不退転の決意を自らの魂に問う

新年明けましておめでとうございます!

今年最初のいさどんブログは、元メンバーが一部インターネット上で木の花ファミリーを批判し、それに端を発してメンバー数名が木の花を離れたことを受けて、昨年末にいさどんが語ったものです。

元旦の朝、初日の出に向かう木の花ファミリーメンバーたち
元旦の朝、初日の出に向かう木の花ファミリーメンバーたち

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
これまで、木の花は信頼をベースに維持されてきた。それが崩れるとすごく厄介だよ。
今回なぜ崩れたかを振り返ると、ここではまず『絶対に崩れない』というお互いの信頼がもとにあり、崩れそうになったときには、そこからまた再構築していくという約束があった。それが不退転ということでもあった。しかし、そうではないところへ行ってしまった、ということが現実でもある。
その現実を受けとめなければいけない面も確かにあるが、それは信頼をベースの場所ではルール違反だよ。しかし、そういうことが起こるのがこの地球上だということでもある。違う視点でみれば、“絶対”がない場所ということでもある。

ひとみ:
地球が?

いさどん:
そう。そうやってこの世界の法則がつくられている。だから、こうだと思い込んだことに保証はないぞ、ということになる。だからこそ、それを越えた揺るぎない場所を創ろうとしている。
そんなことを考える人はほとんどいないし、それを目指した人達はほとんど断念してきた。むしろ、今我々がやろうとしていることを成し遂げた人たちはいないのではないかと思うんだよ。例えばヒマラヤの奥地で精神性だけで営まれてきた村や中国のタオの世界などにはあるけれども、それは限られた環境の中でそういった精神性が保たれてきたのであって、それもラダックなどと同じように、今の文明の魅力やエネルギーが流れ込んで崩壊しつつある。だから幻の場所になってしまっている。色々なものを汚染してきた文明の側からその世界を発生させる作業は初めての試みであり、挑戦だと思う。

ひとみ:
そういうことはインディアンのような先住民族に伝わる予言にも出てくることだよね。白人たちの文明が流れてきて多くの仲間が道を失っていった。

いさどん:
我々の生き方を、20世紀型の価値観に慣らされている人々は、その大切さがわからない。

ひとみ:
その価値観にすっかり浸かってしまっているから。

いさどん:
そう。多くの人の中に、そこに理想世界があるのではないかと築こうとした動きはあったのだけれど、それが無理だという結論になってきたと思うんだよ。神さまから『難しいことを与えておるゆえ、心して行け』と言われるわけだよ。本当にその言葉通りだと実感している。でもその難しいということは避けて通れということではない。難しいのを覚悟してその自覚があればいける、との励ましでもある。誰もこのようなことに気が付かない斬新な視点だよ。

この視点は今の人類が抱えている問題点を解決する要素を秘めている。その視点で歩んだときに、今の人類の価値観がガラリと変わる。それには、今の人間たちが持っている幸福感などを自らの意思で捨てなければいけない。何が大切かをよく考えて、そこではどちらに価値があるかを汚染されていない心で見極めなければいけない。自らの内にある真我の叫びに問うて真の歩みに繋げなければいけない。

今、このように文明が発達して豊かな社会なのに、人々はそのことによって不安を取り去り幸せを享受することにはなっていない。相変わらず豊かさは経済を押し進めて政府は物理的に豊かになろうと提案し、そこに国民の支持が集まって極端に強い政府が出来上がっている。それはインフレを呼び、格差を拡大させ、競争社会の中で更に矛盾を発生させて病気や犯罪などの問題を生む原因にもなっている。
そういったものを自らつくりながら、今度はそういった矛盾を解決するための産業として、医療や警察で手を打たなければいけなくなり、お金がたくさんいる社会ができるわけだ。そしてこれは世界中で起きている。それは人類の問題でもある。

国はますますエゴになり、自らの国のことしか考えない。そして今、とてもきな臭い国家間の関係が現実に育ってきた。そのために、最も不必要な軍事力の整備にお金をかけるようになっている。これは統合的にものを考え、何が一番大切なのかの冷静な判断の視点を失っている状態である。人々やこの国のリーダーたちが、そのことを切り取って対処療法的に捉える視点の中で思考しているからこそ、このような状態になっている。
これはイタチごっこのように繰り返されているが、そろそろ宇宙の中の天の川銀河・太陽系の第三惑星地球は奇跡の星であることに気付くべき時が来ている。ところが、地球にいる人間の中でも優れていて能力の高い人の意識が、そこから外れている。これはまさしく生命の中でいう蘇生の仕組みから外れた癌細胞のようなものだよ。
生命の中にも癌細胞はいて、それにはそれの相応しい役割があるのだけれど、人類の癌細胞的な営みが何を意味しているのかを今考えて、人類自体の歩む方向を変える必要がある。自らが癌細胞であった時に、自らの存在に対して誇りを持って喜べるのか、誇りを持って進めるかということなんだよ。

木の花ファミリーが今まで歩んできた中で、確かに切り取ってみれば、トップダウン的なことも言ってきたし、厳しいことも言ってきた。そういうことだけを切り取って見て、理解しない人がたくさんいた。しかしその厳しく見える背景には、美しい心や美しい地球に相応しい者になるにはどうしたらよいかということを伝えていた。
そのことがわからないエゴを主張する人達がこのコミュニティの中にいたものだから、自らの意思でコミュニティに入った限りは不退転の決意で自らを磨いていくというルールの元にあるのだと言うことを伝える必要があったんだよ。

ひとみ:
このコミュニティはそういった目的を掲げていて、その目的を理解して本来は入ってきたはずということだね。

いさどん:
入ってきたこともそうであるし、それを継続していく約束の元にあった。そして、そこから外れようとする者に対して問うたわけだ。そのことが、ここに参加する意識を忘れて自分の主張をする者に対して厳しい結果になった。それが今回のある意味での禊(みそぎ)になったのだけれど、本当はどこに問題があったのか、ということなんだよ。それをもう一度我々は確認して、ここに参加する者たちの厳選をするべきであると同時に、改めてこのことの意味を問わなければいけない。

外から見る人は、物事を切り取っては本当の意味やその奥にある善意を受け取れないでいる。そして形だけに反応している。そうすることで大事なことを見失ってしまっている。今こうして木の花の矛盾が出たことについても、ただ部分的に切り取ってバッシングするのではなく、本当はどうだったのかを振り返るチャンスだと思うんだよ。
我々は大事な歩みをしてきた者として、ここは外すことはできない。そうであるならば、世の中は安易に判断するのではなく、深くそのことを見直して世の中そのものが変わっていかないといけない。このことが統合的に冷静にものを捉えるチャンスでもあるし、今の社会通念や法律がなんであっても、ここは絶対譲ってはいけないことだと思う。おかしいものはおかしいのだよ。人類自体に問題があるとしたならば、その人類がつくっている慣習を変えなければいけないのに、未熟な慣習をつくってそれをかざし、「これは間違いである」とか「これは正しい」などと言うこと自体がおかしいんだよ。
そういった広い視点にこの世の中や人々がなれるかどうかの狭間に来ているのだと思う。だから、我々はそこを曲げてはいけない。昔、天理教の中山みきさんが『世法を恐れて神の道は行けぬ』と言われたけれど、決してこんなものは神の道と言わなくても、宇宙の法則に基づいた生命の価値を表現することだよ。

今こそ人類は宇宙の奇跡である地球の生態系の法に合わせた思考を持ち、己を捨てて絶対調和の中にあることの自覚と共に、その調和の表現の推進力にならなければいけない。そこはどんなことがあっても外せない。
そこの視点に立てない者はこのことがわからないんだよ。だから、それを理解する側に立っている者の責任として、これを進む。観えている者の責任としてそこを進んで、いつか人々がそれを必要としたときに伝えられるように、常に日の出となって行くことを決意する。そういった覚悟が大切である。その大事に気づかない者たちに、もう一度自らの魂に問いかけてみることを勧めたい。

ひとみ:
大事な話だね。
 
 


見えない人は、何を信じたらいいのですか? 〜 ある大学生のインタビュー

あきのちゃんは、広島の大学で国際関係について学んでいる学生です。もともと世界の貧困や格差の問題に関心があり、大学を休学してガーナでボランティア活動をしたり、インドや東南アジアの国々を旅していましたが、「それでは根本的な解決にならないことを感じて、こういう暮らしに興味を持った」と言います。そこで、エコビレッジを卒論のテーマとすることを考え、今年7月に初めて木の花ファミリーを訪れました。「すごくカルチャーショックを受けました。自分はエコビレッジという“形”を見ていたけれど、ここではそれ以上に“心”を大切にしていたから」。
当初は複数のエコビレッジを回ることを考えていましたが、「ここをじっくり見た方がいい」と感じて、現在、午前中はみんなと家事や農作業、午後はメンバーへのインタビューや執筆などの研究活動という形でファミリーに長期滞在をしています。
今日は、そのあきのちゃんによるいさどんへのインタビューをご紹介します。

*インタビューには、アナウンサーとしてテレビ局への就職が決まったばかりのゆきちゃんと、ファミリーメンバーのひとみちゃんも同席しました。
*あきのちゃん了承のもと、インタビュー全文をほぼそのまま掲載しています。臨場感あふれる生の声をお楽しみください。

農作業中のあきのちゃん
研究と畑仕事を両立中のあきのちゃん

 *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   * 

あきの:
今日聞きたいのは、「信じる」ということについてです。
いさどんは天からメッセージをもらったりとか、宇宙の法則が分かっちゃったりっていう霊的な体験をしていると思うんですけど、それができるのはほんの一部の人ですよね。私たちは頭で考えても分からないし、目で見ようとしても見えないものだから、結局は信じることしかないと思うんですよ。私もこういう精神の勉強をしていて、「そうなんだろうな」という感覚はあるので、疑うつもりはないんですけど、ただ、それが見えない人たちは何をもって信じればいいのかっていうことを聞いてみたいです。

いさどん:
見えない人たちが信じるためには、といっても、僕でもただむやみに湧いてきたことを信じているわけではないのよ。これは確実に科学することが大切であるし、その答えが出ることによって信じるっていうことが深まってくのね。
よく宗教なんかで「これは良いことだから信じなさい」と言われて「きっと良いことがあるんだ」って信じたりするでしょ。それは信じてるんじゃなくて、良い事を期待しているだけなのよ。それってギブ&テイクの信仰だから、御利益宗教になってしまうのね。「信じる」ってことの本当の意味は、信ずる心が起きる時に、信じられる何かに出会うってことなのかな。

