あきのちゃんは、広島の大学で国際関係について学んでいる学生です。もともと世界の貧困や格差の問題に関心があり、大学を休学してガーナでボランティア活動をしたり、インドや東南アジアの国々を旅していましたが、「それでは根本的な解決にならないことを感じて、こういう暮らしに興味を持った」と言います。そこで、エコビレッジを卒論のテーマとすることを考え、今年7月に初めて木の花ファミリーを訪れました。「すごくカルチャーショックを受けました。自分はエコビレッジという“形”を見ていたけれど、ここではそれ以上に“心”を大切にしていたから」。
当初は複数のエコビレッジを回ることを考えていましたが、「ここをじっくり見た方がいい」と感じて、現在、午前中はみんなと家事や農作業、午後はメンバーへのインタビューや執筆などの研究活動という形でファミリーに長期滞在をしています。
今日は、そのあきのちゃんによるいさどんへのインタビューをご紹介します。
*インタビューには、アナウンサーとしてテレビ局への就職が決まったばかりのゆきちゃんと、ファミリーメンバーのひとみちゃんも同席しました。
*あきのちゃん了承のもと、インタビュー全文をほぼそのまま掲載しています。臨場感あふれる生の声をお楽しみください。
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あきの:
今日聞きたいのは、「信じる」ということについてです。
いさどんは天からメッセージをもらったりとか、宇宙の法則が分かっちゃったりっていう霊的な体験をしていると思うんですけど、それができるのはほんの一部の人ですよね。私たちは頭で考えても分からないし、目で見ようとしても見えないものだから、結局は信じることしかないと思うんですよ。私もこういう精神の勉強をしていて、「そうなんだろうな」という感覚はあるので、疑うつもりはないんですけど、ただ、それが見えない人たちは何をもって信じればいいのかっていうことを聞いてみたいです。
いさどん:
見えない人たちが信じるためには、といっても、僕でもただむやみに湧いてきたことを信じているわけではないのよ。これは確実に科学することが大切であるし、その答えが出ることによって信じるっていうことが深まってくのね。
よく宗教なんかで「これは良いことだから信じなさい」と言われて「きっと良いことがあるんだ」って信じたりするでしょ。それは信じてるんじゃなくて、良い事を期待しているだけなのよ。それってギブ&テイクの信仰だから、御利益宗教になってしまうのね。「信じる」ってことの本当の意味は、信ずる心が起きる時に、信じられる何かに出会うってことなのかな。
それでね、僕がやってきたのは、まず最初は信じられないことに出会うわけ。天から言葉が降りて来たとか、光を見たとか、身体に何かが起きたとかいうようなことが起きるわけ。その時には信じられませんよ、そんなのは。信じられないってのは、その事を疑ってるってことではなくて、その起きたこと自体がなんなのかが分からないってことなのよ。
始めのころは、そういった分かんない事が起きたことに対して、僕は常に、それがあったことだけは事実だと捉えるわけ。例えば何か言葉が降りて来た。それは何だか分かんないし、もしかしたら自分は精神分裂のような病気かもしれない。そういう想いも持ちながら、でもそれがいったい何なのかを確認したい好奇心があって、その答えが出るまで待ってる。そして、いつか出るだろうと思っている。それは、この世界には目には見えない流れがあって、その流れを観ていくということなんだよ。
そうすると、現象を通して何かに出会う。人と出会うとか、ものと出会うとか。その時に「あっ、あの言葉はここにつながっている」とか「あっ、あれはこういうことだったんだ」というふうに、気付きにつながるのね。それを何回か繰り返していくと、そのうちに、あっ、と思う事があると「これは何かの前兆だね」っていうことになって、もうそこでは、それがどうなっていくかを待ってみましょうという心になる。そこで疑う心はなくなって、自然に信ずる心がおきているわけ。
それがどんどん進んでいくと、起きた事と結果が、法則化されてくるのね。「こういうことが起きたから、これはこうなる」というように、データとして積み重なっていく。それは、出来事を通してその奥にある流れを感じ、学んでいくということでもあるんだよ。
みんなは、信ずる心が強い人っていうのは、心がしっかりしていて明快に答えが出ているから、確信を持ってやっていると思うかもしれないけど、僕の場合はデータに基いて判断しているんですよ。
ここに、ケア滞在でうつ病とかアル中の人が来るじゃない。今まで何人もそういう人を見てきた中で、だいたい、この人はこういう傾向を持っている、この傾向とこの傾向がくっついてこうなっているっていうのが見えてくるんだよ。それで、そのデータに基づいて、このケースはこうしたらいいね、と判断し、伝える。それが的を射ていくと自信になるから、それが信ずる心につながるんだよね。
あきの:
じゃあそういう経験とか出会いが今までになかった人がそうするためには?
