宇宙の中の小さな点

この星は、宇宙の大きさからすると、
非常に小さな点である。

それが、私たちが存在している
この世界の現実であって、
小さな点であるこの星を広く大きいと見るのも、
豊かだと見るのも、その反対と捉えるのも、
私たちの尺度である。
現実には、私たちが五感で感じられない
ミクロの世界でも、
豊かな命の仕組みが存在している。

宇宙全体の仕組みからすれば
ミクロの世界であるこの星の上で、
私たちの心が一喜一憂したり、
時には対立したり傷つけあったりということが起こる。
それは、個というものに人間が囚われて
自分の望みを叶えようとしたり、
維持しようとするからである。

この狭い世界で、
対立の現実があり続けている。
今、それを直視することは大切なことである。

この世界は命の世界であり、
命とは変化すること、循環すること、
そしてつながることである。
その世界の中で現状を維持しようとすれば、
それを破壊しようとする力が働くのが、
この宇宙の仕組みである。
その力が働けば働くほど、
なぜそれが働くのかを考えず、
人間はさらに維持しようとする。
その結果、現状を守ろうとすることが、
対立や競争を生むことになる。

その力に抵抗せず、
なぜそれが自分の目の前に現れたのかということを
冷静に見つめ、原因を知ると、
自分に対して負荷がかかるような現象が消えていく。
出来事の種、それが起こる理由がわかれば、
現象が収まっていくというのが
この宇宙の仕組みである。
そういう仕組みがただこの世界に働いているだけで、
私たちはそのカラクリに気づいたら
問題事すら楽しめるようになる。

何かが成り立とうとしている時にそれが成り立たないと、
それを問題事として捉えてしまいがちだが、
その問題事から新しい芽が出てくるものである。
その新しい芽から起きる何かを見つめるよりも
予定していたことを
そのまま成し遂げたいという想いが強ければ、
そこに苦痛というものが発生する。
といって、予定していたことが成らないからといって
さっさとあきらめてしまったら、
成るべきものも成らなくしてしまう可能性がある。
だから常に、ひとつひとつその場その場で、
しっかりキャッチボールをしていかないといけない。

そのキャッチボールをする時に、
「~したい、~になりたい、~になるべきだ」
というような執着した心を持たないということが、
賢明な心の持ち方。
これは、物事に当たる時の基本のようなものである。

この広い宇宙の中で地球はミクロの点である。
ここに、こういう世界があるということが、すごくおかしい。
「おかしい」というのは、「笑える」という「おかしい」でもあるし、
「不思議だ、変だ」という「おかしい」でもある。

ミクロの中に住んでいる、ミクロの私たち。
私たちはミクロの存在なのである。

しかし、その真っ只中にいると心が揺れる。
病気をしたり、人生の中で大きな行き詰まりに出会ったり、
そこではいろいろなことが起こる。
皆、そこには自分の命がかかっている。

鳩山首相が国会での所信表明演説の時に、
自殺者の話をしていた。
そういった人たちを出すような国であってはいけない、と。
僕も同じことを思っている。
ただ、鳩山さんの演説のニュアンスが僕とちょっと違うのは、
彼は、この国には人が自殺するような貧しさがあると言っていたこと。
僕は、その前に自殺することを選んだ人たちがいると見ている。

鳩山さんは、社会制度を豊かにして、
自殺するような人たちを減らしていくと言っていた。
確かに、自殺する人たちが
何が原因で自殺するのかといえば、
自分の中から病気や貧困などの不安を拭いきれず、
思いつめて自殺する人がほとんどだと思う。

しかし、なぜ不安があるのかを考えた時に、
病気や貧困などには種がある。
その人は自分を取り巻く環境がそうだからと言うだろうし、
確かにある意味ではその通りだろう。

