東京在住ファミリーメンバーのさのっちからいさどんに質問です。
「心のくせのままに生きていると言われますが、自分では精一杯心を磨いているつもりです。では、具体的に何をどうすればいいかアドバイスを下さい。」
今日は、そんなさのっちに代わってメンバーのようこが、いさどんにインタビューします。
いさどん:
まず、この答えに対しては、『具体的に何をどうすればいいかアドバイスを下さい』というところに、その人の人間性が出てるんだよね。つまり、『アドバイスを下さい』ということは、自分が人に何かを求めているということで、本来、その人にしか気づけない、見つけられないという仕組みの中で、この世界に生まれてるってのが正解。だから、一人ひとりが自分の中で気づきを得ていくっていうこと。そのためには、『自分では精一杯心を磨いているつもりです』っていうところに答えがあって、いるつもりをしているだけで、その人は精一杯生きてない。本当に真剣に、精一杯生ききったならば、必ず気づきがあって、そして答えは出る。
もうひとつ。くせというのは、個性の変化したもので、自分の中にある個性が自分の意識、コントロールをはなれて、勝手に出てきてしまったのがくせである。『あ、出てきてしまった』と思うことや、ひとから『こういうところがあるね』って言われたこと。それからもっと言うと、そこから害が起きてしまって、こんなことをやってしまったということ。それが何度も繰り返し続くのがくせの状態。大切なのは、くせが出てきたときに、それが自分の中にあることを否定するのではなく、自分の中にそういった部分があるということをしっかり認める。そして、しっかり認めた上で、次に出てくるときにコントロールする。
“くせの出方6段活用”というのがあって、
①くせが出てしまった、そして問題が起きてしまった、でもそのことにいつまでも気づかない人。これが一番重症。
②くせが出てしまった、問題が起きてしまった。そこで気づく人。
③くせが出てしまった、問題が起きてしまった。自分がそのことに悩んでる。困ったと自分で思ってる。
④くせが出てしまった、その時点で問題が起きる前に気づいた。で、問題は起きなかった。
⑤自分のくせを思った。自分の中にくせが湧いてきたときに自分で気づいた。それで、そのくせが出る前に自分でとめた。
⑥自分の中にくせがある。そのくせを必要な時に必要な形で活かした。
最後の段階が一番高いレベルで、自分の中にあるくせを捨てることはないということ。それは大事な個性だから。そうすると、一番最後の方法が一番有効なくせの使い方で、その場合、くせが個性となって活かすことができる。そうやって、くせというものを個性に変えて自己コントロールする。
さのっちの場合、『くせのままに生きていると言われる』っていうことは、自分には問題があるということを人に言われているんだから、ひょっとすると②の段階。自分のくせに気づいてはいるんだけれど、人のアドバイスがないとわからない。
もうひとつは、自分を客観的に判断するということから言うと、自分との距離が近すぎて、自分を観察できてないという状態。くせっていうのはどれも概ね同じような形で出てくるケースが多いものだから、ひとつ自分のくせの出方の方程式を見つければ、あとはどれにも応用できる。それを自分の中で整理して、まずその方程式を確立する。それから、一つ一つのくせにあてはめる。そして自己観察をする。観察をしたあと、自己コントロールをする。
具体的なアドバイスというのはありません。それは、具体的なことは個々のケースだから、数がありすぎてできません。だから、今のような方法を通して、毎日の中で自己観察を心がけること。この場合、今まで自分ができてなかったこと、自分が見ることができなかった自分の部分であるから、これができるようになると、非常に面白い。楽しい。
そして、こういった形で自分を見ない人は、自分の問題部分というふうに、このくせを考えてしまって避けてしまう。人に言われると不愉快に感じてしまう。でも、自分でそれが見えてくると、楽しくなり、生きがいにもなる。その楽しみを見つけて積極的にやって下さい。はい、アドバイス終わりです。
ようこ:
今いさどんが言った方程式を日常生活の中で実践すれば、さのっちのくせも個性として活かされるね。
いさどん:
さのっちのくせは、移り気でありながら新しいことに対する恐怖があるということ。これがくせとして出ると、気持ちに持続性がなく心にばらつきがあって、一つのことを完結していないのに、他のことに気持ちがいってしまう。恐怖ということに対しては、新たなものに対して、自分の中で勝手に恐怖のイメージをつくってしまい、実際の対象の実態を把握するのに、余分なエネルギーを使ってしまう。さのっちのくせが個性として活かされた場合は、移り気が好奇心旺盛に、恐怖が慎重さ、確実性、効率性として活かすことができる。あとは、慎重さがないわりに好奇心が強いから、積極的に行動してしまって、自分を客観的に見てないがために、あとでまわりから指摘を受けたり、まわりから高い評価を受けたいという心から、非難されたときに自分のイメージが落ちるので、それに対して怒りを感じたり、抵抗してしまうというくせがある。
ようこ:
さのっちがよく、『自分をわかってもらえない』と言うのは、そういう心から出ているんだね。
いさどん:
『自分をわかってもらえない』というのは、自分が思っているイメージ通りに相手が評価してくれないってことなんだけれど、実は相手の方が正しく自分を見ているのであって、自分はこう見てもらいたいっていうイメージで自分を見ているから。わかっていないのが自分であることに、相手の評価から気づくのが正解で、だけれども、この場合に、人を見る目がない人が言っていることもあるから、だからこそ、自分自身で客観的に自分をとらえることが大切。自分というものの判断がしっかりできている人は、相手から言われたことに対して受け取るべきことと、反対に、相手に対して伝えるということのコントロールができるようになる。自分が客観的な目を持っていないと、相手から受け取らなければいけないときに、怒りをもって相手にぶつけてしまったり、相手の問題であるのに自分が全てを受けてしまって相手のためにならない。
ようこ:
今のことが実践できていれば、東京で離れて暮らしていても心を磨けるね。
いさどん:
それはもちろんで、人間は肉体をいただいて、この人生という期間の中で生きてる。ということは、肉体をいただいて生きている場所は地球の上です。この場所で我々は自分自身を学ぶ、そういう機会を誰しもがもらっている。地球上が学ぶ場所であって、地球上すべてが聖地、修行の場であるから、場所はどこでもいい。だから1か所を聖地とするのは、これからはやめなければいけない。地球自身がこの宇宙の中で特別な存在で、他に見つけることができない特別な場所である。そして、人間という形で成立していること自体が、他の生命と比べたら、特別中の特別の姿をしているのだから、地球の上、人間であるというだけで、どこでも自分がそのことに気づけば修行になり、自分を高めることができ、そして他のものの役にたつことができる。
ようこ:
そしてそれは一人でもできるっていうことでいいのかな?大勢の中でじゃないと難しいと思う人もいるかもしれないけれど。
いさどん:
この世界に、一人でいる人間がいるのか、ということを考えると、人間は集団で生きている生き物だから、一人で生きている人はいない。とすれば、どんなに縁が薄いと思っている身近な存在でも、薄いという縁をもらって、その人が学ばなければいけない出来事は常にまわりにある。出会う人が多い人は当然同じであって、もっといえば、この世界で誰も出会う人がいない人がいるかもしれない。南海の孤島かなんかで。もしくは、積極的に山の奥地に行って、修行者のように一人で暮らしてたという人がいたとしても、そこでは実は、自分というものとつきあっている。自分の心の中には、真実の部分と、取りさるべき垢の部分がいて、これは一人とは言えないかもしれない。もっといえば、この世界という、自分であって自分でない、この世界というものとつきあう、わかりやすく言えば、神様と自分、宇宙と自分という必ず対比させる存在と自分がつきあってるわけだから、一人で存在する人間はいない。だから、どんな孤独な人も一人じゃないから。そして、自分をそこで見つけていくと、生きがいというのがうまれて、孤独で辛いという人はいないはずなんだ。
ようこ:
ただ、こういった心磨きは、同じ志を持つ人と一緒にする方が楽というのはあるのかな?
いさどん:
それは当然で、例えば恋人やパートナーを見つける。その以前に、親をもらう。兄弟をもらう。そうやって家族をもらう。それだけではなく、我々は仕事とか学校とかいろいろな形で、パートナーシップをもらう。それは自分対誰かということで、いろんなテーマに基づいてパートナーシップをもらって生きている。だから、無限な学びの場をもらっているのであって、それは学ぼうと思えば、無限な学びができるチャンスを我々は与えられている。そのことに気づかないと、自分は学ぶチャンスを、学ぶ相手をもらっていないと思ってしまう。それはたくさんあるのにそのことに気づいていないからであって、一度気づけば、この学びの水の中に浸かっているようなもの。こんなにどっぷり浸かっているのになぜ気づかないの?という状態で、本来は気づかない方がおかしい。だけれども、自分に対して興味がありすぎたり、我々は肉体をもらっているから、この物理的な刺激のほうに興味を持ちすぎると、そのことに気づかない。ちょっと客観的にいろんな出来事に疑問を持ったときに、それはものすごい緻密な中に我々は入れられていて、もう完全にこの世界のつけものになっている。この世界の、というよりも、神様の意志のつけものになっている状態なんだ。ということは、我々自身が神の働きの中にいるってことは、我々自身が神そのものであるということ。我々がいつでも神の側に立って物を考えることもできれば、いつでもその強烈な緻密な世界に浸かっていることから離れて、孤独になったり、自分自身しか見えないことにもなる。自分の持っている個性すら、コントロールできない状態で生きることもできるという。さて、人間はどれほどの気づきをしているのか、気づいていないのかってことを、自分に置き換えて考えてみたらいいと思う。
ようこ:
やっぱり最後には、神様の話で締めますね。
いさどん:
それは、すべての想念、すべての現象は、この世界の中にいるんだから、この世界の仕組みから外れて語ることはできない。だから、どんなことから語っても、どんな想いを馳せても、そこから外れて存在するものはない。見事に神は、人それぞれ本当にその人にふさわしく与えてくれている。これほどぴったり与えてくれている。それが人生だから。わからないときにはわかりやすいところへ、高度になったらどこからも学んでいけばいい。どれほど愛されて、どれほど配慮されて自分が存在しているかということ。そのことに気づいたら、毎日幸せで幸せで仕方がないということですね。