瑞穂の国

いさどん:

今日の言葉は、「瑞穂の国」。この国は、瑞穂の国といってね。瑞というのは水、穂は稲穂の穂。瑞穂というのは、お米のこと。瑞穂の国というのは、お米によって成り立つ国。お米は主食でしょ。木の花には、「愛とお米があれがいい」という言葉がある。神様の絶対である愛と、私たちのいのちのもとであるお米があれば、人は豊かに暮らしていける。つまり、この世界は愛の世界であり、お米、いのちの世界。

ツꀀ今、窓から外を眺めていたら、そこにある田んぼのお米が実ってきて、収穫の季節になったなと。瑞穂の国だな、農の国だな、そしていのちの世界だなって。あっという間に一年が経って、収穫の時がやって来て生きていくんだな、そうやって、ぐるぐる回っているんだなと。その中で、一喜一憂して悩んでいくこともすれば、淡々と生きていくこともできる。

ツꀀようこ:

「瑞穂の国」っていい言葉だね。初めて聞いた。

ツꀀいさどん:

これは、神話の言葉だよね。

ツꀀようこ:

神話物語を生きている私たちに、ぴったりだね。

ツꀀいさどん:

そしてね、こういった神様の物語は、どんな切り口で話していっても、すべてのことにつながるんだよね。だから、政治、経済、教育とか、国際問題、環境など、世界にはいろんな切り口があるけれど、それを一つひとつ別々に考えてはいけない。この世界にあるものは、すべてつながっていて、関連性があるのだから。それが、この世界の仕組み。

ツꀀ「瑞穂」というたった一つの言葉が、人間の人生であったり、喜怒哀楽であったり、経済であったり、はたまた循環ということ、最後は宇宙の成り立ちであったり、すべてつながっているということ。今日はそんなことを思って、窓の外を眺めていました。


川の流れのように

「川の流れのように」という歌があるよね。美空ひばりがこの最高の歌を日本という国に残して旅立っていったけれど、人生という川はあの歌のように流れている。

自分の意思でああしたい、こうしたいと思う人は、川の中で立ち止まろうとする。流れの中で立ち止まると、水の抵抗があるから不安がよぎって、自分の力でなんとかしようとする。

流れの中で立ち止まると鍛えられるから、人が育つという意味では、それも悪いことではない。しかし、川はいつもとうとうと流れているわけだから、何か問題ごとが起きてもそれを思い悩むのではなく、川の流れに身を任せてみると、状況が変わって解決へのヒントが生まれてくるようになっている。それなのに、人間は、身を任せることをよしとせず、「すぐに答えを出したい」「すぐに実行したい」と思って自分から行動する。

そういうことをやめて流れに身を任せると、何もしていないのに自分は流れていく。そして、流れる水との抵抗もまったくない。さらさらと流れながら、起こるべきことはすべて起きて、一番エネルギーのかからない状態で世界が変化していく。

それを「流されている」と思う人は、流されるのが嫌だから、流れに逆らって自分の意思で上流へ行こうとする。上流へ行こうとすると、立ち止まっているよりももっとエネルギーがいる。それでも「頑張れ!頑張れ!」と気合いを入れながら、なんとか上流へ行こうとする。

上流へ行こうとすることは、流れの一番最初に戻ろうとすること。それは、「自分はこうだから、こうありたい」と自分のあり方、やり方に執着しているからだけれど、この世界は常に変化し、循環して巡っている。この循環というところに秘密があって、実はまた戻ってくる仕組みになっている。流されるのが嫌だと逆らって、立ち止まろうとしたり、流れに逆らって上流へ戻ろうとすると、すごく大変なんだけれど、その流れ自体も循環しているということに気づけば、逆らわなくても、いつかまた戻っていく。

川に身を任せていくと、下流へ流れる。どんどん下流へ行って、海にたどり着く。海では、太陽の光が当たって、水が自然に天に向かって昇っていく。そして、雲を形成して、雲は風によって運ばれ、雨が降る。そうすると、始まりの山に雨が降って、また川に流れていく。つまり、下流に流されるということは、循環の中で上流へ行くということ。だから、身を任せて、流されればいい。

なのに、抵抗しようという心が起きるのが人間。でも、結局、自分の力で上流へ行く仕組みはないのだから、流れに身を任せれば、それで上流に戻れる。

ただただ、川の流れのままに抵抗せず流れていきたいものだね。


人生って何のためにあるんですか?