しかし、その環境に出くわしている自分、
そこへ自分を追いやっている自分、
そのような生き方をしている自分もいる。
自分の中に種があるのである。
そうすると、単に社会システムだけに
不安の原因があるというわけではないし、
それを取り去ることで問題事を解決できるとも思わない。
そのことをしっかりと検証し、
不安になるような出来事に出会ったという事実を
多角的に理解していくことが大事。
その時に初めて、不安という貧困がなくなる。

つまり、そういった出来事(問題事)に
出会った人自身がそれを見て、
自分を救済することが大切なのである。
同時に、社会がそういう人たちを出し、
そのような行動に追いやっていることも
観ていかないといけない。
今の社会では、とかく現象だけを抑えようとするけれど、
問題事の根本の原因を捉えていかないといけない。

この世界を宇宙の中の点と考えた時に、
私たちはそういった小さな場所に生きている。
その小さな場所で、
この世界を狭く捉えていると、
個の命が一番大切で、
それを失うことを恐れて日々を生きていくことになる。

私たちは命そのものであり、
命とは己の存在する最小単位であるから、
私たちは己を守ろうとする働きの中で在り続けようとする。
それは、部分的に区切って命を捉えるからである。
特定の姿、形を持って存在したものは、
常に変化し続け、その終わりを迎えるものである。

しかし、命とは単独で成り立っているものではない。
私たち人間を含めた自然の仕組みから、
地球も太陽系も銀河も、そして全宇宙が
お互いの関係の中で互いを存在させ合っているのである。
そこでは、一つの命の終わりは新しい命の始まりであり、
物質的にも霊的にも分離した命が
新たな縁のもとに再生の旅を始めるだけである。
この世界には、死がないということである。

人間が自分の立場というものを取って、
そこで安定を求めれば、
必ずその安定を壊そうとする力が働き、
人間の不安を駆り立てる
この世界の仕組みが働くのである。

そうすると、不安があるからいけないとか、
死があるからいけないということではない。
死ぬことは当たり前に全てのものに保障されていて、
必ず来るものである。
不安も、自分が特定の立場や安定を求めようと行動していると、
この世界は常に変化する世界だから、
その変化が不安の種となる。
だから、当たり前のことを不安に思う原因や、
恐れていることが何ものかということを
正確に理解することが先決だと思う。

まだまだ一般社会では、
不安の種を取り去るよりも
仕組みを変えることを優先しているが、
不安の種を取り除いてから
仕組みを変えることが大切なのである。
そもそも、不安の種は豊かさをもたらすものである。
それがあるからこそ、
その種に気づいて取り除いていくことにより、
仕組みを変えることもでき、人は成長していける。
宇宙の点の中に、
なぜこういう世界があるのかを
理解するための種であったり、
自分がなぜここにいるのかを
理解するための種であったりもする。
それは、人間が考え、
成長していく源泉のようなものである。

私たちがケアで人を預かったり、
良い社会になるよう働きかけながら生活していることは、
自分たちがまだ知りえなかった
新たなことを学んでいくこと。
そして、そうやって学びながら成長し、
この世界にいる意味を実感し、
そういったプロセスを踏んでいくことが、
この世界が創られた目的であり、
人間がここにこうやって存在している目的を
理解することであると考えている。
すると、そこにこの世界を創り、
私たちにこの場所を与えている意思が
働いていることが観えてくる。

私たちは、その存在の心を理解する旅をしている。
いろいろなことが成っても成らなくても、
自分とその存在を知るための
学びのゲームのように楽しんでいれば、
その心を理解していることになる。

しかし人は、それを全部楽しみ切れない。
人間であること自体が不安に結びついているんだし、
良いとか悪いとか区切りをつけられるものでもなく、
それこそがこの世界の実体である。
だから人は、不安の種から喜びを生みだすことができる。
不安でいっぱいの世の中を、
喜びでいっぱいにすることもできる。