それでね、僕がやってきたのは、まず最初は信じられないことに出会うわけ。天から言葉が降りて来たとか、光を見たとか、身体に何かが起きたとかいうようなことが起きるわけ。その時には信じられませんよ、そんなのは。信じられないってのは、その事を疑ってるってことではなくて、その起きたこと自体がなんなのかが分からないってことなのよ。
始めのころは、そういった分かんない事が起きたことに対して、僕は常に、それがあったことだけは事実だと捉えるわけ。例えば何か言葉が降りて来た。それは何だか分かんないし、もしかしたら自分は精神分裂のような病気かもしれない。そういう想いも持ちながら、でもそれがいったい何なのかを確認したい好奇心があって、その答えが出るまで待ってる。そして、いつか出るだろうと思っている。それは、この世界には目には見えない流れがあって、その流れを観ていくということなんだよ。

そうすると、現象を通して何かに出会う。人と出会うとか、ものと出会うとか。その時に「あっ、あの言葉はここにつながっている」とか「あっ、あれはこういうことだったんだ」というふうに、気付きにつながるのね。それを何回か繰り返していくと、そのうちに、あっ、と思う事があると「これは何かの前兆だね」っていうことになって、もうそこでは、それがどうなっていくかを待ってみましょうという心になる。そこで疑う心はなくなって、自然に信ずる心がおきているわけ。
それがどんどん進んでいくと、起きた事と結果が、法則化されてくるのね。「こういうことが起きたから、これはこうなる」というように、データとして積み重なっていく。それは、出来事を通してその奥にある流れを感じ、学んでいくということでもあるんだよ。

みんなは、信ずる心が強い人っていうのは、心がしっかりしていて明快に答えが出ているから、確信を持ってやっていると思うかもしれないけど、僕の場合はデータに基いて判断しているんですよ。
ここに、ケア滞在でうつ病とかアル中の人が来るじゃない。今まで何人もそういう人を見てきた中で、だいたい、この人はこういう傾向を持っている、この傾向とこの傾向がくっついてこうなっているっていうのが見えてくるんだよ。それで、そのデータに基づいて、このケースはこうしたらいいね、と判断し、伝える。それが的を射ていくと自信になるから、それが信ずる心につながるんだよね。

あきの:
じゃあそういう経験とか出会いが今までになかった人がそうするためには?

いさどん:
それは思考の問題で、例えば何かに出会うとそれは嫌な事だってまず否定的に見る癖の人がいるじゃない。あるいは何でも都合のいいように捉えていく人もいる。
何かに出会うってことは、必ず過去に何かがあって出会っていて、その出会いが原因となって次に何かを起こすもとになっている。そこで、今ここで見ている現象を自分はどんなふうに捉えているかをまず見るんだよ。これは嫌だとか、好きなことなら実際より良く見えているとか、色をつけて見るでしょ。そういう色付けをしないで、目の前の現象を客観的な情報として捉えていく。それがどう展開していくかは行ってみて判断すればいいのだから、ポジティブにとりすぎる必要も、ネガティブにとりすぎる必要もない。自分の心の癖もよくつかみながら、それをいかに冷静に、情報として観るかが大事なんだよ。

この間市川で『確固たる居場所』の上映会を主催してくれた人たちの中の一人が、「木の花は今、ある意味創設以来の危機にいます」って言うんだよね。そうとも言えるけどね、僕らの感覚だと、これは神様ごとなんだよ。
僕も生身の人間だから、目の前の事を見て、何とも感じないってことはないよね。そりゃ心も身体も反応する。事実疲れているから、危機といえば危機なんだけど、木の花ファミリーが始まった時から、我々は天から降りて来たことを実行していて、途中でいろいろ言われても、それは全部そこで必要なことだと信じてやってきたわけだよ。
ということは、僕のデータの中では、今危機に見えるような事も、実はチャンスなのね。つまり、次の事が生まれるチャンスなわけだ。そこでネガティブに反応したら、それは無駄なエネルギーじゃない。だからこそ、この顛末がどうなるか見せてもらいたいと思ってる。

僕の考えているこの世界の構造について話します。
人間って個があるでしょ。あなたも、あなたも、たくさんの個があるでしょう。個は自分の意識を持ってこの世界を見ている。そして、自分の考えで善し悪しを決めている。
ところが、実はそこに個を持っているからそうなっているだけで、実際の構造は個が巨大に集まって、大宇宙があって、そこから自分に近づいてきて、自分の身体になっているだけのこと。どこで区切るかによって、見えるものは変わってくるんだよ。

自分というものをどれだけ思い通りにできるかって言ったら、まず呼吸も、心臓も、コントロールできないでしょう。睡眠もコントロールできないでしょう。食欲も実はコントロールできないんですよ。ましてや排泄なんて、コントロールできないでしょう。
暑い時に汗を自分でコントロールできないでしょう。今はたくさん出せとか、かっこわるいから汗出ないでとか思っても、そうはいかないじゃない。そういうことを人工的にやると病気になっちゃう。命は自然の中にあるのだから、それは違いますよってことなのね。

われわれ人間は、この全体のシステムの掟の中で、自らの個性を活かすように役割をもらっているわけね。何かに出会った時に、自分というものの概念で「こうなってほしい」と思惑を持っても、結構はずれる。それよりも、何か出来事に出会ったら、この世界は、この出来事を通して私に何を求めているのか、この出来事を通して私に何を教えているのか、というふうに、僕は逆に観るわけ。
それで、その視点で世界をずーっと分析していくと、調和なんだよね。調和っていうのは絆がないと生まれない。植物でも動物でも空気でも太陽でも全部調和している。いろんなものがネットワークして、この生命世界をつくっている。宇宙の星と星の関係もそうなっている。
で、その絆とか調和っていうのは、愛というもので初めて成立するわけ。そこには、絆とか調和とか愛とか善意しかない。とすると、この世界は根本的に善意でできているということになる。

しかしこの世界には、被害妄想だったり対立があったり、悪意があるじゃない。それは何のためにあるのかといったら、愛を増幅させるためにあるのね。じゃない?つまり、辛いな、苦しいなと思って、それが越えられた時にすごく楽が待っているじゃない。でも楽ばっかりだったら、ちょっと楽があったって、なんだそれだけのことかってなるよね。
神様は、「私は光である。光の中で私の存在は見えないのだ。だからわざわざ闇をつくって、私が見えるようにした」と言うのね。そういうふうにできているのよ、この世界は。

あきの:
そういうのが見え始めたのは30歳の頃ですか?

いさどん:
ちょっと待って。それは見え始めたんじゃないんですよ。今、この世界と自分との関係を科学してったじゃない。
みんなは大きな世界を考えてないんだよ。つまり、自分が入れられている器(身体)がシステムとして機能しているっていう考えを持たないで、自分の側からものを見ているだけなのよ。損か得かとか、この部分は気に入ったとか気に入らないとか、これは忌まわしい出来事だとか美しいことだとかって、区切って心が反応しているのよ。
だけど実際の世界は、全てがつらなって一つの世界としてできていて、自分が反応している感情ですら、その中の一つの役割なんだよ。つまり、良いとか悪いとかっていう世界じゃなくて、それは情報とメッセージなんだよ。今、自分の目の前に何か出来事が起きているとしたら、それはこの世界の意志として提示されているわけだから、僕もそれが何であるかを観てみたいのよ。

何でかって言うとね。今起きていることが苦痛だとしよう。でもこの世界全体は、善意なのよ。善意なのに今苦痛が起きているとしたら、この苦痛の結果どんな善意が示されるのだろうと思う。そこに行きたいと思う。
普通の人は目の前に苦痛が現れると、苦痛が嫌だからって、その苦痛から逃げようとする。僕は苦痛は嫌だからこそ、その苦痛を理解しようとする。するとそこから学べて、その結果が何であるのかがわかると、それは善意だったんだってことになる。全てその延長なの。大きな苦痛がきたら、大きな喜びがある。

そう考えるのは、僕が信じる心が強いからだという事もいえるでしょ。だけど僕は、科学しているんだよね。このでっかい世界も、でっかいっていう形で区切っているし、もっとちっちゃく例えば太陽系の構造だとか、地球の生態系の構造だとか、国家のあり方とか家族のあり方とか自分の個人のあり方ってのを、科学している。そうやって今まで積み重なってきたものなんだよ。

あきの:
それは知識として何か本とかから入れているとか・・

いさどん:
ないです。本とかの知識は、湧き出してくるものの確認としてあったものです。

あきの:
やっぱりそれは自分の中から・・

いさどん:
湧き出してきたのです。もし、僕がこれを本に書いて出したとしよう。結構そういうのを求めている人はいると思うんだよ。だけどそれを読んだところで、それは知識にしかすぎないんだよね。知識はその人の本質を変えるものではない。着ている服のようなもので、着替えたら終わりなのよ。
その本質を変えるものは、智恵の湧き出し口を広くするってこと。我々の中に泉があって、そこから智恵が湧いてくるんだけど、それは無限に湧き出てくる。その無限の泉は誰にもあるんだけど、こんこんと湧き出してくる人もいれば、ちっとも湧かなくって詰まっている人もいるわけよ。

あきの:
なぜ詰まっているんですか?

