僕には前に進めようとする心と
それにブレーキをかけようとする心の両方がある。
前に行こうとする心が強くても、
現実にはなかなかその通りになっていかないことがある。
人生ってそういうものだな、
と今までは思っていた。
しかし、ここ1、2年は、
ブレーキをかける方が多く、
現実の方が先に進んでいく。
僕の方が慎重になって、
「そんなに上手くいかないよ」
と思うことが多くある。
そんな中、去年の後半頃から、
いろいろな人とのつながりが出来ている。
僕よりもここを訪ねてくる人たちの方が、
純粋で疑いなく進んでいこうとしている。
僕の中には
「また障害物が出てくるかも」とか、
「人はそんなに簡単には動かないよ」
という想いがある。
それを、流れの中で出会ったことだから、
流れのまま行きましょうということで
日々を過ごしている。
去年の後半くらいから出会った人たちというのは、
僕が考えていることを語ると、
それを僕が考える以上に受け取って反応してくれている。
今まで僕は、
「人間はまだそこまで気づかないだろう」とか、
「これは特別な考えだから普通の人には」と思っていた。
でも、そういった人ばかりではないということがわかった。
事が動き出した。
面白いのは、
以前と逆になってきているということ。
以前は、自分の中から湧き出してきた
高い理想をどんどんやっていこうとしても、
現実にはなかなかそうはならなかった。
今は、慎重に慎重にしているのに、
事はどんどん進んでいく。
羽を広げすぎないようにと考えることもある。
しかし、それを一人で出来るのかと言ったら、
一人でできはしない。
そうすると、僕がそんなふうに考える必要はない。
まわりの人たちの心に響くように、
自分の中にある変わらぬ想いを
語っていくだけでいいんだろう。
私たちの生活は普通ではない。
しかし、これを支持する人たちが
これからますます出てくるのも流れである。
面白いのは、
そういう予測を自分でしておきながら、
「そんなに上手いこといくのかな」という心や、
それがなっていくと、
「えっ、本当になるの?」という想いも出てくる。
もっと自分を信じてあげなきゃと思う。
僕には裏表がない。
私利私欲がない。
あなたは何を考えているのですか?
と問われたら、
そこにあるのは、本当に良い世の中が来ること。
この世界を動かしている存在に皆が目覚め、
この世界の仕組みの中で生かされていること、
そしてすべてのものがひと連なりのものであり兄弟である、
ということに気づくこと。
そうしたら、
当たり前に自分を想うように
人のことを想えるようになり、
そのつながりの中で
人々が平等で平和で愛ある生き方が出来るようになる。
皆が笑っている姿を自分の中にイメージして、
そういう世の中が来ること。
何が希望なのかと言ったら、それだけ。
疑いのない、争いのない、偽りのない、
皆が笑っていられる世の中。
独立した個人の笑いではなく、
皆で一緒に歌い笑いながら生活している。
生活の中に笑いがあり、喜びがある。
そういった世の中が来ること。
私たちは、
人類として過去に尊い教えをもらった。
キリスト、ブッダ、
沢山の聖者たちから道をいただいた。
それはどれをとっても原則は同じものです。
彼らが一体何を語ったのだろうと
心の目で見通してみると、この世界の仕組み。
ひと連なりであるということ。
ひと連なりであるということは、
全部つながっているのだから
全て自分自身だということ。
他を己と思って愛しなさい。
他と思えるものも自分ですよ。
だから、それを愛しなさい。
連なるということは、
悪意では成立しない。
善意を持って連なりなさい。
この世界を創っているものは、
別々の姿をし、いろいろな役割をしている。
どれも重要で不必要なものはない世界だから、
平等な世界です。
調和の中で、
一つのものに束ねられている。
世界の人々に対して
過去のメシアたちが伝えようとしたことは、
そのようなことだろうと思う。
人間たちがそのもとにある心を理解できたら、
聖者たちのような生き方だったのだろう。
しかし、人間たちは、
この世界を見通してみるのではなく、
個人という立場から
