ようこそ、ここへ

珍しくメンバーのひろっちが、
「大人会議前にいさどんと話す時間を持ちたい」ということで、
今日の夕食後、ひろっちといさどんの面談の場がもたれました。

ひろっち:
今日の大人会議でもシェアするけれど、
まずはいさどんに話をしようと思いました。
陽子ちゃんから手紙をもらったことがきっかけで、最近色々と思うところもあって。
とりあえず、考えがまとまってブログにしたので、読んで下さい。

(いさどんがひろっちのブログを読み終わりました。)

そういうことなので、いさどんに育ててもらいたいなと思っています。

いさどん:
はっはっは(笑)!共に歩むということだよ。
それと、そういう心境になった人というのは、
それこそ独立して一人の人としてあるのだから、本来は上下なんてないんだよ。
その状態に至るまでには、上下があるのかもしれないけれど。

このような心境になったということは、
「自分対この世界」であるし、「自分対神」だからみんな平等なんだよ。
それに気づいたということは、共に歩むということだから、
上下なく仲間として一緒にやっていこう。

今までの歴史のように、
教団や組織をつくるという発想に基づく目的があるのなら、
そこには上下もあるのかもしれない。
しかし、これからは、
もっと大きなものがこの世界で何かを表わそうとしているわけだから、
その役割をしっかり果たしていくことだと思う。

そうしたら、私たちはその中の一つ一つの材料であったり
手足なのだから、みんな平等なものです。
まして、そのことに気づいた人たちは全く対等なものです。

それこそ、桜田淳子の世界。

ひろっち:
桜田淳子?

いさどん:
♪ようこそここへって(笑)。
ようこそ、この心境になったんですね、ということだよ。

ここの人たちは、
どの人もそういう心を目指してここにいると思います。
しかし、人によってはそれが漠然としていたり、
まだつかみ切れていなかったりしています。
でも、最終的にはみんなそうなるために生きていると思うんだよね。
そうすると、ひろっちはけじめをつけてすごくいい方法をとってくれました。
みんながこれに見習い、しっかりとした決意を持って歩んでもらえればと思います。

気づきが生まれてこない人との違いは、
やはり決意が出来ているか出来ていないかということだと思う。
そういった決意さえあれば、気づきがどんどん出てくると思います。
その違いは大いにあります。

だから、ひろっちの決意は、
みんなの見本になって大変いいんじゃないかと思う。

ひろっち:
「師匠として、僕を弟子にして下さい!」という想いで今日は来たのですが。

いさどん:
それはそうかもしれないけれど、
私たちはあくまでパートナーであり、対等な人間関係であり、
仲間であり、家族であり、そこには上下がないと思う。
ただ、今までの心境のところでは差があったのかもしれない。

僕はひろっちの書いたブログを読ませてもらって、
自分もひろっちと同じ心だと思うし、
ひろっちもその扉を開いた限りはこれから一緒だからね。
ただ、経験上、多少僕の方が
色々な物の観方などは持っているかもしれないから、
大いに話し合ったり、お互いを活かし合っていければいいと思います。

ひろっち:
でも差はあるので。

いさどん:
はっはっは。そうかな(笑)。

ひろっち:
ちゃんと神様に使っていただける人材になれるように、
力をつけていこうと思っています。
まずは、その邪魔をしている我を取っていきたいと思っています。

いさどん:
その心を強くすればするほど、我は取れる。
例えば、自分が心細くなって天に向かって嘆いたとしよう。
心細いということは何か悩み事があるわけだけれど、
そこで「神様、私の問題事をどうしたらいいのでしょうか」と言おうが、
「世の中を救いたいのです。だからお力を下さい」と言おうが、
神に対してそういう形で語りかけている限りは、まだまだだね。

それは、神と自分を分けているということです。
そういうふうに語りかけた時に、
「自分は何て馬鹿なことを言っているのだろう。
神の表われが自分であるのに、神に願いを言ったり、
迷い事を言っているような心境になっていた」ということに気づけばいい。
「我即神なり」だから。

これは一般の人にはなかなかわかりづらいことかもしれないけれど、
宇宙の法則だからね。
そこで道が開かれる。
そういう心境になったら、いくらでも道は開かれる。
最も、どんな人間にもその人にふさわしく、道は開かれているのだけれどね。

