「血液」からこの世界を探求していく~献血・輸血編~

タイから木の花ファミリーの暮らしのあり方を学びに来ている高校生のマインちゃんとナッちゃんに対して、身近な「食」を切り口として世界観を広げるプレゼンテーションが行われてきました。その最終回のプレゼンテーションが終わったところで、マインちゃんから献血について、いさどんに質問がありました。

 

マインちゃん:
日本では献血をしますか?

いさどん:
本来、一人ひとりの魂は独立したものです。ですから、一人ひとりの生命の性質を示す血液も、霊的には独立した存在です。つまり、親子兄弟といった血縁は関係なく、血液は独立したものと言えるのです。

たとえば体の臓器を移植することは可能ですが、マインちゃんの心とナッちゃんの心を混ぜることはできないでしょう?ですから、心臓という心の臓器は血液を通して栄養を運んでいるだけではなく、心も運び、わたしたちの体をひとつのネットワークとして束ねているのです。血液は、心の通り道ですからね。それは、太陽系の太陽磁場が星々を連携させ、束ねているのと同じ構造です。ですから本来、血液は交ぜてはいけないものなのです。

今は日本でも医療が進み、輸血をするようになりましたが、そういった行為は霊的には混乱をもたらすものです。ただ、近代的な技術を使って輸血をしても、血液もいずれ循環して変わっていくでしょう?たとえば血液がすべて入れ替わるのに4ヶ月かかると言われていますが、その間は霊的には混乱が生じるということです。ですから、血液はなるべく交ぜないほうがいいのです。

マインちゃん:
では、輸血をしないほうがいいということですか?

いさどん:
輸血をするということは、すでに輸血をしなければいけない状態に自分が人生の中で出会ったということです。そのような状態に出会わない人生を生きていくことが、大切なのです。そのために、美しい心で生きることのほうが大切ですね。

人は「死にたくない」という心があると、生きるために何でもしたくなるものです。しかし、覚悟があると、「いのちはいただいたものですから、わたしは充実した人生を生き、いつでもお返しできます」という心になり、輸血などに頼らなくても、寿命があればいのちは復活します。しかし、そういった心がなければ、ただ生きたいばかりですから、輸血でも何でも手段を選びません。その心は汚れたものです。

輸血の技術がないときには、人々は覚悟を持っていのちを返してきました。そういった意味では、今の人間の心が死に対して潔くなくなったのは、輸血に限らず、他の医療技術に対しても依存するようになったからです。それで、日々を真剣に生きなくなったのです。日々を真剣に生き、自らの心を磨いていれば、毎日が充実しているので、いつ死んでもいいという心になるものです。

科学やテクノロジーの進化が進み、人々の生活が豊かになっていくにしたがって、人々の心はそういった物理的な豊かさを求めることを優先してきました。そして、物事の本質を捉え、生きていることの意味を見失い、一方的に延命することだけを求めるようになりました。

本来、わたしたちが肉体をいただき生きていることの意味は、物理的なものに惑わされることなく、自らの霊的な意識の高まりを目指し、霊的な世界から生まれ霊的な世界へ還っていくことを悟り、そしてこの世界へ生み出された目的を達成することです。

ですから、現代人のようにそういったことを忘れ、物理的なことを優先する意識が強くなれば、社会にも混乱が生じるのです。

わたしたち生命は皆、いずれに死に至る約束のもとに生きています。ですから、死に到達するという絶対なる約束事のもとに、日々を生きていくことが大切なのです。

輸血をしないということは、いのちに対して覚悟がひとつ余分にあるということです。本来、人は肉体という物理的な存在ではなく、霊的な存在です。死んだ先の世界にいのちをつなげて捉えていれば、死は恐ろしいものではないのです。魂は一人ひとりオリジナルであると考えられます。以前、血液は汚れているものを回収してろ過する経路だという話をしましたね。血液は心の運び道ですから、他の血を取ると霊的にも血液は汚れていくのです。

近代医療のテクノロジーが優れていて、生きることに対して恩恵をもらえるとしたら、いのちが永らえるということです。しかしそれは、輸血によって他の霊的・物理的汚れを自分に取り入れることでもあるのです。僕は、そういった行為を否定しているのではありません。

大切なことは、そういった仕組みを知り、自らの心を綺麗にしていくことです。そして、生活も綺麗にして、血液を浄化していけば、常に美しい人で生きられるということです。

ワンちゃん:
今、タイでは献血のキャンペーンを行っています。それは、「献血によっていのちを助けましょう」という活動です。

いさどん:
それは、いのちの質や人生の質を問わず、ただ永らえることだけが大切だという現代医療の考え方です。ですから、そうした考え方が進めば進むほど、混乱した社会が広がっていくのです。

