「家族」って何だろう

先月、結婚をせずに生まれた「婚外子」への差別を定めた民法の規定は憲法違反だとする判決を、最高裁が下しました。一方、生殖補助医療の発展により、精子提供によって子どもを持つ親が増えていますが、現在の法律では親子とは認められていません。9月30日放送のNHK「クローズアップ現代」では、家族の形が多様化する中で法律が追いついていない現状を取り上げ、「家族」とは何か、ということを投げかけています。
この番組を見て、木の花ファミリーでも「家族とは?」をテーマに座談会の場を持ちました!

★「クローズアップ現代」内容詳細は、下記サイトにて公開されています。
 『家族とは?親子とは?揺らぐ法制度』

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いさどん:
この番組では婚外子に焦点を当てているけれど、そもそも、婚姻制度はいつごろ始まったのかな。

ともこ:
今のような婚姻制度が確立したのは、明治に入ってからみたいですね。もともと、今の家父長制的な家族観というのは日本の一般庶民の間にはなかったのだけれど、明治になって新政府が国民を統治していく手段として、一夫一婦制の家族制度を普及させたようです。ここ百数十年程度の新しい価値観ですね。

いさどん:
よく、平安貴族の話には通い婚の様子も出てくるけれど、一般庶民はどうだったのだろうね。

こはる:
コミュニティで暮らしていた、というイメージがありますね。

いさどん:
今、若い世代でシングルマザーが増えているなど、家族に対する意識が変わってきているよね。番組には、(婚外子は財産の相続が嫡出子の半分になるという民法の規定を違憲とした)判決を喜ぶ50代の女性が出てきたけれど、彼女はおそらく昔のお妾さんの子どもとして生まれた人で、今のシングルマザーの子どもたちとは背景が違うだろうと思うんだよ。
彼女が判決に喜んでいる姿を見ていると、お金のことが目的のようで、時代的なメッセージはないと僕は観ています。家父長制が大事だった時代には、彼女のような立場の人たちは当然のように差別されてきた。それは差別というよりも、当時の人々の意識では当たり前のことになっていて、その時代の価値観の中でその立場に相応しい扱いを受ける、という意味では、平等だったとも言えると思う。ところが、時代が変わって家父長制が崩壊し始めた。だからこそ、過去の価値観の中では当然とされてきたことが、今差別として浮き彫りになってきているんだよ。
一方、今のシングルマザーの増加は女性の意識の自立によるもの。同じ婚外子でも、昔のお妾さんの子どもとは背景が違うから、そこは分けて考える必要があると思います。

では、その背景を変えたものは何か。
今、若い世代、特に女性の間で、結婚を望まない人が増えてきているね。フランスでは(同棲していれば結婚と同等の社会保障が得られるPACS婚が1999年に制定されたことにより)婚外子の割合が全体の55%になっている。若い世代が結婚を選ばなくなった理由の一つに、一度結婚をしてしまうと離婚が面倒ということがあるようだね。関係がいいうちは一緒に暮らして、合わなくなったら次の相手を選ぶ。そういった考えが、これまでの家族の概念にとって代わってきたんだよ。
僕は長年人生相談を受けてきた中で、親の不仲を見て育ってきたことで結婚に積極的になれない人たちにたくさん出会ってきた。私も結婚したらあんな風になるのか、と思うと、結婚したいとは思えないのだろうね。逆に、私はあんな風になりたくない、という想いから、理想の家庭像を描いて結婚する人もいるけれど、そのようなケースの場合ほとんどは離婚します。本来、結婚してから新たな関係を築いていくべきものを、先に自分目線のイメージを持っていてそれを実現しようとするので、それが家庭崩壊の種になっていくんだよ。
昔は女性に生活力がなかったから、我慢して結婚生活を送っていた。しかし今は所得も男性とそれほど変わらなくなって、離婚という道も選べるようになった。僕はこれまでいろんな家庭を見てきたけれど、「結婚=幸せ」なんていう絵に描いたような家族にはほとんど出会っていません。というか、ないかもしれないです(笑)。

いさお:
「結婚=シワ寄せ」とか(笑)。

ともこ:
番組では、コメンテーターが「法律婚は子どもが安定して育っていく上で大切な受け皿」と言っていたよね。実際に、日本が発展してくる過程で、1対1で結婚して「家族」という単位を形成することは便利がよかったのかな、と思いますが。

いさどん:
便利がいいって、誰にとって便利がいいの。

ともこ:
社会かな。

いさお:
国家とかね。

ともこ:
明治になって富国強兵を推進していく時に、妻が安定して家庭を守ると夫は安心して戦争に専念できる、という狙いもあったって聞いたことがあります。

いさお:
戦後は、それが高度経済成長にすり替わった。

みほ:
夫はがむしゃらに働いてお金を稼いで、妻は家で子どもを育てて、それが日本の経済成長を支えていたんだよね。

いさどん:
それが崩れたわけか。つまり婚外子の発生は、今の社会的構造から来る人々の意識の変化から、婚姻制度に対する価値観が変わってきたことによって、今の現象が起きているとも言えるね。

ともこ:
そういう制度があって日本社会はここまで発展をしてきたんだけれども、そのままの価値観では進めない段階になってきているのでは。

いさどん:
だから、何かが変わろうとしているんだよ。
ここで宇宙視点で、時代を1000年単位の移り変わりで観ていくと、日本は平安時代までは母系社会だったよね。そこから封建制度が始まって、男性中心の社会になった。それが、2012年12月21日、太陽系の冬至を境にして、新しい時代の幕が明けた。
それがどのようなことを意味しているのかというと、男性性、すなわち陽が主とされていた時代から、女性性、すなわち陰が大切な時代になっていく、ということです。競争して獲得していく時代から、調和して共にやっていこう、という時代に変化していく。女性は男性に帰属することなく、一人の人間として自立して生きていく。ある意味、婚姻制度に対する反乱とも言えるかもしれないね。

この間、こんな話を聞いたよ。動物でも人間でも、若いころは精力的だから、パートナーを見つけて一生懸命子作りをする。ところが子どもがある程度の数になると、本能的なものから、種を多様化させようという力が自然に働くんだって。同じパートナーとだけだと種が均質になり多様性が失われるから、多様性をもたらすための意志が自然に働いて、他の相手と新しい関係を作る。それが自然の理にかなっている、と言うんだよ。今はそれを、婚姻制度で縛っているとも言えるね。

みちよ:
国によっては、今も複数の妻を持つ文化のところもあるよね。

ともこ:
だけど、一夫多妻制と女性の自立ってどのように捉えたらいいのかな?

