木の花楽団のメインボーカルとして、深いメッセージの込められた数々の歌を生み出し、歌い続けてきたみかちゃん。先月初め、そのみかちゃんが子宮癌であることがわかりました。ファミリー全員が集まる大人ミーティングでその報告があった時、いさどんの口から出た言葉は、「更に充実した人生を生きるための扉が開いた」というものでした。今みかちゃんは、それまでと変わることなく、穏やかに日々を過ごしています。
今回は、改めて大人ミーティングの場で、この出来事から思うことをみかちゃんといさどんに語ってもらいました。
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みかこ:
夏の間に、不整出血が続く、ということがありました。
それをいさどんに話したら、それが何であるのかをはっきりさせるために病院へ行った方がいいね、と言われました。自分一人だとものぐさな私だけど、そうだな、と思い、病院に行きました。
3度通って、検査の結果は、癌でした。
やっぱり、という思いもどこかにありました。12年ほど前に流産をして、その時に手術した病院でも、私の細胞が限りなく癌細胞に近いということを言われていました。さらに、その後に龍音(11歳)を妊娠した時にも同じことを言われていたのですが、それでも大丈夫だろうと放っておいたんです。そして、癌かもしれないという思いをどこかうっすらと持ちながらも、ここまで何となくやってきました。
今回、癌という結果をもらい、これは私の心がつくったものだ、と、思いました。
全ては心の結果ということを、私たちは毎日学んでいます。大きなショックを受けることはなかったけれど、空を流れる雲のように、表面上はいろいろな思いがよぎりました。食養生担当なのにガンになっちゃったなあとか、欲が深く物をたくさん集める人はガンになるとプレゼンの時に話していたので、自分は物を集めすぎかなあとか(笑)。そんなふうにいろいろと思ったのですが、それでもそのもっと奥に、何か新しい挑戦をもらったような感覚がありました。そして、パニックにならないのは、みんなと共にいるからだとも思っています。
昔なら、癌は死に至る病で、本人には告げずに家族が聞いて、それこそガーンというような(笑)病気でしたが、今は直接本人に伝えられることが多いようです。そしてしっかり事実と直面し、そこを超えて生きている人もいる。自分がそこにどう立ち向かっていくのかを観てみたい、と思っています。
癌になったことをきっかけに、普段あまり話すことのなかった人が、ちょっと話しかけてみようかな、と声をかけてくれるようにもなりました。そんなふうに癌が取り持つ縁を、ありがたいな、と思っています。
いさどん:
それが本当の癌縁(岩塩)だね。:
みかこ:
固そうだね(笑)。
私の血縁の家族の話をします。私の実家は岩手で、東北大震災の時には大津波にあいました。防波堤があったので難を逃れましたが、その後、母が脳血栓で倒れました。手術をしたけれど、それ以来、、植物状態に陥って、今もそのままです。
9歳上の兄は、北海道で結婚して子どもが生まれました。子供とそりで雪の上を滑っていた時に転倒して、ただそれだけなのに大怪我をして、松葉杖状態になっています。
4歳上の姉は、生まれつき体が弱く、子宮も未発達で、成人女性としては未熟な体を持ったまま大人になった人です。体も小さく、いろんな器官が弱くて、高校卒業後に精神病院に入ったこともあります。母親と一体化して生きていたので、母親が植物状態になったことでまた精神状態が悪化し、自ら精神病院に入れてほしいと言って、今は病院に入っています。それも、向こうから連絡をくれるのではなくて、私の方から電話をしてそういう状態だということがわかりました。
父は、母と姉の両方の病院に通っています。特に母の方には毎日通っているので、医療費だけでなく交通費もかかり、お金がどんどん減っていくそうです。悪循環の中にあるけれど、それを何となく、流れなんだなと冷静に見ている自分がいます。父と母は仲が良かった記憶がありますが、今は父が母の悪口を電話で話すようになりました。そんな感じで、家族が壊れていっています。その一家の中の私も癌ということで、ぼろぼろだな、と思いました。
だけど、そんな中で、壊れていく心地よさを感じている自分がいます。時代の流れにのって、壊れるものは壊れていくんだな、という感覚がある。捉えようによっては悲壮にも思えるかもしれないけれど、私の中にはそんな感覚があります。神様は光も闇も全部見せてくれる。うまく言えないけれど、自分の中に、どこかで、癌を恐れる心と、なった自分を見てみたい心があったように思います。そして今、それを観ている。そんな感覚があります。
