まずは正しい自己認識から

結婚して2年になるりーさんは、2歳のお子さんと一緒にファミリーを訪れました。
夫婦関係と子育てについて相談をしたいということで、今日、いさどんとお話をする機会を持ちました。
相談される方には、子供、兄弟、両親、祖父母等の名前の入った家系図を書いてもらいます。
いさどんは、りーさんが書いた家系図を見ながら話し始めました。

いさどん:
まず、りーさんにお聞きします。
ご主人と出会った時のあなたの精神的な安定が足りなかったと思いますが、
彼とはいつ頃出会ったんですか?

りーさん:
実は5年前に鬱病で半年くらい家にいたことがあります。
彼と出会ったのは、まだちょっと鬱を引きずってはいたものの、
どん底の状態から上がっていこうという時でした。

いいパートナーには巡り会わないし、仕事もこれからどうしていいかわからないと、
自分の中で揺れ動く時に彼と出会ったので、
完全に「自分が大丈夫」という状態ではありませんでした。

いさどん:
彼との年齢が離れているということもありますが、
彼が精神的に幼いということがわかっていて付き合ったんですか?

りーさん:
彼とは8歳離れているんですが、逆にすごくしっかりしていると思っていました。
私はおおざっぱで何でも「いいよ、いいよ」と生きてきましたが、
彼は小さい頃から苦労して努力を積み重ねてきたということを聞いていたので、
逆に「すごいな」という目で見ていました。

「付き合うならその人と結婚したい」と思っていたので、
彼がまだ若いから惹かれながらも付き合うつもりはなかったのですが、
そのうち付き合うことになり、子供を授かり、双方の両親と話し合って結婚に至りました。

実際、結婚生活を始めてみて、
彼の中に乗り越えられていない問題があるということはわかりましたが、
「彼が幼い」という感覚はありませんでした。

いさどん:
あなたとお子さんとの接し方を見ますと、
親と子供というよりも、あなたは子供の意識でお子さんを育てています。
だから、友達みたいな状態で子育てをしているのですが、これはあなたの元々の傾向です。

そうすると、あなたのようなタイプの人は、しっかりとした自分をリードしてくれる人、
単に勢いがあって力強いというよりは、説得力や包容力がある人といると安定するのですが、
そういう人を現実に選んでいません。

それは、あなたが人を観る目に冷静さを欠いている状態で彼と付きあうようになったということです。
それで、彼と出会った背景に何があったのかを知りたいと思い、先程の質問をしました。

彼の場合、自分の心をカモフラージュして、
実際よりしっかりしているように見せようという傾向があります。
これは悪気があってそうしているというよりも、そういう心が働くというのは人としてよくあることです。

あなたが冷静さを欠いていた状態だったから、
そういった表面的なことに惹かれてしまったということです。

安定している目から見れば、この人は実際より自分を良く見せようとしていることがわかるものです。
それが見えなかったがために、先程のような彼に対する評価をしているのだと思います。

その背景に、当時あなたの中に不安定な要因があり、
それが物を判断する時に影響を受けてしまったんだと思います。
あなたのご両親との関係で長年積み重なってきたものがあり、
現実逃避したい心や、「満たされたい」という強い想いがなかったですか?

りーさん:
実は、小学校5、6年生ぐらいの時から、ちょっとずつ自分の気持ちが暗くなり出していました。
それはなぜかと自分で考えた時に、母親と意見が合わないことが多く、
喧嘩ばかりしてわかり合えなくて、いつもさみしいという想いがありました。

いさどん:
今はお母さんとの溝は埋まったんですか?

りーさん:
私が子供を授かり、親の気持ちが少し理解出来るようになって、
「すごく私のことを愛してくれていたんだな」と感じるようになりました。
「あなたが幸せになることを一番に思っている」と言われ、
自分のことをよく育ててくれたなと思っています。

でも、未だに話はあまり合わないし、正直、もっと理解し合いたいという気持ちはあります。
母親は私のことを「何を言っても聞かないから、もう勝手にしたらいい」と思っている気がします。
私のやっていることの大半は、多分良くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

いさどん:
彼との結婚も、お母さんとしてはあまり良くは思っていなかったということですか?

りーさん:
そうですね。「あなたの人生なのだから、勝手にしたらいい」という感じでした。
私が鬱でどうしようもなく母親に相談した時も、
「もう私は疲れたから、お父さんに任せるわ。
今までお父さんは子供の面倒を見てこなかったんだし。私はもう口出ししない」と言い、
母親はそこからノータッチで、そのまま私も結婚したので、
「あなたの好きにすればいい」という感じでした。

いさどん:
お母さんがなぜあなたと合わないのか、わかりますか?
あなたからしたら、「もっと包容力のある人であってほしい」ということだったと思いますが、
とてもそういうふうに接してこなかったお母さんでしたよね。

りーさん:
お母さんの中の「こういう子であってほしい」という理想と、私が全くそぐわなかったからでしょうか。
私は、子供の時からお母さんが言うことに対して何でも、「いやいや」と言っていたらしいんです。
それに対してお母さんはいつも怒っていて、
だんだんイライラしてきたのかなと私は思っているんですが。

いさどん:
あなたのお母さんに対する評価をもう一度見直してみようということで、このことを聞いています。
お母さんはなぜあなたを自分の思い通りにしたかったんでしょうか?

りーさん:
私が幸せであってほしかったから?

いさどん:
そういうふうに考えるのが、あなたの癖です。
常に相手は自分を見て、自分のことを考えてくれている、と思う傾向があなたにはあるのですが、
人というのはそうばかりではありません。
実は、相手を想うのではなく、自分を想っている人が沢山いるんです。
自分の都合で相手を見て、自分の都合で相手を動かしたいと思う人もいます。

今、彼のことを聞いてもお母さんのことを聞いても、
あなたは常に「相手は自分のことを想ってくれていて、
相手は私にとって悪い人ではない」と判断していますが、本当にそうなんでしょうか?

実はあなたの中に、「私にとっていい相手だと思いたい」という心が働いているんです。
自分の中のどこかで「そうではない」と感じたとしても、あなたのような人の場合、
「自分のことを想ってくれた結果、こうなっただけなんだ」と無理に事実を曲げて、
自分のいいように思いたいという心が感じられます。
それは相手を正しく評価しているのではなく、相手を都合良く受け取ることによって、
自分を都合良く守りたいという心の表われです。

りーさん:
現実をストレートに見ていないということですか?

いさどん:
ということよりも、現実を冷静に判断せず、
自分の思惑の方に捻じ曲げて物を捉えたい傾向があります。

りーさん:
言われてみるとそう思います。

いさどん:
だから、あなたが誰のことを話しても共通した傾向があります。
ただ、お父さんに対してはその傾向がありません。

りーさん:
そうですね。自分と似ているなと思うので。一緒にいても楽というか。
自分を全部受け止めてもらえているのかなと感じています。

いさどん:
どうしてお父さんといると楽なのかといったら、あなたと似ているからではありません。
お父さんは自分の意見を押し付けない人です。でも、責任もとらない。
つまり、あなたに対して圧力がないから、あなたは楽なだけなんです。
ここでも、あなたの物の見方に偏りがあることがわかりますね。

冷静に事実を受け取るのではなく、自分の心に色がついていて判断するものだから、
「彼をしっかりしている」と捉えるあなたがいます。
つまり、自分に都合がいいように、
自分の理想のような相手に思いたいという心がそこでは働いています。

事実彼と付き合ってしまった。子供が出来てしまった。だから結婚するべきだ。
どこかで「この人でいいのかな?」という心もありながら、
「でも、これから自分が築いていく家庭が理想じゃないといけないから、理想のようにしよう」と思ったら、
相手をいい人と考えないと理想を描いていくことが出来ない。
だから、そういうふうに思おう、思おうとしてやってきたのですよ。

しかし現実には、そうではない人がそこにいるわけだから、
いくらそう思ったところで、現実は違う相手と毎日付き合っていくわけです。
そこのところで、自分が思いたい部分と現実とのギャップが大きくなってきて、
自分が目一杯になり、こうやって僕のところへ相談しに来たということになります。

そうすると、彼は最初から自分を素直に表現していたかもしれません。
お母さんも素直に自分を出していたかもしれません。
しかし、あなたが対象を冷静に見ないで、
自分の思惑のように相手の人間像を創り上げて付き合ってきた可能性があります。
微妙な話ですが、わかりますか?

りーさん:
言っていることはわかりますが、言われるまでは全然気づきませんでした。

いさどん:
そうですね。そしてこれは、自分で結果を招いていることなんです。

もう一つ言えるのは、あなたのお母さんは子育て中、ずっとストレスが溜まっていました。
それはなぜだと思いますか?

