「この私の人生を、あなたにプレゼントします」ー ある車中での会話から(2)

東京への往復の車中の会話、後編です。

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いさどん:昨日の夜、家に帰る時に夜空を見上げながら、できればこの質量を放棄して、あの星に向かってこのまますーっと行きたいなあ、って思った。それは、「上」に行く、ということではないんだよ。宇宙空間へ出るというだけのことで、宇宙には上下はないからね。
それで、どこへ行くかというと、やっぱりこの太陽系を離れて、銀河の旅をしたいんだよ。この天の川銀河も離れて、別の銀河へ行きたいなあって思ってしまうんだよ。

こうやって話すと絵空事みたいだけど、僕のその想いは本物なんだよ。そしてその想いが現実を創っていく。聖書に「始めに言葉ありき」とあるでしょ。言葉っていうのは想いからできてるから、始まりは想いなんだよ。「想う」という段階では、目には見えない。つかむこともできない。けれども、すべての形あるものは、始めにイメージすることから生まれてくるんだよ。「想う」ということは、宇宙を創造する原理なんだよ。
だから、僕は銀河の旅のこともすっごいマジに考えてるのよ。この肉体から離れることが、すごく楽しみなんだよ。そしてその真剣な想いは、より現実化していくんだ。

結局、その人が何を思考するかが、その人の存在を決めるんだよ。愛ある思考を持っていれば愛ある世界ができるし、愛もどきだったらもどきの世界ができる。そのことに僕はずいぶん前に気付いたものだから、疑わないでとことんやることにした。そうすると、その世界は現実化し、深くなっていく。

ともこ:私も愛ある者になりたくて、それをやろうとするんだけど、一生懸命やろうとしてるうちは“もどき”だなって思うの。「愛あるものになるんだ!」って頭の中で思ってるだけで、心はそうじゃない。そんな者にも、本物の愛が育っていくのかな?

いさどん:それがもどきであるうちは、もどきの世界ができるよね。でもいつか、その一生懸命がもどきじゃないものにつながれば、その時にはそれにふさわしい世界が表れるよ。その人の心のあり方が忠実に再現されるのがこの世界の法則だから。そこのところをとことん理解して、信じて、それになりきれば、その想いにふさわしい現象を生んでいくよ。

僕は確信を持ってるんだよ。昔、富士のふもとに菩薩の里を創ろうとイメージした時に、「いや、そんなことは無理だ」とか「自分みたいなものが人に影響を与えられるようになるのだろうか」という想いが湧いた。だけど同時に、それだからいけない、自分で自分の想いを否定するようなことではいけない、と思ったんだよ。だからその自分を否定する自分を否定して、自分にはそれができるんだと信じ切ることにした。やるだけやって、結果をもらえばいいじゃないか、って考えるようにしたんだ。

極端なことを言うとね。これは本当だろうかと考えるようなことがあった時に、それは僕をたぶらかそうとしている悪魔が、僕をからかって、天になりすまして与えたものだったとするでしょ。僕は、それでもいいと思うんだよ。なぜなら、僕はこの道を歩む時に、とことん信じることをベースにしているから。とことん信じて、まっすぐ進むということをベースにして歩んでいる限り、たとえそれを与えているのが悪魔だったとしても、それでもかまわないんだよ。
そして、僕が人生を終える時に悪魔が
「はっはっは。どうだ、見事にお前を騙してやったぞ。引っかかったな」
と言ったらね、僕はそこでにっこり笑ってね、
「そうですか。あなたは悪魔で、私を騙してきたんですね。
でもその悪魔に私が提供したものは何だと思いますか」
と言うんだよ。そしてね、その僕を騙し続けてきた悪魔に向かって、こう言うんだ。
 
「僕はまっすぐ信じて、この道を歩み切りました。
 この私の人生をあなたにプレゼントしますよ。」
 
 
ねじれて、歪んで、疑っているものを悪魔と呼ぶならば、その悪魔にとって、そんな恐ろしい返り討ちはないんだよ。だってそれは、完全に彼を否定するものだから。彼はそこで「ああ、やられた」と言って消えていくか、それとも、申し訳なかったと言って心を入れ替えるかの、どちらかだろうね。
だから、たとえ悪魔であったとしても決して屈しないんだよ。ましてやそれが神であるならば、なおさらそのまま進んでいけばいい。

ともこ:今の話を聞いて、私の人生はずっと疑いがベースになって来てるって思う。人との関係でも、いつか自分は見放されるんじゃないかという怖れが常にあって、わざわざその関係を壊すような行動を起こすんだよ。どうせダメなんでしょと疑って、その通りの結果を招いて、ほらやっぱりダメなんだと確認してある意味安心してる。そうやってわざわざ自分の不信を深めてるの。

いさどん:疑いがベースということでは、僕もそういう時があったんだよ。だけど、疑う自分がどういうものかと考えてみると、それって価値がないでしょ。僕はそういう自分を評価できないわけだよ。そういった心がある自分は、好きじゃない。疑う心を持ち続けるということは、それでよしとしているってことなんだよ。それを捨てるか捨てないかは、その人の意志だからね。
僕には、強い意志と決意があった。それはどういうものかというと、常に道理の通った方を選び、自分に価値をつけるということ。その王道を行くことをとことん徹底するから、時には矛盾した自分を否定することもある。それだけの意志があるか。僕にはそれがあるから、怖いとは思わないんだよ。

ともこ:私の場合、信じて、自分が傷つくことを怖れてるんだ。

いさどん:信じて傷付くとしたら、それは信じ方が間違ってるってことだよ。

ともこ:信じ方が中途半端ってこと?

いさどん:中途半端というのは、つまり信じてないということだよ。信じることを怖れてるってことは、つまり自分の想いと違うことが起きるかもしれないと疑ってるってことでしょう。ということは、信じてないってことなんだよ。
だから、「信じることを怖れてる」というのは正確な表現じゃないね。つまりは「疑ってる」だけのことなんだよ。どこまでも疑ってるっていうことさ。

ともこ:そうか。言葉は正確に使わないとね。

いさどん:そう。言葉が間違ってるんだよ。信じることを怖れていて、信じるも何もない。

ともこ:うん。
思うんだよ。信じてる人は気持ちいいだろうなって。

いさどん:いやあ、もしもこういう究極的な意味で信じる信じないという話になったら、信じてる人はほとんどいないんじゃないかな。まあ、人生の部分的なところでは信じてるって言えることはあるだろうね。だけど究極的に信じている人は、なかなかいない。もし本当に信じていたら、どんなことが起きようとも怖れる必要はなくなるよ。

ともこ:いさどんは信じてるの?

いさどん:何か出来事が起きた瞬間は「わあー」って思う時もあるよ。だけど、今までいろんなことが起きたけど、結果的にここまで歩んできてるってことは、その出来事はその瞬間のプロセスを見せてくれただけとも言えるんだよ。「人間万事塞翁が馬」と言うでしょ。今起きていることに対して、結論なんて何も出せないんだよ。
そして今までいろいろあったけど、事実として、この道を信じてやって来て道理から外れたことは一度もないんだよ。うっと思うことが起きれば起きるほど、たくましくしてもらってるんだと思うよ。

ともこ:今こうやっていさどんの話を聞いているとね、何を疑うことがあるんだろうか、って、疑うことの意味を感じなくなってきたよ。

いさどん:そうでしょう。

ともこ:それを、今のこの瞬間だけじゃなくて、日常の中の一瞬一瞬に活かしていけたらいいなって思うんだ。たとえば誰かと話している時に自分の中の疑いを感じる、その瞬間に。

いさどん:それは、その時にそれまでの見通しが外れるような出来ごとが起これば、瞬間は僕だってウッと思うよ。だけど、見通しが外れるってことは、自分の考えていたことと違うことが起きる、つまりわかっているのではないことが起きるんだから、逆に楽しみなことになる。予想以上の何かが起きるぞって思うんだ。
見通しが壊れるってことは、その考えに固執している人間にとっては恐怖なわけだよ。自分の思った通りにならないんだから。僕の場合は、それを楽しむんだよ。さてこれからどうなるだろうね、って。

ともこ:そうなんだね。私なんてね、自分の思った通りにならなくて、勝手に傷ついてたりするんだよ。

いさどん:思った通りにならなかったことを、その結果も見ないうちに何で悪いことだって決め付けるの。思っていたよりもいい結果になる可能性だってあるんだよ。そしてどんな結果であっても、それがまた次を生んでいく。結果は、常に紡がれて続いていくんだよ。

人間は、自分の意志で人間をやっているのではなく、この宇宙から何かを受託して、銀河や太陽系、そして地球がどういう歴史を刻むのかということの延長に、この世界で役割をもらっているんだよ。つまり我々は、銀河の舞台、地球の舞台の役者なわけだ。
役者にはシナリオがあって、多少のアドリブの自由は与えられつつも、そのシナリオを忠実に演じてるんだよ。そしてそれは大きな仕組みの中にあり、役者はシナリオを演じながら、その仕組みが発しているメッセージが一体何であるかを考えるべきなんだ。それが優れた役者になるということだよ。ところがそこを観ようとしないものだから、シナリオ通りに進んでいることであっても、自分の考えと違うと言ってウッとしたりするわけだ。

そして、我々は地球という舞台で肉体をもらって役者をやりながら、同時に観客でもあるんだよ。シナリオライターと監督はというと、天、つまり神の領域にあり、我々は役者として自分たちで演じながら、同時に観客としてその舞台で展開される物語を楽しみ、その奥にあるシナリオライターや監督からのメッセージを感じとることができるという、すごくおもしろい世界にいるんだよ。

そんな場所を与えられているのだから、楽しまなくちゃね!