いさどん:
詰まっているのはつまんないね。つまんないのに詰まってる。(笑)
それちょっと考えてみて。聞くばっかりじゃなくて。

あきの:
えー・・・私が思っていたのは、みんな詰まっているというか、みんな分からないんだと思っていたんですよ。

いさどん:
でも、結構分かりだしている人たちが増えている。
例えばね、分かんなくても、世の中のあり方をみて、「変だな」と思う心がある。なんとなく会社に行って働いて給料もらって家庭をつくって過ごしている。でも何か、会社や夫婦関係のストレスでぎくしゃくしたり、子どもも不安定になったり、その中で自分の気持ちもざわざわして、何か変だぞ、と思う心が湧いてくる時があるでしょ。
それは、僕は智恵が湧き出そうとする波紋なんじゃないかなと思う。そこでただイライラして喧嘩して終わりっていうんじゃあ、いつまでたっても泉は開かないよね。そこからその扱いをどうするかっていうところが、信じられる道に進む一歩かな。

あえて全部答えを言いたくないのは、やっぱ考えてもらいたいからだね。お釈迦様はこう言われた。「ガンジスの河の砂のごとく衆生はおる。」
衆生というのは人々のことだよ。そして、「そのすべてに仏性あり」と言われた。すべての人に智恵の泉、智恵の湧き出す仏になる要素があると言われた。
そこでお釈迦様の言葉は終わりなんだけど、僕にはその後、もう一言足して言われたのよ。「ただし、その道を生きた者にだけある」と。つまり、すべての者に仏性はあるんだけど、そこを開こうとする者、そこに向かって歩んでいった者にだけあるって言われた。

だから今あなたが言うように、今の時代の人たちはなかなかそれをしないのよ。これは「末法の世」といって、知識とか豊かさとかそういう事をいっぱい求めてできた時代ね。知識が豊富な時代だから、もうほとんど読み書きができないような人はいないでしょ。みんな賢くなったのね。
で、賢くなればなるほど人間っていうのは、自分というものが強くなるのよ。私の考え、好み、そういったものが優先されるようになるのね。だから、物理的には豊かな世界はつくったけど、結果として「私が」が強くなった。「私が」ばっかりだと「私が」「私が」ってぶつかりあうでしょう。
そして、人は多くいるのに、絆がない。絆がなければ愛がないから、本当の豊かさがないんだよね。お金があるのに豊かさがない。そういう世界をつくってしまったのね。
それは、自分が賢いと思うからよ。実際に、いろんな事を勉強して知っているから賢いんだよね。でも賢いということの良さと、賢いことの愚かさっていうのがある。

賢いだけではリスクがあって、自分が賢いと思った時に、「頂く心」がなくなる。自分は能力が高いと思っているから、自分で達成してやろうと思うわけ。これが他の生命とちがう、人間の特徴なのね。
それが強くなっていくと、自分で何でも納得しよう、獲得しようと思うわけ。競争してでも勝ってやろうと思うようになって、今のような世界ができあがってくる。「自分の願いを叶えるのは自分の努力だけだ」と思っていて、そこには「頂く」とか「信じる」心がなくなってしまう。自分の能力だけで生きていくことになるんだよ。
信じること、信仰心というのは、この世界にある仕組みとか、自分を命として存在させているもの。自分であって自分でないもの。そのバランスが良くなった時に、初めて信仰心って生まれるんだと思うんだよね。仏性があるのになぜ仏性が表れないのかといったら、その「自分が」という我が優先されて、邪魔しているのね。

僕はこういうことに出会って、頂いたことすら疑っていたし、頂いたことを自分流に考えたわけよ。分かんなきゃ悩むし。それで結果として、自分がどんなに悩んでどんなに考えても、答えは結局なるようにしかならないのよ。それで、自分流に考えても無駄だなってことに気付いた。
自分がああなったらいい、こうなったらいいと考えるんじゃなくて、起きた出来事をよく観て、それをしっかり自分の中に留めておいて、やるべきことをやっていれば答えは出る。その時に起きた目の前にあることをやっていけば、答えは出る。こうなってほしい、ああなってほしいと、先にエネルギーを使わないのよ。
そのエネルギーは、次の出来事が起きた時にそれを分析する力、そしてそれに対して行動する力に使う。そうするとエネルギーが少なくて済むよね。出来事は次々と起こるから、現場合わせってことを常にするね。
それができない人は、二段階も三段階も先まで読んで、自分の中で結論を決めてしまって、不安になったりする。先に読んで勝手に思い込んで検討違いをやって、いってみたら全然違ったという無駄をやる。そうすると、心のエネルギーはざわざわしながら無駄遣いばっかりするんだよね。
前者の方は、必要な時に必要な分だけ使うという落ち着いた状態でしょう。そうすると、どっしりと安定して見える。

あきの:
木の花は、社会の2歩先をいく生き方を今されていると思うんですけど、つまりこの木の花のような精神がそのうち広がっていくだろうっていうことだと思うんですけど、今これを信じられない人もたくさんいるじゃないですか。それでここを出ていってしまう人もいるじゃないですか。これがみんなに信じられるようになるには、どうしたらいいと思いますか。

いさどん:
それが人間の考えなんだよね。この問題が起きているから、私たちはどうしたらいいかっていうことではなくて、もうちょっとそこから一歩引いて見てみよう。

その問題が起きているということは、時代がそれを刻んでいるわけだよね。そうしたら、この問題を通して、時代は何を求めているんだろう、私たちは何をしたらいいんだろうってことを考えればいいんだよ。
もしもこの生き方がいらないんだったら、無駄なエネルギーだからやめたほうがいいよね。面白いのは、一方に非難する人や去っていく人がいて、一方では待ってましたとばかりに求めてくる人たちとの出会いがあるのね。つまり、この非難して去っていく人たちは、今は出会いの旬ではないんだよ。だから去っていくことも、進んでいくためには必要なんだよ。
今まで共にあった者が去っていくことも、今まで共にあったということは、事実として、今までは共にあることが必要だったんだよ。でも今は、さらに先の段階へ進もうとしている。

例えば富士登山でも、だいたい8合目まではみんなで行こうねというのよ。でも8合目から上は、その人の体力とか意欲とかによって、個人個人でまったく条件が違うのよ。だから8合目から上は、一人一人の在り方に合わせていきましょうねってことになる。そこからはどんどん狭くなっていくけど、それは一人一人の決断の道なんだよ。
そうしたら、それでもやっぱりみんなで一緒に来たんだから一緒に頂上へ行こうよって無理に抱えていたら、全体が頂上に行けないことになる。志同じくした者は、一人一人の歩みだから頂上で会おうねって言いながら、一緒の人は一緒に行けば良いんだし、そうでない人はそうでなくていいんだよ。だってゆっくり行かなきゃいけない人もいるんだから。
そのゆっくり行く人にサポーターとしてついていく人は、そういう役割だったらそれでいい。でも自分も頂上に行かなきゃいけない人だったら、無理に合わせていたら自分のリズムに合わないから、その人も頂上に行けなくなっちゃう。

そういう意味で言ったら、僕は今、良い事が起きているんだなあというふうに考えているんだよ。だってもともと全て善意なんだから。その考えで分析していくと、そこが観える。
今までは共にあることが必要だったんだけど、ここからはその人の心に合わせた道を行くべきだったんだねと。
その時に、ここまでは共通していたものの見方が別れて、別の発想になっていく。それは、「今まで一緒だったのに、どうしてそんなに変わっちゃったの」ということではないんです。つまり、その人にとっては同じ道ではもう先へ進めないからこそ、他の道で進むために、違う目線が育ったということなの。それを無理矢理一緒に行きましょうって言ったら、無理がある。

結局、とことんこの道をいく、信ずるということは、僕は科学することだと思う。科学する事によって細かく理解して、それをちゃんと順序に沿ってつないでいくと、全体が観える。すると、科学した事も法則の中にあって、法則が理解できたら、ひとつの情報で右往左往もしない。
この法則の中の、一つひとつのパーツがあるじゃない。例えばある部分を切り取ってみた時に、これはこれだけで判断してもいいものだなあとか、これはこれだけではいけない、もっと5つぐらいを見てみて結論が出るものだなあとか。
僕の信ずる心ってそんな感じです。

あきの:
他の木の花のメンバーだとどうだと思いますか。

いさどん:
僕はみんなにそうなってほしいと思っているんだけど、やっぱり今までの木の花のあり方をつくって来たというか、導いて来たのは僕なんだよね。そうすると、これは木の花の歩みであり、僕の歩みだったんだよね。

8合目まではそれでよかった。でもここからは、一人一人が今まで学んで来た事を生かして、8合目以降の意識になって歩む必要がある。だから、依存的な人はもっと自らに明快なものを提示して、自分たちの先を観られるようになってほしいと思うのね。ある人は自分は悟りたいんだとか、ある人は愛いっぱいで安心したいんだとか、そういう人たちがいるとするでしょ。そういう人たちも、もう自分で判断して歩みなさいって。今、僕はそういう段階だと思う。
そうするとそういう人たちは、これまでとても深く関わってきて、そしてこの生き方を大事に思っていても、「なんだ、もうくれないのか」と離れていく人もいる。僕はそんなふうに思っているつもりはないんだけど、そういった体質もあるんだよ。良い答えが出ないんだったらやめだと、現状を切り離そうとしているわけでしょう。

8合目以降は一人ずつで行く道。そうしたらそこには当然個人差が起きるわけだ。
大丈夫?って声を掛け合って、それでも行こうよって言ったとしても、今の状態しか見えなくて信じられない人は、この先に行っても良い世界なんてないじゃん、と思うんだよ。しかし、この右往左往を乗り越えた先に、みんなが成長して、答えがあるんだよって、それは行ってみないとわからないじゃない。でもそれが信じられない人は、現状がずっと続くと思っているわけよ。だからこんなところにはいられない、と。自分の都合のいいところを求める心が強くなって、信ずる心がないから、抜けていくことになるわけよ。

今離れていく人は、みんな信ずる心が足りない人。自分の安心を求めているのよ。でも安心とか信じる心は、自分がそういう人になるってことでしょう。そのためには、自分がその心で歩まなきゃいけないわけよ。今は、そういう段階の選別にきているなあと思うんだよね。
例えば、8合目までは半袖でもオッケーだった。でもそれ以降は冬の装備が必要だよ。雨も降るかもしれない。そうなった時に、当然厳しいから、今までの心構えと装備では通用しない。

これは心の話だから、心の問題だけなのね。自分に何かが起きたら、それをいただいて、自分の内を観ていく。いただいていくっていうプロセスを繰り返すわけだよ。
8合目まで来て、わー雨が降ってきた、装備が十分じゃない、もう先が見えているからこれ以上行くのはやめよう、と思ったとしても、実は先がどうなるかは行ってみないとわからないじゃない。ちょっと先に行ったら、それまでは雲が立ちこめていたけど雲の上に出て天気がよくなるかもしれない。それは行ってみることによって初めてわかる。そして行くためには、信ずる心が必要なんだけよ。

さっき、科学して情報を整理して法則性がわかった時に信ずる心が生まれるという話をしたね。それが足りない人が、今の現状を憂いて、これ以上良いところは求められないんだって終わっていくんだと思うのよ。
その山を越えれば、越えた分だけの価値がその次にあるってことを僕は言いたい。でも行かない人に行けとは言えない。それは一人一人の意志だから。
質問への答えになったかな?

