そしてみんなが語りだす

ただ今、いさどんは名古屋に出張中です。「おやじの館」も休館と思いきや、そうは問屋が卸さない!のが木の花ファミリー。

朝、まりちゃんが、「昨日のブログの続きが出てきたから、ようこちゃんに渡すね」とメモをくれました。その小さな一枚のメモにはこんなことが書かれていました。

「最近、『木の花の歩みは自分たちで作っている訳ではなく、すべて神様におまかせなので、究極の無責任でいられる』なんて、ジョーダンぽく言って皆で笑っていましたが、究極の無責任は究極の信仰心があってこそ出来ることだなあと思います。全てはそこから頂くのですから、天の御意思を正確に受け取れるクリアな自分をいつも目指したいと思います。

初期のメンバーは、バカの一つ覚えみたいに、『神様に心を向ける』が合言葉でした。信仰心が深まることにより、自分から離れていくもの(我や不安)、そして自分に入ってくるもの(感謝、愛、調和)を皆で体感し続けた15年でした。もちろん今もこれからもそう。みんないてくれてありがとう。」

これを読んだ初期メンバーののりちゃんは、

「まりちゃんの全ては私の全てであり、だから泣けた。でもそれは喜びの涙。全部一つ。他人も自分も天も地も、全てを一つだと感じるよね。さらに、自分の中で区別がなくなっていく。神人和合の境地をやり続けることが神様の喜びだからね。これがとまらない、やめられない!最高!」

さらにあいちゃんは、

「いつもいさどんは、『富士の裾野に人神の里ができる』と言っていた。みんなが心を磨き合ってる姿はとても美しい。一人ひとりが心を磨いている姿を見るのが好き。その中にいられる自分はとても幸せもの。これからは、この心、世の中に発信させ、みんなにも幸せになってほしい。心やんでる人、この心に会いたい人、待ってるからおいで。」

そしてちなっぴは、

「私は超ありがたい人生だなっと思って。もう素晴らしくて。なにしろありがたい!」


15年目の合格

今日は、「おやじの館」の主のリクエストによるブログのパート2です。今回は、木の花創立メンバーのひとり、まりちゃんの物語。題して、「15年目の合格」です。

私は毎朝、キャスターハウスで精米をしていますが、時々いさどんが粉挽きに来て、一緒になります。そんな時は必ずといっていいほど、心の話になり、今朝も例にもれずそんな時間になりました。

この前の創立メンバーヒアリングの話題はいさどんの家出話でしたが、その時期は丁度、私の「集中心のトレーニング期間」で、毎日いさどんとマンツーマンで心のやり取りをしていました。本当に出来が悪かった。まれに何も滞りのない1日が過ぎようとしていても、「今日は何か心配りをしたのか」のいさどんの一言から始まり、「正直、素直」が身についていない私は、正解を出そうと悪戦苦闘、最後は自分の正直が何なのか、分からなくなってしまう始末。丁度、昔のジャッキー・チェンの映画で、師匠は全部を語らず平然としている中で、師匠にへばりついて痛い目をしながら技を学んでいく、あんな感じです。

その日々の中で、いさどんに言われてきたのは、「空気のような存在にならなければいけない。そこに居るのかいないのか分からないが、なしでは生きていけないものだ」。つまり、自己主張するのでもなく、でしゃばりもせず、しかしそこにいて、この道には欠かせない者になれ、ということ。

いさどんは今のように全部を語らないので、私が自分で考えようとしない時には、「勘違いするな、寄り添っていくのが似合う魂と、一人で立つ魂がある」、つまり私は後者であるということ。

「グレードは違うが、俺と同じコンピューターをもっている」。つまり、的外れをなくし、いさどんと同じものの解釈ができるようになるはずだということ。

私はこの3点をいつも心に留めて、学び続けました。いつの間にか、毎日言われない日々がやってきて、私がどう変わったから集中トレーニングが終わったのか、その時はわかりませんでした。しかし、今のようにいさどんの秘書や助手として活躍するようこちゃんやいさおちゃん、ひろみちゃんはいなかったので、その後は、いさどんの助手として、書き物をするのも、ハウスを建てるのも、ケアを担当するのも全部私でした。過ぎてみると、必要だったなあ、ということが実感です。集中トレーニングが終わったからといって、心の鍛錬が終わったわけではありません。助手をする中でも、色々な出来事からも皆で学び続け、「続けること」を教えられました。