 

 


宇宙では全てが活かされている ー ある車中での会話から(1)

いさどんと話していると、日常の何気ない会話が宇宙にまでつながっていくこともしばしば!

以下は、先日東京で開催された『確固たる居場所』上映会に向かう車中での、ファミリーメンバーのみちよとともこ、木の花に長期滞在中のじゅんこちゃん、そしていさどんの会話です。前後2回に分けてご紹介します。

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いさどん:昨日テレビで、定年退職を迎える父親に娘がお祝いのサプライズを贈る、という番組をやってたんだよ。そのサプライズの内容はというと、退職の日に、父親の勤める信用金庫で家族や職員たちが次々と踊り始めるんだよ。

みちよ:楽しそう!

いさどん:そーお?全然楽しくないよ。そんなのただのテレビのやらせで、それを「楽しそう!」と思うのは情報ミーハーの人の発想。僕は冷めながら見てたよ。
番組としては、その一家をほほえましい家族として描いてる。でも僕には、その家族が多くの問題を抱えているのが観える。それをあなたたちは、「楽しそう!」と表現してしまうんだね。

(ここで、隣の車線が渋滞しているのを見ながら、じゅんこちゃんが不安げに言いました。)

じゅんこ:これ、どのくらい続くんだろう?

いさどん:それは行ってみればわかることだよ。行ってみなければわからないことを心配して、今そんなふうに不安がっても仕方ないでしょ。

じゅんこ:そうね。私の不安症なところが出てるね。

いさどん:何気なく発する言葉が人間性を表しているんだよ。誰かが一言いうと、僕はその背景にどんな心があるかをピピッと感じるんだよ。

(しばらく走るとインターチェンジがあり、そこで隣車線の渋滞は終わっていました。)

 いさどん:ほら、ここで終わってました。だから、行く前から心配する必要なんてないんだよ。行ってみればわかることなんだから。

 じゅんこ:そうだね!先案じしたのは無駄だった。

いさどん:常に合理的な発想をしなきゃだめだよ。合理的というのは、事実に基づいて思考を進めるということ。そうすると無駄なエネルギーを使わなくなるし、自分の心を振り返る時にも確実な振り返りができる。自然とか、宇宙は常に合理的なんだよ。

じゅんこ:いさどんは、いつごろからそういう視点を持つようになったの?

いさどん:物事の奥を観るということ?わからないなあ。
最初は観えなかった。それが、何かを見る時には常に真剣に観ていくうちに、そのたびにそこから得られた情報が蓄積されていって、だんだん精度が高くなっていったんだよ。
だけど、ある意味不幸だよね。もっと浅く観ていけば楽でいいのに、どうにもそれを極めたくて仕方がない心があって、常に思考が回っているんだよ。それはけっこう疲れるね。

ともこ:どんなふうに回っているのか見てみたいよ。

いさどん:ここ(頭)だけじゃなくて、ここ(心)も回っているんだよ。頭で回しているものと、心で感じるものと、さらに天から降りてくるものもある。頭での思考と、感覚的・心情的に感じるものが別回路であって、それが同時に回転してるんだよ。

ともこ:自分の中から湧いてくる考えと、天から降りてくるものは別の感覚なの?

いさどん:うーん、それも回路があってね。天から降りてくるものは気付きとして生まれてくるんだけど、ここらへん(頭)から来るんだよね。自分の中から湧き出すものというのは、ここ(心)からくるんだよ。
そうやって考えると・・・・これはしっかり検証してから話した方がいいね。いい加減なことを言うことになってしまうから。

ともこ:いさどんはいい加減なことは話さないんだね。

いさどん:そう。いい加減になると、そこでストップする。

 ともこ:さっきのテレビの話だけど、私も、そんなに面白そうと思ってなくても「わあ、おもしろそう」とか適当に言っちゃうことがある。言葉をあんまり考えてない。

 いさどん:それは言葉をいい加減に使ってる。言葉というのは、言霊なんだよ。発した言葉が未来を創っていくのだから、いい加減に発していたらいい加減な出来事に出会う。
それは人の話を聞く時も同じで、いい加減に聞いちゃいけない。ただ聞いていればいいことと、相手の言葉をきちんと吟味しながら聞かないといけないことがあるんだよ。

 ともこ:いさどんはいろいろな人から相談を受けるけど、そういう時にも頭と心の両方を回しながら、どう対応するのが相手にとって一番良いかを判断してるんだね。

 いさどん:心は、アンテナみたいなのを張っていて、相手の心のくもりとか濁りをキャッチするんだよ。「これは濁ってるぞ」とキャッチしたら、それをベースにしながら相手の言葉を聞いて解析する。頭と心の回路が違うから、それを同時に回していく。

 ともこ:じゃあ思考はどういうふうに回ってるの?

いさどん:思考は、相手が発する言葉の背景にある心がどんな状態なのかをチェックしてる。言葉は情報源になるからね。その言葉の奥にある心がどういうものなのか探りを入れつつ、同時に心がアンテナを張っていて、駆け引きや濁りがないかをチェックする。火星探査ロボットがいろんな機能を使って火星を探査しているように、いろんなセンサーが同時に働いてるんだよ。

 ともこ:いさどんを見ていると、誰に何を伝えている時でもやさしいな、と思う。例えば昨日の大人ミーティングでも、(メンバーの)りょうちんの心の歪みを周りが問いただしていた時に、そのままではりょうちんが萎縮してしまうからと助け舟を出したよね。

 いさどん:それはやさしいというよりも、厳しい言葉を正しく調整しているだけなんだよ。だって、りょうちんをつぶしたって仕方ないじゃない。
僕は、常に誰のことでも「活かす」ってことを考えてるんだよ。場合によっては一度つぶしてやらないといけないこともあるからその時にはガツンと言うけど、逆に、ガツンとやったままにしておいたら今度は使いものにならないでしょ?だから、引き上げる。それはやさしいというよりも、使えるようにするってことをしているだけなんだよ。リサイクル屋みたいなものだね。

ともこ:何をやっている時も、「使えるようにする」ってことが前提になってるんだね。それをはたから見ると、「やさしいな」って見える。

いさどん:普通は、相手の間違いを見つけると腹を立ててつぶしていくからね。僕はやさしいんじゃなくて、それではもったいないと思うんだよ。

 みちよ:それは創造する側の視点じゃないと、そういうふうには思わないよね。

 いさどん:そう、宇宙や自然にはゴミがない。なんでも活かして、無駄がないでしょ。それをやろうとしているだけなんだよ。それを「やさしい」と言うのは、やさしいとか厳しいとかいう概念でものを考えている人たちの見方で、僕は特別やさしいとは思わない。

 ともこ:相手を活かすということがベースになった時に初めて、ただ厳しいだけじゃない、本当に豊かで魅力的な場を創ることができるんだね。

 いさどん:そりゃあそうだよ。アイスブレイクがいるんだよ。

ともこ:それが私たちにはなかなか足りないんだと思うの。頭はそれなりにみんな働く。だけど、活かしていくってことが足りない。

 いさどん:なんでだろうね、それは。

ともこ:そこをいつもいさどんに調整してもらってるなあって思う。
例えば、子どもを事故で亡くしたとか、すごくつらい体験をした人がいるとするでしょ。そういう人に対して多くの人は同情するけど、いさどんはどういう気持ちで接するの?

 いさどん:それは、気の毒に思う気持ちはあるけれど、では世の中に同じようなことがないかと言うと、あるよね。だから、そういうことはこの世界にあり得ることとして、自分がそれに出会ったことをどのように捉えていくか、という話をするよ。だって悔やんでも取り返しはつかないわけだから。
僕は、同情してその気持ちを理解はするけれども、じゃあそれをこれからどう活かしていくかというように、活かすことを考えていくよ。活かすことを伝えてあげると、相手も楽になるからね。

ともこ:その活かすことを伝える時にも、まずは一度相手の気持ちを理解するんだね。

 いさどん:もちろん。理解して、同情するよ。とはいえ、相手も同情だけ受けて同じ場所で苦しみ続けていても始まらないから、それをどのように活かしていくかってことが大切なんだよ。事実は変えられないんだから。

 ともこ:そういうことを伝える時に、相手の心を感じないで言葉の上だけで伝えると、相手が余計に落ち込んだり、言われたことを受け取れなかったりする気がするんだけど。

 いさどん:そこで大事なのは、冷静な伝え方なんだよ。相手にむやみに同情しないってことさ。同情すればするほど、相手も、そうでしょ、そうでしょ、と感傷にひたって落ち込むんだよ。だから淡々と、その人の悲しみがどういうものなのかを伝えていく、ということじゃないかな。

 ともこ:その時に私がいさどんに感じるのは、やっぱり何か、相手を一度理解して受け入れている感じがまずベースにあるってこと。その安心感があるから、相手もそこから先へ進む話を素直に受け入れることができるんじゃないかって思うんだ。

 いさどん:どんなことでも、事実としてあったことなんだから、それは理解できることなんだよ。気の毒なのも当たり前だから、それは理解する。でもその不幸のどん底にいる人に対して、違う視点から見てみてください、そうするとその出来ごとが違って見えてくることもありますよ、ということを伝えていくんだよ。こういう視点を持つとこう見えますよ、と伝えて、それが受け入れられなければまた別の視点を伝えてみる。そこでは、理解をしても同情はしないってことだよ。