実は滞りなどはどこにもなく、
すべてが目的であり、必然である。
それは、「手放せ、手放せ」ということ。
そして、「楽しめ、楽しめ」ということ。
しかし、楽しめていない人間もいる。
楽しめていない人間も含めて、
この世界は楽しみの世界であり、滞りもあって、
それも含めて「楽しめ、楽しめ」ということになる。

不安を解消するということでもない。
不安があること自体が、
非常に優れた仕組みである。
湧いてくるのはわかるけれど、
その意思をわかろうとすること。
あれしなきゃ、これしなきゃという気持ちがあり、
それをすることが絶対なのかといったら、
それだけではない。
人々は、今のような社会制度の中では、
毎日それをこなすことが大事というふうに思っている。
それは一時の価値観である。
もっと違う価値観の世界になったら、
それは大事ではなくなってしまう。
自分を囲む枠を一つずつ大きくしていけば、
大きくなった分だけ
平和で平等な競争のない世界が広がる。

徐々に世の中の価値観が変わって、
新しい世界が来た時に、
「あんなふうに皆が必死になっていた時代もあったね」
と語るような時が来る。
今のこの日本だって、地球だって、
今までそうだったように、
必ず「あんな時代があったね」という時代が来る。
日本に縄文時代や戦国時代、
第二次世界大戦があったように、
あの時はあんなことを必死にやっていたね、
と振り返る時代が来るのだから。
一人一人の人生も同じこと。

小さいことからちょっと目線を離し、
大きい視点を持ちながら、
身近なことに取り組むことが大切である。
大きな枠組み、10年や20年どころか、
100年や200年の枠組みでものを捉えながら、
身近なことを考えていく。

全ての出来事には種があって発生していること。
そしてそれは、大きな種もあれば小さな種もある。
それをみんなでつながり、
良い種子は育て、悪い種子は取り去っていく。
そういうふうに考えないと、
小さなことが本当に点だけになってしまって、つながらない。
つながるということの中で、今日一日があって、
つながるからこそ、今日のことがYESなのかNOなのか見えてくる。
それを点だけで見ていると、人生という旅の迷子になってしまう。
人類も宇宙の迷子になる。

私たちは、
宇宙の中の小さな小さな点の存在なのです。
しかし、私たちは宇宙の一部分であることも確かです。
この世界が私たちの未来に何を求めているのか、
そろそろ考える時が来ているのではないでしょうか。
点である地球のことを知ろうと思えば、
全体である宇宙を観ていかなければ、
点は理解することができない。
その反対も理である。

それは身近な自分の健康(愛、調和)から、
社会の健康(理解、平等)へ、
そして地球の健康(平和)につながっていくものだと思います。
そして、その先に宇宙の目的、神の意志が見えてくる。


ミツバチの病気とインフルエンザ

今年、木の花で初めてミツバチの病気が出ました。
そのため、やむを得ず抗生剤を使用しました。
それは、いちご屋さんにミツバチを持っていくものだから、
責任上、予防的にも治療的にも、
抗生剤を使わざるをえないことになりました。
私たちは、西洋医学を否定しているわけでもないですし。

今出ている病気の一つであるチョーク病は、
大分良くなってきました。
これは、ヒノキの葉をこまめに替えることと、
木の花菌を巣箱の中に散布してやることによって、
ほとんど改善されました。

木の花の蜂場では、病気は重症化しません。
普通、病気が発生すると、
蜂置き場全体に広がってしまいます。
特に秋から冬にかけては、
強い群の蜂が弱い群の巣箱の中に入り、
「盗蜂」といって蜂蜜を盗んでいく。
そうすることによって、
弱い群の病気が強い群に移るということになります。
それから巣を入れ替えた時に、
どうしても、病気がない所へ移っていく傾向もあります。

どうして木の花で病気が起きたかというと、
よその巣を持ってきて足したことが
一番の原因だと思います。
春先に、いちご屋さんが使っている巣を
回収してきて育成したこと、
あとは、日照不足のため、
ミツバチの出来が悪かったことも
原因していると思います。
いろんな要因が重なって、
そういうことが起こりました。