ただ、私たちは二人三脚のように神と一緒に生きている、
生かされているわけだよね。
神が生きている状態が自分だから。
そうすると、よりその存在が感じられるようなことが起きてくる。
そういうふうに生きる人が、これから時代をリードしていくんだと思う。

今これを読んでいて、
そういえばひろっちは今度のエコビレッジ国際会議で発表するのに、
こういう精神を表現するんだなと思った。
ひろっちがやろうとしていた「みろくビレッジ」は、
一か所のみろくではなく、この世にみろくをもたらすということ。
今回の決意があって、発表者にふさわしい心になったんじゃないかなと思います。

ようこ:
ひろっちは、メンバーが誕生日を迎えると
その人にお祝いのお手紙を書いてくれるのだけれど、
先日、私の誕生日の時にもお手紙をくれたんだよね。
きっと、ひろっちはお手紙を書くことはあっても、
もらうことはあまりないだろうと思って、遊び心で返事を書いたの。

そうしたら、ひろっちが「5月の末か6月の頭には、
ようこちゃんに手紙の返事を出すから」と言うものだから、
「返事をもらえるのであれば、ちょっと時期を早めて、エコビレッジ国際会議前にほしいな。
その方がひろっちも、よりふわさしい発表が出来るだろうから」と言ったんだよね。

いさどん:
ということは、これは全部、上の意志が働いて私たちが動いているわけだ。

ようこ:
でもこれって、すごい進歩だよね。
ひろっちがまだここに来たばかりの去年の11月に、
全く同じような内容の話をひろっちにした時には、ひろっちに聞く耳がなくて。
ここの大人会議の在り方が指摘モードに偏りすぎているんじゃないかとか、
当時のひろっちの中にはいさどんに対する反発心があったよね。
まあ、男の人であれば多くの人が通る道だけれど。

それが今は、「いさどん、弟子にして下さい」という心になり、
ひろっちはこの半年で色々なことがあって、心が変わっていったんだと思います。

いさどん:
ただ、僕はどの人にとっても師匠という気持ちはないんだよね。
あくまでもパートナーシップだから。
でも、僕はこの道を先に歩んできただけのものを持っているから、
いくらでも惜しみなくそれを提供する。

なぜそれを提供するのかといったら、
この世界でその人により働いてもらわないといけないからね。
まだまだ、これからみんながやることは沢山ある。

それと、僕もだんだん年をとってきて、
役割の転換をしないといけなくなってきています。
その空いた部分にみんなに入ってもらわないといけないということもある。
大いに条件をつけずに活躍してもらいたいと思います。

ようこ:
与えられたものをいただきながら。それこそ、みんなに委ねて。
人間も神のうちだもの。そこに区別はないから。

ひろっち:
自分の我の強さというのが大分取れてきたと思っていたけれど、
「ここまでまだあったんか!」とこの数日でまざまざと見せつけられて。

いさどん:
我はあり続けるものだよ。
ただ、我というものがどういうふうに表現されているのか、ということだよね。

まずは自分だけの我、
つまり、自分の健康やバランスの良さを見ないといけない場合もある。
また、自分と今目の前にいるパートナーとの関係で我を見ていかないといけない場合もあるし、
木の花という我やもっと大きな我で見ていく場合もある。

自由自在に我を使い分けた時に、
我が有効に活かされているという状態だと思う。
我を取り去るというと、何にもなくて
色即是空の話みたいだけれど、それは違うと思うんだよね。
もちろん、そういう解釈もあるけれど、
それは解釈であって、解釈で人は生きているわけではない。
この世界の仕組みの中で生きているわけだから。

その仕組みの中で、しっかりと自分を有効に使い切るということです。

ひろっち:
今までは小さい我だったと思うから、
まずは、それを広げていけるようにと思っています。

いさどん:
ひろっちだから、広げていけられる(笑)。

ひろっち:
大和には、せまっちとか言われているから(笑)。
「おでこはひろっち、心はせまっち」って(笑)。

いさどん:
大和がそう言った?それは面白い(笑)。
まあ、そんなところだから、後はみんなに発表してもらえればいいね。
大変いいことだと思うから。

そういう心になれば、
何の制限のない、自由な生き方が出来ると思う。
その心が出来ないと、人間というのは自由に生きているはずなのに、
ものすごく狭い世界を生きていることになる。

だから、その心であれば人生を楽しめる!
これからもよろしく!

