見えない人は、何を信じたらいいのですか? 〜 ある大学生のインタビュー

あきのちゃんは、広島の大学で国際関係について学んでいる学生です。もともと世界の貧困や格差の問題に関心があり、大学を休学してガーナでボランティア活動をしたり、インドや東南アジアの国々を旅していましたが、「それでは根本的な解決にならないことを感じて、こういう暮らしに興味を持った」と言います。そこで、エコビレッジを卒論のテーマとすることを考え、今年7月に初めて木の花ファミリーを訪れました。「すごくカルチャーショックを受けました。自分はエコビレッジという“形”を見ていたけれど、ここではそれ以上に“心”を大切にしていたから」。
当初は複数のエコビレッジを回ることを考えていましたが、「ここをじっくり見た方がいい」と感じて、現在、午前中はみんなと家事や農作業、午後はメンバーへのインタビューや執筆などの研究活動という形でファミリーに長期滞在をしています。
今日は、そのあきのちゃんによるいさどんへのインタビューをご紹介します。

*インタビューには、アナウンサーとしてテレビ局への就職が決まったばかりのゆきちゃんと、ファミリーメンバーのひとみちゃんも同席しました。
*あきのちゃん了承のもと、インタビュー全文をほぼそのまま掲載しています。臨場感あふれる生の声をお楽しみください。

農作業中のあきのちゃん
研究と畑仕事を両立中のあきのちゃん

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あきの:
今日聞きたいのは、「信じる」ということについてです。
いさどんは天からメッセージをもらったりとか、宇宙の法則が分かっちゃったりっていう霊的な体験をしていると思うんですけど、それができるのはほんの一部の人ですよね。私たちは頭で考えても分からないし、目で見ようとしても見えないものだから、結局は信じることしかないと思うんですよ。私もこういう精神の勉強をしていて、「そうなんだろうな」という感覚はあるので、疑うつもりはないんですけど、ただ、それが見えない人たちは何をもって信じればいいのかっていうことを聞いてみたいです。

いさどん:
見えない人たちが信じるためには、といっても、僕でもただむやみに湧いてきたことを信じているわけではないのよ。これは確実に科学することが大切であるし、その答えが出ることによって信じるっていうことが深まってくのね。
よく宗教なんかで「これは良いことだから信じなさい」と言われて「きっと良いことがあるんだ」って信じたりするでしょ。それは信じてるんじゃなくて、良い事を期待しているだけなのよ。それってギブ&テイクの信仰だから、御利益宗教になってしまうのね。「信じる」ってことの本当の意味は、信ずる心が起きる時に、信じられる何かに出会うってことなのかな。

それでね、僕がやってきたのは、まず最初は信じられないことに出会うわけ。天から言葉が降りて来たとか、光を見たとか、身体に何かが起きたとかいうようなことが起きるわけ。その時には信じられませんよ、そんなのは。信じられないってのは、その事を疑ってるってことではなくて、その起きたこと自体がなんなのかが分からないってことなのよ。
始めのころは、そういった分かんない事が起きたことに対して、僕は常に、それがあったことだけは事実だと捉えるわけ。例えば何か言葉が降りて来た。それは何だか分かんないし、もしかしたら自分は精神分裂のような病気かもしれない。そういう想いも持ちながら、でもそれがいったい何なのかを確認したい好奇心があって、その答えが出るまで待ってる。そして、いつか出るだろうと思っている。それは、この世界には目には見えない流れがあって、その流れを観ていくということなんだよ。

そうすると、現象を通して何かに出会う。人と出会うとか、ものと出会うとか。その時に「あっ、あの言葉はここにつながっている」とか「あっ、あれはこういうことだったんだ」というふうに、気付きにつながるのね。それを何回か繰り返していくと、そのうちに、あっ、と思う事があると「これは何かの前兆だね」っていうことになって、もうそこでは、それがどうなっていくかを待ってみましょうという心になる。そこで疑う心はなくなって、自然に信ずる心がおきているわけ。
それがどんどん進んでいくと、起きた事と結果が、法則化されてくるのね。「こういうことが起きたから、これはこうなる」というように、データとして積み重なっていく。それは、出来事を通してその奥にある流れを感じ、学んでいくということでもあるんだよ。

みんなは、信ずる心が強い人っていうのは、心がしっかりしていて明快に答えが出ているから、確信を持ってやっていると思うかもしれないけど、僕の場合はデータに基いて判断しているんですよ。
ここに、ケア滞在でうつ病とかアル中の人が来るじゃない。今まで何人もそういう人を見てきた中で、だいたい、この人はこういう傾向を持っている、この傾向とこの傾向がくっついてこうなっているっていうのが見えてくるんだよ。それで、そのデータに基づいて、このケースはこうしたらいいね、と判断し、伝える。それが的を射ていくと自信になるから、それが信ずる心につながるんだよね。

あきの:
じゃあそういう経験とか出会いが今までになかった人がそうするためには?

いさどん:
それは思考の問題で、例えば何かに出会うとそれは嫌な事だってまず否定的に見る癖の人がいるじゃない。あるいは何でも都合のいいように捉えていく人もいる。
何かに出会うってことは、必ず過去に何かがあって出会っていて、その出会いが原因となって次に何かを起こすもとになっている。そこで、今ここで見ている現象を自分はどんなふうに捉えているかをまず見るんだよ。これは嫌だとか、好きなことなら実際より良く見えているとか、色をつけて見るでしょ。そういう色付けをしないで、目の前の現象を客観的な情報として捉えていく。それがどう展開していくかは行ってみて判断すればいいのだから、ポジティブにとりすぎる必要も、ネガティブにとりすぎる必要もない。自分の心の癖もよくつかみながら、それをいかに冷静に、情報として観るかが大事なんだよ。

この間市川で『確固たる居場所』の上映会を主催してくれた人たちの中の一人が、「木の花は今、ある意味創設以来の危機にいます」って言うんだよね。そうとも言えるけどね、僕らの感覚だと、これは神様ごとなんだよ。
僕も生身の人間だから、目の前の事を見て、何とも感じないってことはないよね。そりゃ心も身体も反応する。事実疲れているから、危機といえば危機なんだけど、木の花ファミリーが始まった時から、我々は天から降りて来たことを実行していて、途中でいろいろ言われても、それは全部そこで必要なことだと信じてやってきたわけだよ。
ということは、僕のデータの中では、今危機に見えるような事も、実はチャンスなのね。つまり、次の事が生まれるチャンスなわけだ。そこでネガティブに反応したら、それは無駄なエネルギーじゃない。だからこそ、この顛末がどうなるか見せてもらいたいと思ってる。

僕の考えているこの世界の構造について話します。
人間って個があるでしょ。あなたも、あなたも、たくさんの個があるでしょう。個は自分の意識を持ってこの世界を見ている。そして、自分の考えで善し悪しを決めている。
ところが、実はそこに個を持っているからそうなっているだけで、実際の構造は個が巨大に集まって、大宇宙があって、そこから自分に近づいてきて、自分の身体になっているだけのこと。どこで区切るかによって、見えるものは変わってくるんだよ。

自分というものをどれだけ思い通りにできるかって言ったら、まず呼吸も、心臓も、コントロールできないでしょう。睡眠もコントロールできないでしょう。食欲も実はコントロールできないんですよ。ましてや排泄なんて、コントロールできないでしょう。
暑い時に汗を自分でコントロールできないでしょう。今はたくさん出せとか、かっこわるいから汗出ないでとか思っても、そうはいかないじゃない。そういうことを人工的にやると病気になっちゃう。命は自然の中にあるのだから、それは違いますよってことなのね。

われわれ人間は、この全体のシステムの掟の中で、自らの個性を活かすように役割をもらっているわけね。何かに出会った時に、自分というものの概念で「こうなってほしい」と思惑を持っても、結構はずれる。それよりも、何か出来事に出会ったら、この世界は、この出来事を通して私に何を求めているのか、この出来事を通して私に何を教えているのか、というふうに、僕は逆に観るわけ。
それで、その視点で世界をずーっと分析していくと、調和なんだよね。調和っていうのは絆がないと生まれない。植物でも動物でも空気でも太陽でも全部調和している。いろんなものがネットワークして、この生命世界をつくっている。宇宙の星と星の関係もそうなっている。
で、その絆とか調和っていうのは、愛というもので初めて成立するわけ。そこには、絆とか調和とか愛とか善意しかない。とすると、この世界は根本的に善意でできているということになる。

しかしこの世界には、被害妄想だったり対立があったり、悪意があるじゃない。それは何のためにあるのかといったら、愛を増幅させるためにあるのね。じゃない?つまり、辛いな、苦しいなと思って、それが越えられた時にすごく楽が待っているじゃない。でも楽ばっかりだったら、ちょっと楽があったって、なんだそれだけのことかってなるよね。
神様は、「私は光である。光の中で私の存在は見えないのだ。だからわざわざ闇をつくって、私が見えるようにした」と言うのね。そういうふうにできているのよ、この世界は。

あきの:
そういうのが見え始めたのは30歳の頃ですか?

いさどん:
ちょっと待って。それは見え始めたんじゃないんですよ。今、この世界と自分との関係を科学してったじゃない。
みんなは大きな世界を考えてないんだよ。つまり、自分が入れられている器(身体)がシステムとして機能しているっていう考えを持たないで、自分の側からものを見ているだけなのよ。損か得かとか、この部分は気に入ったとか気に入らないとか、これは忌まわしい出来事だとか美しいことだとかって、区切って心が反応しているのよ。
だけど実際の世界は、全てがつらなって一つの世界としてできていて、自分が反応している感情ですら、その中の一つの役割なんだよ。つまり、良いとか悪いとかっていう世界じゃなくて、それは情報とメッセージなんだよ。今、自分の目の前に何か出来事が起きているとしたら、それはこの世界の意志として提示されているわけだから、僕もそれが何であるかを観てみたいのよ。

何でかって言うとね。今起きていることが苦痛だとしよう。でもこの世界全体は、善意なのよ。善意なのに今苦痛が起きているとしたら、この苦痛の結果どんな善意が示されるのだろうと思う。そこに行きたいと思う。
普通の人は目の前に苦痛が現れると、苦痛が嫌だからって、その苦痛から逃げようとする。僕は苦痛は嫌だからこそ、その苦痛を理解しようとする。するとそこから学べて、その結果が何であるのかがわかると、それは善意だったんだってことになる。全てその延長なの。大きな苦痛がきたら、大きな喜びがある。

そう考えるのは、僕が信じる心が強いからだという事もいえるでしょ。だけど僕は、科学しているんだよね。このでっかい世界も、でっかいっていう形で区切っているし、もっとちっちゃく例えば太陽系の構造だとか、地球の生態系の構造だとか、国家のあり方とか家族のあり方とか自分の個人のあり方ってのを、科学している。そうやって今まで積み重なってきたものなんだよ。

あきの:
それは知識として何か本とかから入れているとか・・

いさどん:
ないです。本とかの知識は、湧き出してくるものの確認としてあったものです。

あきの:
やっぱりそれは自分の中から・・

いさどん:
湧き出してきたのです。もし、僕がこれを本に書いて出したとしよう。結構そういうのを求めている人はいると思うんだよ。だけどそれを読んだところで、それは知識にしかすぎないんだよね。知識はその人の本質を変えるものではない。着ている服のようなもので、着替えたら終わりなのよ。
その本質を変えるものは、智恵の湧き出し口を広くするってこと。我々の中に泉があって、そこから智恵が湧いてくるんだけど、それは無限に湧き出てくる。その無限の泉は誰にもあるんだけど、こんこんと湧き出してくる人もいれば、ちっとも湧かなくって詰まっている人もいるわけよ。

あきの:
なぜ詰まっているんですか?