いさどん:
それは思考の問題で、例えば何かに出会うとそれは嫌な事だってまず否定的に見る癖の人がいるじゃない。あるいは何でも都合のいいように捉えていく人もいる。
何かに出会うってことは、必ず過去に何かがあって出会っていて、その出会いが原因となって次に何かを起こすもとになっている。そこで、今ここで見ている現象を自分はどんなふうに捉えているかをまず見るんだよ。これは嫌だとか、好きなことなら実際より良く見えているとか、色をつけて見るでしょ。そういう色付けをしないで、目の前の現象を客観的な情報として捉えていく。それがどう展開していくかは行ってみて判断すればいいのだから、ポジティブにとりすぎる必要も、ネガティブにとりすぎる必要もない。自分の心の癖もよくつかみながら、それをいかに冷静に、情報として観るかが大事なんだよ。
この間市川で『確固たる居場所』の上映会を主催してくれた人たちの中の一人が、「木の花は今、ある意味創設以来の危機にいます」って言うんだよね。そうとも言えるけどね、僕らの感覚だと、これは神様ごとなんだよ。
僕も生身の人間だから、目の前の事を見て、何とも感じないってことはないよね。そりゃ心も身体も反応する。事実疲れているから、危機といえば危機なんだけど、木の花ファミリーが始まった時から、我々は天から降りて来たことを実行していて、途中でいろいろ言われても、それは全部そこで必要なことだと信じてやってきたわけだよ。
ということは、僕のデータの中では、今危機に見えるような事も、実はチャンスなのね。つまり、次の事が生まれるチャンスなわけだ。そこでネガティブに反応したら、それは無駄なエネルギーじゃない。だからこそ、この顛末がどうなるか見せてもらいたいと思ってる。
僕の考えているこの世界の構造について話します。
人間って個があるでしょ。あなたも、あなたも、たくさんの個があるでしょう。個は自分の意識を持ってこの世界を見ている。そして、自分の考えで善し悪しを決めている。
ところが、実はそこに個を持っているからそうなっているだけで、実際の構造は個が巨大に集まって、大宇宙があって、そこから自分に近づいてきて、自分の身体になっているだけのこと。どこで区切るかによって、見えるものは変わってくるんだよ。
自分というものをどれだけ思い通りにできるかって言ったら、まず呼吸も、心臓も、コントロールできないでしょう。睡眠もコントロールできないでしょう。食欲も実はコントロールできないんですよ。ましてや排泄なんて、コントロールできないでしょう。
暑い時に汗を自分でコントロールできないでしょう。今はたくさん出せとか、かっこわるいから汗出ないでとか思っても、そうはいかないじゃない。そういうことを人工的にやると病気になっちゃう。命は自然の中にあるのだから、それは違いますよってことなのね。
われわれ人間は、この全体のシステムの掟の中で、自らの個性を活かすように役割をもらっているわけね。何かに出会った時に、自分というものの概念で「こうなってほしい」と思惑を持っても、結構はずれる。それよりも、何か出来事に出会ったら、この世界は、この出来事を通して私に何を求めているのか、この出来事を通して私に何を教えているのか、というふうに、僕は逆に観るわけ。
それで、その視点で世界をずーっと分析していくと、調和なんだよね。調和っていうのは絆がないと生まれない。植物でも動物でも空気でも太陽でも全部調和している。いろんなものがネットワークして、この生命世界をつくっている。宇宙の星と星の関係もそうなっている。
で、その絆とか調和っていうのは、愛というもので初めて成立するわけ。そこには、絆とか調和とか愛とか善意しかない。とすると、この世界は根本的に善意でできているということになる。
しかしこの世界には、被害妄想だったり対立があったり、悪意があるじゃない。それは何のためにあるのかといったら、愛を増幅させるためにあるのね。じゃない?つまり、辛いな、苦しいなと思って、それが越えられた時にすごく楽が待っているじゃない。でも楽ばっかりだったら、ちょっと楽があったって、なんだそれだけのことかってなるよね。
神様は、「私は光である。光の中で私の存在は見えないのだ。だからわざわざ闇をつくって、私が見えるようにした」と言うのね。そういうふうにできているのよ、この世界は。
あきの:
そういうのが見え始めたのは30歳の頃ですか?
いさどん:
ちょっと待って。それは見え始めたんじゃないんですよ。今、この世界と自分との関係を科学してったじゃない。
みんなは大きな世界を考えてないんだよ。つまり、自分が入れられている器(身体)がシステムとして機能しているっていう考えを持たないで、自分の側からものを見ているだけなのよ。損か得かとか、この部分は気に入ったとか気に入らないとか、これは忌まわしい出来事だとか美しいことだとかって、区切って心が反応しているのよ。
だけど実際の世界は、全てがつらなって一つの世界としてできていて、自分が反応している感情ですら、その中の一つの役割なんだよ。つまり、良いとか悪いとかっていう世界じゃなくて、それは情報とメッセージなんだよ。今、自分の目の前に何か出来事が起きているとしたら、それはこの世界の意志として提示されているわけだから、僕もそれが何であるかを観てみたいのよ。
何でかって言うとね。今起きていることが苦痛だとしよう。でもこの世界全体は、善意なのよ。善意なのに今苦痛が起きているとしたら、この苦痛の結果どんな善意が示されるのだろうと思う。そこに行きたいと思う。
普通の人は目の前に苦痛が現れると、苦痛が嫌だからって、その苦痛から逃げようとする。僕は苦痛は嫌だからこそ、その苦痛を理解しようとする。するとそこから学べて、その結果が何であるのかがわかると、それは善意だったんだってことになる。全てその延長なの。大きな苦痛がきたら、大きな喜びがある。
そう考えるのは、僕が信じる心が強いからだという事もいえるでしょ。だけど僕は、科学しているんだよね。このでっかい世界も、でっかいっていう形で区切っているし、もっとちっちゃく例えば太陽系の構造だとか、地球の生態系の構造だとか、国家のあり方とか家族のあり方とか自分の個人のあり方ってのを、科学している。そうやって今まで積み重なってきたものなんだよ。
あきの:
それは知識として何か本とかから入れているとか・・
いさどん:
ないです。本とかの知識は、湧き出してくるものの確認としてあったものです。
あきの:
やっぱりそれは自分の中から・・
いさどん:
湧き出してきたのです。もし、僕がこれを本に書いて出したとしよう。結構そういうのを求めている人はいると思うんだよ。だけどそれを読んだところで、それは知識にしかすぎないんだよね。知識はその人の本質を変えるものではない。着ている服のようなもので、着替えたら終わりなのよ。
その本質を変えるものは、智恵の湧き出し口を広くするってこと。我々の中に泉があって、そこから智恵が湧いてくるんだけど、それは無限に湧き出てくる。その無限の泉は誰にもあるんだけど、こんこんと湧き出してくる人もいれば、ちっとも湧かなくって詰まっている人もいるわけよ。
あきの:
なぜ詰まっているんですか?