いさどん:
複数の奥さんがいるというと、男性が女性を多数支配しているように見えるけれど、実は自然界では、メスがオスを選んでいるんだよ。ではオスは何をしているのかというと、動物の世界の価値感にそって、自分が価値あるものとなるように磨いているんだよ。人間も、男性は男磨きをするべきなのよ。するとそのオスは、たくさんのメスに支持される。それは、優秀な種を残すという意味では有益なことだし、それが本来の自然の姿なんだよ。それが人間の世界では、誰でも一律にパートナーを持つようになったことで、自ずと優秀な子孫が生まれる確率も低くなった、とも言えるね。
もう一つ、今の社会に大きく欠落しているものがある。女性が自立していくのはとても良いことだと思うけれど、その反面、家庭から父性がなくなってきているんだよね。リーダーシップを取れる、たくましい父親像が消えてしまって、男が男らしくなくなり、家族の秩序が失われ、調和が取れなくなってきている。そこも問題の種の一つだよね。

ともこ:
でもそれも、人類が次の段階に進むためのプロセスと捉えられますね。

いさどん:
そうだろうね。これから父性というものがどのようになっていくのかは、興味深いところだね。父親の存在が、たくましい子供たちを育てるとか、家庭の秩序を保つという役割を果たしていた時代が終わり、「家庭」というものに縛られない子どもたちが育っていくとか、特定の人間がリーダーシップを取らなくてもみんなが知恵を持ち寄ることによって成り立つ社会になるとか。それは今の木の花のような社会だね。まだ途上だけれど。

ともこ:
今のところ木の花には父性があるよね。いさどんがいるから。

いさどん:
でも僕の他にいないじゃない。だから、この僕がやっているような父性の役割がいつまでもあり続けるべきなのか、それともこの父性がもっと違う形で表現される時代になるのかといったら、後者の方でなくてはいけない、と僕は思うんだよ。

ともこ:
それがどんなものかは、先に行ってみないとわからない。

いさどん:
そうだね。新しい世界だからね。だから、そこへ向かうプロセスとして秩序が変わっていくことに抵抗しない、ということじゃないかな。
どちらにしても、これは難しいテーマだよ。いくらでも可能性がある話でしょ。いろいろなスタイルがあっていいものなのに、それを無理やり一つの形に閉じ込めてきたことに問題があるんだよ。今はある意味、そこに対しての反動が起きてきているのだと思います。だから一見無秩序になっていくように見えたとしても、そこからまた新しい突如が生まれていくのだから、その時に、それを恐れないことだよ。時代は常に移り変わっていくのだから。

ともこ:
質問です。男性が男磨きなら、女性は何をするべきですか?

いさどん:
女性は、価値あるものを観る目を育てることだよ。いかにいいものを選ぶか、ということ。女性に観る目がないと、ろくでもない種を次の世代に残すことになるでしょう。それは女性の責任ですね。

ともこ:
今の発言は、聞く人によっては誤解を生みそうですが。

いさどん:
そんなことないよ。僕は今のことを言っているのではなく、自然界や、未来について語っているんだよ。自然界で成っていることが、人間だけがそうではないルールを創ってきた。その結果、また自然界へ戻っていくのではないか、という話をしているだけなんだよ。その方がみんなも気持ちが活性化されるでしょ?
今は、特定の相手を自分のものとしたらそれで良しとして、心も磨かずにのほほんとしているわけだよ。でもそこに緊張感があれば、人は学んで成長していくようになる。学びながらその相手と一生を添い遂げることもできるし、失ってそこからまた次の可能性を探求していくこともできる。それは夢のあることだと思うよ。

ともこ:
でも観る目を養うだけでは、男性に依存することにならないですか?

いさどん:
どうして?女性がしっかりした意志を持って、未来を決めていくということでしょ。男は女性たちに採用してもらうために自分磨きをするってことだよ。常に女性が主導権を持っている世界なんだよ。自然界はそうなっているし、人間社会でも、平安時代までの日本はそうだったよね。今の人間界は、オスがうまいことを言って、お金のように自然界のものとは違うものを魅力にして、メスがそこにへつらうようなかたちになっているでしょう。そこが自然界と違うところだよね。
これまでは、個人個人が自分の欲望を叶えて、その結果として今のような社会をつくってきた。その社会の中で経験を積んだ人たちが木の花ファミリーに集まり、現代社会の行き詰まりを超えた世界を表現しようとしているんだよ。
木の花では、気持ちの合う人とカップルにはなっても、結婚してお互いを縛り合う必要はないし、生活のために誰かに養ってもらう必要も、養う必要もない。必然的に、男女の関係性から結婚についての必要性が変わってくるんだよ。

ともこ:
昔ほどではないけれど、今も世間では、婚姻制度のもと1人の人を想い続けることが美徳とされている面があるでしょ。その、本来の自然の姿から離れたことを美徳として、それが価値だと思って生きているとしたら、それって一体どこから来てるんだろう?

いさどん:
その背景を考えないといけないね。

ひろっち:
宗教的な影響も大きいんじゃないかな。キリスト教でも儒教でも、一人の人と生涯を共にするのが美徳とされてるよね。そしてその方が統制しやすい。

いさどん:
僕は多くの人の相談にのってきた立場から答えるけれど、一生その人だけを想い続けられるような相手に出会ったことのある人なんて、ほとんどいないですね。僕は問題ごとの相談にのってきた立場だから、そういった人に多く出会ったとも言えるかもしれないけれど、社会全体を見ても、やはりそういった人の方が多いんじゃないかと思う。すると「美徳」という認識は、ある意味強迫観念のように人々の中にあるものだとも言えるよね。
時代は常に移り変わっている。今だって、僕が子どもの頃とはずいぶん価値観が変わってきている。僕はどんなことがあっても「おお、新しくなったなあ」という感じで受け取るけれど、人によっては自らが育ってくる中で植え付けられた「正しさ」をなかなか手放せないんだよ。だけどそれは、進化するためには囚われずに手放していくべきもので、手放せない人ほど苦労をすることになるんだよ。
シングルマザーが話題になっているけれど、ではまともと思われる夫婦の家庭の子どもはまともに育っているのか、ということも問われるね。

みかこ:
ここに相談に来る人のほとんどが、親から受けたトラウマを持っているよね。

いさどん:
両親がそろっている家庭でも、家庭の中は不安定で父性や母性が喪失していることも多く、その中で育った若い世代は、そのトラウマから、結婚願望を持てなかったり、自らが子どもをもうけて社会責任を果たしていくような大人になりきれていないことが多い。そういった人たちは、家庭を持っても、もっと遊びたいとか、自分の欲求を優先させる傾向があるんだよ。そういった様々な要因により、婚姻制度によって保たれてきた家庭に魅力がなくなってきた、とも言えるね。
かつて鳩山さんが、子どもは社会の子だから社会で育てていこう、ということをやり始めたでしょう。これはとても進歩的な話だと思ったのだけど、結局立ち消えになった。それは、社会がまだ他人の子どもを自分の子どもだと思えていないからだよ。そして自らの子どもを、次世代を担う社会にとって大切なものとは考えずに、所有している。そういったことも、そろそろ崩壊していくといいよね。
おそらく将来は、男女の縁のもとに子どもが生まれたら、それを社会が育てていくような仕組みに移行していくのでは、と僕は考えているんだよ。その時に、父性愛や母性愛が欠如した環境で子どもが生まれてくることを考えると、こういったコミュニティのように、子どもを社会全体の子として分け隔てなく育てる仕組みは、新しい社会にとって有効だろうと思うんだよ。