いさどん:
詰まっているのはつまんないね。つまんないのに詰まってる。(笑)
それちょっと考えてみて。聞くばっかりじゃなくて。

あきの:
えー・・・私が思っていたのは、みんな詰まっているというか、みんな分からないんだと思っていたんですよ。

いさどん:
でも、結構分かりだしている人たちが増えている。
例えばね、分かんなくても、世の中のあり方をみて、「変だな」と思う心がある。なんとなく会社に行って働いて給料もらって家庭をつくって過ごしている。でも何か、会社や夫婦関係のストレスでぎくしゃくしたり、子どもも不安定になったり、その中で自分の気持ちもざわざわして、何か変だぞ、と思う心が湧いてくる時があるでしょ。
それは、僕は智恵が湧き出そうとする波紋なんじゃないかなと思う。そこでただイライラして喧嘩して終わりっていうんじゃあ、いつまでたっても泉は開かないよね。そこからその扱いをどうするかっていうところが、信じられる道に進む一歩かな。

あえて全部答えを言いたくないのは、やっぱ考えてもらいたいからだね。お釈迦様はこう言われた。「ガンジスの河の砂のごとく衆生はおる。」
衆生というのは人々のことだよ。そして、「そのすべてに仏性あり」と言われた。すべての人に智恵の泉、智恵の湧き出す仏になる要素があると言われた。
そこでお釈迦様の言葉は終わりなんだけど、僕にはその後、もう一言足して言われたのよ。「ただし、その道を生きた者にだけある」と。つまり、すべての者に仏性はあるんだけど、そこを開こうとする者、そこに向かって歩んでいった者にだけあるって言われた。

だから今あなたが言うように、今の時代の人たちはなかなかそれをしないのよ。これは「末法の世」といって、知識とか豊かさとかそういう事をいっぱい求めてできた時代ね。知識が豊富な時代だから、もうほとんど読み書きができないような人はいないでしょ。みんな賢くなったのね。
で、賢くなればなるほど人間っていうのは、自分というものが強くなるのよ。私の考え、好み、そういったものが優先されるようになるのね。だから、物理的には豊かな世界はつくったけど、結果として「私が」が強くなった。「私が」ばっかりだと「私が」「私が」ってぶつかりあうでしょう。
そして、人は多くいるのに、絆がない。絆がなければ愛がないから、本当の豊かさがないんだよね。お金があるのに豊かさがない。そういう世界をつくってしまったのね。
それは、自分が賢いと思うからよ。実際に、いろんな事を勉強して知っているから賢いんだよね。でも賢いということの良さと、賢いことの愚かさっていうのがある。

賢いだけではリスクがあって、自分が賢いと思った時に、「頂く心」がなくなる。自分は能力が高いと思っているから、自分で達成してやろうと思うわけ。これが他の生命とちがう、人間の特徴なのね。
それが強くなっていくと、自分で何でも納得しよう、獲得しようと思うわけ。競争してでも勝ってやろうと思うようになって、今のような世界ができあがってくる。「自分の願いを叶えるのは自分の努力だけだ」と思っていて、そこには「頂く」とか「信じる」心がなくなってしまう。自分の能力だけで生きていくことになるんだよ。
信じること、信仰心というのは、この世界にある仕組みとか、自分を命として存在させているもの。自分であって自分でないもの。そのバランスが良くなった時に、初めて信仰心って生まれるんだと思うんだよね。仏性があるのになぜ仏性が表れないのかといったら、その「自分が」という我が優先されて、邪魔しているのね。

僕はこういうことに出会って、頂いたことすら疑っていたし、頂いたことを自分流に考えたわけよ。分かんなきゃ悩むし。それで結果として、自分がどんなに悩んでどんなに考えても、答えは結局なるようにしかならないのよ。それで、自分流に考えても無駄だなってことに気付いた。
自分がああなったらいい、こうなったらいいと考えるんじゃなくて、起きた出来事をよく観て、それをしっかり自分の中に留めておいて、やるべきことをやっていれば答えは出る。その時に起きた目の前にあることをやっていけば、答えは出る。こうなってほしい、ああなってほしいと、先にエネルギーを使わないのよ。
そのエネルギーは、次の出来事が起きた時にそれを分析する力、そしてそれに対して行動する力に使う。そうするとエネルギーが少なくて済むよね。出来事は次々と起こるから、現場合わせってことを常にするね。
それができない人は、二段階も三段階も先まで読んで、自分の中で結論を決めてしまって、不安になったりする。先に読んで勝手に思い込んで検討違いをやって、いってみたら全然違ったという無駄をやる。そうすると、心のエネルギーはざわざわしながら無駄遣いばっかりするんだよね。
前者の方は、必要な時に必要な分だけ使うという落ち着いた状態でしょう。そうすると、どっしりと安定して見える。

あきの:
木の花は、社会の2歩先をいく生き方を今されていると思うんですけど、つまりこの木の花のような精神がそのうち広がっていくだろうっていうことだと思うんですけど、今これを信じられない人もたくさんいるじゃないですか。それでここを出ていってしまう人もいるじゃないですか。これがみんなに信じられるようになるには、どうしたらいいと思いますか。

いさどん:
それが人間の考えなんだよね。この問題が起きているから、私たちはどうしたらいいかっていうことではなくて、もうちょっとそこから一歩引いて見てみよう。

その問題が起きているということは、時代がそれを刻んでいるわけだよね。そうしたら、この問題を通して、時代は何を求めているんだろう、私たちは何をしたらいいんだろうってことを考えればいいんだよ。
もしもこの生き方がいらないんだったら、無駄なエネルギーだからやめたほうがいいよね。面白いのは、一方に非難する人や去っていく人がいて、一方では待ってましたとばかりに求めてくる人たちとの出会いがあるのね。つまり、この非難して去っていく人たちは、今は出会いの旬ではないんだよ。だから去っていくことも、進んでいくためには必要なんだよ。
今まで共にあった者が去っていくことも、今まで共にあったということは、事実として、今までは共にあることが必要だったんだよ。でも今は、さらに先の段階へ進もうとしている。

例えば富士登山でも、だいたい8合目まではみんなで行こうねというのよ。でも8合目から上は、その人の体力とか意欲とかによって、個人個人でまったく条件が違うのよ。だから8合目から上は、一人一人の在り方に合わせていきましょうねってことになる。そこからはどんどん狭くなっていくけど、それは一人一人の決断の道なんだよ。
そうしたら、それでもやっぱりみんなで一緒に来たんだから一緒に頂上へ行こうよって無理に抱えていたら、全体が頂上に行けないことになる。志同じくした者は、一人一人の歩みだから頂上で会おうねって言いながら、一緒の人は一緒に行けば良いんだし、そうでない人はそうでなくていいんだよ。だってゆっくり行かなきゃいけない人もいるんだから。
そのゆっくり行く人にサポーターとしてついていく人は、そういう役割だったらそれでいい。でも自分も頂上に行かなきゃいけない人だったら、無理に合わせていたら自分のリズムに合わないから、その人も頂上に行けなくなっちゃう。

そういう意味で言ったら、僕は今、良い事が起きているんだなあというふうに考えているんだよ。だってもともと全て善意なんだから。その考えで分析していくと、そこが観える。
今までは共にあることが必要だったんだけど、ここからはその人の心に合わせた道を行くべきだったんだねと。
その時に、ここまでは共通していたものの見方が別れて、別の発想になっていく。それは、「今まで一緒だったのに、どうしてそんなに変わっちゃったの」ということではないんです。つまり、その人にとっては同じ道ではもう先へ進めないからこそ、他の道で進むために、違う目線が育ったということなの。それを無理矢理一緒に行きましょうって言ったら、無理がある。

結局、とことんこの道をいく、信ずるということは、僕は科学することだと思う。科学する事によって細かく理解して、それをちゃんと順序に沿ってつないでいくと、全体が観える。すると、科学した事も法則の中にあって、法則が理解できたら、ひとつの情報で右往左往もしない。
この法則の中の、一つひとつのパーツがあるじゃない。例えばある部分を切り取ってみた時に、これはこれだけで判断してもいいものだなあとか、これはこれだけではいけない、もっと5つぐらいを見てみて結論が出るものだなあとか。
僕の信ずる心ってそんな感じです。

あきの:
他の木の花のメンバーだとどうだと思いますか。

いさどん:
僕はみんなにそうなってほしいと思っているんだけど、やっぱり今までの木の花のあり方をつくって来たというか、導いて来たのは僕なんだよね。そうすると、これは木の花の歩みであり、僕の歩みだったんだよね。

8合目まではそれでよかった。でもここからは、一人一人が今まで学んで来た事を生かして、8合目以降の意識になって歩む必要がある。だから、依存的な人はもっと自らに明快なものを提示して、自分たちの先を観られるようになってほしいと思うのね。ある人は自分は悟りたいんだとか、ある人は愛いっぱいで安心したいんだとか、そういう人たちがいるとするでしょ。そういう人たちも、もう自分で判断して歩みなさいって。今、僕はそういう段階だと思う。
そうするとそういう人たちは、これまでとても深く関わってきて、そしてこの生き方を大事に思っていても、「なんだ、もうくれないのか」と離れていく人もいる。僕はそんなふうに思っているつもりはないんだけど、そういった体質もあるんだよ。良い答えが出ないんだったらやめだと、現状を切り離そうとしているわけでしょう。

8合目以降は一人ずつで行く道。そうしたらそこには当然個人差が起きるわけだ。
大丈夫?って声を掛け合って、それでも行こうよって言ったとしても、今の状態しか見えなくて信じられない人は、この先に行っても良い世界なんてないじゃん、と思うんだよ。しかし、この右往左往を乗り越えた先に、みんなが成長して、答えがあるんだよって、それは行ってみないとわからないじゃない。でもそれが信じられない人は、現状がずっと続くと思っているわけよ。だからこんなところにはいられない、と。自分の都合のいいところを求める心が強くなって、信ずる心がないから、抜けていくことになるわけよ。

今離れていく人は、みんな信ずる心が足りない人。自分の安心を求めているのよ。でも安心とか信じる心は、自分がそういう人になるってことでしょう。そのためには、自分がその心で歩まなきゃいけないわけよ。今は、そういう段階の選別にきているなあと思うんだよね。
例えば、8合目までは半袖でもオッケーだった。でもそれ以降は冬の装備が必要だよ。雨も降るかもしれない。そうなった時に、当然厳しいから、今までの心構えと装備では通用しない。

これは心の話だから、心の問題だけなのね。自分に何かが起きたら、それをいただいて、自分の内を観ていく。いただいていくっていうプロセスを繰り返すわけだよ。
8合目まで来て、わー雨が降ってきた、装備が十分じゃない、もう先が見えているからこれ以上行くのはやめよう、と思ったとしても、実は先がどうなるかは行ってみないとわからないじゃない。ちょっと先に行ったら、それまでは雲が立ちこめていたけど雲の上に出て天気がよくなるかもしれない。それは行ってみることによって初めてわかる。そして行くためには、信ずる心が必要なんだけよ。

さっき、科学して情報を整理して法則性がわかった時に信ずる心が生まれるという話をしたね。それが足りない人が、今の現状を憂いて、これ以上良いところは求められないんだって終わっていくんだと思うのよ。
その山を越えれば、越えた分だけの価値がその次にあるってことを僕は言いたい。でも行かない人に行けとは言えない。それは一人一人の意志だから。
質問への答えになったかな?