あきの:
はい。

いさどん:
これは木の花の生活だけではなくて、普通の人も同じだと思う。ただ、普通の人はそんな風に分析しない。科学して、分析してそれが何だったのかって考えて振り返らない。だから、毎日が感情の垂れ流し。湧いて来た思考をただ出して、感情で反応している人が多いね。喧嘩すりゃ痛いとか、自分本位でやると人間関係が壊れていって社会的にも通用しない、っていう条件反射的な学びをしているだけなのね。
もっとホリスティックに、この世界を自分の感情と照らし合わせて分析していったら、たぶん自分の感情には振り回されないで行けるようになるね。この宇宙は法則で成り立っていて、それがふっと湧いてくる。これが智恵なの。そこのところに到達すると、僕みたいな話をするようになる。

あきの:
面白いですね。

いさどん:
僕も話してて面白かった。人類はそろそろその時代に行くと思うよ。
この間NHKで2回ばかり特集をやってたんだけど、2050年代に世界の潮位は80㎝上がるんだって。あと40年くらいしたらです。あなたたち、生きているでしょう。

あきの&ゆき:
はい。

いさどん:
80㎝上がるって大変なことよ。潮位が上がるってことは氷が溶けるってことだから、それだけ暖かいってことでしょう。2070年代にはスーパー台風が発生するって言うんですよ。この間スーパー台風が一つ起きたよね。フィリピンでは風速90mだったんだよね。竜巻級の台風が起きたんだよ。
でも2070年になると、風速100m、910ヘクトパスカルの台風が来るんだって。これはスーパーコンピューターで計算しているからほとんどまちがいない。それが60年後よ。生きている?

あきの&ゆき:
かもしれない。

いさどん:
可能性があるでしょう。潮位が80cm上がって気圧が910ってことになると、さらに潮位を上げるでしょう。それに風速100mの風が吹いたら、当たり前に5mの高潮がくるよ。日本中の海岸にそれに備えるだけの防波堤を作るか?できないですよ、そんなこと。
それどころか、今は地震も心配されていて、富士山も噴火するって言われているでしょ。富士山がもし中規模の噴火を起こすと、富士山の上空8000m以上いったらジェット気流の影響があるから、沼津から東京、京浜工業地帯まで、大量の火山灰が降りますよ。そうしたら今の携帯とかコンピュータって全部壊滅ですよ。
これって現実的な話ね。21世紀の前半にそれが起きる可能性があって、それは今の福島の原発のようなものじゃないと思うのよ。これから人類はどうやって生きていくかなのよ。もう20世紀型の文明は全て壊滅。あとは不便だけどみんなで助け合って生きるしかないんじゃないの、と思うんだけど。食料も問題になってくるね。いろんなものの価値観が変わってくるね。僕はこれが、20世紀までの人間のやって来たことに対する答えだと思うの。

じゃあ21世紀になったのだから、そろそろ20世紀型を改変する必要があるんだけど、人間って痛い目しないとわからないんだよね。最近の人間は我が強くなり過ぎちゃって、自分を過信している。もう痛い兆候はいっぱい現れているのよ。地球温暖化だって、今の時点で温暖化要因を止めても、もうすでに空気中にある分だけで危機的な状態なわけよ。それでもまだ、やり続けているのよ。経済発展だとかなんだってそんな事ばっかり言ってるのよ。人間の住む環境は悪くなるのに、まだ景気を良くすることばかり考えてる。

何で不景気になるかといったら、人間の中には自然のセンサーがあるんだよ。子どもが野菜を食べないのはなぜかって、あれは食べ物が毒だから。子どもは身体がちっちゃいから、自分の中のセンサーが働いてて、自らを守っているわけ。だから、本当に健全な野菜は子どもも喜んで食べるの。
それと同じように普通の人間にもそういうセンサーが残っていて、世の中を見て「なんか変だね」と感じてる。それで具体的に区切って見てみる。しかし問題がない。だけどなんか変だな、こんなことでいいのかなーって考えて、会社に行ったら競争ばっかりでやだなーって、ニートになるとかね。親がそのことにああだこうだ言うと、引きこもっちゃうとかね。
これをその部分だけを切り取って見てみると、問題に見えるでしょう。でもつなげて観ていくと、社会がそういう風に愛や絆のない貧しい人間をつくろうとしている事に対して、今起きているこの問題は何なのかと考える良い機会になる。社会の現象は神様が起こしていて、それが善意だとしたら、これを乗り越えたらもっと良い次の世界があるということなんだよ。

今のまま変わらなかったら地獄だよ。だけどこれを乗り越えたら素晴らしい世界がある。今の若い人たちって、その素晴らしい世界を生きる人たちなんだよ。でも古い人たちは、その前の競争社会を若い人たちに提供しようとしているのよ。だから、そこでニートや引きこもりやうつ病になるのは、センサーが正常に働いているということなんだよ。
アトピーや癌も、全部センサーであり、気づけ気づけっていうメッセージなのよ。だから病気だってすごく大事なことなんだよ。それを、学ばないで対処療法で治そうとするもんだから、いつまでたってもメッセージが終わらないのよ。
全てはメッセージ、という風に捉えたら、我々がどうしていったらいいのかが簡単にわかる。愛と絆の社会をつくるだけだよ。みんなで助け合っていったら、無駄がなくなって原発がいらなくなって、ものを大切に使うからゴミが出なくなって。そして地球と持続可能に暮らす社会ができる。わかりやすいよね。

こんなに簡単なことなのに、なんで人間たちはそれができないのか。それは、賢すぎるからだと思う。つまり過信しているの。自分が正しいと思って、自分が望む世界を求めているの。
でもね、自分が望む前に、我々はこの宇宙の法則、地球生態系の法則の中に役割をいただいて生まれてきているの。自分が生きるという事は、この全体の法則によって、ネットワークの中に生かされているんだから、自分はまず意識を持ち役割を果たすこと。宇宙の意に沿うこと。それが「いただきます」って心なんだよ。そして生きていることが「ありがとうございます」ってことなのよ。
普通の人は、病気になって「ありがとうございます」なんてことは言わないと思うけど、今の考えだったら「ありがとうございます」って言えるよね。問題ごとに出会って「ありがとうございます」って言えるよね。だって、それは自分に対するメッセージだもん。そこで学んで次に生かしていく。それができる人間が地上に降りてくると、僕は地上天国になると思うんだよ。

「ありがとうございます」をちょっと分析するね。
「ありがとうございます」っていうのは、「ありがとう」と「ございます」の二つになっている。「ありがとう」っていうのは、「有り難い」、つまり「有ることが難しい」ってことよ。それが「ございます」だから、「あるわけのないような難しいことが起きている」ってことを言っているわけよ。
我々が生きているということは、すごい有り難いこと、ものすごい奇跡のような難しいことが起きているわけ。例えば病気になるということも、健康な者がわざわざ病気になるということは、何かこの宇宙の法則から外れていて、病気を通してそれを教えてもらっているんだよ。そんな難しいことを今与えられている。有り難いことが起きているのよ。
「ありがとうございます」っていうのは、その智恵が湧いてきてそれを理解できたときに、有り難いなあ、ということなのよ。

「働く」って字は人が動くと書くでしょう。人が動くってことは生命として生きているということです。(※9月4日いさどんブログ「宇宙視点の働き方」をご参照ください。)生命は生きる命。命は「みこと」ですから、神が生きているということ。我々も、生きる神なのね。生命は循環して巡り巡って変化して進化していく。すべてが循環しているのだから、これは絆の象徴なんですよ。地球の生態系も宇宙のネットワークも。そしてすべてのものを生かしている。
だから、地球にはゴミが出ない。人間は区切って損得勘定するから、人間社会だけがゴミを出す。そのゴミが出ない地球生態系システムが生命の姿で、それはまるっきり我々の身体の中の構造と一緒なの。その中で人が動くってことは、健康なネットワークを健全につなげていくって事ですよ。それが「はた(傍)」を「らく(楽)」にする、「はたらく」ことの本当の意味です。人間には特にそのことを、この世界の中で託されている。
それは何でかっていうと、人が動くとね、動き方によっては災いをもたらすわけね。でも本来人間は、この世界に良いものをもたらすために生きているわけですよ。今、大きく行き詰まった問題があるとしたら、それを学び活かした先に、それを越えた社会があるってことなのよ。そこを生きる者たちは、今の社会に疑問を感じて「NO」と言っているのよ。それは今の社会では問題児だけど、それが生かされる時が来るだろうと思うよ。それも「はたらく」ということだね。

あきの:
そういう人たちがこれからどんどん増えて、それが多数派になると思いますか。今はそうやって問題ごとから学ぼうとする人たちは少数派だと思うのですが。

いさどん:
そうそう。時代は過去から未来へ進んでいるよね。そうすると、その先端を行く人はほんの一部の人たちなのよ。大部分の人は日和見ね。そしてその後ろに抵抗勢力がいる。今は抵抗勢力がすごく大きくなってる。なぜかっていうと、五感で豊かさを感じちゃって、その魅力に取り付かれている人が多いんだよ。
それで、今「何かちょっと変だぞ」って感じて、新しいところへ移行しようとしている人は全体の一割いないね。1%かもしれないね。でもね、今までの時代はこういうことを人類に表現させる時代だったのよ。

人間は変わらないからいつまでたってもずっと一緒と思うかも知れないけど、地球が自転して、毎日僕らは朝をもらって、夜をもらって、年をとっていくでしょう。地球が自転しているから、経験を積んで進化しているわけでしょう。すると、これは人間の歴史なのか、地球の歴史なのかっていったら、地球の歴史なのよ。年代は確実に刻まれていくわけよ。それは地球暦でいう、他の惑星との絡みもあって刻んでいくわけだ。

今、人類はこの時代の表現をしている。その前は戦争時代だったよね。そして今も戦争の名残が残っている。だって社会は平和じゃないもんね。個人の心も、家庭の中も、会社同士もみんな対立しているんだから。平和もどきだから、孤独死が起きたり、うつ病が発生しているんだよ。
今地上に降りて来ている人間たちは、この時代の役割を託された人たちなんだよ。上の世界には魂がいっぱいいて、地球へ降りる順番を待っている。この時代はこういう表現をする魂に託します、と言って、自分の番が来るのを待っているんだよ。
だから今ここに降りて来ている子ども達は、次の時代を担う魂たち。だから、それが多数になるかならないかっていったら、地球は時代とともに進化していくのだから、そうなるに決まっているのよ。でも、それが不安に思えるのは、今の現状しか見ていないから、現状がずっと続くと思っているんだよ。

例えば木の花で長年やって来て、もうここでは限界だと思っている人がいる。それは今のこの部分だけを区切って見るからそう見えるのであって、木の花は確実に進化するところです。ではなぜその人がここにいられないかって言ったら、自分は先進的な考えをしていて、もっと素晴らしいところを自分がつくっていけると思っている。それが落とし穴なんだよ。
道は地球が刻むのであり、法則が与えるものであって、我々はそれを頂く者なんだよ。シナリオも監督も、見えないところにいるわけ。我々はこの地球の舞台の中でそれを演ずる役者だから、見えない側から台本を頂いて演じなきゃいけないのに、自分がつくる側になっている。謙虚さがないからそうなっちゃう。だから安易に結論を出して、離れていってしまう。ここにいたら、確実に次の時代の木の花に出会う。確実に今を善意に受取っていたら、次の時代の地球に出会える。
というふうに僕は考えるんだけど、どう?