りーさん:
母一人で子育てをして、父はずっと蚊帳の外でいましたから。

いさどん:
そうですね。お母さんはいつも
「自分一人だけで子育てをしている」という感覚があって孤独だったんです。
お父さんは会社に行って給料は家に入れるし、とりあえず夫の役割はしているのに、
お母さんは孤独だったんです。
それは、お父さんがマイペースで自分のやるべきことはやりますが、
人のことに口をはさまず、自分のペースで行動する人だからです。

本来、父親というのは自分のことはもちろんですが、
妻のことも子供のことにも配慮しながら日々を生きていくというのが望ましいでしょうが、
あなたのお父さんの場合、何かが起きた時にはお父さんとしての役割は果たしてくれますが、
日頃の支え的役割は果たしてくれません。
だから、お母さんが一人で「お父さんとお母さん役」をしていたのです。
つまり、精神的には母子家庭のような生活だったのです。

ところが、お母さんは自分一人でも心の安定を保つのが大変な人で、
まわりの人に精神的に助けてもらわないと安定が保てないのです。
だから、常に精神的なストレスを抱えて子育てをしてきたのです。
元々母性が薄い人ではありますが、夫が精神的に十分満たしてくれれば、母性も出てくるものです。
夫から与えられた分は出てきますが、与えられず一人だけで子育てをすると、
イライラしてストレスが溜まるという状態だったのです。

だから、あなたのことを想っている心の中には、イライラもあなたの方へ向いていたと考えられます。
ここでも、あなたは人を観るということが十分出来ていません。
相手を正しく見るというよりは、「こういうふうに思いたい」という判断のもとに物事を捉えています。

りーさん:
でもお母さんは、「子供を産んだことが女性としての一番の幸せだったし、
子供のことを一番に考えている」と言っています。

いさどん:
それは、お母さんの長い間の心の浮き沈みの中で、
安定した気持ちになった時にそう言ったかもしれません。
しかし、それだけをあなたが印象強く取り上げ、自分の中にしまっているということがわかりませんか?
実際にあなたの話を聞くと、そうではないお母さんの部分が沢山出てきます。

人には色々な人間性が出ますから、確かにそういう部分もあります。
そこでも、「自分がこういうふうに思いたい」という想いから材料を取り出して、
「そういう人である」と決めていくことがあります。

これを解説すると、あなたは精神的に幼いところがあるのです。
「自分が満たされたい、癒されたい、~してほしい」という心が常につきまといます。
これから年を重ねてもそういう心の形は変わりませんから、
子供に対しても自分が与えるというよりは、自分が与えてほしいという気持ちになり、
自分と対象を重ねて子育てしていますね、という話を始めにしました。

自分が一体どういう人柄で、どういう傾向を持っているのか、ということがわかると、
お母さんとあなたの関係や、お父さんに対する評価、そしてなぜこの旦那さんを選んだのか、
子供との関係、なぜ今こういう環境にいるのかということが少しずつ見えてくるものです。

あなたが今の心の傾向をそのままにしておくと、今後も色々なところで冷静で正しい判断ではなく、
自分に都合のいいように物事を見ていくことになります。
そして、それをあなたのお子さんが表現していることになります。

この子は力強くてたくましく生きていける力があります。
たくましいということはエネルギーが強いということですから、
これから沢山自己主張するようになります。
(ここで、りーさんはポロポロ泣きだしました。)
どうしてあなたから涙が出てくるのかということですが、あなたは子育てが難しいと思っていますよね。

りーさん:
この子をいい子に育てたいと思っているのですが、
私の子育てが間違ってしまうと悪い影響を与えてしまうのではないかと思っていて。
でも、今の話でこの子が強いところを持っていると聞いて嬉しくもあり、安心したというか。。。
この子にいい人生を歩んでほしいと思っているので。

いさどん:
この子にいい人生を歩んでほしいと思う心はどこから来ましたか?
この子にとってのいい人生というイメージがどこかにあるということですよね。
でも実は、いい人生というイメージがあるのではなく、心の中に悪い人生のイメージがあるから、
それがないいい人生というイメージがあるということなんです。
あなたにとって、悪い人生ってどういう人生ですか?

りーさん:
常に落ち込んでいて、私が鬱でずっと家に閉じこもり何もやる気が起こらなくて、
「私なんていてもいなくてもいい」という心の状態です。

いさどん:
それを悪い人生として、そういうことがない人生をこの子に重ねているんです。
そうすると、あなたは本当にこの子のことを想っているのでしょうか?

先程、「お母さんは私のことを愛してくれていたんだ。
だから、私はお母さんの愛を受け取って、良く思っていこう」
という傾向があなたの中にあると言いました。
そのことに対して、「本当にお母さんはあなたのことを想っていたんでしょうか」と、
お母さんの心の傾向を話しました。

その結果、「私のことを本当に想っていたのではなく、
お母さんはストレスが溜まっていてそのイライラで私に接していたんだ」ということがわかった時に、
あなたの考えていたお母さん像は消えていきましたよね。
結果、「そういうお母さんとして私に接してほしかった」
というあなたが創ったお母さん像に気づけましたよね。

それと同じことが、ここでも言えます。
「私が鬱の時に辛かったことをこの子には味わってほしくない。
この子には幸せな人生を送ってほしい」というあなたの想いは、
あなたの過去をこの子に重ねているだけで、
この子の未来を考えているのではないということに気づきませんか?

りーさん:
全て自分の中から発生しているということですか?

いさどん:
そうです。それがあなたの心の癖です。
相手が違うから別の現象のように見えるかも知れませんが、
実は発信源が同じということに気づいてもらいたいと思います。
別々なこととして現れていますが、
あなたが自分の心の中にある種を表現した結果、起きているということです。

もう一つ気づいてもらいたいのは、傾向として常に不満や不安の心が発生しているということです。
利害の薄い関係、例えばあなたのお父さんはあなたに圧力をかけてこないので、
あなたはお父さんに対して不満を感じませんよね。

しかし、強く圧力をかけてくる相手、ご主人やお母さんにはストレスを感じています。
それをいいふうに思いたい。
子育ても同様に、
ストレスだけれども、「この子を良くするために一生懸命こうしなきゃ」というふうに、
そのストレスを正しく認識するよりも、
「不安のない方に思いたい」という方向に捉え方を変えてしまう傾向があります。

「自分が種を播いている。自分の心の癖が色々なところに現れている」ということを、
あなたにわかってもらう必要があります。
このまま行くと、知らぬ間にあなたが辛くなってしまう状態が続くことになってしまいます。

では、これからどうすればいいのでしょうか?
人が色々な問題事をいただくのは、その人の心の中にある問題事の種があるから、
それにふさわしい現象が起きているということです。
つまり、自分の心の中に問題事の種があるということを教えてもらっていることでもあるのです。
そして、それを取り去るために私たちは生きている、と言うことも出来ます。

「普通に生活して子育てして、家庭を保ち幸せに生きていく」という
一般社会的な価値観で人生を終わっていくのではなく、
人生を自分の学びや魂の向上のためにあると捉え、
そのために色々な問題事に出会い自分が育ち鍛えられていくという価値観もあります。

そうすると、今あなたが自分の心の癖から問題事を与えられているということは、
自分がこの世界に生まれてきた目的、
学んで成長していくことに気づくためのメッセージだと言うことも出来ます。
だから、今敢えて、お母さんのこともお父さんのことも、旦那さんのことも子供のことも抜きにして、
あなたが生きていることの意味を捉えることが大切です。

出来事が起きるということは、自分自身の心を見るためのチャンスです。
自分の心を正しく捉えるために、色々な現象が起きているのです。
そして、そこから学んでいくことに希望を見出せば、
今のような自分に都合がいい判断をしなくなるものです。

あなたの物の捉え方が少しずつでも変わっていきさえすれば、
当然行動も変わりますから、まわりの反応も確実に変わります。
そうすると、生活全体に対する環境が変わってきます。

子育てに関しても、人というものは本来、自分で自分の道を切り開いていくようになっていきます。
この子はエネルギーが強いので、
あなたの癖で接して束縛すればするほど、反発となって出てきます。
それは、あなたの心の姿勢を鏡として表わしてくれているのです。
しかし束縛しなければ、この子は自分の道を歩むためにエネルギーを使えるようになります。

そうすると、「この子にいい人生を歩んでほしい」という想いはいらないわけです。
あなたがどう想おうが、この子は自分の幸せを自分で掴んでいける人です。
エネルギーが強いから、「私がこうしたいからこうするの」ということをやり遂げる人です。
それはあなたから見たら辛い道かもしれませんが、
これはあなたとお母さんの関係にも見えてきませんか?

りーさん:
私は私に与えられている課題をクリアしていくことに専念すればいいということですよね。

いさどん:
今は自分を見ることが大切です。まずは、
「私は人のことを想っていたのではなく、自分のことを想っていたんだ。
自分は物を考える時に、一種のトラウマ的な先入観で物を判断していた」ということに気づき、
その癖を取る必要があります。

それを取ってから、親としてこの子に接していけばいいんです。
子育てをする時に大切なことは、親が子供のペースをつくっていくことです。
子供のペースを親がつくってあげるからこそ、子供は安心して育つことが出来ます。
でも、あなたは子供のご機嫌を聞き過ぎているので、子供がペースをつくってしまい、
いつもあなたは子供に合わせないといけない状況になっています。
愛情とルールを与え、親のペースで育てていくことは非常に大切なことです。

この子が成長していく時に、「私はこんなことがあって辛かったのよ」と伝えると、
この子は、「お母さんね、お母さんの人生はお母さんの人生、私の人生は私の人生なんだよ。
大丈夫、私は私でやっていくから。それよりも私はお母さんの方が心配よ」
と逆に言ってくれるかもしれません。

りーさん:
物を正しく捉えるということをこれからしていけばいいんですよね。
今まではお母さんに対して「いい母親でいてほしいから、
そうならないのは私のせいなんだ」と自分を責める心もありましたが、そうではなく、
「その時その時の母親の心境を受け取って私が育ってきた」というのが正しい判断ということですよね。

いさどん:
そうです。あなたは一生懸命自分を守ろうと常に思惑が働いて生きてきた結果、
裏目に出て色々な問題事が起きています。
これから1週間ここで滞在されるのですから、
「あの時に話された自分の傾向がここでも出ているな」と一つ一つ気づいていくことが出来れば、
感じ方、考え方も変わり、相手の反応も変わり、人間関係も変わって、
あなたの人生も変わってくるということになります。

まずは、「自分が今まで正しくない判断をしていたから、
自分を見直す必要がある」ということを認識することからスタートです。


子は親の鏡~面談・後編

いさどん:
それで、今回はどういう目的で来たのかな?
とりあえず、これからどういう方向に行けばいいのかという相談なのかな?

きーちゃん:
パパは「きーちゃんの食生活を直すためにここで合宿してきなさい」と言っている。
でも私は、食生活だけじゃなくて、
パパも含めて自分も変わりたいし、家族も良くしたい。

いさどん:
要は、最後はそこへ持っていきたいわけだ。

きーちゃん:
今、私が治っても、家族の環境とかでまた戻ってしまうかもしれないから。

いさどん:
あなたの言う通りだね(笑)。
発信源が別にあるのだから、子供だけを治しても仕方がないんだよね。
「子は親の鏡」と言って、親の状態が子供に出ています。
まあ、ずばりと言ってくれてすごい!将来楽しみだ。

今はこういう状態で少し心配かもしれないけれど、将来は大丈夫!
希望を持っていいよ。いさどんが言うんだから、間違いない!
そこらへんは自信をつけておくといい。
今のところは役割でやっているのだから。これは良い話になっていくね。

ちょっと聞いてほしいのは、きーちゃん一人だけを観た時に、ちょっと今は病的だよね。
だから、これは健康にしたい。
それと、この家族の関係がちょっと問題だよね。これも健全にしたい。

家族の関係を健全にすることによって、きーちゃんの心が安定して健康になるのを優先するのか、
それとも、まずはきーちゃんが健康になって、それをきっかけにし、
みんなで家族を健康にするための話し合いをしていくのか。
両方をいっぺんに健全にするという方法もあるけれど、
どういう方法をとったらいいと思う?

