いさどん:
僕が30歳でお釈迦様から
道をいただくようになって1年ぐらいした頃に、
「1000日の業をいたせ」という言葉をいただいた。
結果は3年間毎日瞑想をした。
毎日の瞑想は、そんなに長いものではない。
大体時間にしたら15分くらいの瞑想を、
必ず1日に1回はする、ということだった。
普通の生活をしていて、
仕事以外にもいろんなことがあると、
必ずということは結構大変だった。
当時、僕は建築現場で仕事をすることの多い
内装業をしていたので、
期日の限られている仕事だと、
場合によっては徹夜で現場にいることもあった。
そうすると、
その日のうちに瞑想をしなければいけないとなると、
ほこりだらけの現場で人がいっぱいいて、
場合によっては騒々しいところであっても、
場所を選ばずに瞑想することもあった。
自分は変わった人ということで理解されていたので、
それは別に問題なくやれた覚えがある。
毎日必ずというのは大変ではあったが、
3年間1日も欠かしたことがなかった。
15年半、皆で必ずミーティングをするのと同じように。
次の日に行くために絶対にしなければいけない、
関所みたいなものであるから、
それができたことを覚えている。
僕の場合、瞑想するというのは、
目を半開きにした状態で、周りの景色は見えている。
見えているけれど、それに影響されない。
音にも感覚的にも影響されない状態を指している。
それで、1年くらい経った頃に、
自分が自分の体から抜け出して、
自分を外から見るような現象が起きた。
僕の家には瞑想をしたり、
訪れる人たちに話をする部屋があって、
その部屋の西側に出窓が付いている。
その出窓に飾り物を置いたり、
もらった仏像を置いたり、
神社巡りをしていた頃には
そこに神棚を置いたりしていた。
その窓は、西の窓だから、
聖地インドを心にイメージして、
そこに向かって瞑想をしていた。
出窓の下の壁が自分の目線の位置にあり、
壁の模様が目線に入ってくる。
それをずっと眺めていると、
自分の座っている所の反対側の天井の角から
瞑想をしている自分の後ろ姿を見る、
ということがあった。
非常に心地よく瞑想に入ると、
1時間とか、長い時には2時間くらい
瞑想していることもあった。
ある時いつものように瞑想を行っていた。
すると、いきなり自分が体から抜け出して、
上に向かって上がっていく。
それも瞬間的に、
ロケットで打ち上げられたような感じで
上がっていくのを感じて、
そのまま宇宙空間まで出てしまった。
そこで月を背にして、地球を見るという体験をした。
そういうことがたびたび起きるようになった。
そういった瞑想中の体験のひとつとして、
八番目の聖者という物語がある。
僕が宇宙空間へ出て地球を見て帰ってくるという経験と、
八番目の聖者の物語は、
ちょうど同じくらいの時期じゃないかと思う。
その日も、自宅のお話し部屋で瞑想をしていた。
時間は8時頃だったと思う。
部屋の電気をほとんど消して、
ほとんどと言うのは、
僕の住んでいた家は1階が店舗になっていて、
2階が住居、隣はパチンコ屋さんになっていた。
隣と言うのは西隣。
だから、僕がいつも聖地インドに向いて瞑想すると、
出窓からは隣のパチンコ屋さんの
巨大な雷のネオン看板がそこに見える。
さらに、道路を挟んで北西にも
パチンコ屋さんがあるという環境だったので
電気を消しても
窓からパチンコ屋さんのネオンの光が入ってきて、
真っ暗になるようなことはない。
パチンコ屋さんの店内の音楽も聞こえるから、
決して静かな場所ではない。
そんな所で瞑想していた覚えがある。
距離にして看板まで50m、
向こうに見える看板の右あたりに、
小さな何か、ちょっと判断できないものが見えた。
何だろうと思って、ずっと眺めていたら、
徐々に徐々に近づいてきた。
それがだんだんだんだん大きくなってきて、
やがて出窓いっぱいの大きさになって自分の前に現れた。
私の前に現れたのは、七人の男性。
姿はほとんど同じ。でもひとりひとり違う。
違うのに姿はほとんど同じ。
どういう姿をしていたかというと、
腰に白い布を巻きつけて、
今の人でいうトランクスくらいの大きさの布を巻きつけて、
上半身は裸。
髪の毛は長く伸びて、髭も生えっぱなし。
僕の受けたイメージでは、
キリストが十字架に架けられた時の姿。
