自己研鑽が足りません!

「自己研鑽が足りません!」

昨年に引き続き、今年もヤマギシ会から大勢の方がファミリーを訪れています。1泊2日のスケジュールの中で、農作業やお料理体験以外に「いさどんと座談会」というオプションも秘かな人気を呼んでいます。今回のブログではその座談会の模様の一部をご紹介したいと思います。ヤマギシ会からは、きくにい、としバァ、みのたん、こうじさん、しゅうちゃん、ファミリーからはいさどん、まり姉とようこが参加。まずは、きくにいの人生相談から座談会がスタートしました。

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

きくにい:
私には2人息子がいて、32歳の長男のことで相談があります。ヤマギシの幼年から高等部まで出た子なのですが、性格的には優しい面もあるし親想いの面もあります。ただ、仕事があまり長続きしないということがあります。

いさどん:
今はどこにいるのですか?

きくにい:
今は村にはいなくて、三重県に住む女の子のアパートで同棲をしています。

いさどん:
同棲は何年くらいになるのですか?

きくにい:
もう1年くらいになると思います。その前は千葉で一人暮らしをしていました。

いさどん:
その頃は自分で働いて暮らしていたのですか?

きくにい:
はい。1年半か2年くらい、宅急便か何かの会社に勤めていました。それで、その会社をやめてからしばらく働かない時期が続き、家賃も滞納するようになったのです。保障会社から「息子さんは家にいてもなかなか出てこないから、家賃も払ってもらえない」という連絡が、親である僕のところに来るようになったのです。それで、こちらも息子に連絡を取ってみることにしました。最初の頃はメールの返事がありましたが、そのうちまったく連絡がつかなくなって、電話しても出ないしメールを送っても返事が来ないし、「これではいかん」と思い、保障会社の方に息子の住所を聞いて会いに行くことにしたのです。

いさどん:
それまで息子がどこにいるか知らなかったの?

きくにい:
千葉にいるということは知っていたのですが、住所まではわかりませんでした。それで居所をつかんで息子に会って話をしたのです。その時の生活状況を見たらお金もほとんどなく、「このままでは生活が出来ないから村に帰って来い」と話しました。そして、2回目に会いに行った時に引っ越しをしてこちらに息子を連れてきたのです。後になって本人は、「本当は帰って来たくなかったけれど、親が来いと言うから嫌々来た」と言っていましたが。

そうして僕と一緒に1ヶ月くらい暮らしていたのですが、そのうち外でのアルバイトで出会った彼女と知り合い、彼女の家にちょくちょく泊まるようになってこっちに帰って来なくなったのです。結局、部屋は確保してあるけれど本人は帰って来ないので、ついこの間部屋を整理して、その部屋に今度結婚する人が入ることになりました。でも、住所はそのままになっているのです。本人には、「彼女のところに同棲しているのだから、彼女のところに住所を変更するように」と言っているのですが、「わかった」と言いながらなかなか行動が伴わないというのが現状です。今はアルバイトもやめて、また無職の状態でいます。

いさどん:
彼女は働いている?

きくにい:
はい。だから、彼女に食べさせてもらっている状態です。それをこれからどうしていったらいいのか。息子にメールを打ってもなかなか返ってこないし、今は居場所も教えてくれないという状況です。

いさどん:
ところで、あなたは息子がどういうふうになったらいいと思っているの?「これなら自分が心配しなくても大丈夫だ」というのはどのようになったらよいのですか?

きくにい:
普通に働いてもらって、自立して生活が出来ていれば、それが親が望むところです。

いさどん:
今、「普通」という言葉が出てきましたが、普通って何だろう(笑)?

としバァ:
今、ちょっと引っかかったことがあってね。子どもに「自立してほしい」と言っている父親の方が実は自立していないんじゃないの?私はきくにいのことをちょっと知っているからね。

いさどん:
さすがとしバァ!面白い観方をしますね。

としバァ:
村でも、みんな子どものことを色々と話すけれど、私は全部その人のことだと思って聞いているからね。「それってあんたのことじゃない?子どものことじゃないよ」とよく言うの(笑)。ちょっときついかもしれないけれど、そういうふうに反対に聞いてみる。「あんたは自立しているの?自立と自力は違うよ」って。子どもの問題じゃないと思っている。

きくにい:
実は、僕もそう思ったんですよ(笑)。木の花ファミリーに来て、「問題の種は自分の心の中にある」と気づいたのです。その種を取り除かない限りは、姿形を変えてまた問題が起きてくると。

いさどん:
その話を始めたら、もうアドバイスはいらないね(一同、笑)。

きくにい:
ここに来て、そうやって言われましたから(笑)。

いさどん:
これは法則だからね。「誰かが言ったから」というものではなくて、この世界の法則なのです。

きくにい:
だから、「子どものことはやはり自分の問題なのかな」と思ったのですが、ちょっと相談してみたい気持ちもあったものですから。

いさどん:
自己研鑽ですよ!

みのたん:
僕はきくにいの息子さんの話をヤマギシの研鑽学校で聞いていました。

いさどん:
そのことはみんなのこととして取り上げられているの?

みのたん:
きくにいがその話題を研鑽学校で出したので、知っている人は知っています。今、きくにいがここでもその話題を出すということは、まだそれが解決されていないということだよね。

きくにい:
解決されていない。

としバァ:
自分をちゃんと研鑽していないんじゃない(きくにい、苦笑)?それなら何のために研鑽学校に行ったのかわからないわね(一同、苦笑)。

いさどん:
僕はそういう話の相談に乗るのが得意なんですよ(笑)。ちょっと聞きたいのは、彼は今32歳でしょ? ヤマギシでずっと育って、いくつで社会に出たの?

きくにい:
はっきりとは覚えてないのですが、24、25歳です。

いさどん:
それまでは何をしていたの?

きくにい:
千葉に友達がいて、その友達を頼って新聞配達を始めたのです。その友達も新聞配達をやっていましたから、その子の紹介でね。でも、うちの子はねぼすけなんですよね。

いさどん:
新聞配達でねぼすけ(一同、笑)!それでは最初から適性検査ではねられてしまうんじゃない(笑)?でも、ねぼすけを直すために新聞配達に行く人もいるからね。

きくにい:
それでよく遅刻をしていたらしくて、結局そこはクビになりました。

いさどん:
クビになるということは良いことですよ。社会というものがどういうものなのか、それだけ覚えるわけでしょ?それで僕が聞きたいのは、彼が32歳になるまでそういった歴史があるわけです。きくにいはいきなり今の同棲の話からしたけれど、そこで問題が発生しているわけではないはずです。

きくにい:
もっと小さい時からということですよね。

いさどん:
そうそう!そこのところに原因があるはずなのです。そして、本当はもっと前の段階、彼が育っていく時の人間形成がどうだったのか、そこから社会に対してなぜ不適応になっていったのか、ということを観ていく必要があると思うのです。

きくにい:
心当たりはあります。

いさどん:
あるでしょ(一同、笑)!それがあるのに、いきなり結果である問題の話から始めるものだから、僕としては答えようがなくなってしまいます。そこには自分の性格が表われていると思いませんか?

きくにい:
はい(笑)。そう思います。

いさどん:
それなら自己研鑽すればいいじゃないですか(一同、笑)!ヤマギシには研鑽学校というものもあるのだし、そこで研鑽することをマスターすれば、日々の中で自分がそれをやっていけばいいじゃないですか?僕は冷たいかな(笑)?

きくにい:
いや。。。

としバァ:
当たり前のことよね。

いさどん:
としバァはそう言うけれど、出来ない人もいるんだよ。

としバァ:
やろうとしていないだけじゃない?

いさどん:
やろうとしていないだけだって(笑)。それと僕が想うのは、32歳の息子が千葉のどこで暮らしているのかわからない。結果として向こうから連絡があったとしても、それは親のことは忘れられているということだよね。忘れられているということは幸せなことでもあるのです。息子が何をやっているにしろ、親が色々な事情を知らなくてもいい状態で暮らせているということだから。世の中には四六時中子どもを監視しないといけない状態にいる親もいるのです。

息子が彼女と同棲しているというのも、彼女を見つけられない男の子もいるのです。それに働くことがあまり長続きしないと言っていたけれど、ヒモになっているのは甲斐性!それで食べられているのは大したもの、という観方もあるよね。そう考えると、息子は上手に生きているじゃないですか(一同、笑)。

きくにい:
ただ、さっき言ったように家賃は滞納しているのですよ。

いさどん:
滞納しているお金は息子にその支払いをさせればいいじゃないですか。別にきくにいが保証人になっているわけではありませんよね。

きくにい:
はい。

いさどん:
あなたは息子の人生を自分のものにしているけれど、息子の人生を息子に返したらどうですか。それって、所有ですよ(一同、笑)。最近、春日山ではともちゃんが醤油をつくろうと言っているんでしょ?

みんな:
・・・?

いさどん:
それはどうでもいい話。醤油と所有をかけただけだから(一同、爆笑)。僕に相談して来る親御さんに結構子どもを所有している人がいて、「こうであるべきだ」と子どもに接する人もいるのですが、「子どもの人生は子どもに返してあげなさい」と僕はいつもアドバイスするのです。

今、きくにいは息子のことだけ話すけれど、きくにいの奥さんの存在が息子との関係の中で全然出てきません。そうすると、この夫婦関係はどうなのかということが僕にはピンとくるのです。まずはこの夫婦関係から子どもの人格は形成されてきているのです。それでも、この息子は親に極端に依存しているわけではありません。

きくにい:
はい。どちらかというと、親から離れたいのだと思います。

いさどん:
つまり、きくにいは依存していない息子に対して、「おまえ、それでいいのか」とちょっかいを出しているのです。世の中にもっと病的な親子関係があるのだとしたら、この息子は結構自立心があると思うのです。それを評価していない。これは、やはり研鑽学校の学びが足らないということです。もう一回受け直してみたらどうですか(一同、笑)?

僕は通常相談に乗る時には家系図を書いてもらって、まず相談者がどのように育ってきたのか。その次に結婚していれば配偶者がどのように育ってきたのか。そして、当人の人格はどういう人なのか、配偶者の人格はどういう人なのか。夫婦の相性はどうなのか。そこでどういう心の環境が出来て、どういう子どもが出来たのか。その子どもの人格はどうで、親の影響をどう受けているのか。その関係の中で引きこもりやうつ病、社会に適応しない子どもになるのかを見ていくのか一般の相談の場合です。

でも、ヤマギシの人には「研鑽する」というベースがあります。そうすると、本来はそういうノウハウを持っていて、学びの中で自己研鑽が出来ているはずなのに、それが出来ていないということなのです。つまり、きくにいは怠慢ということです(一同、笑)!自己研鑽が怠慢ということです。

きくにい:
ずばり、その通りだと思います(一同、笑)!