きーちゃん:
今の家族のままでいるのが辛い。
だから、家族の状況を良くするためにみんなで話し合いをしたい。

いさどん:
どんな話し合いにしたらいいと思う?話の内容については何かあるのかな?

きーちゃん:
家族だけじゃなくて、客観視出来る人がいたらいいと思う。

いさどん:
僕も今それを思っていたんだよ。
まずは家族会議をする必要がありますね。
その結果、この子はここにケア滞在をしに来なくてもいいかもしれない。
ということは、僕が出張しないといけないのかな(笑)。
この子の言っていることは正解ですよ。
あなたは将来、困っている人の問題解決のアドバイスが出来るよ。

きーちゃん:
私が思っていることをパパに言うと、パパは自分の言っていることと違うから、
「それは違う。お父さんの言っていることが正しい」って。

いさどん:
そこのところは、第3者がいないとお父さんは受け取れないね。

きーちゃん:
パパもママも年下から言われると、いらっとするみたい。
私が言うことを聞かないし。

いさどん:
きーちゃんの目線はしっかりしていますね。
「言うことを聞かない」という言葉でわかりますが、
お父さんには自分の考えでみんなをリードしたいという心が働いているから、
そういうふうに言うわけです。
自分の考えが通らないと、「僕の言うことを聞かない」ということになって、
物事がまとまらなくなるのです。

それを伝える人がいないということですね。
そうすると、その役割が出来る人は僕しかいないから、
今日お父さんに話をして、家族会議に参加するために出張することにしますか!

きーちゃん:
今日帰る時に、いさどんを連れていっちゃう!

いさどん:
はっはっは。すごいね。
初のケースです。僕は今まで相談で出張したことはないから。
新しい取り組みが来ましたね。
ではお父さんが来たら、なぜそういうことが必要なのか、経緯を話して、
いつ家族会議をするか模索してみましょうか。

そうやって家族会議を開くと、新しい風が入ります。
まずは、お父さんの家系の影響を考えないといけないですね。

きーちゃん:
今日は、初めて私の話を聞いてくれる人に出会いました。

いさどん:
僕は、人の本当を観る人だから(笑)。
これからも当てにしていいんだよ。
きーちゃんの鋭い洞察力も将来人のために活かせるようになるといいね。

ただ、人のためになれるのは大切なことだけれど、
自分が自分のことで不健康だったらダメだからね。
自分が健康を保てて、それで初めて人のためになれるのだから。
今まではまわりの環境が負担になって具合が悪かったかもしれないけれど、
これからはそれを自覚しないとダメだよ。

「人が悪いから」と人の影響を受けて具合が悪くなっていたら、見本にならないでしょ。
人のためになれる人というのは、
心も体もみんなの見本になれるような状態でいなければいけないからね。
今までは子供だったからまわりの影響を受けていたけれど、
これからは自覚してやっていくことが大切だね。

きーちゃん:
最初は、友達を助けたことで、自分が仲間外れをされるようになった。
最初は何でだろう?と思ったけれど、
今は大事なことをしたんだからと思っている。

いさどん:
それが大切だよ。
そういうふうに健康に自分を保っていられて初めて、人のためになれる。
苦手なことも、そういう心が出来ると克服していくことが出来る。
将来に対するイメージが出来てきたね。楽しみだ!

将来、人の心の問題にアドバイスする道を歩み、
わからないことがあったら、いつでもいさどんに聞けば教えてあげるから。

いさどんは、これからずっとここにいるわけではないんだよ。
自分を必要とする色々な人のところにまわっていくからね。

お父さんが来たらそういう話をしましょう。
僕のイメージとしては、家族会議に僕がオブザーバーで参加し、
ちょっと風通しを良くしたら、きーちゃんは元気になる可能性はありますね。

でも、今の状態が現実に起きてしまっているから、
そのための回復期間としてここが必要かもしれないよ。
必要なければそのままでもいいけどね。
ただ、昼夜逆転の生活やスナック菓子等の摂り過ぎによる偏った食生活は、
考えが変わったらといって、さっと切り替えられるかどうかわかりませんね。
その時は合宿が必要になるかもしれません。

それで、短期間ここに来て健全な生活リズムと食生活を取り戻し、
心が健全になり、家族の環境が戻れば将来は明るいでしょう。
これからは、あなたがこの家族をリードしていけるかもね。

お母さんもお父さんも二人でもう少し話し合う必要がありますが、
今は二人の関係も含めて、
この5人の家族が今後どうしていったらいいのか、
自分の側から捉えるだけではなく、
全体の意見を聞きながら話し合っていく必要がありますね。そうしましょう!

それにしても、僕は特別な能力を与えられているから、
出会ったことのない人の心の形も観える。
それをいつか誰かに与えないといけないと思っていた。
僕はこれを与える人に出会うのを待っていた。
きーちゃんにあげてもいいよ(笑)。

あとは、お父さんが来てから話をしましょう。
結論は、お父さんが来てからじゃないと出せないからね。
先に決めてしまうと相手を無視することになり、それもまた問題だからね。

(ここで、お父さんがお迎えにいらっしゃり、面談に加わりました。)

きーちゃん:
私の問題が解決したら、
次はパパとママが順番にここに合宿に来たらいいよ。

いさどん:
(お父さんに向かって)はっはっは(笑)。それは画期的な意見だ。
今日はお母さんときーちゃんから色々とお話を聞きました。
僕ときーちゃんの見解は一致していました。

家族というのは心のハーモニーの表現の場です。
それぞれが個性的な音を出すのは良いことですが、
それが人との和音になっていないと、なかなか良い音楽にはなりません。

当初は、きーちゃんの問題として聞いていたのですが、
どうもこの人の言っていることの方が筋が通っているのではとも感じました。
きーちゃんの話をたどっていくと、
きっかけは中学の時のいじめだったものの、
その背景はいじめという表面的なことだけではないと思えます。

いじめは、いじめる側、いじめられる側の空気や性格的なものが原因しています。
自分を主張していじめられる人もいれば、
出さないからいじめられる人もいて、色々な原因が考えられます。

そういうことからすると、
問題は相手にあるばかりではなく、こちら側にもあるのです。
そうすると、きーちゃんがいじめられる要因を持っていたとして、
それがきーちゃんだけの問題なのかと考えると、
人は自分のまわりの環境を反映しているわけですから。

この人が表現していた空気は、家庭内の状態を反映していたということでもあります。
今お母さんとも色々と話をしていった結果、
原因はお父さんとお母さんの不協和音ということに行き着きました。
それが一番敏感なきーちゃんに問題として現れたのだと捉えています。

この子は本当によくものを捉えていると思うのですが、
それを本人が言うと、お父さんは「子供が言うことだから」と
大人のルールで抑えてしまっています。
人はエネルギーを消化して生きています。
そのエネルギーの出口が封印されると、中に溜まってしまう状態になります。
それが違う形で出てくることになります。
病気や心の問題などです。

では、エネルギーを封印せず
本人の意志を認めてあげればよかったのかといったら、
それが出来なかったまわりの環境もあるということです。
物事は順番につながっているので、
「自分たちはどういう世界を今までつくってきたのか。
その結果が今の現象を起こしているとしたら、
どういうふうに解決したらいいのかを話し合ったらいいんじゃない?」
ときーちゃんが表現しているのだと思います。

「じゃあ、みんなで話し合ったら?」と言うと、
きーちゃんは「家族だけで話し合っても、
そこでは上手に話し合いがもたれないだろうから、
第3者がいたら良いと思う」と言うんですね。
「それもそうだね、画期的だね」ということで、
「第3者は誰がいいんだろう?」と聞くと、「いさどんがいい!」と言うんですよ(笑)。

今までこういったケースで出張をしたことはないのですが、
ここに家族5人が一緒に来るのはなかなか難しいと思いますから、
僕がお家まで出張しましょうかと思いました。

そうしたら、きーちゃんの気持ちが急に軽くなってきました。

「子は親の鏡」ですから、
子供を連れてきて「具合が悪いからよろしくお願いします」と言う親御さんがいますが、
その場合、「原因はここの部分から出ていますよ」と伝えます。
それから、お子さんを預かって健全になるようにします。
結果を出すのはそんなに難しいことではないんです。

ところが、元の環境にその子が戻ると、
そこには問題の種がありますから、また戻ってしまいます。
だから、「お子さんはここで引き受けますが、
そちらはそちらで自分たちの在り方を見直して下さい」と言うことです。

きーちゃんの場合はまわりの環境が大きな原因だとしたら、
ここに来なくても、家族で話し合うだけで良くなるのかもしれません。

ただ、現実に今昼夜逆転の生活を送り、食べ物の嗜好も偏ってしまっているので、
しばらくは身についてしまった習慣を切り替えるためのトレーニング期間がいるのかもしれません。
話し合った上でここが適切ならばここに来て、良い習慣を身につける。
そして、家の環境も整えられれば、学校にも戻れるということになったんですよ。

それで、お父さんがいらっしゃったら、
そのことを提案してみようということでした。いかがでしょうか?

お父さん:
はい。よくわかります(笑)。

いさどん:
それでは、一度みんなで家族会議をしましょう。
1回リセットし、みんなで今後どうしようかを考えましょう。
今まで良い風が吹かなかったのはなぜだったんだろうということを考え、
話し合う機会を持てたらと思います。

きーちゃん:
パパも正直に言っちゃえばいいんだよ。

いさどん:
はっはっは(笑)。
とかく正直が出ていないことが一番の原因なんです。
そこでは正直を噴き出させることが大切です。
それは、対立するためではなく、良い世界をつくるためですから、
最後はみんなで笑い合えればいいですよね。

お父さん:
はい。ぜひよろしくお願いします。

いさどん:
では、家族会議のオブザーバーとして出張しますよ!