いさどんブログ読者の方、お久しぶりです。というのも、実は「いさどん人生読本」(仮題)出版プロジェクトが4日前から始まり、そのテープ起こし、原稿をまとめておりました。この本のねらいは、世の中の人が持っている様々な疑問や課題に、いさどんが順番に答えていき、「大切なこと」を伝えていくこと。生きること、人間関係、パートナーシップ、健康という個人的なことから、仕事、社会、宇宙、神様という大きなテーマにまで話題は広がります。木の花流“人生のヒント集&参考書”。別名「スピリチュアルな哲学書」。

今日は、その一つ目の質問、「人生って何のためにあるんですか?」にいさどんが答えます。生原稿を皆さんともシェアすることで、一緒に本づくりをしていければと思っております。では、出来立てほやほやの原稿、第1弾をお楽しみください。

ツꀀ

第1章 生きること
1、人生って何のためにあるのですか?

まず、「人生は何のためにあるのでしょう」という質問に答える前に、人生というものをどう捉えたらいいのか、ということを考える必要がある。人生を「人が生きる」と解釈するのか、それとも、「人が生かされている」と解釈するのか。それによって、大きな違いがある。

ツꀀ人が生きていると捉えるとしたら、人は自分の意思を持って生きているということ。それは、現代社会の人たちをイメージすることができる。人が、生きるために働く、家族を持つ、生活をする。目的を達成するために、いろいろと考え、行動する。目的を達成するために、いろいろな仕組みをつくり、社会をつくっていく。その結果、この現代社会ができている。

ツꀀ同様に、人生を人が生かされていると考えたときに、宇宙の始まりから、銀河、太陽系、そして地球の創造。ここで、考えておかないといけないのは、すべて「創造された」ということです。何かによって、創られたということ。そして、地球が創造されていく中で、宇宙空間にあったアミノ酸が細胞として変化し、地球上に生命が現れる。それがどんどん複雑な生命に進化し、植物から動物へ、魚類から両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、そして人類という生命の歴史、つまり宇宙の歴史がある。

ツꀀこのように、人生を人が生きていると解釈すると、現代の社会、日常の身近な生活をイメージできます。それは、人生を自分の意思で生きているとイメージできるからです。でも、私たちは生きているのか、それとも、生かされているのか。人生を生かされていると見たときに、この宇宙の始まりから今まで、さらにこれから先ずっとこの世界があり続けること、そこまでイメージできるということ。このように、非常に大きな違いがある。

ツꀀ私は過去に、「人生とは何だろう」「自分とは何だろう」「この世界とは何だろう」と考えることがたくさんありました。考えるということは、常にそこに自分がいるということ、自分がいるからこそ考える。これは、お釈迦様が仏教を説くときに、最初に立った位置で、自分は確かにいる。確かにいるから思考する。思考の上にこの世界を解釈する。そして、自分に見えて解釈できるところから、見えずに解釈できないところまでをこの世界として、その世界も、そして自分自身も理解できる、というところに行き着いて、その法則や仕組みを語ったのが仏教である、と解釈しています。

ツꀀそういった解釈の仕方を通して、人は生きているのか、はたまた生かされているのか、ということをずっと考えてきました。私が、今回生まれてきた使命に目覚めて、生きる目的、生きる意味について考えてきた結果、結論は、人は生きているのではなくて、生かされているということです。どんなふうに、どんな切り口で考えても、人が生きているという結論に至ったことがない。