ワンちゃん:
今まで、献血は良いことだと思っていました。

いさどん:
それは、表面的ないのちの捉え方なのですよ。

それよりも、いのちに対して覚悟を持ち、潔く爽やかな人生を生きることは、その人の人生が健やかで、それこそ神人(天人)が地上を生きるというようなことにつながります。これは新たな時代を生きる人々の考え方です。

ワンちゃん:
タイで献血のキャンペーンを行うとき、「これは他の人たちのいのちを永らえるために、あなたが出来る最善の行為です」ということで広まっています。

いさどん:
それは、現代的な浅い医療の考え方です。それでは、問題事は根本的に解決せず、医療行為がどんどん広がっていくことになります。

ワンちゃん:
ただ、わたしは低血圧で献血ができません。だから、それを喜びとすべきですね。

いさどん:
あなたが低血圧だとしたら、それを喜びとする部分とそうでない部分があります。その低血圧はあなたの心の現れなのです。その状態を改善するためにまずは心の持ち方を改めると、食生活が変わり、生活が変わり、あなたは低血圧ではない健全な状態になるのです。ですから、低血圧であることは喜びにはつながりません。

ワンちゃん:
タイにも血圧を上げるような食養生プログラムがあります。

いさどん:
それは体の健康のためにやるのではなく、心のバランスを取るためにやるべきですね。健康は心のバランスの現れなのです。「健康になろう!」と思って取り組んだ結果、心が不健全なのに体だけ健康になったら、別の意味で人生に問題をもたらします。ですから、常に自分と向き合って生きることが大切です。いろいろな滞りは自らの心の実態を見せてくれているのですから、そこから逃げないことです。それはある意味、出家者の心構えのようですが、今、お坊さんたちでもそこまではやっていませんね(笑)。

ナッちゃん:
今、わたしたちの精神は健康ではありません。ですから、多くの人たちが異なる病気を抱え、不健康な状態でいます。そこで、どのようにしてその病気の原因を知り、どのようにその状態を改善していったらいいのでしょうか?

いさどん:
まず、人間の不健康は地球の病気です。それは社会が病んでいるとも言えます。病気になった人のことをかわいそうだと思いませんか?ところが実際は、病気になった人は世の中に問題をもたらしている人なのです。

世の中に問題があると、喜ぶ人がいるのです。生きることに不安な人がいると、喜ぶ人がいます。それは保険屋さんです。人が争うと、喜ぶ人がいます。それは弁護士です。裁判官も、人が争うことによって自らの仕事が充実します。人が欲深くなって不要なものまで欲しがるようになると、喜ぶ人がいます。それは物を作る人です。病人が増えると、喜ぶ人がいます。それは、その人たちによって支えられている製薬会社や医者です。ですから、この世界は、混乱や問題事で成り立っているのです。

ナッちゃん:
いさどんは、皆それぞれオリジナルな魂を持っていると言いましたが、科学は血液型をいくつかに分類しています。それはどういうことなのでしょうか?

いさどん:
血液型はとても大まかな人の性質の傾向を示していますが、それは環境、時代など一人ひとり様々な要因が違うので、同じ血液型の人でも厳密に言えば違う人なのです。心の臓器から送られる血液はいのちの通り道であり、血液自体はまさに霊的なものなのです。ですから、血液型でもその霊的なものが分類できるのです。輸血が始まった頃は、血液型の分類がない時代でしたから、そうしたことに構わず他人の血を入れていました。そこから科学によって血液が分析され、その違いがわかるようになり、一人ひとりがオリジナルな存在であることが観えてきたのです。ですから、最終的には血液は交ぜてはいけないというところに到達するのです。血液型で人格を観る場合も、大まかな傾向は観えますが、それを厳密に観ていくと、最終的には一人ひとりがオリジナルであることに行き着くのです。

今の医療は人のいのちを生かすことばかりを優先していますが、死ぬことの大切さがあるのです。長く生きてとても見苦しい人生よりも、短くても美しく素晴らしい人生がありますよね。人々が医療に頼って長生きしようと思うようになったのは、人々が自らと向き合わなくても、医療がいのちを救ってしまうようになってしまったからです。

大切なことは、病気に限らず、どのような問題事に出会ったときも、それに出会った自分を振り返り、その原因を突き止めることです。ある意味医療は、病気という自分が出会った問題事から振り返るチャンスを、人々から奪ってしまったのです。それは、医療自体が本来の目的から外れ、お金儲けのためにまわるようになってしまったからです。ですからその行為は、人間が生まれてきた目的を奪ってしまうようなことでもあるのです。