いさどん:
研鑽学校のルールに沿ってやっていけば、「僕にはここが欠けていたな。わかっていても、ここをやっていなかったな」ということが観えてくると思うのです。そうしたら、あとは実行するだけです。

ようこ:
ここで重要なのは、きくにいの心の中に問題を引き起こす種があるということ。だから、ここで形に捉われて「今、息子との関係に執着があるから、息子と離れればいいんだ」とそれだけをやると、心の中にはまだ問題の種が残っているわけだから、今度は心の病になったり他の人間関係でトラブルが起きる可能性も出てくる。だから、息子との距離という物理的なことで終わらせないで、まずは自分の心の性質を知りそれを健全な方に持っていくという根本を変えていけばいいと思います。

いさどん:
それは木の花研鑽学校に入らないと結構難しいよ(一同、笑い)。それをここでは毎日やっています。今日自分に出てきた不満や、自分の中に湧いてきた想いが何だったのかということを毎日紐解く。きくにいのような心の状態で日々を生きるということは、ここではありえないのです。つまり、きくにいがそういう想いを持っているということは全体の問題だから、本人がそのままにしておいても、まわりがほっとかないのです。「今日、きくにいはこんなことを言っていたよね。本人が出さなくても、それってちょっと問題じゃない?」と出してくれるのです。それは木の花の良いところです。

まり姉:
基本的に自己研鑽は自分一人では出来ないと私は思っているから、みんなに「お願いします!」と委ねています(笑)。

みのたん:
ほっておくというのもありますよね。

いさどん:
それは一番大切なことなのですが、最初からほっておいてはダメなのです。味噌でも醤油でも仕込んだ後にそれでそのままほっておくのかといったら、醤油だってかい入れをするし、味噌だったら半年に一回くらい状態を見ます。だから、ほったらかしではダメなのです。仕込んでほっておいても、途中でちゃんと様子を見る。つまり、ただほっておくのではなく、熟成させながら見守ることが必要なのです。

だから、この場合の「きく味噌(一同、笑)」はいじくり過ぎています。それではダメなのです。きくにいは息子のことを変にいじくり過ぎているんだよね。頭がまわり過ぎるでしょ?

きくにい:
いや、まわらないと思いますが。

いさどん:
それはまわっているのだけれど、適確にまわさず成果が出ない形でまわっているから、まわっていないと感じるのです。

きくにい:
無駄にまわしているということですね(笑)。

いさどん:
そうそう!「息子はどうしているかな?」とああでもない、こうでもないと沢山まわしていると思うけれど、歯車が噛み合わない形でまわっているのです。

ようこ:
エネルギーをまわす方向が違っているということ。もっと社会のためとか、地球のためとか、世の中の方にまわすといいと思いますよ(一同、笑)。

いさどん:
だって、全人幸福でしょ?それでヤマギシに参画しているんでしょ?でも、実際には息子のことばかり考えているじゃないですか(一同、笑)。

きくにい:
息子のことばかり、ということではありませんが(笑)。

としバァ:
世の中のことや地球、宇宙規模のことが本当に自分の中にあるかどうか、というのはすごく大事だと思う。それがない限り、子どもに想いを向けたって上手くいかないと思うのよね。本当によく考えないとダメな時に来ているんじゃないの?

いさどん:
とりあえず、今の話は自己研鑽が足りないということに尽きるのではないでしょうか。もし、自己研鑽が難しいなと感じたら、ヤマギシの研鑽学校で何をやったのかをもう一度振り返ってみる。それで解答が出ないようなら、木の花研鑽学校に入学してみる。そんなところでどうでしょうか?

みのたん:
これできくにいの問題は解決したのですか?

いさどん:
この場合は解決しない方がいいのです。木の花でケア滞在者を預かる時に、僕たちはその人の問題を解決してあげません。みんなでアドバイスをするし一緒に考えることはしますが、解決はしません。こちらが直すと依存症になるからです。それから、もし教祖がいて解答を出していたら、信者が出来ますよね。信者が出来てしまったら宗教になるのです。誰でも自分の解答は自分で持っているはずなのです。それを自らが出せる人になった時に、この世界は理想世界になるのです。医者がいるから患者がいて、でも医者がいなければ自分で病気にならないようにしたり、自分で治すことを考えるはずです。だから、解答を出してあげることが良いばかりではないのです。それでは人は育ちません。

そうすると、息子の問題は息子に返してあげるのだし、きくにいの問題はきくにいに返さないといけないのであって、もしまわりの人たちが仲良しだからと言って解答を出してあげたら、きくにいはいつもみんなに解答をもらう人になってしまいます。きくにいは息子を所有していたし、みのたんはきくにいを所有していたことになる(笑)。

みのたん:
きくにいがここでも息子の話題を出すのかと思ったので。。。

いさどん:
きくにいはこういうことが好きなのだと思います。そういう心の体質をしているのでしょう。それがこの人の中にあるエネルギーの消費の仕方なのです。さきほどとしバァが、「もっと広いことを考えたらどう?」と言っていたでしょ。例えば地球のことで悩んでいたら、きっと息子のことにエネルギーを使わなくなるのです。つまり、他のところにエネルギーを使わないものだからエネルギーが余っていて、そんなことに使っているのです。ひとりの人間が使うエネルギー量というのは、多い人も少ない人もいますが決まっているものです。それをどこに使っているかによって人生が変わるのです。もっと広く世の中のことを考えている人は、身近なことにエネルギーを使わないのです。

これからはヤマギシの高齢化についてちょっと悩んでみるというのはどう(一同、笑)?そうすると、息子のことはどうでもよくなるものです。

みのたん:
いさどんの話を聞いていて面白かったのは、人生相談のようなことから社会のことにまで話が広がるんだなということです。最初は、「この話がどういう展開になるのだろう?」と思っていたのですが。

いさどん:
僕はいつも先の展開を考えず、行きあたりばったりで現場合わせです(笑)。社会にまで話がつながるというのは、こういう親がいてそういう息子がいるということも社会の問題を創っているからです。

きくにい:
ひとりひとりがね。

いさどん:
そうです。だから、社会をどうするのかは、みなさん一人一人に託されているのですよ。つまり、社会を良くするかどうかは社会を構成する一人一人の手にかかっているのです。ヤマギシもせっかく「全人幸福」と言っているのだから、自分たちの中で自己完結せず、ヤマギシの人たちで社会についてもっと悩めばいいと思うのです。今まであまり社会のことについては悩んでこなかったでしょ?

みのたん:
今まではヤマギシのためにヤマギシを拡大させてきたという感じがあったのだと思います。

いさどん:
ここには、常にケアの人が来るでしょ。まり姉もケアのような形でここに来ているしね。

まり姉:
私は教師だったから、教師によくあるパターンでうつ的に自分で何でも抱え、おかしくなっていった。真面目と言われている人ほど潰れていくという典型的なパターンです。そして、そういう人たちがここに寄ってくる(一同、笑)。だから、ここでは社会にあるものが先取りしてやってくると言われています。

いさどん:
ここでは社会のことが訪れる人によって観えるのです。だから、常に社会を把握し社会のことを考えているのです。自殺についてもそうです。これからのヤマギシもそういうふうに変身するべきだと思います。自分たちの充実は十分出来ているのだから!僕はこの前春日山に行って、「ここは桃源郷だな」と思ったけれど、「僕もここで暮らしたらボケるかもしれないな」とも思いました(笑)。

こうじさん:
僕は今の話を聞いていてね、うちにも25歳の息子がいるのです(一同、笑)。それで、ちょっとパターンは違うのだけれど、うちの息子も3年くらい同棲しているのです。僕は普段、「自分は自分だし、他人を変えることは出来ない。だから、自分が変わっていくしかない」という想いがあるのですが、今のいさどんの話を聞いていたら、「やっぱり俺は息子を所有しているんだ」とわかりました。

いさどん:
昔、こうじさんも同棲していなかった?

こうじさん:
いや、していません。

いさどん:
僕は同棲していたよ(一同、笑)。同棲時代!神田川の時代です(笑)。

こうじさん:
うちの息子は普通に働いて暮らしているのだけれど、ぼつぼつ身を固めたらいいんじゃないかとどうしても思ってしまうのです。うちの女房は「本人のことだからそんなこと言っても仕方がないでしょ」と言うのですが。

いさどん:
女房の方が賢いですね(一同、笑)。

こうじさん:
というふうにも思うのだけれど(笑)、やはり僕としては籍を入れずに中途半端なままでいいのかなという想いもあるのです。

いさどん:
あなたは決めつけが激しいですね。

こうじさん:
そうだと思います(笑)。

いさどん:
息子は息子の人生だし、自分だって親の言う通りに生きてこなかったでしょ?

こうじさん:
はい(一同、笑)。

いさどん:
それって、やはり自己研鑽の対象だよね(笑)。

きくにい:
自己研鑽したらどうですか(一同、爆笑)?

まり姉:
要は、同棲ではなくて2人が籍を入れたら悩まないということですか?

こうじさん:
まあ、わからないけれど、そうですね。

いさどん:
それって古いよ。大正時代の話だよ(笑)。

としバァ:
一緒に住んでくれる人がいるだけありがたいじゃん。

いさどん:
それと、一緒に住んでいたって籍を入れないといけないというルールなんてどこにもない。

こうじさん:
でも、籍を入れていなくて2人が別れた時に、相手がどのような気持ちになるのかなとか。。。

いさどん:
つまり、彼女の方が大事なの?

こうじさん:
いや、というよりも、彼女の方を傷つけることにならないかとか。。。

いさどん:
もし彼女がそういうふうに別れて傷つくのだとしたら、それは彼女の人生の問題だから、こうじさんは彼女まで所有していることになるんじゃない?

こうじさん:
そうかもしれませんね(笑)。

いさどん:
エネルギーが余っている!やはりこれからは地球や宇宙のことを考えていかないと(一同、笑)!

こうじさん:
今の話を聞いていて、やはり自分を所有しているのだと思いました。

いさどん:
よく考えると、それって越権行為だよね。だって、彼女と息子が考えればいいことなのに、「彼女が傷つくかも」ということまでお父さんが考えているのだから(笑)。だけど、傷ついてから彼女もそこで色々と学んで育っていくわけなのに、お父さんが息子の恋愛や人生まで「こうでなくてはいけない」と全部シナリオを描いている。僕はこういう親を持ったら困るね。あなたも困るでしょ(笑)?

こうじさん:
「自分もその立場だったら困るだろうな」と思うのだけど(笑)。

いさどん:
完全に自己研鑽が足りません!

まり姉:
その「けど」がダメですよ(笑)。

としバァ:
研鑽学校で習わなかった?「たらたらたら」と「でも」はありません!って。

いさどん:
やっぱりヤマギシでも同じことを言うんだ。ここでも「けど」は御法度です。二つの心を持つことになるからね。息子の話はもういいでしょ?

こうじさん:
はい(笑)。

いさどん:
あとは自己研鑽あるのみ(一同、笑)!