ツꀀ例えば、人は、何かをする予定があるから朝起きて、朝食をとる。そうすると、自分の意識で朝食をとったということになる。それは、生きているか、生かされているかといったら、生きているということになります。

ツꀀけれど、違う解釈をすると、食べるということは、お腹が空くからです。お腹が空くということは、人間は食べ物をエネルギー源にして活動しているので、そのエネルギーが切れたということです。エネルギーが切れたという指令のもとに体の中のセンサーが働いて、脳に信号を送ります。それを脳は感知して、朝食をとろうとする意識が働く。その意識は、体の機能、仕組みからうまれている。

ツꀀさて、仕組みを抜きにして、自分の意志で朝食をとることを考えているのか、それとも、仕組みがその思考を働かせているのか、どちらでしょう。厳密に言うと、仕組みが先に働いて、思考が後からくる。これを、考えていると呼ぶのか。そして、その延長線上に行動したと言うのであるならば、人は生きていると言えるでしょうか。

ツꀀまた、私たちは生きていくために、ほかの生き物を必要としている。それは、食べ物のみならず、食べ物を得るための大地、大地に降り注ぐ光、水、空気、そういった自然の作用、生態系の中に食べ物というものがある。そして、私たちがいのちを取り入れるときに、必要な分だけ吸収して、不必要な分は排泄するという仕組みがある。排泄することによって、その排泄物が次のいのちにバトンタッチされるという仕組みになっている。こうして、いのちが伝承され、いのちがつながり続けている。

ツꀀそうすると、私たちが排泄するということは、自分の意思で排泄するのかと言ったら、これもいのちの伝承の上での役割であったり、この世界の仕組み、機能である。この宇宙が創造され、巡り巡って回っている中のある時点が今だとしたら、そういった仕組みの中で、私たちのいのちがあるということ。この現代社会に生きていると、自分の考えや意思、自分の目的を持って行動していると、仕組みの中で生かされていることに気づけない。けれど、この世界にあるものを細かく分析していくと、思考すらこの仕組みの中で湧き出ていることがわかる。

ツꀀ自分がああしたい、こうしたい、また人生が思うようにならないと思う人は、自分の過去を振り返ってみて下さい。きっと、自分の思考が、行き当たりばったりのようにころころ変わりながら、一定していないことでしょう。もし、自分の意思で自分が生きられるのだとしたら、強い信念の延長線上に生きることが可能なはずです。しかし、自分が生きていると考える人には、そういったことができない仕組みになっている。

ツꀀ反対に、私たちは、仕組みによって生かされているという発想を持ったときに、その仕組みは、宇宙の始まりから今まで、そして未来まで、ずっと変わらず、進化し、変化し、あり続けるのですから、安定したものです。生きている目的を変更する必要は、全くないのです。同じ延長線上に、同じ目的のもとに、同じ役割のもとに生きている、非常に安定した景色が見えてきます。

ツꀀしかし、この世界の仕組みから意思が外れて、自分の中で独立した心を持って、人間の思考が勝ってしまった状態で生きていると、この世界の役割から自分を切り離して、自分の意思で行動するようになる。そうすると、仕組みから外れているわけですから、病気になったり、人と対立したり、問題事が起こったりする。問題事が起きて、自然に修正するという仕組みが働く。だから、自分で生きていると考えている人は、常に修正を余儀なくされ、その修正をされていることが、外れているのを元へ戻してもらっていると考えるのか、外れてしまった、失敗した、思うようにならなかったと考えるかは、大きな違いです。果たして、私たちが単独で、この世界で自分の目的を達成して生きていくという仕組みがあるのかというと、実はそんな仕組みはないのです。

ツꀀ人生が何のためにあるのかを考える前に、人生というのは、私たちを生かしている仕組みの中にある人生と、その仕組みがあるにも関わらず、それに気づかないで無視して生きる人生の両方がある。前者は、生かされて生きているという安定した生き方。後者は、自分が生きているという意識のもとに不安定な人生があるということですね。