いさどん:
詰まっているのはつまんないね。つまんないのに詰まってる。(笑)
それちょっと考えてみて。聞くばっかりじゃなくて。
あきの:
えー・・・私が思っていたのは、みんな詰まっているというか、みんな分からないんだと思っていたんですよ。
いさどん:
でも、結構分かりだしている人たちが増えている。
例えばね、分かんなくても、世の中のあり方をみて、「変だな」と思う心がある。なんとなく会社に行って働いて給料もらって家庭をつくって過ごしている。でも何か、会社や夫婦関係のストレスでぎくしゃくしたり、子どもも不安定になったり、その中で自分の気持ちもざわざわして、何か変だぞ、と思う心が湧いてくる時があるでしょ。
それは、僕は智恵が湧き出そうとする波紋なんじゃないかなと思う。そこでただイライラして喧嘩して終わりっていうんじゃあ、いつまでたっても泉は開かないよね。そこからその扱いをどうするかっていうところが、信じられる道に進む一歩かな。
あえて全部答えを言いたくないのは、やっぱ考えてもらいたいからだね。お釈迦様はこう言われた。「ガンジスの河の砂のごとく衆生はおる。」
衆生というのは人々のことだよ。そして、「そのすべてに仏性あり」と言われた。すべての人に智恵の泉、智恵の湧き出す仏になる要素があると言われた。
そこでお釈迦様の言葉は終わりなんだけど、僕にはその後、もう一言足して言われたのよ。「ただし、その道を生きた者にだけある」と。つまり、すべての者に仏性はあるんだけど、そこを開こうとする者、そこに向かって歩んでいった者にだけあるって言われた。
だから今あなたが言うように、今の時代の人たちはなかなかそれをしないのよ。これは「末法の世」といって、知識とか豊かさとかそういう事をいっぱい求めてできた時代ね。知識が豊富な時代だから、もうほとんど読み書きができないような人はいないでしょ。みんな賢くなったのね。
で、賢くなればなるほど人間っていうのは、自分というものが強くなるのよ。私の考え、好み、そういったものが優先されるようになるのね。だから、物理的には豊かな世界はつくったけど、結果として「私が」が強くなった。「私が」ばっかりだと「私が」「私が」ってぶつかりあうでしょう。
そして、人は多くいるのに、絆がない。絆がなければ愛がないから、本当の豊かさがないんだよね。お金があるのに豊かさがない。そういう世界をつくってしまったのね。
それは、自分が賢いと思うからよ。実際に、いろんな事を勉強して知っているから賢いんだよね。でも賢いということの良さと、賢いことの愚かさっていうのがある。
賢いだけではリスクがあって、自分が賢いと思った時に、「頂く心」がなくなる。自分は能力が高いと思っているから、自分で達成してやろうと思うわけ。これが他の生命とちがう、人間の特徴なのね。
それが強くなっていくと、自分で何でも納得しよう、獲得しようと思うわけ。競争してでも勝ってやろうと思うようになって、今のような世界ができあがってくる。「自分の願いを叶えるのは自分の努力だけだ」と思っていて、そこには「頂く」とか「信じる」心がなくなってしまう。自分の能力だけで生きていくことになるんだよ。
信じること、信仰心というのは、この世界にある仕組みとか、自分を命として存在させているもの。自分であって自分でないもの。そのバランスが良くなった時に、初めて信仰心って生まれるんだと思うんだよね。仏性があるのになぜ仏性が表れないのかといったら、その「自分が」という我が優先されて、邪魔しているのね。
僕はこういうことに出会って、頂いたことすら疑っていたし、頂いたことを自分流に考えたわけよ。分かんなきゃ悩むし。それで結果として、自分がどんなに悩んでどんなに考えても、答えは結局なるようにしかならないのよ。それで、自分流に考えても無駄だなってことに気付いた。
自分がああなったらいい、こうなったらいいと考えるんじゃなくて、起きた出来事をよく観て、それをしっかり自分の中に留めておいて、やるべきことをやっていれば答えは出る。その時に起きた目の前にあることをやっていけば、答えは出る。こうなってほしい、ああなってほしいと、先にエネルギーを使わないのよ。
そのエネルギーは、次の出来事が起きた時にそれを分析する力、そしてそれに対して行動する力に使う。そうするとエネルギーが少なくて済むよね。出来事は次々と起こるから、現場合わせってことを常にするね。
それができない人は、二段階も三段階も先まで読んで、自分の中で結論を決めてしまって、不安になったりする。先に読んで勝手に思い込んで検討違いをやって、いってみたら全然違ったという無駄をやる。そうすると、心のエネルギーはざわざわしながら無駄遣いばっかりするんだよね。
前者の方は、必要な時に必要な分だけ使うという落ち着いた状態でしょう。そうすると、どっしりと安定して見える。
あきの:
木の花は、社会の2歩先をいく生き方を今されていると思うんですけど、つまりこの木の花のような精神がそのうち広がっていくだろうっていうことだと思うんですけど、今これを信じられない人もたくさんいるじゃないですか。それでここを出ていってしまう人もいるじゃないですか。これがみんなに信じられるようになるには、どうしたらいいと思いますか。
いさどん:
それが人間の考えなんだよね。この問題が起きているから、私たちはどうしたらいいかっていうことではなくて、もうちょっとそこから一歩引いて見てみよう。
その問題が起きているということは、時代がそれを刻んでいるわけだよね。そうしたら、この問題を通して、時代は何を求めているんだろう、私たちは何をしたらいいんだろうってことを考えればいいんだよ。
もしもこの生き方がいらないんだったら、無駄なエネルギーだからやめたほうがいいよね。面白いのは、一方に非難する人や去っていく人がいて、一方では待ってましたとばかりに求めてくる人たちとの出会いがあるのね。つまり、この非難して去っていく人たちは、今は出会いの旬ではないんだよ。だから去っていくことも、進んでいくためには必要なんだよ。