人間は生まれてからいろいろな出来事に出会い、その出来事から自らの実態を知って、そして高まっていくために生きています。そして高まった結果、執着を一切持たず、自らの霊的な価値を持って旅立っていくのです。それが生きることの本当の目的です。

そういったことがわかると、一人ひとりが生活の中で出会う出来事だけで学び、成長することができるのです。そうすると、宗教も指導者もいらなくなるのです。そういった時代の扉が今、開いたのです。

ナッちゃん:
今の学校に入る前、将来わたしは大学に進学して心理学を学ぼうと思っていました。それは、心理学者になって精神的な病を持つ人々を助けたいと思っていたからです。ですから、自分と向き合って自らを改善していくために、心理学ではふたつの方法で患者を助けることができます。ひとつは患者の問題をしっかり聴き、導く方法です。もうひとつは薬を処方して、たとえば夜眠れるように睡眠薬を、一般社会で普通に機能できるような薬を処方するという方法です。人気のある学部について調べてみると、以前は医学部、工学部、文学部、商業芸術学部などが人気がありましたが、現在は心理学部が人気があります。わたしが思うに、それは人々を助けるために心理学者になりたいのではなく、心理学者になると良い収入を得られるからです。

また、タイの国王は満ち足りた経済を提唱しようとしています。満ち足りた経済を理解するためには、まずどのような状態が満ち足りているのかを知ることだと言われています。それは、衣食住において足るを知るということです。しかし、わたしたちの教育センターに満ち足りた経済について学びに来る人々は、何が足りている状態なのかを理解する心の状態にはありません。彼らはただ欲が深く、お金儲けのために何かを学び、自給自足しようとしているのです。わたしはそういった状況に対して、嬉しくありません。

いさどん:
それは、あなたの中に時代を先取りした想いが湧いているということです。今、時代は欲ばかりかけて生きていると、必ず行き詰まるようになっています。今、拡大・発展の時代から、不要なものをそぎ落とし、必要なものだけを選ぶ時代に入りました。それは物理的なものだけではなく、心も同じ流れです。ですから、あなたが考えていることは次の時代のことなのです。そのままその考えを進めていけば、あなたは世の中が必要なことをやっていることがわかってきます。それは、木の花ファミリーが実践していることであり、心理学の先を行くことなのです。

あなたはこれから一生懸命英語を勉強して、来年の2月に開催される「1ヶ月間の真学校」を受けるといいですよ♪そうしたら、医療や心理学を超えた世界をマスターできます。また会いましょう♪

 

瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?
瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?

 


「血液」からこの世界を探求していく~宇宙の仕組み編~

タイの代替教育学校の高校生である、ナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃんは5月27日より3ヶ月間、木の花ファミリーに滞在しています。世界観を広げるプログラムの一環として、身近にある「食」について深めていく時間が4回にわたって持たれました。その最終回では、「霊的な進化」というテーマから、この世界の「血液」について深く探求していく時間が持たれました。
(写真右より、ナッちゃん、マインちゃん、ワンちゃんです。)
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いさどん:
英語でも心臓のことを「心の臓器」とは言いますか?

ようこ:
心臓は英語でハート(heart)と言います。

いさどん:
ハートというのは心もハートですね?

ようこ:
英語では心も心臓も同じハートという単語が使われます。

いさどん:
同じなのですね。タイ語では心臓は何と言いますか?

ワンちゃん:
心は「チッウィンヤン」と言って、心臓は「ワチャイ」と言います。心臓の「ワチャイ」という言葉は心と関係しています。

いさどん:
ということは、日本語でもタイ語でも、心と心臓のどちらも、「心」が関係しているということですね。英語でもこの二つは共通しています。

心臓は臓器の中心という意味でもあり、それが体の隅々まで血液を送り体が運営されています。これは地球も太陽系も宇宙も同じ構造なのです。太陽系でいうと、太陽は心臓の役割をしています。ですから、太陽が何を発するかによって、その指令を受けて他の星たちがどう動くのが決まるのです。そのようにして太陽系は成り立っています。

わたしたちの体でも、例えば感情が高ぶれば心臓がドクドクしますね。ですから、わたしたちの感情が高ぶったり冷静であることによって、心臓に指令が行き、血液をどのように送るのかによって、わたしたちの行動が変わってくるのです。偏った食生活や偏った心によって血液を悪いものにし、心臓に負担をかけることは、その人の生命を汚染することであり、人生を間違った方向に持っていくことになるのです。