ツꀀでは、ようやくここで、「人生は何のためにあるのでしょう」ということですが、自分で生きているという人たちにとっては、自分の目的がある。勉強して一流大学に入る、会社を経営する、贅沢な暮らしをする、それが豊かさであると、自分の目的を達成しようとする。でも、その思考というのは、この現代社会の価値観の中にあって、非常に近い世界の話である。逆に、自分が生かされているという人にとっては、この仕組み、宇宙の始まりから、いのちの伝承の中で自分の役割を果たす、自らを向上、成長させるということが目的となる。

ツꀀとなると、「人生は何のためにあるのでしょう」という質問は、人によって全く答えが違ってくる。だから、私が皆さんに、人生とはこういうものですよ、と言うことはできません。ただ言えることは、自分だけの目的を持っている人でも、この宇宙が始まってからずっと途絶えることのないこの仕組みの中に今、生きている。そして、未来へもずっとつながっている。始まりはこの世界がひとつであって、今現在もひとつです。これからもそのひとつの中で未来へ、また始まりに戻ってあるのだとしたら、私たちは独立して、自分の意思でこの世界を生きているのか、ということはあなたが判断することです。答えは皆さんの中にあります。

ツꀀ人生は、自分の物語です。自分と宇宙という自分の物語。だから、何のために人生があるのかということは、自分が紐解いていく。小さく自分の人生をみるのもいいし、大きくこの世界の仕組みを見るのもいい。自分が生きていると見るのもいいし、生かされていると見るのもいい。

ツꀀでも、明らかなことは、私たちの思考を超えて存在するこの世界の中に自分がいるのは事実ですから。そうすると、理解するということは、その思考を超えた彼方まで理解する道があるということ。しかし、人によっては、全く身近の自分が考えられる行動範囲、思考の届く範囲、その中に自分の人生がある。どちらを選ぶのも、あなたの人生の旅。


あなたの場所で地球づくり

今日は、いさどんがブログを読んでいる皆さんに問いかけます。

昨日までのブログが大人会議で読まれているのを聞いていて思ったのは、みんな言葉を聞いているときには「その通りだ」って思うんだろうなって。だけど、いざ自分の日常となると、「そうは言ってもなあ」って心が働くんだろうなって。

その延長線上に人生を送って、旅立っていくときに、何を持っていけるのか。成功した、お金がいっぱいあった、地位が高かった。そういった現世的な価値観を求めたとしても、それは自分の魂を磨くための材料だから、全部置いていかなくてはならない。

だから、やっぱり魂磨きだけに専念することが大事なんだろうけど、きっと人それぞれにふさわしい魂の形や大きさを持っているんだろう。だから、あとはそれを磨いていく。内から出る光が美しくほとばしるように。

こういった考え方や生き方に共鳴する人たちが、たくさんいるよね。今まではその人たちがここへ来ないと、こういうことが伝えられなかった。魂に投げかけて、共鳴してもらうということができなかった。だけど、このネットの時代で、ブログを通じて呼びかけられるようになった。

面と向かって語ると、恐れおののく人もいるんだよね。自分流に解釈して、自分流に受け取っていきたいという人たちもいるし。確かに、その人なりの歩幅とか、歩みの進め方のかたちがあるから、ブログを通じて覗けるのはいいなと思うけど、目的は、覗いてもらいながら共鳴してもらうこと。共鳴してもらって、この国づくり、地球づくりにみんなに参加してもらうこと。それは、「あなたのその場所で国づくりができますよ。あなたのその場所で新しい社会、未来づくり、そして地球づくりができますよ。同時にあなたづくりができますよ」ということなんだからね。

それは、特別にボランティアをやりなさいとか、自分の持っているものをどこかに施しなさいということではありません。それなら、世のため人のために何をしたらいいのかというと、まず、自分を健康にしましょう。そのために、自分を正しく見ましょう。自分を振り返って、自分の身のまわりをきちんとしましょう。自分が自分に対して何をもたらしているのか、よく把握しましょう。それだけのことだからね。