――

(座談会から10日後、きくにいから以下のようなメールをいただきました。)

1月24,25日に木の花を訪問し、座談会でまな板に乗ったきくにいです。

木の花から帰ってから座談会の様子を妻に話したら、「息子の事も考えて出したの?」と言っていましたが、私は包み隠さず出せて良かったと思っています。この事で一歩も二歩も進んだ様に思います。息子の事はもとより、自分をも所有していた事に気づかされました。  

私は小さな小さな細胞ですが、生かされるところで生かしてもらえればと思います。今までは「自分が幸せでなければ他の人を幸せに出来ない」と思っていましたが、今は「他の人の幸せや喜びに繋がる事で自分が生かされれば、それが自分の幸せになる」という、こういう思考回路はどうだろうかと思っています。

日々自己研鑽をしてますよ。


あなたはわたし わたしはあなた

木の花でのケアの事例を分析するため、ケア卒業生であり現メンバーであるいさおちゃんにインタビューをし、幼少期から現在に至るまでのレポートをまとめました。そして、さらに多角的にいさおちゃんの事例を分析するために、いさどんがいさおちゃんと面談する場がもたれました。その面談にはいさどん、いさおちゃんの他に数名のメンバーも同席しました。

今回のブログでは、その面談の様子をご紹介します。

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

いさどん:
まず、いさおちゃんは男性ですが4人兄弟の末っ子で、精神的にも人に依存する体質が強く、自立心に欠けます。しかし、負けず嫌いで虚勢を張るという傾向も元々持っています。両親の組み合わせについては、あまり良くありません。父親はどちらかと言うと立派な発言をし、それにふさわしいどっしりとした中身がない人です。しかし、レポートを読むと、いさおちゃんは父親のことを非常に評価しています。

いさおちゃん:
親父が繊細だということは死んでから聞かされたことで、それまでは全然気がつきませんでした。

いさどん:
それは本人が父親を正しく見ないでイメージとしての父親像を持っており、そういうものを求めていたからです。だから、実際の人物ではなく自分のイメージとしての父親を見ていることになるのです。そして、それはどこから来ているのかというと、母親から来るプレッシャーを良しとしないことから、どこかに拠り所、救世主を求め、自分の中に偶像的な父親をつくったというところでしょう。母親がいさおちゃんに厳しく当たるのは、父親が父親としての役割を十分に果たさないことから、彼女が父親役も兼ねることになり、そういったことが負担になって、その負担の分だけヒステリックになって子どもに当たるということだと思います。長男、長女、次男、本人のいさおちゃんということからすると、長男は最初の子どもだったから比較的良かったのかもしれないし、レポートを読むと優秀だったということもあるのだと思います。次男と長女については、あまり母親の言うことを聞かないタイプだから、母親から見たらかわいくない子どもだったと思います。それに対していさおちゃんは、そういった上の人たちとの軋轢を見て、これは自分が母親から良い点をもらうチャンスということで母親に媚を売る傾向になってしまい、そこでは母親から褒められ期待されるということがあったのだと思います。

母親にしても本人にしてもここで言えることは、子どもの実態、親の実態を見て言っているのではないということです。色々な思惑の結果、自分が求めるものを対象に投影し、それを表現しています。そこでは偶像を追っかけているということです。だから、表面的にはそれがどんなに良いもののように見えたとしても、最終的にどこかで本当のところが見えてくると、いずれ屈折したものが現れてくるということです。

レポートの初めの方に「素の自分になりたい。それは非常にフレンドリーな自分」と書いてあるのですが、素の自分になりたいと言っているわりには、素の自分がわかっていません。そういうふうにバーチャルなものを追っかけているわけですから、本当の自分を見ていないし、対象の本当も見ていないのです。何か自分の思惑の中で対象に対してイメージがあったり、自分がこういうふうにありたいというイメージの中で生きている結果、それは現実逃避にもなるのです。そういうことを長年やってくると、不安定な確信のない毎日を送ることになります。憧れとして安定した自分でありたいのに、不安定な部分が人間関係など色々なところに出てくるものです。少し前まで母親はいさおちゃんに「神父になってほしい」と言っていましたが、これもまた相手を見ていないという例です。

いさおちゃん:
母親は今でもそう思っています。先日も、家に帰った時にそう言われました。

いさどん:
それはいさおちゃんになってほしいのではなくて、自分の息子の中でひとりそういう人がいてほしいということです。

いさおちゃん:
まったくその通りで、以前、母親が木の花を批判するようなことを言った時に、僕が「やめてくれ!ただでさえ僕は揺れるのに、親にまでそんなことを言われたらたまったものではない。頼むからそういうことを言うのはやめてくれ」と言ったことがありました。そうしたら、普段ならそこで反発する母親が、「本当に申し訳なかった」と泣き出し、「上の3人の子は自分の期待から外れていったけれど、あなたが生まれた時にこの子だけは神父さんにするんだというすごく強い想いがあったから、その願いが強すぎてそういうふうになってしまった」と言ったのです。その時に僕は、「そんなふうに想っていたんだ!」とびっくりしたのですが。

いさどん:
常に自分の中に強い思惑があり、それを実現したいという思いがある状態でそれを表明せずに内に秘めていると、そんなふうに歪んだ形で心を出すようになります。なぜそういうことをするのかというと、心のどこかではそれが実現しないとわかっているからです。そうすると、想いが達成されないという不達成感の想いだけが残っていき、非常にネガティブな心の環境をつくっていくのです。母親だったって暗いばかりの人ではありませんが、夫との関係によってよりそれが強くなっていったのだと思います。しかし、仮に父親が優秀でなければまだ救われるものです。この父親のようなタイプの人は、優秀であると鼻もちならない態度をまわりの人に取るので、まわりの人は不満があってもそれを言えない状態になってしまいます。だから、ここでは優秀であるということが問題をつくっているのです。優秀ではない方が謙虚な人格につながり、人間関係としては良いとも言えるのです。

いさおちゃん:
父親が死んだ後のことですが、母親が父親に「あんたはものを知らない」と馬鹿にされていたと何度も聞きました。そんなにきつい物言いではなかったと思いますが、母親はそれを真に受け傷ついた節がありました。僕はそれを聞いて、「父親がそんなことを言っていたんだ」と思ったのですが。

いさどん:
母親は傷ついたと思います。しかし、彼女がもうちょっと精神的に強ければ、傷つく前にそこで言い返すことも出来たでしょう。ところが、彼女には傷ついてもそれを外に出さず常に自分の内に秘めるという傾向があるのです。そして、そういった負のエネルギーが溜まっていったのです。父親が優秀でなく出世しないような人であれば、まだ気持ちがおさまるのでしょうが、そうではありませんでした。だから、母親のストレスの行き場が子どもに向けられたのです。長男といさおちゃんの精神的な傾向は似たようなものですが、長男は期待されてある程度は期待に応えたのだと思います。だからこそ、親としては特別いじらなかったのでしょう。しかし、2番目、3番目の子は言うことを聞かないものだから、お母さんからしたら最後のいさおちゃんに対して「この子だけは」と思ったのだと思います。いさおちゃんは期待をかけると一応形としては応えてくれるタイプです。ただ、いさおちゃんが健全な想いに応えればよかったのだけれど、不健全な想いにすら応えてしまういさおちゃんがいました。不健全な想いに子どもが応えていけば、応えた子どもに結果として屈折したものが残っていくのです。だから、いさおちゃんはよく「他人の犠牲になった」というようなことを言うけれど、これはいさおちゃんの精神性と母親との組み合わせでそうなったのです。例えばいさおちゃんが長女や次男のような精神をしていれば、こういうことにはならないということです。

いさおちゃん:
長男はたしかに期待に応えてきたのだけれど、親を恨んでいます。

いさどん:
恨んでいるというのは、いさおちゃんと同じようにプレッシャーをかけられたからです。

いさおちゃん:
親は「あの子は言わなくても勉強したし、すごく出来て感心だった」と言っていたけれど、本人は「プレッシャーがかかっていて、辛くて辛くてたまらなかった」と言うのです。そこにすごくギャップがあります。

いさどん:
しかし、彼はそれだけ勉強が出来たから、いさおちゃんほど屈折していません。

いさおちゃん:
その通りです。

メンバー:
いさおちゃんはいつまで期待に応えていたの?

いさどん:
いさおちゃんの場合は期待に応えていたのではなく、ずっと相手のペースに付き合ってきたのです。今でもそれをやっています。レポートの中に「母親に対して対立的な時代があった」と書いてあるけれど、対立には色々な種類があります。例えば、「夫婦喧嘩は犬も喰わない」というようなじゃれあうように仲が良いからコミュニケーションとして対立するとか、余っているエネルギーを消費するために対立の場をつくるということもあります。また、絆を深めるために確認し合うとか、反対に相性が悪くて対立のエネルギーを消費する場合もあるのです。そうすると、この場合の対立というのは前者の方の対立でコミュニケーションを取る方法のひとつだから、夫婦でいうところの腐れ縁のような関係です。本当に相性が悪ければ、対立した結果距離が出来てしまうものです。しかし、この場合は距離が出来ずに対立を続けていくのです。

いさおちゃん:
まさに腐れ縁ですね。

いさどん:
いさおちゃんが人に媚を売るような傾向というのは子どもの頃からあります。自分の意志とは違った行動を敢えてすることによって人間関係を調整しようとすると、人から支持してもらおうと思ってやっていることが他者からはかえって不自然に感じられ、逆にいじめの対象になったりするものです。そうすると、またそこでさらに屈折が追加されるのです。だから、自分が一生懸命人に支持されようと思って努力していることが、「そういうおまえが嫌いなんだよ」と言われたことにつながります。このケースはよくあることで、対象の状態やそこにある問題を見ずに、自分の中にあるトラウマや思惑で人と接しているという状態です。だから、その現象に対処しているはずなのに、自分の思惑と外れたことが起きることになるのです。

いさおちゃん:
まったくその通りです。

いさどん:
だから、対話しているはずなのに対話出来ていないことになるのです。これは人間関係が難しくなる根本的な原因です。それと、この人の特徴として過剰に反応するところがあります。言葉でもより汚く表現したり、実態よりもはるかに過激な表現をするところがあります。それは自分の中に籠っている怒りなどの感情をその時その時素直に表現出来る家庭環境ではなかったということです。「素の自分でありたい」という想いが抑制され、さらに相手に気に入られようとするという心も働き、その両面が存在し、素直な自分を表現してこなかったということです。

それから、いさおちゃんは非常に環境に左右されやすいタイプです。いさおちゃんには元々持っている強い癖があるわけではないので、まわりの環境を反映しやすいタイプです。こういった人は鏡のような人なのです。そういう意味では正直なのです。つまり、自分なりに検討することなく与えられたものの影響を受け、そして他者に同じような影響を与えるのです。それは場合によっては良いことではありません。例えば誰か自分のまわりの人がいらいらしていたら、いさおちゃんはそれを受けて別のところにそのいらいらをぶつけるということをするのです。

いさおちゃん:
それがそのまま増幅されていくこともあります。

いさどん:
いさおちゃんにストレスがあれば、それは増幅して他者へ行きます。常に被害者的なものの捉え方をするのでその分だけは増幅しますが、それは子どもの時代にはなかったはずなのです。それは積み重なってきたものであり、大人になってそれが非常に強くなってきたのです。特に社会に出てからそういうことが強くなって、心の行き詰まりになっていったということです。

いさおちゃん:
たしかに、昔はそんなに過激な表現をしていなかったと思います。だんだんひどくなっていきました。

いさどん:
そういった感情は今でも消化されていません。だから、いさおちゃんにとって僕は良き理解者で非常に重要な存在なのに、そういう大切な人を陥れようとすることにもなるのです。だから、まわりの存在が自分に対して何であるのかをもっと理解するといいと思います。レポートにもありましたが、「まわりからすれば自分は嫌な奴だろうという反面、愛嬌のある一面もあった」というのは、そうやって二面性を持ってとりつくろいながら生きてきたのです。それで、「素の自分はフレンドリーである」と言いながら人に対して被害者的な感情を抱き、場合によっては攻撃もするのがいさおちゃんです。そういう感情を持って生きていると、沢山の問題事に出会うことになります。

いさおちゃんはこれほど親切に分析して接してくれる環境にいるから今の状態でいられるのですが、もしこの環境に出会わなければ、当然精神的にも場合によっては肉体的にも困難な状態に陥っていたでしょう。ひょっとして社会生活不適確者になっている可能性もあります。人はとかく現在の自分の状態を振り返ることをしませんが、日々を奇跡のように配慮されているということに気づくと、人は謙虚になれるものです。謙虚になると常に学習し受け取る心が出来ますから、賢明に生きられるのです。

それに引き換え、今までのいさおちゃんは欲しいばかりで、与えてもらっていてもそれを評価しないから、多くの不満を言ってありがたいという心がありません。だから、結局沢山もらっているにもかかわらず、文句を言っているどころか、くれないからと言って相手を攻撃するような人になってしまいます。

メンバー:
いさおちゃんはここに来てから素の自分になりたいと思ったのか、それとも元々「こんなのは本当の自分ではないはずだ」と思っていたのですか?