マインちゃん:
ワン先生が補足的に、「健康な暮らしをするためには、善意で平和な心である必要があります。怒ったり、イライラしたり、感情の起伏が激しくなると、健康もジェットコースターのように上がり下がりが激しくなり、それでは健康にはなれません」と説明してくれました。それを聞いてわたしは、頬をはたかれたような気分です・・・

いさどん:
体に負担をかけないために冷静に正しい食べ物を選び、そして感情的にならず冷静な心で常に正しく物事を判断できることが大切です。どちらにしても血液を汚すことは、血液を汚すような生活習慣をしている「心」に原因があるのです。血液を汚すことによって、他の臓器や体のいろいろな部分に問題が生じて不健康になっていき、最終的に人間は心臓が停止することによって死を判定されます。ですから、血液を汚さない美しい体、血液を汚さない美しい心、そして血液を汚さない美しい生活を心がけることが大切です。

人間の血液は生命そのものです。そしてそれが生命を循環させ、すべてのところへ平等に行き渡るようになっています。血液が汚れていたら、すべてのところへ汚れが行き渡ります。そして、血液の通り道である血管がどこかでつぶれていたら、そこから先は腐っていきます。

ナッちゃん:
とてもわかりやすい結論ですね!

いさどん:
実は、人間社会にも血液のように循環し、すべてを平等につないでいるものがあります。「人間社会の血液」は何だと思いますか?

ナッちゃん:
いさどんはとても良い質問をしますね!

いさどん:
ハッハッハ。

ナッちゃん:
社会ではわたしたちの行動やコミュニケーションによって、お互いに影響を与えています。社会のあるグループの人たちが幸せでなければ、その不幸せな波動を言葉や行動によって放ち、それが他のグループに伝わり、そうやって今の不幸せな社会を創っていると思います。それは、わたしたちの考え方や行動が原因です。ですから、わたしたちは悪い波動を社会に発しないように、意識的に思考し行動する必要があります。

いさどん:
それをわたしたちの体で例えるならば、血液が癖という自らの心を運び、それを表現しているのです。そうすると、人間社会はひとつの生き物ですよね。そこに平等に行き渡っている血液のような役割をしているものは何だと思いますか?

今、ナッちゃんが表現したのは、血液の汚れということです。そうした汚れや美しさを運んでいくものが、人間社会にはあるのです。それは、人間の心によって汚れたり美しいものになります。わたしたちの血液も、自らの心によって汚れたり美しくなったりするでしょう?

タイの3人:
(しばらく3人は考えました。)降参です!!

いさどん:
では、答えを言いましょうか(笑)。それは、「お金」です。

ワンちゃん:
わたしは、その答えは「自我」とも思っていました。

いさどん:
自我は、お金に乗っていくものです。本来、お金は皆に平等に行き渡る社会システムとして存在していますが、一箇所に貯まってしまって皆に行き渡らないお金もあります。わたしたちの体で血液が汚れると、腎臓や肝臓で洗浄しますね。同じように、犯罪や戦争に使われ、汚れたお金がこの世界にはあるのです。そうしたお金を綺麗にするのは、人の心です。

ナッちゃん:
なぜ人々がマネーロンダリング(資金洗浄)をするのかがわかります。

いさどん:
そうですね。では、次の話をします。「地球の血液」は何だと思いますか?地球の生命の循環のために最も重要なものは何だと思いますか?

ワンちゃん:
空気か水ですか?

マインちゃん:
わたしは水だと思います。

ナッちゃん:
わたしは自然の仕組みだと思います。

いさどん:
それは、「水」です。水が自然の仕組みを健全に運びます。それはわたしたちの体の血液と同じですね。

マインちゃん:
わたしたち人間一人ひとりが地球の細胞のような存在ですから、水がなければ地球も死滅しますし、まず、細胞であるわたしたちも死んでしまうのです。

いさどん:
それでは、自然生態系ネットワークも維持されませんね。水が汚染されたら、すべてのいのちに汚染が広がるのです。

ワンちゃん:
わたしたちの国王も、「水はいのちである」と同じことを言っています。

いさどん:
では、ネクストクエスチョン♪その地球の血液である水を循環させる、心臓の役割は何ですか?

ナッちゃん:
いさどんの質問がどんどん難しくなってきているので、集中して考えないと答えられません!大学受験のための国の一斉試験よりも難しいです!!

いさどん:
大切な質問ですから、真剣に考えてくださいね。これは、とても重要なことです。

ナッちゃん:
いさどん、ヒントをください!

いさどん:
それは、すべての生命に平等に与えられるものです。

ナッちゃん:
時間ですか?