あきの:
そうですね。

いさどん:
こうやって聞くとなるほどなと思うのに、それを聞かないと信じられない。こうなるんじゃないか、ああなるんじゃないかって悪く考える。
たとえばさっき、地球環境が人間の暮らしを脅かすって話をしたね。これは地球自身が今のあり方の人間を好まないからよ。当たり前だよね。自分の体にガン細胞が発生したら、我々だってなんとかしてとろうと思うじゃん。その時に、人間の姿勢が変われば、僕は地球に起きる現象も変わると観ているんだよ。だから心が大事なのよ。生きることの上で、何よりも一番に心が大事なのよ。
ところが、今の人間は体主霊従といって、形を先にして霊(心)を後にしているんだよね。本来は霊主体従、霊が先に来なきゃいけないんだけど、それをやらないで形ばっかり求めている。それは、今の人間達が知識豊富になって自分の願いを叶える、我を優先させるってことをやってる結果だと思う。

さて、これからあなたは、どう生きますか?他に何か質問ありますか?

あきの:
いろいろあるんですけど・・・

いさどん:
今の事がわかるとね、だいたい他の事も自ずと答えを出せるようになる。そういう仕組みが分かったら、不安定要因って消えるのよ。そう考えるとこれも不必要だな、あれも不必要だなって、自然に疑問が消えていくのよ。そういう捉え方を持つと、病気でここに来た人が治っていくんだよ。
地球に物語を刻んでいくために魂がいて、その地球と連動して人間が生きていくと、地球に対して人間が有益なものになるわけだよね。それがこれからの時代だと僕は考えている。人間はいかに地球の声を聞いて、そして地球と共に存在し続けていくのかということが、21世紀の人類の命題かなあと思う。
さてそれがあきのちゃんからすると、「どうやって人を目覚めさせるんですか」ということになるんですよ。僕は「それは神様が握っておられるんじゃないですか」と思うんだよ。

ゆき:
人を変えたいとかじゃなくて、私もこれから伝える仕事をする上で、こういう本当に自分の魂がわくわくすることとか、これからは本当にみんなが調和する時代なんだよってことをテレビから伝えていければいいなと思うんですけど、ただ、それって本当に受け取る人の心とかタイミング次第というか、神様が決めるところみたいなところもあるのかと。

いさどん:
神様が決めるところって言っちゃうと、すごい受動的っていうかね、それじゃあ人間は単なるマリオネットになっちゃうでしょう。神様は天の法則を司っていて、それを受けて人間は地上で具現化していくんだから、やっぱり人間がそういう広い世界観を持つってことが大事だね。
で、確実にそういう人たちは増えているけど、その増えていくための働きが、一人一人の中の気付きってことでしょう。まず最初の「なんか変だぞ」というセンサー。その「変」をどのように育てていくかっていうことが大事だと思う。それは一人一人の意志ね。そういう大きなスケールに基づいた人生を生きた人って、いい死の迎え方をするよね。ああ、良い人生だったなって、完熟死で旅立っていく。もう悔いはないって。

本来、人間は魂が進化、成長するために生まれて来ているのよ。肉体は二十歳からはどんどん衰える。魂の成長のために生まれて来ているのに、それをやらないで、形だけを求めて欲ばかりでいくと、欲の虜になって、死ぬ時にあれはどうしようこれはどうしよう、あれはやってない、これもやっていないと、そういう事ばかりを考えて見苦しい死に方になるから、意識レベルは低いままになる。そうすると、次の人生ではまたそれにふさわしい修行が与えられて、それを繰り返すことになる。

あきの:
最近の大人ミーティングがすごく面白いですね。

いさどん:
あの大人ミーティングを見て、ここでやっていく意欲がなくなった人もいるんだよ。だから、どこを見ているかということ。僕はますます、この方向へ進むべきだなと思ってる。

ゆき:
じゃあ、最後。いさどんは、こういうふうにいろんな人に何か伝えるときに、気をつけていることってありますか?

いさどん:
これが正しいという伝え方はしない。正しいは人間の数ほどある。だからあなたが考えてそれをYESと思えば行けばいいんだし、思わなければ行かなくていいんだよ。それが今のあなたにふさわしいことだから。そしてそれぞれのプロセスを踏んでいくんだから。
ただし場合によっては、あなたの今の心の状態を知りたいと求められれば、情報として分析して提供することはできます。それをどのように受け取るのかは、相手の問題です。僕は常に情報として伝えている。これが正しいということではなくて、こういう捉え方がここではできますよ、でも違う切り口でやるとこういう捉え方になりますよという、情報発信をしている。

だってこの世界は、情報の洪水なんだもん。それを個人の欲だとかいったもので汚染して、偏った情報が正しいことになってしまう。実はこの世界は情報の連鎖だから、正しいも間違いもないのよ。どこの位置に立ったらこれが悪に見えて、どこの位置に立ったらこれが善になるか。悪と捉える事もできれば、これってこのおかげでこうなるんだねって善にもなる。それが宇宙の構造だよ。アナウンサーとしてこんな話をするのは、ちょっと難しいね。

ゆき:
難しいですね。だから本当に、それこそ情報としていろんなことを伝えていくしかないかな。

いさどん:
テレビ局では、自分の言いたい事を言えるわけじゃないのよ。例えばあなたが、アナウンサーという立場でもらった原稿を語る人からキャスターになったら、そこは変わるでしょう。

ゆき:
たぶんどっちもやる。

いさどん:
あなたの個性がそこで何を受け取っているかによって、魂の入っている言葉、言霊を発するのか、それとも単なる棒読みの魂のない言葉を話すのかが変わってくる。アナウンサーはどちらかというと言霊は要らない立場に立つことになるね。機械でいいんだから。でもキャスターになって、言霊を発したら、その人は社会にとても大きな影響を与えるよ。
言葉って正しく使わないとだめだしね。どの言葉をそこに使うかによって、そこに魂が全部表れる。そして世の中にそれが発せられると、それがずーっと人に広がって、社会がつくられていく。
だから、僕はどんな事があっても神様の善意を信じている。この世界は善意なんだ。ほら、あそこに神様がおいでになるじゃない。斜め45度上を見れば、神さまがおいでになって、なんか言ってるなあと。それは言葉で返ってくる。まあカルトの世界ですな。見る人によっては、カルトの世界。

あきの:
どう違うんですかね?

いさどん:
カルトかカルトでないかは、そこの世界に価値観があるとするでしょう。そこの中で限定されて、他に一切通用しないもの。それがカルトですよ。そこにあるものが少なくとも周りを巻き込んで、そして社会の中に反映されていくなら、それはカルトと言えないものです。
過去から未来へ進むときに、最先端の思考を行く人は少数派で、大部分の人からは見えない。一歩先のものを見てすごいとは言っても、2歩先のものは見えないから、あれは自分たちにはわからないし、何の役にも立たないよって、カルトだと見る時がある。しかし、そこには実際にカルトもいるんだよ。その見分けは難しいねえ。

あきの:
難しいですね。

いさどん:
それは、心で感じるものだよ。市川での『確固たる居場所』上映会の運営スタッフの何人かは、(メンバーをやめた)よしどんが木の花のことをめちゃめちゃに書いているブログを見ていた。それで、上映後の質疑応答でその話が出るのかと思ったら、もっとこの生き方を広げようという話になった。
それは、よしどんのやっていることの悪意を感じて、じゃあ真実は何だろうって思ったときに、僕は何も話さなかったけど、あの映画を観て、そして上映後の話し合いを聞いて、「あ、これは本物だぞ」と思ったんじゃないの。何かを観たってことだと思う。そこでは言葉や説明はいらない。
人にそれだけの力がつくと、何も聞いてなくても、あ、これは本物だって分かるようになる。これは臭いとか、これはいい雰囲気だねって、人間は仕分けられるようになる。それが今、僕たちが目指している「阿吽」というもの。僕は阿吽を20年間求めて来たけど、なかなか難しかったね。ずっと言ってきたけどね。これが一番省エネなんだよね。真理が湧いてくる。今、ひまわりに阿吽の書が飾られたのは、ここが阿吽の場所になってくってこと。次の進化に入ってきた。

あきの:
楽しみですね。

ひとみ:
またすぐ来ないと変わっちゃうよ。

あきの:
そうですね。いまも激動の渦の中にいるって感じですね。

ひとみ:
そうだね。今は一番大きいかもね。変化がね。

いさどん:
来年は「うねりの年」だから、来年が一番変化が大きいだろうね。今は無駄をなくしてきっちり土台をつくって、その上に新しく構築していく時だね。

ひとみ:
それが個人個人の中でもおこなわれているし、全体でも行なわれているね。

いさどん:
ここはある意味ひな形だから、世の中に起きることが先に起きているんだよ。これから世の中でも、天変地異や経済システムの破たんなど、人間が右往左往することが起きてくる。そして波紋がたくさん起きる。池に石がたくさん投げられるってことだよ。
でも波紋が起きたら、そこにサーフボードを持っていって波乗りすればいいのよ。
だって、これは神さまとのゲームなんだから。
 
 
 


性欲にどう対応したらいいのでしょうか?