今まで共にあった者が去っていくことも、今まで共にあったということは、事実として、今までは共にあることが必要だったんだよ。でも今は、さらに先の段階へ進もうとしている。
例えば富士登山でも、だいたい8合目まではみんなで行こうねというのよ。でも8合目から上は、その人の体力とか意欲とかによって、個人個人でまったく条件が違うのよ。だから8合目から上は、一人一人の在り方に合わせていきましょうねってことになる。そこからはどんどん狭くなっていくけど、それは一人一人の決断の道なんだよ。
そうしたら、それでもやっぱりみんなで一緒に来たんだから一緒に頂上へ行こうよって無理に抱えていたら、全体が頂上に行けないことになる。志同じくした者は、一人一人の歩みだから頂上で会おうねって言いながら、一緒の人は一緒に行けば良いんだし、そうでない人はそうでなくていいんだよ。だってゆっくり行かなきゃいけない人もいるんだから。
そのゆっくり行く人にサポーターとしてついていく人は、そういう役割だったらそれでいい。でも自分も頂上に行かなきゃいけない人だったら、無理に合わせていたら自分のリズムに合わないから、その人も頂上に行けなくなっちゃう。
そういう意味で言ったら、僕は今、良い事が起きているんだなあというふうに考えているんだよ。だってもともと全て善意なんだから。その考えで分析していくと、そこが観える。
今までは共にあることが必要だったんだけど、ここからはその人の心に合わせた道を行くべきだったんだねと。
その時に、ここまでは共通していたものの見方が別れて、別の発想になっていく。それは、「今まで一緒だったのに、どうしてそんなに変わっちゃったの」ということではないんです。つまり、その人にとっては同じ道ではもう先へ進めないからこそ、他の道で進むために、違う目線が育ったということなの。それを無理矢理一緒に行きましょうって言ったら、無理がある。
結局、とことんこの道をいく、信ずるということは、僕は科学することだと思う。科学する事によって細かく理解して、それをちゃんと順序に沿ってつないでいくと、全体が観える。すると、科学した事も法則の中にあって、法則が理解できたら、ひとつの情報で右往左往もしない。
この法則の中の、一つひとつのパーツがあるじゃない。例えばある部分を切り取ってみた時に、これはこれだけで判断してもいいものだなあとか、これはこれだけではいけない、もっと5つぐらいを見てみて結論が出るものだなあとか。
僕の信ずる心ってそんな感じです。
あきの:
他の木の花のメンバーだとどうだと思いますか。
いさどん:
僕はみんなにそうなってほしいと思っているんだけど、やっぱり今までの木の花のあり方をつくって来たというか、導いて来たのは僕なんだよね。そうすると、これは木の花の歩みであり、僕の歩みだったんだよね。
8合目まではそれでよかった。でもここからは、一人一人が今まで学んで来た事を生かして、8合目以降の意識になって歩む必要がある。だから、依存的な人はもっと自らに明快なものを提示して、自分たちの先を観られるようになってほしいと思うのね。ある人は自分は悟りたいんだとか、ある人は愛いっぱいで安心したいんだとか、そういう人たちがいるとするでしょ。そういう人たちも、もう自分で判断して歩みなさいって。今、僕はそういう段階だと思う。
そうするとそういう人たちは、これまでとても深く関わってきて、そしてこの生き方を大事に思っていても、「なんだ、もうくれないのか」と離れていく人もいる。僕はそんなふうに思っているつもりはないんだけど、そういった体質もあるんだよ。良い答えが出ないんだったらやめだと、現状を切り離そうとしているわけでしょう。
8合目以降は一人ずつで行く道。そうしたらそこには当然個人差が起きるわけだ。
大丈夫?って声を掛け合って、それでも行こうよって言ったとしても、今の状態しか見えなくて信じられない人は、この先に行っても良い世界なんてないじゃん、と思うんだよ。しかし、この右往左往を乗り越えた先に、みんなが成長して、答えがあるんだよって、それは行ってみないとわからないじゃない。でもそれが信じられない人は、現状がずっと続くと思っているわけよ。だからこんなところにはいられない、と。自分の都合のいいところを求める心が強くなって、信ずる心がないから、抜けていくことになるわけよ。
今離れていく人は、みんな信ずる心が足りない人。自分の安心を求めているのよ。でも安心とか信じる心は、自分がそういう人になるってことでしょう。そのためには、自分がその心で歩まなきゃいけないわけよ。今は、そういう段階の選別にきているなあと思うんだよね。
例えば、8合目までは半袖でもオッケーだった。でもそれ以降は冬の装備が必要だよ。雨も降るかもしれない。そうなった時に、当然厳しいから、今までの心構えと装備では通用しない。
これは心の話だから、心の問題だけなのね。自分に何かが起きたら、それをいただいて、自分の内を観ていく。いただいていくっていうプロセスを繰り返すわけだよ。
8合目まで来て、わー雨が降ってきた、装備が十分じゃない、もう先が見えているからこれ以上行くのはやめよう、と思ったとしても、実は先がどうなるかは行ってみないとわからないじゃない。ちょっと先に行ったら、それまでは雲が立ちこめていたけど雲の上に出て天気がよくなるかもしれない。それは行ってみることによって初めてわかる。そして行くためには、信ずる心が必要なんだけよ。
さっき、科学して情報を整理して法則性がわかった時に信ずる心が生まれるという話をしたね。それが足りない人が、今の現状を憂いて、これ以上良いところは求められないんだって終わっていくんだと思うのよ。
その山を越えれば、越えた分だけの価値がその次にあるってことを僕は言いたい。でも行かない人に行けとは言えない。それは一人一人の意志だから。
質問への答えになったかな?