いさおちゃん:
「こうなりたい」というイメージをはっきり持っていたかはわからないけれど、とにかく枠があって辛いから、「自分がなんでこんなに不自然なんだろう」と思い、それをどうにかしたかった。

いさどん:
それは自我に目覚めて親からのプレッシャーがかかるようになってから、ずっと思っているはずです。思っているからこそ余計に現実を直視しなかった。そして、自分の中の正直な想いと違う顔をすればするほど屈折していき、それがどんどん育っていったのです。大人になってさらにそれが高じてきて、自分の平常心を維持することが出来なくなってきたということです。

いさおちゃん:
外に良いものを見せているのは努力のつもりでしています。「こんな自分ではいけない。ちゃんとしなきゃ」という想いがある。良い自分をやるというのはとりつくろうばかりではなくて、やっぱり良くあろうとしてやるのだけれど、やればやるほど辛いです。

いさどん:
それは努力の方向が違っているからです。つまり、努力の結果、「あなたは良い子ね」と評価されることが良いことと見ているから、自分自身を人格的に成長させ積み重ねていくというところを築いてこなかったのです。人が評価してくれるからそこで達成感を得て、止まってしまっていたのです。あなたの姿勢は学校のテストで答案に書いたら丸がもらえます。しかし、実際にあなたの心とその解答にはギャップがあるから、現実の世界では問題事の発生源になります。いさおちゃんは表面的な評価での合格が欲しいから、ダメと言われることに反応します。しかし、自分の本質を知ることが深い人をつくり、その人を育てていくのに重要だということ。そこに気づかず怠ってきたのです。本物になるためには上っ面だけの回答を得ることでは出来ない覚悟がいるのです。その覚悟を持つだけの潔さがなく、自信がないから、とりあえず表面的な答えで合格をもらおうとします。しかし、人間力としての実力を身につけるということをしないと、このことはいつまでたっても解決しません。

メンバー:
いさおちゃんにインタビューをしていた時は素の部分というのがよくわからなくて、いさおちゃんにも、「素の部分って何?」と聞いたのだけれど、今の話を聞いていたら、現実の自分があって素の部分があり、その奥にまた魂があると思うのですが。

いさどん:
ここで言う素の部分というのは、本人の憧れが素の部分になっているのです。

いさおちゃん:
そうです。

メンバー:
それはどこから来ているのですか?

いさどん:
育ってきた環境から、「人から評価されたい」という想いが出来てきて、そこからつくられたのです。だから、求めている部分が本当の自分と違っているのです。もっとも、それは環境からつくられたものなので、違う環境だったならば本当の素の部分が表現されることになります。そうすると、この親子関係という背景ではなくて別の環境でのびのびと育ったならば、きっとフレンドリーな人が生まれたはずなのです。

メンバー:
いさおちゃんと元々の心の形が似ているまこっちゃんのように、ストレートに表現出来るということだよね。

いさどん:
そうです。いさおちゃんにもそれが出来たはずなのです。しかし、それが出来なかったばかりに、素の部分が憧れになっているのですが、環境によってはその素の部分と憧れの部分が一致するということです。

メンバー:
そうすると、理想的な素の部分というのは、魂の形というか、本来の自分ということですよね。

いさどん:
理想というより本人の願望が強くあるということです。その願望が素の部分になっているのです。人はそれぞれに理想を持っているわけです。それはその人の成り立ちによって変わるわけです。さらに、その人の背景を変えると理想はまた変わるということです。そして、素の部分が求めていることを与えるような環境であれば、本人の理想と素の部分が一致するということです。

ここで言う素の部分というのは、魂が元々生まれ持ってきたものです。だから、環境から来る自分の求める部分と、元々の魂が表現したい素の部分があるのです。いさおちゃんの場合は、そこで明らかにギャップがあります。

メンバー:
「こういう環境を与えると、こう反応する」というパターンという意味では、今表わされていることはすべていさおちゃんの素を表現しているということだよね。

いさどん:
そういう意味では、どんな場合でも現れているものはすべて素なのです。つまり、屈折していること自体がそういう屈折の種が自分の中にあるということなのです。

みかちゃん:
きっと、いさおちゃんはこういう環境負荷がかからない場合のもっと明るいイメージの素の部分を求めているんだよ。

いさおちゃん:
そう。

いさどん:
それは、憧れの素の部分です。

メンバー:
だから、現実の自分から逃げているのよね。

いさどん:
逃げるというよりも現実にそれが現れてこないから、バーチャルの世界で自分に負荷がない状態をイメージするのです。

いさおちゃん:
そうですね。

いさどん:
それを素だと言っているのですが、その素というのはバーチャルな世界なのです。

いさおちゃん:
いつもしんどいと思う心が自分の中にあって、それがない状態というのをいつも考えています。発想がそこから来ているから、「これさえなければいいのに」と思っているところはあります。

いさどん:
それは物事を正しく捉えずに、逃避的に捉えているのです。いさおちゃんは常にそういうふうに逃避しながら被害者的にものを捉えています。それは冷静さに欠けているから、その経験が次に活かされないのです。

メンバー:
生きていること自体が被害という考えだよね。

いさどん:
それは極端な表現ですが、そういうことも言えます。

メンバー:
お母様がそういう方ですものね。

いさどん:
そういう意味ではいさおちゃんは鏡のような人だから、お母さんがそういう形で彼に接してきた結果、彼にその人格が表われているのです。しかし、環境が変われば全く違う人にもなります。それに対して、母親は環境が変わってもあまり変わらない人です。それは根本の素の部分が違うからです。彼女は取り越し苦労のように非常に難しく物事を考えるタイプの人であり、しかも長女として生まれてきたのでプレッシャーのかかった中で育ってきましたから、性格上、辛い人生を生きた人です。

いさおちゃん:
母親はシスターになりたかったのだけれど、親が「そんなのとんでもない」と言って、親が持ってきた縁談の相手と結婚したと聞いています。

いさどん:
そうやって自らの希望が裏目に出るものだから、自分自身にも悪いイメージが起きてきて思考が屈折することになるのです。だから、大変辛い人生を歩んできたかもしれませんが、実はそれも自らが招いたことなのです。そして、それがいさおちゃんにもそのまま引き継がれています。「親の因果が子に報い」ということです。

そうすると、そういった感情が自分の中にあって他者に出さないうちは単なる個性で終わっていくのですが、それが外に対して出た時に必ず反応するものが現れて、そこでまた伝承されていくのです。その時に、それを学びにして消化し、外に負の現象を表わさないということが因縁断ちということになります。因縁というのは、結果をもらった時にそれを次の原因として、次へ伝承するということです。一般的には親子の因縁が代々引き継がれ、その家系に特徴的に見られる出来事や人の性格のようなことによって表われてきます。それは個人が自らの原因を消化しないで他者に伝承することから来るものです。しかし、個々が結果を受けた時にその因縁が自分に来た原因を理解し、そこで消化してしまえば他者に因縁は行かないのです。これは世の中を綺麗にすることであり、因縁断ちということになります。家族のみならず、他者と接する時には常に自分の因縁が表現されているのですから、悪因縁を他者に渡さないこと。その因縁断ちの出来る人になることが大切です。

ですから、自分の人間性が他者に伝承されていく時に、何をもたらすかによってその人の価値が決まるのです。その時に有益なものをもたらしたいものです。単なる情報伝達くらいにしておきたいものです。ところが、世の中には有害をもたらす人が沢山います。ここでもいさおちゃんは、場合によって有害をもたらす人になることがあります。もし、一般社会の中でいさおちゃんが生きていれば、それは生活の行き詰まりになることです。そして、ここの人としてはあるまじき姿勢です。

いさおちゃん:
それを何とかしようと努力してはいるのですが、自分では結構的外れな努力をしてきていると思います。

いさどん:
それは自分の中だけで考えて努力するから、いつまでたっても変わらないのです。つまり、的外れであるのならば、謙虚に人の言うことに耳を傾けようという姿勢がありさえすれば立ち直るものなのです。しかし、そこで自分流にばかり行動していれば、どんどん的外れになっていくわけです。自分流を繰り返しやり続けているということは、謙虚さが足らないということです。

いさおちゃん:
そうだと思います。

メンバー:
以前いさどんが、「みかちゃんが反発するよりもいさおちゃんが反発する方が傷つく」と言っていたよ。

いさどん:
それはなぜかというと、みかちゃんは元々人の言うことを聞かない人で、自分で悟って歩んでいく人だからです。しかし、いさおちゃんのように自分をしっかり持っていない人で、こんなに有益なものを与えられている人が、それでもって反発するとガッカリするのです。こんなに宝物をもらっておいて、それをしっかりと使った挙句に、「甘いものが欲しい」と言ったら甘いものをあげ、しかも「食べすぎはダメだよ」と指導までさせておきながら、最終的にいさおちゃんは「僕に甘いものばかり食べさせて!僕はずっと甘いものばかり食べさせられてきた!」と文句を言っているような状態です。今まで体に悪いからほどほどにと気まで使ってきたのに、親の心子知らずというのはこのことです。

いさおちゃん:
それは一体どこから来るのですか。

いさどん:
いさおちゃんは物事の価値を深く捉えていません。ありがたいという感謝の気持ちもないし、自分の側からしか物事の判断をしないのです。だからよく言うのは「一回、相手の代わりをやってみたらわかるよ」ということです。そうしたら、少しは価値が分かるはずです。

いさおちゃん:
自分の中にある変な理想を外してみたら、一体自分の中に何が残るのかと思ったのですが。。。

いさどん:
何もない。

いさおちゃん:
そう。

いさどん:
何もなくていいのです。何もない自分だからこそ、目の前に健全なものがあったら健全なものになれるのです。しかし、いさおちゃんは今までそういうチャンスを沢山逃してきました。

人が道を求めていく時には、「ある自分」から「ない自分」を目指していきます。世の中には自分がある人が沢山いますが、そのある分だけ人は苦労しています。いさおちゃんにもないわけではなくて、あるのです。「欲しい欲しい」という心があるのです。そして、いさおちゃんにないのは、「欲しい」を前に進めていく力です。

いさおちゃん:
例えば、母親から与えられた「神父さんになってほしい」というイメージや、自分が辛い想いをしたから創りあげたものが仮になかったとしたら、自分の中に道を求める気持ちがあるのだろうか。

いさどん:
それはあるでしょう。理想というものは、自らの想いと環境によっていくらでも創られていくものなのですから、環境次第でいくらでもあるのです。そしてあなたには、それを求める気持ちがあります。ただ、それがどういう形で成し得るのかは人によって違うのです。理想ばかりを掲げて行動が伴わない人もいれば、確実にそこに進んでいく人もいます。そうすると、あなたはどちらですかということです。

いさおちゃん:
何だか混乱してきました。。。

メンバー:
ケアとしてこういう人は扱いやすいですか?