あきの:
はい。

いさどん:
これは木の花の生活だけではなくて、普通の人も同じだと思う。ただ、普通の人はそんな風に分析しない。科学して、分析してそれが何だったのかって考えて振り返らない。だから、毎日が感情の垂れ流し。湧いて来た思考をただ出して、感情で反応している人が多いね。喧嘩すりゃ痛いとか、自分本位でやると人間関係が壊れていって社会的にも通用しない、っていう条件反射的な学びをしているだけなのね。
もっとホリスティックに、この世界を自分の感情と照らし合わせて分析していったら、たぶん自分の感情には振り回されないで行けるようになるね。この宇宙は法則で成り立っていて、それがふっと湧いてくる。これが智恵なの。そこのところに到達すると、僕みたいな話をするようになる。

あきの:
面白いですね。

いさどん:
僕も話してて面白かった。人類はそろそろその時代に行くと思うよ。
この間NHKで2回ばかり特集をやってたんだけど、2050年代に世界の潮位は80㎝上がるんだって。あと40年くらいしたらです。あなたたち、生きているでしょう。

あきの&ゆき:
はい。

いさどん:
80㎝上がるって大変なことよ。潮位が上がるってことは氷が溶けるってことだから、それだけ暖かいってことでしょう。2070年代にはスーパー台風が発生するって言うんですよ。この間スーパー台風が一つ起きたよね。フィリピンでは風速90mだったんだよね。竜巻級の台風が起きたんだよ。
でも2070年になると、風速100m、910ヘクトパスカルの台風が来るんだって。これはスーパーコンピューターで計算しているからほとんどまちがいない。それが60年後よ。生きている?

あきの&ゆき:
かもしれない。

いさどん:
可能性があるでしょう。潮位が80cm上がって気圧が910ってことになると、さらに潮位を上げるでしょう。それに風速100mの風が吹いたら、当たり前に5mの高潮がくるよ。日本中の海岸にそれに備えるだけの防波堤を作るか?できないですよ、そんなこと。
それどころか、今は地震も心配されていて、富士山も噴火するって言われているでしょ。富士山がもし中規模の噴火を起こすと、富士山の上空8000m以上いったらジェット気流の影響があるから、沼津から東京、京浜工業地帯まで、大量の火山灰が降りますよ。そうしたら今の携帯とかコンピュータって全部壊滅ですよ。
これって現実的な話ね。21世紀の前半にそれが起きる可能性があって、それは今の福島の原発のようなものじゃないと思うのよ。これから人類はどうやって生きていくかなのよ。もう20世紀型の文明は全て壊滅。あとは不便だけどみんなで助け合って生きるしかないんじゃないの、と思うんだけど。食料も問題になってくるね。いろんなものの価値観が変わってくるね。僕はこれが、20世紀までの人間のやって来たことに対する答えだと思うの。

じゃあ21世紀になったのだから、そろそろ20世紀型を改変する必要があるんだけど、人間って痛い目しないとわからないんだよね。最近の人間は我が強くなり過ぎちゃって、自分を過信している。もう痛い兆候はいっぱい現れているのよ。地球温暖化だって、今の時点で温暖化要因を止めても、もうすでに空気中にある分だけで危機的な状態なわけよ。それでもまだ、やり続けているのよ。経済発展だとかなんだってそんな事ばっかり言ってるのよ。人間の住む環境は悪くなるのに、まだ景気を良くすることばかり考えてる。

何で不景気になるかといったら、人間の中には自然のセンサーがあるんだよ。子どもが野菜を食べないのはなぜかって、あれは食べ物が毒だから。子どもは身体がちっちゃいから、自分の中のセンサーが働いてて、自らを守っているわけ。だから、本当に健全な野菜は子どもも喜んで食べるの。
それと同じように普通の人間にもそういうセンサーが残っていて、世の中を見て「なんか変だね」と感じてる。それで具体的に区切って見てみる。しかし問題がない。だけどなんか変だな、こんなことでいいのかなーって考えて、会社に行ったら競争ばっかりでやだなーって、ニートになるとかね。親がそのことにああだこうだ言うと、引きこもっちゃうとかね。
これをその部分だけを切り取って見てみると、問題に見えるでしょう。でもつなげて観ていくと、社会がそういう風に愛や絆のない貧しい人間をつくろうとしている事に対して、今起きているこの問題は何なのかと考える良い機会になる。社会の現象は神様が起こしていて、それが善意だとしたら、これを乗り越えたらもっと良い次の世界があるということなんだよ。

今のまま変わらなかったら地獄だよ。だけどこれを乗り越えたら素晴らしい世界がある。今の若い人たちって、その素晴らしい世界を生きる人たちなんだよ。でも古い人たちは、その前の競争社会を若い人たちに提供しようとしているのよ。だから、そこでニートや引きこもりやうつ病になるのは、センサーが正常に働いているということなんだよ。
アトピーや癌も、全部センサーであり、気づけ気づけっていうメッセージなのよ。だから病気だってすごく大事なことなんだよ。それを、学ばないで対処療法で治そうとするもんだから、いつまでたってもメッセージが終わらないのよ。
全てはメッセージ、という風に捉えたら、我々がどうしていったらいいのかが簡単にわかる。愛と絆の社会をつくるだけだよ。みんなで助け合っていったら、無駄がなくなって原発がいらなくなって、ものを大切に使うからゴミが出なくなって。そして地球と持続可能に暮らす社会ができる。わかりやすいよね。

こんなに簡単なことなのに、なんで人間たちはそれができないのか。それは、賢すぎるからだと思う。つまり過信しているの。自分が正しいと思って、自分が望む世界を求めているの。
でもね、自分が望む前に、我々はこの宇宙の法則、地球生態系の法則の中に役割をいただいて生まれてきているの。自分が生きるという事は、この全体の法則によって、ネットワークの中に生かされているんだから、自分はまず意識を持ち役割を果たすこと。宇宙の意に沿うこと。それが「いただきます」って心なんだよ。そして生きていることが「ありがとうございます」ってことなのよ。
普通の人は、病気になって「ありがとうございます」なんてことは言わないと思うけど、今の考えだったら「ありがとうございます」って言えるよね。問題ごとに出会って「ありがとうございます」って言えるよね。だって、それは自分に対するメッセージだもん。そこで学んで次に生かしていく。それができる人間が地上に降りてくると、僕は地上天国になると思うんだよ。

「ありがとうございます」をちょっと分析するね。
「ありがとうございます」っていうのは、「ありがとう」と「ございます」の二つになっている。「ありがとう」っていうのは、「有り難い」、つまり「有ることが難しい」ってことよ。それが「ございます」だから、「あるわけのないような難しいことが起きている」ってことを言っているわけよ。
我々が生きているということは、すごい有り難いこと、ものすごい奇跡のような難しいことが起きているわけ。例えば病気になるということも、健康な者がわざわざ病気になるということは、何かこの宇宙の法則から外れていて、病気を通してそれを教えてもらっているんだよ。そんな難しいことを今与えられている。有り難いことが起きているのよ。
「ありがとうございます」っていうのは、その智恵が湧いてきてそれを理解できたときに、有り難いなあ、ということなのよ。

「働く」って字は人が動くと書くでしょう。人が動くってことは生命として生きているということです。(※9月4日いさどんブログ「宇宙視点の働き方」をご参照ください。)生命は生きる命。命は「みこと」ですから、神が生きているということ。我々も、生きる神なのね。生命は循環して巡り巡って変化して進化していく。すべてが循環しているのだから、これは絆の象徴なんですよ。地球の生態系も宇宙のネットワークも。そしてすべてのものを生かしている。
だから、地球にはゴミが出ない。人間は区切って損得勘定するから、人間社会だけがゴミを出す。そのゴミが出ない地球生態系システムが生命の姿で、それはまるっきり我々の身体の中の構造と一緒なの。その中で人が動くってことは、健康なネットワークを健全につなげていくって事ですよ。それが「はた(傍)」を「らく(楽)」にする、「はたらく」ことの本当の意味です。人間には特にそのことを、この世界の中で託されている。
それは何でかっていうと、人が動くとね、動き方によっては災いをもたらすわけね。でも本来人間は、この世界に良いものをもたらすために生きているわけですよ。今、大きく行き詰まった問題があるとしたら、それを学び活かした先に、それを越えた社会があるってことなのよ。そこを生きる者たちは、今の社会に疑問を感じて「NO」と言っているのよ。それは今の社会では問題児だけど、それが生かされる時が来るだろうと思うよ。それも「はたらく」ということだね。

あきの:
そういう人たちがこれからどんどん増えて、それが多数派になると思いますか。今はそうやって問題ごとから学ぼうとする人たちは少数派だと思うのですが。

いさどん:
そうそう。時代は過去から未来へ進んでいるよね。そうすると、その先端を行く人はほんの一部の人たちなのよ。大部分の人は日和見ね。そしてその後ろに抵抗勢力がいる。今は抵抗勢力がすごく大きくなってる。なぜかっていうと、五感で豊かさを感じちゃって、その魅力に取り付かれている人が多いんだよ。
それで、今「何かちょっと変だぞ」って感じて、新しいところへ移行しようとしている人は全体の一割いないね。1%かもしれないね。でもね、今までの時代はこういうことを人類に表現させる時代だったのよ。

人間は変わらないからいつまでたってもずっと一緒と思うかも知れないけど、地球が自転して、毎日僕らは朝をもらって、夜をもらって、年をとっていくでしょう。地球が自転しているから、経験を積んで進化しているわけでしょう。すると、これは人間の歴史なのか、地球の歴史なのかっていったら、地球の歴史なのよ。年代は確実に刻まれていくわけよ。それは地球暦でいう、他の惑星との絡みもあって刻んでいくわけだ。

今、人類はこの時代の表現をしている。その前は戦争時代だったよね。そして今も戦争の名残が残っている。だって社会は平和じゃないもんね。個人の心も、家庭の中も、会社同士もみんな対立しているんだから。平和もどきだから、孤独死が起きたり、うつ病が発生しているんだよ。
今地上に降りて来ている人間たちは、この時代の役割を託された人たちなんだよ。上の世界には魂がいっぱいいて、地球へ降りる順番を待っている。この時代はこういう表現をする魂に託します、と言って、自分の番が来るのを待っているんだよ。
だから今ここに降りて来ている子ども達は、次の時代を担う魂たち。だから、それが多数になるかならないかっていったら、地球は時代とともに進化していくのだから、そうなるに決まっているのよ。でも、それが不安に思えるのは、今の現状しか見ていないから、現状がずっと続くと思っているんだよ。

例えば木の花で長年やって来て、もうここでは限界だと思っている人がいる。それは今のこの部分だけを区切って見るからそう見えるのであって、木の花は確実に進化するところです。ではなぜその人がここにいられないかって言ったら、自分は先進的な考えをしていて、もっと素晴らしいところを自分がつくっていけると思っている。それが落とし穴なんだよ。
道は地球が刻むのであり、法則が与えるものであって、我々はそれを頂く者なんだよ。シナリオも監督も、見えないところにいるわけ。我々はこの地球の舞台の中でそれを演ずる役者だから、見えない側から台本を頂いて演じなきゃいけないのに、自分がつくる側になっている。謙虚さがないからそうなっちゃう。だから安易に結論を出して、離れていってしまう。ここにいたら、確実に次の時代の木の花に出会う。確実に今を善意に受取っていたら、次の時代の地球に出会える。
というふうに僕は考えるんだけど、どう?