きーちゃん:
嬉しい!

いさどん:
きーちゃんは、もう半分くらい良くなった感じだね!


子は親の鏡~面談・前編

先月、お母さんに連れられてここを訪れた高校1年生のきーちゃん。
半年前から過食とうつ状態になり、4月からは学校に行けなくなったということで、
いさどんと相談するために訪れました。
そして2度目の訪問となる今回は、到着してから食事も摂らず、ずっと寝ていたきーちゃん。
そしてお父さんがお迎えに来る前に、お母さんと一緒に再びいさどんと面談する場が持たれました。

いさどん:
きーちゃんの体調はどうですか?どこか、内科的に悪いところはありますか?

お母さん:
今、学校に行っていないので、学校から病院で健康診断を受けるように言われ、
先日病院に行ってきたんですね。内科と尿検査の結果は大丈夫でした。

いさどん:
ちょっと顔がむくんでいるようだけれど、それはどこから来ているのかな?

きーちゃん:
寝過ぎだと思う。

いさどん:
寝過ぎかあ(笑)。それはあるよね。

お母さん:
昼夜逆転した生活をしているのと、食生活の乱れもあると思います。
夜から朝方までずっと食べているんですね。
自分が買ってきたスナックやスープ、お豆腐などを食べています。

いさどん:
そういう添加物の影響が出ているのかもしれませんね。

お母さん:
そうですね。ちょっと前はスープを飲む時に大量の塩を入れていて、もっと顔が膨れていたんですね。
でも、本人の自覚で「塩分を入れ過ぎだったからもうやめる」と言って、今はやめています。

いさどん:
いつ頃から昼夜逆転の生活になったんですか?

お母さん:
ここ2週間くらいですかね。きーちゃんは、長女のゆうが帰ってくるのを待っているんです。
長女と話をしたいんですね。

いさどん:
ゆうちゃんは何をされているんですか?

お母さん:
大学生です。授業が終わった後はアルバイトをしたり、ボランティアをしたりしていて、
帰ってくるのが夜遅くなることもありますね。
そうすると、きーちゃんは長女とゆっくり話がしたいということで、
長女が帰ってくるのを待つようになりました。

きーちゃん:
帰ってきてもパソコンをやったりして、あまり話せなくて、ずっと待っていると夜遅くなっちゃう。。。

いさどん
ということは、ゆうちゃんも夜遅くまで起きているの?

お母さん:
ゆうは遅くても9時か10時には帰ってきて、それからご飯を食べたり、自分の宿題をしています。
話せる時は話すけれど、話さず寝てしまうこともありますね。

いさどん:
そうすると、きーちゃんが待っているといっても深夜まで待つというわけではないんですね。

きーちゃん:
ゆうちゃんと話せないと、パパでいいから話しがしたい。。。

お母さん:
父親も夜遅く帰ってきます。その後テレビを観たりして夜ずっと起きているんですね。
きーちゃんとゆうが話をしているところに父親が入ったりして、3人とも、夜寝るのが遅いんですね。
ゆうが自分の寝る時間になったら寝に行って、きーちゃんと父親になっても起きています。

いさどん:
お父さんは夜遅くまで起きているの?
それはきーちゃんに付き合ってくれているということなのかな?
それともお父さんの都合で起きているのかな?

きーちゃん:
パパはパソコンでチャットをしたりしている。遅いと4時くらいまで起きている。

いさどん:
でも、次の日は仕事があるんだよね?

お母さん:
次の日は朝出勤するのが遅かったり、色々なんですけれど。

いさどん:
そういうふうでもいい仕事をしているんですね。

きーちゃん:
うん。夕方は誰とも話せないし。

いさどん:
それは、お母さんが働いているから?

きーちゃん:
夜の9時まで仕事。

いさどん:
結構遅いね。

きーちゃん:
みんな帰ってくるのが遅くて。
2番目のお姉ちゃんのりっちゃんもどこかに行っちゃったりして、話せなくて。

いさどん:
りっちゃんは何時頃に帰ってくるの?

きーちゃん:
その時によって違うけど、すぐどこかに行っちゃうし話さない。

いさどん:
きーちゃんは今、学校に行っていないから家にいるんだよね。
朝起きる時間は何時頃になるの?

お母さん:
夕方の4時くらいですね。

いさどん:
完全にこうもり生活だね(笑)。
そうすると、毎日きーちゃんがどういうことをしているのかということを、
お母さんはなかなか一緒にいられないから把握出来ない状況ですね。

お母さん:
そうですね。夕方起きてきて、ふらっとお買い物に行ったり。
結局、時間を持て余して、みんなが帰ってくるのを待っているという感じですね。
長女と話をしたいから、それを口実に待っているという感じです。

きーちゃん:
暇があったら遊びに行っちゃうし。帰ってきてもずっとパソコンをしているから。

お母さん:
だから、きーちゃんの相手ばかりはしていないということだよね。

いさどん:
なるほど。ちょっと寂しいね。我慢しているということだ。
それで、学校の話を聞くけれど、中学3年の時に友達関係がちょっとまずくなったんだよね。
その前はどうだったのかな?

きーちゃん:
中2の時は一番良かった。仲の良い子もいたし。

いさどん:
その子とは中3の時はどうだったの?

きーちゃん:
上手くいかなくなっちゃった。

いさどん:
中学2年までは、自分でもそんなに問題がなかったと思っている?

きーちゃん:
色々なことがあったけれど、平気だった。

いさどん:
きーちゃんのことは大体わかってきました。
次に、お父さんとお母さんの関係について伺いたいと思います。
二人の関係はちょっと問題だと思うのですが、いつ頃からそうなったのでしょうか?

お母さん:
長いと思います。

いさどん:
この夫婦の関係ですと、子供さんに問題が起きるケースが多いです。
ちょっと立ち入ったことを聞きますが、今、感情的にはどういう関係なんですか?
夫婦関係のアンバランスが子供さんに出ているケースですが、
どの子に出るのかまではわからないものです。
病気でも皮膚に出たり内蔵に出たり、どちらかと言うと弱いところに出てきますからね。

きーちゃん:
パパもママも心配してくれているのはわかるし、「みんな平等」と言うけれど、
ゆうちゃんと話しているのは、「りっちゃんがえこひいきされているよね」ということ。
昔からだけれど、りっちゃんだけすごく褒められたり、優しくされたり、
嫌なことがあっても八つ当たりされなかったり。

いさどん:
八つ当たりするのは誰?

きーちゃん:
ママ。

いさどん:
そうか(笑)。そうすると、八つ当たりはりっちゃんにはしないけれど、
ゆうちゃんときーちゃんにはするということか。
他には何かある?

きーちゃん:
パパはいつも心配してくれるけれど、
「お父さんの言うことを聞いていれば良くなるんだ」と言うだけで、私の話を聞いてくれない。
昔から、子供会のくじで当たって引出しに入れておいたお菓子を取ったり、リモコンとかでぶってきたり。

いさどん:
それは何で?

きーちゃん:
向こうは遊んでいるつもりでも、辛くて。まわりも止めてくれなくて。

いさどん:
お父さんとしては子どもと遊んでいるつもりなのかな?
ちょっと相手の感情が読めないのかな?

お母さん:
きーちゃんが一番下でかわいいから、可愛がっていて、一緒に遊んでいるような気持ちなんでしょうね。

いさどん:
でも、本人がこういうことを言っているということは、
そのデリケートな部分を読めていないということですよね。

お母さん:
きーちゃんが「やめてよ」と言っても、「楽しいんだろうな」と思っているんでしょうね。

きーちゃん:
力づくでやってくる。私が3食食べていても、
「ご飯を捨てていたんだろう」と言ってくるし、どこに捨てたのか探してくるし。

いさどん:
でもそれって、どこかに捨てたわけではないんだよね?
食べていないと疑っているということは、
きーちゃんがご飯を食べていない時期があったからということなのかな?

お母さん:
自分本位な食べ方をしているから、それに対して言っているんだと思います。

きーちゃん:
パパは、お腹が空いた時に私がお菓子をあげないと、すごく機嫌が悪くなって、
ガンガン物を言ってきて恐い。パパもママも恐い。

いさどん:
恐いけど、でもいないと寂しいでしょ?大切なのはそこだよね。
夫婦関係ではどちらかがしっかりと柱になり、もう片方がそれを支え、
二人三脚のように家庭を築いていくことが必要なのですが、それが出来ていません。
お二人はずっと共働きなんですか?

お母さん:
そうですね。

いさどん:
それはどうしてですか?お父さんの収入が多くないということですか?

お母さん:
夫としては、「子供が生まれるまでは家で働き、
家のことと仕事と両方出来るのであればいいんじゃない?」という感じでした。
それで、家で子供に英語を教える仕事を始めました。

いさどん:
良い仕事じゃないですか。

お母さん:
それから、ゆうが生まれ、りっちゃんが生まれました。
仕事をしている間は、最初はおじいちゃんやおばあちゃんに見てもらい、
ダメな時はベビーシッターに来てもらっていました。
でも、きーちゃんが生まれた時には限界を感じ、
「自分の子を育てなきゃ」と思って仕事をやめたんですね。
だから、生活のために仕事を始めたというよりは、生きがいのためという方が近いですね。
子供たちが大きくなってから、また仕事を再開しました。

もともと私たちはアメリカに渡るために結婚したんです。
アメリカで知り合った知人と日本食レストランを出そうと思っていました。
ワーキングビザを取得するためには、
結婚している方が不法移入と受け取られず、取得しやすいと思いまして。

いさどん:
結婚する前は、結婚を前提として長い間付き合っていたんですか?