どの人も同じような姿をしている。
でも、同じ人が七人立っているのではなくて、
全員違う。
違うのに同じ姿をしている。
出窓いっぱいにその人たちが現れて、
そこに立っている。
言葉はない。
何だろう、誰だろうと思って観てみたら、
七人の真ん中にイエス・キリスト様が立っていた。
そして、一番右端にお釈迦様、ブッダが立っていた。
僕の中にすごく違和感があった。
自分の師であり、一番大切にしているお釈迦様が、
何で真ん中じゃないんだろう、と。
自分に近いものを尊いとしたがる心があったのか、
何でお釈迦様が
真ん中に立っていないのだろうと思った。
その二人だけはわかった。
あとは、誰がどの人かというのはわからない。
のちに振り返ってその人々が誰かといったら、
孟子様、孔子様、そしてソクラテス様、
それからイエス様、お釈迦様、ムハンマド様。
そして、もうひとりがアマテラスオオミカミ様。
僕は、アマテラスオオミカミという方は、
地上を生きた人ではないと思っていた。
以前、何かの神話の研究書を読んだ時に、
アマテラスオオミカミは実存の人間であったという記述があり、
そういう記述を見たこともあって違和感なく受け取れた。
その映像を瞑想状態で眺めていて、
この七人の聖者が自分の前に何のために現れたのか、
それは何を意味しているんだろうと思っていた。
言葉は一切ない。メッセージが全体から出ている。
そのメッセージは、すごく大きなメッセージだった。
「道はひとつ、心はひとつ」
この世界にはこういった聖者を通して、
沢山の道が降ろされている。
その道ひとつひとつは、
すべて同じところが源泉となって降ろされている。
そして、その源泉とは心から来ている。
つまり、沢山の道、それはひとつの心に通じている。
そして、そこから生まれている。
そういった波動がそこの全体から出ていた。
それをずっと眺めていた。
七人の聖者の真ん中にイエス様がいる。
そして、一番左側が空いている。
つまり、中心がイエス様ではなくて、
右へちょっとずれていたんだ。
左側がひとつぽこっと席が空いている。
僕が「一番左に空いている場所があるんですけれど、
そこは何で空いているんですか」と問うてみた。
「そこにそなたが立てばよい」という言葉が返ってきた。
それには、瞑想していた自分が強烈に反応して、
「とんでもありません。
日頃身近に感じている聖者や、
身近に知らない聖者、
でもどの方も尊いことはよくわかっています。
そんな尊い存在が並んでいるその場所に、
私のようなものが立てるわけがありません」
と言った。
でも心の中では、
そういったことがあるのかもしれない、
と思いながら涙した。
当時は、
そういった自分の中に起きる不思議な体験を疑って、
自分の中の精神異常からくる
幻覚というふうに見ている所もあった。
しかし、今こうして話せるように、
どのことも記憶の中に強く残っている。
しかし同時に、強く残っていながら、
それを否定する心もあって、
「とんでもない」という強く反応する心があった。
それは疑うというよりも、
そんな自分のようなものがというへりくだりの心だった。
常に自分にはそういう所があった。
そういう心を持つたびに、
「傲慢になってはいけないぞ。
けれど、へりくだるのもいけないぞ。
自分にふさわしい心の位置で受け止めろ」、
いつもそうやって言われてきた。
どうしても言葉を発する時に、
傲慢にならないようにそういった心配りはしてきても、
自分の中にそうやって出てしまうこともあれば、
自分のようなものが、
そのいただく言葉や役割によっては
へりくだりすぎてしまうこともよくあった。
それを戒めながらやってきた。
そういったことに出会うたびに思うのは、
これはわからないことだから置いていこう、
いつかその答えが出る時が来るだろう、
だからそれ以上解釈しないでおこう、
というのが自分の常になっていた。
それが今から27年前頃の話だとしたら、
今から16年ほど前、
だから10年以上経ってからだよね。
1993年12月28日。
もう暮れも迫ってきた時に、
いつものように心磨きの仲間たち、
今木の花にいる人の中では、
じゅんじまん、のりちゃん、はるちゃんたちが、
夜になると集まってきて話をする。
その日は、いつもの話をする部屋ではなくて、
僕の寝室で皆が一緒にテレビを観ていた。
