ようこ:
木の花ファミリーメンバーの中には、耳が聞こえづらい、こまねちというメンバーがいます。今日は、いわゆる障害者、障害をもって生まれてくる魂について、いさどんに聞いてみたいと思います。
いさどん:
障害があるということは、普通の見方をすると、障害がある方に目がいってしまうのだけれど、障害があることに目的があるのではなく、障害があることの意味に目的がある。いわゆる健常者と呼ばれる人は、五感というものとそれをとりまとめる意識の6つの機能を持って生きている。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、そしてその五感で感じたことを意識が束ねて、いろんな反応をする。それが人間の機能。
それで人間は、すべてのものを理解できるわけではなくて、肉の目、肉の耳、肉の鼻、肉の口、肉の形、それを意識という見えないものが情報をもらって動くのだけれど、それですべてが見えるかというとなかなかそうはいかない。この世界というのは、五感という物理的なものを理解するセンサー、意識という見えないものがコントロールしているわけだから、そうやって考えると、物理的なこの世界の中にいて、物理的なものがあることの意味、それを感じとらないと、この世界で人と人が意識を交わしたり、会話したりすることはできないんだよね。つまり、言葉を聞いているのではなく、心を聞いている。
我々は、形のいろんな出来事に出会うけれど、その形が起きたときに、それは形が起きる結果であって、そこには形の起きる原因があって、その原因をわかることによって、形が起きている意味を受けとることができる。もっというと、形が起きるということは、原因があって形が起きている連続、つまり因果の法則に基づいてこの世界はある。
もうひとつは、その因果という原因と結果の連続の結果、その因果がなぜ起きているのか、という目的と、原因があって結果があった結果、そこには場、その場所の醸し出す雰囲気、その場作りの目的もあって、この世界がある。
ただ、因果というだけの法則によって、この世界ができているのではなくて、因果が続いていくことによって、そこにその場をもたらしてこの世界が動いている目的、がそこにできている。
だから例えば、木の花ファミリーという生活が今ここにあるとする。そうすると、それは原因と結果の羅列だから、こういった生活をするためにみんなが出会った。出会って一緒に暮らしだした。だから、こういうふうな世界ができている。それは、こういった考え方を思った。なぜ思ったかというと、社会にいろんな問題事を感じた。感じたことの結果、それはこういう場所が必要だと思った。だから、こういう行動を取った。因果の羅列だよね。
それに対して、そこで暮らしている人たちが、「これが大事だ」と思ってやっていたとする。そうすると、「これが大事だ、ここは許さないぞ」という心をもっていたときに、そこは結構厳しい場所になった。ところが、こういったものが大事だと思っていても、厳しい場所ではなくて、つまりそこで大切だけれども、大切なんだからこそ、どういう大切か?つまり、そこに目的みたいなものがあって、ほんわかとしたやさしい場所、それが大切だと思っていれば、結果としてほんわかした場所ができる。そうではなくて、「これじゃないとだめ」という心をもっていると、そこは多様性のない非常に厳しい場所になる。
ということは、結果として、因果の結果、そこに目的があって、そしてその目的の結果、そこには因果が続いていても、場が違ってくる、ということがある。そこを考えないと、ただ因果の羅列といっても、いろんな方向に流れていく。その場がどんなものであるかということによって、そこで行われていることの意味がそれでわかることができる。
そうすると、そうやってこの世界を、我々が体のセンサーである五感をもって、意識が束ねて生きている。そして、因果の連続の結果、その人たちがもっている心を表わすという意味で場ができていく。そして、その場の雰囲気を感ずることによって、概ね、そこにいる人たちの目的がわかる。因果だけでは目的はわからない。そういう仕組みになっている。
そうすると、これを今度は、障害がある人に当てはめてみると、障害があるということは、物理的に何か機能的な問題があるとか、遺伝的なもの、後天的に生まれてから起きたもの、それからもっと言えば、魂的にまだ十分に育っていない人、そういういろんな原因があって、結果として、障害をもっているのだけれど、その障害の結果、何を伝えようとしているのか?ということに着目しないと、単に不自由な人、機能が十分でない人という、物の見方しかできなくなってしまう。
障害者と言われる人たちが、単に不自由ということが目的でそこにいるとは思えない。つまり、一般の人たちは十分な能力、機能をもっているのだけれど、それですべてのものが見えているのかというと、実は例えば、目に見えないことによって、目が見える人が見えないものが見えることがある。耳が聞こえないことによって、耳が聞こえる人が聞こえないものを聞くことができる。そういうことがあるということが大切。
それともうひとつ。耳が聞こえる人たちが、聞こえることを当たり前にしている。そのことに対して、聞こえないことの不自由さ、それから聞こえないからこそそれを補うという形での機能や、補って生きていくことの意味、聞こえないことの意味を健常者のために伝えること。十分な人たちが、そういった人と出会うことによって、今自分が与えられていることに対する満足、感謝、そういったことを得る機会にもなる。
それと、今は耳とか目の話になったんだけれど、例えば心の機能が十分に働かない人たち。心の機能が十分働かないということは、一般の人たちのように、あれがしたい、これがしたいと思ったり、また駆け引きができないということ。一般の人たちは、あれがしたい、これがしたいと欲をもつ、企む、駆け引きをする、そういった十分な機能をもつことによって、自分というものを汚すことができる。汚すことができるということは、結果問題事となって自分に返ってくるから、その痛みを知って、改めていかなければいけないんだけれど、こういった障害のある人たちは、駆け引きとか、そういったことができない。だから、きれいな心のままでいる。一般の人たちを人間と見るならば、もっと植物や動物に近い。それも、それは単に遅れているということではなくて、植物や動物はこの世界のしくみのまま、そこに欲や駆け引きの心をもたず、美しく生きている。魂の原点に近い美しい魂。そういうふうに見ることができる。