あきの:
はい。
いさどん:
これは木の花の生活だけではなくて、普通の人も同じだと思う。ただ、普通の人はそんな風に分析しない。科学して、分析してそれが何だったのかって考えて振り返らない。だから、毎日が感情の垂れ流し。湧いて来た思考をただ出して、感情で反応している人が多いね。喧嘩すりゃ痛いとか、自分本位でやると人間関係が壊れていって社会的にも通用しない、っていう条件反射的な学びをしているだけなのね。
もっとホリスティックに、この世界を自分の感情と照らし合わせて分析していったら、たぶん自分の感情には振り回されないで行けるようになるね。この宇宙は法則で成り立っていて、それがふっと湧いてくる。これが智恵なの。そこのところに到達すると、僕みたいな話をするようになる。
あきの:
面白いですね。
いさどん:
僕も話してて面白かった。人類はそろそろその時代に行くと思うよ。
この間NHKで2回ばかり特集をやってたんだけど、2050年代に世界の潮位は80㎝上がるんだって。あと40年くらいしたらです。あなたたち、生きているでしょう。
あきの&ゆき:
はい。
いさどん:
80㎝上がるって大変なことよ。潮位が上がるってことは氷が溶けるってことだから、それだけ暖かいってことでしょう。2070年代にはスーパー台風が発生するって言うんですよ。この間スーパー台風が一つ起きたよね。フィリピンでは風速90mだったんだよね。竜巻級の台風が起きたんだよ。
でも2070年になると、風速100m、910ヘクトパスカルの台風が来るんだって。これはスーパーコンピューターで計算しているからほとんどまちがいない。それが60年後よ。生きている?
あきの&ゆき:
かもしれない。
いさどん:
可能性があるでしょう。潮位が80cm上がって気圧が910ってことになると、さらに潮位を上げるでしょう。それに風速100mの風が吹いたら、当たり前に5mの高潮がくるよ。日本中の海岸にそれに備えるだけの防波堤を作るか?できないですよ、そんなこと。
それどころか、今は地震も心配されていて、富士山も噴火するって言われているでしょ。富士山がもし中規模の噴火を起こすと、富士山の上空8000m以上いったらジェット気流の影響があるから、沼津から東京、京浜工業地帯まで、大量の火山灰が降りますよ。そうしたら今の携帯とかコンピュータって全部壊滅ですよ。
これって現実的な話ね。21世紀の前半にそれが起きる可能性があって、それは今の福島の原発のようなものじゃないと思うのよ。これから人類はどうやって生きていくかなのよ。もう20世紀型の文明は全て壊滅。あとは不便だけどみんなで助け合って生きるしかないんじゃないの、と思うんだけど。食料も問題になってくるね。いろんなものの価値観が変わってくるね。僕はこれが、20世紀までの人間のやって来たことに対する答えだと思うの。
じゃあ21世紀になったのだから、そろそろ20世紀型を改変する必要があるんだけど、人間って痛い目しないとわからないんだよね。最近の人間は我が強くなり過ぎちゃって、自分を過信している。もう痛い兆候はいっぱい現れているのよ。地球温暖化だって、今の時点で温暖化要因を止めても、もうすでに空気中にある分だけで危機的な状態なわけよ。それでもまだ、やり続けているのよ。経済発展だとかなんだってそんな事ばっかり言ってるのよ。人間の住む環境は悪くなるのに、まだ景気を良くすることばかり考えてる。
何で不景気になるかといったら、人間の中には自然のセンサーがあるんだよ。子どもが野菜を食べないのはなぜかって、あれは食べ物が毒だから。子どもは身体がちっちゃいから、自分の中のセンサーが働いてて、自らを守っているわけ。だから、本当に健全な野菜は子どもも喜んで食べるの。
それと同じように普通の人間にもそういうセンサーが残っていて、世の中を見て「なんか変だね」と感じてる。それで具体的に区切って見てみる。しかし問題がない。だけどなんか変だな、こんなことでいいのかなーって考えて、会社に行ったら競争ばっかりでやだなーって、ニートになるとかね。親がそのことにああだこうだ言うと、引きこもっちゃうとかね。
これをその部分だけを切り取って見てみると、問題に見えるでしょう。でもつなげて観ていくと、社会がそういう風に愛や絆のない貧しい人間をつくろうとしている事に対して、今起きているこの問題は何なのかと考える良い機会になる。社会の現象は神様が起こしていて、それが善意だとしたら、これを乗り越えたらもっと良い次の世界があるということなんだよ。
今のまま変わらなかったら地獄だよ。だけどこれを乗り越えたら素晴らしい世界がある。今の若い人たちって、その素晴らしい世界を生きる人たちなんだよ。でも古い人たちは、その前の競争社会を若い人たちに提供しようとしているのよ。だから、そこでニートや引きこもりやうつ病になるのは、センサーが正常に働いているということなんだよ。
アトピーや癌も、全部センサーであり、気づけ気づけっていうメッセージなのよ。だから病気だってすごく大事なことなんだよ。それを、学ばないで対処療法で治そうとするもんだから、いつまでたってもメッセージが終わらないのよ。
全てはメッセージ、という風に捉えたら、我々がどうしていったらいいのかが簡単にわかる。愛と絆の社会をつくるだけだよ。みんなで助け合っていったら、無駄がなくなって原発がいらなくなって、ものを大切に使うからゴミが出なくなって。そして地球と持続可能に暮らす社会ができる。わかりやすいよね。
