいた時と同じ安定した状態を保っていければ、
自然に薬が要らなくなります。
そうやって病気が治っていった、ということがエリーにも起きたのです。

薬の代わりにここの音楽であったり、ここの幼児たちとの接点であったり、
私との話やだじゃれであったり、笑いですよね。
そういったことが、ここにケアで滞在している人たちの回復に役立っているのだろうと思っています。

どの人にもそれをやりなさいといったら難しいかもしれませんが、
そういった捉え方は誰でも出来るはずです。
そうすると、治療する側とされる側という区別も必要なくなってきますし、
病気というもの自体がいつでも抜け出せる状態だということです。
これは精神的な疾患だけではなく、物理的な病気についても同じです。

例えば、糖尿病は生活習慣病です。
偏った生活習慣がなぜ起きたのかと言えば、その偏りはストレスから来ていると考えられます。
そのストレスの原因さえ取り除けば、アンバランスが消えて生活習慣も健全になっていきます。
「病気」という「気が病む」という状態から、自然の中にある元通りのバランスに戻り、
健全なる精神に健全なる肉体が宿るのですから、
心のバランスを正してやれば思考も肉体もバランスの良い状態になります。
元通りの気の状態、すなわち「元気」になるのです。

この世界は陰陽で出来ており、その陰や陽をネガティブやポジティブと捉えると、
問題事と良いことがあると捉えられますが、
双方が支え合ってこの世界をつくっているのです。
だからこそ、病気というのは大切です。良いことなんです。

ただ、病気を病気のままにしておくから問題事になるのであり、
病気の奥にはその病気を起こしている目的があるのです。
病気は陰でマイナスですが、その目的を知り、
「ここからこういうことを得られた」と捉えるとプラスに転じます。
ただ、その時に目的だけではわかりません。
病気が起こった原因と結果、現象と目的となってこの世界の仕組みが示されています。

そこで僕流の発想をすると、
「神様はそうやってこの世界をつくり、人を置いて、動かしておられる」ということです。
この世界はどんなこともありがたい世界です。

エリー:
私は小さい頃から、「理解力はあるけれど表現力はない」と言われていました。
それでいつも誤解されてきたというか。
今思えば、自分が理解していることを表現する力を磨くために勉強してきた、と思っています。

いさどん:
そうですね。それがバランスです。
だから、理解した分だけ表現することによって、自分に身につきますし、本物になるんですよ。
ところが、理解したことを表現出来ていない状態というのは、自分の中に鬱積した状態です。
それは、自分をもっと外に出したいという心から「出来ない」という心をつくってしまい、
自分を行き詰まらせる原因にもなります。

今の話を聞くと、エリーがうつ的になったのはよく理解出来ますし、
ある意味予定通りということです。
蓋を開けてみれば、「何だ、そういうことか」ということなのですが、
それが結構長かったですよね(エリー笑)。
でも、その長かった期間というのは、長い間病気でいたからこそ、
それをこれから表現して社会に大事として役立てていくということでもあるのです。

病気や色々な出来事の奥に大きな目的がある。
そこをこれからは見ていく時代なのでしょうね。
単に区切って病気を捉える、区切って現象を捉えるということではなく、
そういった奥にそれを表わしている目的を見ていく時代です。
それは今の人類が抱えている全ての問題に対して言えることです。

それを、神様の意志を知ることだと捉えています。
なぜこの世界がつくられているのか、
なぜあなたがここにいるのか、その目的を知るということです。
そこで初めて、宗教や学問、医療などのさまざまなことがつながり、
この世界がある目的というところにつながっていくのではないかと思います。


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