9月14〜16日、木の花ファミリーでは「第6回大人サミット」が開催されました。
大人サミットは、自らの意識がこの世界を創造しているという自覚と責任を持つ真の「大人」たちが集い、真剣に語り合いながら、次世代の生き方を発信していく場です。この大人サミットの中で、参加者の一人からいさどんに次のような質問がありました。
「世の中にとっていいことをやろうと考えていても、性欲が邪魔をする時があります。どうしてもそこにエネルギーを取られて、集中ができない。そういう時にどう対応したらいいのでしょうか。」
この質問に対し、「これはとても大切な話です」と言って、いさどんは次のように答えました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

性欲というのは、我々生命の根源から湧き出てくる欲求です。

天の川銀河
天の川銀河

宇宙に、私たちの存在する天の川銀河があるでしょう。そこでは、セントラルサンを中心に、円盤状に星が回っています。この横向きの渦のエネルギーが起きると、縦に磁場ができます。この縦の磁場は、男性性です。そして横の渦が、女性性にあたります。この横の渦は、女性の性器にも見えますよね。それを貫いてる縦の磁場が男性器ということです。

地球の磁場
地球の磁場

地球も同じ構造になっていますね。中心に鉄のドロドロがあって、地球が横方向に回転しているのに対して縦方向に磁場ができる。これが陰(女性)と陽(男性)なのです。銀河では、常に女性性と男性性の関わりにより、恒星が集中した中心部から星が生み出されています。

私たちの体の構造も同じです。銀河を横から観ると人の目や口と同じ形をしており、これは女性器と同じ形をしています。耳は渦を巻いているでしょう。性器はまさしくその象徴です。宇宙が星を生み出すのと同じように、男女が生命を生み出すための役割として、セックスという神聖な儀式があるのです。これは宇宙の、生命を生み出していく一番大事な仕組みです。

我々はセックスを隠していますが、これがなかったら人類は存在しません。生命が連鎖しないのです。ということは、これは本来とても神聖なものなのです。それなのに、忌まわしい事のように捉えられているのはなぜでしょうか。それは、その神聖さを人々が忘れているからです。

セックスというのは、日本の神話では、イザナミとイザナギが国生みのために行った神事です。子を産むための神事として双方がその意識を確認し、合体する。そこから神(命)が生まれてくるわけです。種が鳥居(女性器)をくぐり、参道(産道)を通って、その奥にある神殿(子宮)に入ります。その子宮という子の宮の中で、子どもは十月十日の間に三十数億年の生命の進化をたどるのです。7ヶ月くらいでサルの状態になりますね。そして十月十日たつと、娑婆に出てきます。そういった神聖さが理解できないと、その尊いことが、逆に愚かしいことにつながるのです。

セックスは、神聖なものなのです。それを神聖な心で行っているかどうか、ということです。自然界のものはカルマが少なく、忌まわしい心を持っていません。だからそれは神聖な行為として純粋に行われています。しかし、人間は性欲という神聖な本能を持ちながら、同時に、忌まわしい心でそれを汚染することができるのです。そこが問題で、その構造がわかっていれば、常に神聖な行為として、神生み、国生みをするイザナギとイザナミの原点に帰れるということです。

カルマ的な欲望優先の欲求のもとは、エネルギーです。そのエネルギーを、真実の探求に使っていけば、欲望的エネルギーは自然に消えていきます。
大切なのは、日々、真実とは何なのか、自分から出てきたトラブルの原因は何なのか、そのもととなるところに興味を持って、そこへの探求にエネルギーを使っていくことです。そうすると、カルマ的欲求は自然に消えていきます。ところが、それを野放しにしている人がたくさんいる社会では、無秩序な世界ができていくのです。こういったコミュニティでも、たくさん人が集まると多くのケースで男女問題で忌まわしい場になり崩壊したりするのは、そこが原因なのです。

心を優先して磨いているところでは、健全なエネルギーが発生し、性欲も健全に湧いてくるようになります。本当に必要な、神聖な性欲しか湧かなくなるということです。
タバコを吸っている人にタバコをやめろと言っても、なかなかやめることはできません。ですから、無理やりにやめるのではなく、自分がタバコを欲しがる原因の元の部分が何であるかを知っていくことです。その探求にエネルギーを使うのです。そしてそれが湧かなくなると、自然にタバコもいらなくなる。体が健康になると、そういう欲求が湧かなくなるし、そういった間違ったものをまずく感じるようになるのです。そのようになった人にタバコを吸うかと聞いても、やめてくださいと言うようになる。やめるのではなくて自然に要らなくなる。そういう世界があることに気付くと、楽にそこへ向かえますよね。やめろって言われると、世界は苦しいところになるでしょう。だからその苦しさに負けてしまうのです。

性欲についても同じように捉えていくと、自らの学びのための発見になります。
そして、その取り扱いも難しくなくなるのではないかな、と思います。
 
 


愛とお米があればいい

木の花ファミリーには「愛とお米があればいい」という言葉があります。これは、いつの頃にか、いさどんの中から湧き出してきた言葉です。この言葉を受けて、木の花楽団ボーカルであるみかちゃんから『愛とお米があればいい』という歌が生まれ、ファミリーの祭事ではこの歌が歌われます。
この「愛とお米があればいい」の意味について、いさどんが語りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

まずは、そもそも愛とはなんぞやということです。

愛には、ランキングがあります。一番初めに私たちが目覚める愛は、自我です。つまり自己愛です。どんなものも自分というものを愛するわけで、我々が自分のことを大事にしたり、人からよく思われたいという欲求を持つのは、自己愛の表われであるわけです。
人間だけでなくて全てのものが、自らを存続させるための働きを持っています。それは動物や植物にも見られる姿です。例えば植物は、水がない時には根を張って水を求めていきますが、水を与えすぎると逆に怠けてしまって、水がなくなったらすぐに枯れてしまうことになります。それは自分を存在させようとする力があるということです。また虫なら、常に自らを存在させるために獲物を捕ろうとしたり、何かに襲われそうになると逃げます。これは全て自らを存続させようとする本能的な、あるいは無意識的な自己愛の姿ということができます。
それが人間的な愛になると、自我がからむことによって「~になりたい」という欲求に発展していくのです。さらに愛が他者に向くようになると、「人から愛されたい」となります。それが自我的な欲求の場合、愛が「恋愛」という所有するものになります。

恋愛の「恋」という文字は、「変」という字に「心」がついたものです。だから、心が変になっていることで、相手が多少おかしくてもよく見えてしまうような、こだわりの愛の状態です。愛は本来無条件であるものですが、恋愛は条件付きの愛ということになります。
さらに執着が進んでいくと、身内の愛、自らの血を分けた関係の愛があり、それは親子や一族の関係で見られるものです。その執着の強い愛によって、子どもの命が危険にさらされた時には、自らの命を犠牲にしてでも親はその命を救おうとします。そしてどんなに出来が悪くてもわが子は可愛いとかばうようになったりもします。それがバランスを欠くと溺愛となって問題となります。それは愛の段階において、まだ自我が自己欲求に近いということです。

さらに愛が進んでいくと、他者の為に自分が存在している、他者の喜びを自らの喜びとするという、自他を区別しない愛があります。自分を愛するがごとく他者を愛するという、菩薩の愛です。これは社会でいうキリストとか仏陀、身近ではガンジー、マザーテレサなど、そういう聖人たちの持っている愛です。
そしてさらに愛が進んでいくと、今度は無条件の愛になります。愛というのは絆によって作られます。絆というのは、言葉を変えるとネットワークです。私達は地球上に生命として生きています。この世界の実相は、いろいろな生命が連鎖して、宇宙全体を生命として存在させているということです。

生命というのは、循環して巡り巡って変化するものです。変化し続けるために、いろいろなものが連動しながら命が巡っていくという形をとっており、それがネットワークです。そこには執着や囚われの感情はありません。ただそこにその仕組みがあり続けること、また変化し続けるものですから、一瞬たりとも同じ状態はありません。永遠に変わり続けるものです。だから、その仕組みはあり続けるものであり、かつ、そのままであり続けることはありません。瞬間瞬間変わり続け、「あってあるもの、なきてなきもの」という姿を表しています。ここまでの表現を仏教的に言うと、仏の愛です。そして神という宇宙の実相から観るなら、神の愛、無条件の愛です。

ここまでは、「愛とお米」の中の「愛」についてお話ししました。愛とはそのように分類できます。
次に「お米」について話します。

120820-172802-001「米」という字は「八十八」と書き、栽培するのにとても手がかかるということですが、実はお米はあまり手がかからない作物なのです。そして、穀物の中で面積当たりの収穫量は一番高い。今日本のお米は1反歩当たり10俵、600kgもとれます。とても生産性のいいものです。ついこの間田植えをしたと思ったら、あっという間に穂が出て、その後一月くらい経ったら収穫になるのです。なかなかそれほど効率がよくて生産性のいい作物はありません。さらに、お米は私たちの主食で、なくてはならないものですが、その成分を調べると、主食と言われる穀物の中で最も栄養バランスのいいのがお米(玄米)なのです。お米は、五穀豊穣の中の豊穣の象徴です。
神話では、「高天原」というところでお米を作っています。そこでは天照大御神(アマテラスオオミカミ)が田植えをして、お米を収穫しているのです。それ以外の、ナスとかピーマンとかトマトとかいうものは作っておらず、お米だけを作っています。お米は最も大切なものであり、これがあれば人が命を紡いでいくのに十分な、とても重要な穀物だということです。お米があるということは、命を紡いでいけるということです。

もう一つ、「愛とお米があればいい」の「あればいい」についてです。
人間には、他の生き物とは違う役割があります。人間以外の生き物は与えられた役割以上のことはしません。逆に言うと、そこからはみ出たことをするような能力が与えられていない、ということでもあります。
しかし人間は、自己実現として、自らが持つ感情や欲求を満たす能力を与えられています。だから人間はどんどん新たにものを作ったり、生活を改善したり、社会を探求したり、便利にしたりする能力があるのです。それだけの能力が与えられているのです。
他の生き物は人間のようなことはできません。しかし、確実に命の連鎖のポジションから外れないようにできています。虫は虫のように、動物は動物のように、それぞれが自らのポジションから絶対外れないのです。そして命の連鎖が常に保たれるように役割を果たしている。逆に言えば、この世界の命の仕組みがまわっていくように、そこのポジションにはめ込まれているとも言えます。
それに対して、人間は先ほど述べたような役割を持っています。自己実現の能力が与えられているために、いろいろなことを考えて、自らの欲望を叶えることを喜びとします。その欲望がどんどん強くなっていくと、我が強くなり、自分のことだけを考えるようになります。その時に何が起きるかというと、この世界の健康なネットワークから外れることになるのです。自分の役割を果たしながらネットワークを存在させる菩薩の愛から外れて、自我を優先し、家族や自分の幸せだけを願う人になるのです。
さらにそれが強くなっていくと、人と対立するようになります。そして体のバランスを欠くようになります。ちょうどよい食べ方とか、ちょうどよい生活のリズムとか、そういったことを失って病気になります。それは「そのアンバランスに気付け」というメッセージですが、執着が強いと、何度痛みをもらってもやり続けます。それが、地獄を生きるということです。人間は最高の愛を表現することもできれば、地獄から抜け出すことのできない最悪の苦しみの中に陥ることもできるわけです。

そこで、人間が生きていく上で何が必要なのかと考えると、本当に必要な欠かすことのできないものと、そうではない付属品とに分ける必要があります。では、本当に必要な欠かすことのできないものとは何か。それを知るためには、生きていく上での本当の目的を見つけることです。人間が生まれて生きて死んでいく中に、人間としての役割があるということです。
人間は思考することができますし、成長して変化していく生命です。そして地獄から最終の真理までの道を歩むことができるようになっています。人間に生まれてくることは、落ちるために生まれてきているわけではなく、精神性を高めていくために生まれてきているのです。その目的を果たすためには、自分の心を磨いてきれいにしていくことです。それが人間の姿、実相なんです。汚れている状態のままでいることは、元の宇宙の実相、神様の愛の世界、そこから最も離れた状態であり、元の所に戻りなさいというメッセージをもらっているわけです。生きることは、その旅をしているのです。