マインちゃん:
土ですか??

いさどん:
土の前のものです。

マインちゃん:
微生物でしょう!

いさどん:
それは、そのものによって生命が循環し、育てられていくものです。
ヒントです!それは空から降ってきます。

ナッちゃん:
雨ですか?

いさどん:
雨もそれによってつくられています。それは、いのちにとって最も大切なものです。

マインちゃん:
魂ですか?

いさどん:
地球の血液が水であるならば、血液である水は循環するでしょう?わたしたちの体で血液を循環させるシステムは心臓ですね。では、地球の血液である水を循環させ、その心臓の役割をしているものは何ですか?それは、空から皆に平等に降ってくるものです。それは、いのちにとって最も大切なものであり、水より重要なものです。

ワンちゃん:
エネルギーですか?

いさどん:
エネルギーです。エネルギーですが、そのエネルギーの元のものです。

タイの3人:
わからない~(笑)!

いさどん:
ギブアップですか(笑)?それは聞いたら、「なるほど!」と思う答えですよ♪それは、すべての生命の元です。それは、太陽です。

ナッちゃん&マインちゃん:
あ~!(笑)

ワンちゃん:
でも、太陽は地面に落ちませんよね??

いさどん:
太陽の光が大地にあたり、太陽が水を循環させているのです。太陽の光自体が汚染されることはありません。その太陽の光を受けて循環する血液である水や空気、土が汚れるのです。わかりますか?

さて、次の質問があります!地球の血液が水であり、その心臓が太陽であるならば、「太陽系の血液」は何だと思いますか?

マインちゃん:
一生懸命考えてみます・・・

いさどん:
考えると難しいですよ。太陽系がどのような構造になっているか、想像してみてください。

マインちゃん:
星ですか?

いさどん:
それは、星を連携させ、循環させるものです。

ワンちゃん:
一つ一つの惑星の動きですか?

いさどん:
それを連携させ、創る元となるものです。皆さん、ギブアップですか(笑)?

マインちゃん:
わたしはギブアップします!

ナッちゃん:
磁場の力でしょうか?

いさどん:
そうです!それは、「磁場」です。太陽磁場が、太陽系を連携させ循環させているのです。それでは最後の質問です。「宇宙の血液」は何だと思いますか?

宇宙全体を束ねているのは、「スピリット」です。スピリットはある意味、精霊の巨大なものであり、魂の存在、つまり神のことです。

今日は、人間の体の血液から、人間社会の血液、地球の血液、太陽系の血液、そして宇宙の血液の話をしました。人間社会の血液はお金であり、地球の血液は水であり、太陽系の血液は磁場であり、そして宇宙の血液はスピリットです。

この世界と人体の関係
この世界と人体の関係

そのスケールが大きくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになります。それがわたしたちの体のスケールまで小さくなると、密度が濃く、物理的なものになります。そしてそのスケールがさらに小さくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになるのです。宇宙の最極小微粒子であるカに戻ると、現象としての存在はなくなります。

ということは、わたしたちの体の状態が一番心の状態を見やすく表してくれているということです。わたしたちの血液がどのような状態であるのかということは、まさにわたしたちの心の現われです。血液の汚れには、物理的な汚れと霊的な汚れがあるのです。社会の血液であるお金にも、物理的な汚れと霊的な汚れの両方があり、すべて同じ仕組みになっています。

ですから、心が綺麗な人は血液も綺麗であり、体も健康で、良い人生を生きることになるのです。

 

 


本質を分析できる時代 〜 大和くん発見のニュースより

人の名前には、多くの情報が秘められています。木の花ファミリーでは、カタカムナの単音の思念やカルマ読みといった宇宙の法則を紐解く手法を通し、名前から、表面的にはわからないその人の心の本質を読み解くことを行います。この分析を元に、いさどんが今話題のニュースについて語りました。

*カタカムナやカルマ読みについて学びを深めたい方は、毎年2月〜3月に開催される木の花塾「1ヶ月間の真学校」へお越しください。

 

最近、テレビで大きな話題となっているのが、5月28日から行方不明になっていた北海道北斗市の小学2年生、田野岡大和君(7歳)が6月3日の朝、陸上自衛隊駒ケ岳演習場の宿泊施設にいるのが発見されたニュースだ。

考えてみれば、彼は6日間水だけで生き延びていた。彼はドクターヘリで函館市の市立函館病院に運ばれたが、診察の結果、両手足に擦り傷があり、軽度の脱水、低体温の状態が確認されただけで、大きなけがはなく、衰弱していた様子はなかったそうだ。ある意味、これは達人の成せる業だ。