ひろっち:
こちらこそ、よろしくお願いします!

ツꀀ

※ひろっちが書いたブログは、木の花ファミリーブログに載せてあります。


ちよこさんのその後

ちよこさんの娘さんに電話をかけ、
ちよこさんの近況について伺いました。
4月24日に現在いる病院に入院し、
5月24日で1ヶ月になるので、とりあえず退院する予定になっているそうです。
ただし、それは5月24日の状態で安定していればということです。

今は病院にいるので、
携帯で誰にも連絡出来ない状態になっていますが、
ちよこさんの状態は比較的安定しているそうです。
しかし、霊がついているということについては、同じように言っているそうです。

病院の先生は大変親切で、いいところに入院出来たようですが、
手にはギブスをはめ、転んでも絶対大丈夫な状態にしているそうです。
始めは、「手が全然動かないのではないか」と思ったそうですが、
リハビリを1週間した後、ぐーが握れるようになったと言っていました。
手については、不幸中の幸いですという話でした。

娘さんは、「24日に退院してからがすごく心配です」と言っていました。
「お母さんを家に一人に置いておけないし、
でも置いておかないといけないことから、すごく心配です」と言っていました。
ただ、病院側もいつまでも預かることが出来ないので、
退院することになっているそうです。

霊について解決がつかないということが一番の問題で、
「明日、霊能者に見てもらうことを非常に期待しています」と
ちよこさんは言っているそうですが、
娘さんは、「今までどれほどそういう人たちに見てもらってダメだったのか。
私は全然信じていないので、わからないんですけれど」と言いながら困っていました。

僕も、「そういうものはあるでしょうが、仮にあったとしても、
そういうものと共鳴しないような心をつくるということが一番だと思います」という話をしました。
そうしたら、「どこに行っても、そう言われるんですよ。
それしかないんですよね」と困っていました。

木の花のことについて、
ちよこさんは「本当にいいところだった」と言っているそうです。
娘さんも、「将来、私とお母さんと子供で、木の花へ行きたいという想いもあります。
そうなったらよろしくお願いします」と言っていました。


感謝すら消えてしまう世界へ

「生きることが答え」に沢山のコメントをいただき、
ありがとうございました。
皆さんからの色々なコメントを受けて、
いさどんからのメッセージをシェアしたいと思います。

どこかで区切って答えを出していくということも大切なことではありますが、
それ自体は次につながる過程と捉えることが出来るものです。
今まで私たちは出来事を検証しながら、
次がどうなっていくのかということを検証してきました。
私たちは、常に正解を求めている人たちと違い、
縁があって出会った人、そういった出会いからもたらされる出来事をいただき、
その結果わかったことを学び、次の行動につなげていくという方法で今まで歩んできました。

縁ある人々との出会いから求めるものと提供するもののニーズが合うと、
私たちが最初からわかって提供することもあれば、
出会いによって新たに提供出来るものを育てたり、
元々持っていても今まで提供出来なかったものに気づいていく場合もあります。

だから私たちは、答えをわかっていて提供しているばかりではありません。
積み上げてきた実績の中で見通しが立てられたり、
色々な出来事を経験しながら、
私たちも新しい情報を手に入れ次の糧にしています。

ケアで滞在している人に伝えていることは、
「あなたの人生はあなたの想いをあなたが表現した結果与えられるものだから、
その結果は自己責任ですよ」ということです。

私たちは常に、客観的な視点に立った情報提供をしてきています。
人が生きているということは、
自己表現の結果が返ってくるようになっています。
この世界は因果応報であったり、
類は友を呼ぶという仕組みで現象が自分に返ってくるのです。

そういう仕組みの中で生きているということは、
自分が求めていることを自分で掴むというよりも、
自分自身の中にある想いを行動として表現することによって、
この世界という鏡に映り、結果として現象を自分が見ることになります。