あきの:
そうですね。

いさどん:
こうやって聞くとなるほどなと思うのに、それを聞かないと信じられない。こうなるんじゃないか、ああなるんじゃないかって悪く考える。
たとえばさっき、地球環境が人間の暮らしを脅かすって話をしたね。これは地球自身が今のあり方の人間を好まないからよ。当たり前だよね。自分の体にガン細胞が発生したら、我々だってなんとかしてとろうと思うじゃん。その時に、人間の姿勢が変われば、僕は地球に起きる現象も変わると観ているんだよ。だから心が大事なのよ。生きることの上で、何よりも一番に心が大事なのよ。
ところが、今の人間は体主霊従といって、形を先にして霊(心)を後にしているんだよね。本来は霊主体従、霊が先に来なきゃいけないんだけど、それをやらないで形ばっかり求めている。それは、今の人間達が知識豊富になって自分の願いを叶える、我を優先させるってことをやってる結果だと思う。

さて、これからあなたは、どう生きますか?他に何か質問ありますか?

あきの:
いろいろあるんですけど・・・

いさどん:
今の事がわかるとね、だいたい他の事も自ずと答えを出せるようになる。そういう仕組みが分かったら、不安定要因って消えるのよ。そう考えるとこれも不必要だな、あれも不必要だなって、自然に疑問が消えていくのよ。そういう捉え方を持つと、病気でここに来た人が治っていくんだよ。
地球に物語を刻んでいくために魂がいて、その地球と連動して人間が生きていくと、地球に対して人間が有益なものになるわけだよね。それがこれからの時代だと僕は考えている。人間はいかに地球の声を聞いて、そして地球と共に存在し続けていくのかということが、21世紀の人類の命題かなあと思う。
さてそれがあきのちゃんからすると、「どうやって人を目覚めさせるんですか」ということになるんですよ。僕は「それは神様が握っておられるんじゃないですか」と思うんだよ。

ゆき:
人を変えたいとかじゃなくて、私もこれから伝える仕事をする上で、こういう本当に自分の魂がわくわくすることとか、これからは本当にみんなが調和する時代なんだよってことをテレビから伝えていければいいなと思うんですけど、ただ、それって本当に受け取る人の心とかタイミング次第というか、神様が決めるところみたいなところもあるのかと。

いさどん:
神様が決めるところって言っちゃうと、すごい受動的っていうかね、それじゃあ人間は単なるマリオネットになっちゃうでしょう。神様は天の法則を司っていて、それを受けて人間は地上で具現化していくんだから、やっぱり人間がそういう広い世界観を持つってことが大事だね。
で、確実にそういう人たちは増えているけど、その増えていくための働きが、一人一人の中の気付きってことでしょう。まず最初の「なんか変だぞ」というセンサー。その「変」をどのように育てていくかっていうことが大事だと思う。それは一人一人の意志ね。そういう大きなスケールに基づいた人生を生きた人って、いい死の迎え方をするよね。ああ、良い人生だったなって、完熟死で旅立っていく。もう悔いはないって。

本来、人間は魂が進化、成長するために生まれて来ているのよ。肉体は二十歳からはどんどん衰える。魂の成長のために生まれて来ているのに、それをやらないで、形だけを求めて欲ばかりでいくと、欲の虜になって、死ぬ時にあれはどうしようこれはどうしよう、あれはやってない、これもやっていないと、そういう事ばかりを考えて見苦しい死に方になるから、意識レベルは低いままになる。そうすると、次の人生ではまたそれにふさわしい修行が与えられて、それを繰り返すことになる。

あきの:
最近の大人ミーティングがすごく面白いですね。

いさどん:
あの大人ミーティングを見て、ここでやっていく意欲がなくなった人もいるんだよ。だから、どこを見ているかということ。僕はますます、この方向へ進むべきだなと思ってる。

ゆき:
じゃあ、最後。いさどんは、こういうふうにいろんな人に何か伝えるときに、気をつけていることってありますか?

いさどん:
これが正しいという伝え方はしない。正しいは人間の数ほどある。だからあなたが考えてそれをYESと思えば行けばいいんだし、思わなければ行かなくていいんだよ。それが今のあなたにふさわしいことだから。そしてそれぞれのプロセスを踏んでいくんだから。
ただし場合によっては、あなたの今の心の状態を知りたいと求められれば、情報として分析して提供することはできます。それをどのように受け取るのかは、相手の問題です。僕は常に情報として伝えている。これが正しいということではなくて、こういう捉え方がここではできますよ、でも違う切り口でやるとこういう捉え方になりますよという、情報発信をしている。

だってこの世界は、情報の洪水なんだもん。それを個人の欲だとかいったもので汚染して、偏った情報が正しいことになってしまう。実はこの世界は情報の連鎖だから、正しいも間違いもないのよ。どこの位置に立ったらこれが悪に見えて、どこの位置に立ったらこれが善になるか。悪と捉える事もできれば、これってこのおかげでこうなるんだねって善にもなる。それが宇宙の構造だよ。アナウンサーとしてこんな話をするのは、ちょっと難しいね。

ゆき:
難しいですね。だから本当に、それこそ情報としていろんなことを伝えていくしかないかな。

いさどん:
テレビ局では、自分の言いたい事を言えるわけじゃないのよ。例えばあなたが、アナウンサーという立場でもらった原稿を語る人からキャスターになったら、そこは変わるでしょう。

ゆき:
たぶんどっちもやる。

いさどん:
あなたの個性がそこで何を受け取っているかによって、魂の入っている言葉、言霊を発するのか、それとも単なる棒読みの魂のない言葉を話すのかが変わってくる。アナウンサーはどちらかというと言霊は要らない立場に立つことになるね。機械でいいんだから。でもキャスターになって、言霊を発したら、その人は社会にとても大きな影響を与えるよ。
言葉って正しく使わないとだめだしね。どの言葉をそこに使うかによって、そこに魂が全部表れる。そして世の中にそれが発せられると、それがずーっと人に広がって、社会がつくられていく。
だから、僕はどんな事があっても神様の善意を信じている。この世界は善意なんだ。ほら、あそこに神様がおいでになるじゃない。斜め45度上を見れば、神さまがおいでになって、なんか言ってるなあと。それは言葉で返ってくる。まあカルトの世界ですな。見る人によっては、カルトの世界。

あきの:
どう違うんですかね?

いさどん:
カルトかカルトでないかは、そこの世界に価値観があるとするでしょう。そこの中で限定されて、他に一切通用しないもの。それがカルトですよ。そこにあるものが少なくとも周りを巻き込んで、そして社会の中に反映されていくなら、それはカルトと言えないものです。
過去から未来へ進むときに、最先端の思考を行く人は少数派で、大部分の人からは見えない。一歩先のものを見てすごいとは言っても、2歩先のものは見えないから、あれは自分たちにはわからないし、何の役にも立たないよって、カルトだと見る時がある。しかし、そこには実際にカルトもいるんだよ。その見分けは難しいねえ。

あきの:
難しいですね。

いさどん:
それは、心で感じるものだよ。市川での『確固たる居場所』上映会の運営スタッフの何人かは、(メンバーをやめた)よしどんが木の花のことをめちゃめちゃに書いているブログを見ていた。それで、上映後の質疑応答でその話が出るのかと思ったら、もっとこの生き方を広げようという話になった。
それは、よしどんのやっていることの悪意を感じて、じゃあ真実は何だろうって思ったときに、僕は何も話さなかったけど、あの映画を観て、そして上映後の話し合いを聞いて、「あ、これは本物だぞ」と思ったんじゃないの。何かを観たってことだと思う。そこでは言葉や説明はいらない。
人にそれだけの力がつくと、何も聞いてなくても、あ、これは本物だって分かるようになる。これは臭いとか、これはいい雰囲気だねって、人間は仕分けられるようになる。それが今、僕たちが目指している「阿吽」というもの。僕は阿吽を20年間求めて来たけど、なかなか難しかったね。ずっと言ってきたけどね。これが一番省エネなんだよね。真理が湧いてくる。今、ひまわりに阿吽の書が飾られたのは、ここが阿吽の場所になってくってこと。次の進化に入ってきた。

あきの:
楽しみですね。

ひとみ:
またすぐ来ないと変わっちゃうよ。

あきの:
そうですね。いまも激動の渦の中にいるって感じですね。

ひとみ:
そうだね。今は一番大きいかもね。変化がね。

いさどん:
来年は「うねりの年」だから、来年が一番変化が大きいだろうね。今は無駄をなくしてきっちり土台をつくって、その上に新しく構築していく時だね。

ひとみ:
それが個人個人の中でもおこなわれているし、全体でも行なわれているね。

いさどん:
ここはある意味ひな形だから、世の中に起きることが先に起きているんだよ。これから世の中でも、天変地異や経済システムの破たんなど、人間が右往左往することが起きてくる。そして波紋がたくさん起きる。池に石がたくさん投げられるってことだよ。
でも波紋が起きたら、そこにサーフボードを持っていって波乗りすればいいのよ。
だって、これは神さまとのゲームなんだから。
 
 
 


「家族」って何だろう

先月、結婚をせずに生まれた「婚外子」への差別を定めた民法の規定は憲法違反だとする判決を、最高裁が下しました。一方、生殖補助医療の発展により、精子提供によって子どもを持つ親が増えていますが、現在の法律では親子とは認められていません。9月30日放送のNHK「クローズアップ現代」では、家族の形が多様化する中で法律が追いついていない現状を取り上げ、「家族」とは何か、ということを投げかけています。
この番組を見て、木の花ファミリーでも「家族とは?」をテーマに座談会の場を持ちました!