いさお:
子どもを社会のものだと考えた時に、相続制度はどうなっていくんでしょうね。

いさどん:
多くの富を得た人は、それだけ社会を担ってきて、それだけの価値を築いたわけだよね。だけど次の時代は、その人の能力で創られるわけじゃない。だから、自分の代で得たものは自分の人生の中での表現として完結させて、新しい世代はゼロからスタートさせるべきだと思うよ。
だけど今の現実は、そうはなっていない。働かなくても親の遺産でお金が入ることもあるわけだよ。最初からそういうものはないことになっていれば誰もとらわれないのに、遺産をめぐって血縁の人間関係がドロドロしたりするわけだから、本当はない方がいいよね。そして、自分の実力でみんな生きていく。
財産は国のものとして、国家が生かしていけばいいと思います。共産主義の国では私的所有権を認めないよね。日本もこれから時代が進んでいくと、なるべく個人がものを持たないようになっていくのが理想だと思う。ただ、そういうことを言うと、多くの人は「自分のものが取られる」と考えるんだよ。例えば税金にしても、「税金を取られた」と言う人がいるでしょう。しかし、所得があるということは、その分だけ環境に負荷をかけたり社会の恩恵を受けている、とも言えるわけだよ。だから、生きてるうちは個人の財産として持っていてもいいけれど、亡くなった時には子どもじゃなくて社会に還元する心が大切だと思うよ。もともと我々は、生まれてくる時には何も持っていないのだから。
そういった心が自然に出てくるような精神性になればいいよね。法律を作って強制的に徴収するようでは、精神のレベルは低いと思うよ。そんな社会では豊かにならない。それができる精神性であることが大切だと思います。

ともこ:
そういった精神性になった時に、親が子供にしてあげられることは何でしょうか。

いさどん:
それは、子どもに欲をかけるのではなくて、愛をかけて育てるということだよ。そしてその子どもが社会へ出て、社会に貢献することを喜ぶ。子どもは社会の子だから、社会も手厚く面倒を見るべきだし、お年寄りも社会に貢献した人の最後の姿なのだから、やはり社会が面倒を見ていく。その社会を支えていくのが、社会に育てられて大きくなった人々なんだよ。

ともこ:
そもそも、血縁て何なんでしょう?なぜ人はそれに執着するのかな?

みかこ:
うちで人生相談を受けるときはその人の家系図を見るんだけど、あれを見ていると、家系というのはカルマの流れだなって思う。血縁とカルマとお金がセットになって、それがいろんな問題の発生源になっているんだけど、こういうコミュニティで暮らしたり、心の仕組みを学んでいくと、人の価値観が変化していくんだよね。

いさどん:
血縁というのは、「身内」と言って「身の内」と書くでしょう。自分を愛するように自分の身近なものを愛するという、エゴ的な愛の対象になるものだよね。
それが、他者へ愛を向けたり、社会に対して貢献していって、内と外の区別がなくなれば、何も自分に近いものだけを大事にするという必要はなくなっていくよね。すると、今の家族制度は自然と必要がなくなっていくだろうと思うんだよ。
今の社会の問題は、そういった連綿と受け継がれてきたものに魅力がなくなってきたことから生まれてきている。それは、何らかの新しいかたちが生まれてくる前兆であるとも捉えられるわけだよ。たとえば木の花のようなスタイルが世界中で存在していることや、都市の方へ行くとシェアハウスのように年齢や性別を超えて共に住むということが流行ってきているでしょう。若い人たちがこれから創る世界では、そういった新たな価値観のもとに秩序が生まれてくるのだろうね。

ともこ:
それは、人の意識が変わっていくから?

いさどん:
そうだろうね。例えば、夫が働いて妻や家族を養うということもだんだん崩壊してきているし、家長制度も、長男に全てを譲っていたものが、兄弟に平等に遺産を渡すようになったでしょ。代々を継続していく意味がなくなってきたんだよ。

ともこ:
それによって、どこに向かうんでしょうか。

いさどん:
それは行ってみないとわからないよね。ただ、どちらかというと封建的に観える制度だったものが、もっと多様性を認める社会になることは確かだよ。実際に、フランスでは嫡出子よりも婚外子の方が多い。それでもフランス社会は成り立っている。そのまま続くかどうかは別としても、現実にそういう国が現れてきている。その先がどうなるかは行ってみないとわからないけれど、仕組みが変わっていくことは確かだよ。

ともこ:
私は単純に、血縁というものを超えた方が、より社会全体が調和的になっていくだろうと思いました。

いさどん:
それは、一概には言えないよね。普通の婚姻制度によって保たれてきた有益な面もあるわけだから、それがなくなる時に、そのギャップから生まれるデメリットもたくさん現れるだろうと思うんだよ。
どちらにしても、新しい秩序が生まれるという意味では、歓迎すべきことだよね。

ともこ:
その「新しい秩序」は、人がそういうものを築こうと意識してもしなくても、自然と生まれてくるということですか?

いさどん:
そうだろうね。これはすごく大きなことだよ。おそらくこれは、時代の波だろうと思うんだよ。一面から見た人間の倫理観の欠如とか、そういったことだけでは捉えきれない。それは倫理観の欠如から壊れていくのではなくて、今までの制度が古くなって形骸化している。家父長制度も形だけになっている。昔のように、結婚や葬式の時に人も集まらなくなってきた。これは、個人個人の生き方の多様性が尊重される時代になってきたことの表れだと思うんだよ。
古いものが壊れることに間違いはない。大切なのは、壊れた後に何ができるかということです。その中の一つの事例として、木の花のような生き方があることは確かだと思うよ。
だけど、これ一つがあればいい、という話でもないからね。そこは、他にもいろいろな価値観のもとに新たなスタイルが生まれていったらいいと思います。

ともこ:
木の花の暮らしは、未来の人々の生き方のモデルとなることを目指して始まったと思うんだけど、いさどん自身はこれ一つがそうだと限定しているわけではないということですね?

いさどん:
感覚的に、これは新しい時代の指針となる大切な生き方だという確信はあったよ。だけど、我々は意図的に集まって、こういった暮らしを組織的につくろうとしたわけではないんだよ。今もそこは変わらないけれど、ある程度、ここのメンバーはこういう人、というように特定されたタイプの人が集まってきているよね。
しかしそのようなスタイルとは違い、誰でもおいでと言って、一見無秩序に見えるような秩序を作って生きていく人たちも現れるだろう、ということなんだよ。どのようなスタイルであっても、そこに秩序がありさえすれば、それはそれで良いと思うし、そのようなところは続いていくだろうね。

ともこ:
木の花ファミリーは、ある意味すごく厳選された世界だよね。

いさどん:
そう。どう生きたら理想郷ができるだろうかということを、厳選して、研ぎ澄ました状態のモデルとして存在しているんだよ。完成形のモデルだと思うよ。
だけど、その特定の完成形が全てのモデルになるのかというと、そうとは限らない。いろんな生き方がある方が、社会は豊かだよね。
これからはライフスタイルにしても何にしても、ますます個人が尊重される時代だから、いろいろな形態が出てくるという意味では、未来の形はこれだけ、ということはないんだよ。