特徴的なのは、
非常に良い群と弱い群に分かれているのですが、
その良い群のほうは今まで15年飼っていた中で
見たこともないような良い群だということです。
だから、来年は採蜜が期待できるということです。
そこには病気が一切出ていない。
極端なことを言うと、
病気の巣をその良い群に入れると、
病気が消えてしまう。

これは、私たちが強い生命力のある蜂を
育てていることと同時に、
酵素(木の花菌アミノ酸)の力が
大きいと思っています。
以前からもそのことは思っていましたが、
今それを強く感じているのは、
最近子供たちがインフルエンザにかかりました。
大人の中にも、ひょっとすると
インフルエンザの可能性がある人がいます。

普通、風邪でもインフルエンザでも、
治るのにもっと時間がかかったり、
今年の症状から見て悪化するんだろうと思ってみています。
ところが、ここではあっという間に良くなる。
これはどうも、世間一般の
インフルエンザの治り方とは違う。

面白いのは、問題事も病気も神様からの
プレゼントという言葉があるように、
病気になることは大事だということです。
インフルエンザにかかることも大事だと思う。
なぜなら、病気になって私たちの中に
何が残るのかと言うと、
そこから学べると同時に、
病気に対する免疫抗体ができる。

そうすると、病気にかかり重症になって
大変ということではなくて、
軽い状態で体が病気を学習できるという状態が、
今、木の花の生活の中にあるのではないかと思っています。
だから、あっという間にかかって、
あっという間に回復して、
そして抗体をつくってしまう。

こういうことがどうもここにあるぞ、と
蜂を見て、ここの人たちの
インフルエンザからの回復の仕方を見て、
思っています。
今後の成り行きを
興味深く見ていきたいと思っています。

私たちは、日常の見えない所で、
微生物によって健康を支えられています。
特に、微生物が出す酵素の力が、
大きな働きをしてくれます。
日本の伝統的な食には、
酵素食品が多くあります。
こういった日本の食の良さを
見直す機会にしていき、
病気と上手くつきあいながら、
大病にならないこと、
病気や問題事を小さいうちに
学んで直していくことにつなげていく姿勢が、
大切かと思います。

私たち人間も、
地球にとって健全な微生物のような存在で
ありたいものです。
そうすれば、私たちが想うこと、
行動することが、
世の中を大自然のように豊かにつなげ、
健全にする酵素の働きと
同じ役割を果たしていけます。


心と体の免疫力

今回のブログは、
先日の大人会議でのけいこちゃんの報告を紹介します。
ちなみに、けいこちゃんがケアをスタートしてから
6週間が経ちました。

けいこちゃん:

今朝、
「これから卒業まで何かテーマがあるといいね」
とようこちゃんに言われて、
今までは自然と浮かんできた自分の心の垢に対してだけ、
いろいろ掘り下げていったりしていたんですけれど、
これからは、意識して自分の心の垢を見つめていこうと思いました。
それを自分のテーマにしていこうと思っています。
まだ、ちょっと取り繕っているところがあるんですけれど、
多分ぽろぽろ垢が出てくると思いますので、
皆さんに指摘してもらえたらなと思っています。

まり姉:

意識して自分の垢を見なくてもいいかなと。
どういうふうに垢を見ていくのかわからないけれど、
しんどくなるんだったら、
無理やり探さないほうがいいんじゃないかと思います。
自分で「こういうところがあるんだな」と気がついた時に、
次はそれをなくしていこうという感じでいいんじゃないかな。

ようこ:

今朝、けいこちゃんに伝えたのは、
ここで淡々と生活することはもうクリアできているからね。
これから卒業に向けて何かテーマがあると、
ここでの滞在がさらに充実するよねという話をしました。
そうしたら、これから毎瞬毎瞬自分の心を意識して見続ける、
ということをテーマにしますって。
ここでメンバーが毎日心磨きをしているように。