★「クローズアップ現代」内容詳細は、下記サイトにて公開されています。
 『家族とは?親子とは?揺らぐ法制度』

*   *   *   *   *   *   *   *   *   * 

いさどん:
この番組では婚外子に焦点を当てているけれど、そもそも、婚姻制度はいつごろ始まったのかな。

ともこ:
今のような婚姻制度が確立したのは、明治に入ってからみたいですね。もともと、今の家父長制的な家族観というのは日本の一般庶民の間にはなかったのだけれど、明治になって新政府が国民を統治していく手段として、一夫一婦制の家族制度を普及させたようです。ここ百数十年程度の新しい価値観ですね。

いさどん:
よく、平安貴族の話には通い婚の様子も出てくるけれど、一般庶民はどうだったのだろうね。

こはる:
コミュニティで暮らしていた、というイメージがありますね。

いさどん:
今、若い世代でシングルマザーが増えているなど、家族に対する意識が変わってきているよね。番組には、(婚外子は財産の相続が嫡出子の半分になるという民法の規定を違憲とした)判決を喜ぶ50代の女性が出てきたけれど、彼女はおそらく昔のお妾さんの子どもとして生まれた人で、今のシングルマザーの子どもたちとは背景が違うだろうと思うんだよ。
彼女が判決に喜んでいる姿を見ていると、お金のことが目的のようで、時代的なメッセージはないと僕は観ています。家父長制が大事だった時代には、彼女のような立場の人たちは当然のように差別されてきた。それは差別というよりも、当時の人々の意識では当たり前のことになっていて、その時代の価値観の中でその立場に相応しい扱いを受ける、という意味では、平等だったとも言えると思う。ところが、時代が変わって家父長制が崩壊し始めた。だからこそ、過去の価値観の中では当然とされてきたことが、今差別として浮き彫りになってきているんだよ。
一方、今のシングルマザーの増加は女性の意識の自立によるもの。同じ婚外子でも、昔のお妾さんの子どもとは背景が違うから、そこは分けて考える必要があると思います。

では、その背景を変えたものは何か。
今、若い世代、特に女性の間で、結婚を望まない人が増えてきているね。フランスでは(同棲していれば結婚と同等の社会保障が得られるPACS婚が1999年に制定されたことにより)婚外子の割合が全体の55%になっている。若い世代が結婚を選ばなくなった理由の一つに、一度結婚をしてしまうと離婚が面倒ということがあるようだね。関係がいいうちは一緒に暮らして、合わなくなったら次の相手を選ぶ。そういった考えが、これまでの家族の概念にとって代わってきたんだよ。
僕は長年人生相談を受けてきた中で、親の不仲を見て育ってきたことで結婚に積極的になれない人たちにたくさん出会ってきた。私も結婚したらあんな風になるのか、と思うと、結婚したいとは思えないのだろうね。逆に、私はあんな風になりたくない、という想いから、理想の家庭像を描いて結婚する人もいるけれど、そのようなケースの場合ほとんどは離婚します。本来、結婚してから新たな関係を築いていくべきものを、先に自分目線のイメージを持っていてそれを実現しようとするので、それが家庭崩壊の種になっていくんだよ。
昔は女性に生活力がなかったから、我慢して結婚生活を送っていた。しかし今は所得も男性とそれほど変わらなくなって、離婚という道も選べるようになった。僕はこれまでいろんな家庭を見てきたけれど、「結婚=幸せ」なんていう絵に描いたような家族にはほとんど出会っていません。というか、ないかもしれないです(笑)。

いさお:
「結婚=シワ寄せ」とか(笑)。

ともこ:
番組では、コメンテーターが「法律婚は子どもが安定して育っていく上で大切な受け皿」と言っていたよね。実際に、日本が発展してくる過程で、1対1で結婚して「家族」という単位を形成することは便利がよかったのかな、と思いますが。

いさどん:
便利がいいって、誰にとって便利がいいの。

ともこ:
社会かな。

いさお:
国家とかね。

ともこ:
明治になって富国強兵を推進していく時に、妻が安定して家庭を守ると夫は安心して戦争に専念できる、という狙いもあったって聞いたことがあります。

いさお:
戦後は、それが高度経済成長にすり替わった。

みほ:
夫はがむしゃらに働いてお金を稼いで、妻は家で子どもを育てて、それが日本の経済成長を支えていたんだよね。

いさどん:
それが崩れたわけか。つまり婚外子の発生は、今の社会的構造から来る人々の意識の変化から、婚姻制度に対する価値観が変わってきたことによって、今の現象が起きているとも言えるね。

ともこ:
そういう制度があって日本社会はここまで発展をしてきたんだけれども、そのままの価値観では進めない段階になってきているのでは。

いさどん:
だから、何かが変わろうとしているんだよ。
ここで宇宙視点で、時代を1000年単位の移り変わりで観ていくと、日本は平安時代までは母系社会だったよね。そこから封建制度が始まって、男性中心の社会になった。それが、2012年12月21日、太陽系の冬至を境にして、新しい時代の幕が明けた。
それがどのようなことを意味しているのかというと、男性性、すなわち陽が主とされていた時代から、女性性、すなわち陰が大切な時代になっていく、ということです。競争して獲得していく時代から、調和して共にやっていこう、という時代に変化していく。女性は男性に帰属することなく、一人の人間として自立して生きていく。ある意味、婚姻制度に対する反乱とも言えるかもしれないね。

この間、こんな話を聞いたよ。動物でも人間でも、若いころは精力的だから、パートナーを見つけて一生懸命子作りをする。ところが子どもがある程度の数になると、本能的なものから、種を多様化させようという力が自然に働くんだって。同じパートナーとだけだと種が均質になり多様性が失われるから、多様性をもたらすための意志が自然に働いて、他の相手と新しい関係を作る。それが自然の理にかなっている、と言うんだよ。今はそれを、婚姻制度で縛っているとも言えるね。

みちよ:
国によっては、今も複数の妻を持つ文化のところもあるよね。

ともこ:
だけど、一夫多妻制と女性の自立ってどのように捉えたらいいのかな?

いさどん:
複数の奥さんがいるというと、男性が女性を多数支配しているように見えるけれど、実は自然界では、メスがオスを選んでいるんだよ。ではオスは何をしているのかというと、動物の世界の価値感にそって、自分が価値あるものとなるように磨いているんだよ。人間も、男性は男磨きをするべきなのよ。するとそのオスは、たくさんのメスに支持される。それは、優秀な種を残すという意味では有益なことだし、それが本来の自然の姿なんだよ。それが人間の世界では、誰でも一律にパートナーを持つようになったことで、自ずと優秀な子孫が生まれる確率も低くなった、とも言えるね。
もう一つ、今の社会に大きく欠落しているものがある。女性が自立していくのはとても良いことだと思うけれど、その反面、家庭から父性がなくなってきているんだよね。リーダーシップを取れる、たくましい父親像が消えてしまって、男が男らしくなくなり、家族の秩序が失われ、調和が取れなくなってきている。そこも問題の種の一つだよね。

ともこ:
でもそれも、人類が次の段階に進むためのプロセスと捉えられますね。

いさどん:
そうだろうね。これから父性というものがどのようになっていくのかは、興味深いところだね。父親の存在が、たくましい子供たちを育てるとか、家庭の秩序を保つという役割を果たしていた時代が終わり、「家庭」というものに縛られない子どもたちが育っていくとか、特定の人間がリーダーシップを取らなくてもみんなが知恵を持ち寄ることによって成り立つ社会になるとか。それは今の木の花のような社会だね。まだ途上だけれど。

ともこ:
今のところ木の花には父性があるよね。いさどんがいるから。

いさどん:
でも僕の他にいないじゃない。だから、この僕がやっているような父性の役割がいつまでもあり続けるべきなのか、それともこの父性がもっと違う形で表現される時代になるのかといったら、後者の方でなくてはいけない、と僕は思うんだよ。

ともこ:
それがどんなものかは、先に行ってみないとわからない。

いさどん:
そうだね。新しい世界だからね。だから、そこへ向かうプロセスとして秩序が変わっていくことに抵抗しない、ということじゃないかな。
どちらにしても、これは難しいテーマだよ。いくらでも可能性がある話でしょ。いろいろなスタイルがあっていいものなのに、それを無理やり一つの形に閉じ込めてきたことに問題があるんだよ。今はある意味、そこに対しての反動が起きてきているのだと思います。だから一見無秩序になっていくように見えたとしても、そこからまた新しい突如が生まれていくのだから、その時に、それを恐れないことだよ。時代は常に移り変わっていくのだから。

ともこ:
質問です。男性が男磨きなら、女性は何をするべきですか?

いさどん:
女性は、価値あるものを観る目を育てることだよ。いかにいいものを選ぶか、ということ。女性に観る目がないと、ろくでもない種を次の世代に残すことになるでしょう。それは女性の責任ですね。

ともこ:
今の発言は、聞く人によっては誤解を生みそうですが。

いさどん:
そんなことないよ。僕は今のことを言っているのではなく、自然界や、未来について語っているんだよ。自然界で成っていることが、人間だけがそうではないルールを創ってきた。その結果、また自然界へ戻っていくのではないか、という話をしているだけなんだよ。その方がみんなも気持ちが活性化されるでしょ?
今は、特定の相手を自分のものとしたらそれで良しとして、心も磨かずにのほほんとしているわけだよ。でもそこに緊張感があれば、人は学んで成長していくようになる。学びながらその相手と一生を添い遂げることもできるし、失ってそこからまた次の可能性を探求していくこともできる。それは夢のあることだと思うよ。

ともこ:
でも観る目を養うだけでは、男性に依存することにならないですか?

いさどん:
どうして?女性がしっかりした意志を持って、未来を決めていくということでしょ。男は女性たちに採用してもらうために自分磨きをするってことだよ。常に女性が主導権を持っている世界なんだよ。自然界はそうなっているし、人間社会でも、平安時代までの日本はそうだったよね。今の人間界は、オスがうまいことを言って、お金のように自然界のものとは違うものを魅力にして、メスがそこにへつらうようなかたちになっているでしょう。そこが自然界と違うところだよね。
これまでは、個人個人が自分の欲望を叶えて、その結果として今のような社会をつくってきた。その社会の中で経験を積んだ人たちが木の花ファミリーに集まり、現代社会の行き詰まりを超えた世界を表現しようとしているんだよ。
木の花では、気持ちの合う人とカップルにはなっても、結婚してお互いを縛り合う必要はないし、生活のために誰かに養ってもらう必要も、養う必要もない。必然的に、男女の関係性から結婚についての必要性が変わってくるんだよ。

ともこ:
昔ほどではないけれど、今も世間では、婚姻制度のもと1人の人を想い続けることが美徳とされている面があるでしょ。その、本来の自然の姿から離れたことを美徳として、それが価値だと思って生きているとしたら、それって一体どこから来てるんだろう?