お母さん:
5年くらい付き合っていました。
でも、結局ビザが下りず、夫は日本で就職することになりました。
それで、私は家で英語教室を持ち、3時頃から9時まで英語を教えるようになりました。

いさどん:
そうすると、お母さんは家にいるんだけれど、きーちゃんの相手は出来ないということですね。

きーちゃん:
その間はテレビも観られないし、うるさくも出来ない

いさどん:
それは教室に影響するからということ?

お母さん:
ドアを閉めてしまえばいいんですけれど。

いさどん:
でもそうすると、封鎖されてしまって寂しいということかな。
寂しくなければテレビがなくても大丈夫だと思うけどね。
でも、今はやることはないし、寂しいということかな。

お母さん:
夫は今、フランチャイズ店のオーナーをしています。
夫は次男なんですが、長男が夫の父の不動産を引き継いだんですね。
おじいさんの代までは不動産の賃貸をしていたのですが、
お兄さんの代になってからはそれを会社にして経営するようになりました。
夫はフードサービスの会社を立ち上げ、
社長は多分お兄さんかおじいさんで家族ぐるみで会社を経営しているという状況です。
夫婦間ではそういう仕事の話をしないので、詳しいことはわからないんですけれど。

いさどん:
よくわからないと言いますが、ご主人はそういう立場にいれば、
仕事から得る収入はそんなに少ないわけではないですよね。
そのあたりは把握されていますか?

お母さん:
生活費として月々もらっているだけで。
今住んでいるマンションの支払いや光熱費は、夫の口座から引き落とされています。
収支の管理は夫がしています。

いさどん:
お母さんの英語教室の収入はある程度あるのですか?それはどうしているのですか?

お母さん:
それは食費や子供の学費に充てています。

いさどん:
ということは、家計簿のように何がどこに流れているのか把握しているというよりも、
どんぶり勘定のようになっているということですよね。
そのことは問題ということではないのですが、
家というものは本来もうちょっとしっかりとした柱があって、梁があり、
そういった役割分担によって完成しているものです。

そういうことからしたら、一体全体どこがどう機能しているのかよくわからないというのが、
今の二人の状態です。ですから、家の血液であるお金もそういう状態だということです。
そうすると、ご主人の得た収入はどこに使われているのでしょうか?
どこかにプールされているのでしょうか?

お母さん:
わからないです。

いさどん:
ちょっとこれは余分な話のようですが、
将来この家族がどうしていくのかというプランを練っていくためには、
それぞれから得られたものがどう使われていてどうなっているのかということを把握することによって、
家の方向性が観えてくるものです。
そこに、家族であることの楽しさがあるのだと思います。

お母さん:
そういう話はしないですね。

いさどん:
それは、昔からそうだったんですか?始めは、多少そういう話をしましたか?

お母さん:
そうですね。ただ結婚して夫の家に入ってからは、
二人だけでいた時の関係ががらっと変わったんですね。
夫の実家からの財産分与もあったり、夫の実家との強いつながりの中で、
私もよくわからないまま言われるようにやっていたり。。。
夫ががらっと変わったので、私の中で葛藤が強くありました。

いさどん:
自分たちの家族よりももっと大きなものがあり、
そこではよくわからない役割をしないといけなかった、
そこを詳しく把握せず今までやってきたということですね。

それはこういうことでもあるんですよ。
付き合っていた時の相手の印象と、結婚してからの相手の印象が違うということですよね。

お母さん:
そうなんです。結婚してから夫が実家の諸々を背負った時に、
価値観やものの観方が別人のようになったんです。

いさどん:
きっと、二人だけで付き合っていた時には話し合うことも出来たし、
共通点もあったと思うんです。
ただ、ご主人が実家を背負った時に、
「俺は男だ」とか「女は従え」ということを主張し始めたのだと思うんです。

お母さん:
夫は、「自分の両親のように生きることが幸せなんだ」という価値観を持っているようです。

いさどん:
資産家である両親の家系では、ある程度お金もあり食べていけるものだから、
そこの人たちは自信があるんですよね。
そして、「我が家にふさわしい人になりなさい」という影響を受けてきたのだと思います。

きーちゃん:
話は全然変わるけどね。
パパは「自分が変わらないと、変わらない」と言いながら、
そのことをあまり理解していない気がする。
パパはいつも「自分の言うことを聞いていればいいんだ」と言って、
「学校も行けるんだから」と言ってくるのが辛い。

いさどん:
ということは、お父さんもそういうふうに育ってきたということですね。

お母さん:
私もそう思います。夫の両親の想いを引き継いで育ってきたのだと思います。
でもそれも、さらにおじいさんおばあさんから来ていると思うのですが。

いさどん:
そうですね。

お母さん:
家系で引き継いできたものを守ることが、一つの幸せのモデルのような。
だから、自分の両親に気に入られればOKで、
気に入られないとそれはもう許されないというような価値観を持っています。

いさどん:
そうすると、ご主人も結構辛いと思うんですよ。
子供の頃にもっと自由に育っていれば、
人の顔色を見るということをしなくてもよかったはずなんです。
そのストレスが出ているんですよね。

きーちゃん:
パパもママも辛いでしょ?
だから、私もゆうちゃんも言いたいことが言えないし、言っても聞き入れてくれない。

いさどん:
これは、子供たちの問題ではなく、夫婦の問題ですが、
それは元をただせばご主人の家系から来る問題なんですよね。

さらに、お母さんがなぜこういう夫を選んだのかということもあるんです。
そこにボタンの掛け違いがあります。
この人は本来あなたの対象外の人ですから、選んではいけない人なんです。
相性は悪いですね。
だから、本当の部分を見せず、
カモフラージュした状態でお互いを見せていましたから、
蓋を開けてみたら違っていたということですね。

ご主人の日常の行動についても、あまり把握していないのですか?
あまり関心がないですか?

お母さん:
結婚したばかりの時は聞いていましたが。。。

きーちゃん:
パパは何かあったらママのせいにするし、
ママもパパに言っても仕方がないから、私に色々と言ってくる。
パパは「自分は間違ってないんだ」と思っているし。

いさどん:
結局、話は沢山出るけれど整理整頓して解決せず終わってしまうから、
「どうせ話をしても仕方がない」と、
さらにみんなが話さなくなるということになるんだよね。

お母さん:
この前きーちゃんがみんなに呼びかけ、
これからどうしたらいいのか、家族5人で話をしたんですね。

いさどん:
家族会議を開いたということですね。

お母さん:
それは、きーちゃんがこうなってくれたからなんですよね。

きーちゃん:
今も今までも、私が何か言うと、みんな逃げるようにどこかに行ってしまって、
最終的には「そんなことはくだらない」と言って、話が出来なくて。

いさどん:
この子はしっかりとものを観ていますよね。
この家族の中で一番センサーが働いていると思います。
これは、大切にしないといけないですよ。


「治療」としての情報提供~後編

今回のブログは、エリーといさどんの対談第2弾「『治療』としての情報提供」の後編です。

エリー:
個人的な質問ですが、私には「難治性うつ病」、
つまり、治癒するのが難しいうつ病という診断名がついていましたので、
精神的にハードな人格を生きてきたのだと思っていました。

しかし、ここに来た時に最初から「あなたは病気ではない」と色々な人から言われたことで、
非常に戸惑ったのを覚えています。
病気を治してもらいたくてここを訪れたわけですから、
病気ではなく性格の問題であるということを当時は理解することが出来ませんでした。

病気から抜け出した今ならわかることなのですが、
自分が病気だと信じ込んでいた時には「あなたは病気ではない」と言われたことが、
自分自身を否定されたような気がしていました。

いさどんは、病気というものをどう捉えているのでしょうか。
私は今まで病気というものをつくり上げ、病気の中に逃げ込んでいたのでしょうか。

いさどん:
病気の中に逃げ込んでいるというのも一つの捉え方です。
それはネガティブ、ポジティブで言うと、ネガティブな捉え方です。
「病気に逃げ込んでいる」という言い方に対して、
「病気の状態でいる必要があった」という表現もあるのです。

エリー:
ということは、言葉遊びになってしまうかもしれませんが、
それは病気であるということですか?

いさどん:
それを病気と言うのかそうでないのかは、捉え方によって大きく違います。
病的な捉え方がなくなれば、自動的に病気ではなくなるわけです。
私はそういった捉え方をしています。

エリーがここを訪れた時に、「この人は病的な状態である」という診断をしました。
しかし、病気であるかどうかというのは、捉え方によってはたちどころに病気でなくなるのです。
だから私は、これから病気がなくなるためにここに来ている人に、
「あなたは病気ではない」と伝えることがあります。
それは、今の状態の捉え方によって、どちらにでもなることだからです。

エリーの場合は、難治性うつ病ということですよね。
では、なぜうつ病に「難」までついているのかと言いますと、エリーは非常に優秀な方です。
その優秀な部分が難治性となっていたと僕は捉えました。

つまり、エリーのお話を聞いていればわかるのですが、
エリーは非常に思慮深く、物を深く捉えることが出来ます。
物を深く捉えることが出来るということは、
物を正しく捉えられるという点では大変重要なことですが、
難しく捉え過ぎてしまった時には深みにはまってしまいます。
それが難治性になっていたのだと思います。

それから、エリー自身が物事を捉える時に受身的な思考になります。
自分から物事に対して積極的に進めていくのではなく、
何かの作用を受けてそれに反応するというタイプです。

そういうタイプの人は健全な状態であれば、
物事を受けてからそれに対して必要なだけの反応を相手に返していくことが出来ます。
そうやって常に受け身の側で相手から出来事を受けて返す状態でいられればいいのですが、
そういった人が自分で何かをつくっていかなければならない状況になると、
その人の元々持っている性質以外のものを要求されるわけです。

これは、優秀である人がとかく陥りやすい状況です。
受けたものを返していく以上のことを要求され、
自分の中から何かをつくり上げ人に提供する側になった時に、無理が発生します。

つまり、この世界には役割分担として、
リーダー的な役割の人とアシスタント的な役割の人がいるとします。
リーダーが指示を出し、アシスタント的な人がそれを受けて
具体的な行動をすることにより事が成っていくとしたら、
それは優劣ではなく、その両方がないと一つの事が成り立っていきません。