自分のエゴでまわりを見ていくようになった。
その結果、自分という概念を得るようになり、
広くこの世界を見通してみるということを忘れてしまって、
この地上だけに特定する概念で
物事を捉えてしまっている。
どんなに大きな組織のトップであろうが、
有名人であろうが、皆同じ人間である。
ただ、そこに大きな差ができた。
どこに差ができたかというと、
「自分がそれだけのものになった、
他の人とは違うんだ」という心を持ったからである。
この国が皆にとって良い国でなくてはいけない。
それを皆で創り上げていく。
その国というのは、
日本という国だけではなく地球国のこと。
過去に聖者たちが
私たちに残してくれた財産を指針としなさい。
一番の根本はこの宇宙の仕組み。
宇宙の仕組みには、生活も全てが含まれている。
私たちの存在も、もちろんその中に入っている。
私たちは、道徳や宗教を通じてそれを学んできた。
それなのに、ベースの心が「自分が」
というところになってしまい、
この世界を見通して
日々を生きるということを忘れてしまっている。
いろいろな宗教が人々を導びこうとしてきたし、
理屈や道理を知っている人は沢山いる。
しかし、実際にそれを生活に落とし込んでいる人は
ほとんどいなくなった。
そのような日々を送ることを
喜びとしている人もほとんどいなくなって、
頭の中だけの学びとなってしまっている。
そういう矛盾の中で生活している人がほとんどで、
特に宗教のリーダーたちに
そういう生き方をしている人が多いと思う。
私たちがこの生活を始めて、もうすぐ16年になる。
ただ淡々とやってきたのは、
「皆で」ということ。
「平等」ということ。
「調和」ということ。
全て同じ概念で、粛々と生活の中でやってきた。
そして、世の中の人たちもそのことに気づき始め、
気づいた人たちがつながろうとしている。
特に、ある程度の物を獲得してきて満足している人たち。
そういう人たちが、その満足で終わってはいけない。
自分の能力や財をもっと違う形で活かさないと、
自分の我を満たしただけでは価値あるものにはならない。
自分で自分の価値を築き上げていくということ。
「有形のものではなく、無形のものを優先して
価値を見い出していくことが大切なんだ」
ということに気づいた人たちが、
見えない力の働きでここに集まってきている。
新しい時代の見本を皆で世界に示そう、
「何となく変だね」と思っていることをもとに、
皆で世の中を変えていこう、
というところに共鳴しているのだと思う。
それは、私たち人間が勝手に思っていることではなく、
何かがそれを束ねようとしている。
宇宙を、地球を束ねている魂が、
この世界を導こうとしている。
何千年も前から
聖者たちが導きを残してくれた結果、
今があるのだとしたら、
その聖者たちの「全てが一つである」
という志を私たちは受け継ぎ、
その精神を持って次のステージに進んでいく。
それは、イエスやブッダのような聖者たちが
絶対ということではなく、
その生き方や教えを新たなものにしていく。
そうすることによって、
私たちと共に聖者が生きていく。
一人一人の中に聖者がいる。
私たちは神の分御魂であり、
私たち一人一人の中に聖者の精神や神が住んでいる。
その心を持って日々の生活を実践していく。
過去の聖者たちが残していった財産を守っていくだけでは、
新たな道が生まれない。
それを新たなものへとつなぎ成長させていく。
今までは、
初めの教えを守っているだけで成長がなかった。
それでは新たな知恵も湧いてこない。
これからは、特定の聖者や特定のリーダーが導くのではなく、
皆で考えながら創っていく時代。
「皆の時代、一人一人が主役の時代が来ます」
とずっと言ってきたけれど、まさしくその時代が来た。
皆で創る仕組みがこの世界を動かしていく。
それこそが宇宙の仕組みである。
私たちの生活のもとにある仕組みが、
理想を実現しようとしていると感じる。
私たち一人一人の中にイエスやブッダがいる。
私たちはその尊い心をもとに、
生活と理想が別々だった
この世界をひとつにする時代が来ている。
そういったことをわからず自分の欲に走っている人や、
欲が満たされず怒りや恐怖の中にいる人たちも、