いさどん:
その背景を考えないといけないね。

ひろっち:
宗教的な影響も大きいんじゃないかな。キリスト教でも儒教でも、一人の人と生涯を共にするのが美徳とされてるよね。そしてその方が統制しやすい。

いさどん:
僕は多くの人の相談にのってきた立場から答えるけれど、一生その人だけを想い続けられるような相手に出会ったことのある人なんて、ほとんどいないですね。僕は問題ごとの相談にのってきた立場だから、そういった人に多く出会ったとも言えるかもしれないけれど、社会全体を見ても、やはりそういった人の方が多いんじゃないかと思う。すると「美徳」という認識は、ある意味強迫観念のように人々の中にあるものだとも言えるよね。
時代は常に移り変わっている。今だって、僕が子どもの頃とはずいぶん価値観が変わってきている。僕はどんなことがあっても「おお、新しくなったなあ」という感じで受け取るけれど、人によっては自らが育ってくる中で植え付けられた「正しさ」をなかなか手放せないんだよ。だけどそれは、進化するためには囚われずに手放していくべきもので、手放せない人ほど苦労をすることになるんだよ。
シングルマザーが話題になっているけれど、ではまともと思われる夫婦の家庭の子どもはまともに育っているのか、ということも問われるね。

みかこ:
ここに相談に来る人のほとんどが、親から受けたトラウマを持っているよね。

いさどん:
両親がそろっている家庭でも、家庭の中は不安定で父性や母性が喪失していることも多く、その中で育った若い世代は、そのトラウマから、結婚願望を持てなかったり、自らが子どもをもうけて社会責任を果たしていくような大人になりきれていないことが多い。そういった人たちは、家庭を持っても、もっと遊びたいとか、自分の欲求を優先させる傾向があるんだよ。そういった様々な要因により、婚姻制度によって保たれてきた家庭に魅力がなくなってきた、とも言えるね。
かつて鳩山さんが、子どもは社会の子だから社会で育てていこう、ということをやり始めたでしょう。これはとても進歩的な話だと思ったのだけど、結局立ち消えになった。それは、社会がまだ他人の子どもを自分の子どもだと思えていないからだよ。そして自らの子どもを、次世代を担う社会にとって大切なものとは考えずに、所有している。そういったことも、そろそろ崩壊していくといいよね。
おそらく将来は、男女の縁のもとに子どもが生まれたら、それを社会が育てていくような仕組みに移行していくのでは、と僕は考えているんだよ。その時に、父性愛や母性愛が欠如した環境で子どもが生まれてくることを考えると、こういったコミュニティのように、子どもを社会全体の子として分け隔てなく育てる仕組みは、新しい社会にとって有効だろうと思うんだよ。

いさお:
子どもを社会のものだと考えた時に、相続制度はどうなっていくんでしょうね。

いさどん:
多くの富を得た人は、それだけ社会を担ってきて、それだけの価値を築いたわけだよね。だけど次の時代は、その人の能力で創られるわけじゃない。だから、自分の代で得たものは自分の人生の中での表現として完結させて、新しい世代はゼロからスタートさせるべきだと思うよ。
だけど今の現実は、そうはなっていない。働かなくても親の遺産でお金が入ることもあるわけだよ。最初からそういうものはないことになっていれば誰もとらわれないのに、遺産をめぐって血縁の人間関係がドロドロしたりするわけだから、本当はない方がいいよね。そして、自分の実力でみんな生きていく。
財産は国のものとして、国家が生かしていけばいいと思います。共産主義の国では私的所有権を認めないよね。日本もこれから時代が進んでいくと、なるべく個人がものを持たないようになっていくのが理想だと思う。ただ、そういうことを言うと、多くの人は「自分のものが取られる」と考えるんだよ。例えば税金にしても、「税金を取られた」と言う人がいるでしょう。しかし、所得があるということは、その分だけ環境に負荷をかけたり社会の恩恵を受けている、とも言えるわけだよ。だから、生きてるうちは個人の財産として持っていてもいいけれど、亡くなった時には子どもじゃなくて社会に還元する心が大切だと思うよ。もともと我々は、生まれてくる時には何も持っていないのだから。
そういった心が自然に出てくるような精神性になればいいよね。法律を作って強制的に徴収するようでは、精神のレベルは低いと思うよ。そんな社会では豊かにならない。それができる精神性であることが大切だと思います。

ともこ:
そういった精神性になった時に、親が子供にしてあげられることは何でしょうか。

いさどん:
それは、子どもに欲をかけるのではなくて、愛をかけて育てるということだよ。そしてその子どもが社会へ出て、社会に貢献することを喜ぶ。子どもは社会の子だから、社会も手厚く面倒を見るべきだし、お年寄りも社会に貢献した人の最後の姿なのだから、やはり社会が面倒を見ていく。その社会を支えていくのが、社会に育てられて大きくなった人々なんだよ。

ともこ:
そもそも、血縁て何なんでしょう?なぜ人はそれに執着するのかな?

みかこ:
うちで人生相談を受けるときはその人の家系図を見るんだけど、あれを見ていると、家系というのはカルマの流れだなって思う。血縁とカルマとお金がセットになって、それがいろんな問題の発生源になっているんだけど、こういうコミュニティで暮らしたり、心の仕組みを学んでいくと、人の価値観が変化していくんだよね。

いさどん:
血縁というのは、「身内」と言って「身の内」と書くでしょう。自分を愛するように自分の身近なものを愛するという、エゴ的な愛の対象になるものだよね。
それが、他者へ愛を向けたり、社会に対して貢献していって、内と外の区別がなくなれば、何も自分に近いものだけを大事にするという必要はなくなっていくよね。すると、今の家族制度は自然と必要がなくなっていくだろうと思うんだよ。
今の社会の問題は、そういった連綿と受け継がれてきたものに魅力がなくなってきたことから生まれてきている。それは、何らかの新しいかたちが生まれてくる前兆であるとも捉えられるわけだよ。たとえば木の花のようなスタイルが世界中で存在していることや、都市の方へ行くとシェアハウスのように年齢や性別を超えて共に住むということが流行ってきているでしょう。若い人たちがこれから創る世界では、そういった新たな価値観のもとに秩序が生まれてくるのだろうね。

ともこ:
それは、人の意識が変わっていくから?

いさどん:
そうだろうね。例えば、夫が働いて妻や家族を養うということもだんだん崩壊してきているし、家長制度も、長男に全てを譲っていたものが、兄弟に平等に遺産を渡すようになったでしょ。代々を継続していく意味がなくなってきたんだよ。

ともこ:
それによって、どこに向かうんでしょうか。

いさどん:
それは行ってみないとわからないよね。ただ、どちらかというと封建的に観える制度だったものが、もっと多様性を認める社会になることは確かだよ。実際に、フランスでは嫡出子よりも婚外子の方が多い。それでもフランス社会は成り立っている。そのまま続くかどうかは別としても、現実にそういう国が現れてきている。その先がどうなるかは行ってみないとわからないけれど、仕組みが変わっていくことは確かだよ。

ともこ:
私は単純に、血縁というものを超えた方が、より社会全体が調和的になっていくだろうと思いました。

いさどん:
それは、一概には言えないよね。普通の婚姻制度によって保たれてきた有益な面もあるわけだから、それがなくなる時に、そのギャップから生まれるデメリットもたくさん現れるだろうと思うんだよ。
どちらにしても、新しい秩序が生まれるという意味では、歓迎すべきことだよね。

ともこ:
その「新しい秩序」は、人がそういうものを築こうと意識してもしなくても、自然と生まれてくるということですか?

いさどん:
そうだろうね。これはすごく大きなことだよ。おそらくこれは、時代の波だろうと思うんだよ。一面から見た人間の倫理観の欠如とか、そういったことだけでは捉えきれない。それは倫理観の欠如から壊れていくのではなくて、今までの制度が古くなって形骸化している。家父長制度も形だけになっている。昔のように、結婚や葬式の時に人も集まらなくなってきた。これは、個人個人の生き方の多様性が尊重される時代になってきたことの表れだと思うんだよ。
古いものが壊れることに間違いはない。大切なのは、壊れた後に何ができるかということです。その中の一つの事例として、木の花のような生き方があることは確かだと思うよ。
だけど、これ一つがあればいい、という話でもないからね。そこは、他にもいろいろな価値観のもとに新たなスタイルが生まれていったらいいと思います。

ともこ:
木の花の暮らしは、未来の人々の生き方のモデルとなることを目指して始まったと思うんだけど、いさどん自身はこれ一つがそうだと限定しているわけではないということですね?

いさどん:
感覚的に、これは新しい時代の指針となる大切な生き方だという確信はあったよ。だけど、我々は意図的に集まって、こういった暮らしを組織的につくろうとしたわけではないんだよ。今もそこは変わらないけれど、ある程度、ここのメンバーはこういう人、というように特定されたタイプの人が集まってきているよね。
しかしそのようなスタイルとは違い、誰でもおいでと言って、一見無秩序に見えるような秩序を作って生きていく人たちも現れるだろう、ということなんだよ。どのようなスタイルであっても、そこに秩序がありさえすれば、それはそれで良いと思うし、そのようなところは続いていくだろうね。

ともこ:
木の花ファミリーは、ある意味すごく厳選された世界だよね。

いさどん:
そう。どう生きたら理想郷ができるだろうかということを、厳選して、研ぎ澄ました状態のモデルとして存在しているんだよ。完成形のモデルだと思うよ。
だけど、その特定の完成形が全てのモデルになるのかというと、そうとは限らない。いろんな生き方がある方が、社会は豊かだよね。
これからはライフスタイルにしても何にしても、ますます個人が尊重される時代だから、いろいろな形態が出てくるという意味では、未来の形はこれだけ、ということはないんだよ。

いずれにしても、これは答えの出ない話。銀河の周りを、太陽が惑星と共に渦を描きながら周っているでしょう。その中に我々はいて、あの渦の中に我々が表現されている。人類が誕生してから今までの期間は、太陽系が銀河を1周する間の1%にしかならないんだよ。そういった中で、これからは特定の価値観にとらわれる必要はないでしょう。
 
 


勇気を持って、愛を持って、大人ムーブメントを世界へ

多様な人々が集い、未来に向かって真剣に語り合いながら、笑いあり、涙ありの3日間を共に過ごした大人サミットの最終日。
「今はまだどう言葉にしていいかわからないけど、ここで感じたものをぜひ多くの人とシェアしていきたい」という19歳の大学生から「年齢に関係なく同じ心を求めている人たちに出会えて本当に嬉しかった」と涙を流す72歳の女性まで、参加者たちがそれぞれの想いを語った後、いさどんから以下のメッセージがありました。

年齢も職業も国籍も、多種多様な人々が集った第6回大人サミット
年齢も職業も国籍も、多種多様な人々が集った第6回大人サミット

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

みなさん、3日間ご苦労様でした。
私はいさどんです。役割はいさどんをやることです。それを最近とても感じています。
というのは、いさどんの視点というのは、やっぱり独特です。この世界の物事の捉え方がとても特殊なんです。そういう自分を生かせば、みなさんに新しい視点を伝えることができます。でも、この視点をいくら持っていても、いさどんの独りよがりでは何も価値がないですよね。それを伝える場があるということは、本当にありがたいことです。そう考えた時に、こうやって毎日心のことを伝えあっている木の花ファミリーという場所に、いさどんは生かされてるなと思います。

この価値を知ったら、やはりこれは世の中に広げていかないといけません。大人サミットは今回で6回目ですが、まだまだ世界の70億人の中の数十人です。しかし、喜ばしいことは、一人でも、そういったことを考える人が増えてきたことです。我々が教育しなくても、地球がそういう時代に入っています。
昨年、太陽系の冬至と地球の冬至が、25800年ぶりに同時にやって来ました。マヤ暦も終わった。これは、新しい価値観の時代が始まるということです。