ただ、けいこちゃんはその時すでに、
それをプレッシャーに感じていて、
卒業までにそれをやり遂げないといけないと
ネガティブに捉えているようだったから、
これは私たちも一生かけてやり続けるものだからね。
卒業しても一人でそれができるように、
ここにいる間にコツを掴んでいけるといいよねと話しました。

いさどん:

この間、あっくんが優等生として
卒業してくれたのだけれど、
またタイプが違う優等生だなと
けいこちゃんのことを観ています。
ケア担当者の僕にとってはありがたいことで、
こちらの手はほとんどわずらわせず、
自分で心の癖に気づいたり、
みんなとの出会いの中で
自分の問題あるところは直していて、
とても良い事例だと思います。

心の垢ということについては、
問題がなくても垢を掘り起こすように探すということだと、
人によってはちょっと問題なのかなと思うんですけれど、
今の発言からすると、けいこちゃんは、
どちらかというと積極的に
そういうことをやっていきたいほうだと思います。

ケアをスタートしてから1カ月が経って、
両親と面談をした時に、彼女の希望の中で
病気になってしまった自分を見て、
そういったことを自分にもたらした癖を
しっかりとコントロールできる自分になりたい。
病気はもう治ったし、
また自分が病気に戻ることはないと思う。
そういう実感はしています、
と語ってくれました。

僕はいつもケア担当者として、
ケアの人たちを預かる立場にいるんだけれど、
ここまでの意識を言ってくれる人は、
本当の意味で卒業段階にきていると思います。
その状態になって、
ここでの完治ということになるんですよね。

中には、お医者さんに行かなくてもいい、
薬に頼らなくてもいい(病気については完治)という状態で、
敢えて卒業させる人もいます。
それは、ケアプログラムに依存していて、
自分の意思で次の段階に
進んでいくことができない状態でいる人です。
そういった人は、心の学びとしては
60点くらいの段階で元の生活に戻ってもらって、
違った意味でのプレッシャーを感じてもらい、
自分の意思で人生を築きあげてもらう
チャンスを持ってもらうようにしています。

けれど、もっと良いことは、
けいこちゃんのような取り組みをして、
自分にしっかりとした実感を持ってもらい、
心の免疫力をつけて
卒業していくことが大切だと思います。

ファミリーに滞在すると、
体の免疫力は確実につけることができます。
それと同じように、自分の心の癖を見て、
それをしっかりと理解して、個性として活かし、
自己コントロールまでマスターしてもらったら、
必ず良い人生が来ると思います。
それが心の免疫力で、
心と体の免疫力の両方をつけるというのが、
一番いいことです。


自信を持って生きるには?

今回は、「いさどん人生読本(仮題)」第2弾の質問、
「どうやったら、自信を持って
生きていけるようになりますか?」に、
いさどんが答えます。
生原稿をどうぞお楽しみください!
皆さんからの感想もお待ちしておりますね。

「どうやったら、
自信をもって生きていけるようになりますか?」
ということは、
未来に不安のある人の質問である。
いつも何か自分の将来が約束されている、
というような安心を持っていたい人の質問。

この質問を受けると、
こちらに「自信をもって生きていく」という
概念がないから、
どうやって答えたらいいのだろうとまず考える。

未来に対して信頼や自信を持つ必要がある人というのは、
心の病気を持つ人、
病気まで至らなくても、
心が落ち込んで日々の生活が十分に歩めない人。
そういう人に、
「大丈夫だからね、行ってごらん」というように、
ある程度の自信を持たせることは必要である。
けれど、それだって最終的には、
これで大丈夫という人生の保証はできない。

この「自信」という文字は、
自分を信ずるということ。
でも、自分を信ずるという心に対して、
信心の心というのは、自分ではなく、
自分では捉えられないもの、
運命やこの世界の仕組みを信じるということ。