いさどん:
そうとは言えません。ケースバイ、ケースです。いさおちゃんのお母さんのように複雑なものを持っている人が身近にいると、その人自身を生きているというよりも、お母さんの心の状態を引き継いでいる人もいるのです。そうやって、家族の因縁が代々受け継がれていきます。それは過去のことだから仕方がないということも言えるかもしれませんが、それではなぜ自分がそういう人なのかと振り返った時に納得がいかないものです。だから、そこをちゃんと紐解いていくことが大切なのです。例えば、たしかにいさおちゃんの母親はいさおちゃんに被害者意識を与えたのですが、母親も両親から色々な影響を受けて今の彼女があることが分かると、初めて相手を許せるものです。その許しが本人を回復させるきっかけとなるのです。

ですから、バランス良く生きるためには現在のあなたが何ものなのかということを正しく理解することが必要なのです。ここでこうやって共同生活をしていると、みんなが自分の鏡となり、隠していても歪んだ人間性が映し出されてくるものです。他人の姿勢を見て自分の姿勢を改め、さらに他人から指摘されたことを素直に受け取っていけば、自然に自分の心の歪みから過去の親との関係や親の存在を少しずつ理解していくことが出来るのです。そうやって確実に自分の実態を正しく把握することによって、意味もわからず被害妄想や怒りが出てきていたのが、理由がわかると収まっていくものなのです。納得しない状態で怒りが出てきたら、混乱するだけです。

そうすると気づきが生まれ、バランス良く生きていくことが出来るようになるのです。自分が直接それを受けてきているのだから、自分から発しているものが自分由来のものなのか、過去から来ているものなのか、その両方を見て自分の中でこなし、自分から他者に与えないということで悪因縁が断たれ、先祖供養になるのです。

いさおちゃん:
僕の中では自分由来のものと過去から来ているものとの区別がつかないのです。だから、結構難しいのですが。

いさどん:
それは全く難しくありません。それは自分の中で区別がついていないだけで、まわりから見たら区別がついて見えるのです。それをいつも伝えているのですが。学習しようという意欲があれば、いつでも理解出来ます。では、なぜ学習しないのかというと、いつも被害者意識になっているので与えられているということを評価しないで、「自分はもらっていない」ということを先に思うからそうなっているのです。「自分はもらっていない」という被害者意識が一番の原因です。だから、与えられているということを先に考えるようになれば、理解出来るのです。

いさおちゃん:
どうしたらそうなるのだろう?

いさどん:
何かに対して不満を感じた時に、一度止まって振り返りチェック出来ればいいのです。この不満はどこから来ているのかと考え、与えられていることと、与えられていないと思うことを冷静に考えてみればいいのです。そして、その本当に気づけばいいのです。自分でそれがわからなくても、「自分に不満な気持ちがあるのだけれど、これはどう思う?」とまわりに聞いたらいいのです。そうしたら、「今そういうことを言えるということは、これだけのことが与えられているからだよ。不満を言えるという贅沢な場所にいるんだよ」ということが分かるはずです。しかし、いさおちゃんは他者の言葉に耳を傾けないでこれまできました。これは心構えの問題です。

メンバー:
ここに来てから自分がもらったものや、自分がこれだけ変わったということを客観的に評価出来ればいいのに。いさおちゃんはもらっていない部分ばかりフォーカスしすぎて、「僕はこんなにもらっていない」と主張しているんだよ。

いさどん:
「変わった部分は他者のおかげ。変わっていない部分は自分の愚かさ」と考えると、常に正しく自分を見て、他人には謙虚に感謝をすることが出来ます。

メンバー:
変わってきた部分を自分の評価にして、「自分が頑張ってきたから変われた」と言っているから、逆なんだよね。

いさどん:
いさおちゃんは辛かった部分を自分の努力で超えてきたと思っているのです。しかし、辛いのは自分流に学んできた結果、しっかりと学ばなかったツケがあるから辛いのです。確実にそこで学習していれば、全部ポジティブに解釈出来てそれでいいことになるのです。問題事こそチャンスでありその人を学習させる要素なのですから、そういう問題事に出会えば出会うほど人は謙虚になり、学習が進むほどありがたいという心が出てくるものです。

いさおちゃん:
心の勉強をするぞと思ったところで、僕流の学び方になってしまうようで、やっていくとさらに辛くなってしまう気がします。時々、「よし、感謝するぞ!」と思うのだけれど、そのうち忘れてだんだん辛くなってきて、「ああ、ダメだ。辛いな」と2,3日でもう辛くなってきてしまいます。

いさどん:
自分に不愉快なことが起きた時に、その原因として過去のトラウマ的なものを引き出してきて、「自分は常に被害者だからいつも他者に原因がある」と考えるのです。しかし、そういう解釈の仕方自体が原因だということに気がつかないと、問題はいつまでも起き続けることになります。

だから、いさおちゃんの場合、母親が悪いということになってはいけないのです。いさおちゃんという素の自分があり、因縁で出会って母親に染まっただけだから、母親のせいだけではないのです。

メンバー:
そういうのに染まるいさおちゃんだったということ。例えば私がその環境にいても、彼女には染まらない。だから、人によって同じ立場にいても全然違うことが起こる。いさおちゃんは染まってしまう自分であるとただ気づけばいい。

いさどん:
逆にその自分の特性を活かして、それが不満であるならば、今まで染まってきたものとは違う新たなものに活かせばいいのです。そうすると、そこには新しい自分がいるわけです。いさおちゃんはこんなに良い環境をもらっていて、しかも本人がそのことを評価しているにもかかわらず、染まらない、染めない自分がいて不満を言っているのです。

いさおちゃん:
染めない自分がいるとは思います。

いさどん:
そして、昔のネガティブなところに留まろうとするのです。自分がそういう状態にいるくせに、「自分は良くならない」と他人に文句を言っているのです。

いさおちゃん:
今、完全に頭が馬鹿になってきているので、もう一回言ってください。

いさどん:
こういうものをもらって染まる自分に気づいたとしたら、そこでは「そういう自分である」と理解すればいいのです。つまり、「何にでもすぐ染まってしまう自分である」と。それはある意味、純真無垢であるということです。

いさおちゃん:
馬鹿ということか(笑)。

いさどん:
馬鹿という表現はあなたがネガティブ的に捉えるからそう表現をするのであって、綺麗であるとも言えるのです。宗教に染まってそれこそ先兵となり攻撃的に布教している人たちは、ある意味では純粋だからです。いさおちゃんはそういう先兵になりやすいタイプなのです。そういう自分だったならば、その純粋な素の自分に気づいて、今度はポジティブなものに染まる自分になればいいのです。ところが、常にネガティブ思考の中にいようとするいさおちゃんがいて、ポジティブな方へ誘導しようとするものに対して反発するのです。

いさおちゃん:
なぜそんなにネガティブな方にこだわるのか。

いさどん:
そうやって、客観的な話が出来るのです。しかし、「自分にはわからない!」と否定的になると、まったくそのことが受け取れないのです。それはこの人がそれだけ感情的だということでもあります。

いさおちゃん:
なぜそこまで抵抗するのか、自分でもよくわかりません。一回感情的になってしまうと、「何をそこまで抵抗しているのだろう?」と自分でも思うのですが。

いさどん:
キャンバスが白ければ白いほど、そういう一方通行の状態が起きるのです。つまり、柔軟性に欠け、不器用であるということです。しかし、柔軟性というのはどうにでもなるということだから、悪い表現をすれば企むことになります。だから、柔らかくても固くても良い方に活かせば、どんなことでも良い方に行けるわけです。その反対に、悪い方に使えばどちらも悪い方に行くわけです。そうやって、その仕組みを知って自分がどちらの方に行っているのかまず理解することが大切です。それが己を知るということです。そして、それを自己コントロール出来た時にさらに人間力がつくのです。ハードルは高いし、先は長い!ぐだぐだ言っている場合ではありません。

いさおちゃん:
今は頭がぼーっとしています。。。

いさどん:
今こうやって面談しているということは、いさおちゃんをフォローして気づきの方に誘導しているわけです。ということは、逆に言うとそのことに気づかないいさおちゃんがいるのです。その気づかない状態で一般社会の中で生きていったら、混乱から病気や対立の方に進んでいきます。夫婦だったら関係はめちゃくちゃ、子どもは上手く育たない、会社でも行き詰まるというように問題事が起きてくることになるのです。

いさおちゃん:
自分でもそう思います。

メンバー:
今、この場自体がすごくありがたいということはわかる?

いさおちゃん:
はい。

いさどん:
そうかなあ?僕は被害者モードになっているから、いさおちゃんが信用出来ない(一同、笑)。

いさおちゃん:
これは人に聞くことではないかもしれないけれど、自分には感謝の気持ちが薄くて、それはどこから来るのだろうか?

いさどん:
それは、いさおちゃんが人からもらうことばかり考えているからです。

メンバー:
いさおちゃんは不足の部分にばかり焦点を当てている。さっきも言ったように、今までもらってきた部分を忘れてしまって、まだある不足の部分にばかりフォーカスし、そこをもらいたい、そこを変えてほしいという気持ちがある。

いさおちゃん:
今もまさにそうで、「この先どうしよう?」と確かに思っていました(笑)。

いさどん:
その途中では今までの自分が壊れていくわけだから、そうすると、「わからない!」と言い出すいさおちゃんがいて、そしてその挙句に本当に自分はわからないとなった時にいさおちゃんが何を言い出すのかというと、「じゃあ、僕はこれからどうしたらいいのですか?」というのがいつものパターンです。「どうしたらいいのですか?」と聞かれたら、普通だったら「自分で考えなさい」と言うのだけれど、自分が考えても出てこない人だとしたならば、人の言うことを聞くのが賢明なことです。しかし、聞く相手によっては自分に害をもたらす人もいますから、そこをよく見極めることが大切ですが、ここではみんなを信じて委ねることが出来るはずです。ところが、いさおちゃんにはみんなを信頼する気持ちがありません。

いさおちゃん:
まったくその通りです。自分の中を見ても何も出てこない自分がいます。これはほっておいても何も出てこないだろうと思います。

いさどん:
いさおちゃんが今まで生きてきたことを全部分析しているだけなので、本来ならばそれを生きてきたいさおちゃんの方がよく知っていないといけないことなのです。僕はあくまでもいさおちゃんからもらった情報をもとに分析して話しているだけです。ただ、その分析が正確だから、今こうしていさおちゃんは納得しながら聞いていますが、いさおちゃんはもっとリアルにそれを体験してきたわけです。

しかし、いさおちゃんはそれを歪めて屈折させて捉えてきているから、今のような状態になっているのです。屈折していなければ、もっと適確にわかるはずです。そして、今のような状態にはなっていないということです。それには今までの屈折やバランスの悪さが原因しているのですが、それがいさおちゃんの魂そのものということです。ですから、今、この状態になっているのは極めて順調良く正常な答えが出ているということです。

いさおちゃん:
もうお手上げ!もうダメだ!