いずれにしても、これは答えの出ない話。銀河の周りを、太陽が惑星と共に渦を描きながら周っているでしょう。その中に我々はいて、あの渦の中に我々が表現されている。人類が誕生してから今までの期間は、太陽系が銀河を1周する間の1%にしかならないんだよ。そういった中で、これからは特定の価値観にとらわれる必要はないでしょう。
 
 


勇気を持って、愛を持って、大人ムーブメントを世界へ

多様な人々が集い、未来に向かって真剣に語り合いながら、笑いあり、涙ありの3日間を共に過ごした大人サミットの最終日。
「今はまだどう言葉にしていいかわからないけど、ここで感じたものをぜひ多くの人とシェアしていきたい」という19歳の大学生から「年齢に関係なく同じ心を求めている人たちに出会えて本当に嬉しかった」と涙を流す72歳の女性まで、参加者たちがそれぞれの想いを語った後、いさどんから以下のメッセージがありました。

年齢も職業も国籍も、多種多様な人々が集った第6回大人サミット
年齢も職業も国籍も、多種多様な人々が集った第6回大人サミット

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みなさん、3日間ご苦労様でした。
私はいさどんです。役割はいさどんをやることです。それを最近とても感じています。
というのは、いさどんの視点というのは、やっぱり独特です。この世界の物事の捉え方がとても特殊なんです。そういう自分を生かせば、みなさんに新しい視点を伝えることができます。でも、この視点をいくら持っていても、いさどんの独りよがりでは何も価値がないですよね。それを伝える場があるということは、本当にありがたいことです。そう考えた時に、こうやって毎日心のことを伝えあっている木の花ファミリーという場所に、いさどんは生かされてるなと思います。

この価値を知ったら、やはりこれは世の中に広げていかないといけません。大人サミットは今回で6回目ですが、まだまだ世界の70億人の中の数十人です。しかし、喜ばしいことは、一人でも、そういったことを考える人が増えてきたことです。我々が教育しなくても、地球がそういう時代に入っています。
昨年、太陽系の冬至と地球の冬至が、25800年ぶりに同時にやって来ました。マヤ暦も終わった。これは、新しい価値観の時代が始まるということです。

天の川銀河を旅する太陽系の冬至
天の川銀河をゆく太陽系

二十一世紀は、どのような時代か。
私たちは二十世紀において、物理的進化の花を十分に咲かせてきました。ですから、物理的なことはもう、そんなに進化しなくてもいいと思うのです。
私たちは人間として、魂を表現して生きています。肉体と魂、それは見えるものと見えないもの、陽と陰の関係です。物理的なものをどんなに進化させても、その奥にある見えない部分が不健全であったら、物理的なものは不健全に使われてしまいます。
その代表例の一つが原発です。核融合は、人類が行きついた最高の技術です。しかし人類はまだ、太陽を再現するまでには至っていません。それは人間にはコントロールできない大変なものですから。それでも、核融合という新しい領域に人間は入ったのです。ところが、それを使って人間が何を成し遂げたかというと、原爆を作りました。原発でも、事故が起きると今の福島のように大変なことになるのです。

そこまでテクノロジーの道を進めた人間たちは、今、さらに世界を探求して、人間とは何者なのかということをわかろうとしています。
たとえば今、先進国では太陽の探査をしていますね。なぜかというと、太陽がちょっと不思議な活動をし始めたのです。太陽がちょっとだけ異常になると、地球は肺炎になります。太陽系にとっては大変大きな問題です。そこで、人類は宇宙に目を向け始めた。宇宙を探査しているのです。

0iW9a9宇宙を探査するということは、宇宙を見るのではありません。
宇宙があって、その仕組みの中に太陽系があり、そして地球があります。その中にこの地球生態系があり、私たち一人ひとりの存在につながっていきます。
この世界には、二つの視点があります。一つは、自分の目から自分の価値観で見る視点。もう一つは、自分がどの位置にいてどう生きているかということを外から観る視点です。その双方の視点があって、人間は初めて真実を知る道を歩み出すのです。
これまで、人々はその一方の視点しか持っていませんでした。しかし今、宇宙を探査することによって、宇宙から自分を捉えるという、外からの視点を持つことを人類はやり始めたのです。それが21世紀という時代です。
21世紀には、そういう意味でのテクノロジーが必要とされていきます。そのテクノロジーは何のためにあるのかといったら、私たちが、自らが何者であるかをわかるためにあるのです。それが21世紀を生きる私たちの目的であり、そのためにテクノロジーが生かされていくのです。

もう一つは、この大人ムーブメント(※)を広げるということと同じですね。人類が、一つの生命として、自分たちは何者なのかということを共にわかる時代、それが21世紀なのです。そのことを人々が理解した時、本当の意味で、人類はこの地球生態系に貢献できるようになります。依正不二(えしょうふに)の実現です。正しい法を持つものとしての人間、すなわち正法が、他の全ての生命である依法に貢献できる時代が来る。それが21世紀のテーマなのです。

太陽系は冬至を過ぎ、新しい光が差してくる時を迎えています。地球も、銀河も、そういう時代を刻み始めたのです。あとは人間がその意識に目覚めて、この世界に現象化することです。
この銀河群も、天の川銀河も、太陽系も、地球生態系も、我々の体も全て、さまざまなものがそれぞれの役割を担いながら連鎖して、ネットワークを創り、大きな世界、そして我々の体のような小さな世界を創っています。この宇宙は、その絆から生まれた愛そのものです。絆ができるところには愛が生まれます。ということは、絆があるということは、その世界は必ず善意がベースになっているということです。そして調和の世界が広がっていることに、我々はそろそろ気付くべきなのです。

それに対して、今の人間世界は、どうですか。その真実をわからないで、不調和な世界を生きてきましたよね。戦前も戦後もそうですね。命を犠牲にして、不調和な競争の世界を創って来ました。その中で人間たちは、個人的な欲求をより多く叶えてくれる社会が自由な社会だと思って来たのです。しかし、実はそれは、人々をどんどん不自由にしていくのです。なぜならそれは、欲望や、不健全な思考の中に自らを閉じ込めていくことになるからです。閉じ込めていくということは、自らを不自由にしていくということです。このように優れたテクノロジーと、多くのモノやお金があふれているのに、なぜか人々は不自由感を持っているのです。
そのように自らを閉じ込めているものがいったい何かということに気付いて、自らの縛りから自らを開放する。その魂の解放のネットワークが人類の目覚めとなって、地球生命としての役割を人類が果たす。それは、愛と調和の時代です。そういう時代が、これから開かれていきます。そして私たちは、目覚めた者として、その役割をしっかりと果たしていきたいと思うのです。

