ロッキーのケア面談シリーズ第2弾です。
今回は9日目に行われた面談です。
前回に引き続き今回もPDFファイルで保存してあります。
ダウンロードはこちらから出来ます。
18歳のロッキーは高校卒業後、浪人生として予備校に通っていましたが、5月初めに友人とのトラブルが原因で予備校に通えなくなりました。心療内科ではうつ的と診断され、処方された抗不安薬や抗うつ薬を1ヶ月間飲み続けた結果、強い吐き気やめまい、絶望感により受験勉強が手につかなくなってしまいました。
6月末に一人でファミリーを訪れたロッキーは、自らの意志で「自然療法プログラム」のケア滞在を希望しました。滞在早々に断薬を決意、「すぐに断薬しなくても、徐々に薬の量を減らしていけばいい」と伝えましたが、本人の「早く良くなって受験勉強に復帰したい」という想いを尊重することにしました。ケアをスタートしてから4日目、ご両親がいさどんと面談をするために来訪されました。
その日の面談の様子が、以下のPDFファイルです(ダウンロードはこちらから)。ケアの実例として、ぜひお読み下さい。
その後、一ヶ月で見事に卒業を果たしたロッキーの面談記録を、連載として順次公開します。どうぞお楽しみに!
20歳のジェンと18歳のミーシャは、アメリカの大学に通う中国人です。「東アジアにおける持続可能な生活モデル」をテーマにした本を出版したいということで、取材の一環としてここを訪れました。訪問目的は、木の花ファミリー創立者いさどんへのインタビューです。
以下、そのインタビューをPDFファイルにしました。
PDFファイルはこちらからダウンロードできますのでご覧下さい。
ようこ:
「いさどんブログ」が始まってから、もうすぐ1年になるね。
いさどんから何か感想はある?
いさどん:
僕のひとりごとにようこちゃんが出会って、
そのひとりごとが人に伝わると、人の心を活性したり、感動を与えることがあった。
「そこに出会ったひとだけのものにしておくのはもったいないね。
これをもっと広く皆に伝えたいね」ということで
「いさどんブログ」は始まったんだよね。
最初は、メンバーの中だけで共有していたのだけれど、
それを聞いたメンバーも、「自分たちだけのものにしておくのはもったいないね」ということで、
外に発信するようになりました。
今はブログを読んでくれている人たちを意識しているけれど、
あくまでもこれは読者のために語っているのではなく、
自分の中から湧き出てくる想いを自由に表現している。
だから、「いさどんブログ」はひとりごとの世界。
いさどんという人が心の中で展開している世界なのだ。
想いを文章にしようとすると限界があって、
実際に僕の中に湧き出てくるものからしたら10分の1も表現出来ていない。
いつまでこれが続くのかはわからないけれど、
役割が終わるまで続くのだと思っている。
ようこ:
その時はもう、
「いさどんブログ」で話されているような世界になっているということなのかな。
いさどん:
正直、未来に対して希望はない。
それは、悲観的な意味で希望がないのではなく、
自分にとって考える必要のないことなのである。
今も豊かに尊く生きる人は生きられるのだし、
豊かだと思いながらも貧しく生きる人もいる。
理想というものは、この世界をどう区切って観るかによって、
いくらでも創り出せる。
今現在だって、真実は完璧な世界なのである。
僕の心の世界はなかなか皆に伝えるのが難しいからこそ、
このマニアックな世界(木の花の生活)を
皆さんに見てもらうのはわかりやすいことだと思っている。
僕は、物事に対して良いとか悪いとかの判断はしません。
このブログでは、ある存在から観た視点が表現されているだけのことです。
それが皆さんのお役に立てれば幸いだと思っています。
ようこ:
ブログ読者の皆さんに。
木の花では、「集い語り合え。語り合う中から真実が生まれる」という言葉がよく使われます。
このブログの場も皆さんから様々なコメントをいただいてきたからこそ、
こちらも刺激を受け、新たなブログが生まれてきたという経緯もあります。
皆が自由にそれぞれの中から湧き出てくるものを表現した結果、
愛と調和に満ち溢れた美しい世界となる。
皆さんと共にそういった世界を創っていければと思っています。
私たちの存在は、この世界の仕組みの中にある。
その存在に比べ、はるかにこの世界の方が大きく、
その仕組みの一部として私たちは生かされている。
一方、心というものは、体とは違い
イメージの世界でいくらでも巡らせることが出来る。
想いが妄想化していくと、極端に偏った想いも湧き出てくる。
恨みや怒りに心が偏ってしまうこともあれば、
喜びや調和、愛の中に心が進んでいく人もいる。
しかし、現象の世界に怨念や不調和なものはない。
その姿はあってあるもの、なきてなきもの。
この世界はあり続け存在している。
そういった中で、私たちが肉体をもらっているということは、
その怨念や不調和からいつでも抜け出せるということでもある。
怨念や不調和な心の状態になると、
辛く苦しい、バランスを欠いた現象が起きてくる。
体や人間関係といった形の中にその心の状態が示され、
私たちが痛みを感じ、常に修正出来るように現象が起きていると言える。
僕は、体を持っていることが不自由で仕方がない。
それは、魂を形の束縛から解放して自由に表現したいから。
制約の中にいることを不自由と感じてしまっているのだが、
苦痛だからそう言っているのではない。