そうすると、エリーはアシスタント的な役割を持っている人です。
その人が優秀であるがために、リーダーの役割や、
その両方をしなければならない立場に立った時に無理が発生したということです。
そこではバランスを欠いた状態になっています。

そういう場合は、自分にふさわしい役割に徹することが出来る環境と、
自分の役割に対する自覚を持てば、安定した状態を保つことが出来ます。
しかし、エリーは優秀ですから、まわりがそういったことを要求する環境にいましたし、
自分に合わないところで発想や行動が求められてきた、ということだと思います。

そのように求められると、エリーの場合はNOと言えません。
「それを受けてやらなければならない、~ねばならない」という発想になり、
それに常に応えようとする心が湧いてきます。
これも受身の人の特徴です。
わかりやすく言えば、「ええかっこしい」ということです。

受身ではなく、自分を積極的に表現する人はNOと言うことが出来ます。
しかし、NOと言えず、一生懸命それに応えようとするところに
そういったタイプの生真面目さが現れています。
そして、生真面目なエリーが色々なことを受ければ受けるほど、
それをやらなければいけない状況に自分を追いやってしまいます。

そのうちにエリーの中には、元々自分がやっていたはずなのに、
「私は何でこんな要求を受けないといけないのだろうか。誰のためにやっているのだろうか」と、
知らない間に人に圧力をかけられて
人のためにやっているという思考が生まれてくることになるのです。

そういったことは優秀であるがために起きてきます。
応えられなければ相手はそういったことを求めませんし、
自分も応えることが出来なければ、もっと早いうちにパンクして応えなくなります。
応えられるがゆえに、その連鎖が起き、
それが知らない間に被害妄想的になり、トラウマになっていきます。

これを紐解いていけば、「そういうことだったのか」という簡単な話です。
しかし、ずっとそういった連鎖が続いていくと、収集のつかない精神状態になっていきます。

私が先程から言っている情報提供と分析、
そこから自分を知ることによって、問題事から自分を解放していくことが出来ます。
こうやって私とエリーは対談していますよね。
私が情報提供をすることによって、
エリーは「なるほど、そういうことだったのか」と笑いながら聞いています。

深刻な状態にいる人は、こういったことを理解するのは難しいものですが、
こうやって客観的な情報として捉えれば、
自分のことすら笑えてしまうような状態になっていきます。

エリー:
大学時代に所属していた研究会の指導司祭が、私を呼び、
「あなたは今後、絶対にえらくなってはいけません」とおっしゃったんですよ。
私は自分がえらくなるために大学に行っていたわけではないし、
「なぜこの人はこんなことを言うのだろう」と、ずっとわからなかったんですね。
えらくなるという意味もよくわかっていませんでしたし、
それ以来気にもしていませんでしたが、ここに来てから時々思い出すことがありました。

自分の身の丈に合わないところに自分が知らない間に追いやられてしまう、
というある意味危機的な状態を神父様は感じたのでしょうか。
当時は私も若い娘でしたので、歌ったり踊ったりということが大好きで、
先輩を集めてテレビのコマーシャルソングに合わせて歌ったり踊ったりして遊んでいたんですよ。

だから、「なぜお馬鹿キャラをしている自分が、
そういうことを言われないといけないんだろう」と思っていました。
ただ、神父様がすごく深刻にきつい顔をされておっしゃっていたのが印象的でした。

いさどん:
深刻できつい顔をしておっしゃったということは、
きっと何か確信めいたものを感じられたということなのでしょうが、
私は深刻できつい顔はしないで同じことを思っています。
エリーがえらくなってはいけないと私も思うんです。

ただ、「えらく」というのは「立派」という意味もありますが、
これは方言かもしれませんが、えらいというのは「辛い」という意味もあるんですね。
辛い立場、つまり責任を負うリーダー的立場ですね。
そういう意味でのえらくなってはいけないというその両面があります。

そうすると、その人の人間性や魂の形によって役割分担、適材適所のポジションがあるとしたら、
エリーはどちらかと言うと、リーダー的立場よりも
サブリーダー的立場の方が自分をより発揮出来る人です。

しかし、逆にえらくなることによってそれを知るということも大切です。
つまり、サブリーダーのところにずっといたら、
そうでない立場に立った時の問題点を体験出来ませんから、
全体像を捉えるための表現をすることが出来なくなってしまいます。

だから、えらくなる立場に立ってはいけない人が、敢えてえらくなることによって、
「自分に合わないところに立つということは、どういうことなのか」
ということを理解することが出来るのです。

この場合、えらくならないということは、精神医学上では健全ということになりますが、
そういう人が敢えてえらくなることによって、
その人の人格的全体像を知るという意味ではえらくなる必要もあった、と私は捉えます。

だから、私はエリーの今までの歩みは正解だと思っています。
神父さんが言われた「えらくなってはいけない」というのは、
エリー個人の安定した精神状態を考えた時の話です。
エリー個人に貢献するという意味では必要だったと思います。

いみじくもその懸念された方へエリーは歩んできたわけです。
その結果、えらくなってしまって、その辛さや問題点を知りました。
今現在もこうやって話しながら、エリーの中にネガティブな発想が所々出てきますよね。
そのことによって、今話しているような全体像や社会の仕組み、
人の心の状態を捉えられる立場にいるのです。

そして今、こうやって対談をしていることが、
これから私たちが行おうとしている元にもなっていきます。
これは、そういう立場に立ったからこそ与えられていることであり、評価出来ることでもあるわけです。
敢えて自分に合わないところに行ったからこそ、わかったことです。
しかし、敢えて合わないところへ行ってわかったとしても、
皆が耳を傾け、誰もがわかるわけではありません。

そうすると、エリーのように、
そういったことを社会に伝えられるような立場にいる人が表現していくということは、
とても大切な役割だと捉えています。

エリーが難治性うつ病だったというところに話を戻しますと、
簡単に治ってしまっていたら、
エリーにとってうつ病をより深く知るということが出来なかったと思います。
難しかったからこそ、大変だったからこそ、
そしてエリーの特性である深く深くものを考えてきたからこそ、
今この場所まで来ているのだと思います。

そのように捉えたら全ては必要であったということです。
難しく深くネガティブに捉えられるエリーがいて、
それも常に受け身で、しまいには被害妄想的になって捉えていったからこそ(エリー笑)、
この事例に対してこのように考えられ、分析出来、それを表現出来るまでに至りました。

僕流にこれを捉えると、
「神様はこのくらい緻密で、心憎いくらいの配慮を持って、
私たちに知恵を与えて下さっている。育てて下さっている。
それも病気という、人間からしたら一見苦痛のように思えるようなことにまで配慮して、
私たちに奥深さを与えて下さっている」ということになります。
いかにありがたい世界に私たちは生きているのか、と考えています。

そういったことを心理学的にも科学的にも捉えることが出来ます。
科学的に捉えても、実際に難治性うつ病がここで治ったんです。
今、エリーにうつ病という状態は全くありませんよね。
それが一般の医療や大学の研究室では「難治性」ということなんです。
医療現場で捉えられているのは、難治性うつ病という病気なんです。

でも、私はエリーの状態を見て、それを病気の症状ではなく、
「人格的な表現から来た現象」と捉えています。
だから、これは心理学と言えば心理学ですが、数学のようなものでもあるのです。
足していった結果、引き過ぎた結果、掛け過ぎて拡大し過ぎた結果、
割り過ぎて縮小し過ぎた結果といったものです。
これは科学的、数学的と言ってもいいですし、物理的と言うことも出来ます。
実際に、18歳の頃は健康で明るくにこにこ笑っていた少女が、
えらい人になって難治性うつ病という負のスパイラルの中に入っていくわけです。

どのように捉えてもいいのですが、これには全て理由があって事が起きています。
その理由というのは、因果の法則から言えば、原因と結果の連鎖です。
その原因と結果の連鎖の先には目的があり、
病気の元が何であるのか、生きている目的は何であるのか、
そういった人が沢山いるこの社会の目的は何であるのか、
そして、この世界の目的は何であるのかというところに気づき、行き着くのだと思います。

だから、病気というものは、病気であると捉えた時に誰でも病気なんです。
健康食品を求め、毎日散歩をし、日々をバランス良く生活していかなければと考えた時に、
それもある種の「健康病」という病気じゃないですか。

それは、情報の連鎖から来ている現象にしかすぎません。
今のその人の魂、心を表現している現象だとすれば、それは単なる情報です。
現象というものは、次から次へと移り変わるものです。
ですから、「敢えて自分は病気的現象を楽しもう」という心になれば、
大いにその現象を楽しみ、表現すればいいことです。
それを楽しむために、情報として現象があるのです。

ただ、楽しんでいると、たちどころに病気ではなくなってしまいます。
逆に、苦痛が好きな人もいますから、魂が望むならそれをすればいいことです。
それも、いつかそこから抜け出すためには有益なことなのです。
どんな出来事もエネルギーの消費ですから、消費し尽せば消えていきます。
その時にありがとうという感謝の念が全てに表われてくるものです。

これはあまり良い方法ではないのですが、
ちょっと指に怪我をした。痛くて仕方がない。
それが辛くて仕方がない人には、もっと深刻な問題を与えればいいのです。
もっと大変な心配事を他につくってしまえば、そんな痛みは忘れてしまいます。

だから、いつでもそこから抜け出せる状態に私たちはいるということです。
私たちはそういう自由な世界にいます。
敢えて今、自分が心の目線をそこに集中し、
そこに目を向けないといけない状態にいる、それを見せてもらっている、
自分が望んでそれをしているとしたら、「もう、やめた」と思えばいつでもやめることが出来ます。
うつ病はそういうものだと思っています。

ここでうつ病が治るのは、その気づきを提供しているからです。
つまり、当事者が「自分は今こういう状態です」と言った時に、
「こういうふうに考えたらどうですか?
こういうふうに捉えたら楽じゃないですか?」とこちらが提案します。
こうやって、薬に頼らず、
代替案で薬を飲んでいた時と同じ安定した状態を保っていければ、
自然に薬が要らなくなります。
そうやって病気が治っていった、ということがエリーにも起きたのです。