そうすると、一人一人、人生を通して自分を学習していることになります。
自分の行いに対して学習出来る状態の人もいれば、
自分の行いを冷静に判断出来ず、自分の行いで混乱している人もいます。
そのように人それぞれの人生があるものです。

どの人もその人なりに生きて、その人なりの答えをもらって生きています。
それをよくわかっていないと、問題事が起きると他のせいにしてしまいます。
そうではなく、自分の中に種があり、
その種の存在を教えてくれるためにこの世界はある、というふうに捉え、
「それはあなたの中にある種が引き寄せているんですよ。
それがこの世界のあなたに対する働きですよ」と伝える。
そうやって、私たちは客観的な情報を提供しています。

ここで、その人の中にある問題の種を
代わりに解消してあげることは重宝でいいことのようですが、
それをすると、なぜその人にその種が与えられたのかという意味を知ることと、
その学びを奪ってしまうことになります。
いつも他人に解決を求めないといけない人が出来てしまうのです。

最終的に人は自分の存在を正しく認識し、
自分が何ものであるのかということを悟っていく旅をしています。
出来事は、自分自身が何ものであるか、
自分自身がいるこの世界は何なのか、
ということを知っていくためのきっかけになるのです。

常に他人によって物事が解決されていくと、
そのことがいつまでたってもわからない人間になってしまうので、
その人が出会った出来事をその人に返してあげるというのが私たちのスタンスです。
これが一番大切です。

自分の心にふさわしく出来事が表わされ、
そこから学び、自分を知るための旅をしています。
それが人生なのです。

そうしたら、どのような出来事に出会い、
結果どのように死んでいくのかということは全てその人の自己表現です。
中には他人のせいにして被害者として、
自分が表現したものを受け取っていく人もいるのですが、
全て自分自身の表現が自分に出来事をもたらし、
自分を知るためにあるのです。

そこへ至るまでには人間関係にしろ出来事にしろ、
色々なことが複雑に絡みあっていて、
それをどこで区切るかによって、
「良かった」とか「悪かった」という表現が生まれてきます。
無限なる世界で起きている出来事ですから、
より広くそれを捉えた時には問題事は何一つない世界です。
全ては学ぶ過程の出来事となります。
しかし、それを狭く一つ一つのこととして捉えると、
「良かった」とか「悪かった」という世界に陥ります。

そこで僕はこういった中で何をしているかというと、
「こういうケースの場合はこういうことによってこういうことが起きて、
こういう結果になる」とデータ収集をしています。
過去に同じ出会いは一度もなく、
出会う人々の事情は全くオリジナルなのです。

ここへ来て、意識を変えて社会へ戻る人は多いです。
ここで見事に問題事を解決していった人は、
自分の新たな歩みを見つけ進んでいきます。

しかし、一見問題事を解決していないようで、
「卒業」に至らずケアを終わっていく人もいます。
しかし、そういった人にもここでの体験は無駄になっていないのです。
例えば、ここにいることが苦痛だった人にとっても、
それが次へ進むための土台になっていきます。

こうやって色々な人に出会っていくと、
誰一人として無駄な出会いはありません。
偏った捉え方をすると、「これが正しい」ということになったり、
「あれは失敗だった、ダメだった」ということにもなります。
しかし、そういうことはこの世界に何一つないのです。

これは、出来事を通してプロセスに出会っていることであり、
その現場に居合わせる時に初めてわかることです。
部分的な情報ではなかなかわかりづらいことであり、
だから、私たちは常に現場に居続け、長い物語をいただいているのです。

一時区切って良い悪いと見えることでも、
ファミリーの外の人たちに公開したいと思っています。
公開しないとそこに疑問も湧きませんし、肯定も出来ません。
ただ、悪いと見えることも確かな手ごたえとしてあるからこそ、
それが私たちの次の歩みの糧になっているのです。

出来事に出会えば出会うほど、
私たちのデータ集積も進んでいきます。
確実に次のためのステップにつながっていきます。
新たな出会いから情報が与えられ続け、そうやってここ自体が育ってきました。