いさどん:
まず、みかちゃんに限らない話をします。
我々は生きています。生きているということは、生き続けたいという思いが働いている、ということです。そのためには健康でありたい。だから病気を怖れます。生きるということは、常に死と隣り合わせなのです。そして、死にたくないから健康でありたい、と願うものです。
「生老病死」という言葉があります。生きているということには、「生きる」「老いる」「病気になる」「死ぬ」、この4つのことが付いて回ると、仏教では説いています。それは生命の宿命であり、生きることで心に湧いてくる最初の捉われの原因のようなものです。病気は、問題事の代表事例。それ以外にも、その人の中にある感情的なものが現象化されて、日常の中でいろいろな出来事に出会います。怒るとか、悩むとか、愚痴るということが、結果として自分に現象をもたらしてくるわけです。
こういったものが、長い人生の中で、病気の原因として蓄積されていきます。ですから、突然病気になるわけではないのです。人との対立も、突然そこに起きるのではありません。全ては物語として繋がっていて、それが現象として起きてくるのです。それを「因果の法則」といいます。原因があって結果がある、ということです。
ある日、病気に出会った。その病気を自分の目の前から消したい、ということで、今の医療の対処両方を受けることになるのです。多くの人は、目の前に起きている問題事を解決すること、問題事が問題事でなくなることを願い、日々を生きています。しかし、この世界はそんなに単純なものではありません。問題事はただ問題事としてそこにあるのではなく、因果の法則に基づいて現れてきています。問題事を結果とすると、そこには必ず、そのもととなった原因があるのです。
例えば、問題事の花が咲いているとします。そこには種があったはずです。その種が何かの形で人生という畑に蒔かれ、芽生えた。そしてそれを確実に育ててきた日々があったはずです。自分に降りかかっている問題事の花ならば、それは自分が育てたのでしょう。しかし、種があった時点でも、育てている時点でも、それに気付けなかった。その結果花が咲いて、実を結んで、収穫の時にきたのが、現象としての問題事です。収穫になって初めてその存在に気付くのですが、それが芽生えた時も、日々の中で育てていた時も、花が咲いた時も、実をつけた時も、何度もそれが育っていることに気付くチャンスはあったはずなのです。
今回、みかちゃんは癌を収穫をしました。しかし、まだどういうものかはよくわかっていません。最終の検査を先日やりましたので、次に結果を聞きに行った時にどの程度のものかがわかるという段階です。検査の結果には大いに興味のあるところですが、ガンであることは事実です。検査の結果は、人によっては軽いものだったり、末期であったります。それは、近い未来が答えを出してくれるでしょう。繰り返しますが、今みかちゃんは癌に出会っているということです。
癌であったことを通して、私たちは何を学べばよいのでしょうか。
癌は、突然出てきたわけではありません。それは自らが育ててきたのです。ということは、そこには発生の物語があります。結果をもらったならば、振り返って、その物語をさかのぼることができます。自分の中に置き換えて観て、周りの環境に置き換えて観て、癌が育っていくのを再確認する必要があります。なぜならば、今もらっている結果がまた次への原因となって、未来に新たな結果を生むからです。未来の結果をどういうものにするかは、今起きているこの現象を未来への種としてどう捉えていくかで変わるということです。
普通の人は、癌のような問題事に出会ったら、即座に自分から切り離したいと思うでしょう。そして形だけの対策を取ろうとします。医療も対処療法的に、癌という症状の部位を取り除いたりするだけです。
今回みかちゃんが身体の不調を訴えた時に、僕は「それが何であるかわからないまま日々を送っていては、気持ちが悪い。日本には最新の医療テクノロジーがあるのだから、それが何であるか調べてくるといいよ」と伝えました。人はわからないものに怯えるものです。実態をわかって、理解し、そこから冷静に事を進めることが必要ですから、現代医療を否定することはありません。それも人類の進化なのですから大いに活かせばいい、ということで、みかちゃんに受診を勧めました。
最初に検査結果を持って来た時に、僕はみかちゃんに、「今までの心と、生き方の表れだよね」と伝えました。そしてそのことで、僕には、とても明るい未来が観えてきたのです。
みかちゃんと初めて出会ったのは13年前。その時にみかちゃんは、今ここで歌われている歌を持って、来てくれました。