メンバー:
いさおちゃんが屈折していて今までのことがよく見れないから、こちらが鏡となってただ伝えているだけなのに、「その鏡はおかしい!」と言っているようなもの。「こんなはずはない、自分はこんな姿であるはずがない!」と鏡に向かって文句を言っている状態だよね。

いさどん:
そのことがこのレポートに書かれている、「おそらく、素の自分はもっとフレンドリーな自分だ」という部分です。そういうことはいくらでもいさおちゃんの中にあるはずです。しかし、屈折すらもすべて自分自身なのです。だから、それを受け取るところから始めないといけないのです。屈折も何もかも全部含めて自分の歩みなのです。それが全部受け取れた時に「そうか!」と納得出来て、次のことが始まるのですが、受け取れていなければ次のステージに進むことは出来ません。そこに屈折ばかりがあるようではスタート出来ないのです。そして、素の自分に戻ってそれを理解した時に初めて、何を取り組んでいくべきなのかが見えてくるのです。まずは自分を知ることです。

いさおちゃん:
それが素の自分に戻るということですか?

いさどん:
素の自分に戻るということは、自分を認めるということです。自分が考えていた印象の悪い自分を認めるということです。

メンバー:
ここに書いてある出来事はすべていさおちゃんを表わしているのであって、誰のせいでもない。

いさどん:
さらに言えば、いさおちゃんの母親はいさおちゃんを映す鏡としての役割を果たしてくれたのだし、父親もそうだったのです。

いさおちゃん:
最近僕が考えていたのは、「素の自分になりたい」ということでしたが、その時に良いイメージを描いていたわけではなくて、「自分らしく」ということでした。

いさどん:
自分らしくということは、人にどんどん染まっていく自分です。それは究極の素直です。そして、この環境であればこの申し子になることです。ただ、いさおちゃんの場合は屈折しているから、そこでも屈折した「自分らしくありたい!」と主張したい自分がいるのです。

いさおちゃん:
環境の申し子か。。。

メンバー:
本来いさおちゃんは、私以上に優等生になるということだよ。

いさおちゃん:
そこで「うわーー!」と思う自分がいます(笑)。

いさどん:
まこっちゃんも、どんどんまわりの環境に染まっていく傾向があるのです。この間も何人かとまこっちゃんの話をしていて、いさおちゃんの屈折とまこっちゃんのストレートは同じところから出ているという話をしました。「いさおちゃんの屈折は、ふさわしい環境で育ってきたら今のところで混乱しているのもわかる。まこっちゃんのストレートも喜ばしいばかりではなくて、あれがどこまで続くのだろうという意味では様子見だね。優等生だから」と話しました。「昔いさおちゃんが母親に対してやっていた点数稼ぎをするようなところがまこっちゃんにも出ているのかもしれないし、でも彼も苦労してきているから、やっとそこまでなれたのかもしれない。これは結論が出せないから、様子を見ていきましょう」と話しました。だから、僕はただそのままを見ているのではなくて、そういうふうに分析しながら見ているから、まこっちゃんがちょっとそちらの方に行っていると思ったら、「まこっちゃん、無理をしなくてもいいんだよ。もうちょっと素の自分を表現してもいいんだよ。人を意識しないで言葉を言わないといけないよ」と言う時が来るかもしれない。しかし、今のままでずっと進み、「そのまま育っていって、風に乗って飛んでいけ!」というくらい極めることになるかもしれない。それはこちらが決めることではなく、彼の歩みなのです。

いさおちゃん:
染まって申し子になる自分。。。

メンバー:
そうなれる人が一番羨ましいと言っていたでしょ?

いさどん:
それはそのはずです。自分を表現することにどこかしら被害者的で怒りモードのところがあるということは、自立して表現するということに苦手意識を感じていたり、それが出来ない自分に対していらだつ傾向があるからです。しかし、無条件に「あなたはこれをやっていけば大丈夫ですよ」と太鼓判を押されて終着駅の切符をもらったとしたら、いさおちゃんはすごく楽に生きられるはずなのです。

いさおちゃん:
それはそう思います。僕はものすごく現金だから(笑)。

いさどん:
しかし、そこで「どこで降りるのかを自分で考え、途中で乗り換えのことも考えながら行きなさい」と言われたら、いさおちゃんは色々と悩むのです。そういうことは本来いさおちゃんには似合わないのだから、「1本レールで行けるよ」と言われたらすごく安心出来るのです。ただ、そこまでカラクリがわかってしまったら、自分の道にはなりません。それでは他人の道を行くことになるから、いさおちゃんをわざわざ混乱させて、自分で道を選ばせてくれている神様の配慮が働いているのです。

いさおちゃん:
自分の中には、「いさおちゃん、これで絶対大丈夫だから!」と言われることを求めているところが確かにあります。

いさどん:
それなら、いさおちゃんじゃなくても誰でもいいことと考えるかもしれませんが、そういうふうには創られていないのです。以前、神様からこう言われたことがあります。「真っ直ぐ行けるのはおまえの信ずる心によって行ける。だから、真っ直ぐに行けるかどうかはおまえ次第だ。いつも私はおまえの前に真っ直ぐなレールを敷いている。しかし、おまえが肉体を持って地上に生きるものだから、地上を行くと平坦なところもあれば山もある。そうすると、坂道が恐いとか、昇ったら落ちそうで恐いとか、谷を渡る時には橋下駄を踏み外そうだとおまえは文句を言う。時には迂回しようとする。しかし、ひとたび迂回したら、もう二度と真っ直ぐな道はないぞ。ただただ行け」と言われたことがあります。

いさおちゃん:
そうすると、自分らしくというのは。。。

いさどん:
つまり、自分らしくというのは誰にも出来ないことなのです。「自分が」という我がある状態。それは濁りです。だから、最終的には誰もが「いただく」心にならないといけないのです。

いさおちゃん:
僕が「自分らしくなりたい」と言って、僕の考える「自分らしく」なって嬉しいのかというと、それはわからないです。

いさどん:
いさおちゃんは自分があってないようなものなのだから、「自分らしく」と考えること自体が迷いの始まりになるのです。しかし、それは誰にとってもそうです。ここでは子どもに接する大人に、「その子らしく、まわりからの影響を与えずに育てなさい」と言うのはなぜかというと、子どもが間違いなく育っていくということではなく、子どもの自己責任のもとに道を歩ませるということなのです。そうすると、いさおちゃんのような人に責任を転嫁するような人にはならないということです。

メンバー:
魂の形として、いさおちゃんはずっといさおちゃんらしく生きてきたんだよ。

いさどん:
本当はすべて自分らしく生きてきたのに、まわりが口を出せば出すほど、本人は「こうなったのは他人のせいだ」と思うのです。しかし、人はカルマを超えた大本の心を表現しようと思ったら、自分らしくは捨てないといけないのです。それは「あなたの御心のままに。あなたはわたし わたしはあなたですから、いただくままに」という精神です。「いのちの泉」の歌にある「あなたはわたし わたしはあなた」というのは神様と自分、この世界と自分との関係なのです。これは単なる人間同士の関係ではなくて、神と一体であり、この世界と自分が一体であるというところで生まれた歌なのです。


2泊3日の滞在でも

ヤマギシ会からの紹介でお母さん、お姉さんと一緒にファミリーを訪れたけいくん。仕事から来るストレスで3年前に統合失調症だと診断され、いさどんに相談をするためにファミリーを訪れました。2泊3日の滞在後、「一度家に帰りますが、またケア滞在をしに戻ってきます」と言って、ここを出発しました。

それから数日後、けいくんからファミリー宛てにメールが届きました。今回のブログではその彼からのメールを紹介したいと思います。

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

いさどん、皆さん、先日は二泊三日でお世話になりました。二泊三日は本当に色々感じる事ができました。自分は周りの声に流されるまま、母や姉に連れられ木の花ファミリーにやって来ました。最初にケアに当たっての必要事項を紙に書き、いさどんと面談、何故、病気になったかを説明。いさどんは笑顔で聞いてくれましたね。

病気と感じた時の自分は仕事、借金、周りに理解されない苦しさから涙が止まらず、頭がぼーっとして自分で自分を責める声に苦しいと感じて病院に助けを求めました。病院の出す薬に頼り、楽になりたくて処方される薬を飲んでいました。睡眠薬…寝るための手段。安定剤数々…楽になりたいという欲望の数。本当にそうでした。今、こんなに苦しいのに、いさどんに伝わらないと感じていました。

次にいさどんは紙に従い学歴を聞いてきました。高校中退です。学生当時を振り返り、正直、勉強が好きな子供ではありませんでした。親、先生に怒られるのが恐くて学校の授業に行っていました。学業終えた今でも学校行くことって何かわかりません。流されるまま無理やり勉強して入った高校は苦痛に感じて、よくサボっていました。家にいても怒られるからゲーセンや公園でサボっていました。

高校は義務教育ではありません。出席日数というものが存在して日数が足りずに留年…。高校だけは出なきゃいけないという固定観念から退学ではなく、もう一度、高校に行くことに…。留年=格好悪いという観念に囚われ、行かない日々に戻り、出席日数が足りずと部活の人間関係のトラブルで何も考えたりしたくないと思い、退学を選択して一度目の引きこもり生活に入ります。何も考えたくありませんでした。

こんな自分に業を煮やした父にどやされ、渋々仕事をしました。寮付きのパチンコ屋から始まりました。お客さんや上司、先輩にとやかく言われるのが苦痛で、当時できた彼女のもとに逃げ場を求めました。彼女と遊ぶためにお金は必要だったから仕事をするも、他の人にとやかく言われるのが苦痛ですぐ辞めるということを繰り返していました。

半生を語ると長くなりそうなのでまたの機会にしておきますが、自分は他人の言葉に感受性が強いのと他人と比べられるのが苦手な子供でした。そのせいか、集団生活、学校や会社は苦手でした。それをいさどんは笑い飛ばしながらこれからどうするか?を語ってくれましたね。

話が進まないと思ったのと、逃げると格好悪いという固定観念から、いさどんのさしのべる手を受けました。また、ヤマギシ会が薦める木の花ファミリーはどんなところだろう?という興味もありました。事前に調べて聞いた内容は静岡で農業を生業にして、自然食、主に野菜中心の食事。自分みたいな心の病を持った方にケアもしている団体さん。

どんな人がいるのか?お風呂で一緒になった方にお話を聞いてみました。自分と同じ年で農作業を生業としているファミリーさん。ケアで一度来ていて今回が2度目の滞在。今回は1ヶ月半ぐらいいるとのことでした。自分もケアで長期滞在になるかもしれないので、ここの生活が辛くないか聞いてみました。「辛いと言われれば辛いけど、外の世界に辛さがないとは限らない。」彼の言葉はこの時点では辛いとしか捉える事ができませんでした。