不安のない安心できる仕組みができていくと、
だんだん氷のように固くなった心が溶けていく。
自分で自分のことを抱えなくていいんだ、
皆に安心して任せればいいんだと気づいていく。
それを先駆けとしてやることは大変な困難が伴う。
事が進んでいない時にやるのは大変である。
しかし、なっていけばいくほど、
「やっていて良かったね、そうだったんだね」
という確信が私たちの中に生まれてくる。
そうやって皆が引き寄せられて、つながっていく。
美しい心の人たちの生活。
それがこの星で実現すると、
この星が本当の意味で美しい星になる。
理想は、外れながら真実を見い出していく。
右へ行ったり左へ行ったりすると、
幅が広くなる。
ところが、真実を持つという心を忘れると、
右へ行ったら右のまま行ってしまう。
それでは真実が観えてこない。
右へ行ったり左へ行ったりしながら、
中央にある真実を見つけていくことが大切である。
自分を取り巻く世界に
自分が何をもたらしているのか。
それが観えることが大前提である。
一本道で行くのではなく、
外れることによって理想が見えている。
外れないで理想に行き、
それが理想なのかと言ったら、
確認はできない。
一本の道を行ったらそれが絶対だということになり、
この世界になぜそういったものが創ってあるのか、
そのことの価値が観えなくなる。
多様性がなくなってしまう。
面白くも何ともない。
ただ必死なだけになってしまって、
楽しめなくなってしまう。
それは味気ない世界である。
喜びがある世界。
喜びがこの世界のスパイスとなっている。
外れるから喜びが生まれる。
その全体像を理解していくと、
知恵が湧いてくる。
ところが、知恵がないのに知識だけ詰め込んでいくと、
知っているというだけでそれを活かすことが出来ない。
この世界には
良いことと悪いことがあるように見えるけれど、
実は両方が支え合いこの世界が成り立っていて、
そのどちらも同じく大切で良いことだということ。
なぜなら、もとは善意と愛と調和でできているのだから。
そこが出発点で、
それを影のように支えるように
悪意、孤独、対立、不調和がある。
一対だからどれも大切であり、
それをありがたいと思えるようになったら、
その影の方は消える。
そこに光が当たるから。
しかし、全てが消えてしまったら面白くない。
影のところから光の方へ出ていくから
「明るいね」と気づける。
だから、行ったり来たりしながら楽しめばいい。
ゲームのように楽しめば、
たちどころに問題は消えていく。
そうしたら、
いつの時代もこの世界は地上天国である。
始めから今もこれから先もずっと、
そのことに気がついたら
この世界はたちどころに地上天国となる。
そして私たちは肉体を返して天国へ行く。
そのことが理解できなければ、
肉体をこの世界に返しても天国へ行けない。
地の国、地獄に留まってしまうことになる。
暗い光のない世界に。
「優秀であることが大切だ」と言って、
人々は知識を求め、
優秀な人たちが支配する世の中ができた。
その結果、こういう社会が出来た。
なぜそれを見直さないといけないかと言ったら、
優秀な人たちは
自分が優れているというふうに思っているから
謙虚ではない。
謙虚でない人たちの世界ができて、
生かされているとか、つながるとか、
人を想うことが大切ということを
忘れてしまっている時代である。
私たちはどんなものであっても、
この世界が創られた後に創られたのである。
今現在も、その世界の目的によって維持されている。
そこに気づかないと、
この世界の目的を知ることができない。
いつも、自分独りよがりの、
あるいは人間よがりの世界しか観えない。
その視点でしかこの世界を観ることができない。
だから、
優秀であるということが仇になってはいけない。
優秀であるということは、
この世界の奥にある真理を観ることできるということであり、
それを観ることによって知恵が湧いてくる。
そうすれば、
この世界にあるテクノロジーも物もそこから来る富も
ずっと有効に使える。
人々のために平等に、有限なるものすら
無限に使える時代が来るはず。
そういう人々が大事な時代になった。