出会った日は、ちょうどクリスマス・イブでした。和子ちゃんが散歩中のみかちゃんに偶然出会い、その夜のクリスマスパーティーに招待したのです。そこでみかちゃんは、自分の持ち歌を歌ってくれました。その時に僕はみんなの前で、「神様からのプレゼントが来た」と言いました。それは、僕が長年持っていた心、そして木の花の生き方が、その歌に表現されていたからです。
それからしばらく、付き合いがありました。でもみかちゃんの生き方をみると、その歌の中に秘められているメッセージと、彼女の人格が一致していない。歌に表現されてるメッセージと、生活が一致していないのです。ある時僕は、「あなたは自分の歌っている歌のように生きられるといいね」と言いました。これは当時のみかちゃんには大変きつい言葉だったでしょう。この気性の激しい人にそれを言ったら怒るだろうということは僕もわかっていました。しかし僕は正直な人間ですから、そう伝えたのです。
その後、木の花との付き合いの中でいろいろなことがありました。その一つに、みかちゃんのパートナーは、みかちゃんとの暮らしの中でみかちゃんにいじめられていると訴えて、うちに救済を求めに来ていました(笑)。みかちゃんをたしなめるのは難しいかもしれないけれど、少なくとも、パートナーが涙して訴えていることは伝えてあげられる。どちらの味方というわけでもなく、二人の関係をよくするためにみかちゃんを呼んで話をしましたが、それが縁の切れ目になりました。みかちゃんは、こんなひどいところとは付き合えないと離れていったのです。助けを求めて来たパートナーにも、あなたにも問題があるよと言ったら、自分を振り返る心がないので、結局彼も離れていきました。
まだ付き合いが切れる前に、僕は彼女にこう言ったことがあります。「僕が話をして、あなたが歌を歌う。そしてこの生き方を世の中に広めていこう」と。けれど返事は、イヤだ、アッカンベーというものでした(笑)。口でそう言ったかどうかは別として、態度や表情はそう語っていました。ああこれはダメだ、と思いました。その後も二人の噂は耳にしながらも、付き合いはありませんでした。それでも僕の中には、みかちゃんの存在は大きくありました。
そして6年が過ぎました。
みかちゃんがここに戻ってくる時の話は、みかちゃん自身もいろいろなところで話しているので、多くの人が知っていると思います。彼女は完全に行き詰まって、誰かに救いを求めなければならないという事態に追い込まれていました。その時に、いさどんさえいなければ木の花は素晴らしいところなのに、と思っていた、あのもっともイヤな親父の顔が頭に浮かんできたのです。そして、この難局を乗り切るためにはあの人の力がないと乗り切れない、と決断したのでした。
昼休みに、僕が本宅の居間のテレビの前に寝転んでうたた寝をしているところへ、みかちゃんが入ってきました。その時、みかちゃんは不思議な感覚だったそうです。木の花の玄関を入ったら、自分の歌を歌ってる人がいるのです。それはちなっぴーでした。みかちゃんにとって、自らの歌を人が歌ってるのを聴くのはすごく新鮮だったようです。つまり、みかちゃんは離れていたけれど、みかちゃんの歌の魂は、木の花で生きていたのです。
みかちゃんは、玄関から居間に入って、いくつも並べてある座卓の向こう側で寝ている僕のところまで、その座卓をぐるりとまわって来ました。みかちゃんは、その時間が随分長い旅のような気がした、と言うんですね。僕は、やっと来たな、と思いました。彼女は僕の前に来て、「いさどん、助けて欲しい」と言いました。僕はなんと答えようか考えました。僕が世の中のために共に生きようと言ったのを蹴って、パートナーの涙ながらの訴えを聞いて仲裁に入ったことも蹴って、後ろ足で砂をかけて振り返って石を投げつけていったみかちゃんが帰って来たのです。
みかこ:
それだけでも充分癌になるよね(笑)。
いさどん:
そうだね、ここらあたりで既に癌の種ができてたんだね。ガンガン投げてたから(笑)。
それだけではなく、みかちゃんはいろいろなところで重宝されてイベントに引っ張り出されていましたが、そこで何となく“反木の花運動”をやっていたのです。無言で砂をかけられているようでした。
それでも、僕は何となく、それで縁が切れるものではないと感じていました。ミーティングでも、みかちゃんのことは時々話題に上がっていました。正しい道を見つけられない人の行く末を思うということもありましたし、だからこそ、大事な道がある人とは縁があるよ、という話をみんなでしたこともありました。それがやっと、帰って来たのです。僕はそこで、「やっと来たか、待っていた」、と言いました。そこで積年の恨みはどこかへ消えてしまって、ハグをしました。そして助けて欲しいという事で、その時にあったいくつかの難題を解決するために早速乗り出したのです。