僕は、その一番後ろにあるベットに横になりながら、
皆の姿を後ろから見ている。
そのうち、僕は皆を眺めながら、
ベッドの上で蓮華座を組んで、
瞑想する姿勢で、でも瞑想しているわけでもない。
ただ、皆がテレビを見ている姿を眺めていた。
僕はメッセージをいただく時に、
上の方から、言葉が降ってくるような時がある。
それから、自分の中から想いが湧き出してくる時もある。
日常の現象から、受け取れることもある。
昇る朝日、沈む夕日、
他にもいろいろ月や星からも受け取ることがある。
それは全部、耳に聞こえるものではない。
私たちの意思疎通手段のことを、
神様や霊的な存在は肉の声って言われる。
肉を通して、伝わる声。
また、電話のことを心なきもの。
電話で話していると、霊的な世界の人たちは、
こちらの心が見えても、
電話の相手の心がそこにないものだから、
「心なきものと話しておるのか」と言われる。
私たちは、普通、耳で声を聞く。
それは心の中で想いが発生して、
それを人間の機能の中で脳が解析して、
声帯を振動させて、肉の振動にし、
空気中を伝わって、鼓膜に伝わり、
神経の中を電気信号となって、脳に伝わる。
脳の中に解析機能があって、
それを情報として人間は反応する。
それに対して、天から降ってくる言葉は、
脳に直接ふわっと降りてくる。
肉体的機能を全部省いた状態で降りてくる。
受ける人にわかるような言語や表現で降りてくる。
それは、受ける人とは明らかに人格が違うから、
自分の想いとは区別できる。
もうひとつの方法は、
気づきから伝えられるもの。
その場合は、丹田のあたりから湧き出してくる。
それは、自分の中にある神性、
神様のメッセージとして自分の中から湧き出してくる。
私たちひとりひとりは、
この世界が始まった時からここまで、
一度も途切れることなくつながって存在している。
惑星としての情報、生命としての情報が
すべて内在されている。
内なる神性は、そこから湧き出してくる。
もうひとつの通信手段は、自分の気づき。
ふっと脳の右側、時には左側、真ん中ではなく、
右斜め45度とか左斜め45度の頭のあたりから、
気づきとして湧いてくる。
それは、自分の想いのように湧いてくる。
だから、それが自分の想いなのかメッセージなのか、
というのを判断できるようになるのに、
だいぶん時間がかかった。
自己満足の世界みたいに思って、
それを理解するのに
大変時間がかかったことを記憶している。
さらに、もうひとつ通信手段があって、
それは宅急便の小包として送り込まれてくる。
別名トトロの贈り物と僕が勝手に名付けた。
突然自分の脳の中に小さい小包がポンと送られる時がある。
その時も、皆がテレビを見ている景色を
軽い瞑想気分で眺めていたら、
上からポンと小包が落ちてきた。
それは今から考えると、
メイが夢の中でトトロから
どんぐりの贈り物をもらうような感じ。
そこで、僕が皆に向かって、
「ちょっと、ちょっと、皆。天から小包が届いたよ。
それを今から開けて、皆に話そうと思うから」
と声をかけた。
皆はテレビを消して、僕の方を見た。
僕は小包を開けて話し始めた。
「年が明けると、新しい旅の始まりであるぞ。
それはここにいるみなが生きるための、
新しい始まりである。
そして、世の中の新しい旅の始まりでもあるぞ」と。
毎年、年が明けるちょっと前や
年が明けてすぐに(1月2日にあるのが多い)、
今年の指針という映像とか言葉がいつも降りてくる。
その年は、12月28日に小包が届いて、
いつもの新たな年を迎えてというメッセージのようだった。
それは、私たちにとっても、世の中にとっても、
新しい時代が始まるというメッセージだった。
小包の包装紙を開けていくと、
先のような言葉が最初に出てきたから、
皆に伝え、さらに続く言葉があった。
その言葉は、
「尊きものを見つけ、そこに行き、
救われることよりも、自らが尊きものとなって、
他を救えるようなものになれ。
これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」
という言葉だった。
そして、僕はその言葉の解説を始めた。
「新しい年が始まる。
そして、私たちは新しい年に新しい生活を、
今まで別々に暮らしていたものが縁をいただいて、