次はファミリー全体の協議〈大人会議〉へ参加しました。みんなで円になるヤマギシの研鑽とは違い、各自ボードや挙手で今日の報告をしあっているようでした。お風呂に入っていて途中参加だったため、何を話しているかは理解できませんでした。元メンバーの人からのメールなのでしょうか?木の花ファミリーから脱退した人から来た手紙でした。内容を簡潔にいうと「いさどんやメンバーさんたちとは合いません。さようなら」というメールでした。ここの環境が合わない人もいるんだ。人間十人十色、いても当たり前なのですが、この段階では嫌で逃げ出す人もいるのだと尻込みしました。このメールを聞いてみんな思うところはあるのでしょうね…。それを悟ってか、いさどんは口を開きました。何を話していたかは思い出せませんが、伝えている姿は優しく感じました。

協議の最後にみんなで立って円になり、手を繋ぎ、意識合わせ。自分の為に説明してくれました。天から光が降りて来るイメージでお祈り。静かな中に鐘がなり響き、目を瞑り黙祷…。頭の中であれこれよぎり、天から光が降りて来るイメージは全然できませんでした。でも、円になり手を繋ぐのは一体感があっていいな~と思いました。

そのまま残っていると、いさどんが自分と同じ病気だと診断され苦しんだ経験を持つゆうちゃんを紹介してくれました。彼女は人格分裂、幻聴、幻触と自分と比べると症状が辛そうに感じました。ここの環境で心のケアをして、今は長期滞在をしている彼女。ここにはそれだけの魅力があるのかもしれませんが、来たばかりの自分には理解できませんでした。

とりあえず二泊三日で来た自分、明日から何をすればいいかがわかりません。聞いてもここのシステムは一週間自由とのことでした。1日目はこんな感じで過ぎました。

二日目です。朝御飯は七時半から用意できると言ってくださったのに、昨夜飲んだ睡眠薬が効いたせいなのでしょうか?起きれませんでした。今回、姉は農業体験も予約しているものだと思っていたので、農業を辛そうと思い込んでる自分は行きたくなかったのです。結果だけでいえば農業体験は予約しておらず、することはなかったのですが、誰かが呼びに来るまで布団に逃げました。布団の中で横になっていたら忘れていた過去の自分がいっぱい頭の中によぎってきました。ここでは集団生活をやらされる…。嫌だ。自分は小さな時から集団生活が苦手でした。したくないことをやらされる事が多かったからです。嫌だ嫌だばかり頭によぎってました。でも、嫌だといっても逃げる事も選べません。選ぶ勇気もありませんでした。

布団の中に全力で逃げることを選びましたが、トイレに、ご飯に、いつかは起きなければなりません。トイレで起きましたが、周りを見渡せば掃除中ですぐ戻りました。「掃除しなきゃいけないのかな?やだな…。」世の中はやりたくないことだらけ…。何故やらなければいけないのか?が根本的にわかっていない自分を再確認しました。

掃除が終わるのを見計らい出てきてみました。そうするとご飯が始まっていました。自分の分もあるということなので頂く事にしました。バイキングスタイルで好きなもの頂けるスタイルは食べるものに対しても好き嫌いが多い自分には嬉しかったです。少食ですますこともできますしね!お腹が空いているせいでしょうか?本当に美味しいからかもしれませんが、食事は美味しく感じました。でも、集団は苦手…。誰かに話しかけられないように、ついていたテレビに夢中のふりをしていました。

お皿をパンで拭くのは教えられた時、ビックリしました。多分洗剤を使わず水洗いをするせいなのでしょうか?洗う人の事を考えたシステムなのでしょうね!

食べた後、やることも見つからないので散歩がてら畑を探してみることにしました。探した範囲では木の花ファミリーの畑は見つかりませんでした。ちょっと見てみたかったです。結果的にいえば次の日に見ることができました。

部屋に戻り布団の中で考え事をしていると、昨日日帰りで帰った母と姉が来ていました。行ってみると、姉と母はいさどんと面談していました。自分の事を話しに来たというよりは、姉自身のことを話しに来ているようでした。昨日いさどんと接して思うところがあったのでしょうね…。姉の悩み相談になっていました。なんで自分の話じゃないのだろう?とも思いました。自分の話にも少しなりましたが、話を終えて母と姉が去った時は本格的に自分の事から逃げられないとも思いました。

部屋や布団に逃げ場を求めて部屋にいました。明日に帰ると言ったから明日までの我慢。そう思うと少し気が楽になりました。部屋でそのまま休んでいると、明日、農業見学ができると呼びかけがあったので、興味もあったし参加を決意。その後、いさどんのプレゼンテーションもあると言われてこちらも参加を決意。気が楽になったといっても集団は苦手です。お風呂、ご飯と共に誰にも話しかけずにいました。

興味はあったから協議には参加しました。協議で「ゲストの皆さんも質問があればしてください」と言われました。問題点に対し、各々が意見を言い合う姿やスタイルは共感が持てました。菊いもについてどんないもなのか?疑問を聞けなかった自分に後悔です。

明日は七時半と早いので早めに寝ることを決意。睡眠薬を飲んで早々に寝ました。今思えば、木の花ファミリーのこと知りたいと思った自分に対しては勿体ない1日でした。でも、布団の中で半生を振り返れた貴重な1日でもありました。

三日目。七時半目覚ましにて起床。着替えて集合場所の玄関へ向かいました。説明してくれる係のお兄さんのもと、車移動。だから昨日の徒歩範囲には木の花ファミリーの畑は見つからなかったのだと納得。最初に見たのは蜂、蜂蜜だけではなく作物の受粉用にも使える。地下貯蔵庫もある。元気に飼育している鶏。白菜畑は虫が食べる部分と人間が食べる部分のお話、だから無農薬でやっている理由がわかりました。山羊の乳はちゃんと育てれば人間の乳に近くなる。匂わないリサイクルトイレ。知らないことばかりだったのでこの出会いは感動しました。

帰っていさどんのプレゼンテーション。ここができるまでの説明、画像を使い、経験、富士山で感じたことを天から降って来たと表現した事、宗教くさくも感じましたがいい表現だな~と感じました。もしかしたらこういう感じ方も天から降って来たのかも知れないと感じました。それから富士山の麓で環境を整えていった話を聞いて少し欲が出てきました。自分も今ある環境を整えてみたい。今ある環境で自分を変えてみたい。そのために何ができるか?そんな事ばかりが頭をよぎっていました。

一番感銘受けて影響を受けた言葉は、「かがみ(鏡)のが(我)を抜けば、人はかみ(神)になる。」自分は小さい頃、神様になりたかった…。色んな人を導きたかった…。あの言葉を聞いたら今からでも神になれるんじゃないかな?と思えました。本当に我が抜けたように感じました。

農場見学とプレゼンテーションが終わった後は、いさどんが仲間たちと作った環境が素晴らしかったということもあり、感激していました。

そしてそのままコンサートへ。歌い手のファミリーさん、うまかった。歌詞も木の花ファミリーの主旨にぴったりで共感を覚える歌詞でした。手拍子を求められた時、リズム音痴の自分にはずれてくるから辛かったです。ゲストも含めて円になりみんなで歌った時は、気がつけば音痴なりに歌詞を見ながら一緒に歌っていました。楽しかったです。最後は円のまま、手を繋ぎ天から光が降りてくるイメージでお祈り…。できたような気がしました。手を繋ぐ体温とともに円は温かかったです。

部屋に戻り、初日の面談の時いさどんが言ってくれた言葉を思い出していました。「三割は助けたる。七割は自分で頑張れ。」七割と言わず十割頑張れそうな気がする。

「私も冬なのに蝉の鳴き声がする。」いさどんは病気なのかもしれませんが病気だと思っていませんね。本当は自分も病気じゃないのかもしれない。何をもって病気とするか?自分の出した結論はこうでした。病気と感じ医者に頼った瞬間からだ。そう思うと震えるこの体も個性なんじゃないかな?と思えてきました。本当に自分でやれそうな気がする。だんだんそう思えてきました。

今一つ根拠はないし自信はありませんでした。自信が確信に変わったのは、帰る時間まで読んでいた、ケアで長期滞在で来ていた人の体験記を読んでからでした。受験に失敗して挫折感を味わい、うつになって薬を飲んで治療しようとしても治らず、いさどんのもとへ頼り、立ち直っていく少年の話でした。木の花ファミリーのケア方針で一週間は自由。その間に少年は薬断ちをしました。帰っても暇人な自分は、これなら木の花ファミリーに頼らなくてもできそうな気がする。少年は一ヶ月で帰りました。ケア滞在期間で三ヶ月もここにいる必要はないことが判明。色々気づいた今の自分なら、三ヶ月もかからず行けるんじゃないか?根拠のない自信にもかられました。

読み終わった頃には帰る時間。この事をいさどんに伝える時間はなく帰り、今になりました。

今、時間はたっぷりありますし、まずは自分でやれるところまでやってみます。それで駄目でしたら皆さんのお力をお貸しください。3日間は本当に貴重な体験でした。色々気づけてよかったです。長文乱文ですが失礼します。

追伸…数日たった現在、薬に頼らず生活しています。寝られないといったら寝られないのですが、別に寝なくてもいいかな?という感じでいます。目と体は休めているから問題はなさそうです。未だに震える体も個性と感じれば全然気になりません。


改訂版・瞬間瞬間、所有の心を解放していけば

いさどんより:
先日このブログを公開しましたが、もう一度改めて読み返してみたら、修正したい箇所が何か所も出てきました。そこで、改訂版をみなさんに読んでいただければと思い、再度ブログにあげることにしました。

PDFファイルのダウンロードはこちらからできます

今回のブログは、久しぶりにいさどんの朝のひとりごとです。

人と比べると、僕は心が複雑にまわる。良い方にまわれば、それだけ配慮が出来て広く多様に物事を捉えることが出来る。しかし、悪い方にまわれば、策略したり想いの中に迷うことになる。そういうことから、悪い方に行こうとする自分を監視して、自らにも人にも良いことが現れるようなものの捉え方を常に心がけている。しかし、最近は悪い方に行こうとする心が自分の中に現れてくることはほとんどない。もし、僕が必要なことで伝えないことがあるとしたら、それは相手のために伝える時期をずらし、旬を待っているのである。そういう意味で自分の中にやましい気持ちはない。自らを評価して暗い部分はないと今は胸を張っていられる。

僕は長年沢山の人と接してきた。僕と接する人たちの多くは、他の人には話せないようなことも心を開いて話してくれてきた。誰にも話せないどころか、自分の中の心の構造やそこから来る動きを把握出来ない人たちに沢山出会ってきた。そのような人たちは、今まで誰にも話せなかったことが溜まって病気になっていたり、様々な困難を自分のまわりにもたらしている。そういった場所は、僕に与えられたいくつかの役割の中でも特に大切なものだと思っている。役割として木の花という共同体の在り方を提唱し、ここまで歩んできたが、その歩みの中で人の心を解明し、人々にその仕組みを伝え、それによって人々が混乱から解放されていくことに出会ってこられたことは、大きな喜びだった。だから、今までお百姓になりたいとか、エコビレッジを推進していくとか色々なスタイルを取ってきたけれど、それは付属してあることであって、僕が役割として大事だと思っているのは、広く捉えれば人間社会全体に、狭く捉えれば人間ひとりひとりに、心の成り立ちを伝えること。そして、人の人生は心の成り立ちが反映されて表現され、そのカラクリを知ることが人が生まれてきた目的、生きている目的であり、そして死んでいく先に次につながるのである。これは生を認識した時から、人間にとってもっとも大切なテーマである。