その旅で一番必要なものは何なのか、逆に不必要なものは何なのかを、仕分ける必要があります。そこに愛が必要になるのです。つまり、この世界はネットワークであり、全てのものがお互いに存在させあっている命の世界であり、これが神様の実相なのです。
それを理解するためには、人間の中から湧き出してくる自己に対しての愛、エゴがどんな役割をしているのかを知る必要があります。それはそのネットワークを無視し、壊していくものです。ですからエゴをコントロールして、主食、即ち本当に必要なものだけを求めていくことが大切です。そこには、それだけしか求めません、それ以上のものはいりません、という覚悟が生まれてきます。それ以外のものを求めるとは、道がその分だけ遠回りになるということです。人が生きていくには、お米、塩、水といったものの他にもいろいろなものがいります。ですが、心はその心構えでなくてはいけないのです。
闇の中にいると光はよく見えるのですが、どんどん光が増してくると、光がわからなくなっていきます。だから、地獄に落ちるということは、本当に光の大切さを理解するために与えられているのです。その歩みの道中で、生きるということを学んでいくのです。

我々は、最高の愛のもとで創られた命のネットワークの中で生きています。宇宙が全てを繋げているのです。そのネットワークの中で、自我を表現することによっていろいろな痛みをもらい、自我を削り取っていく。それが心を磨くということです。我々はこの場所で生きることによって修行の場をいただいているのであり、人生は心の磨き場なのです。
その時に最も必要なものは、ネットワークのベースにある愛と、生きるためのベースになるお米、その二つがあればいいということです。そこに余分なものがあると、その分だけ道から外れます。人はそのことを豊かさと勘違いして、たくさん求めてしまいがちです。「癌」という字は、「品」物を「山」のように抱えると「病」気になる、ということを表しています。私たちは、生きていると生老病死といって苦しみも背負うものですが、だからこそ余分なものはいらないのです。
シンプルに心だけを探求していくことが本来の人生の目的なのです。それをやり切れば、人間はこの世界の実相である神のところまでたどり着きます。仏教で言えば、悟りの境地に至るのです。

ここに歌の歌詞があります。これは、みかちゃんが天から受けたものです。まさしくその心を表しています。
 
 
「愛とお米があればいい」

 愛とお米があればいい
 称えよ命 いただく恵み
 与えよ愛を 御心のまま
 開けよ心 歌えや命
 天の喜び 地に花開け
 愛とお米があればいい
 
 
「命」はこの世界の実相です。そして人生という尊い「恵み」をいただいて、御心の愛という宇宙の根本の御霊のままに、自らの「心」を「開き」、「歌う」ことは生きることを表すのです。「命」の賛歌です。「天」と「地」が結ばれて、天の意志が地上に生きる、地上天国、神人和合をうたっているのです。

これが「愛とお米があればいい」ということです。
 
 
 


宇宙視点の働き方 〜 新しい時代を創る人たちへ

先日、台湾から3人の大学生がファミリーを訪れました。インターネットで偶然木の花ファミリーを見つけて農作業ヘルパーを募集していることを知り、かねてより憧れていた日本の生活を体験するチャンスだ!とやって来た彼らでしたが、一般的な日本の生活とはちょっと(だいぶ?)違ったファミリーの暮らしに、当初は戸惑うこともあったようです。が、ある日いさどんから「ここは日本どころか世界でもめったにできない体験ができる、貴重な場なんだよ」と言われた彼らは、心機一転!ファミリーの暮らしに興味を持ち始め、いさどんと面談をすることになりました。

* 面談は「地球暦」を読み解くことから始まりました。(木の花ファミリーでは、その人の生まれた日の太陽系の惑星の配置からその人の天命や個性を読み解くという独自の取り組みを行なっています。)
* ファミリーの親しい友人である台湾出身のカエイちゃんと、中国出身の朝鮮民族であるリンちゃんが通訳を務めました。

左から、アリス、ケビン、クリス
台湾からやって来た3人 ー 左からアリス、ケビン、クリス

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
(3人の地球暦を眺めながら)これを読み解いていく時に、みなさんが占いのように興味本位で聞いているだけだとあまり意味がありません。もしも今、あなた達が何か問題を抱えているとしたら、それはあなたの人間性がそれにふさわしい現象を引き起こしているのですよ、と分析することはできます。あるいは、問題とは関係なしにその人の人間性をただ伝えるということもできますが、それでは単なる占いのような感想を持つだけで終わってしまうよね。これはもっと深く読み取れるものなんですよ。
3人は今、大学3年生だね。将来は何をしようと思ってるのかな?

アリス:
マーケティングの仕事をしたいと思ってます。

いさどん:
まだ就職先を決めてないけど、先にマーケティングの職につきたいと思ってるの?

アリス:
そうです。

クリス:
僕はコンピューター関係の会社への就職が決まっていて、そこでマーケティングをやりたいと思っています。

ケビン:
僕はまだ決まってないけれど、管理系の仕事をしたいと思っています。

いさどん:
大学でそういう関係の勉強をしてるの?

ケビン:
いいえ。そんなに具体的に考えてるわけじゃなくて、そういうのもいいなと思ってます。

いさどん:
どんな職業が向いてるか、ということは、この地球暦から読み取ることができるんだよ。たとえばクリスは、いろんなことに関心をもつタイプ。その個性をいい方向に使うと、いろんな発想が出る人ということになるんだけど、悪く出ると一つが完結してないのにすぐ次のものに移って、周りの人がついて来れないという事にもなる。
会社の中で会社のために働くよりも、自分の目的を達成することのほうが大事な人だね。いろいろ考えが回るんだけど、「自分のため」という部分がとても強い。

クリス:
そうかな・・・あまりそうは思わないですけど。

いさどん:
それは「そう思いたくない」ということだったり、自分はそういうつもりでなくても周りの人からはそう見える、ということです。
自分のことは自分では見えにくいものだよ。今後の人生を生きていく中で、あなたの姿勢への答えは周りからもらうことになるのだけど、その答えが、今ここに出ているんだよ。それは、これから人生を生きていくとわかってくると思います。自分は相手にとっていいと思ってやっていても、知らない間に相手は不満を持っていることもある。あなたの場合は直感的に自分のために行動するから、本当はじっくり考えて人の意見も取り入れながら行動することがとても大切なんだよ。
それと同時に、あなたの中には女性的な思いやりもあって、たとえば今の世の中は孤独な人が多いけれど、人と人をつなげてもっとやさしい世の中にしたい、というような、社会変革への思いも強くあるね。そのためにはあなた自身の心の成長がとても大切で、自分でもそうしたいと願っているのだけれど、なかなかそれが実行できない。そういうことがここに表れてるんです。

今、僕がこういった話をしているのはね、最初に言ったけど、みなさんから「今こういう問題を抱えています」という話があると、そこを切り口にできるので伝えやすいのね。だけど、今みなさんは、これからの未来を見ている。まだ21歳で、社会に本格的に足を踏み入れていないので、それぞれに問題ごとの種を持っていても、まだそれが現象となって目の前に現れていないことが多いんだよ。
たとえばね、僕のところにカップルが「私たちの未来をみてください」と言って相談に来るでしょう。二人は恋をしているものだから、相手の悪いところも良いように見えている。まだ未来を経験していない人が、今の感情で、「自分たちは絶対に良い関係だ」とか都合のいい未来を思い描いていることがあるんです。それはいくらそう思っていてもいいけれど、そのまま行くと、現実にはいろんなことが起きる。僕は人に聞かれるからその現実について忠実な話をするんだけど、その場合、ほとんどの人は受け取れないね。でもね、3年後とか5年後にもう一度来てくださいと言って、実際に来てみると、だいたいその通りになってるんだよ。
逆に、過去にさかのぼって話をすることもできるよ。今冷めている2人に、でも3年前はこうだったでしょ?と聞くと、たいていはその通りだと言う。そういうものなんです。

だけど、今はあなたたちの悩みを聞く時じゃないからね。僕はもっと違う話がしたいと思ってます。ここにはね、皆さんが知らない情報がたくさんあるんだよ。
ええと、あなたたちは英語と中国語が話せるのかな?

ケビン:
アリスとクリスは話せるけど、僕はあまり英語が得意じゃないです。

いさどん:
どちらにしても、日本に訪ねてきたけど、日本語はそんなに理解できないわけだよね。なのに今、こんなふうに中国語の通訳が2人もついてるなんて、恵まれてると思わない?

(3人とも頷く。)

いさどん:
これはとてもラッキーなことだよ。あなたはさっき、将来はマーケティングの仕事をしたいと言ってたよね。あなたはITで、あなたは管理の仕事。それはあなたたちが自分の枠の中で出会って、やりたいと思っていることだよね。だけど今回日本に来て、こんな中国語の通訳なんて求めていなかったのに、それが今現実にあるでしょう。これが人生なんだよ。

人生というのは、自分が考えたことが実現するのがいいことだと思っている人が多いけど、僕はそうは思わない。自分の考えが実現すると、人間はわがままになるんだよ。その人間のわがままで、今、地球の環境はおかしくなっている。他の生命にも負荷がかかって、人間自身も未来に暗いイメージを持っているよね。それなのに、人間は相変わらず自分の願望を叶えようとすることばかり考えているんだよ。
今みんなは「自分の将来がこんなふうになったらいいな」と考えているでしょ。それが叶うと、人は幸せになるのかもしれない。だけど、その内容によっては、たとえばあなたがマーケティングで業績を伸ばすと、対抗している会社は衰退していくよね。そしてそこで失業者が生まれたりする。そういった競争の中で、人間たちは今の社会を創ってるんだよ。だから、とても豊かな国や豊かな人々がいる半面、とても貧しい国や貧しい人々がいる。その時に、自分は豊かな側にいるからよかったと、それを幸せに思うかどうかということなんだよ。

自分はこの社会で成功して幸せだったと言って人生を終えたとするでしょ。でも実はその自分がやってきた行いが環境問題を引き起こしたり、逆に貧しくなっていく人々を生み出していた。社会では成功者と呼ばれて満足していたかもしれないけれど、この世界とさよならした時には、あちらの世界で真実を知ることになるんだよ。あなたの成功はこういう犠牲の上に成り立っていたんだよ、ということを教えられるんだよ。

では、本当に大切なことは何か。
日本には「働く」という漢字があるんだけど、この字は台湾にもある?

