この星は、宇宙の大きさからすると、
非常に小さな点である。
それが、私たちが存在している
この世界の現実であって、
小さな点であるこの星を広く大きいと見るのも、
豊かだと見るのも、その反対と捉えるのも、
私たちの尺度である。
現実には、私たちが五感で感じられない
ミクロの世界でも、
豊かな命の仕組みが存在している。
宇宙全体の仕組みからすれば
ミクロの世界であるこの星の上で、
私たちの心が一喜一憂したり、
時には対立したり傷つけあったりということが起こる。
それは、個というものに人間が囚われて
自分の望みを叶えようとしたり、
維持しようとするからである。
この狭い世界で、
対立の現実があり続けている。
今、それを直視することは大切なことである。
この世界は命の世界であり、
命とは変化すること、循環すること、
そしてつながることである。
その世界の中で現状を維持しようとすれば、
それを破壊しようとする力が働くのが、
この宇宙の仕組みである。
その力が働けば働くほど、
なぜそれが働くのかを考えず、
人間はさらに維持しようとする。
その結果、現状を守ろうとすることが、
対立や競争を生むことになる。
その力に抵抗せず、
なぜそれが自分の目の前に現れたのかということを
冷静に見つめ、原因を知ると、
自分に対して負荷がかかるような現象が消えていく。
出来事の種、それが起こる理由がわかれば、
現象が収まっていくというのが
この宇宙の仕組みである。
そういう仕組みがただこの世界に働いているだけで、
私たちはそのカラクリに気づいたら
問題事すら楽しめるようになる。
何かが成り立とうとしている時にそれが成り立たないと、
それを問題事として捉えてしまいがちだが、
その問題事から新しい芽が出てくるものである。
その新しい芽から起きる何かを見つめるよりも
予定していたことを
そのまま成し遂げたいという想いが強ければ、
そこに苦痛というものが発生する。
といって、予定していたことが成らないからといって
さっさとあきらめてしまったら、
成るべきものも成らなくしてしまう可能性がある。
だから常に、ひとつひとつその場その場で、
しっかりキャッチボールをしていかないといけない。
そのキャッチボールをする時に、
「~したい、~になりたい、~になるべきだ」
というような執着した心を持たないということが、
賢明な心の持ち方。
これは、物事に当たる時の基本のようなものである。
この広い宇宙の中で地球はミクロの点である。
ここに、こういう世界があるということが、すごくおかしい。
「おかしい」というのは、「笑える」という「おかしい」でもあるし、
「不思議だ、変だ」という「おかしい」でもある。
ミクロの中に住んでいる、ミクロの私たち。
私たちはミクロの存在なのである。
しかし、その真っ只中にいると心が揺れる。
病気をしたり、人生の中で大きな行き詰まりに出会ったり、
そこではいろいろなことが起こる。
皆、そこには自分の命がかかっている。
鳩山首相が国会での所信表明演説の時に、
自殺者の話をしていた。
そういった人たちを出すような国であってはいけない、と。
僕も同じことを思っている。
ただ、鳩山さんの演説のニュアンスが僕とちょっと違うのは、
彼は、この国には人が自殺するような貧しさがあると言っていたこと。
僕は、その前に自殺することを選んだ人たちがいると見ている。
鳩山さんは、社会制度を豊かにして、
自殺するような人たちを減らしていくと言っていた。
確かに、自殺する人たちが
何が原因で自殺するのかといえば、
自分の中から病気や貧困などの不安を拭いきれず、
思いつめて自殺する人がほとんどだと思う。
しかし、なぜ不安があるのかを考えた時に、
病気や貧困などには種がある。
その人は自分を取り巻く環境がそうだからと言うだろうし、
確かにある意味ではその通りだろう。
しかし、その環境に出くわしている自分、
そこへ自分を追いやっている自分、
そのような生き方をしている自分もいる。
自分の中に種があるのである。
そうすると、単に社会システムだけに
不安の原因があるというわけではないし、
それを取り去ることで問題事を解決できるとも思わない。
そのことをしっかりと検証し、
不安になるような出来事に出会ったという事実を
多角的に理解していくことが大事。
その時に初めて、不安という貧困がなくなる。
つまり、そういった出来事(問題事)に
出会った人自身がそれを見て、
自分を救済することが大切なのである。
同時に、社会がそういう人たちを出し、
そのような行動に追いやっていることも
観ていかないといけない。
今の社会では、とかく現象だけを抑えようとするけれど、
問題事の根本の原因を捉えていかないといけない。
この世界を宇宙の中の点と考えた時に、
私たちはそういった小さな場所に生きている。
その小さな場所で、
この世界を狭く捉えていると、
個の命が一番大切で、
それを失うことを恐れて日々を生きていくことになる。
私たちは命そのものであり、
命とは己の存在する最小単位であるから、
私たちは己を守ろうとする働きの中で在り続けようとする。
それは、部分的に区切って命を捉えるからである。
特定の姿、形を持って存在したものは、
常に変化し続け、その終わりを迎えるものである。
しかし、命とは単独で成り立っているものではない。
私たち人間を含めた自然の仕組みから、
地球も太陽系も銀河も、そして全宇宙が
お互いの関係の中で互いを存在させ合っているのである。