例えば、全く信仰心がない人でも、
本当に困った時には
「神様!」と言ってしまうことがあるように、
誰の中にも、
自分以外のものが自分を存在させていたり、
究極の窮地に陥った時に自分を救ってくれる、
そういうことを信じたいという心がある。
それを信じているか信じていないかは別にしても。

自分が強くある人には、
自分自身の考え方、やり方で
未来を生きていこうとする。
自分の描いた未来に対して、
思うようにならない現実が自分に来た時に、
思うようにしたいという心が働き、
いつも来る未来が
自分の思うようになっていくことで安心とする。
すべて自分の思うように未来が来ることによって、
自分自身を信じられるのだから、
それが自分を信ずるという自信になる。

けれど、この自信というものが、
自分の思うように未来が来るところから
生まれるということをよく検証してみると、
やはり事が成る時には、自分の努力や、
すべてそれにふさわしいことを
自分が行った結果で成ると捉える。
しかし、
努力で全部結果が成るのかというと、
それだけで、この世界は成り立っているわけではない。
流れとか、運命、縁とか、
そういったものが織り重なって、
未来が自分の所へ訪れてくる。

この世界は鏡であるということ。
自分がこの世界の出来事と出会う時に、
自分の中に種を持っていて、その種を播く。
種というのは、想いである。
想いがこの世界をつくっている。
想いに基づいて、人は行動する。
その行動に基づいて、想いがうまれる。
さらに行動する。

自分はこの世界を鏡として、
自分自身を見ている。
だから、決して、この世界で起きることを、
自分以外のものから来て、
自分がそれを他人のせいにしてはいけないという結論にいく。

神社に行って神様の所に会いにいくと、
そこには鏡があって自分を見なければならない。
御神体が鏡ということは、
この世界全体が私たちにとって
鏡として与えられているということ。
だから、忠実に自分を見れば、
鏡としてこの世界を神様から与えられている。

自信というのは、
そういった自分を取り巻くすべてのもの、
この世界の仕組みを理解して、
それがマスターできた時に、
ああいうふうになってほしい、
こういうふうになってほしいという心ではなくて、
人生をいただく心から生まれるもの。
いただくということは、
常に新しいものを自分の中に取り入れるのだから、
自分を壊して枠を広げていく。
自分を壊して新しいものを取り入れる、
それこそが成長である。
そうすると、その仕組みがわかれば、
未来から来るものに悪いものはなく、
ただ安心して、
自信を持って生きられるようになる。

しかし、明らかにこの質問をしている人は、
自分に都合のいいような未来が起きて、
それでもって
自信を持って生きていけるコツを聞いている。
だけど、そんなコツはない。
自分の思うようにではなくて、
自分が発したものが
どういうふうに返ってくるのかという仕組みを知って、
自分がそれをコントロールできるということ。
だから、自分がこういった癖や種を播いたから、
こういうふうに返ってくるという仕組みがわかると、
コントロールして種を播かないようになる。

その仕組みがわかると、未来に対して、
「この種を播くと、どういう答えをもらうんだろう」と
その答えを自分が見てみたいという希望が湧いてくる。
そういった希望や仕組みを理解することによって安心する。
仕組みがわかることによって、
未来の答えがある程度想定できると、
自己コントロールできるから、自信が湧いてくる。

この場合、自信という言葉にあるような、
自分に都合のいいように信ずる、
ということではなくて、
何でもいただいていく想いになった時に、
強い自分、非常にたくましい自分がいて、
その自分を信じられる。

自分に都合のいい答えが返ってくることを期待しながら、
そういう上で自信を持っていくという
安心の場所をもらった人の自信ではなく、
何であってもしっかりと受け取って、
それを自分の学びにしていくという自分を持った時に、
強い自分を持つ安心からくる自信、
それで安定した人生を送ることができる。