私たちは魂の存在です。
いつかは旅立っていくものです。
その時にこの世界が何だったのかを知るために、ここで生きているのです。
それが、この世界の価値観に一喜一憂しすぎると、
生死を越えたもっと大きな目的が見えなくなってしまいます。
生きていることの意味やこの世界がなぜあるのか、
ということをわかっている人は意外と少ないものです。
それは一生の探究です。

自然の世界を区切って見ると、
弱肉強食の世界がどこにでも展開されているように見えます。
しかし、自然の世界をつなげてみると善意と愛と調和で成り立っており、
全てのものがひとつらなりでこの世界に死はなく、
問題事が何一つない世界です。

この世界に悲惨だと言われる出来事は沢山あります。
平和な時代がもしあるとしたら、平和は争いの上に成立しています。
自然界では、常にいのちを連鎖してきた結果、
部分的に見ればいのちの奪い合いでもあるのです。

だから、物の捉え方を部分的に拡大して見ると、
良い悪いということも生まれてくるものです。
それをこの世界の新陳代謝のように捉えれば、
この世界に問題事は何一つないことになります。
もっと広い視野で物事を捉えたら、それが観えてくるものです。
逆に狭い視野しか持たないものが狭い視野で一喜一憂することによって、
狭い視野を広くするために育てられている、
と考えればそれも問題のないことになります。

私たちはありがたいところにいて、
この世界にいることに感謝して生きていくことで、
全ての出来事から学んでいくことが出来ます。
そして、最終的には万物の中にある一つとしてこの世界を構成しているのだとしたら、
実は「ありがたい」という感謝すら消えてしまうような、そういった世界にいます。
私たちは「ありがたいこと」すら、違和感のある世界にいるのです。

それがわかれば、問題事に一喜一憂する必要はありません。
一種の宇宙の新陳代謝のようなものですから。
そこのところに心が到達した人は、
「そういうことだね。ああ、やっと解放されたね」と捉えるでしょうし、
もっと先の心の世界もあるのです。
未だそこに至らない人にとってみたら、
現実の苦しみは避けて通れないことになります。

私たちはここで縁のある人々に情報提供しているだけであって、
今混乱が必要な人は混乱の中にいますし、
混乱が必要なくなれば自分で抜け出してくるものです。
そして、私たちは情報提供をしていると同時に、
私たち自身が感謝しながら学んでいます。
しかし、感謝するということは与えられている立場であり、
そこには区別があり、それすらも取り去って、
感謝すらいらない世界へ行こうとしています。

今後も色々なことが起きて、皆が一喜一憂していくことでしょう。
私たちは育てられ確実に進化しています。
そういった中で、私たちには想像出来ない大いなる目的があり、
この世界を旅しているということなんだろうと思います。

私たちは、いつでも問題事から抜け出せる。
そしてまた、新しい問題事に突き当たる。
それがこの世界です。

このカラクリがわかって世界が観えた時、
どんな出来事も楽しめるようになります。
そこでは問題事すら楽しめるという世界が待っているのです。
そこに、人間たちが存在する次の意味が隠されていると思います。
人生を大いなる存在と共に、
ゲームのように楽しんで学んでいきたいと思っています。


17年の人生でベスト3に入る良い時間

4月4日からうつ的な心を立て直すため、
ケア滞在していたあーちゃん(17歳)の卒業コンサートが昨日行われました。
あーちゃんの大好きな歌を2曲、
皆のためにとてもかわいらしい声で歌って踊ってくれた後、
こんな卒業のあいさつをしてくれました。

あーちゃん:
1ヶ月とちょっとここに滞在させてもらいました。
来た時はうつ病と言われていたのですが、
自分としてはその自覚が全然なくて、
自分は病気ではないと思っていたからここまで来られたと思っています
でもそれ以上に、ここの皆さんのあたたかさのおかげで良くなれたと思っています。

昔から両親の仲が悪くて、
自分は全然甘えられないし、甘えたくないというのもあったと思うんですが、
両親から愛をもらうということが無かったから、
ここに来て色々な人に愛されているんだという気持ちにやっとなれました。
心が安心して、ここまで元気になることが出来ました。

ここにケアで来ている人たちがどんどん良くなっていくのを見て嬉しくなったり、
人のことを思いやれる心も身に着いたと思っています。
今までは人に興味がなかったので、そういうところも変わったなと思って、
すごく感謝の気持ちでいっぱいです。
どうもありがとうございました。

