ようこ:
今日は、“パートナーシップ”というお題でインタビューします!
いさどん:
ちょうど今、そのテーマで話が出るといいねって和子ちゃんと話していたところ。
ようこ:
気があったね。でも、このパートナーシップというのは、いわゆる恋人ということだけではなくて、すべてのパートナーシップだな、と思って。
いさどん:
そうそう。これは話が広い。大きい。これは単なる恋人との関係から、もっと言えば、一人の人間がいて世の中に関わっているものすべてがパートナーなわけだから、それが近いものと言えば、恋人とか夫婦とか家族となる。そうすると、最終的には、自分が出会う可能な個がパートナーだと思っているんだけれど、実は究極には、お釈迦様の教えである、自分と宇宙、自分と神様のパートナーシップ。ところが、自分と神様を区別するのは自分がいるから区別するのであって、それは宇宙が一つだということになると、パートナーシップって消えるんだよね。だから、ものすごくテーマは大きい。これだけで一冊の本ができるよね。
ようこ:
例えば、具体的に、パートナーが自分の思い通りにならないという人に、アドバイスはありますか?
いさどん:
パートナーが自分の思い通りにならないということは、思い通りにならないのはパートナーということだけではなくて、つまり、思うようにならないということは、思うようにしたいという心が働いているということ。思うようにしたいということは、相手を無視しているという状態。こちらの思い通りにしようとすれば、相手にとっては無視されている状態だから、必ず抵抗がおこる。だから、この関係はうまくいかない。そして、当然のように思うようにならないことが起きる。これを解決するには、相手を無視して単純に相手を自分の思うようにしたいと思うところに問題があるのだから、相手を無視しないで、相手の意向を配慮しながら、自分の意向を伝えていく。そうすると、相手は自分の思うようになる可能性がある。
ただこの場合、お互いが共通する価値観を持ち合わせていない場合もある。そうなると、そこのところをよく確認して、共通するものに対して、自分の意向を相手に伝える。相手の意向を聞く。その中で練り合わせて調整して、相手を思うようにする。そういうふうにしていけば、良い人間関係が築ける。
ようこ:
相手のエゴが強く、相手が自己主張ばかりする場合、相手の意向を聞くときのバランス、コミュニケーションのとり方はどうすればいいのかな?
いさどん:
パートナーシップを別の形で例えると、スポーツで言ったら、1対1の競技。相撲とかボクシングとか何でもいいけど競技なんだよね。そうすると、同じ土俵とか同じリングに立っている。その場合、同じ土俵の上で、二人で、これからあるルールをもってお互いの関係性を決定しようとなったときに、そこでは最終的に勝ち負けがあったり、どちらかがイニシアチブをとったりと、そういうことはある。
だけれど、同じ土俵に立っているということは、そのルールでやっていきましょうという約束事のもとにやっているわけだから、相手が一方的にルール違反したとか、わがままを言ったということにはならない。そのルール違反もわがままも、その土俵に立っているからこそ、それもルールの中に入っているわけだから、つまり、相手が私のほうを向かないで他を向いているということがあるとしたら、それはこちらのほうが相手を他に向かせるようなルール違反を先にするから。あなたはこっちを向いていないよ、というふうに何かの形で言っているのに、実は言っている側が自分がそうさせていることに気づいていない。だから、自分が引き起こした種、きっかけを全く無視して、相手にだけルール違反をしていると言っているんだけれど、この土俵では必ず、相手と自分しか当初はいなかったはず。そのときに、自分が相手の方に向きあわないで、別のほうへ向いてしまっていたということを全く検証していない。そういう意識をもっていないものだから、相手が一方的に向こうを向いてしまったというふうに考えているのだけれど、必ずこれはお互いの関係の中でどちらかからこういう投げかけがあって、そのことに対してそれに呼応するような行動があったからこそ、すれ違いが起こっている。
そこを全く見ないで、相手だけを問題と言っているのは見当違いで、相手をもう一回こちらに向かせようとしたら、向かせようとする側が、先に種をまいたことをしっかり振り返ること。相手に対する自分の心の動きや行動をずっと正確に分析していったら、その履歴の中に必ずここからだ、ここで見過ごしていた、というのがあるはず。そこを全く見ないで、ただ表面だけを見て、私の思惑と違うと言ったら、あなたの責任はどこにあるのか?
この場合の関係はいつも50:50であり、それがパートナーシップというもの。だから、一方的に一方のためのパートナーシップというものはない。お互いに、そこではちゃんと自分が相手にしたこと、それがふさわしく自分に返ってくる。お互いにそういう関係性の中で成り立っているということ。だから、一方的に相手がわがままでこうなったと見ている人は、自分の姿勢こそ改めていかなければいけない。
ようこ:
もともと学びのために修行のために、パートナーシップは与えられているけれども、でも、それだけでもないのかな?
いさどん:
修行という意味で学んでいくことは、それは個人としてのスタンス。ところが、全体としてこの生命の世界を表現するという意味では、宇宙生態系の中で生命としての自分の役割を果たしながら、同時に個人の学びや修行をしていく。そのふたつのスタンスがある。でもそのふたつは、最終的には、宇宙生態系の表現という形でひとつである。
ようこ:
あと、パートナーシップのお題でよく出てくるのが、「パートナーが欲しいのですが、どうすればいいですか?」という質問。そういう人に対して、何かコメントはありますか?