 ともこ:その「理解」ができるかどうかは、その人のキャパによるのかな?子どもを亡くしたという話は別として、私の場合、人に対して「どうしてわからないんだろう」って、相手を理解せずに怒ったりする。

 いさどん:僕も、例えばここのメンバーがエゴによって道を踏み外した時に、なぜそんなことをするのかという気持ちになることはあるよ。昔の僕だったらそういう人とはそれ以上付き合わなければよかったんだけど、こういう道を歩んでいる今は、もうそんなことはできないんだよ。だって、大切な人たちばかりだから。それを排除しては、この道は歩めないわけだから。
僕はそこで、ああ、これは天から与えられたんだな、と思うんだよ。するとそれはもう、僕個人の問題ではなくなる。そして共に歩んでいった先に、なぜそれが与えられたかを理解できる時が来る。もしも僕がこの道を歩んでいなかったら、それは絶対にあり得なかったこと。その落差がおもしろいと思うんだよ。相手を拒絶するのではなく、「おもしろいなあ、神様は粋なことをやるなあ」というふうに捉えるわけだよ。

昔、僕が天からの啓示をいただくようになった時には、なかなかそれを受け取れない自分がいて葛藤していたんだよ。それを受け取ることは今現在の自分自身を否定することになってしまうから、その捨てられない自分が反抗してた。だけど統計を取っていくと、自分が何か主張したところで、所詮は天の道理の方が優っているに決まってるんだよ。それはもう、データとしてわかっていること。僕は常に道理の通った方を選ぶ人だったから、自分と天を比べることよりも、自分を主張することをやめる方を選んだ。自分のことを自分ごとにすると辛くなるけど、そこでは自分のことを人ごとにするんだ。その時に、それを「おもしろい」と思えるようになるんだよ。

結局、神様はこの世界で我々にゲームを仕掛けてるんだよ。そうするとね、ゲームに負けちゃならん、と思うわけだ。ゲームに負けないってことは、受け取るってことなんだよ。そうすると引き分けになる。神様とのゲームに、勝ちはないからね。ゲームに負けるってことは、その出来ごとにウッとして心が乱れるってことさ。僕は、絶対に負けたくないんだよ(笑)。

 ともこ:それは、冷静さを装うこととは違うんだね?

 いさどん:違うね。本当にそれを無条件で受け取れる人になる、ということだよ。
神様は意地悪をしているみたいだけど、実は意地悪じゃないんだよ。人に愚かさを表現させ、それを克服した時に、今度はその人が喜びを表現する。その時に、神様もその喜びを自らの食べ物として、この世界を動かすエネルギーに変えているんだよ。

今日はこれから上映会に行くけれど、その価値のわかる人たちの中でこういう座談会をやりたいなあ。

 

 


皆さん、I love you.

4月3日ヤマギシの豊里実顕地にて、出版記念コンサートが開かれました。「Welcome to アースファミリー」「星々の会合」「この世界をつくっているのは」と木の花楽団のオリジナルソングが歌われ、コンサートの中盤にさしかかってきた頃、いさどんから皆さんに次のような挨拶がありました。(なお、いさどんの挨拶、ようこからのコメントは春日山実顕地のよしこちゃんがテープおこしをしてくれました。よしこちゃん、どうもありがとう!)

《いさどんの挨拶》

皆さん、こんばんは。(会場より「こんばんは。」)去年の11月に来て以来、もう5ヶ月ほど経ちました。随分ご無沙汰したと思っています。ただ、この地球に一緒に生きていましたから。ですから、私たちはこの瞬間を共有して、たったひとつの時間、そのたったひとつの過去から未来への流れを生きている、ということで共に生きています。その時々に亡くなる人はありますが、その亡くなった人も魂の世界にいて、またいつかここへ戻って来ます。私たちがその間も生きていたら 先に亡くなった先輩も私たちの子や孫になってまた生まれてくることになり、この世界を私たちはひとつのものとして共有していることになります。

というわけで、今日はお久しぶりの挨拶に、皆さんにメッセージをお伝えしたくてここに立ってみました。皆さん、I LOVE YOU.(会場、笑。会場より「I LOVE YOU!」「I LOVE YOU,TOO!」) LOVE?(会場より「LOVE!」)ここは日本でしたね。皆さん愛しています。(拍手)
 
一昨年の11月15日でしたね。もとやんたち8人の人が木の花を訪ねて来てくれました。あのとき、「扉が開かれた」と思いました。本当です。嘘は言わないいさどんです。そして、新しい歴史が始まると感じたものです。その後12月に、ヤマギシのボスたち、寛ちゃんと同志、よりどんが来てくれました。その時に僕は伝えたのです「待っていた。遅い。もうとっくに出会っていてもいいはずなのに。何をしていたのですか。振り返ってみれば、10年も前に木の花から皆さんにメッセージを送っていたのです。しかし、そのメッセージには反応がなかった。しかし、いつか必ずつながると思っていた。10年経ちました。やっと来ましたね。」
 
それからあっという間に1年経ちました。1年どころか1年半になろうとしています。私は皆さんに時には辛いことを意識して言ってきました。しかし、その背景にあるのは今、メッセージを伝えましたね。愛しているから。愛しているからこそ・・・ですよ。隣の人のことだったら、どうなったって興味を示しません。しかし、私たちが出会ったのは運命の出会いだったのです。そして、そのことを確認し合いました。・・・ですよね、寛ちゃん。(寛ちゃん「はい。」)強制したみたいで申し訳ないです。(会場、笑)もう一人の人ともここで今日、確認し合いたかったのですが、どうも忙しいようで今日は来られなかったようです。そして、その気持ちは今の僕の中でも全く変わっていません。そうですよね、寛ちゃん。(会場、笑)強制していますね。(会場、笑)これからも変わりません。
 
ただ、この話はその時も確認し合いましたが、木の花とヤマギシのハネムーン、蜜月を完成させるための話ではなかったはずです。私たちはこの世の中に真実を表わしていくとき、この世界に生まれてきて「人間というのはこういった目的のためにこの世界に生きている」ということを私たちが自覚して、自らが誇れる人生を生きること、それが私たちの尊厳というものだと思います。そして、その尊厳に目覚めた人々は、他のすべての生命の頂点としての自覚があるものですね。今日、宇宙の話がありましたが、他の星々もその枠組みの中にあるのです。そして、この地球という特別な星、この星は特別なのです。地球の特徴は現実化、変態・変容、つまり状態が常に変わっていくことです。こんな星が他にあるでしょうか?月へ行ってごらんなさい。30年前にアームストロング船長が人類の第一歩を印した、あの足跡がまだ残っているのです。火星の探査機が何年もかけて火星を探査してまわりました。あの足跡がそのままいつまでも残っているのです。宇宙はものすごくゆっくりなんですね。この地球では、もうじきタケノコが出ます。タケノコが一番伸びるときは一日に60センチ伸びるのです。これがこの世界で一番たくさん、宇宙一変化する生命です。私たちもそうです。生まれた時はあの可愛らしい無垢な姿だったのが、10年経ち20年経ち30年経ち40年経ち、それ以上は言いませんが(会場、笑)、随分変わりましたね。中には妖怪みたいになったりして。(会場、笑)それは、この世界の中で地球が特別な星だということです。そして、その中に私たちはいるのです。たくさん変態・変容を繰り返しながら、多様性として私たちひとりひとりがこの世界に存在しているのです。その私たちひとりひとりが別々でバラバラなのかといったら、私たちはひとつの太陽、ひとつの海のもと、それからひとつの大地のもと、この世界にいのちを共通していただいて、このひとつの大気のもとに共存しているわけです。気に入らない人がいても、「あの人の吸った空気だから吸いたくないわ」というわけにはいきません。隣の国、北朝鮮のキム・ジョンウンさんが吸った空気を吸いたくないと思っても、大気は巡って来るようになっているのです。日本からの空気はアメリカの人々が吸うようになっています。それはこの地球がひとつだからです。
 
皆さん、もう一回メッセージを送ります。愛しています。それはどうしてかというと 皆さんが私だからです。そして、私が皆さんです。どうやってこの星の上で私たちを区別することが出来るのでしょうか。人間どころか他の生命も、言語で対話することが出来ないような植物ですら、私たちに酸素を供給してくれているのです。その世界の中で、私たちは特別にいただいた能力があります。それは自我です。これは尊い能力です。自己実現が出来るのですから。自らの想いを叶えて自らを幸せにしようとすることが出来るのです。人間以外のものでそのようなことが出来るものはいません。宇宙の中でも、この三次元世界にもそのようなものたちはいないのです。ところが、私たちはそれが出来るものなのです。そのようなすばらしい能力をもらっているのに、多くの人は自らのほうだけに意識を向けて、自らの側から見える解釈をし、この世界を生きているのです。これではどうしたら、「あなたは私、私はあなた」という世界が出来るのかと思うのです。それで、時々辛い言葉をヤマギシの皆さんに投げかけてきたのですが、くれぐれも言っておきます。愛しいからです。

しかし、僕はヤマギシの皆さんだけを愛しているわけではないのです。すべての人類、そしてすべての生命、さらに地球そのものを愛しています。地球は奇跡の星なのです。そんな星がどこか他にありますか?あと何年たったら、このような星をこの宇宙で見つけることが出来るのでしょうか。この広大な世界は無限にあるのに、私たちはいつこのような星に出会えるのでしょう。僕は出会えないだろうと思うのです。それはこの地球が本当に特別に創られた星だからです。しかし、私たちはそれだけのことを理解して生きているでしょうか。もしその貴重な出会いである自分自身、そして貴重な他者との出会いを理解していたら、私たちはこの地球上で戦うでしょうか。そこに貧富の差ができるでしょうか。そんなことは当たり前ではないですか。
 