自分の身のまわりを整理整頓して、いい風が吹くようにすれば、そしてそのことの大切さをネットワークで広めれば、世界中がよくなる。そこでは、「自分が何かをしたい」とか「大きな仕事をしたい」というようなことも、実はいらないんだよね。そういうことに気づいてほしいと思う。

政治で国をよくしようと思ったり、健康法で健康になろうとしたり、宗教によって道をいただこうとしたり、まだまだそういうことも必要だけれども、究極は、ひとりひとりが目覚めること。そこにすべての解決策がある。一人ひとりが目覚めるための教育であったり、人と人の出会いであったり、家庭であったり、世の中をよくするための企業であったり、政治であったり。一人ひとりの目覚めを支援していくための人間の活動、つながり。

この国を司る人たちがこのことの大切さに気づくのは、まだしばらく先になる。それまで、この大切な道を生きていく。でも、それは、イライラガミガミと「これを分かれ!」ということではなくて、「いいんじゃないの、それぞれの歩みがあるのだから。歩みの中で、それぞれが気づいていけば。決して手遅れということにはならないんだから」というふうに見ていきたいね。

天上の世界から人間の在りようを見て、神様は「ゲームじゃ、ゲームじゃ。楽しめ、楽しめ。ゲームなんじゃから、むきになるな」って。まったくその通りだね。

いさどん曰く、「『おやじの館』の『おやじ』はね、面白いとか、滑稽なというのが一応のイメージなんだよね。いいんじゃない、いいんじゃない、って。」

皆さんも、私たちと一緒に神様の視点からゲームに参加しませんか?まずは、あなたの場所で地球づくりからスタートですよ。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~番外編

いさどんブログは、出るたびに毎回大人会議でシェアされ、メンバーの心磨きの材料として、大事を確認する場として活かされています。昨夜の大人会議で、「真釈天技場という文字が下りてきて~後編」をみんなでシェアしたあと、いさどんがみんなに問いかけました。

自分で自分に問うてもらいたい。この稀にみる大事な生き方に自分が出会って、そこからみすみす離れていくのか。

僕は、この心をいただくようになって、辛くて仕方がなかった。それは、自分の愚かな部分を捨て切れなかったから。でも、僕が辛い心を上に向けたら、お釈迦様は、「ならば、その心をやめるか?」と言われた。「この道を行くのをやめるか?」と言われた。

腹が立った。自分に対して腹が立ったというよりも、お釈迦様に対して腹が立った。

「この貴き道を知らずに行かぬものは、世の中にいっぱいおります。けれど、ひとたびこの貴き道に出会って行かぬものがおりましょうか。私は、そんなことは絶対に信じられません。今、自分が辛いのは、愚かな自分がいて、それをとっていくのが辛いだけです。けれども、私は絶対にこの道を貫き通します。どんなに辛くともやり通します。ただ、今、私が愚かであるがために辛いことは、このような自分の姿を見てご理解下さい。言わずとも、あなたはすべてお見通しだけれども。だから、私は弱音は吐きますが、この道は生き切ります。」

その意思があったなら、どんなに出来が悪くても行ける。その決意があれば、闇の中にいても真理に向かって歩んでいける。

この貴き道を貴いと思うならば、行ったほうがいい。でも、自分の欲望を叶えていくこと、自分の中に湧き出てくる心の迷いに魅力があるのならば、そちらに行ったほうがいい。その人にとって、この貴き道は貴くないのだから。

何人(なんびと)であろうと、それまでどんな生き方をしていようと、たちどころに優れた生き方、誇りある人生に変わることができる。でも、それはその人の心次第である。

『仏の悟りは、仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにある』と言って、優れた生き方は、その人のためにあるのではなく、世のため人のためにある。それを悟った人には、人々に伝えていく責任がある。それこそが優れた生き方。それが、ブッダとして、キリストとしての生き方である。

そして、その素質はすべての人に備わっている。