こんなに簡単なことなのに、なんで人間たちはそれができないのか。それは、賢すぎるからだと思う。つまり過信しているの。自分が正しいと思って、自分が望む世界を求めているの。
でもね、自分が望む前に、我々はこの宇宙の法則、地球生態系の法則の中に役割をいただいて生まれてきているの。自分が生きるという事は、この全体の法則によって、ネットワークの中に生かされているんだから、自分はまず意識を持ち役割を果たすこと。宇宙の意に沿うこと。それが「いただきます」って心なんだよ。そして生きていることが「ありがとうございます」ってことなのよ。
普通の人は、病気になって「ありがとうございます」なんてことは言わないと思うけど、今の考えだったら「ありがとうございます」って言えるよね。問題ごとに出会って「ありがとうございます」って言えるよね。だって、それは自分に対するメッセージだもん。そこで学んで次に生かしていく。それができる人間が地上に降りてくると、僕は地上天国になると思うんだよ。
「ありがとうございます」をちょっと分析するね。
「ありがとうございます」っていうのは、「ありがとう」と「ございます」の二つになっている。「ありがとう」っていうのは、「有り難い」、つまり「有ることが難しい」ってことよ。それが「ございます」だから、「あるわけのないような難しいことが起きている」ってことを言っているわけよ。
我々が生きているということは、すごい有り難いこと、ものすごい奇跡のような難しいことが起きているわけ。例えば病気になるということも、健康な者がわざわざ病気になるということは、何かこの宇宙の法則から外れていて、病気を通してそれを教えてもらっているんだよ。そんな難しいことを今与えられている。有り難いことが起きているのよ。
「ありがとうございます」っていうのは、その智恵が湧いてきてそれを理解できたときに、有り難いなあ、ということなのよ。
「働く」って字は人が動くと書くでしょう。人が動くってことは生命として生きているということです。(※9月4日いさどんブログ「宇宙視点の働き方」をご参照ください。)生命は生きる命。命は「みこと」ですから、神が生きているということ。我々も、生きる神なのね。生命は循環して巡り巡って変化して進化していく。すべてが循環しているのだから、これは絆の象徴なんですよ。地球の生態系も宇宙のネットワークも。そしてすべてのものを生かしている。
だから、地球にはゴミが出ない。人間は区切って損得勘定するから、人間社会だけがゴミを出す。そのゴミが出ない地球生態系システムが生命の姿で、それはまるっきり我々の身体の中の構造と一緒なの。その中で人が動くってことは、健康なネットワークを健全につなげていくって事ですよ。それが「はた(傍)」を「らく(楽)」にする、「はたらく」ことの本当の意味です。人間には特にそのことを、この世界の中で託されている。
それは何でかっていうと、人が動くとね、動き方によっては災いをもたらすわけね。でも本来人間は、この世界に良いものをもたらすために生きているわけですよ。今、大きく行き詰まった問題があるとしたら、それを学び活かした先に、それを越えた社会があるってことなのよ。そこを生きる者たちは、今の社会に疑問を感じて「NO」と言っているのよ。それは今の社会では問題児だけど、それが生かされる時が来るだろうと思うよ。それも「はたらく」ということだね。
あきの:
そういう人たちがこれからどんどん増えて、それが多数派になると思いますか。今はそうやって問題ごとから学ぼうとする人たちは少数派だと思うのですが。
いさどん:
そうそう。時代は過去から未来へ進んでいるよね。そうすると、その先端を行く人はほんの一部の人たちなのよ。大部分の人は日和見ね。そしてその後ろに抵抗勢力がいる。今は抵抗勢力がすごく大きくなってる。なぜかっていうと、五感で豊かさを感じちゃって、その魅力に取り付かれている人が多いんだよ。
それで、今「何かちょっと変だぞ」って感じて、新しいところへ移行しようとしている人は全体の一割いないね。1%かもしれないね。でもね、今までの時代はこういうことを人類に表現させる時代だったのよ。
人間は変わらないからいつまでたってもずっと一緒と思うかも知れないけど、地球が自転して、毎日僕らは朝をもらって、夜をもらって、年をとっていくでしょう。地球が自転しているから、経験を積んで進化しているわけでしょう。すると、これは人間の歴史なのか、地球の歴史なのかっていったら、地球の歴史なのよ。年代は確実に刻まれていくわけよ。それは地球暦でいう、他の惑星との絡みもあって刻んでいくわけだ。
今、人類はこの時代の表現をしている。その前は戦争時代だったよね。そして今も戦争の名残が残っている。だって社会は平和じゃないもんね。個人の心も、家庭の中も、会社同士もみんな対立しているんだから。平和もどきだから、孤独死が起きたり、うつ病が発生しているんだよ。
今地上に降りて来ている人間たちは、この時代の役割を託された人たちなんだよ。上の世界には魂がいっぱいいて、地球へ降りる順番を待っている。この時代はこういう表現をする魂に託します、と言って、自分の番が来るのを待っているんだよ。