それからいろいろあって、みかちゃんは木の花のメンバーになりました。今は、うちの一番の心臓です。心臓はいくつかありますが、ここでの歌は本当に大切です。それを担ってくれている。僕はこの人生を、この心と共に生きていますが、それを見事に表現してくれるのがみかちゃんの歌です。みかちゃんが作詞する時も作曲する時も、僕に相談することはありません。けれどその歌は、見事にここの精神性を表している。そして僕が湧き出てくる想いを表現する時に、それに合わせて彼女が歌を歌ってくれる。それは、大いなる意志のもとに、道が共通する者の出会いなのです。
昔、僕が話し、みかちゃんが歌って、この生き方を世の中に広めていこうと伝えました。そこには運命の出会いという縁があるのでしょう。僕は皆さん一人一人と、運命の出会いをしています。そしてその一人一人とパートナーシップを組んで、天から頂いた大事な道を共に歩んでいる。その中でも、みかちゃんとは特に印象の深いパートナーシップだと思っています。
僕は30年前から、カルマ読みといって、人のカルマを見ることをしてきました。人の名前から人格を読みとるという道を頂いたのです。これは現世に師匠がいるわけではなく、天から降ってきたものです。そして今まで沢山の人たちの行き詰まりの相談に乗ってきました。これには実績があったからこそ、ここまで続けて来られたのだと思っています。独りよがりの話では人は相談に来ません。それが、この生き方と共に、この歩みを支えてきました。それに歌が加わって更に深いものになり、木の花という歩みが確立されてきました。
そして今年になって、また一つ、神様からのプレゼントを頂きました。それが地球暦です。
僕が人のカルマを読むのは、その人の魂の状態を観るということです。それはその人が内から発する心の種であり、それが原因となって日常の生活の現象をもらい、それが結果となります。その結果が原因となって、また新たな結果と出会う。そこには常にカルマが関わりながら人生が循環していくわけです。そしてカルマが物語を紡いで、人生がつながっていくのです。
人は生きることにより、自ら原因の種を蒔いていきます。人生の畑に蒔いていくのです。畑とは、この世界のことであり、最終的には全宇宙を意味します。我々は種を蒔きながら、その畑の側から表す目的を、充分に理解しないでいたのです。
それをひも解いてくれたのが、地球暦です。宇宙、太陽、地球と月の関係、そして太陽系の兄弟である他の惑星との関係、その生命の営みを表現してくれている。そこに表されている仕組みが、この世界と我々を創っている。我々の生命活動を表現しているのです。この時空、風土、そういったものを与えてくれる宇宙の事情、そして地球の事情、生命としての事情、それをグラウンドとして与えられ、その魂が自らを表現する結果、魂の種が芽生え、育ち、花が咲いて、実を結んで答えを頂く。それをこの世界が私たち一人一人と一緒にやっている、そのステージを見ることを、地球暦が教えてくれています。一人一人のカルマを読み、人がそのカルマを学ぶことにより、生かし健全になっていくという道に対して、この宇宙は、私たちに何を求めてこの世界のステージを与えてくれているのか。そこを読みとることに出会ったのです。
不思議なことに、僕がその話をすると、みかちゃんは歌だけでなく絵でも表現してくれるようになりました。同時に、地球暦の惑星配置を読みとることが、彼女の中に湧き出てくるのを僕は感じたのです。これまで、歌と話で共に世の中のために生きようと歩んできたのが、これからさらにもう一つ、新しいパートナーシップが生まれていくことを感じています。
それは大変大きな役割であり、大きなエネルギーがいります。それは我々が日常を生きている時に使われるようなエネルギーではありません。日常のエネルギーというのは、物理的生命エネルギーに多くを使っています。そういったものではなく、自らを静かに落ち着けて、この宇宙ステージに置いてやると、この世界の奥から湧き出てくるものなのです。そこから湧き出てくるエネルギーは無限なのです。その力を使って、みかちゃんは絵を描いたり、地球暦を読み取っています。ただ、今はまだ充分ではありません。それには、もう一対のカルマ読みが重なって、さらに精度が高くなるのです。地球暦との出会いは、みかちゃんとの距離を特に近くに感じさせてくれています。本人もきっと、以前より身近に感じていることでしょう。