私たちは、日々生きていると
いろいろなことに出会います。
その出会いは、
どんな仕組みで起きてくるのでしょうか。
多くの人が、
出来事は偶然起きているように思っています。
また、人によっては、問題事に出会うと、
その出来事と一緒に出会った人のせいにしたり、
運が悪かったと考えてしまう人もいます。
しかし、そういった物事の捉え方は、
自己中心的で偏ったものの見方からくるものです。


人生は宇宙の中の芸術

いさどん:

みんなで生活していることを
意識していると同時に、
ひとりで生きていることにも
気づいていればいいんだよ。

みんなが平等な場所、
誰もがブッダである場所を
つくりましょうとなったら、
実際この世界は、
誰もが大切な存在として生きている。
でも、その解釈が人によって
ちょっと違っているのかもしれないね。

それぞれが自由意思を持っているでしょ。
皆、それぞれ自分を大事にしたいと思っている。
だから、外が原因でも自分自身が原因であっても
自分の思いどおりにならないことが続いていくと
人は自暴自棄になる。
そして、そういう場所を
どうしても自分の側から見た都合でしか評価できなくなり、
良くない場所としてしまう。
こんな風に自分の希望を叶えることを優先して、
みんなで生活していることを
意識できていない人が現れてくると、
そこはみんながご機嫌な場所ではなくなる。

この世界は、どうできているのだろう。
自然を見ると、小さい虫がいて、
それを食べる虫は
そのいのちを犠牲にして
自分のいのちをつないでいる。
それは、一方的な搾取に見える。
そして、この世界には序列もある。
序列があるのだけれど、
弱いものは何をもって
強いものに対抗しているかというと、
数や擬態などそれぞれの特技を持って、
種が成り立つようにできている。

人間の世界では一律同じようにと考えるけれど、
自然界では全部一律ということはない。
つまり、序列(多様性)があることによって、
もうひとつ大きなものをつくる役割を果たしている。
自然の中では、自分の位置に対して、
他のものと比べたり、羨ましく思うようなことはない。

ミツバチの世界では、
働きバチと雄バチと女王バチがいて、
全然違う働きをするのに、
完成された調和の社会を創り、
もうひとつ大きな一群という生命を成り立たせている。
それと同じ仕組みを考えたら、
自分の立ち位置をしっかりこなしていくことが、
そこで構成されている
もうひとつ大きな組織をつくることであり、
その組織全体がブッダになることである。
それが広がっていくと、
世の中が調和的理想になっていく。
そのこと自体、その中にいる一人ひとりが
序列はあっても全員がブッダだということになる。

そう考えられたら、
「自分が」という位置を求めなくてもいい。
全体として自分たちが
「~ができているね」というところにいく、
そういう精神性が求められている。

一人ひとりの質を高めることはもちろんだけれど、
一人ひとりの能力の違いを個性として見れば、
足らない部分は他の人が補えばいい。
みんなのためにやれることを、
自分のやれることとしてやっていけばいい。
個人も全体もそういう考えになると、
初めてもうひとつ大きな機能、
もうひとつの生命がそこにできて、
それが自然の仕組みと同じように、
ルールのない芸術的な調和となっていく。

ようこ:

「皆がひとりのブッダ」として
意識していければいいんだよね。
「自分が」ということばかり観るのではなくて。

いさどん:

そう。ティク・ナット・ハンの言葉、
「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。
次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。
それは他者を理解しようと努め、
互いを慈しむ優しさを持ち、
大事なことを常に意識しながら、
人々が暮らすコミュニティである。
これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、
最も大事なことではないだろうか」であったり、
僕がお釈迦様からいただいた、
「これからの時代は、組織をつくるのではないぞ。
人々が集え。集って語り合え。
語り合う中から、
真実がうまれる時代であるぞ」
ということ。

一律に皆が同じ人になる。
皆がいさどんを一つのモデルにして、
皆がいさどんになることじゃないよね。
いさどんはいさどんで独特で、
誰も真似できないような個性があるのだから。
それだけを良しとして、
一つの見本として掲げるとしたら、
それは間違いで、
第一、いさどんばかりいたら気持ち悪い。