僕は、ヤマギシの人たちにこういうことを言ったらきついだろうな、と思うのです。だからこそ投げかけるのです。それはそこにこそ気付いてもらいたいのですから。僕の身体ひとつとっても、僕の目線があります。しかし、その中には手の目線とか、足の都合とか耳の都合とか、色々な都合があるのです。内臓の都合とかもあるのです。そうすると、その都合都合の主張ばかりしていたら 身体全体の健康は保てません。それを束ねてひとつの秩序、調和を保っている姿が私たちのいのちなのです。それで、私たちはヤマギシの皆さんも木の花の皆も含めた「血縁を超える自給自足の大家族」(新刊本の映っている後ろのスクリーンを見ながら)なのです。この本に表現されている世界はどこにあるのかと思うわけです。木の花ファミリーと書いてありますが、それはちがいます。地球が血縁を超えた自給自足の大家族ではないですか。そこでは人間だけではありません。すべての生命がONENESSというひとつのいのちなのです。いつになったら人類はそのことに気付くのでしょうか。多くの賢明な人々はそのことを「ガイア」という表現で説いてきました。しかし、現実にその生活を日常で表現している人々に出会うことは難しいです。時代は随分進んできました。そして、道理・理論のところでは立派な世界が出来たと思うのです。しかし、まだまだ今の世の中には、この世界の尊さが理解出来た上での地球人類のあり方は表現されていません。それはこれからだと思います。
 
私たちは一昨年の11月にヤマギシの皆さんと出会いました。僕は本当に見えない糸で結ばれた出会いだと思いましたし、今も思っています。しかし、ヤマギシにはヤマギシの皆さんの歩みというものがありますので、それを私たちも尊重しながら、共にありたいと願う心で当然のことを皆さんに伝えてきたつもりです。それは「私の話を聞け!私の言うとおりにしなさい」ということではありません。「共に、本来私たちが歩むべき道を進みましょう。それは私たちに出会う前からの皆さんの立村の精神ではないのですか?」ということを伝えてきたのです。ですから、皆さんのことは今でも、そしてこれからも愛しています。

今回、本が出ましたね。そんな木の花の日常を皆さんに少しお伝え出来るかなと思います。そして、そこにはヤマギシの皆さんが目指してこられた世界と同じ世界があると思うのです。私たちはそろそろその枠を超えて、もうひとつ大きな役割として共に歩んでいきたい。それはヤマギシの皆さんだけではありません。地球人類とすべての生命がその世界を実現出来るように、それを目指していきたい。それが全人幸福の道だと思うのです。今回の出版を記念して、その心をもう一度皆さんと確認出来、再び共に歩み出せることを願っています。

というわけで、たまに来てコンサートをやってさようならではなくて、ここを自分の家としていつか訪れるようになりたい。そんな想いでいます。また、たくさんの話を皆さんとしましょう。ありがとうございました。

《いさどんの挨拶へのようこからのコメント》

数日前からいさどんが、「ようこちゃん、豊里のコンサートではとびっきりの挨拶をするから」と言っていたので、私はそれを聞いてすごくドキドキしていました。今年の2月3日、節分の時に「節目」という投げかけをヤマギシをはじめ議事録やブログを読んでいる方にいさどんが投げかけたことを思い出し、「さあ、今回いさどんはどのようなメッセージを豊里や他の実顕地の皆さんに投げかけるのだろう・・・」と思っていました。

なぜそう思ったのかといったら、今まで私はいさどんと、どちらかと言うとヤマギシの皆さんへのメッセージを投げかけてきた立場なのですが、ただ私は「みんな家族で大事だよ」 と伝えたいだけでした。さきほどいさどんが皆さんに「愛しています」と言ったように、私も皆さんのことを「大好きで愛しています」と言いたいだけなのに、皆さんのことを想えば時には言いたくないことも投げかけてきて、本当はそれがすごく嫌でした。

それで今日、「いさどんはどんなことを伝えるのだろう・・・」と内心ドキドキしていた時に、いさどんが「皆さん、愛しています」と言ったのです。それを聞いて涙がぽろぽろ出てきました。「本当にもうそれしかないな」と思いました。ただそれだけを思ってずっと皆さんと接してきたのに、言いたくないことも時には言ったりして嫌だなと感じていた想いが自分の中で溶けていったようでした。

今年2012年は木の花では「結びの年」と言われています。ですから、影で何かを仕組んだり、一部の人たちとだけ情報を共有するということはもうなしにして、本当にただオープンにストレートに、私たちの中にある愛を結んでいき、同じ志のもとに結ばれた心の家族として接していけたらいいなと思っています。


「節目 ~2月4日・立春正月を迎えるにあたって~」

2月3日の節分と4日の立春正月は、木の花の年中行事の中でもっとも重要な行事です。それを迎えるにあたって思うところを、多くの木の花ファミリーに関わってくれる人たちにメッセージとして送りたいと思っています。節分とは季節を分けることであり、冬の時代から春を迎える節目であり、立春を農の正月(1月1日)とすると、農の大晦日にあたります。自然とともにあり、農によって暮らしを営むものにとっては、立春正月を迎え、新たな農作業の始まりにもなります。そして、その前日の大晦日には一年を振り返り、自らの襟を正し、新たな年に向かうにふさわしいものでありたいと思っています。

私たちはこの世界に生をいただいて、自らの人生という旅の中でふさわしい出来事に出会いながら生きていますが、とかく人はその出来事を他者からのものとして受け取りがちなものです。しかし、そこで出会う出来事は、すべてふさわしく発信元である自らに返って来たものなのです。そういったことを日頃思う日々の私であっても、一年を通しての節目である時々をその見直しの節目として意識していただいています。それは、私たちの生活の中に一日という節目があるように、一日の中でも朝昼晩があるように、季節が四つの節目を持っているように、一年が12ヶ月の月で区切られているように、私たちが生きていく上で成長し、確かなものとしてその人生に落としていくためには、とても重要な役割をしてくれています。

仏教に「一止」という言葉があります。私たちは過去から未来に向かって生きていますが、一方通行のように前だけを向いて生きていると、自分の進む方向を見失ってしまうものです。真っ直ぐ正しく歩んでいるか、捉えられなくなります。そこで、何かの節目を迎えたときにその歩みを一度止めて、自分の歩んできた道を振り返り、過去が現在の自分にどのようにつながっているのか確認することが大切なのです。そうすることにより、今までの自分の歩みが今の自分にどのようにつながっているのかが理解でき、未来に向かってどのように進んでいったらいいのかが見えてくるものです。

この世界に生きているということは、とかく思うようにならないことが多いものです。自分の想いが叶うかどうかは、自分の想いを叶えようと安易に走ることではなく、自らがどのような役割のもとに生まれ、生かされているのかという目線に立ち、それをいただいていくことによって成っていくのです。自らの想いを叶えようと思うことは、自らが生きているという意識であり、私たちを取り巻き生かしている法からは外れていることになりますから、その法は私たちにその証として問題事を与えてくれているのです。

私たちはその問題を与えられた時々にそれを節目として一度止まって、それまでの歩みを振り返り、これから向かう未来に正しい道を開きたいものです。「一度止まって」と書いて、「正」しいとなるのです。木の花の一年のもっとも大切な行事である節分にあたって、その精神を持ってひとりひとりが振り返り、新たな春を迎えたいものだと思っています。旧年の多くの皆さまとの出会いに感謝するとともに、その出会いがつながり広がって、より良き社会が実現していくよう、ともに歩んでいきたいものです。感謝、合掌


この世界をつくっているのは

ヤマギシから木の花を訪れたお二人。3泊4日の滞在の中でいさどんと面談する時間が3回もたれたのですが、2回目の面談ではお二人のみならず、ヤマギシ全体に投げかける話がいさどんから語られました。

安美さん:ここで2日過ごさせてもらい、これからどう生きていくのかをはっきりさせていかないといけないと昨日の夜から思っていました。ここで生活している人たちを見ていると、毎日を本当に一生懸命生きていると思いました。「言葉で全人幸福と言わなくても、実際に菜食主義をしていることで世の中が平和になっていく」ということも、来たときから2日続けてこうちゃんが御飯のときに一緒に座ってくれて伝えてくれました。「今の村の暮らしというのがぬるま湯につかっている状態」というのは確かにその通りで、全人幸福を想い考えながら生活している人は、本当に少ないのではないかと思うのです。では、私がこれからどう暮らしていくのか。その答えはまだ出ていないのですが、もう一度よく考えたいと思っています。実際私と仲が良かった人で、ヤマギシが嫌だったというわけはなくても色々な事情で村を離れていった人が結構います。今でもその人たちとは時々会ったりしているのですが、本当に親しい人が村を出ていって、あるいは亡くなったりしていて、今村に残っている人で話したい人があまりいないという状況です。自分はここを出たいとは思わないのですが、今のままで村が良いとは全然思っていない、というのが今の私の心境です。