そこでは、一つの命の終わりは新しい命の始まりであり、
物質的にも霊的にも分離した命が
新たな縁のもとに再生の旅を始めるだけである。
この世界には、死がないということである。
人間が自分の立場というものを取って、
そこで安定を求めれば、
必ずその安定を壊そうとする力が働き、
人間の不安を駆り立てる
この世界の仕組みが働くのである。
そうすると、不安があるからいけないとか、
死があるからいけないということではない。
死ぬことは当たり前に全てのものに保障されていて、
必ず来るものである。
不安も、自分が特定の立場や安定を求めようと行動していると、
この世界は常に変化する世界だから、
その変化が不安の種となる。
だから、当たり前のことを不安に思う原因や、
恐れていることが何ものかということを
正確に理解することが先決だと思う。
まだまだ一般社会では、
不安の種を取り去るよりも
仕組みを変えることを優先しているが、
不安の種を取り除いてから
仕組みを変えることが大切なのである。
そもそも、不安の種は豊かさをもたらすものである。
それがあるからこそ、
その種に気づいて取り除いていくことにより、
仕組みを変えることもでき、人は成長していける。
宇宙の点の中に、
なぜこういう世界があるのかを
理解するための種であったり、
自分がなぜここにいるのかを
理解するための種であったりもする。
それは、人間が考え、
成長していく源泉のようなものである。
私たちがケアで人を預かったり、
良い社会になるよう働きかけながら生活していることは、
自分たちがまだ知りえなかった
新たなことを学んでいくこと。
そして、そうやって学びながら成長し、
この世界にいる意味を実感し、
そういったプロセスを踏んでいくことが、
この世界が創られた目的であり、
人間がここにこうやって存在している目的を
理解することであると考えている。
すると、そこにこの世界を創り、
私たちにこの場所を与えている意思が
働いていることが観えてくる。
私たちは、その存在の心を理解する旅をしている。
いろいろなことが成っても成らなくても、
自分とその存在を知るための
学びのゲームのように楽しんでいれば、
その心を理解していることになる。
しかし人は、それを全部楽しみ切れない。
人間であること自体が不安に結びついているんだし、
良いとか悪いとか区切りをつけられるものでもなく、
それこそがこの世界の実体である。
だから人は、不安の種から喜びを生みだすことができる。
不安でいっぱいの世の中を、
喜びでいっぱいにすることもできる。
実は滞りなどはどこにもなく、
すべてが目的であり、必然である。
それは、「手放せ、手放せ」ということ。
そして、「楽しめ、楽しめ」ということ。
しかし、楽しめていない人間もいる。
楽しめていない人間も含めて、
この世界は楽しみの世界であり、滞りもあって、
それも含めて「楽しめ、楽しめ」ということになる。
不安を解消するということでもない。
不安があること自体が、
非常に優れた仕組みである。
湧いてくるのはわかるけれど、
その意思をわかろうとすること。
あれしなきゃ、これしなきゃという気持ちがあり、
それをすることが絶対なのかといったら、
それだけではない。
人々は、今のような社会制度の中では、
毎日それをこなすことが大事というふうに思っている。
それは一時の価値観である。
もっと違う価値観の世界になったら、
それは大事ではなくなってしまう。
自分を囲む枠を一つずつ大きくしていけば、
大きくなった分だけ
平和で平等な競争のない世界が広がる。
徐々に世の中の価値観が変わって、
新しい世界が来た時に、
「あんなふうに皆が必死になっていた時代もあったね」
と語るような時が来る。
今のこの日本だって、地球だって、
今までそうだったように、
必ず「あんな時代があったね」という時代が来る。
日本に縄文時代や戦国時代、
第二次世界大戦があったように、
あの時はあんなことを必死にやっていたね、
と振り返る時代が来るのだから。
一人一人の人生も同じこと。
小さいことからちょっと目線を離し、
大きい視点を持ちながら、
身近なことに取り組むことが大切である。
大きな枠組み、10年や20年どころか、
100年や200年の枠組みでものを捉えながら、
身近なことを考えていく。
全ての出来事には種があって発生していること。
そしてそれは、大きな種もあれば小さな種もある。
それをみんなでつながり、
良い種子は育て、悪い種子は取り去っていく。
そういうふうに考えないと、
小さなことが本当に点だけになってしまって、つながらない。
つながるということの中で、今日一日があって、
つながるからこそ、今日のことがYESなのかNOなのか見えてくる。
それを点だけで見ていると、人生という旅の迷子になってしまう。
人類も宇宙の迷子になる。
私たちは、
宇宙の中の小さな小さな点の存在なのです。
しかし、私たちは宇宙の一部分であることも確かです。
この世界が私たちの未来に何を求めているのか、
そろそろ考える時が来ているのではないでしょうか。
点である地球のことを知ろうと思えば、
全体である宇宙を観ていかなければ、
点は理解することができない。
その反対も理である。
それは身近な自分の健康(愛、調和)から、
社会の健康(理解、平等)へ、
そして地球の健康(平和)につながっていくものだと思います。
そして、その先に宇宙の目的、神の意志が見えてくる。