いさどん:
パートナーが欲しいということは、パートナーがいないと思っているということ。さっきも言ったように、究極には自分と宇宙というパートナーシップもあるように、いろんなパートナーシップがあるのだけれど、ここではわかりやすいから恋人同士のパートナーシップとする。そのパートナーシップの結果もたらされるものは、恋愛、愛というもの。
愛には非常に幅があって、高い愛と低い愛がある。まず、一番最初に現れてくる愛は、自分がかわいい、自分を大切にしたいという、自分に対する愛。これは実は万物がもっていて、鉱物でも植物でも動物に至るまでもっている生命の愛。生命が自分を保っていこうとする愛。鉱物すら意図的に意思が働いて、鉱物であり続けようとする。植物が虫に食べられないように自分を守る。動物が危険から逃げていく、又攻撃するのも自己愛。これが一番原始的な、最初の愛。
次に、もうちょっと高度なのが、種を保護しようという愛。植物で言うなら、おしべとめしべがくっついて、自己受粉するものもあれば、他の花粉をもってこないとだめというものもある。そこで、虫や風の力を利用しているものもあり、すべて自然の生態系の中でもらっているもの。動物も本能というものをもらって、あるとき発情し、交尾をして、そして子孫を残していく。そうして、自分がなくなっても、自分の情報が、種があり続ける。
ここで面白いのは、人間はあるときパートナーシップを求めること。そして、それは自分の意志だと思っている。ところが、自然界の植物や動物の世界では、それが季節とか生命としての積み重ね、熟し度によって、それまで全く興味がなかったオスがメスを、メスがオスを求める。そこに、愛情という感情、情があるのが人間であって、情がないのが植物や動物である。そうすると、その情というものが複雑になって、植物はただ自然のままに、動物はただ本能のままに、そして人間は情のままに表現するということが、ある意味では進化である。ある意味では、生命の表現の仕方の体系、順番の違いのようなものである。
さて、そこで愛というもの、つまりパートナーシップというのは、そこに必然性、必要というものが見いだせる。なぜなら、自己愛、自分を存続させたい、そこから始まっている愛の変化を見てきて、ここまで歩んできたのだから。
愛というものは、本来、人を愛するときに発生するもの。でも、恋愛ははたして愛するためにあるのだろうか?実はその背景にもうひとつの愛があって、それは愛されたいという、つまりギブ&テイクの愛。恋愛の愛は、自分が相手を気に入った、愛する、その時点で愛は成立していない。だから、何が働くかというと、相手が自分を愛するように働きかける。そして、自分の思うように愛されないと、自分の相手に対する愛が攻撃に向かうとか、不愉快に思うということに変化する。これが条件付きの愛。これが恋愛。
ところが、愛というのはそういう条件付きの愛ではなくて、どういうものかというと、例えばカップルが見事に結婚して、子供が生まれた。そうすると、恋愛の関係では、自分が相手に愛を向けて、相手がそれを返してこないといけないギブ&テイクの愛。これは何かというと、相手がまだ自分ではない状態。ところが、結婚して夫婦として月日が過ぎると、身内という関係になり、相手の利害と自分の利害が一緒になってくる。そうすると、利害に関係なく、相手のために行動する。
「相手は自分の思うようにならないけど、まあ、夫婦だから。これをやってあげましょう」と。もっというと、相手も自分も一緒なんだから、「もう何でもしてあげよう」と。でも、この夫婦というのは、離婚すると他人になってしまう。
ところが、子供ができ、完全に身の内になると、自分を思うように相手を愛する。極端なことを言えば、溺れている子供がいれば、自分を犠牲にして救おうとする。それは、無条件の愛。本来、親が子供を思う心は無条件の愛で、自分のいのちと同じように相手のいのちを大切にするということ。相手が本当に自分自身となった状態。自然界の植物たち、動物たちは、それに近いものをもっている。それは、この世界をつくった神様が、自分を分けて、自分を変化させて、この世界をつくったから。だから、神様は、自分自身としてこの仕組みをみんなに与えているから、神様の愛は無条件の愛。
ところが、人間はそこから分かれてきて、自分が特定というところで愛そうとするから、条件付きの愛。人間が、相手を自分の思い通りにしようとする愛は、確かに愛ではあるんだけれど、どちらかというと自分に近い愛。それが、家族をもらって、いのちがひとつなんだよ、自分から生まれているんだよ、という愛、つまり、神様の愛を知る。
すべての親は神様だから、すべては神様の子供。我々はみんな兄弟である。その仕組みを本当に知ったときに、我々は、子供を通じて神様の愛を、親である神様の心を学ぶ。
ようこ:
この世界が、すべて神様の愛でできていると真に体感できたならば、パートナーが欲しいとか、誰かを自分の思い通りにしたい、と思う心は瞬時に消えてしまいますね。いさどん、ありがとうございました。
パートナーとの縁はまさに学びの極みですね縲彌r
とてもいいお話を読ませていただきました!
ありがとういございます。
友人にもこブログを教えたいと思います。
まわりで夫婦間のカルマを生きている人が多いです縲怐B
誰かを自分の思い通りにしたい!が無くなると…受け身の人は、解き放たれますね縲彌r
世の中が平和に進むことを祈って。
今日はそちらで旦那が解き放たれていますね!
ありがとうございます。
思いもよらぬところから感想をいただいて、少しでもみなさんのお役に立っていることを、喜びとしています。
これからもよろしくお願いします。