今このようなことをみなさんに伝えるのは、僕がいさどんだからです。この世界に生まれて、お前その役割を果たして来いと言われたからやっています。そしてみなさんにも、一人ひとりふさわしい役割があるはずなのです。
今までは、問題ごと(それも神様の仕掛けなのですが)を作っては、そこで苦しみ悩んで解決し、それを喜びとしてきました。それも、大事をわかる過程として必要なことでした。しかし、そろそろ次のステージへ行く時が来ています。この目的が何であるかをみんなで共有し、それを仕上げていきましょう、という時代に来ていると思うのです。
そうしたらもう、一つひとつの出来事を個人の問題として悩んでいる時ではないじゃないですか。もしもそれを個人のこととして悩んでいるとしたら、その悩みは、人とつながっていくと自動的に解決していくのです。僕は1年間に500件以上、人生相談の面談をしていますが、心の病気でも体の病気でも、その原因は何かといったら、絆の不足、愛の不足だと捉えています。そして、それはつながることによって自動的に満たされていくのです。そうすると、そこでは問題ごとを解決する必要がなくなります。たとえば、アル中の人を愛の中に入れてあげると、自然とお酒が要らなくなるのです。

この世界には、そのようなおもしろい仕掛けがあるのです。つまりこの世界には、善なる法則が流れている。それがあることに気付いて、そこに目覚めていけば、問題ごとはなくなります。それが21世紀です。それを理解して、求めていく。そしてそれをマスターして、さらに広めていく。それが、この大人ムーブメントの最も大事な目的です。
それに気付いたものは、誇らしく、堂々と伝えていくことです。万物は調和でできています。不調和な人はそれを理解できないからと言って、諦めてはいけません。全てのものはすでに調和の中に創られているのですから、不調和をやっていると必ず心が苦しくなっていきます。だから、気付いた我々は、勇気を持って伝えていく。それが「大人」と言われる心を持った人の姿なのです。

どうかみなさん、勇気を持って、すべてに対する愛を持って、行動してください。
大人ムーブメントの広がりは、みなさんに託されています。そのことを自覚して、みんなでやっていきましょう。

 

3日間を終え、新たな旅立ちを迎えた大人サミットメンバーたち
3日間を終え、新たな旅立ちを迎えた大人サミットメンバーたち

 
 
※大人ムーブメント
大人サミットの「大人」とは、年齢に関係なく、大きな精神を持つ人を意味します。
自らの意識が世界を創造しているという自覚と責任を持ち、個人の枠を超えて地球全体のために生きる人 ー それが真の「大人」です。

大人サミットでは、この「大人」たちがネットワークすることで巻き起こる「大人ムーブメント」を広げていくことを目標の一つに掲げています。
 
 


性欲にどう対応したらいいのでしょうか?

9月14〜16日、木の花ファミリーでは「第6回大人サミット」が開催されました。
大人サミットは、自らの意識がこの世界を創造しているという自覚と責任を持つ真の「大人」たちが集い、真剣に語り合いながら、次世代の生き方を発信していく場です。この大人サミットの中で、参加者の一人からいさどんに次のような質問がありました。
「世の中にとっていいことをやろうと考えていても、性欲が邪魔をする時があります。どうしてもそこにエネルギーを取られて、集中ができない。そういう時にどう対応したらいいのでしょうか。」
この質問に対し、「これはとても大切な話です」と言って、いさどんは次のように答えました。

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性欲というのは、我々生命の根源から湧き出てくる欲求です。

天の川銀河
天の川銀河

宇宙に、私たちの存在する天の川銀河があるでしょう。そこでは、セントラルサンを中心に、円盤状に星が回っています。この横向きの渦のエネルギーが起きると、縦に磁場ができます。この縦の磁場は、男性性です。そして横の渦が、女性性にあたります。この横の渦は、女性の性器にも見えますよね。それを貫いてる縦の磁場が男性器ということです。

地球の磁場
地球の磁場

地球も同じ構造になっていますね。中心に鉄のドロドロがあって、地球が横方向に回転しているのに対して縦方向に磁場ができる。これが陰(女性)と陽(男性)なのです。銀河では、常に女性性と男性性の関わりにより、恒星が集中した中心部から星が生み出されています。

私たちの体の構造も同じです。銀河を横から観ると人の目や口と同じ形をしており、これは女性器と同じ形をしています。耳は渦を巻いているでしょう。性器はまさしくその象徴です。宇宙が星を生み出すのと同じように、男女が生命を生み出すための役割として、セックスという神聖な儀式があるのです。これは宇宙の、生命を生み出していく一番大事な仕組みです。

我々はセックスを隠していますが、これがなかったら人類は存在しません。生命が連鎖しないのです。ということは、これは本来とても神聖なものなのです。それなのに、忌まわしい事のように捉えられているのはなぜでしょうか。それは、その神聖さを人々が忘れているからです。

セックスというのは、日本の神話では、イザナミとイザナギが国生みのために行った神事です。子を産むための神事として双方がその意識を確認し、合体する。そこから神(命)が生まれてくるわけです。種が鳥居(女性器)をくぐり、参道(産道)を通って、その奥にある神殿(子宮)に入ります。その子宮という子の宮の中で、子どもは十月十日の間に三十数億年の生命の進化をたどるのです。7ヶ月くらいでサルの状態になりますね。そして十月十日たつと、娑婆に出てきます。そういった神聖さが理解できないと、その尊いことが、逆に愚かしいことにつながるのです。

セックスは、神聖なものなのです。それを神聖な心で行っているかどうか、ということです。自然界のものはカルマが少なく、忌まわしい心を持っていません。だからそれは神聖な行為として純粋に行われています。しかし、人間は性欲という神聖な本能を持ちながら、同時に、忌まわしい心でそれを汚染することができるのです。そこが問題で、その構造がわかっていれば、常に神聖な行為として、神生み、国生みをするイザナギとイザナミの原点に帰れるということです。

カルマ的な欲望優先の欲求のもとは、エネルギーです。そのエネルギーを、真実の探求に使っていけば、欲望的エネルギーは自然に消えていきます。
大切なのは、日々、真実とは何なのか、自分から出てきたトラブルの原因は何なのか、そのもととなるところに興味を持って、そこへの探求にエネルギーを使っていくことです。そうすると、カルマ的欲求は自然に消えていきます。ところが、それを野放しにしている人がたくさんいる社会では、無秩序な世界ができていくのです。こういったコミュニティでも、たくさん人が集まると多くのケースで男女問題で忌まわしい場になり崩壊したりするのは、そこが原因なのです。

心を優先して磨いているところでは、健全なエネルギーが発生し、性欲も健全に湧いてくるようになります。本当に必要な、神聖な性欲しか湧かなくなるということです。
タバコを吸っている人にタバコをやめろと言っても、なかなかやめることはできません。ですから、無理やりにやめるのではなく、自分がタバコを欲しがる原因の元の部分が何であるかを知っていくことです。その探求にエネルギーを使うのです。そしてそれが湧かなくなると、自然にタバコもいらなくなる。体が健康になると、そういう欲求が湧かなくなるし、そういった間違ったものをまずく感じるようになるのです。そのようになった人にタバコを吸うかと聞いても、やめてくださいと言うようになる。やめるのではなくて自然に要らなくなる。そういう世界があることに気付くと、楽にそこへ向かえますよね。やめろって言われると、世界は苦しいところになるでしょう。だからその苦しさに負けてしまうのです。

性欲についても同じように捉えていくと、自らの学びのための発見になります。
そして、その取り扱いも難しくなくなるのではないかな、と思います。
 
 