なぜ、それが可能だったのか。それは、「大和」君だから、できたのだ。「大和」という心の性質が猪突猛進型であり、深く物事を考えず、ただ生命力のままに動いたから可能だったのだ。それは、人間が難しいことを考えずに本能のままに生きれば、このような生命力が内在しているという証でもある。

これが、「大和」という心の性質ではなく、難しく複雑な心の性質の人であれば、自分で自分を追い詰めていくから、精神状態がおかしくなっていく。彼のような精神構造でなければ、恐怖心が強くなったり、余分な動きを取ることもある。「大和」という、ある意味単純で能天気な心の性質が、ただ単純に今ある状況に合わせ生き延びることを可能にした。だから、その人の精神構造が成せる業なのだ。

現代人の多くは頭の中でああでもない、こうでもないと考えてしまい、考えるだけでエネルギーは衰退していく。さらに、恐怖心や不安からむやみやたらと動き、体力を消耗し、その結果生き延びる可能性が低くなっていく。しかし、彼のようなタイプの人間は、脳のエネルギーをそれほど使わないので、車から置き去りにされたその日のうちに歩いて演習場にたどり着き、夜は宿泊施設の中でマットレスに挟まって寝ながら、施設の外にあった蛇口から水を飲むという生命力があるのだ。

それは、子どもだからそういう生命力があるとも言えるが、人間の中にある本来の生命力は、余分な自我や迷いの心がなければ発揮されるという証でもある。「大和」という子はそういう子なのだ。

「大和」は古代日本国・「ヤマト」に通じる。古代宇宙物理学のカタカムナで「ヤマト」という思念を紐解くと、「飽和安定(ヤ)した間(マ)が、統合(ト)している」という状態を意味する。つまり、可能性を秘めた空間が安定した状態で継続しているということになる。だから、先が観えなくても、不安なく進んでいくことができるのだ。

彼の父親の心の性質からすると、大和君をコントロールすることはできない。あの父親が「大和」という子をしつけすること自体が、親子の因縁のカラクリなのだ。だから、コントロールできないものをコントロールしようとした結果、起こった今回の出来事は、霊的に言えばしっぺ返しを受けたようなものでもある。

この出来事は、そのような霊的な背景を理解せず、父親が息子をしつけしようとしたことから起きている。そういったことが理解できていれば、現世的には父親であるのだから、彼の性質に寄り添いながら、しつけという行為を適切に行うことができたと考えられる。ところが、とりあえず自分の子どもだから、自分の思うようにしつけようと思ったところから今回の出来事が起きたのだ。

大和君が行方不明になった当初は、「山菜採りの最中に行方不明になった」と両親は通報していたが、その後、彼が小石を人や車に投げたため、「しつけのため」として山中に置き去りにしたと説明を変えた。しつけのためと言うならば、なぜ、父親は信念を持って行動しないのか。大和君はよく考えないがために、石を人や車に投げるような行動を取ったのだろう。しかし、彼にはものをよく考えない性質があるからこそ、よく考える人になるよう子どもに接していくのが、親の立場であり、本当のしつけというものだ。彼のそのような行動から、彼は発達障害もしくはADHD(注意欠陥多動性障害)なのでは?とインターネットで書き込みをしている人もいるが、そこでは表面的な出来事を通して安易に診断を下しているように思われる。

今、そういったことを分析して語れる人が、世の中にどれほどいるのだろうか。今の社会では心理学者や小児科医などが、今回のニュースについていろいろと解説しているが、あの出来事は今の時代に欠乏している生命力を伝えているのだ。また、海外メディアも含め、奇跡の結末に多くの感動の声が寄せられ、彼がヒーロー扱いされている反面、「彼がかわいそうだ」という声も多く寄せられている。しかし、それだけでは物事を表面的にしか捉えられていない。

ようやく、出来事の全容を解説できる時代が訪れた。出来事の背景に流れる一人ひとりの人間の性質を把握し、さらに時代の流れを読んでいかなければ、出来事の本質を理解することはできない。そういった物事の本質を掴み取る時代が訪れたことの証として、どこにでもあるしつけ事件の顛末が、時代の流れを示唆しているのだろう。

今、本質を分析できる時代がようやく訪れたのだ。

 

Source of photo: newsnya.com/tanooka-yamato-missing

 


お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ

ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

 
こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。

いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。

現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。

それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。

そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。

そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。

一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。

そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。

その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。

しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?