だから今ここに降りて来ている子ども達は、次の時代を担う魂たち。だから、それが多数になるかならないかっていったら、地球は時代とともに進化していくのだから、そうなるに決まっているのよ。でも、それが不安に思えるのは、今の現状しか見ていないから、現状がずっと続くと思っているんだよ。
例えば木の花で長年やって来て、もうここでは限界だと思っている人がいる。それは今のこの部分だけを区切って見るからそう見えるのであって、木の花は確実に進化するところです。ではなぜその人がここにいられないかって言ったら、自分は先進的な考えをしていて、もっと素晴らしいところを自分がつくっていけると思っている。それが落とし穴なんだよ。
道は地球が刻むのであり、法則が与えるものであって、我々はそれを頂く者なんだよ。シナリオも監督も、見えないところにいるわけ。我々はこの地球の舞台の中でそれを演ずる役者だから、見えない側から台本を頂いて演じなきゃいけないのに、自分がつくる側になっている。謙虚さがないからそうなっちゃう。だから安易に結論を出して、離れていってしまう。ここにいたら、確実に次の時代の木の花に出会う。確実に今を善意に受取っていたら、次の時代の地球に出会える。
というふうに僕は考えるんだけど、どう?
あきの:
そうですね。
いさどん:
こうやって聞くとなるほどなと思うのに、それを聞かないと信じられない。こうなるんじゃないか、ああなるんじゃないかって悪く考える。
たとえばさっき、地球環境が人間の暮らしを脅かすって話をしたね。これは地球自身が今のあり方の人間を好まないからよ。当たり前だよね。自分の体にガン細胞が発生したら、我々だってなんとかしてとろうと思うじゃん。その時に、人間の姿勢が変われば、僕は地球に起きる現象も変わると観ているんだよ。だから心が大事なのよ。生きることの上で、何よりも一番に心が大事なのよ。
ところが、今の人間は体主霊従といって、形を先にして霊(心)を後にしているんだよね。本来は霊主体従、霊が先に来なきゃいけないんだけど、それをやらないで形ばっかり求めている。それは、今の人間達が知識豊富になって自分の願いを叶える、我を優先させるってことをやってる結果だと思う。
さて、これからあなたは、どう生きますか?他に何か質問ありますか?
あきの:
いろいろあるんですけど・・・
いさどん:
今の事がわかるとね、だいたい他の事も自ずと答えを出せるようになる。そういう仕組みが分かったら、不安定要因って消えるのよ。そう考えるとこれも不必要だな、あれも不必要だなって、自然に疑問が消えていくのよ。そういう捉え方を持つと、病気でここに来た人が治っていくんだよ。
地球に物語を刻んでいくために魂がいて、その地球と連動して人間が生きていくと、地球に対して人間が有益なものになるわけだよね。それがこれからの時代だと僕は考えている。人間はいかに地球の声を聞いて、そして地球と共に存在し続けていくのかということが、21世紀の人類の命題かなあと思う。
さてそれがあきのちゃんからすると、「どうやって人を目覚めさせるんですか」ということになるんですよ。僕は「それは神様が握っておられるんじゃないですか」と思うんだよ。
ゆき:
人を変えたいとかじゃなくて、私もこれから伝える仕事をする上で、こういう本当に自分の魂がわくわくすることとか、これからは本当にみんなが調和する時代なんだよってことをテレビから伝えていければいいなと思うんですけど、ただ、それって本当に受け取る人の心とかタイミング次第というか、神様が決めるところみたいなところもあるのかと。
いさどん:
神様が決めるところって言っちゃうと、すごい受動的っていうかね、それじゃあ人間は単なるマリオネットになっちゃうでしょう。神様は天の法則を司っていて、それを受けて人間は地上で具現化していくんだから、やっぱり人間がそういう広い世界観を持つってことが大事だね。
で、確実にそういう人たちは増えているけど、その増えていくための働きが、一人一人の中の気付きってことでしょう。まず最初の「なんか変だぞ」というセンサー。その「変」をどのように育てていくかっていうことが大事だと思う。それは一人一人の意志ね。そういう大きなスケールに基づいた人生を生きた人って、いい死の迎え方をするよね。ああ、良い人生だったなって、完熟死で旅立っていく。もう悔いはないって。
本来、人間は魂が進化、成長するために生まれて来ているのよ。肉体は二十歳からはどんどん衰える。魂の成長のために生まれて来ているのに、それをやらないで、形だけを求めて欲ばかりでいくと、欲の虜になって、死ぬ時にあれはどうしようこれはどうしよう、あれはやってない、これもやっていないと、そういう事ばかりを考えて見苦しい死に方になるから、意識レベルは低いままになる。そうすると、次の人生ではまたそれにふさわしい修行が与えられて、それを繰り返すことになる。
あきの:
最近の大人ミーティングがすごく面白いですね。
いさどん:
あの大人ミーティングを見て、ここでやっていく意欲がなくなった人もいるんだよ。だから、どこを見ているかということ。僕はますます、この方向へ進むべきだなと思ってる。
ゆき:
じゃあ、最後。いさどんは、こういうふうにいろんな人に何か伝えるときに、気をつけていることってありますか?