薬の代わりにここの音楽であったり、ここの幼児たちとの接点であったり、
私との話やだじゃれであったり、笑いですよね。
そういったことが、ここにケアで滞在している人たちの回復に役立っているのだろうと思っています。

どの人にもそれをやりなさいといったら難しいかもしれませんが、
そういった捉え方は誰でも出来るはずです。
そうすると、治療する側とされる側という区別も必要なくなってきますし、
病気というもの自体がいつでも抜け出せる状態だということです。
これは精神的な疾患だけではなく、物理的な病気についても同じです。

例えば、糖尿病は生活習慣病です。
偏った生活習慣がなぜ起きたのかと言えば、その偏りはストレスから来ていると考えられます。
そのストレスの原因さえ取り除けば、アンバランスが消えて生活習慣も健全になっていきます。
「病気」という「気が病む」という状態から、自然の中にある元通りのバランスに戻り、
健全なる精神に健全なる肉体が宿るのですから、
心のバランスを正してやれば思考も肉体もバランスの良い状態になります。
元通りの気の状態、すなわち「元気」になるのです。

この世界は陰陽で出来ており、その陰や陽をネガティブやポジティブと捉えると、
問題事と良いことがあると捉えられますが、
双方が支え合ってこの世界をつくっているのです。
だからこそ、病気というのは大切です。良いことなんです。

ただ、病気を病気のままにしておくから問題事になるのであり、
病気の奥にはその病気を起こしている目的があるのです。
病気は陰でマイナスですが、その目的を知り、
「ここからこういうことを得られた」と捉えるとプラスに転じます。
ただ、その時に目的だけではわかりません。
病気が起こった原因と結果、現象と目的となってこの世界の仕組みが示されています。

そこで僕流の発想をすると、
「神様はそうやってこの世界をつくり、人を置いて、動かしておられる」ということです。
この世界はどんなこともありがたい世界です。

エリー:
私は小さい頃から、「理解力はあるけれど表現力はない」と言われていました。
それでいつも誤解されてきたというか。
今思えば、自分が理解していることを表現する力を磨くために勉強してきた、と思っています。

いさどん:
そうですね。それがバランスです。
だから、理解した分だけ表現することによって、自分に身につきますし、本物になるんですよ。
ところが、理解したことを表現出来ていない状態というのは、自分の中に鬱積した状態です。
それは、自分をもっと外に出したいという心から「出来ない」という心をつくってしまい、
自分を行き詰まらせる原因にもなります。

今の話を聞くと、エリーがうつ的になったのはよく理解出来ますし、
ある意味予定通りということです。
蓋を開けてみれば、「何だ、そういうことか」ということなのですが、
それが結構長かったですよね(エリー笑)。
でも、その長かった期間というのは、長い間病気でいたからこそ、
それをこれから表現して社会に大事として役立てていくということでもあるのです。

病気や色々な出来事の奥に大きな目的がある。
そこをこれからは見ていく時代なのでしょうね。
単に区切って病気を捉える、区切って現象を捉えるということではなく、
そういった奥にそれを表わしている目的を見ていく時代です。
それは今の人類が抱えている全ての問題に対して言えることです。

それを、神様の意志を知ることだと捉えています。
なぜこの世界がつくられているのか、
なぜあなたがここにいるのか、その目的を知るということです。
そこで初めて、宗教や学問、医療などのさまざまなことがつながり、
この世界がある目的というところにつながっていくのではないかと思います。


「治療」としての情報提供~前編

現代医療について語る」に引き続き、エリーといさどんの対談第2弾です。

エリー:
ご自身の治療者としての基本的な考えや思想性についてお話し下さい。
また、「木の花ファミリーは治す場所ではなく、心を振り返る場所」というお考えについて、
より具体的なイメージをご説明下さい。

いさどん:
私は一般的な立場の治療者としては資格も経験もないわけですから、
自分自身を「治療する者」として認識はしていません。
ですから、治療者が治療という立場から病気に対して持つ知見とは、
全く視点の違うところからものを観ることの出来る自由な立場にいると考えています。

もう一つ言えることは、私は病気を持ってここを訪れる方に治療をしているというよりも、
情報提供をしているということです。
情報提供をするというのは、その方に病気を発症させている現象に対して、
客観的な角度から捉えたことを伝えるわけです。

例えば、ネガティブな思考を持っている人にポジティブな捉え方を伝えることによって、
そのネガティブな思考からくる病的な状態を和らげる効果があります。
それによって、客観的に自分を捉えられるようになり、自分で心の調整が出来るようになります。
ここで生活していくと、そういった効果が現れてくると考えています。

この世界はエネルギーの交換、あるいはエネルギーの発散で成り立っていると私は考えています。
例えば、ある出来事に対してプラスのエネルギーが過剰に消費された時には、
そのバランスを取るために、マイナスのエネルギーが発生するようになっています。
誰かがネガティブなエネルギーを出し、それが過剰になっていたとしたら、
必ず逆のポジティブなエネルギーを用意してやらないとそれを相殺出来ないようになっています。

これは治療としての考え方ではなく、
この世界を成り立たせているルールとしてそのように捉えています。
そのように考えていくと、いわゆる精神疾患だけではなく、
病気やさまざまなトラブル、問題事、さらにあらゆる出来事が
そうした仕組みによって現象として現れてきている、と捉えることが出来ます。

そうすると、そうした偏ったエネルギーの消費によって発生した病気があるとします。
それに対して、逆のエネルギーの消費の仕方についての情報を提供すれば、
自らバランスを取ることが出来るようになるわけです。
それが、私の言う情報提供ということです。

もう少しわかりやすく説明しますと、
ケアを希望してファミリーを訪れる人がいらっしゃいます。
その方はうつ病にせよ、引きこもりにせよ、何らかの問題を持っておいでになるわけです。
当事者の方もそうですし、そのご家族も問題を抱えた状態になっています。

その時に、当事者の方は自分がそういう状態になった理由を語られるわけですが、
それが本当に客観的な視点に立った話かというと、そうは言えないケースがほとんどです。
やはりその人の人格的な問題であったり、
中には機能的な欠陥から来る偏った捉え方をしてしまっている人がいます。

当事者は当事者からの、保護者は保護者からの視点だけで捉えていて、
その症状がどういうものであるのかを見極められるような多面的な捉え方は出来ていません。
そもそも、バランス良く物事を捉えられていたら、その状態には至っていないわけです。

それに対して、ネガティブに捉えすぎていることについてはポジティブな見方を提供しますし、
ポジティブ、つまり楽観的な捉え方をしすぎている場合は、
より慎重に、正確な見方を情報として伝えます。
そうすることによって、当事者にも家族にも現状が正しく認識出来るようになります。
今までなぜその状態が起きていたのかを理解出来ていなかった人たちが、
「こういうわけでこの状態が起きていたのか」と捉えられるようになります。

そうすると、先の見通しが立つようになり、不安や恐怖から解放されていきます。
それまでは、わからないところで歩んできたから不安でしたし、
不安から発生する恐怖に脅かされてきたわけです。
現状を正確に理解することで、急速に楽になっていくのです。

また、当事者が非常に深刻に捉えているような問題であっても、
見方を変えれば「人間というのは面白い発想をするものだよね」と、
そこに愉快さや滑稽さを見出すことが出来るものです。
自分自身を滑稽と言われると不愉快に思う人もいるかもしれませんが、
自分自身を他人のように客観視する視点を提供することで、
「自分はなんて滑稽なことをやっていたんだろう」と
思わず笑ってしまうような方向に誘導することもあります。
当事者には非常に苦痛な状態であっても、
捉え方を変えれば笑いに持って行くことも出来るものです。
そのように心がけて対話をしています。

「治す場所ではなく心を振り返る場所」という考えについての
具体的なイメージをご質問いただきましたが、
それはこれまでお話したように、客観的に物事を捉えながら、
精神的な疾患に至った経緯を一緒に振り返っていくということです。
その中で、どこでどのような捉え方をしてきたのか、ということを一緒に考えていきます。

その時に、当事者の方は当然それまでの延長線上でものを考えられるわけですから、
こちら側からは常に代替的な捉え方を提供していきます。
そうすることによって、過去のイメージから作られているトラウマからその方を解放していく、
という作業をしていきます。

そういった情報は、面接という特別な時間だけではなく、
ここに滞在して生活している日常の中でも提供しています。
私が常にそういう立場を取って当事者の方について回るわけにはいきませんが、
普段はその方がファミリーの中でどのように過ごしているのかを眺めています。
その方の状態を観察し、その方の心の癖や性格的なものがどのように表われ、
変化していくかを見ているわけです。

その時に、ファミリーメンバーとのやりとりの中に表れるその方の性格や心の癖を観察しながら、
次に接点を持った時に情報提供するための材料を集めていきます。
ファミリーメンバーたちも、その方と接していて気づいたことを私にフィードバックして、
材料集めを手伝ってくれます。
こうして集めた情報を次の面接で伝える、というようなやり方をしています。
それがここで行われている、一般に言う「治療」ということにつながる方法ですね。

これまでエリーに対してもそのような接し方をしてきたと思うのですが、
それを受けた側としての感想はありますか?
あるいは、それに関する質問等もあればどうぞ。

エリー:
ネガティブな思考や発想について一貫しておっしゃっていますが、
それはうつ病に関してだけなのか、それとも病気全般に関して言える傾向なのか、
ということをお伺いしたいと思います。
また、ネガティブな思考に偏ってしまうということが、
それこそどこから来ているのか、ということについても知りたいです。

いさどん:
ネガティブやポジティブというと、一般的にはネガティブが問題であって、
ポジティブが問題を解決するための良い方向と捉えがちだと思うのですが、
そういった捉え方をすると、良いこと、悪いこととして分けてしまうことになります。
それでは問題事の本質を捉えることが偏ってしまい、
問題解決はかえって難しくなっていきます。

ネガティブということがここでは何を示しているのかというと、
その人の心の状態を表現する材料ということです。
それに対して、ポジティブが物事を前向きに捉えていくことだとすると、
自分や周囲にとって都合の良い部分を表現していくと、ネガティブな部分は封印されてしまいます。
ポジティブが進みすぎたら躁状態と考えてもらったらいいと思うのです。
それに対してネガティブが進み過ぎたら鬱状態ということになると、
鬱と躁というのは通常の人の中にもあるものです。
それを上手にバランス良く使い分けることによって、健全な状態を保つことが出来ます。