A子:
死ぬ。

いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。

B男:
生まれなければいい。

いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)

生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。

ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。

ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。

3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。

今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。

人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。

2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。

最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。

そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。

そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。

それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。

本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。

そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)

丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。

こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。

いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。

 

 


誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる時代

4月29日にBSフジにて放映された「アキレアの橋 体操・白井健三」という番組と、5月2日にNHK総合にて放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀 松岡修造×スーパー高校生スペシャル」を観たいさどんは、みんなでこの番組を観ることを勧めました。その数日後、二夜に渡ってみんなでそれぞれの番組を観た後、三日目の夜の大人会議では「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」のブログがシェアされました。その後、いさどんは次のように語りました。

――

この映像を観ていくと、アキレアの橋からは白井健三くん、それからプロフェッショナルからはピアニストやゴルファー、プログラマー、そしてボクサーが取り上げられていました。僕は、みんなに彼らを目指してほしいという想いで、この番組を勧めたのでありません。まず、彼らのような人たちが現れる時代になったことをみんなに知ってほしかったのです。ただ、彼らも普通の人間なのですよ。そこで僕は、「彼らとみんなとの違いは何なのだろう?」と思いながらこの映像を観ていました。

それは、彼らはストッパーを外したということです。

今回の映像では出てきませんでしたが、高校生の頃からその活躍が人目を引いていた羽生結弦くんがいますね。彼は昨年11月に開催されたNHK杯でショートプログラムとフリープログラムをあわせた総合得点で史上初の300点越えをし、その2週間後にスペインのバルセロナで行われたグランプリファイナルでは、さらに記録を更新し330.43点をマークしたのです!ここ一年ぐらいは280点を越えたら金メダルの時代だったのですよ。ところが、羽生結弦くんがNHK杯のショートプログラムで史上初の100点を越えたのです。当時、これは信じられないことが起きた!神業だ!と言われていたのですが、今年の4月に開催された三大陸対抗団体戦で18歳の宇野昌磨くんが公認大会で初となる4回転フリップに成功し、ショートプログラムで自己記録となる105.74点をマークしたのです。

このように、今の最高記録はどんどん更新されていくものなのです。誰かが今までになかったことを成し遂げると、それまでの目標が改められ、新たに記録を塗り替えた人がみんなの目標となるのです。そしてその度に、みんなのストッパーが外れていくのです。これからも、そういったことの連続です。

ところが、多くの人間には「自分にはできない!」とか「わたしなんか!」というおかしな心があり、そのようなストッパーを持っているのです。ある意味、それがその人らしい生き方とも言えるのですが、その自分らしさの中に自分を閉じ込めてはいませんか?

僕は、みんなが白井健三くんになれとか、羽生結弦くんになれ、と言っているのではありません。あなたらしい人生の目標に限界はない、と伝えたいのです。限界は、今の自分がつくっているだけなのです。どこかで人は、「自分はこんな程度だ」と考え、それ以上やろうとしない心があるのです。

もし、もっと自分を花開かせ、可能性を観てみたいと思うのであれば、そのストッパーを外すことです。そのためには、自分を客観的に観えないといけません。人はとかく、今までの経験を元にして、ある時点から「わたしはこういう人だ」と自分を決定し始めます。しかし、経験を積むことはストッパーを外すためにあるのです。それなのに、人間は自我があるがために経験を所有し、それを常識にして、その枠の中にい続けようとするのです。未来は今までの経験を超えていくためにあるのですから、今までの経験を活かすことはいいのですが、それを固定してそこから結論を先に決めてはいけないのです。

それが、自我の乗り越え方です。

今回の映像を通して、新しい世代の人たちが、たとえば音楽はこういうものだというストッパーを外し、先生を超えている発想をすでに持っていることを僕は感じました。そのようにして、彼らは自らの可能性を開花させているのです。21世紀に入った今、若い世代の人たちが人間の可能性をさらに広げようとしているのです。

ただ、そこでひとつ、懸念することがあります。それは、「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」にもありましたが、人間の可能性を広げることは、人類に貢献するためにあるのです。もしくは、生命として地球に貢献するためにあるのです。ところが、映像で取り上げられていた人たちの段階では、まだ世界が狭いので、自分の能力の開花だけを目標にしています。確かに新たな時代は訪れているのですが、まだまだ個人の願望の上にそれが表現されているのです。ひとり、プログラマーの彼は「人類の進歩に貢献することをしたいと思っていて、ただお金儲けをして億万長者になるよりも、人類を前に進めたほうがかっこいいと思ったのです」と言っていました。僕は彼の未来を楽しみにしています。彼が語っていることが、近年における人類が到達すべき目標です。