そんなことを、いさどんと振り返っていて、3ヶ月くらい前でしたか、ミーティング後にいさどんが「万里子の物の見方や信仰心は俺にそっくりだなあ」って言ったんです。「ははっ」って言いながらその場をはなれましたが、「15年かかったぁ」と心の中でつぶやきながら、涙が止まりませんでした。このまま続けていけばいいんだな、まっすぐ神様に向かって、お仕えすることだけを考えていけばいいんだなと、15年目の合格をひとつもらって、思いました。しばらく泣いて、「私、自分ごとで泣いてるじゃん」と思って、そのまま流してしまったことなのですが、思い出していさどんに話したら、いさどんも泣いて、久しぶりに2人で泣きました。


歩んでみなさい、歩めるから

「心の精度を上げるってことは、完成させるってことじゃないんだよ。」

今日は、いさどんがゆみちゃんに語っています。

「完成されていると、とまってしまって、精度を上げることが立証できない。心の精度を上げるには、未完成であり続けることであり、未完成であり続けるから、常にそれを完成にむかって目指すことができる。」

それを聞いてゆみちゃんは、

「えー、そんなこと考えたこともなかった」と驚いています。

でも、そこですかさずいさどんは、こう言います。

「そこでは、『なるほど』ってただ受け取ればいいんだよ。『そんなこと考えたこともなかった』っていうのは、頭で考えることをしていない状態。でも、『そうか、なるほど』っていうことは、考えたり、新しいものを取り入れるという姿勢なんだよ。

人はとかく、新しいものを取り入れるときに、古いものを捨てないといけないと思ってしまい、そこで古い自分に執着していると、それは血が出るほどの痛みを伴う。でも、本当は、人の中には、宇宙の始まりから今までのすべての情報が入っている。もっというと、現在から未来への情報もここに入っている。

人は、今ここにいると思うかもしれないけれど、実は生まれてくる前に、すべてのことをマスターし、それを封印して記憶を消して生まれてくる。

自分にとらわれずに、せまい心を開放してやれば、人は誰でもその無限なる神様の知恵の泉に、パイプをつなげ、蛇口をひらき、その知恵につながることができる。」

ツꀀ

「自分が話しているときに、自分でも聞いたことがない新しい知識が湧き出てくることがあるんだけれど、実はそれは新しいものではなくて、過去に自分がマスターしたものが出ている状態なんだよね。それをただ思い出しているということ。それは、自然の法則で、とてもスムーズなことで、心を開放しさえすれば誰にでもできることなんだ」といさどんは語ります。

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お釈迦様から9年間の学びをいただいたいさどんは、お釈迦様が自分から去ってしまうときにこう問いかけました。

「私はまだまだ赤子のようなものです。あなたなしでは歩んでいけません。」

でも、そこでお釈迦様は、いさどんにこう伝えたそうです。

「そなたは十分に育っておる。赤子だと思っておるのは、そなただけじゃ。

歩んでみなさい。歩めるから。」

最近いさどんは、ここを訪れるゲストに、ファミリーメンバーに、この言葉を伝える機会がよくあります。

また、明日から名古屋に出張し、“共に生活する新しい暮らし”というパネルディスカッションに招待されているいさどんは、現場で役割を果たすよりも、道中の行程のほうが自分の修行だと、今朝笑いながら教えてくれました。そんなときもいさどんは、お釈迦様の言葉を想います。

「歩んでみなさい。歩めるから。」

さあ、あなたも自分の中の枠を取り外し、心を自由に解放させ、無限な神様の知恵の泉につがなる自分に出会ってみませんか?