血縁を超えて一緒に暮らす、約束の生活が始まる。
世の中を見ると、
優れているもの、優れている国家、
そういったものが世の中を支配している。
特に宗教の世界に象徴されるように、
今までは優れているものが現れて、
求めるものに道を説く。
場合によっては、
それが優れているものたちの飯の種になったりして、
結果、優れているはずのものたちが
優れていないものになってしまうような、
そういった世の中の状態である。
これから始まる、
私たちが歩もうとしている旅は、
区別のない世界。皆が尊い世界。
そういった世の中になるための始まりであるぞ。
人々は、自分に何か問題があっても学ぼうとせず、
学んで尊いものになろうとせず、
尊いものを見つけてそこに行き、
救って下さい、解決して下さいと
亡者として生きている。
こういった時代は、終わりになるのであるぞ。
これからは、ひとりひとりが主役の時代であるぞ。
ひとりびとりがブッダとして、
キリストとして生きていく時代であるぞ。
誰もが尊い平等な社会が来るんであるぞ」
と示されて、
「新しい年は、新たな時代の幕開けである」と言われた。
それは、私たちが富士山麓に出発する前の年の、
12月28日のことだった。
そして、それから15年半歩んできて、
最近、その七人の聖者が現れた話を誰かにしたんだよね。
「八番目の場所に席が空いている。
そこにそなたが立て」と言われた。
今立て、ということではなくて、
いずれそこに立てるようなものになれ、
というふうに言われた記憶もある。
「とんでもありません」って、
僕はそのままそれを封印して、
わからないことは必ず先に行けばわかるとして、
そのままにしてきた。
こういう話はとてもおこがましいというか、
僕はどちらかというとへりくだる所があって、
あまり人に語ってこなかった。
今年になってそれを語る機会があって、
その時に気づいたことがある。
ああ、あの話とあの話はつながっている。
つまり、八番目に立つ聖者が、
その七人の聖者のようにひとりひとりじゃないんだと。
それは、1993年12月28日に小包でいただいた言葉、
「尊きものを見つけて、
そこに行き、救われることよりも、
自らが尊きものとなって、
他を救えるものとなれ。
これからは、ひとりびとりが
イエスやブッダであるぞ」
その言葉につながっている。
お釈迦様が、
「ガンジスの川の砂のごとく衆生はおる。
そのすべてに仏性あり」と言われた。
「どんな人間の中にも、仏になる種が入っておるぞ」
というふうに言われた。
それはよくあるお釈迦様の言葉として、
世の中にもそれを知っている人は沢山いると思う。
しかし、僕にお釈迦様は、そのあとの言葉を言われた。
「ただし、その道を歩んだものにだけな」と。
「すべてのものの中に真実の種があり、
すべてのものに悟りへ行く道があるんだけれど、
その道を歩まないものにはないぞ」と言われた。
そして、
「これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」
ひとりびとりが自分の中にある、
宇宙の中心からくる神性、真理の種を開花させて、
自分の中から光を外にほとばしらせる。
そして、人に救われることばかりのもの、
亡者として生きるのではなく、
自分の中から光を出して他を救えるようなものになる。
自分で自分を救えるもの。
それが連鎖していけば、誰も救われる必要がない。
ひとりひとりが目覚めて、
キリストとしてブッダとして人々があったならば、
この世界は救うものも救われるものもなく、
それこそが理想の世界。地上天国になる。
僕は、この世界を救うものとして、
この世界に派遣されるような立派なものではない。
この世界を救うようなもの、
イエスやブッダや他の聖者のような立場に立てるのだろうか。
僕の中から、
そんなおこがましいと自分をへりくだる心が湧いてきて、
どうもしっくりいかない。
それをずっと考えてきた。
富士山の頂上で、
「その心、これからは、
日の本の国全体に説くがよい」と言われた時も、
「そんな、私にそんな大それたことができるわけがありません。
私にどうして、そんな能力がありましょうか」と、
そうやって言われるたびに、
ずっとその言葉を否定してきた。
でも、最近になって思うのは、
人間いさどんがひとりでそれをすることはできない。