麦が色づく頃にまた帰ってこようと思っています。

いさどん:
今日のあーちゃんの姿を見て、帰すのがもったいないなあーと(笑)。
家に帰ってまた学校へ行けなくなったら、いつでも戻っておいで(笑)。

あーちゃんを見ていて、どこか悪かったんだろうかと(一同爆笑)。
どうしてこういう子がうつ病になるんだろう、
なんで病気だったんだろうということを改めて思います。
お医者さんの見立てって何だろうなと思います。

あーちゃんは時々僕に甘えてくれて、
これは大いに役割として甘えさせてあげるのがいいと思い、やっていただけで、
何か特別彼女に対して治療的なことをしたことは全くなかったのですが、
結果こういう姿(明るくかわいく歌って踊ってくれました)を見せてもらい、
木の花ファミリー始まって以来、今日は歴史的な日でした(笑)。
感激で胸がいっぱいです!

ケアで来た人の卒業式には「おめでとう」「ありがとう」と言うのですが、
こんなふうに手放すのが惜しいなと思ったのは初めてです!
いつでも具合が悪くなったら帰ってきていいからね(笑)。

とりあえず、麦が実る頃には来るそうですから待っています。
というわけで、卒業おめでとうございます。
ありがとうございました。

みっちゃん(司会):
あーちゃんに対してコメントがある人はいますか?

きょうこちゃん:
あーちゃんは「世の中の役に立つ勉強がしたいの」と言っていて、
素晴らしいなと思いました。
今の歌もかわいかったよ!

のんちゃん:
来たばかりの頃は「食べることに興味がない」と言っていて、
「食べることが楽しくなったら、生きるのも楽しくなるかな?」と話していたのだけれど、
今は生きることを楽しんでいるなと思いました。
これからどんどん、楽しんでいっていほしいと思います。

ちなっぴ:
ミーティングが終わったある日、
「踊ってもいいですか?」とさっきの歌を披露してくれました。
「私一人だけで見るのはもったいない!」と思って今日歌ってもらいました。
衣装も色々な人から借りたものをコーディネートして、
前髪もさっき、ちーちゃんが切ってくれました。

今日、あーちゃんと一緒に山羊の乳しぼりをした後、
「私の大好きな場所を案内するわ」と麦畑に行ってきました。
二人で「綺麗だわ、綺麗だわ」とキャーキャー言って、
「今はグリーンで綺麗なんだけれど、これが黄金色になるとさらに綺麗なんだよ」
と言ったら、また来ると言っていました。

みっちゃん:
今度はぜひ、お父さんとお母さんも一緒に来られるといいね。
皆で待っています!

翌日、あーちゃんをお迎えに来たお母さんと
あーちゃん、いさどんの3人が話す場がもたれました。

いさどん:
昨日の卒業コンサートはとても良い時間でした。
あとは、本人の自覚と、その自覚の実行あるのみですね。
コツは、自分の世界に入り込まないことと、
人と無理に合わせようとしないでマイペースで行くことです。
逆行することのようですが、それを両立させないといけません。
人に合わせすぎてもいけないし、自分に入り込みすぎでもいけない。
でも、この1ヶ月で成果は出たと思います。

お母さん:
おかげさまでありがとうございました。
本当に元気になってくれて良かったです。

いさどん:
色々と心の学びもあって新しい世界も見たし、
ここでいい時間を過ごしたでしょ?

あーちゃん:
これまで17年間生きてきて色々と楽しいことがあったけれど、
ここで過ごした1ヶ月は17年の人生の中でベスト3に入る良い時間でした。

いさどん:
これからも、ここでの経験はあなたの人生に大きな影響を及ぼしていくよ。
自分が人に良い影響を与えられるということは大切です。
さらに、自分らしさは失わずに。

またヒントが欲しかったり、
だじゃれが聞きたくなったらいつでも帰っておいで!

ツꀀ

ツꀀ


半年記念

2月からうつ的な心を立て直すため、ケア滞在をしているまいちゃん。
雨降りの午後、テントハウスでキクラゲの切り込み作業を一緒にしていると、
彼女が「今日は半年記念なの」と話し始めました。

ようこ:
何の半年記念なの?