そこのところに、表面で見える障害に対して、その目的というものがいろんな形で隠されているということを見なくてはいけない。それは、障害があることによって、不自由と見える表面的なことと、不自由さからくるメッセージ、不自由であるがために本来見えないものが見える、聞こえないものが聞こえる、そこに価値があるということ。そうすると、障害者は何のためにいるのか、といったら、僕は障害者のためにいるんじゃなくて、健常者が健常者であることの大切さをまず理解するために、障害者がいるんだと思う。そして、心をもって自由に自分のわがままを表現できるために、人間は汚れているとしたら、そしてなかなか自分の汚れを取り去ることができないとしたならば、そういったものを取り去ったときの本当に純粋な美しさを表現するために、神様がそういった人たちを地球上におろしている、そういうことだと思っています。
そういう障害者の人たちと身近に過ごすことによって、僕らも学んでいく。そして、その障害があるということは個性であり、多様性の世界。いろんなものを認めていく世界。障害がある人も、そのことの意味を自分の中で十分に理解して、健常者のために自分たちはいるんだと誇りをもって共に生きていける。健常者は、自分が十分に与えられていることに気づいて、それに感謝して、不自由な人たちに愛をもってやさしい社会づくりをする。それが本当に来るべき、福祉が一般の中に溶け込んでしまった、福祉という言葉がなくなった社会。
だから、新しい時代は、もう一度人々がつながっていくこと。それは、血縁という家族だけがつながっていくのではなくて、血縁を超えても、人々がこうやって、もっと言えば血縁以上の関係をもって家族として暮らしていけること。そういった意味で、人々がつながって、より豊かな社会をつくっていくこと。だから、福祉施設をつくらなくても、こうやってたくさんの人が暮らし合うことによって、そこに機能がたくさん保たれる。例えば、子育て機能、教育機能、経済システムだとか、福祉機能だとか。エコビレッジ的に新しい生活スタイルをすることによって、いろんなことが同時に解決するヒントがここに隠されているというふうに、僕は考えている。
ようこ:
そう考えると、こまねちがファミリーにいることも豊かさの表れだし、あることもないことも、見えることも見えないことも、すべてありがたいなと思っていただいていけばいいってことですね。
いさどん:
そうですね。僕はこまねちがいることによって、ここに耳が聞こえない人がいると思ったときに、僕はどちらかというと、言葉がしっかり出る。伝えたい意思をしっかり持ってる。だから、歯切れよく語ることをするんだけれど、自分を十分にもっていない、だから言葉に力がない、歯切れが悪い人たちが語り出したときに、自分が聞こえるからそれでいいというふうに思っているところがある。だけれど、例えば、「言葉が十分出てこないから、それはいけないよ。意識をしっかりもって、しっかり伝えて、キャッチボールすることが大切だよ」ということを言葉を発しているひとに伝えると、人によっては圧力をかけられたような、自分ができてないことを求められているというふうに思ってしまう。でも、「あなたが十分に言葉を話さないことによって、こちらに聞くことができない人がいるんだよ」と間接的にその人の表現を伝えることによって、「そうか、人のために自分はしっかり話さないといけない、それがやさしさなんだ」とその人に伝えるもう一つの方法ができて、二つの方法で伝えることができる。これは、こまねち効果だな、というふうに思って、障害のある人がそこにいることの大切さを感じた。そういうことだよね。
この世界に起きている現象、出来事は、全部意味があって、ただ偶然に起きているのではない。全部つながって、つながりの中で意味があって起きている。そういう意味では、一つ一つの出来事の奥にある意味、そしてそのもっと奥にあるエッセンス、一番もとにある種。種には必ず目的があって、そしてその目的が現象を起こしている背景をつくって、これが現象になって、この世界という場ができている。
だから、障害者ということでもどんなことでもいいけど、ただ表面で物を見るのではなくて、その背景にある原因、それを起こしている原因、そしてそのもとにある目的、原因から結果にいたる目的、それの羅列でこの世界ができているとしたら、一番もとにある心。それがこの宇宙をつくっている神様の心、意思。それを知ると、我々は、表面に見える出来事のずっと奥にある深い意味を知り、この世界に自分たちが生きていることの大切さ、そして生きていることによって果たしていく役割を知ることができ、豊かな人生を送ることができる。
最後に。
障害者でいてくれてありがとう。障害を与えてくれてありがとう。そういうふうに、みんながすべてを神様の愛と受けとめ、感謝しながら生きていけるといいですね。
追記
こまねち:
同じように思っていたよ。ここまで体系的に言葉にはなっていなかったけれど。こういうふうになることを願って今まで生きてきた。障害が個性だっていうふうに思ったのは5年前。昔は、障害で思いつめて自殺を考えるほど絶望していた。あるとき、障害は個性だし、障害者こそ神様に近い感覚をもった。
そこで、一昨日の夜のりちゃんに、「耳が聞こえないことを所有してるんじゃないの?」というコメントをいただいた。そのときは、そうなのかなと思ったけれど、今思えば所有していたことに気づいた。所有していないということは、共有しているということ。だから、今ままでは大人会議でみんなの発言が聞こえなくても流していたけれど、今は「聞こえません」と言うことで、自分の障害をみんなと共有している。
自分の耳が聞こえづらいという側面から、みんなにも相手を配慮する心が育つようになったら、それが僕が障害をもって生まれてきた役割を果たしていることになる。それこそ、絶対善なる真円に近づくなって。だからそのように生きていく。