僕には思考パターンというものがあって、それは心の奥の方に折りたたまれた長い手紙のようにしまわれてある。それを端から順番に引っ張り出してきて、ぱたぱたと広げながら読み上げていくようなものである。どんどん端から引っ張ると広がってくる。それを読み上げていくと、その中には答えがある。そして記憶がよみがえってくる。ただ、僕にはその多くを知りたいとか伝えたいという気はあまりない。それは自分のためというよりも、役割のように捉えているからである。

今まで僕は沢山の人に接してきて、人の性質というものを学んできた。ひとりひとり人間には自由が与えられており、生まれてくる時には過去の魂の結果を持って生まれてくる。それがその人の魂の今世の出発点となる。そして、それをもとにして今世をどう生きるのかというプランが組まれている。前世で死んだ時から今世生まれてくるまでに、そのプランを練って生まれてくるのである。つまり、私たちの魂は今世どう生きるのかということをおおむね掌握しており、それをもとに生きていくことになっている。だから、人に起きる様々な悩みや問題事というのは、その人の奥のところではすでに掌握済みのことなのである。人は肉体をいただくことによって五感的思考の方に影響を受け過ぎてしまうと、内なる声を聞けない状態になっていくのである。それは人生を修行と捉える時には大切な仕組みであり、この世界の仕組みとしてわざわざ仕組まれているのである。その仕組みは私たちの自由を完全に奪うようなものではない。そこでは個人が練ってきたプランが元となり、推測するに70%は自由が与えられ、残り30%は与えられたままに歩むように出来ている。そうすると、自らの魂やこの世界について悟っていくことも、プランを大きく外れて低い評価を得ることも、その人の取り組む姿勢にかかっているのである。それだけ人生には自由が与えられ、そういった仕組みの中で、人々は生まれてきた目的をひとつひとつ日々果たしながら、自らの学びのための修行をしていくというのが人生である。その修行の延長に、ふさわしい問題事を与えられながら生きている。その人々が出会う問題事に関わって、その問題事がどういった素姓のものであるのかということを伝えてきた。

僕がそういった仕組みを伝えてきたのは、人々が人生の意味を悟って、自らを高めていくためである。高めるということは何かを獲得することではなく、真実を知っていくということ。この世界の普遍の構造、それが元となる仕組みを知ることは、普遍ではない心の癖など、自分がプランを練ってきた70%の自由の部分を知ることでもある。そういった思考を展開しながら人は日々を生きている。

人というのはその時その時の悟りや学びを持続させるのはなかなか難しい生きものである。そして、知らない間にまた元の自分、それまで所有してきた心に戻ってしまうものである。ここでも多くの人たちとの出会いがあり、「己を捨てて世のため人のために生きる」という大切を伝えてきた。ある人には病気を通して、ある人には人間関係のトラブルを通して、なぜそれが起きているのかということを事例に合わせ、そして大きな意味でこの国や人類、この世界の在り様を見て、それに照らし合わせながら伝えてきた。そういったことを伝えても、そのことをすぐに受け取りそういった生き方に切り替わる人というのはなかなかいないものである。それは人生は修行であり学びであるから、聞いたからといってすぐに出来るものではないのである。すぐに取り入れられるような人であれば、最初からその問題事をもらわないものである。多くの人々はまだ自分の中にある問題事の種を表現しながら修行していく立場にいる。僕はそういう悟り切れていない人々と接しながら、同じように人間の在り様を学んでいく人生をいただいてきた。

そういった中で僕が想ってきたのは、「人にはよく裏切られる」ということ。それは今のような捉え方をすれば、人間は修行の身であり未完成であるがゆえに、心が定まっていない。だから、真理のところに少し触れて仮にそこで心が動かされたとしても、そのままであり続けるような人は少ないのである。ただ、こうやって生きてきて、この人は不動の精神になっていると思う人は何人かいる。そういった人たちとは生涯どころか、このいのちを世界に返してからも、同じ道を歩む存在だという認識を持っている。しかし、木の花以外のところでそういう人たちがいるのだろうかと振り返ってみると、そんな人はほとんどいなかった。そして、他の団体でそのような人たちがいるのかと思うと、そういう人たちとは出会ってこなかった。仮にその意識に近い人たちが何かで盛り上がったとしても、結局その人たちの執着で当初確認し合った心が色褪せてしまい、縁が切れていった。そういった人に沢山出会ってきて、そこで無所有、執着しないという心から、「いいんだよ、それが人というものであり、それは学びのプロセスだから」と、そういった人を認めてきた。しかし、その逆に自らはその精神を変わらず持ち続けていこうという想いを強くして、ここまで歩んできた。人はひとりひとり自らの学びのプロセスの中にいて、その人にふさわしい人生を歩んでいるのであって、それを特定の意識を持って捉えると裏切られたことになる。それもまた自分自身の学びとなり、ありがたいものであった。

そうしてまた新しいものに出会い、今まで歩んできた。そして、今回新たな出会いが起きている。それはヤマギシ会との出会いである。僕らは今までの情報で、違ったヤマギシを想像していた。しかし、実際に出会ってみたヤマギシの人々は、本質的に私たちと同じ歩みをしてきた。別々の歴史を通して歩んできたものたちが、同じものを求めてここで出会ったのだと思う。そこで僕の中に想いが湧いてくる。この関係はどこまで持続するのだろうか。私たち流に言うと、神はこのことを通して何を表現され、何を私たちにもたらそうとしておられるのか。この行く末にどのような目的を持たれているのかを知ることが、今の僕にとって大きな楽しみであるのです。出来れば双方の立場を超えて、「世のため人のため」にありたいものだと思う。

今この時に来て、遠く離れていた人たちの中からこの心を持ち続けている人々との出会いがぼつぼつ現れてきた。今までは身近にいるからこそ、そういう心をお互いに確認し合ってその心を持ち続けている人たちとの暮らしがあった。これからは離れていても変わらずその心を持ち続ける人たちがいる。そして、そういう人々が現れてきていると評価すると同時に、この人たちもまた執着の中で「やっぱり私たちとあなたたちは違うよ」と心が変わって離れていくのでは、という想いが僕の中に湧いてきた。僕はいつもそういう思考が湧いてくると、「それが信仰心というものの証で、どのような答えになっても、それはいただくということだよ。すべては善意から起きていることだから」というところで自分の心を収めていく。しかし、その前の時点では、「もしかしたらこの出会いもまた一時の熱のように冷めていくのではないか」と想う心が働く。そして、その心の延長に、「自らは冷めることのないように、同じ志を持ち続けていこう」と思うと、自らが育てられているのである。しかし、相手に対して時々疑心暗鬼の心が湧いてくる。過去に色々な人と出会う中で最初は盛り上がったのに、そのうちに冷めていくことになり、「あの盛り上がりは何だったのだろう?あなたたちの盛り上がりはそんなふうに持続しないものなのですか?」というようなことがよくあった。

だから、ヤマギシに対しても一方的な疑心暗鬼を持っているところもある。あれだけの組織と歴史があれば今までも色々なことがあっただろうし、色々な人がいるのだから一枚岩にはなかなかなれないだろう。そんな中で、次のステージへ移行する時には抵抗しようとするものもいれば、痛みが発生することも当然あるだろうと思う。それはよく理解出来る。ただ、この人たちは過去にも沢山そういう経験を経てきているから、きっと乗り越えてくれるだろう。上下がないとは言え、その中心的な役割を担う人たちは、やはりそこでは心が痛む立場に立つことにもなるだろう。しかし、そういった理解を持ちながらも僕の中に悪心がひそんでいる。その心を超えていくからこそ、新しい世界が生まれてくることを知りながらである。

僕の中にある悪心は、そうやって疑心暗鬼になる心である。「もしかしたら、この出会いは一過性の熱のように過ぎ去っていくものなのかもしれない」と想う心である。なぜそう考えるのかというと、今まで出会ってきた人々の中にそういった人々が沢山いたからだ。それで人間に対して疑心暗鬼なのである。では、それに対してどうやって信頼の心を取り戻せばよいのか。それは、この世界を動かしている存在が何かの目的のもとにこの世界を表現している。その延長にはこういう心の波が必要であり、その存在がこの波を起こしているのである。それを自らの中に見て、自分にとって予測出来ること、出来ないこと、歓迎出来ること、出来ないことと仕分けするところから疑心暗鬼が生まれてくる。しかし、人生のすべてはいただく修行の場であり、疑いの心はそのバロメーターである。そうすると、まだ疑心暗鬼の心が出てくるということは、悪心があるということになる。それで、「この心がどこから出てくるのか?」と振り返っていくと、「信ずる心を忘れている。信じることを忘れているからこそ、疑心暗鬼の心が出てくるのだ」というところに立ち返る。大元にある善意を取り戻せば、その心は打ち消されていく。そして、どのような答えが出ても、善意のもとに新しいステージを与えてくれるための道としてその出来事は起こっているわけである。そういうふうに受け取っていく。そして、そこに立ち返るのである。

今こうやって振り返っていくと、整理が出来てくる。僕の中に悪心があると気づいた時には、疑心暗鬼がまだ残っていた。しかし、自らの心を眺めながら、それがどこから起きているのかを分析して捉えていけば、その発信源に行き着き、その発信源から出る歪みやギャップから、私たちがこの世界に生かされ、生きる目的が見えてくる。その理解のギャップの部分で人間は心の波を起こし、疑心暗鬼になったりする。そうやって、本来捨て去るべき心は波として出していけば、それを分析しながらその原因を知って取り去っていくことが出来るのである。その作業をしていけば、常に人は安定した志を持って変わらず歩んでいける。今回の悪心の出所は、最近のヤマギシ会との出会いの中で、「ヤマギシの人々も、これを機会に新たなステージに行くのではなく、またいつか自分たちの執着の中で心が変わらず、この流れを受け取れないで所有の中に戻っていくのかもしれない」と思う心である。これは先に進んでみないとわからないことである。なぜならすべてはいただきものだからである。見てみなければわからないことなのに、何となく疑心暗鬼がそこに出てくる。しかし、ここで気づかされるのは、それは自らが学ぶための疑心暗鬼だったということである。それは信じることを忘れた一人相撲のようなものである。

ヤマギシ会との出会いは、今までの歩みは違っていたとしても私たちと同じものの捉え方をして、日々研鑽していく人たちとの出会いだった。そして、心の変化を喜びとする人たちに初めて出会った。そういう特別な出会いであるから、この人たちの気持ちが変わっていくことはないだろうと思う。しかし、ヤマギシの人たちの中には相入れなく別れていく人たちもいるだろう。そして、ヤマギシの人たちもヤマギシとしての癖を持っている。僕が長い間人間と付き合ってきた結果、どこかに「人間とはそういうものだ」という固定概念がある。しかし、それを固定してはいけないのである。なぜかというと、それは時代と共に変化し、その存在の意味も変わるからである。今、木の花にこういった生活がある。そして、時代が変化していく必要を感じる出会いをもらっている。そこでは信頼するということで、未来をいただいていくことだと思っている。

そうやって、私たちは常に瞬間瞬間、所有という心から解放させるための修行をもらって生きている。人生は修行、まことにありがたいことである。