いさどん:今のままで良いとは思っていなくても、そういった日々を繰り返していくことにもなってしまいます。人によっては年齢が来ていますので、その人たちが臨終を迎えたときに、「私はこの理念に共鳴して参画したのに、いつになったらその理想世界に出会えるのか。それに出会う前にいのちが切れてしまう」と言う人もいたりします。理想世界、宇宙の真理は無限ですからあり続けるにしても、少なくともひとりひとりの中に達成感を持って旅立ちたいものです。それはここの生活のように日々が探究であり、活性し続けることであると思うのです。そのことによって、「やり遂げた」という人生の満足に出会い、旅立てるのだと思います。「この一生を生きていて良かった。悔いなし」と生きられると思うのです。すべての目標を達成するということは、代々受け継いで人類が地球に存在し続ける限り、追及し続けるものだと思うものですから。何かしらそこに私たちがひとりひとりの立場として、目指すべき姿があると思うのです。

哲さんはどうですか?昨日の大人会議に出席されている姿を見て、この人は理屈ではなく肌でここのリズムを感じていらっしゃると思っていました。そこにはしっかりと神経が行渡っている状態でやっている場所があると思うのです。そういうものをこの人は感じておられるな、と思いました。明日帰られるということですから、今夜の大人会議の場ではぜひ、この3泊4日の滞在の感想をみんなにもシェアしてもらいたいと思っております。そのあたりのことはどう思っておられますか?安美さんがおっしゃられたように、今までの自分も含めて今後どう村で生きていくのか、ということをお尋ねします。

哲さん:ここに来る前に2週間研鑽学校Ⅱに行ってきました。その中で、本当の世界というよりは自分の世界で全部見てきている、自分の世界に本当の世界を合わせ、結局自分の世界を見ているだけなのだと気づきました、前から自分にはそういう癖があるとは思っていたのですが、自分が発言してもそういう世界で生きているので他の人に伝わりにくい面が自分にはあると思いました。研鑽学校も昔は振り出し寮という研鑽機会もあって、そのときに自分の気持ちが本当にすっきりと出せ、そのことにみんなが反応してくれて一方通行ではないやりとりを感じたことがありました。自分はそこをやりたくて参画したはずなのに、いつも自分の世界にとどまってしまう自分の傾向がずっとありました。今回も研鑽学校でそういうふうになりやすい自分を感じ、今お話を聞いていても、そういう自分から脱却していきたいと思いながらも、どういうふうにしたらいいのか自分の中ではいまひとつ描ききれていないという状態です。2週間研鑽学校にいて気づいたのは、ただ自分の中で思っているだけではなく、それを実践していくということが大事だということです。聞くにしても見るにしても、どうしても自分の見方が入ってしまうので、そのときに自分から出すことで、自分の思惑を外していけるという実感が今回の研鑽学校ではありました。そのときに違ったものが見えてくると思います。今まで実践、実践と言葉では言ってきましたが、これからはそれを日々の中でやっていきたいと思っています。

提案と調正というのがあるのですが、私の右耳は参画する少し前から聞きづらく、難聴のようにじーんと耳鳴りがすることがあります。それを自分の中ではずっと置いてきたのですが、今回研鑽学校に行く前に補聴器を買うことを提案したのです。それで研鑽学校から帰ってきたら、私の提案に対して「こういうものではどうですか」という返事をもらいました。今まででしたら、自分はこういうことに関しては「こういうふうに言われたからそれでやろうか」とやってきたのですが、今回は自分の中でもっとこういうふうにしたいとか、自分でも調べてこうなんだということ、つまり「私意尊重公意行」の私意をもっとはっきり出していくということがありました。調正所からの返事をメールでもらったときには向こうの意図が漠然としか感じられなかったのですが、たまたまその人と直接出会って話してみたら「この人はこういうことを伝えたかったんだな」ということがお互いにわかりました。今までならよくわからなくてもそのままにしてきたのですが、今はそこをどういうことなのかと出してみることで、相手の意志が以前よりもわかるようになってきました。つまり、自分が取り違えをしていたことや相手も具体的ではなく漠然とした形で伝えていたということがあったのですが、出会ってお互いに出し合うことでそのことが明瞭になったのです。自分が受け入れるという点では、その人の言わんとしていることをまずは受けて、自分としては何をしたいのかということを自分に問いかけてみる。まずはその人の提案をやってみた上で、自分がこうしたいということがさらに出てくれば、また自分のほうからそのことを再度提案していく。今までは受けてそのままということが大半だったのですが、これからは自分のほうからもっと提案していこうと思った一件でした。今まで私は想いの世界では結構やってきたのですが、実践していくということが自分の中ではっきりしていなかったのかな、と思いました。これからは自分の想いだけにとらわれずにやっていきたいと思っています。

いさどん:研鑽学校はいつ終わったのですか。

哲さん:先月の30日です。

いさどん:その研鑽学校が終わって今、1週間が経ったところですね。研鑽学校が終わったときの自分の意識と1週間経った今の意識は変わってきていますか?

哲さん:そうですね。。。

いさどん:これを車にたとえると、研鑽学校が終わると問題があったところがオーバーホールされて出てきたということですね。整備されて出てきたという感じがするとしたら、研鑽学校に入って意識が変わったのと1週間後の今の意識は変わっています。変わってきているというのは、研鑽学校に行って変わったことに対して、行く前の自分が変わり続けているのか、それとも行く前の自分に戻ってきているのですか。

哲さん:自分は戻っていなくて、日々変わってきていると思っています。

いさどん:その日々変わりつつあるというのが今の話ですよね。ということは、哲さんの今の状態をもとにして研鑽学校の実態を読み解くと、今の話の中には「自分と相手」「自分と調正所」の対話しか出てこなかったですよね。村全体とか世の中とか、ましてや全人幸福などというものはどこにもない状態です。自分という枠の中に視点を取り過ぎたために、我執を取り去るどころか我執が増えている状態で研鑽学校が終了している状態ではありませんか。つまり、自分に興味があり過ぎるのです。誰でも自分に興味があるのは当然のことですし、あってもいいのですが、それは沢山の情報、多様なものの見方の中の自分というものであれば、全体性の中から自分を観るということですから、他者と自分を区別せずに見ることができるのです。それが我執がない状態です。研鑽学校Ⅱが何を目的にしているのかということです。Ⅰの目的、Ⅱの目的、Ⅲの目的が何であるのかは知りませんが、人が目覚めていくときにこの研鑽学校で受講者に特定の目的を提供するということは、その奥にある目的を明らかにしないといけません。特講でも研鑽学校でも、受ける人たちを前もってこういうところにいざなっていこうという目的があること自体がいかがなものでしょう。それをヤマギシの人たちに投げかけると、「目的はありません。その都度その場でつくっていくものです」と言いながら、現実にはしっかりと目的があるのです。そういう矛盾がありながら、やっている矛盾を理解できていない状態です。なぜそういう状態を続けているのかというと、自らを離れてしっかりと客観的に見ることができる人がいないので、そういうことが起きるのです。今の話を聞いていても、自分というものにとらわれた状態から視点が外に広がっていない状態です。それに対して「こうしなさい」とは言いませんが、客観的に見るとそんなふうにとらえられます、というひとつの情報提供です。

そうすると、ひとつここで今の捉え方を突破する方法があります。今、あなたは自分と調正所を分けて考えています。自分の想いや願いを叶えてくれる対象としての調正所なのです。ところが、ヤマギシの人たちはそういう認識がないかもしれませんが、私のほうが本来の調正所の在り方をとらえていると思います。それはどういうことかというと、自らが調正所なのです。調正所が自分なのです。しかし、現実にはそういった捉え方はありません。調正所は自分の提案を審査してやめておきましょうと言うのか、それはこのように受けましたと答えてくれるのか、という対象と見ているのです。しかし、あの調正所の世話係には自分もなる可能性があるのです。それから、自分たちの考え方の延長に調正世話係の姿勢があって、それが返ってきているとも言えます。ですから、本来は自分が考える賢明な提案は調正所に持っていけば、すべて通るはずです。それこそ、一部の人たちが好き勝手にやるような調正所であるわけがないのです。賢明な発想を調正所に提案すれば、賢明な発想に対して賢明な回答が返ってくることは当り前です。そこで、調正所やヤマギシの村の都合で答えが返ってくるのもおかしな話です。それから、自分の都合だけを求めた答えが返ってこないことに対して、こちらが不満を言うのもおかしいのです。本来それは、どちらも一体の状態であって、全体のことを考えた個人の動きであるべきなのです。個人が個人で勝手にやったら共に生きている意味がないのですから、一体社会を実現するために、自らが提案したことに対して自らが回答するという役割分担を調正所と村人という関係の上で、わざわざ分離してつくっているだけです。本来は一体社会を体感するための場所であるはずが、今の話は完全に自分と調正所を分離している状態になっているのです。