死んだあとにも次がある

「この前の地震のとき、どうだった?」といさどんに聞かれたので、

「まだ生きてた」と、にやっと答えると、いさどんもにやっとして、

「あの地震のとき、あのままゆりかごのように揺れてるのもいいなと思ったんだ。生きているときも次があるし、死んだあとも次がある」と言います。

そこで私が、

「死んだあとも次があるって本当にわかっていたら、地震があっても何があっても、同じようにハハハって笑っていられるよね」と続けると、

「そうだね。でも、中途半端に生きていると、辛かったり苦しかったりする」と言います。

「でも、本人は、中途半端に生きていると思ってなくて、精一杯生きているって思っているのがミソだよね。どうしたら、そういう人はそのことに気づけるのかな?」といさどんに投げかけてみると、長い沈黙のあとにいさどんは次のように語りました。

「そうだな。夫婦関係も、お互いを想いあい、支えあうっていうのも、美しいようだけれど、心の成長を妨げることもある。お互いが近いものだけに、かばい合ってしまうこともある。本来、パートナーシップってのは、心の安息をただ求めるのではなく、心の成長のための相手として与えられているもの。近しいものだからこそ、本当にお互いを想いあい、歯に衣着せぬ物言いで、本当の姿を伝えることができる。そして、それは誰とでもそういう関係を築くことができる。そういうパートナーシップならあってもいいよね。」

ツꀀ

いつ何が起こるのかわからないのが人生。同じように精一杯生きるのであれば、そのエネルギーを自分だけの幸せ、苦しみに向けるのではなく、死んだあとにも次があると信じられる委ねる心、生かされていることへのありがたさに向けられると、いつだって笑って生きていけるのかもしれませんね。


万象が織り成すいのちの相(すがた)

みなさん、いつもコメントありがとうございます。

今日は、8月8日にUPした「未完成交響曲」についてのゆきえちゃん、まゆまゆ、まりりんのコメントを読んだいさどんからのコメントです。

ツꀀ

「ひとつの投げかけが波紋のように広がる。その波紋が、またさらに波紋を広げる。まるで織物のように。

この世界は織物だって言うけれど、無限な出会いと無限な現象によってできている。普通の織物は、縦糸と横糸と、もうちょっと複雑な場合はななめの糸から成る平面の織物。でも、この世界はもっと立体的な織物で、縦と横とななめと、こちら側とあちら側とで糸が織り重なり合い、すごく緻密にできている。それほど緻密なわけがあって、この世界はつくられているということ。

どんな完成であっても、未完成であっても、新しい意味と、それがもともと起きてきたもとの意味と、わけの波紋がある。わけの波紋ってのは、原因と結果の因果の波紋でできてるなって思う。なにひとつむだはない。そして、その因果の波紋は、何をつくり出すかっていうと、場の波紋というその空気をつくり出す。

だから、そのひとつの言葉の投げかけが、その言葉の発想の一番もとにあるものが、善意と愛と調和であるならば、その波紋からくる因果によって平和な世界がもたらされる。それが悪意であったり、対立であったり、孤独なものであるならば、その場は対立の場をもたらすことになってしまう。

だから、自分たちが、もしそういうことの法則を知ったならば、自分たちが何をこの世界に、自分にもたらしているのか、自由にコントロールすることができる。それが対立であっても、そこからまた波紋が広がって、最終的には善と愛と調和のほうに導こうとする力が働くことになる。

それが神様の意志で、我々はいつもそれを信じて、生きていくことが大切。」

ツꀀ

「我にかえったいさどんのコメントとしてつけ加えてね」という前置きの後に、いさどんは、

「今朝のぼくは、自分の中にあるそういう部分が反応したんだね。そのときそのとき、自分の意識していることに応じて、反応するところがあるんだね。もっと軽く反応するときもあれば、もっと深く反応するときもあるんだね」と続けます。

「因果の法則と、場の法則が同時になりながら、それが波紋になって、すべての世界をつなげている。その中に我々がいる。ひとたび、ぱっと愛の種が広がれば、それがぱっと広がる。我々のどの部分に共鳴するかによって、自由自在にこの世界を生きることができる。」

ツꀀ

「誰でも、自由にこの世界を創造することができる、という希望」を朝のいさどんから与えられた私は、この話をただ3人へのコメントではなく、ぜひ一つのブログとしてみなさんにも紹介したいと思い、今日のブログができました。

いさどんから湧き出る、神様の知恵の泉。「何かテーマを与えられると、次から次へと言葉が出てくるんだよ」といさどん。ですので、みなさんからの質問、投げかけ、何でもお待ちしておりますね!