そんな事を感じていた時に、彼女の身体の不調を聞きました。その時僕は、以前みかちゃんが行き詰まってここに戻ってきた時と同じように、そうか、やっと来たか、随分待っていたよ、という感じがしたのでした。そしてその実態を理解するために病院に行ってくるように伝えました。その答えは、癌でした。しかし、それはさらなる明るい未来が始まる予感につながっていったのです。
人間は、身体生命が生きていると捉えている人が多いと思います。しかし、本当は、魂が生きるのです。
命の危険を感じた時に、人間は人生が変わるでしょう。何か不摂生をしていた人は命の危さと引き換えに心が変わる。この世界に生きる目的が残っている人は、そうなるものです。このことが、みかちゃんにこれからの大切なものを与えるきっかけになる。そしてこのパートナーシップが更に深まると感じています。
癌になることがいいこととは言えません。これは明らかに、過去のみかちゃんの生き方の結果です。因果の法則が表した、宇宙の道理です。しかしその結果は、そこで終わってしまうわけではないのです。その結果が原因となって、更に未来の結果へと繋がるのです。
この結果をもらったことが不愉快で、それを即座に無しにしようと思うなら、その未来には新しい不愉快が起きるでしょう。しかしこの不愉快は、新しい喜びにつなげることが出来るのです。それは次の結果への種であり、全ては物語としてつながっているのだから。今それをどう受け止めるかで、その答えはいくらでも変えられるのです。
二人の運命的な出会いと、大きな役割を想い、そのためにこの病気が与えられたと捉えた時に、明るいものを感じます。単なる明るさではなく、意味深い明るさです。命の長さはどうでもいいのです。長く健康でいられたら幸せなのか、命が短かったら不幸なのか、それははかれません。それは、生きることの目的に基づいた生き様と結果なのです。そう考えた時に、いよいよ来るべきものがきた、と思いました。
しかし、それだけのことで、クライマックスを迎えたなんて思ってはいけません。人生を生きていると、まだまだいろいろなことに出会います。それは命の海を生きていく中で出会う、波のようなものなのです。
人が生きるということには、生老病死という定めが常に付きまとうものです。しかし、そういった仏教的な教えすら、これからの時代には古いのです。何故かというと、不幸は、不幸の種の存在を教えてくれているのであり、その種を発見し、どう読み取るかによって、いくらでも変えていくことができるからです。不幸とは喜びの種なのですから、不幸などというものは、この世界にありはしないのです。宗教は人々にこの世界を特定し、一方通行の教えを説いてきました。確かに一方通行ですが、その先は、最初に戻ってつながり円になって、回っているのです。その仕組みが分かったら、この世界に不幸などありません。この世界がそれを人々に伝える時代が来ている、というだけのことなのです。
もうひとつ、話したい話があります。
みかちゃんは、みかちゃんの人生で、癌という病気に出会いました。そしてそれは彼女の心がつくったものです。人生という畑に種を蒔いて、それが実を結んだのです。
そしてもう一つ。みかちゃんの癌は、実は、僕が作ったということです。
このことについてこれから話します。もう少し時間がかかりますが、お付き合いください。
僕はこの生活をしながら、この生き方こそ、病気を治し、問題ごとを解決して、人々を幸せにすると思ってきました。今のような行き詰まりがいっぱいの時代に新しい方向を示し、人々を真実に目覚めさせる、その道しるべとしてこの道があると思い、この生き方を歩んできたのです。するといつの頃からか、「全ては良きことのためにある」と、そのことがわかるところに立っていたのです。
「癌」という漢字は、品物を山のように抱える病気、と書きます。以前、僕はプレゼンの中で、癌は欲深い人がかかる病気だと言っていました。しかし、プレゼンでは世の中に理想の世界を発信するべく語っていても、例えばミーティングでぐだぐだ言っている人がいたり、日々の生活の中で不調和が見えると、日頃そういった理想を語っている僕は詐欺師になってしまうことになります。だから、ここの人たちは、病気になって治療するのではなく、病気にならない生活をしていくこと。ましてや欲深な癌にはならない生活をしていくこと。それが賢明な生き方だと言っていたのです。
そういう自分が癌になったらどうするか。この雄弁な僕が、どうやってうまいことを言って、それをごまかすか(笑)。しかし、僕は道を頂く人ですから、その時にはその時のように、神様が上手く屁理屈を教えてくれるから大丈夫、と思っていました。