愛とお米があればいい

木の花ファミリーには「愛とお米があればいい」という言葉があります。これは、いつの頃にか、いさどんの中から湧き出してきた言葉です。この言葉を受けて、木の花楽団ボーカルであるみかちゃんから『愛とお米があればいい』という歌が生まれ、ファミリーの祭事ではこの歌が歌われます。
この「愛とお米があればいい」の意味について、いさどんが語りました。

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まずは、そもそも愛とはなんぞやということです。

愛には、ランキングがあります。一番初めに私たちが目覚める愛は、自我です。つまり自己愛です。どんなものも自分というものを愛するわけで、我々が自分のことを大事にしたり、人からよく思われたいという欲求を持つのは、自己愛の表われであるわけです。
人間だけでなくて全てのものが、自らを存続させるための働きを持っています。それは動物や植物にも見られる姿です。例えば植物は、水がない時には根を張って水を求めていきますが、水を与えすぎると逆に怠けてしまって、水がなくなったらすぐに枯れてしまうことになります。それは自分を存在させようとする力があるということです。また虫なら、常に自らを存在させるために獲物を捕ろうとしたり、何かに襲われそうになると逃げます。これは全て自らを存続させようとする本能的な、あるいは無意識的な自己愛の姿ということができます。
それが人間的な愛になると、自我がからむことによって「~になりたい」という欲求に発展していくのです。さらに愛が他者に向くようになると、「人から愛されたい」となります。それが自我的な欲求の場合、愛が「恋愛」という所有するものになります。

恋愛の「恋」という文字は、「変」という字に「心」がついたものです。だから、心が変になっていることで、相手が多少おかしくてもよく見えてしまうような、こだわりの愛の状態です。愛は本来無条件であるものですが、恋愛は条件付きの愛ということになります。
さらに執着が進んでいくと、身内の愛、自らの血を分けた関係の愛があり、それは親子や一族の関係で見られるものです。その執着の強い愛によって、子どもの命が危険にさらされた時には、自らの命を犠牲にしてでも親はその命を救おうとします。そしてどんなに出来が悪くてもわが子は可愛いとかばうようになったりもします。それがバランスを欠くと溺愛となって問題となります。それは愛の段階において、まだ自我が自己欲求に近いということです。

さらに愛が進んでいくと、他者の為に自分が存在している、他者の喜びを自らの喜びとするという、自他を区別しない愛があります。自分を愛するがごとく他者を愛するという、菩薩の愛です。これは社会でいうキリストとか仏陀、身近ではガンジー、マザーテレサなど、そういう聖人たちの持っている愛です。
そしてさらに愛が進んでいくと、今度は無条件の愛になります。愛というのは絆によって作られます。絆というのは、言葉を変えるとネットワークです。私達は地球上に生命として生きています。この世界の実相は、いろいろな生命が連鎖して、宇宙全体を生命として存在させているということです。

生命というのは、循環して巡り巡って変化するものです。変化し続けるために、いろいろなものが連動しながら命が巡っていくという形をとっており、それがネットワークです。そこには執着や囚われの感情はありません。ただそこにその仕組みがあり続けること、また変化し続けるものですから、一瞬たりとも同じ状態はありません。永遠に変わり続けるものです。だから、その仕組みはあり続けるものであり、かつ、そのままであり続けることはありません。瞬間瞬間変わり続け、「あってあるもの、なきてなきもの」という姿を表しています。ここまでの表現を仏教的に言うと、仏の愛です。そして神という宇宙の実相から観るなら、神の愛、無条件の愛です。

ここまでは、「愛とお米」の中の「愛」についてお話ししました。愛とはそのように分類できます。
次に「お米」について話します。

120820-172802-001「米」という字は「八十八」と書き、栽培するのにとても手がかかるということですが、実はお米はあまり手がかからない作物なのです。そして、穀物の中で面積当たりの収穫量は一番高い。今日本のお米は1反歩当たり10俵、600kgもとれます。とても生産性のいいものです。ついこの間田植えをしたと思ったら、あっという間に穂が出て、その後一月くらい経ったら収穫になるのです。なかなかそれほど効率がよくて生産性のいい作物はありません。さらに、お米は私たちの主食で、なくてはならないものですが、その成分を調べると、主食と言われる穀物の中で最も栄養バランスのいいのがお米(玄米)なのです。お米は、五穀豊穣の中の豊穣の象徴です。
神話では、「高天原」というところでお米を作っています。そこでは天照大御神(アマテラスオオミカミ)が田植えをして、お米を収穫しているのです。それ以外の、ナスとかピーマンとかトマトとかいうものは作っておらず、お米だけを作っています。お米は最も大切なものであり、これがあれば人が命を紡いでいくのに十分な、とても重要な穀物だということです。お米があるということは、命を紡いでいけるということです。

もう一つ、「愛とお米があればいい」の「あればいい」についてです。
人間には、他の生き物とは違う役割があります。人間以外の生き物は与えられた役割以上のことはしません。逆に言うと、そこからはみ出たことをするような能力が与えられていない、ということでもあります。
しかし人間は、自己実現として、自らが持つ感情や欲求を満たす能力を与えられています。だから人間はどんどん新たにものを作ったり、生活を改善したり、社会を探求したり、便利にしたりする能力があるのです。それだけの能力が与えられているのです。
他の生き物は人間のようなことはできません。しかし、確実に命の連鎖のポジションから外れないようにできています。虫は虫のように、動物は動物のように、それぞれが自らのポジションから絶対外れないのです。そして命の連鎖が常に保たれるように役割を果たしている。逆に言えば、この世界の命の仕組みがまわっていくように、そこのポジションにはめ込まれているとも言えます。
それに対して、人間は先ほど述べたような役割を持っています。自己実現の能力が与えられているために、いろいろなことを考えて、自らの欲望を叶えることを喜びとします。その欲望がどんどん強くなっていくと、我が強くなり、自分のことだけを考えるようになります。その時に何が起きるかというと、この世界の健康なネットワークから外れることになるのです。自分の役割を果たしながらネットワークを存在させる菩薩の愛から外れて、自我を優先し、家族や自分の幸せだけを願う人になるのです。
さらにそれが強くなっていくと、人と対立するようになります。そして体のバランスを欠くようになります。ちょうどよい食べ方とか、ちょうどよい生活のリズムとか、そういったことを失って病気になります。それは「そのアンバランスに気付け」というメッセージですが、執着が強いと、何度痛みをもらってもやり続けます。それが、地獄を生きるということです。人間は最高の愛を表現することもできれば、地獄から抜け出すことのできない最悪の苦しみの中に陥ることもできるわけです。

そこで、人間が生きていく上で何が必要なのかと考えると、本当に必要な欠かすことのできないものと、そうではない付属品とに分ける必要があります。では、本当に必要な欠かすことのできないものとは何か。それを知るためには、生きていく上での本当の目的を見つけることです。人間が生まれて生きて死んでいく中に、人間としての役割があるということです。
人間は思考することができますし、成長して変化していく生命です。そして地獄から最終の真理までの道を歩むことができるようになっています。人間に生まれてくることは、落ちるために生まれてきているわけではなく、精神性を高めていくために生まれてきているのです。その目的を果たすためには、自分の心を磨いてきれいにしていくことです。それが人間の姿、実相なんです。汚れている状態のままでいることは、元の宇宙の実相、神様の愛の世界、そこから最も離れた状態であり、元の所に戻りなさいというメッセージをもらっているわけです。生きることは、その旅をしているのです。