アリス:
ないと思います。

いさどん:
この漢字の人偏は「人」を表してる。それに「動く」が付いているよね。人が動く、ということは、つまり生きているということ。人が生きる、これを「働く」と言うんだよ。
あなたはこれから社会に出てマーケティングの仕事をするでしょ。その目的は、収入を得て生きていくためだよね。働くとは生きていくために必要な行為で、今あなたたちは、それをどのようにやろうかと考えてるわけです。
ところで、「人が動く」で「働く」という字になるのだけど、この字は日本語で「はたらく」と読みます。「はたらく」とは、「傍(はた)」を「楽(らく)」にする、ということ。傍とは自分以外の人のことを言うから、「働く」というのはつまり、他者を楽にするということなんだよ。
例えばね、虫が生きてるでしょ。生きてるってことは動くってこと。虫は葉っぱを食べる。そうすると、葉っぱによって虫は動けるし、葉っぱがあることによって虫は楽になるわけだよ。その虫は次に、鳥に食べられる。すると自分の命が他のものに移って、他の命が生きることになり、傍を楽にしていく。そうやってこの世界は全部つながっているんです。働くとは生きること。生きるとは命が動くこと。それが全部つながって、この世界は一つになっているんだよ。

自分が生きて動くことが、この世界にどのような影響を与えているか。たとえば、空気を汚さない、水も汚さない、大地も汚さない、他の命を犠牲にしない。自分が生きていることによって、他のものたちが歓迎してくれる。そういう生き方ができた時に、本当の意味で「働く」ということになるのです。
この世界はみんながつながって創り上げていて、その中の一つのポジションを担っているのが我々人間の本来の姿であり、本当は、傍を楽にすることが義務付けられているんだよ。けれども、今の世の中を見てみると、みんな対立してるでしょう。国と国、会社と会社、個人と個人が対立して、その中で自分が勝ち抜くことを幸せだと思う風潮がある。しかし実は、自分だけが良ければいいという世界を創れば創るほど、自分もその対象の中に入って窮屈な世界で生きることになるんだよ。

地球暦
地球暦

この地球暦というものはね、その人の生まれた時の太陽と9つの惑星の位置関係をNASAのデータから取り出したものです。こうやって図で見ると平面だけど、実際は太陽はらせんを描きながら銀河の周りを周ってるんだよ。そしてその太陽の周りを他の惑星たちが周りながらついて行っている。この図はそれを真正面から見たものです。そこから捉えた角度によって、それぞれの星がどう対話しているかを読み取っていきます。そこからその人の内面的人格や、社会的にどんな興味を持ってどんな生き方をするかが観えてくるんだよ。例えば、アスペルガーとかうつ病のような心の病気も、星と星の関係から読み取ることができるんだよ。
あなたたちは今、自分は自分であって他のものと関係ないと思ってるかもしれないけど、実はあなたが生まれた瞬間の星と星の関係で表現されていることが、自分の人生で表されているとしたならば、自分とは自分なのか、宇宙なのか。これはそれくらい深いものなんです。

普通、人は自分の未来を観ることはできないよね。だけど、この宇宙は人間が考えられる以上の仕組みによって成り立っていて、いろんなものの見方があるんだよ。この地球暦に出会うと、それまで知らなかった世界が広がっていく。そしてそれは地球暦に限ったことではなくて、いろんなものからこの世界を見て、自分自身を知ることができるんだよ。
それは、逆に言うと、人間はこの世界の仕組みを本当にまだわかっていないのね。それを理解するために人間は生きているとも言える。その方法はと言うと、人間が生きるってことは働くということであり、傍を楽にするということのはずなのに、人間たちは自分のことばかり優先して、傍を楽にしないわけ。だから今、お金や物がいっぱいあっても、なんだか困った社会になってるでしょ。そういうことも、宇宙が人間たちに教えてくれているってことでもあるんだよ。

あなたたちを見ていると、日本に来てこういった経験を積もうとしてるくらいだから、意欲的なのはわかるんだけど、大切なのはその意欲の内容なんだよ。今までの社会を動かしてきた人たちと同じように、自分が豊かになればいいと自己中心的に考えてると、人が動くってことが、傍を楽にする、つまり世の中をよくするってことにならない。これから社会に出ていくあなたたちには、ぜひ、傍を楽にする生き方をしてもらいたい、と思います。
多くの人は、お金をいっぱい貯めて物をたくさん所有することを豊かさだと思い、そういったことのできる人を優れた人だと思っているけれど、どんなにお金を集めても、いつか人生の終わりが来ます。その時に評価されるのは、どれだけ人のために生きたか、ということです。

話は変わるけどね。
僕らは今、一緒に1秒間に30㎞移動してるんだよ。何のことかわかる?地球の動きのことだよ。
地球は秒速30㎞で、1年かけて太陽の周りを1周する。これって当たり前のことでしょ?
今朝、朝が来たよね。夜が明けたのが朝4時だとしたら、そこから15時間経って夜になった。これは、この星が1秒間に400mの速さで自転してるから。
地球は秒速400mで自転しながら、太陽の周りを秒速30㎞で周ってる。でもその太陽も、秒速17㎞でらせんを描きながら銀河を周ってる。太陽が銀河を1周するのには、2億5千万年かかる。1周前は恐竜の時代だったんだよ。それって、事実でしょ?僕が創った話じゃなくて、天文学の観測データによって証明されてることだよね。
我々が生きてるということは、この宇宙の仕組みの中で生きているということ。銀河と太陽の関係があり、太陽と惑星の関係があり、地球と月の関係があり、さらに、虫が虫を食べ、それを鳥が食べ、それを動物が食べる、という地球の生命の連鎖があって、その中で我々は生きてるということ。それって当たり前の話じゃない?
でも、多くの人間は、日常にそんなことを考えてない。考えてるのは、自分がどんな想いを持っていて、どうそれを叶えたら幸せだろうかということ。これをエゴと言ったり、わがまま、独りよがりと言ってもいい。そればかり考えて生きてる。
人々が独りよがりで生きてきた結果、世界は豊かになったはずだよね。しかし、何かがプラスになった分だけ、人間関係や環境が悪くなるマイナス面がいっぱい出てるでしょう。人が生きるということの本当は、宇宙生命ネットワークの中の役割を確実に果たすということ。みんなで手をつないで、大きな輪を作るようなもの。ところがほとんどの人間は、隣と手をつなぐよりも自分のことばかり考えてる。それが、今の人間の実態なんだよ。

去年の12月21日に、冬至があったでしょう。これは地球の冬至であると同時に、太陽系の冬至でもあったんだよ。太陽系は銀河を周っているんだけど、銀河の中心に対して光の当たる量が最も少なくなる角度の時を冬至と言って、それは25600年ごとにやって来る。去年の12月21日は、その2つの冬至がぴったり重なったんだよ。
冬至というのは、光が一番少ない時。人間の世界で言うと、人間たちが本当のことがわからないで、欲張りになったり自分だけのことを考えて対立したりする、心の闇が広がっている世界。だけど冬至が終わると、今度はだんだん光が差してくる。今、地球全体がその変化の時にあるんだよ。これは誰かが作った話ではなく、観測的な事実。地球や太陽や銀河の動きが、我々地球上の人間が歩んでいる時代と連動しているんだよ。

もう一度、「働く」という話に戻りましょう。働くとは人が動くことであり、私たちが生きることです。それは、星や、太陽や、銀河が動くことと同じなんです。
人間には、エゴを主張して自分の願いを叶える能力が与えられています。そういうエゴやわがままを通していくと、人間関係が悪くなったり、問題ごとが起きるでしょう。人間がバラバラで生きてると、ゴミもたくさん出る。しかし、人がつながると、こちらで不要になったものがあちらで生かされ、不要なものが無くなります。すべてが生きる、生かされる。それが「働く」ということ。つまり、生きることの本当の姿なのです。それは宇宙も自然も、我々の体も同じ。働く作用によって健康を保っているんです。

今日、僕はこの場所でみなさんに、木の花ファミリーが何を目的にこの生活をしているかを伝えたかったんです。それはあなたたちにとっても、とても大切なことだから。みなさんが健全に働くことにより、他者を楽にして、世の中をよくする。それは自然生態系や、太陽と星、銀河と銀河の関係と同じ、調和の構造だということ。
銀河の冬至に象徴されるように、この世界はこれまで闇に向かってきたんだよ。それが地球に表現され、人々が対立し、物は豊かなのに豊かでない世界を創ってきた。それが、闇のピークを過ぎて、光が増していく時代になったんです。冬至が過ぎても、寒さはまだ続くでしょう。だから世の中にはまだまだ問題ごとは多く見られるけれど、時代が変わる時に来ているのは確かなんです。
あなたたちの世代は、光が差していく時代を創っていく世代。だからぜひ、「働く」ということで世の中のため、他者のために生きていくということを実行して、本当の意味で一人ひとりの価値を上げていってください。人がこの世界に生まれるのは入学、死ぬのは卒業のようなものだから、その卒業の時に、良い成績で、希望を持って次のステージに向かえるように。

僕はこういった考えを、日本の国会で総理大臣が演説する時代が来ると思うし、国連で語れる時代が来るといいと思っています。残念ながら多くの人間たちは、まだそういう大きな視点に立てずにいるけれど、みなさんの世代はそういった時代を創っていく世代です。新しい時代には、ぜひそのことを意識して働いてみてください。そうしたらきっといい人生になるし、あなたたちがいい人生を送ったら、それはいい世の中を創るもとになっていくのですから。

アリス:
とても感動しました。一番心に響いたのは、「働く」ことの意味。今までそんなふうに考えたこともなかった。普段働くことを考えるのは、自分のためや生活のため。それが宇宙の仕組みにつながるということを今日初めて知りました。木の花ファミリーがなぜこういう暮らしをしているのかも、だんだんわかってきました。今日聞いたことを大切にしていきたいです。この出会いに感謝します。

いさどん:
人と人の魂が近いと、こういった良い出会いも宇宙が用意するんだよ。

クリス:
このような場を用意してもらって、本当に感謝します。これからは、働くことと心の関係や、人と人とのつながりをもっと意識していこうと思います。今後の自分の人生の中で、もっと高い視点でものごとを見るということを一つの目標にしていきたいです。

ケビン:
ここに来てすごく大きな体験をして、本当にありがたいと思っています。初めは日本に来るのが目的だったけど、いつの間にかそれを忘れて、ここにいることが楽しくなっていました。台湾に帰ったら、ここでの経験を友だちに伝えたいし、みんなにも木の花を体験してもらいたいです。

いさどん:
この考え方はここだけにあるものではなく、この世界の法則なんだよ。そしてこれからは、どこでもそれが表現されていく時代になるんだよ。

今日はみなさんに、今までの人々の価値観にはない、大切な話をしました。ぜひ、心に留めていってください。