一般社会では、癌や鬱などの問題がたくさんあります。そして肉食に偏った食生活をしています。環境のことを考えると、今の世の中の人々は、その生き方によって、自分から災いを世の中に撒き散らし、そして自らに提供している。それは物語の連続ですから、その途中で気付くチャンスはいくらでもあるのです。しかしなかなか気付けない。それは日々を振り返らないからであり、自らに捉われて、正しく客観的に物事を観るということをしていないからなのです。
では、それを実践している木の花の生き方の中で癌が発生した時は、どう捉えたらよいのか。
僕はある意味、単純な考えをしていました。それは困る、どうやって説明しようか、と。ところが、実際にみかちゃんがそうなった時に、僕の中のどこか奥の方にずっとあり続けたその思いが、消えていったのです。そして、この癌の原因は何だろう、と、思いました。
僕は、癌のない、問題ごとのない世界をここは目指し生きている、と語ってきました。そして、もし癌が起きたらどう解釈するだろうと思っていました。そうしたら、みかちゃんが癌になった。僕はそれを、神様からのプレゼントかもしれない、と思ったのです。
神様が僕を導くために、みかちゃんの癌をプレゼントしてくれた。
(涙で、いさどんの言葉が詰まる。)
13年前のクリスマス・イブの日、みかちゃんと初めて出会いました。そしてみかちゃんは、歌を歌ってくれました。僕はその出会いを、神様のプレゼントだと言いました。
そして今度は、みかちゃんの癌という形で、神様はプレゼントをくれたのです。
それは僕のためであり、みんなのためであったのです。
昔、僕はこういう生き方の歩みの中で、その裏付けが欲しいと思っていました。
そうしたら、歌が来ました。
そしてまたいつの頃からか、この生き方が正しい側でありたい、そうでない側でありたくない、という想いを持っていました。
そうしたら神様が、その心をどう持つかを、みかちゃんを通して、癌と共に教えてくれたのです。
そして僕の心が、次のステージに行くことが出来た。
全ての出来事は、プレゼントです。そしてそれをどう生かすかが、未来のプレゼントにつながるのです。僕は、問題ごとが起きた時に自分がどう思うかを想像していました。困ったな、これをどうやって正当化しようかと考えるのかと思っていたら、そんな屁理屈なんて全く出てこなかった。
このことは、命は身体で生きるのではなく、魂で生きるということに気付くためにあった。そして、共にもっと深いものに気付いていくために、みかちゃんの精度をさらに上げることで僕の精度を上げてくれることでもあった、と気付いたのです。
本当を言うと、命の長い短いはどうでもいいんです。それは永遠に続いていくものだから。死は生への出発ですから、怖れることはないのです。ただ、生きているものたちが、命を無駄にすることがいけないのです。
「生老病死」を四苦と言います。それに、愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦(あらゆる精神的な苦しみ)の四つを足して、四苦八苦と言います。そのどれもが、原因の種なんです。それがあることによって結果が生まれて、我々に、この世界で生きていることの意味を教えてくれるのです。ですから、全てが尊いのです。愚かなものは何もないと気付いた時に、我々は初めて、生きることの本当の意味を知るのです。
充実した人生を生きるとは、どういうことか。
「人生」は、「人が生きる」と書きます。その命の秘密は、この世界の命の連鎖の秘密、それは宇宙生命物語です。自分というものが生きている、その内に心を向けて、その秘密を解き明かしていく。それが人生の目的です。
生きているといろいろな出来事に出会います。一つ一つを区切ると、それは時には問題ごとです。そして一つ一つは、その問題ごとから喜びとなります。問題ごとで悲しみ過ぎてはいけません。喜びで有頂天になってもいけません。それらは全て、物語の連続なのですから。
その物語を知って、それを表しているものの意図を理解すること、それは、何故自分が生まれてきたのか、何故ここにいるのか、そしてどこへ行くのか、その目的が何であるかを知ることになります。それが、人として生まれてきた最大の目的です。それを探求し、一つ一つ自分の中に解き明かしていく。これが、充実した人生を生きるということなのです。
長く話しましたが、何が伝えたいのかというと ――――
みかちゃんがみかちゃんとして生きて、癌と出会った。みかちゃんには癌が必要だった。
癌は悪いもののようですが、大きなメッセンジャーでした。
本当に、この世界に生きているということは、ありがたいものなのです。