もっと自由な世界があることも伝えたい。
この世界の人々を観ると、
形に捉われ、形を大切にするあまり、
心が不自由な状態で生きている。
だから、この世界の真実に気づけない。
存在することの本当の意味に気づけない。
この世界の制度をどんなに優れたものにしても、
私たちがもっと広い世界、天上の世界から降りてきたものである、
ということに気づくことの方が大切である。
今、私たちは形をいただいているけれど、
必ず全てのものは形のないところへ旅立っていく。
これは約束されていることである。
その旅立ちに、約束されていることなのに、
死を拒否し、抵抗しながら迎える。
この世をはかなんで死んでいく人がいるような世界でも、
生きることの本当の意味を知り、
生きることによって完熟し、喜びを持って死を迎えることが出来る。
僕は生きていることに不自由を感じているのだけれど、
それは決して抵抗しているわけではない。
もし不満があるとしたら、
これはカラクリでありその仕組みを伝えたい。
しかし、人々にはなかなか伝わらない。
人々はそのことを無理解のため、
自己主張をして、対立し、悩み苦しむ。
なぜこんなことがわからないのだろうと思ってしまう。
しかし、もう一方で、
このことは理由があって起きているということも知っている。
だから、それを僕が悩み苦しむようなことではいけない。
もっと大いなるドラマの一部分なのだから。
その物語の顛末を見ないで、途中で悩むことは無用である。
それも楽しめばいいだけのこと。
いずれ顛末は来る。
全ては心の表われであるのだから、
善意に受け取れば善意の顛末が訪れる。
そうやって人間は、肉体を持つことによって育てられている。
人間は沢山いるけれど、その数はあまり重要ではない。
人間はいくつかの分類に分かれており、
それは10くらいの分類になるのだろう。
それぞれがそれぞれの段階を歩んでいるのである。
だから、数が沢山いるからといって、全ての人が別々というわけではない。
それぞれの魂が成長するための旅を歩んでいる。
その段階に応じた想いを持ち、現象の中で生きている。
若い世代の中に、
親やまわりの人たちの生き方に疑問を持つ人たちが現れている。
それは、世の中全体がそういう方向へ移行しようとしていることの表われである。
それは若い世代だけではなく、
年を重ねてきた人たちの中にも人生の旅立ちを前にして、
ふさわしい心を求めようとしている人が現れている。
一時、人々は形にばかり捉われてきたけれど、
その形に捉われることの意味に気づき始めたのだろう。
心の世界では、
その姿は丸見えであり隠すことは出来ない。
しかし、形の世界では心を隠すことが出来るから、
改めるのに時間がかかる。
それに僕はいらだちを感じる。
しかし、心の世界では間違いに対して修正する機能がないから、
間違いだけの世界になる。
想いというものは、とことん想い込んでしまうものだから。
そういったものを修正するためには、
この形の世界、じっくりと時間をかけて修正していくこの世界が必要だった。
そのために地球という場所が創られた。
僕の気が短いところは、
人々が早くこのことに気づけばいいと思うのだけれど、
段階を踏んで進んでいかないとならないこともあると知っている。
しかし、時々、人には一人一人の歩みがあること、
その歩みに付き合うことが自分自身の役割であるということを忘れてしまう。
それで、こうやって自分の心を振り返り想いを巡らすことによって、
また元の心の位置に戻ってくる。
肉体は変化するものであるし、人生は有限なものである。
しかし、それは特定した自分というものに限ればということであって、
自分の存在を魂というところから観たら永遠のものである。
だから、生きることに希望を失った時に命まで絶とうとする人も生まれてくるが、
そんなことで存在はなくならない。
自分の魂の状態のままに苦痛であっても喜びであっても、
人は存在し続けるものである。
そこから抜け出すための方法をお釈迦様は考えられた。
喜びも苦痛もないところ、解釈のないところへ行けばいいと考えられた。
しかし、そろそろ人類はこの世界を非難する場所と捉えるのではなく、
この世界をしっかりと解釈し、この世界を動かしている側に立ち、
この世界の仕組みのままに生きることの喜びを表現していかないといけない。
お釈迦様はきっとそれが面倒臭かったのだろうと思う。
だから、「何もない世界に行ったら楽だよ」と説いたのだろう。
だから、生きるということを生老病死という表現から始めたのだと思う。
しかし、それすらもこの世界を創っている道具にしかすぎない。
まだまだ、あってあるもの、なきてなきものになりきれない。
しかし、カラクリは観えている。
皆、そのカラクリにより迷いの中にいる。
そして、矛盾から問題事に出会っている。
人生とは、一つ一つの出来事に出会いながら、
その意味を知り卒業していくことだろうと思う。
階段を上るように一つ一つこなしていると思うと、次にすることは何だろうか。
それは、「何もしない」ということ。
今までは何かをすることでこの道を歩んできたけれど、
そろそろ何もしないという立場に自分を置きたいと思っている。
それをこれからするのだろう。
実際には生きているのだから、何かをしているのである。
それが誰かに託されてなったのではなく、勝手に事がなっていくこと。
何もしていないようだけれど、
熟成された役割のようにプラスアルファで生きていく。
そういう立場の役割はしたいと思っている。