その旅で一番必要なものは何なのか、逆に不必要なものは何なのかを、仕分ける必要があります。そこに愛が必要になるのです。つまり、この世界はネットワークであり、全てのものがお互いに存在させあっている命の世界であり、これが神様の実相なのです。
それを理解するためには、人間の中から湧き出してくる自己に対しての愛、エゴがどんな役割をしているのかを知る必要があります。それはそのネットワークを無視し、壊していくものです。ですからエゴをコントロールして、主食、即ち本当に必要なものだけを求めていくことが大切です。そこには、それだけしか求めません、それ以上のものはいりません、という覚悟が生まれてきます。それ以外のものを求めるとは、道がその分だけ遠回りになるということです。人が生きていくには、お米、塩、水といったものの他にもいろいろなものがいります。ですが、心はその心構えでなくてはいけないのです。
闇の中にいると光はよく見えるのですが、どんどん光が増してくると、光がわからなくなっていきます。だから、地獄に落ちるということは、本当に光の大切さを理解するために与えられているのです。その歩みの道中で、生きるということを学んでいくのです。

我々は、最高の愛のもとで創られた命のネットワークの中で生きています。宇宙が全てを繋げているのです。そのネットワークの中で、自我を表現することによっていろいろな痛みをもらい、自我を削り取っていく。それが心を磨くということです。我々はこの場所で生きることによって修行の場をいただいているのであり、人生は心の磨き場なのです。
その時に最も必要なものは、ネットワークのベースにある愛と、生きるためのベースになるお米、その二つがあればいいということです。そこに余分なものがあると、その分だけ道から外れます。人はそのことを豊かさと勘違いして、たくさん求めてしまいがちです。「癌」という字は、「品」物を「山」のように抱えると「病」気になる、ということを表しています。私たちは、生きていると生老病死といって苦しみも背負うものですが、だからこそ余分なものはいらないのです。
シンプルに心だけを探求していくことが本来の人生の目的なのです。それをやり切れば、人間はこの世界の実相である神のところまでたどり着きます。仏教で言えば、悟りの境地に至るのです。

ここに歌の歌詞があります。これは、みかちゃんが天から受けたものです。まさしくその心を表しています。
 
 
「愛とお米があればいい」

 愛とお米があればいい
 称えよ命 いただく恵み
 与えよ愛を 御心のまま
 開けよ心 歌えや命
 天の喜び 地に花開け
 愛とお米があればいい
 
 
「命」はこの世界の実相です。そして人生という尊い「恵み」をいただいて、御心の愛という宇宙の根本の御霊のままに、自らの「心」を「開き」、「歌う」ことは生きることを表すのです。「命」の賛歌です。「天」と「地」が結ばれて、天の意志が地上に生きる、地上天国、神人和合をうたっているのです。

これが「愛とお米があればいい」ということです。
 
 
 


21世紀の扉を開ける「大人サミット」

木の花ファミリーでは、個人の枠を超えて社会全体のために生きる真の「大人」を目指す人たちが集い、地球の未来を真剣に語らう「大人サミット」を開催しています。今回が6回目となる9月14日〜16日の開催に向けて、改めて大人サミットの意義を確認する場が持たれました。話し合いにはファミリーメンバーの他、これまで木の花育ちの高校生として大人サミットに参加し、4月からは大阪の美容専門学校に通っている19歳のれいかや、宗教家として若者の育成に当たる荒さんなど、数名の大人サミットメンバーも参加しました。

★「大人サミット」について詳しく知りたい方は、こちらのページをご覧ください。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
大人サミット当日に、何をするか。サミットのテーマはすでに参加者の中からも出ているので、それがどうなっていくのかは当日に譲りたい。その場で湧き出てきたものをみんなで練り上げて、一つの作品のように仕上げられたらいいね。
今、大人サミットのメーリングリスト上で若者を中心に活発に意見が出されていて、これだけ活発ならもう大人サミットはやらなくてもいいくらいだよ(笑)。ただし、言葉で語っていることを現実に実行しなさい、ということだけどね。

第4回大人サミットでのワークショップ
第4回大人サミットでのワークショップ

彼らの書いている内容を見ると、大人サミットは年齢は関係ないなと思う。経験や社会的地位も関係ない。これまでの参加者は経験や社会的地位のある人が多く、優れたことを語っていたけれど、生活にそれを反映していくのはなかなか難しい現状がある。木の花ファミリーがやっているのは、言行一致を実践していくということ。そして実際に行動する人のムーブメントを創っていくことが大切だと思う。
大人サミットで僕たちが投げかけていることは、視点を上げれば当たり前のことです。だけどそれが、大人サミットの場を離れて参加者が「個」に返った時の現実と距離がある。その距離をいかに埋めるかというのは、個人のテーマというよりも、僕は人類のテーマだと思っています。今の社会は、政治家なら票集めとか、経営者なら経済だとかいうことに視点が傾きすぎているよね。地球規模でものが観える人が少ない。これが今の人類の実態です。

大切なことは大切で、それを譲ってはいけない。人生を紡いでいくには、人の尊厳や価値に関わることを最優先にしたいものです。お金の話などは3番4番でやっていくと、自然と物事はうまくまわるようになっていくものです。

れいか:
私は逆にここから外に出て、ここで学んだことをみんなに伝えようという考えでいるよ。今100人のクラスの学級長をやっているけど、他のクラスよりもまとまりがいいの。だけどそれを先輩に言っても、後輩が先輩に言うものじゃないって言われる。一般社会ではそれが普通なんだよ。だから、自分とも戦わなくちゃいけないけど、社会との関係も考えるようになったよ。

いさどん:
それはれいかが一般社会に出たからで、そこにはそこのルールがあるんだよ。そこは柔軟にやっていくといいね。大切な信念は変えないで、通じないところには柔らかく接する。それは自分を下げることではないんだよ。大人サミットで語られるような意識は、最終的にそれがほんとうに大事だよね、ということになればいいわけで、そこに至るまでのプロセスとしてはそれでいいんだと思うよ。

まり姉:
改めて大人サミットの意義を問う投げかけをメーリングリストに流したけれど、従来の参加者からはほとんど反応がないね。

いさどん:
それは今の人々の実態なのだから、我々が継続していくことが大切だよ。僕は必ず世の中に火が点く時が来ると思っているけれど、本当に火が点くまでは種火だけでも保ち続けておくことが必要で、今の我々は種火の状態だということ。気づいた人たちにとっては重要でも、気づかない人たちにとっては見えていないことで、それが今の世の中の人々の位置だと思えばいいんじゃない。