さきほど、安美さんにも哲さんにも「どうですか?」と聞いたのは、まずは自分の考えを他者に共有することが大切だからです。ですから、一番身近な、ここで言う毎日の大人会議に参加したらどうですか、と提案しました。それは仲良し研であったり、一番身近である職場で自分というものを裏表なく出すということです。調正所に提案するときにも、自分のためではなく、この個人の願いはヤマギシのため、全体のために有効であるという視点で提案していく。そうすると、調正所はそれを受けて、個人の望みを叶えることはヤマギシのために大事なことになるのです。そして、その提案が通っていくようになるのです。そういった姿勢をお互いに持つことが大切だと思います。そうすると、提案と調正というものが全体を健全にするためのものになるのです。そこには拒否するとか、ならないことに対して不満を言うということがなくなるはずです。その意識が分離してしまい一体社会になっていないから、物事がスムーズになっていかないのです。本来それを理解するための研鑽学校であるべきなのに、我執が増幅してきている状態です。それがさきほど私が言っていた、研鑽学校という場は個人を振り返りなさいというところにいざなっておいて、全体に対する批判をなくして、全体を運営しやすいようにしているところということです。簡単に表すと、組織を運営しやすくするためのマインドコントロールの場所になっているのです。だから、研鑽学校に対して拒否反応を示す人が出てくるのです。しかし、本来はそういう場所ではなかったはずなのです。個人が目覚めてイズムにふさわしい人になり、一体社会を実現することによって、組織と個人が表裏一体のネットワークの中でイズムが繁栄していく、それが本来のヤマギシズムです。ところが、現実にはヤマギシの中にいても、どこにヤマギシズムが表現されているのかわからない状態になっています。外からヤマギシズムを伝えられても、中にいる人たちがそのことに気づいていないのです。そこに目覚めてもらうことが大切です。

まず、あなたは仲良し研に出ていませんよね?興味も持っていませんよね。安美さんはそういった理想を他者に投げかけてきたのですが、全く反映されないことから嫌になって出ていない。哲さんはそういうことを意識してないから出ていない。しかし、そういったところにみんなが出て、そこにある情報が共有され、その情報が調正所や運営研に反映されて全体が運営されていくこと、それが主権在民であり民主主義の世界です。ところが、末端の人々はそのことを忘れてしまっていて、組織運営は組織に都合の良い民衆をつくることによって、運営を楽にしているのです。それが今のヤマギシの実態です。本当は中心的な人たちにもこのことに気づいてもらいたいのです。中心的な人たちも本来単なる村人で、平民であるべきです。ところが、そのわけがわからないところで調正所世話係になったり、世話係に関係なく影響力のある人たちがそこの意識を理解しないで存在していることが問題の元なのです。それをさせている一番の原因は、ひとりひとりがイズムに目覚めていないところにあるのです。「私はあなた あなたは私」、「私はヤマギシでありヤマギシは私なのだ」という意識になったときに初めて、あなたという個人が生かされるのです。あなたは何のためにヤマギシの村人でいるのか、ということが生きてくるのです。外からこういうことを私が言うのはおかしいですが、山岸さんが天から今のヤマギシを見ていてためいきをついているのか、50年は長かったがそろそろ次のステージに行こうよ、と言っているのか。天からの何かしらの投げかけがあって、木の花との出会いがあったと思うのです。私はヤマギシの村に行き、座談会や交流会の場で伝えたいのは、「私はいさどんの考えを伝えているわけでも、木の花のイズムを語っているわけでもありません(そんなものは元々ありません)。私はヤマギシに来たらヤマギシズムを語ります。法華経を学んでいるところに行けば法華経を語ります。表現は色々あっても、真理はひとつしかないのです」ということです。

ヤマギシの中にいてなかなか木の花詣が難しくなってきた時代に(笑)、おふたりは3泊4日もしてこれたのですから、ぬるま湯の村の生活やマインドコントロールの2週間の研鑽学校に時間をかけるよりも、はるかに有効な木の花の3泊4日の滞在を村に帰って日々の形の中に顕わしてみんなに示してもらいたいと思います。それで、「哲さんや安美さんはなぜそのように変わったのですか」と問われたら、「木の花に行って、本来の自分の在り方に目覚めたのです」と言ってもらいたい。これは私の株を上げるためではありません。しかし、結果として今は木の花の在り方に気づいてもらいたいし、私の言葉に耳を傾けてもらうことが大切です。それを中には、「私たちには理想の教えがあるのだから、外の人の言うことは聞かなくてもいい」と木の花を訪れたことがない人がそんなことを言っていたり、かじってみたら、「どうもあれは木の花菌に汚染されそうだから、なるべく避けていったほうがいい」と言う人もいます。真理はひとつであるのに、狭量な精神の人がまだ沢山いるのです。

安美さん:彼が「研鑽学校に行く」と言うものですから、「それは研鑽学校に行くように言われたの?」と聞いて、「行くのであれば、木の花に行ったらいい」と言いました(一同、笑)。「研鑽学校に行っても同じことだから、やめたら」と伝えたのですが、結局行くことになったのです。それで、帰ってきてからもまたぐちゃぐちゃと言うものですから、私がまた突っこんで話をしたのですが。。。

いさどん:ふたりだと、その話には決着がつかないですね。

安美さん:彼が気づいたと言っていることは、今まで私がそばから見ていてずっと言ってきていることなのです。しかし、それを言っても、「そういうことではない」という感じで、「それはあなたの見方でしょ」といつも返ってきていました。そういうやりとりがあったものですから、「それは私が言ってきた通りで、あなたが今頃気づいたことではないでしょ」と伝えるのですが、実際にはそういう感じなのです。最初、みんなが木の花に行き出したときに私が行かなかったのは、これはヤマギシを動かしている人たちが今実顕地がどうしようもない状態になっているから何とかしようとして、みんなの意識が参画したときのような気持ちにもう一度なれば村が変わるのはないかということで、そういうふうに変えさせるために行かせようとしていると私は思ったからです。

いさどん:それは実際にそうです。

安美さん:だから、私は行かないと反発したのです。どういうところで行かせようとしているかは知らないけれど、私は乗らないぞと思ったのです。それで、様子を見させてもらっていたのですが、実際に議事録もメールで読ませてもらって木の花は本当にやっていると思ったので、ここに来てみようと思いました。実際に言われてみて、実顕地の中で全人幸福を掲げていても、研鑽学校ですら世界中の人たちがみんな幸せになるように、あるいは実顕地のひとりひとりが幸せになるというところでは、そういうものが一切出てこないのです。だから、言っていることとやっていることが全然中味が違うというか、いさどんのおっしゃる通りだと思います。私たちの前に出てくる持ち帰りコーナーの野菜はかなり日にちが経ってますしね。昨日、私は木の花の厨房に入らせてもらって、「すごく元気な野菜だな」と思ったのです。

いさどん:それは見てわかるかというと、感じてわかるということなのでしょうね。

安美さん:そうですね。昔は愛和館はおいしいと言われていましたが、はっきり言って、今は実際本当に美味しくない時が多いです。普段全然文句を言わない人でも「本当に美味しくない」と言うくらいなのです。だから、「今日のこのメニューで若い人や子どもたちは果たして食べるだろうか」というような状態のときもあります。お金をかけないということで、金銭的にも削っているということもあると思いますが、私はずっと前からビタミンI(愛)が入っていないということを言ってきました。

いさどん:私もそう思います。気持ちがこもっているか、こもっていないのか。それは作業としてやっているということだと思います。

安美さん:自分が本当に子どもやおじいちゃん、おばあちゃんのためにと想ったら、もう少し手を加えると思うのです。しかし、それがないと私は思うのです。

みかこ:ヤマギシの中に「一体」という言葉がありますよね。しかし、「自然との一体」ということが欠落していると感じます。

いさどん:地球とともに生きているということとかね。

みかこ:人にばかり意識が行っていて。。。

いさどん:人というよりもヤマギシにだよ。

みかこ:ヤマギシを存続させるというところに意識が行っているから、地球みんなで一体、しかも人間だけではなくて、あらゆる生命との一体という感覚が欠落しているから、ああいった動物をあのように育てて食べていくということをし続けているのだと思います。ヤマギシの中に固執しているから、やる人とやられる人とか、リーダーとついていく人とか、そういう分け隔てがあるところが随所に表れていますよね。

いさどん:それは今、体制を守ろうとする人と変えようとする(不満を言う)人に分かれているのです。

安美さん:実際に自然と調和していないのは、今までヤマギシは経済優先だったと思うのです。それがヤマギシを守ろうということにもつながっているのだと思います。だから、排水を垂れ流しても、そこにお金をかけないとなったら、そこを指摘する人のことは黙殺、そういう人を排除する、何もやらない。だから、農薬をばんばん撒いていて近所の住民から苦情があっても、文句を言わせないようにするとか、夜隠れて撒くというようなことでやってきました。それで世間に対しては無農薬ですとか、有機栽培ですと言っていて、昔は神戸生協とも大分やりとりがあったようなのです。

みかこ:そうやってあちこちに嘘があるけれど、研鑽というのは自分の中の嘘を見ていくものであるはずです。

いさどん:美しい心というのは、嘘のない自分がベースにならないといけない。

みかこ:嘘が自分にあると、嘘をずっと続けていかないといけないので、嘘の辻褄を合わせるためにまた次の嘘をつかないといけなくなってしまうのです。そういう意味でも、研鑽してないですよね。

安美さん:研鑽というのが、本当のところの研鑽(心を磨く)でなかったから、こうなっているのだと思います。

みかこ:そうですね。体制に順応する人をつくるための研鑽になっています。しかし、本当に目覚めていくというのは、人も含めたこの世界の仕組みに目覚めていくことです。ヤマギシの立ち上げ当初は、産業もある意味必要だったでしょうが、さきほどいさどんがうさぎと亀の話をしたように、それでは時代のほうが追い抜いていってしまいますよね。新聞やテレビも見ないと浦島太郎状態になってしまって、進んでいたはずが取り残されてしまいます。今だと若い人も残っていないから、消滅する方向に向かっていると思います。