天の川銀河を旅する太陽系の冬至
天の川銀河をゆく太陽系

二十一世紀は、どのような時代か。
私たちは二十世紀において、物理的進化の花を十分に咲かせてきました。ですから、物理的なことはもう、そんなに進化しなくてもいいと思うのです。
私たちは人間として、魂を表現して生きています。肉体と魂、それは見えるものと見えないもの、陽と陰の関係です。物理的なものをどんなに進化させても、その奥にある見えない部分が不健全であったら、物理的なものは不健全に使われてしまいます。
その代表例の一つが原発です。核融合は、人類が行きついた最高の技術です。しかし人類はまだ、太陽を再現するまでには至っていません。それは人間にはコントロールできない大変なものですから。それでも、核融合という新しい領域に人間は入ったのです。ところが、それを使って人間が何を成し遂げたかというと、原爆を作りました。原発でも、事故が起きると今の福島のように大変なことになるのです。

そこまでテクノロジーの道を進めた人間たちは、今、さらに世界を探求して、人間とは何者なのかということをわかろうとしています。
たとえば今、先進国では太陽の探査をしていますね。なぜかというと、太陽がちょっと不思議な活動をし始めたのです。太陽がちょっとだけ異常になると、地球は肺炎になります。太陽系にとっては大変大きな問題です。そこで、人類は宇宙に目を向け始めた。宇宙を探査しているのです。

0iW9a9宇宙を探査するということは、宇宙を見るのではありません。
宇宙があって、その仕組みの中に太陽系があり、そして地球があります。その中にこの地球生態系があり、私たち一人ひとりの存在につながっていきます。
この世界には、二つの視点があります。一つは、自分の目から自分の価値観で見る視点。もう一つは、自分がどの位置にいてどう生きているかということを外から観る視点です。その双方の視点があって、人間は初めて真実を知る道を歩み出すのです。
これまで、人々はその一方の視点しか持っていませんでした。しかし今、宇宙を探査することによって、宇宙から自分を捉えるという、外からの視点を持つことを人類はやり始めたのです。それが21世紀という時代です。
21世紀には、そういう意味でのテクノロジーが必要とされていきます。そのテクノロジーは何のためにあるのかといったら、私たちが、自らが何者であるかをわかるためにあるのです。それが21世紀を生きる私たちの目的であり、そのためにテクノロジーが生かされていくのです。

もう一つは、この大人ムーブメント(※)を広げるということと同じですね。人類が、一つの生命として、自分たちは何者なのかということを共にわかる時代、それが21世紀なのです。そのことを人々が理解した時、本当の意味で、人類はこの地球生態系に貢献できるようになります。依正不二(えしょうふに)の実現です。正しい法を持つものとしての人間、すなわち正法が、他の全ての生命である依法に貢献できる時代が来る。それが21世紀のテーマなのです。

太陽系は冬至を過ぎ、新しい光が差してくる時を迎えています。地球も、銀河も、そういう時代を刻み始めたのです。あとは人間がその意識に目覚めて、この世界に現象化することです。
この銀河群も、天の川銀河も、太陽系も、地球生態系も、我々の体も全て、さまざまなものがそれぞれの役割を担いながら連鎖して、ネットワークを創り、大きな世界、そして我々の体のような小さな世界を創っています。この宇宙は、その絆から生まれた愛そのものです。絆ができるところには愛が生まれます。ということは、絆があるということは、その世界は必ず善意がベースになっているということです。そして調和の世界が広がっていることに、我々はそろそろ気付くべきなのです。

それに対して、今の人間世界は、どうですか。その真実をわからないで、不調和な世界を生きてきましたよね。戦前も戦後もそうですね。命を犠牲にして、不調和な競争の世界を創って来ました。その中で人間たちは、個人的な欲求をより多く叶えてくれる社会が自由な社会だと思って来たのです。しかし、実はそれは、人々をどんどん不自由にしていくのです。なぜならそれは、欲望や、不健全な思考の中に自らを閉じ込めていくことになるからです。閉じ込めていくということは、自らを不自由にしていくということです。このように優れたテクノロジーと、多くのモノやお金があふれているのに、なぜか人々は不自由感を持っているのです。
そのように自らを閉じ込めているものがいったい何かということに気付いて、自らの縛りから自らを開放する。その魂の解放のネットワークが人類の目覚めとなって、地球生命としての役割を人類が果たす。それは、愛と調和の時代です。そういう時代が、これから開かれていきます。そして私たちは、目覚めた者として、その役割をしっかりと果たしていきたいと思うのです。

今このようなことをみなさんに伝えるのは、僕がいさどんだからです。この世界に生まれて、お前その役割を果たして来いと言われたからやっています。そしてみなさんにも、一人ひとりふさわしい役割があるはずなのです。
今までは、問題ごと(それも神様の仕掛けなのですが)を作っては、そこで苦しみ悩んで解決し、それを喜びとしてきました。それも、大事をわかる過程として必要なことでした。しかし、そろそろ次のステージへ行く時が来ています。この目的が何であるかをみんなで共有し、それを仕上げていきましょう、という時代に来ていると思うのです。
そうしたらもう、一つひとつの出来事を個人の問題として悩んでいる時ではないじゃないですか。もしもそれを個人のこととして悩んでいるとしたら、その悩みは、人とつながっていくと自動的に解決していくのです。僕は1年間に500件以上、人生相談の面談をしていますが、心の病気でも体の病気でも、その原因は何かといったら、絆の不足、愛の不足だと捉えています。そして、それはつながることによって自動的に満たされていくのです。そうすると、そこでは問題ごとを解決する必要がなくなります。たとえば、アル中の人を愛の中に入れてあげると、自然とお酒が要らなくなるのです。

この世界には、そのようなおもしろい仕掛けがあるのです。つまりこの世界には、善なる法則が流れている。それがあることに気付いて、そこに目覚めていけば、問題ごとはなくなります。それが21世紀です。それを理解して、求めていく。そしてそれをマスターして、さらに広めていく。それが、この大人ムーブメントの最も大事な目的です。
それに気付いたものは、誇らしく、堂々と伝えていくことです。万物は調和でできています。不調和な人はそれを理解できないからと言って、諦めてはいけません。全てのものはすでに調和の中に創られているのですから、不調和をやっていると必ず心が苦しくなっていきます。だから、気付いた我々は、勇気を持って伝えていく。それが「大人」と言われる心を持った人の姿なのです。

どうかみなさん、勇気を持って、すべてに対する愛を持って、行動してください。
大人ムーブメントの広がりは、みなさんに託されています。そのことを自覚して、みんなでやっていきましょう。

 

3日間を終え、新たな旅立ちを迎えた大人サミットメンバーたち
3日間を終え、新たな旅立ちを迎えた大人サミットメンバーたち

 
 
※大人ムーブメント
大人サミットの「大人」とは、年齢に関係なく、大きな精神を持つ人を意味します。
自らの意識が世界を創造しているという自覚と責任を持ち、個人の枠を超えて地球全体のために生きる人 ー それが真の「大人」です。

大人サミットでは、この「大人」たちがネットワークすることで巻き起こる「大人ムーブメント」を広げていくことを目標の一つに掲げています。
 
 


性欲にどう対応したらいいのでしょうか?

9月14〜16日、木の花ファミリーでは「第6回大人サミット」が開催されました。
大人サミットは、自らの意識がこの世界を創造しているという自覚と責任を持つ真の「大人」たちが集い、真剣に語り合いながら、次世代の生き方を発信していく場です。この大人サミットの中で、参加者の一人からいさどんに次のような質問がありました。
「世の中にとっていいことをやろうと考えていても、性欲が邪魔をする時があります。どうしてもそこにエネルギーを取られて、集中ができない。そういう時にどう対応したらいいのでしょうか。」
この質問に対し、「これはとても大切な話です」と言って、いさどんは次のように答えました。

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性欲というのは、我々生命の根源から湧き出てくる欲求です。

天の川銀河
天の川銀河

宇宙に、私たちの存在する天の川銀河があるでしょう。そこでは、セントラルサンを中心に、円盤状に星が回っています。この横向きの渦のエネルギーが起きると、縦に磁場ができます。この縦の磁場は、男性性です。そして横の渦が、女性性にあたります。この横の渦は、女性の性器にも見えますよね。それを貫いてる縦の磁場が男性器ということです。

地球の磁場
地球の磁場

地球も同じ構造になっていますね。中心に鉄のドロドロがあって、地球が横方向に回転しているのに対して縦方向に磁場ができる。これが陰(女性)と陽(男性)なのです。銀河では、常に女性性と男性性の関わりにより、恒星が集中した中心部から星が生み出されています。

私たちの体の構造も同じです。銀河を横から観ると人の目や口と同じ形をしており、これは女性器と同じ形をしています。耳は渦を巻いているでしょう。性器はまさしくその象徴です。宇宙が星を生み出すのと同じように、男女が生命を生み出すための役割として、セックスという神聖な儀式があるのです。これは宇宙の、生命を生み出していく一番大事な仕組みです。

我々はセックスを隠していますが、これがなかったら人類は存在しません。生命が連鎖しないのです。ということは、これは本来とても神聖なものなのです。それなのに、忌まわしい事のように捉えられているのはなぜでしょうか。それは、その神聖さを人々が忘れているからです。

セックスというのは、日本の神話では、イザナミとイザナギが国生みのために行った神事です。子を産むための神事として双方がその意識を確認し、合体する。そこから神(命)が生まれてくるわけです。種が鳥居(女性器)をくぐり、参道(産道)を通って、その奥にある神殿(子宮)に入ります。その子宮という子の宮の中で、子どもは十月十日の間に三十数億年の生命の進化をたどるのです。7ヶ月くらいでサルの状態になりますね。そして十月十日たつと、娑婆に出てきます。そういった神聖さが理解できないと、その尊いことが、逆に愚かしいことにつながるのです。

セックスは、神聖なものなのです。それを神聖な心で行っているかどうか、ということです。自然界のものはカルマが少なく、忌まわしい心を持っていません。だからそれは神聖な行為として純粋に行われています。しかし、人間は性欲という神聖な本能を持ちながら、同時に、忌まわしい心でそれを汚染することができるのです。そこが問題で、その構造がわかっていれば、常に神聖な行為として、神生み、国生みをするイザナギとイザナミの原点に帰れるということです。

カルマ的な欲望優先の欲求のもとは、エネルギーです。そのエネルギーを、真実の探求に使っていけば、欲望的エネルギーは自然に消えていきます。
大切なのは、日々、真実とは何なのか、自分から出てきたトラブルの原因は何なのか、そのもととなるところに興味を持って、そこへの探求にエネルギーを使っていくことです。そうすると、カルマ的欲求は自然に消えていきます。ところが、それを野放しにしている人がたくさんいる社会では、無秩序な世界ができていくのです。こういったコミュニティでも、たくさん人が集まると多くのケースで男女問題で忌まわしい場になり崩壊したりするのは、そこが原因なのです。