そこのところが、
皆の中でよく理解されていそうで、
実はされていないところもある。

私たちは、
皆で暮らしていることを意識しながら、
一人で暮らしていることを意識しないといけない。
私たちはパーツであり、パーツが集まって、
全体をつくっていることを意識すること。
それが今私たちの中でテーマになっている。
このテーマは永遠に続くのかもしれない。
両方が同時に成立する世界を
いただいているわけだから。

僕が、お釈迦様の思考は
どこから働き出したんだろうって考えた時に、
出てきたことは、「己と宇宙」。
大きさの違いはあるけれど、
己と宇宙は同等のものなんだ。
己は宇宙に対してすごく小さなものだけれど、
己があるからこそ、この世界を認識できる。
宇宙だけだったら、認識も何もない。
己があって初めて、
宇宙というものと対面でき、
己を認識しながら、
宇宙を認識していく。
そういう世界だからね。

常にそれは同時に成り立っている。
そうすると、
己と木の花という世界を認識した時に、
自分を入れている器を通して見ることによって
葛藤する人がいるとする。
そこではどちらも自分であって、
大きなものをつくっているのも、
小さい自分も
自分自身だということに気づいたら、
どちらの役にも立てる。
葛藤する必要がなくなる。

この世界に当てはめてみても、
世のため人のために、
そして個人的にも、
良い人生を送ろうとすることも同じ仕組みである。
自分がいて家族がいて、
自分がいてこの社会があって、
自分がいてこの国があって、
自分がいて人類があって地球があること。
それはすべて、同じことである。

僕が強く思うのは、
どう考えても自然の仕組みがモデルだと。
自然と人間社会というのは、
「自然と人工」と表現されるように、
違うもののように思えるかもしれないけれど、
そこに流れている基本的なものは、調和。
ひとつひとつが存在しながら、
他を活かすリズム、利他の仕組み、
そういう根本的な仕組みがそこにはある。
自然には法律がないのに、美しく流れている。
その流れは芸術のように美しい。
海の中の生物の世界や、
土の中の微生物の世界など
いたる所に表現されているように。
すべての自然に美しく表現されている。

人間は、そういったものの先頭を行っている。
先頭だから全部をマスターしているのかといったら、
学びながら歩んでいる立場でもある。
自然の奥にある芸術、
それを音楽や美術、宗教として、
人間は取り出すこともできる。
自然の奥にある、心、メッセージ、
その表現を観ることのできる能力を、
人間には与えられている。

私たちは今、
「木の花」という
生きた芸術を創りだそうとしているんだよね。
最近、僕がよくプレゼンテーションで語るのは、
宇宙の総意で創られた地球は芸術であって、
私たちは宇宙の芸術を仕上げるために、
現地スタッフとして派遣されている。
身近なことでいえば、自分自身や
自分の家族を仕上げることを任されている。

ようこ:

そうそう。
私も大人会議は、
皆でつくる芸術作品だなと思っているんだ。

いさどん:

スタンスで言えば、
大きな芸術を創る時と、
今日一日の芸術を創る時がある。
理想は、今日一日の芸術を創りながら、
それが1カ月の芸術、
1年の芸術というふうに
大きな芸術になればいいよね。
そして、一生かかってできるものもある。

常に、そういう仕組みの中で
役割を担っているんだと気づいていれば、
今日一日で答えが出なくても、
自分がちょっと落ち込んでいても、
それはそれでいいということ。
今日の滞りは、
もっと大きなことにつながるのだから、
一生かかって完成するものの一部を
今日やったと思えば、
できなかったと思う必要もない。

ひとつの人生物語は、
一日で完成することもあれば、
一生かけて完成するものでもあって、
さらに、何度も生まれ変わって完成するような
大きなものもある。
そして、宇宙全体が芸術であり、
一つの物語でもある。