けれど、このいただいた心を
自分の隣の人に伝えることはできる。
ちょうど、自然の仕組みが利他であるように、
自然は自らが存在することによって、
自分が関わる両隣のために生きている。
その仕組みが、いのちの仕組みとして、
この世界すべてをつなげている。
それが、いのちの仕組みであり、
神様がこの世界をそれで治めておられる。
そして、この尊い仕組み、
尊い心を自分が今もっている。
それを両隣の人に伝えることができる。
そして、この精神、想いは、人と人、
いのちといのちのつながり、
ネットワークにひとたび解き放たれれば、
それが連鎖して、この世界にすべて行き渡る。
そうなった時に、この世界が理想の世界になる。
「その心を日の本の国全体に説け」と言われたこと。
そして、「尊きものを見つけ、
そこに行き、救われることよりも」
という言葉からくる、
ひとりびとりがイエスやブッダ、
すべての衆生に仏性がある、ということ。
それは、この宇宙のもとにある一番のエッセンス。
その心にひとりひとりがなれる。
そうして、八番目の聖者というのは、
ひとりの人間ではなく、
すべての人々の中にある仏性、神としての心。
宇宙の根源から分かれてきて今がある。
それを思い出した時に、
すべての人の中に八番目の聖者たる資格がある。
それに皆が目覚める時代、それが今の時代。
自分も八番目の聖者だけれど、
すべての人が八番目の聖者である。
そういう時代が幕を開けようとしている。
そういう時代がこれからの時代なんだ、
ということがわかってきた。
その見本とする生活が今ここにある。
ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンが言った言葉、
「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。
次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。
それは他者を理解しようと努め、
互いを慈しむ優しさを持ち、
大事なことを常に意識しながら、
人々が暮らすコミュニティである。
これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、
最も大切なことではないだろうか」
という言葉にもつながる。
僕は、瞑想の時代にお釈迦様に問うた。
「こうやって私もいつか人々の心の問題に答えながら、
人々が集まり、組織ができ、
新興宗教の教祖のようになるのでしょうか。」
そうしたら、お釈迦さまが言葉を返されて、
「これからの時代、組織をつくるのではないぞ。
人々が集え。集い語り合え。
語り合う中から真理が生まれる時代である。
そういった中から世は開かれる」と言われた。
「そのひとりひとりはすべて今の仲間、
そして地球にいる仲間たち」、
そこに気づくことができた。
今日は七人の聖者の話。
そこから八番目の聖者として、
これからの時代を生きていく人間ひとりひとりにつながる。
その八番目の聖者に皆が目覚める。
尊いものというのは、すべての人であるという話でした。
ようこ:
いさどん、ちょっと待ってて。
今あいちゃんから借りて読んでいる日記の1ページ目に
こういう文があるの。
「もう一度考え直そう人と地球の付き合い方
Earth of Humanism
道はひとつ心はひとつ
世に悪なるものは全てなし
正さねばならぬのは悪心のみである」
いさどん:
この日付は、1994年3月1日。
3月21日に富士山麓に来たから、来る直前の言葉だね。
ようこ:
これは、ひとりひとりが尊いものとなれるという
同じメッセージだね。
いさどん:
私たちは一見、ひとりひとりで生きているように
思ってしまいがちだけど、
この世界はいのちのつながりの中にあって、
どんなものもその中に含まれている。
つながるということは、善意、愛、調和である。
ひとりだけで生きていると思えば、
利己的になってしまいがちだけど、
利己的に生きると、
悪意、孤独、不調和、対立が表われて、
善意、愛、調和に促される。
そういった見えない仕組みに導かれて、
私たちは生きていることに気づいていくことが、
この世界の奥にある精神に目覚め、
ひとりひとりが尊きものとして
生きていけるということになる。
(了)