先日、40代の女性の相談を受けたのですが、僕が彼女に伝えたのは、「あなたは能力が高いのですが、その能力は宇宙や地球生態系の構造、そして時代の流れと一致していないのです。だから、その高い能力があなたの人生の中で問題事の種となってしまうのです」と伝えました。そういったことを怠っていると、この世界の仕組みではその人が発生させた矛盾の分だけ、人生に滞りが起きるようになっています。そういったことが明快に示され、それを感じ取る人々が今の社会に現れてきています。ですから今、人類はそのように生きていく時代に入ったのです。

ここには、これからコミュニティをつくりたいという人たちが訪れますが、僕は彼らにこう伝えます。「この世界は無限の生命の循環によって成り立っているのですから、コミュニティはつくるものではなく、時代とともに成っていくことなのです。時代が表現されていくときに、人間一人ひとりはその時代を表現するためにふさわしい役割を与えられ、生まれてきているだけなのです。ですから、それは自分がやりたいと思ってやることではないのですよ。逆に、強くそういったことを望んでいるような人は、そのこと自体が自我が強い表れですので、コミュニティに不向きな人と言えます。」

しかし、そういった人ほど、自らの実態が観えない人が多いですね。このように今、人間の意識が真に変わるときが来ていることは確かです。

今の人間社会は、矛盾が山積しているように見えます。しかし真実は、この世界に間違いなどひとつもありません。正義も悪もありません。もしそこに問題事があるとしたら、それは「無知」であるということです。無知であることが問題の根本的原因です。そして、それはどのような無知なのかといえば、この世界の成り立ちに対して無知であり、自分自身の存在に対して無知であるということです。

それに対して、知恵を持っている者とはどのような者なのでしょうか。それは、無知は無知でも、「無限なる知恵」を持っている者のことです。無限に経験を積み重ね、知恵を得て、成長していく者であり続けるということです。そういった精神に到達したときに、人間から個人の願望を実現させたいという意識が消え、宇宙生命として生きることになるのです。

そのために人間が取るべき姿勢は、時代から受けている使命を果たし、この世界から受けている自分たちのポジションを担うことです。それが、わたしたちが存在する意味なのです。自分は全体のために存在しているのですし、全体は自分を存在させてくれているのです。それが一致したとき、わたしたち一人ひとりの健康が実現し、真の平和が地球上に訪れるのです。

人類はいつそういったことに気付くのだろうと僕は思うのですが、今度オバマ大統領が広島を訪問しますね。広島へ行くのであれば、長崎にもぜひ足を運んでいただきたいと僕は思います。これは世界中が今、注目しているトピックです。彼が急に広島へ来ることになったのも、時代がドッと動き出した感じがしています。これは日本の都合やアメリカの都合で、オバマ大統領が広島を訪問するのではありません。これは明らかに、時代が次の段階を迎える前兆だということです。

それで今日の映像の話です。彼らはこれまでの常識や、「これが今の世界の最高だからこれ以上はない」といった発想を無視し、そういったスイッチを切った人たちなのです。これも、新しい時代の人たちが始めたことです。

そこで、わたしたち木の花ファミリーは今の時代にどのような役割をいただき、そしてどのようにスイッチを切っているのでしょうか。それは、「自我」のスイッチを切っているのです。自我のスイッチを切るからこそ、このような暮らしが可能になるのです。ここではすでに、みんなでお財布ひとつで暮らしていますね。自分のものをみんなと共有していますね。そして他人の子どもを自分の子どものようにかわいがり叱ったりしますね。そういったことを世の中にいるどれだけの人ができるのでしょうか。そのような区別のない世界は、すでにここで実現されているのです。

しかし、自我は粗いものから細かいものまでたくさんあるのです。そうしたら、彼らが毎日自分の能力の限界まで挑戦しているように、わたしたちは毎日ひたすら自我と向き合い、自我をきれいに取り去る心のスペシャリストとして、「えっ!!人間にそこまでできるの??」という境地にまで到達したいものです。

そういったことをイメージして、僕はこの映像をみんなで観ることを勧めました。彼らはピアノやコンピューター、アスリートなどの分野で新たなストッパーを外しながら活躍していますが、わたしたちは心のストッパーを外すスペシャリストなのですから、そういった意味で、わたしたちは白井健三くんや羽生結弦くんと同じなのです。わたしたちは心を探求するスペシャリストであり、人類の未来の見本として生きているのです。

時代は、確実にストッパーを外しながら紡がれています。ですから、「自我」というストッパーを外すことが、わたしたちが生きている真の姿であり、目的なのです。そして今、時代は誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる段階に入ったのです。

自我のストッパーを外すことを優先できる人は、時代と共に生き、時代に貢献できる人です。