いさどん:
これが正しいという伝え方はしない。正しいは人間の数ほどある。だからあなたが考えてそれをYESと思えば行けばいいんだし、思わなければ行かなくていいんだよ。それが今のあなたにふさわしいことだから。そしてそれぞれのプロセスを踏んでいくんだから。
ただし場合によっては、あなたの今の心の状態を知りたいと求められれば、情報として分析して提供することはできます。それをどのように受け取るのかは、相手の問題です。僕は常に情報として伝えている。これが正しいということではなくて、こういう捉え方がここではできますよ、でも違う切り口でやるとこういう捉え方になりますよという、情報発信をしている。
だってこの世界は、情報の洪水なんだもん。それを個人の欲だとかいったもので汚染して、偏った情報が正しいことになってしまう。実はこの世界は情報の連鎖だから、正しいも間違いもないのよ。どこの位置に立ったらこれが悪に見えて、どこの位置に立ったらこれが善になるか。悪と捉える事もできれば、これってこのおかげでこうなるんだねって善にもなる。それが宇宙の構造だよ。アナウンサーとしてこんな話をするのは、ちょっと難しいね。
ゆき:
難しいですね。だから本当に、それこそ情報としていろんなことを伝えていくしかないかな。
いさどん:
テレビ局では、自分の言いたい事を言えるわけじゃないのよ。例えばあなたが、アナウンサーという立場でもらった原稿を語る人からキャスターになったら、そこは変わるでしょう。
ゆき:
たぶんどっちもやる。
いさどん:
あなたの個性がそこで何を受け取っているかによって、魂の入っている言葉、言霊を発するのか、それとも単なる棒読みの魂のない言葉を話すのかが変わってくる。アナウンサーはどちらかというと言霊は要らない立場に立つことになるね。機械でいいんだから。でもキャスターになって、言霊を発したら、その人は社会にとても大きな影響を与えるよ。
言葉って正しく使わないとだめだしね。どの言葉をそこに使うかによって、そこに魂が全部表れる。そして世の中にそれが発せられると、それがずーっと人に広がって、社会がつくられていく。
だから、僕はどんな事があっても神様の善意を信じている。この世界は善意なんだ。ほら、あそこに神様がおいでになるじゃない。斜め45度上を見れば、神さまがおいでになって、なんか言ってるなあと。それは言葉で返ってくる。まあカルトの世界ですな。見る人によっては、カルトの世界。
あきの:
どう違うんですかね?
いさどん:
カルトかカルトでないかは、そこの世界に価値観があるとするでしょう。そこの中で限定されて、他に一切通用しないもの。それがカルトですよ。そこにあるものが少なくとも周りを巻き込んで、そして社会の中に反映されていくなら、それはカルトと言えないものです。
過去から未来へ進むときに、最先端の思考を行く人は少数派で、大部分の人からは見えない。一歩先のものを見てすごいとは言っても、2歩先のものは見えないから、あれは自分たちにはわからないし、何の役にも立たないよって、カルトだと見る時がある。しかし、そこには実際にカルトもいるんだよ。その見分けは難しいねえ。
あきの:
難しいですね。
いさどん:
それは、心で感じるものだよ。市川での『確固たる居場所』上映会の運営スタッフの何人かは、(メンバーをやめた)よしどんが木の花のことをめちゃめちゃに書いているブログを見ていた。それで、上映後の質疑応答でその話が出るのかと思ったら、もっとこの生き方を広げようという話になった。
それは、よしどんのやっていることの悪意を感じて、じゃあ真実は何だろうって思ったときに、僕は何も話さなかったけど、あの映画を観て、そして上映後の話し合いを聞いて、「あ、これは本物だぞ」と思ったんじゃないの。何かを観たってことだと思う。そこでは言葉や説明はいらない。
人にそれだけの力がつくと、何も聞いてなくても、あ、これは本物だって分かるようになる。これは臭いとか、これはいい雰囲気だねって、人間は仕分けられるようになる。それが今、僕たちが目指している「阿吽」というもの。僕は阿吽を20年間求めて来たけど、なかなか難しかったね。ずっと言ってきたけどね。これが一番省エネなんだよね。真理が湧いてくる。今、ひまわりに阿吽の書が飾られたのは、ここが阿吽の場所になってくってこと。次の進化に入ってきた。
あきの:
楽しみですね。
ひとみ:
またすぐ来ないと変わっちゃうよ。
あきの:
そうですね。いまも激動の渦の中にいるって感じですね。
ひとみ:
そうだね。今は一番大きいかもね。変化がね。
いさどん:
来年は「うねりの年」だから、来年が一番変化が大きいだろうね。今は無駄をなくしてきっちり土台をつくって、その上に新しく構築していく時だね。
ひとみ:
それが個人個人の中でもおこなわれているし、全体でも行なわれているね。
いさどん:
ここはある意味ひな形だから、世の中に起きることが先に起きているんだよ。これから世の中でも、天変地異や経済システムの破たんなど、人間が右往左往することが起きてくる。そして波紋がたくさん起きる。池に石がたくさん投げられるってことだよ。
でも波紋が起きたら、そこにサーフボードを持っていって波乗りすればいいのよ。
だって、これは神さまとのゲームなんだから。