心を優先して磨いているところでは、健全なエネルギーが発生し、性欲も健全に湧いてくるようになります。本当に必要な、神聖な性欲しか湧かなくなるということです。
タバコを吸っている人にタバコをやめろと言っても、なかなかやめることはできません。ですから、無理やりにやめるのではなく、自分がタバコを欲しがる原因の元の部分が何であるかを知っていくことです。その探求にエネルギーを使うのです。そしてそれが湧かなくなると、自然にタバコもいらなくなる。体が健康になると、そういう欲求が湧かなくなるし、そういった間違ったものをまずく感じるようになるのです。そのようになった人にタバコを吸うかと聞いても、やめてくださいと言うようになる。やめるのではなくて自然に要らなくなる。そういう世界があることに気付くと、楽にそこへ向かえますよね。やめろって言われると、世界は苦しいところになるでしょう。だからその苦しさに負けてしまうのです。

性欲についても同じように捉えていくと、自らの学びのための発見になります。
そして、その取り扱いも難しくなくなるのではないかな、と思います。
 
 


愛とお米があればいい

木の花ファミリーには「愛とお米があればいい」という言葉があります。これは、いつの頃にか、いさどんの中から湧き出してきた言葉です。この言葉を受けて、木の花楽団ボーカルであるみかちゃんから『愛とお米があればいい』という歌が生まれ、ファミリーの祭事ではこの歌が歌われます。
この「愛とお米があればいい」の意味について、いさどんが語りました。

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まずは、そもそも愛とはなんぞやということです。

愛には、ランキングがあります。一番初めに私たちが目覚める愛は、自我です。つまり自己愛です。どんなものも自分というものを愛するわけで、我々が自分のことを大事にしたり、人からよく思われたいという欲求を持つのは、自己愛の表われであるわけです。
人間だけでなくて全てのものが、自らを存続させるための働きを持っています。それは動物や植物にも見られる姿です。例えば植物は、水がない時には根を張って水を求めていきますが、水を与えすぎると逆に怠けてしまって、水がなくなったらすぐに枯れてしまうことになります。それは自分を存在させようとする力があるということです。また虫なら、常に自らを存在させるために獲物を捕ろうとしたり、何かに襲われそうになると逃げます。これは全て自らを存続させようとする本能的な、あるいは無意識的な自己愛の姿ということができます。
それが人間的な愛になると、自我がからむことによって「~になりたい」という欲求に発展していくのです。さらに愛が他者に向くようになると、「人から愛されたい」となります。それが自我的な欲求の場合、愛が「恋愛」という所有するものになります。

恋愛の「恋」という文字は、「変」という字に「心」がついたものです。だから、心が変になっていることで、相手が多少おかしくてもよく見えてしまうような、こだわりの愛の状態です。愛は本来無条件であるものですが、恋愛は条件付きの愛ということになります。
さらに執着が進んでいくと、身内の愛、自らの血を分けた関係の愛があり、それは親子や一族の関係で見られるものです。その執着の強い愛によって、子どもの命が危険にさらされた時には、自らの命を犠牲にしてでも親はその命を救おうとします。そしてどんなに出来が悪くてもわが子は可愛いとかばうようになったりもします。それがバランスを欠くと溺愛となって問題となります。それは愛の段階において、まだ自我が自己欲求に近いということです。

さらに愛が進んでいくと、他者の為に自分が存在している、他者の喜びを自らの喜びとするという、自他を区別しない愛があります。自分を愛するがごとく他者を愛するという、菩薩の愛です。これは社会でいうキリストとか仏陀、身近ではガンジー、マザーテレサなど、そういう聖人たちの持っている愛です。
そしてさらに愛が進んでいくと、今度は無条件の愛になります。愛というのは絆によって作られます。絆というのは、言葉を変えるとネットワークです。私達は地球上に生命として生きています。この世界の実相は、いろいろな生命が連鎖して、宇宙全体を生命として存在させているということです。

生命というのは、循環して巡り巡って変化するものです。変化し続けるために、いろいろなものが連動しながら命が巡っていくという形をとっており、それがネットワークです。そこには執着や囚われの感情はありません。ただそこにその仕組みがあり続けること、また変化し続けるものですから、一瞬たりとも同じ状態はありません。永遠に変わり続けるものです。だから、その仕組みはあり続けるものであり、かつ、そのままであり続けることはありません。瞬間瞬間変わり続け、「あってあるもの、なきてなきもの」という姿を表しています。ここまでの表現を仏教的に言うと、仏の愛です。そして神という宇宙の実相から観るなら、神の愛、無条件の愛です。

ここまでは、「愛とお米」の中の「愛」についてお話ししました。愛とはそのように分類できます。
次に「お米」について話します。

120820-172802-001「米」という字は「八十八」と書き、栽培するのにとても手がかかるということですが、実はお米はあまり手がかからない作物なのです。そして、穀物の中で面積当たりの収穫量は一番高い。今日本のお米は1反歩当たり10俵、600kgもとれます。とても生産性のいいものです。ついこの間田植えをしたと思ったら、あっという間に穂が出て、その後一月くらい経ったら収穫になるのです。なかなかそれほど効率がよくて生産性のいい作物はありません。さらに、お米は私たちの主食で、なくてはならないものですが、その成分を調べると、主食と言われる穀物の中で最も栄養バランスのいいのがお米(玄米)なのです。お米は、五穀豊穣の中の豊穣の象徴です。
神話では、「高天原」というところでお米を作っています。そこでは天照大御神(アマテラスオオミカミ)が田植えをして、お米を収穫しているのです。それ以外の、ナスとかピーマンとかトマトとかいうものは作っておらず、お米だけを作っています。お米は最も大切なものであり、これがあれば人が命を紡いでいくのに十分な、とても重要な穀物だということです。お米があるということは、命を紡いでいけるということです。

もう一つ、「愛とお米があればいい」の「あればいい」についてです。
人間には、他の生き物とは違う役割があります。人間以外の生き物は与えられた役割以上のことはしません。逆に言うと、そこからはみ出たことをするような能力が与えられていない、ということでもあります。
しかし人間は、自己実現として、自らが持つ感情や欲求を満たす能力を与えられています。だから人間はどんどん新たにものを作ったり、生活を改善したり、社会を探求したり、便利にしたりする能力があるのです。それだけの能力が与えられているのです。
他の生き物は人間のようなことはできません。しかし、確実に命の連鎖のポジションから外れないようにできています。虫は虫のように、動物は動物のように、それぞれが自らのポジションから絶対外れないのです。そして命の連鎖が常に保たれるように役割を果たしている。逆に言えば、この世界の命の仕組みがまわっていくように、そこのポジションにはめ込まれているとも言えます。
それに対して、人間は先ほど述べたような役割を持っています。自己実現の能力が与えられているために、いろいろなことを考えて、自らの欲望を叶えることを喜びとします。その欲望がどんどん強くなっていくと、我が強くなり、自分のことだけを考えるようになります。その時に何が起きるかというと、この世界の健康なネットワークから外れることになるのです。自分の役割を果たしながらネットワークを存在させる菩薩の愛から外れて、自我を優先し、家族や自分の幸せだけを願う人になるのです。
さらにそれが強くなっていくと、人と対立するようになります。そして体のバランスを欠くようになります。ちょうどよい食べ方とか、ちょうどよい生活のリズムとか、そういったことを失って病気になります。それは「そのアンバランスに気付け」というメッセージですが、執着が強いと、何度痛みをもらってもやり続けます。それが、地獄を生きるということです。人間は最高の愛を表現することもできれば、地獄から抜け出すことのできない最悪の苦しみの中に陥ることもできるわけです。

そこで、人間が生きていく上で何が必要なのかと考えると、本当に必要な欠かすことのできないものと、そうではない付属品とに分ける必要があります。では、本当に必要な欠かすことのできないものとは何か。それを知るためには、生きていく上での本当の目的を見つけることです。人間が生まれて生きて死んでいく中に、人間としての役割があるということです。
人間は思考することができますし、成長して変化していく生命です。そして地獄から最終の真理までの道を歩むことができるようになっています。人間に生まれてくることは、落ちるために生まれてきているわけではなく、精神性を高めていくために生まれてきているのです。その目的を果たすためには、自分の心を磨いてきれいにしていくことです。それが人間の姿、実相なんです。汚れている状態のままでいることは、元の宇宙の実相、神様の愛の世界、そこから最も離れた状態であり、元の所に戻りなさいというメッセージをもらっているわけです。生きることは、その旅をしているのです。

その旅で一番必要なものは何なのか、逆に不必要なものは何なのかを、仕分ける必要があります。そこに愛が必要になるのです。つまり、この世界はネットワークであり、全てのものがお互いに存在させあっている命の世界であり、これが神様の実相なのです。
それを理解するためには、人間の中から湧き出してくる自己に対しての愛、エゴがどんな役割をしているのかを知る必要があります。それはそのネットワークを無視し、壊していくものです。ですからエゴをコントロールして、主食、即ち本当に必要なものだけを求めていくことが大切です。そこには、それだけしか求めません、それ以上のものはいりません、という覚悟が生まれてきます。それ以外のものを求めるとは、道がその分だけ遠回りになるということです。人が生きていくには、お米、塩、水といったものの他にもいろいろなものがいります。ですが、心はその心構えでなくてはいけないのです。
闇の中にいると光はよく見えるのですが、どんどん光が増してくると、光がわからなくなっていきます。だから、地獄に落ちるということは、本当に光の大切さを理解するために与えられているのです。その歩みの道中で、生きるということを学んでいくのです。

我々は、最高の愛のもとで創られた命のネットワークの中で生きています。宇宙が全てを繋げているのです。そのネットワークの中で、自我を表現することによっていろいろな痛みをもらい、自我を削り取っていく。それが心を磨くということです。我々はこの場所で生きることによって修行の場をいただいているのであり、人生は心の磨き場なのです。
その時に最も必要なものは、ネットワークのベースにある愛と、生きるためのベースになるお米、その二つがあればいいということです。そこに余分なものがあると、その分だけ道から外れます。人はそのことを豊かさと勘違いして、たくさん求めてしまいがちです。「癌」という字は、「品」物を「山」のように抱えると「病」気になる、ということを表しています。私たちは、生きていると生老病死といって苦しみも背負うものですが、だからこそ余分なものはいらないのです。
シンプルに心だけを探求していくことが本来の人生の目的なのです。それをやり切れば、人間はこの世界の実相である神のところまでたどり着きます。仏教で言えば、悟りの境地に至るのです。

ここに歌の歌詞があります。これは、みかちゃんが天から受けたものです。まさしくその心を表しています。
 
 
「愛とお米があればいい」

 愛とお米があればいい
 称えよ命 いただく恵み
 与えよ愛を 御心のまま
 開けよ心 歌えや命
 天の喜び 地に花開け
 愛とお米があればいい
 
 
「命」はこの世界の実相です。そして人生という尊い「恵み」をいただいて、御心の愛という宇宙の根本の御霊のままに、自らの「心」を「開き」、「歌う」ことは生きることを表すのです。「命」の賛歌です。「天」と「地」が結ばれて、天の意志が地上に生きる、地上天国、神人和合をうたっているのです。

これが「愛とお米があればいい」ということです。