まいちゃん:
最後にリストカットをしてから半年が経つんだ。

ようこ:
そうか。まいはここに来る前にそういうことがあったって言っていたよね。
初めてしたのはいつ頃だったの?

まいちゃん:
一昨年の12月。
その頃、同じようにうつ病の友達がいて、その子がそういうことをしていたの。
最初は、「親からもらった体だし、やめた方がいいんじゃない?」と思っていたけれど、
自分もすごくしんどい時にしていたんだ。

ようこ:
するとどういう気持ちになるの?

まいちゃん:
する前は「血が見たいな」と思って、血を見ると満足するというか。
でも、した後にはお風呂に入ったら痛いし、後悔するんだけれど、
またしんどくなるとしてしまっていた。

ようこ:
ここに来てから、そういう気持ちになることはあった?

まいちゃん:
そういえば、ここに来てからはないね。

ようこ:
それは何でかな?

まいちゃん:
一番は、皆が自分の話を聞いてくれて、受け止めてくれるからだと思う。
血がつながっていないのに、本当の親のように叱ってくれる人がいて、
自分と向き合ってくれる人がいることは大きいね。

ようこ:
そうだよね。血がつながっている家族だと、
「こうなってほしい」という欲や利害も出てくるものだけれど、
ここの人たちはそういうものと関係なく、まいの心が良くなることだけを想っているからね。

当時のまいに心を開いて話せる人がいたら、リストカットをしなかったかな?

まいちゃん:
そう思う。心の浮き沈みは自分ひとりの力ではどうしようも出来ないから、
自分が助けを求めている時にそういう人がいてくれるのは大きいと思う。

ようこ:
もし、当時の自分に何かを言ってあげられるとしたら、何て言う?

まいちゃん:
アホなことしたね(笑)って。
そういうことをしても、根本的な解決にはならないのにね。
今となったら、「あんな時代もあったな」って良い思い出になっているよ。
しんどかったんだな、でもアホだったんだなって。

ようこ:
そういうふうに言えるまいの話を聞いていたら、涙が出そうになってきた。
そうやって、しんどかったことでも何でも、自分の人生の糧に出来たらすごいよね。

もし、今目の前にリストカットをしたいという人がいたら、何て言ってあげる?

まいちゃん:
そうだな。。。自分の話をするかな。「私もこういうことがあってね」って。

ようこ:
自分の過去をそうやって人のために活かせるといいよね。
私にはそういうことが無かったから、
「そういうことはいけないことだよ」と言っても重みがないし、
「自由にしたらいいよ」と無責任に言うことも出来ない。

でも、まいはそういった過去を乗り越えてきたから、
言葉に説得力があるし、人生に厚みもある。

まいちゃん:
自分の人生は自分で輝かせないとね。
自分の人生を他人のせいにしても、良くなるわけではないし。
昔は親を責めていた時期もあったけれど、
今は「そういうのが出来ない人たちだったんだな」と客観的に思えるようになった。

ようこ:
ここに来てから着実に心の学びも進んでいるね。

まいちゃん:
この間いさどんに、
「客観的に自分のことを見られるようになるといいよね」と言われた時には
「客観的ってどういうこと?!全然わからない!」って思っていたんだけれど、
そのことがちょっとずつわかってくるようになると、
「自分ってこういう性格だったんだ。こういうところもあるんだ」って
皆が言ってくれていたことも理解出来るようになってきた。

親のことも「自分のことを全然わかってくれていない」と思っていたけれど、
今は「それで仕方がなかったんだな」と思うし、
やっぱり自分の中に親に対する感謝の気持ちもあるから。

いさどんから、「まいの心がたくましくなるために、親との関係も与えられている」
と言われて、本当にそうだなと思っている。
前だったら、親とこういうことがあったら5日間くらい寝込んでいたのに、
今日は朝から作業に行けているじゃん!って(笑)。
ここに来てから、確実に心がたくましくなってきたな。

ようこ:
まいはまわりの環境に影響されやすいから、
心がたくましくなるのは大切なことだよね。
まいの個性が活かされ、まいが生き生きと輝いた人生を歩めるよう、
これからも皆で応援していくからね。