いさどん:実際に、かろうじて残っている人たちに受け継がせようとしているのですが、そういう人たちよりも一般社会にいる若い世代の人たちのほうがはるかに意識が進んでいます。ですから、その人たちが共鳴して入ってくるような受け皿をつくるべきなのです。ところが、閉鎖的でそういう人たちが入ってくるような体制にはなっていません。木の花に若い人たちがどんどん入ってくるのは、私たちが常に変化することを恐れないからです。今を所有せず、常に新たなものを取り入れる意識を持っている人たちが共鳴する場をつくっているからです。

みかこ:やはり時代は進化しているので、地球全体で見たら、人間も先に生まれた人たちが変わっていかなければ、次に生まれてくる進化した世代に置いていかれてしまいます。だから、時代とともに変化していくことが大切です。ヤマギシはそれをやっていないから、若い人たちも来ないのです。

いさどん:やっていないというのは、無所有と謳いながら、これほど所有している人たちがいるだろうかというくらいです。何のための特講や研鑽学校なのかということです。無所有を利用しているのは、組織運営のために都合の良い人をつくるために個人を手放すというだけで、全体というものの所有を完成させているのです。そういう世界になっています。だから、哲さんの話を聞いて、あなたがこういう状態になっていくというのは組織としてはやりやすいのです。本当はもっとNOはNOとして言える人があり続け、そういう人たちがとことん出し合って、本当に風通しの良い活性化された場所をつくっていく、それを恐れないことが大切なのです。

安美さん:ヤマギシは変革を恐れるのです。変革させたくないのです。研鑽する、研鑽できるということは、研鑽できると目されている人たちが「こうです」と言ったことに対して「はい」でやる人が研鑽できるということなのです。

いさどん:その通りですね。

みかこ:ヤマギシの改革は、その構成員ひとりひとりが束となってつくっているものだから、ひとりひとりの心の変革がなかったら起こらないのです。その牛耳っているという人をつくっているのは、牛耳られている人たちがつくっているわけです。調正世話係になって人格が変わるような、誰があれを決めたのだろうというと、誰だろうね、なんかそうなっていっちゃったんだよね、というようなところで動いていたりすると思うのです。それはひとりひとりが自分でつくっているという自覚がないままに、「なぜこうなってしまったのだろう?」という世界を無意識につくっているのです。だから、自他を分けないことが大切だと思います。木の花では、「木の花のこういうところが嫌だな」とメンバーのひとりが言ったときに、それは自分と木の花を分けているからであって、嫌だなと思えばまずは自分がそこを背負って変えていく側になればいいのですということになります。

いさどん:そして、自分が全体を変える気持ちになったら、それをみんなが聞いてみんなのものとして協議します。

みかこ:文句を言う側ではなくて、自分が常につくっていく側になればいいのですよね。

いさどん:しかし、ヤマギシの場合は末端にいる人たちが変えるための提案をすると、今度は組織側の人がそれを排除しようとする力が働くという世界ではないですか。これは組織としては一番危険なことなのです。木の花ではそういうことは絶対ありえません。そういった不満を聞いて、全体としてあなたはどういう考えを持っているのか、逆に言えば、みんなはその人に対してどういう対処をしていくのか。ひとりは全体に対して自分をどう観ていったらいいのか、ということをすべて吟味した上で、ひとつの解答を出していくという方法をとっています。そうすると、体制側と個人という区別がなくなってきます。

安美さん:今までは、「これはおかしい」と実際に言う人も少なかったです。

いさどん:それは少ないのではなくて、思っているのに言わない人、それから言えないところだったということです。だから、ここに来ると沢山話が出てくるのです。誰もが、「おかしい、おかしい」と言うのです。ひどい話になると、自分たちの中では「おかしい、おかしい」と言うのですが、たとえば木の花とヤマギシが出会った初期の段階では、Tさんやいさどんに言われるとか、木の花の議事録で言われると、自分たちが日頃そうだと思っていることでも、外から言われると腹が立つというのです(一同、笑)。そのくらい、ヤマギシを所有しているのです。「よく考えてみると、これは私たちが日頃言っていることだ」と言いながら、「外から言われると、いさどん、腹が立つのよ」と言ってきた人がいます。そのくらい、自分の姿が見えていないということです。そういう人たちがだんだん自分に目覚めてくると、「これではいけない。そういう狭い心ではなくて、自分を客観的に見る目をつくらなきゃ」ということで変わってきています。

みかこ:あとは、「10年このことをずっと思っていたのです」とか、「20年思っていたのです」とか、思っていながらそれを言わないというのは木の花では考えられないです。

いさどん:木の花でもし、言わない人がいるとしたら、みんなはその雰囲気を見てほっておきません。実際に私のところにヤマギシの人が訴えてきた話で、あまりにも過激で刺激的で公開できない資料があります。面白いのは、「個人の話を出して誰かというのが特定できると、村にいられないからやめてくれ」という人が何人もいます。本人が覚悟を決めたら出しますが、多くの人は覚悟ができていません。逆に、そういうものを出したら体制も批判的だと受け取るので、これもヤマギシ全体の意識レベルからしたら時期尚早だということで、こちらで封印しているものがあります。ですから、最近私が思うのは、ヤマギシと付き合うと木の花のような正直なところでも、正直を出せない場所になっているというのを感じています。

みかこ:だから、議事録でも、今のヤマギシの部分に関しては議事録に載せないように、とすごく気を遣って情報公開しないようにしています。

いさどん:本当は何でも出せるヤマギシとの関係でありたいのです。

安美さん:それは昔から、話したことがすぐに調正所関係者に伝わり、実顕地を変えられたり職場を変わることになったりして、それを出すと実際危ないというのがあります。みんなもそういうことを聞いたり、無意識にみんなで抱えてきたので言えなくなっています。

いさどん:そういう体質が染みついてしまっているのです。それは病気で言えば、結構症状が進んでいる状態です。

安美さん:ですから、病気にはならなくても、そういう人も結構いますしね。それはやはりおかしいと思います。今はないですけど、「ヤマギシ社会に病気はない」ということで、昔は病気になっても病気ということを言ってはいけないというような緘口令が敷かれていました。

いさどん:そんなことも言うのですね(笑)。それは本音と建前の違いが甚だしい話で、嘘の世界です。

安美さん:昔、仲の良かった友人にしばらく会わなかったのでどうしたのだろうと思っていたら、「長いこと入院していたのだけど、病気のことは人に話すなと言われて言えなかったんだ」ということでした。手術の日にご主人以外付き添いもなく、かなり精神的に厳しい状態だったみたいで、そのことも村を出る要因の一つと聞いています。

いさどん:みかちゃんのガンはブログにして出していますよ(一同、笑)。

みかこ:ヤマギシは問題事を悪いこととしているけれど、ここでは問題事はそこから学ぶために神様がわざわざそういう世界をつくったという捉え方をしています。たとえば、怒ってはいけないとか病気はダメということではなく、病気が出たらその奥にある問題は何だろうと解明して学んでいきます。怒るということについても、なぜ自分が怒るのか、それにヒットするのかを見ていきます。そうやって、奥の根本を探ることで超えていくということをしています。そもそも問題は歓迎というか、そのように学ぶためにつくられたものと思っています。

いさどん:問題は歓迎といっても、わざわざ辛いことが起こるようにとは思いませんが、起きてしまったことに対して排除してしまうのではなくて、それは素直にいただいてそこから学んでいこうとする前向きな姿勢が大切なのです。それはやはり、同じ理念だとは言うものの、現実に落とすときには随分歩みが違います。そこを学ばないといけないのですが、まず、学ぶという姿勢がないのです。

みかこ:必ず人間にはハードルが与えられます。私がガンだと言われたときもうっとしました。何かというと、私個人のことというよりも、ここはガンや病気をつくらない場所であったはずなのに、ここのメンバーがガンになるということは困ったことだと思ったのです。いさどんブログ「充実した人生を生きるために」にも詳しく書いてありますが。しかし、なったものはなったこととして、これは私の心の構造がつくったものであるし、それが木の花に表れたというのも事実だと受け止めました。

いさどん:それを認める潔さが大切です。

みかこ:そこをどう振り返り見つめて、どう未来に次の種として撒いていくのかということですよね。今までと同じ種をまた撒くのか。そうすると、今までと同じような問題を起こす未来が待っているのは明らかです。それを学んだときに、未来にどんな種を撒いていくのか。日々、私たちは常に種を撒いているのです。

いさどん:みかちゃん、ここで1曲歌わないといけないね。それしかないよ。

みかこ:昨日のコンサートでは「あなたは私 私はあなた」という「いのちの泉」を歌いました。これは理想の世界ではあるけれど、それをするためにはその前にこの歌が必要なのです。

いさどん:すごく豊かだなと思うのは、日々の生活があって、それを読み解く地球暦があったり、それを表現する音楽があったり、それを表現する生活そのものとしての子育てがあったり、精神性があるというのは豊かです。精神性と生活が本当に一体となって日々がある。そうすると、休みがほしいとか、お金がほしいとか、あれが食べたいとか、そういうことはどんどん消えていきます。