そうすると、物事をネガティブにしか捉えられない状態に偏ってしまった時に鬱になるわけです。
ここで悪意と善意という視点で見ていくと、
物事を悪意的に捉える傾向が極端になると、
物事や他人のことをどうしても好意的に捉えられない状態になってしまいます。
しかし、物事を悪意で捉えるということは、視点を変えれば慎重ということでもあります。
それは物事をより正確に見極めようとする心の働きですし、
疑ってかかるというのも「転ばぬ先の杖」で、大事な発想です。
反対に、ポジティブに考えるというのは何でも良いこととして捉えていくということですが、
人によってはきちんと物を考えずに進んでいってしまうこともあるわけです。

ですから、本来はネガティブさとポジティブさを使い分ける冷静さが必要とされます。
その偏りというのは病気として出てくるだけではなくて、
家庭内や会社の中といった日常のさまざまな人間関係においても表れてくるものです。

そこで、自分の中のネガティブな部分を物事を慎重に見極めるために使っている人は、
その部分をコントロールして個性として活かせているわけですね。
これに対して、ポジティブな部分を良い方向に活かせば、
物事をどんどん発展させていくことが出来ますが、
それが偏り過ぎてしまうと時期尚早なのに物事を進めすぎたり、
必要のないことまでやってしまったりして、
あとからそれを補わなくてはならないようなことにもなります。

これと関連するのですが、私は鬱を二つのタイプに分けて捉えています。
一つは、ネガティブな方向に偏りすぎた鬱ですね。
それは、もともと鬱的な要素がある人の鬱とも言えます。
ネガティブに考え続けた結果として、物事を悪く捉えることしか出来なくなってしまい、
思考が停止して行動出来なくなってしまうタイプです。わかりやすいタイプです。

一方で、ポジティブな方向に偏りすぎた鬱というのもあります。
物事を楽観的に考えどんどん行動を進めていくのですが、
慎重さを欠く結果として、物事が次第に行き詰まっていきます。
本来はそこで振り返らなければいけないのですが、
ポジティブに考えるものですから、どんどん前に進んでしまい、ますます行き詰まってしまいます。
結果的には自信を喪失して行き詰まり、鬱になってしまうというタイプです。
ですから、その方の鬱がどのようなタイプなのかをまず見分ける必要があります。

また、原因を捉える際、当事者の家庭環境が大きな材料を提供してくれます。
本人の兄弟、両親の精神性や関係、さらに両親の親の関係まで家系図を書いてもらい、
分析して、その家族の傾向を捉えていきます。
それがその人にどのように影響しているのか、を捉えていくことが有効になります。

どのようなタイプにしても、
どこかでバランスを欠いた結果として今の状態があるわけですから、
過去を振り返り、色々な時点の状態を思い出してもらいながら、
どこで自分が鬱に入っていってしまったのか、
どのような偏りが原因でそうなっていったのかを分析し、情報提供をしていきます。
そして、その時点からの思考を組み立て直しながら現在に戻ってくる作業をすれば、
持ってしまったトラウマを解消し、バランスの良いその人に戻れる、ということです。

ご質問は、ネガティブな発想がうつ病に特有のものなのか、というご趣旨でしたが、
ここまでお答えしたように、それは病気に限らず、人生の中で常にあることだと考えています。

それから、そうしたネガティブな発想がどこから来るのか、というご質問については、
宗教的に言えばカルマ(業)ということになり、そういった心の癖があるわけです。
それは、より宗教的な捉え方をすれば、
その人が現在のような魂の状態になるような歩みが過去にあった、ということになります。
その過去というのは、その人の人生における過去だけでなく、
いわゆる仏教的に言う過去世も含めた魂の歴史があり、
その上で生じた心の癖や性格から出てきている、と考えられます。

いずれにしても、病気の原因を捉えていく時にはホリスティックに原因を捉え、
それを遡りながら、一つずつ解決していくことが大切になります。

私はこれまでに沢山のケアの人たちを引き受けてきましたが、
親子や兄弟、夫婦といった魂として近い縁は、
心の癖をお互いに出し合うためにいただいている、と考えています。
お互いに役割を果たし合っているということです。
そういった心の癖をお互いに出し合い、
トラブルを発生させることによってエネルギーを消費させ、
そこから学び抜け出していくという作業をしている、と捉えています。

エリー:
そうすると、バランスを欠いた状態というのも、
やはりバランスを欠きやすい魂として生まれた結果、と捉えていらっしゃるのですか?

いさどん:
バランスを欠きやすいというよりも、
バランスを欠くことを必要としている、ということですね。
つまり、魂がアンバランスなものを持っていて、
それを解消するために生まれてきているということです。
まずは表現することが必要なわけです。
見方を変えれば、それを表現するために生まれてきている、とも言えるわけです。
それを表現することを約束し生まれてきた、と言ってもいいと思います。

そうすると、それが表現されるということは、
魂の目的が果たされているわけですから、いいことなんですね。
表現すればするほど、約束通りに自分自身を学んでいく作業が進んでいる、ということですから。

エリー:
そうすると、うつ病になるというのも、ある程度予想されているということでしょうか。

いさどん:
私が当事者の方とお会いする時には、
当然、その人がどのような歩みで今に至ったのかはわかりませんが、
その人と接することで人となりがわかると、
おおむねその人の魂の歩みを捉えることが出来るわけです。
そして、その方の現状と、生まれてから現在までを聞くと、心の傾向が見えてきます。

そうすると、その方が何を表現するために生まれてきているのか、ということが捉えられますから、
そこからうつ病に至った流れをつかむことが出来るのです。
その流れの全体をつかめると、どういう理由でそれが起きてきたのか、
ということを当事者の方に情報として提供することが出来ます。
それを受けた当事者の方が納得し、
自分がその状態であることが不必要になったことを悟れば、
自分でそこから抜け出してくることが出来ます。

つまり、当事者の方が自分の魂のアンバランスを表現した結果、
自分の意志でそこから抜け出すということです。
そこには治療者と患者という関係ではなく、
情報を提供する人と、それをもらうことで自分のことを知り、
自分の意志で病的な状態から抜け出してくる人、という関係があるのです。

エリー:
今の話は、現代医療の中で行き詰まっている人には大いに救いになると思います。
同じことを宗教的な視点を持たない人、
魂の存在といったことにあまり触れたくないと思っている人にも
わかりやすく説明していただくことは出来ますか?

いさどん:
本来、宗教的な捉え方は、宗教という特別な枠の中にあるわけではないのです。
そういう意味では、宗教的なものを良いとか悪いと判断してしまうと、
かえってそれを宗教という枠に閉じこめることになってしまいます。

この世界を科学的、物理的に捉えたり、哲学的に捉えたり、宗教的に捉えたりと、
色々な切り口があるうちの一つだと私は考えています。
あくまでこの世界を知るための窓口の一つとして捉えればいいと思うのです。

今、私がお話ししているようなことは、私が歩んできた経緯がありますので、
どうしても宗教的、スピリチュアルな語り口になります。
ただ、宗教的な表現を否定されたり、魂という言葉を嫌がる方でも、
自分の個人的な考えや想い、その人のオリジナルなものの捉え方というものは必ず持っています。
それをここでは魂と表現しているだけですから、
それを心理学的に語ることももちろん可能です。

その魂の表現がバランスを欠いていれば、それが症状として表れてくるわけですから、
バランスを取っていくことを心がけましょうということで、
先ほどもお話ししたように情報提供をしていくわけです。
その時に、宗教的に捉えたい人には宗教的に、
心理学的に捉えたい人には心理学的に伝えればいいのです。

もっと科学的に、ということであれば、
例えば脳内物質が過剰に出ているとか足りないといった伝え方になるかと思いますが、
その場合も、いきなりそのようになったというよりは、
それ以前に何か原因があってそうなったわけです。
この世界というのは、常に物事が起きることによって次のことにつなげている世界です。
原因と結果の仕組みでつながっているわけです。

さらに、この世界は原因と結果だけで成り立っているわけではありません。
現象が起きているということは、必ず目的があるわけです。
原因と結果が無意味に、ただ機械的に連鎖しているのかというと、
原因があり、それが連鎖して結果になり、その結果によって何かを表現しています。
そこには常に目的があります。

例えば、鬱という現象があるとすると、
それはとかく問題事として捉えられるものですが、
その現象によって私たちが何かを知る、
その目的のために現象があり学びになっているということに気づいていきます。

ですから、病気を単に問題事として捉えている人は、
なかなかそこから抜け出すことが出来ません。
しかし、病気を通して何かを学び、自らが成長するための出来事として病気を捉えれば、
病気という結果には目的があることがわかります。
何かを我々に与えているのです。

病気を原因と結果という側面から捉えると、
例えばネガティブな思考があって、自分に過剰な負荷をかける行動によってストレスが溜まり、
自律神経の機能が低下した結果イライラして、人とのトラブルが起き、
それがさらにストレスになって、最終的に病気が発症した、というような連鎖があるわけです。

そこで、例えばトラブルによって人との絆が切れれば、そこに孤独が生まれます。
そうすると、孤独を学習することになります。
そして、その状態を体験することを通して、
調和や愛に目覚めるという目的がそこに表現されるわけです。

そういう捉え方をした時に、
私たちはアンバランスなことが起きることによって何かを学ばされ、
成長させられている、ということになります。
そうすると、病気などの問題事も、
それを与えられることによって育てられている、という解釈になります。

それを宗教的に捉えるのか、それとも心理学的、科学的に捉えるのかはそれもバランスですから、
色々な切り口で捉えていくスキルがあるほど、バランスの良い人が出来るということです。
病気などの問題事から自分を知り、この世界を知ることが出来ます。
知るということは悟るということです。
広い意味での世界が観えてきます。
そのことによって、社会が進化し、成熟して、問題が解決されていくと考えています。

(後編へ続きます。)