ひとみ:
今回は、より参加者の主体性を大切にするために外部主導の大人サミットでいこうということになったよね。

いさどん:
本来、大人サミットというのは始めから外部主導で進めようとしたんだよ。だからこそ、火が点くまでは我々が種火を維持していくということだよね。周りが動かない限り木の花が主導でやるけれど、本来は外部主導であるべきものだということは常に投げかけ続けてきたんだよ。これは地球規模の話なのだということを、伝え続ける必要があるんだよ。それをせずに木の花が一方的にやっていては、本末転倒になる。いくら素晴らしいと言っても独りよがりでやっていては意味がないし、逆に火が点かないものに対して怒っていても仕方がないので、それは時代の歩みとして尊重しなければいけない。
現実的には国民はアベノミクスの安倍さんを支持しているわけで、自民党は国民が求めていたことをすっかり反故にしているのに、経済政策だけに踊らされている。政治の世界は国民を愚弄していて騙しているのに、そこが観えない国民だからこそ、ふさわしい政治があるわけです。木の花党を立ち上げるぞ!(笑)だけどそこにヒットしない国民がいる限りは、仕方がないね。
だから我々は、ここで種火を維持しながら、国民の意志がどこかで沸点にくるのを待っているんだよ。そのために、こんなマニアックな生活をしているんだよね。このマニアックな生活は、決して我々の独りよがりの生活ではないはずだよ。これは天との契約においてやっていることだから、個人的な願望でやっていることではないのです。
今大事なのは、これを継続していくこと。毎回、大人サミットはいい場所になっている。これは間違いない。参加者も「すごいところに出会ったなあ」と思って帰っていく。だから、参加しなかった人は損をしたと思うくらい、サミットで話し合われた内容をしっかり発信していったらいいと思う。

ひとみ:
木の花では、生活そのものが大事を優先するようになっていて、基盤が整っているから持続していけるけれど、世の中ではなかなかできないよね。

いさどん:
できないけれど、それぞれの人が関わっている場所を、例えばれいかが今通っている学校を、そういったことの伝わる場所にしていくというのは、長いスタンスで考えれば大事なことだよ。そういった身近なことも含めて、未来の地球についてどう考えるかということがサミットなのだから。

れいか:
その時に、見返りを求めない方針でいくべきだなと思う。

いさどん:
もちろん、答えをどこに落としたいかということは求めない。

れいか:
ここでその話を聞けただけで良かったと思う。何かの拍子に、あの時にこんな話をしていたなと思い出して、それを友達に伝えていったら、今度は友達がそれを支持してくれるかもしれない。

いさどん:
それが種まきだね。いいこと言うね。

れいか:
学級長に選ばれて良かったと思うのは、朝の会が始まる前に、学級長が思っていることを話す場があるの。その後に先生が話すんだけど、先生も理不尽なことを言ったりしないし、私も学級長として思った通りのことを言える。

まり姉:
そう考えると、社会のどこから発信していっても同じことだと思う。木の花からとか、ある会社からとかいう小さな単位から始まって、機が熟してきたら広がってつながり合って、同じ方向を向いていく。木の花の中にいても、個人個人の心磨きにはでこぼこがあって、サボる人もいれば熱心に語る人もいて、いさどんが「なかなかみんなに伝わらんなあ。俺の独りよがりかな」と言いながら見守っている感じと一緒だね。

いさどん:
意欲的な若者も現れ始めているのだから、我々年寄りとしてはこういう場を持ち続けて、若者たちに火が点く時につなげられればいいと思っています。
いつか必ず、「宇宙人」の意識に人々が目覚める時が来るよ。だけど、今の選挙で誰を選んだら国や地球の未来を託せますかと国民に問うたら、いないよね。それで今回僕は投票しないということを選びました。投票したい人がいない、その原因は何かと言ったら、国民の目が開いていないからでしょ。それを開眼させるのが、大人サミットですよ。自分の中の神仏の目を開き、真実に目覚める人が「大人」ということですよ。

まり姉:
荒さんは、若者との関わりについてメールに書いておられましたよね。

荒さん:
ある新聞に、憲法問題に関連して「若者は感覚的に物事を理解しているが、大人の世代は理論や理屈で理解している」というようなことが書かれていました。それを読んで、若者とその上の世代とは話がうまくかみ合わない理由が少しわかったような気がしたんです。感覚で感じている若者にいくら理論や理屈で説明してもわからない。本当に若者に理解してもらいたいなら、「本当にいい社会とはこういうものだ」と感じられるものを創るしかない。例えば木の花のような生活を味わってもらって、今度は自分たちがどのようにしたら自分たちの「木の花」的なものを実現していけるのか、と考えていくようにしないと、いくら理屈で言っても伝わらないと思うんです。

いさどん:
良い社会論は、吐いて捨てるほどあります。ではそれは実際にどこにあるのか、ということですよね。

まり姉:
どう?わたわたは最後に一言何かある?

わたわた:
ほとんど同意です。

いさどん:
そういう意識を持っている人はまだ貴重な存在の部類だからね。本来は視点が広がればそれは当たり前になって闊歩しているはずです。そして大多数がそうなるはずなんだけど、残念ながらまだそこまで人間は熟していないからね。でも、21世紀はその扉が開く世紀だよ。それも早い段階で扉が開くことを、僕は感覚的に感じてる。そのために、我々のような生活も自然発生的に生まれたのだし、そういう意味でも天との契約でやっていることだから、私利私欲はないのです。そのことを知った者の役割と責任上、継続して火が点くのを待つということです。

わたわた:
まともに考えれば当たり前じゃない、というところにみんなが気付いた時に、当たり前の考えを真面目に地道に実践しているこんなところがあったんだ、ということだね。

いさどん:
人生を正攻法で生きることだよね。

わたわた:
社会を見渡すと、「今まで自分たちのしていたことは、何でつながりがなくぶちぶちと切れていたんだろう」というところに気付き始めている人たちはいる。ことさらそこにフォーカスすると、誰かを持てはやすような一過性のムーブメントになったりするんだけど、それも達観して観れば、大きくみんなが気付いていくための小さな種火が燃え始めているんだろうな、と思っています。それがうまくネットワークするとどんなことになるのかということを、少し前倒ししてやってみよう、というのが「大人サミット」だと思う。

いさどん:
エコビレッジという限定されたものではなく、みんなで何かをやろうというムーブメントは、若者たちの中で生まれ始めている。それが本当に言行一致で生活に定着したものになるという意味では、エコビレッジ的生活は注目されてくると思う。我々もエコビレッジの代表と言われるけど、何もエコビレッジを広げるためにこの生活をしているわけではないよね。エコビレッジという言葉だけで表現できる木の花ではないのだから。もしエコビレッジと言うなら地球がエコビレッジで、みんなの家ということなんだからね。
いずれにせよ、火が点かなければ種火を保っていく作業が必要だけれど、その種火も、だんだん1箇所で保たなくてもネットワークでできるようになってきた。それをやりながら、後は社会の動きと連動していくことだよね。ある特定の場所だけが盛り上がって、自己満足で終わるような世界ではいけない。
去年の冬至以降、宇宙は既にそういう時代へとスイッチを入れ替えたのだから、後は人間たちがいつそれに目覚めるか、というだけのこと。これは宇宙的スケールでやっていることだから、間違いないことです。