安美さん:穏やかな生活だと思います。

いさどん:そうです。それと、誰も日々の生活の中に不安や不満を持っている人がいません。本当に淡々とそこで事が進んでいきます。だから、木の花で理想を見たということで帰ってもらいたいと思います。ヤマギシと木の花を比べての違いというよりも、「私たちもあれを目指していたんだね」と。気づいた人からその旅を始めるというところにつながったらいいと思います。別に木の花になれ、と言っているのではありません。それに最終的には、最初にヤマギシから木の花を訪れたりっちゃんが言っていた、「ヤマギシも木の花もない、地球ファミリーだから一緒にやっていく」ということです。私たちは常にその心がありますが、ヤマギシの人たちはまだまだ区別しているのです。今回、ヘリオセンターを建てるにあたって、大工さんの応援をヤマギシにお願いしたのですが、今までヤマギシからの提案を私たちが拒否したことはありません。それどころか、難しくても、どうやったら実現できるだろうと考え、実現できるように努力してきたのですが、ヤマギシの人の中にはいかにそれを断るかということを考えるような人もいます。努力している人がいても、大切なこととしてつなげていくという意識が薄いと思います。だから、流れの悪い一体を表現しようとすると、出来あがったものが良くありませんから、もうやめましょうということで私たちだけでやっていくことになりました。それはこちらに都合が悪いということではなくて、ヤマギシが徳をなくすということです。損得だけ考えているから、徳を積み上げることができません。私たちは慈悲や愛のベースになっている徳を考えていますが、ヤマギシのベースは損得の得になっています。そこに気づかないといけません。さあ、みかちゃん、歌ってください。

♪この世界をつくっているのは

毎日 毎日 たくさんの出来事の中で
いろんな感情が 私たちの中にやってくる
どこからか やってくる このたくさんの感情を通して
私たちは 心という 宇宙を学びつづけている
もしそこに 不幸や対立が あったとしたら 1人1人が
その種を自分の中に見つけて とり除いてゆくならば
この世界は 変わってゆくだろう
それが この世界の仕組み 宇宙の仕組み

あなたと 関係のない 誰かが この世界をつくり
あなたから 自由や創造を うばい続けて いるのではなくて
宇宙の光の分身である 私たち1人1人が
この世界をつくっている そのことに みんなが気付いたならば
自分につながる 全てのいのちのつながりを傷つけない その為に
あなたが発する想いの全てを 今から変えてゆく それだけで
この世界は 変わってゆくだろう
それが この世界の仕組み 宇宙の仕組み

まいた種をかりとるのは 1人1人の責任
みんなでまき続けた種が 今もこの世界をつくっている
心の中に いろんな想いの種をみんなかかえている
何もかも 誰かのせいにすることはできない
ならば 

あなたはこの世界にどんな想いの種をまきますか
そして この世界に どんな花を咲かせますか
この世界をつくっているのは この世界をつくっているのは 私たち

いさどん:今日は歌があるといいなと思っていて、曲はこれだと思っていました。そうしたら、打ち合わせはしていないのに、みかちゃんがこの歌を歌ってくれました。これが以心伝心、一体ということですね。

安美さん:そうですね。私は昨日の朝起きてから頭が痛くて、これからどのように生きていったらいいのかを考えていました。今日の面談ではすぐに姓名判断に入るのかなと思ったのですが、はじめに色々と話してもらって良かったです。ありがとうございました。

いさどん:個人を読むということはすごく大切なことで、地球歴や家系図など色々な方法がありますが、とかく人は自分の都合の良い世界を求めるために読んでもらいたいと思うものです。しかし、個人というものを指標として読むことはいいのですが、その目的は自分の本当に目覚めて、世の中のために生きることです。それを歩み始めたときには、個人というものを知らなくても、逆にその純粋な心が理想の道に導いてくれるのです。何でもそうですが、使い方を間違えると有効なものが問題になり、問題でもその奥にあるメッセージをしっかりと受け取れば、問題事が私たちに素晴らしい道を与えてくれることになるのです。ですから、いつでも学ぶという姿勢が必要なのです。あとは、私たちが何のために生きているのか、という自らの存在を常に問うことが大切です。できれば、胸を張って真理に向かって真っすぐ正攻法で歩んでいきたいと思います。

安美さん:私もこの年になりましたから、どう死ぬかということも少しは考えますね。これでいいのか、と最近考えます。

いさどん:同じ世代として、ぜひやってもらいたいと思います。やはり世のため人のためになりきることだと思います。

みかこ:私はいさどんから、「こういう歌を歌っているということは、そういう世界に気づいているということ。しかし、その生き方をしないということは、知らなくてやらないより、知っていてやらないというほうが罪が大きいんだよ」と言われたことがあります。

いさどん:知らなくてやらないのは罪ではないのです。それは段階が低いだけのことですから。しかし、知っていてやらないのは罪です。それは全く違うのです。ですから、ヤマギシの村人として参画して意識を持っているのにやらないのは、罪人なのです。そこを意識してやらないと、道を歩む人は歩んだだけ、自分のためではなく社会に責任があるのです。「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり。」だから、尊い道は自分のために生きる道ではないのです。

みかこ:木の花の人たちはわざわざ自分の垢を大人会議で出して、「こんなことを学びました」とか「自分ではわからないので、みんなのアドバイスをください」と言い、それを議事録にまでして配信しています。それは自分ひとりだけの学びではなく、そういう世界を知らなかったり、そこで同じ問題を抱えて立ち止まっている人たちのためにもやっているのです。

いさどん:ここの大人会議は議事録を通して、ヤマギシをはじめ、沢山の外の人たちにも参加してもらっているのです。プライバシーのような情報まで出しているのですから、ヤマギシでは絶対ありえない話です。運営研や調正所の話をオープンにしているようなものですから。しかし、調正所はそこでの話をオープンにしていません。ここでは個人のことすらオープンにしています。それは覚悟ができているし、気持ちの良い世界を目指しているからです。

みかこ:だから、晴れの日ばかりではないし、雨の日や嵐の日も公開するのです。しかし、日は続いていくので、それがまた解決されていく様子もすべて見てもらうことで、「こういうふうにして超えていけるんだ」ということを議事録を読んでいる人たちも味わえるじゃないですか。常にオープンなので、その日限りのゲストでも発言は許されています。

いさどん:ここのことがよく理解できていない人でも、それこそ発言することを許されているのです(笑)。

みかこ:話の流れがわからなくて、ぽっとその場に居合わせた人でも発言はできるのです。

いさどん:それはヤマギシの中では考えられない世界です。

安美さん:考えられないですよ。全員が参加ということもないですし、一部の人しか参加できないですし。

いさどん:それこそ、いきなりゲストが来て、それもここのことをよくわからず、知り合いに連れてこられた人がここの過激な大人会議を見て反応していても、発言できるのですから。それはものの見方として多様性を認めるということでもあります。それすらもみんなが受け取って、それをどうとらえていくのか、という学びにします。その覚悟はオールメンバーの域に達しています。

みかこ:それは私たちが木の花を所有していないからです。ここがどう思われるのかということではなく、私たちが学んでいる姿をオープンにして共に学びましょうということなのです。だから、私のガンのことでも世の中ではガンの人が沢山いますよね。それはメッセージにあふれていて、それをどう受け取るのかということをオープンにしていったら、そのことで何人かの人のためになると思うから、こうやってオープンにしているのです。

いさどん:ということで、これを機会にまた新しい年が来ようとしていますし、意識を新たにしてやっていきましょう。これは私たちのためではなく、それぞれ自分のためであり、世の中のためであり、そういうネットワークをつくるという意味で、改めてまたよろしくお願いします。

ようこ:最後にひとこといいですか?最近私は涙もろくて、今日もいさどんの話を聞いたり、みかちゃんの歌を聞きながらほろっと来ていました。最近は自分の中で、宇宙の始まりから今にいたるまでとか、人類が誕生してから今にいたるまでが、自分がこの世界を創造した側になって走馬灯のように駆け巡る瞬間があります。この面談中もそうだったのですが、ようやく人類はここまで歩んできたんだ。この歴史の積み重ねひとつひとつに、私は人間として地上にいるばかりではなかったのですが、それがさーっと流れてきて、こうやって高い能力を与えられた人間が、その知恵や能力を心磨きやみんなとつながってこの世界の側に立って生きていくというステージにようやく立ちつつあるんだな、と感慨深くなっていました。

いさどん:そうだね。その高い能力を生かすということ、その道に歩み出すということです。今まではその高い能力を人間の側に使ってきたのだけれど。

ようこ:人類史上初のこれだけの数の人間が地球上にいて、これからつながっていくというのは、本当にドラマチックな宇宙劇場を生きていくのだと思っています。そして、それは苦しむためにあるのではなく、楽しむためにすべてはあるのだと思うと、どんな問題事も喜びに変えていけるから、面白い時代を皆さんと過ごさせてもらっているなと思います。縁あってつながった人たちと共に歩めることを楽しみにしています。

いさどん:その時その時が出発点ですから、ここをまた新しい道の出発点にしましょう。今日はどうもありがとうございました。新しい年にあたって、心新たに歩んでいきましょう。

★後日、安美さんから以下のようなメールが来ていました。

私は木の花から帰ってきてから、私が頑なな心になり周囲の人たちと垣根を作っていたなと気づきました。ある日、お風呂の前の廊下の椅子に座っていたとき、出てきた2人の人たちににこっと笑いかけたら、その一人が「あらっ、安美さんって笑ったらいい顔をするのね。黙っているときは怖いけど」と言いました。そうだな、私の笑顔は素敵と昔よく言われたなと思いだし、自分を振り返ることが出来ました。その後、家研にも出て、ふりかえり研には努めて行くようにしています。先日、愛和館にも何年ぶりかで入りました。(持ち帰りコーナーから貰ってくるのを忘れたので。今までなら、もう無しで済ませていました。)私がこの実顕地の重たい空気を作る一役をやっていたと気づいたのです。これからはいつも笑顔の私でいられるように、心を開いて生きたいです。