自殺する愛から究極の尊さまで

先週末、東京で村的暮らしをテーマにしたシェアハウスを運営されている「やかまし村」の皆さんが1泊2日のツアーを組んで、ファミリーを訪れてくださいました。いさどんがプレゼンテーションを行った後、質問タイムが設けられ、そこではいろんな話で大いに盛り上がりました。参加者の中には、「この時間が一番ためになり、楽しかったです!」とコメントされる方もいらっしゃいました。

その質問タイムの中で、いさどんが感極まって涙を流す場面もありました。涙した理由と、その奥にある想いとは・・・

まず、自分がどういう想いを持っているのかということが、確実に自分の未来に現象となって訪れる。これは、科学では説明のつかない話だけれど、物理学の最先端をいっている人たちの中には、それこそが最先端の物理学なんだと言う人がいる。「木の花で想うことは成る」と言っているんだよね。それは一般社会でもそうなんだよ。悪意を想えば悪意の世界ができるし、対立を想っている人には対立が起こる。

木の花で想うことは、すべて善意。だから、私たちがこういった考え方をもっと世の中に伝えるために、人々が訪れるための施設が欲しいと想ったら、それは社会のためであって、自分たちの欲を満たすためではない。そうすると、それに必要なお金や施設は、社会が与えてくれる。一方、自分の生活のために生きている人は、自分の稼ぎ、やり繰りでしか生きていけない。

私たちの今の年収は、ひとり70万ですよ。だけど、これほど豊かに生きていける。

自分が想うことによって、未来を創ることができる。そうしたら、何を想うかということを、真剣に考えないといけない。その想念が未来に実現するのだから。

でも、想うことのカギが間違っている人が結構いる。執着を強く持って、それを維持することが幸せだと思っている人。例えば、お酒が好きな人。お酒はある程度は、体にいいとも言う。でも、それが憂さを晴らすためのお酒になった時には、目的が違ってきてしまう。そうすると、憂さを晴らしたいから、それを忘れるまで飲むことになる。憂さというものの根本の原因を解決しないで、お酒で忘れるという手段にもっていくと、問題は何も解決されていないから、何度でも繰り返すことになる。そうすると、お酒をやめられなくて、いずれはアル中になる。

最初は幸せだったのに、その想いがバランスを失ってしまうことがある。そのときに、自分が楽になりたい、欲求を晴らしたい、と幸せを追求していくのも、実は愛。この世界は、全部愛が変化したもの。自殺するのも愛。自分を幸せにしたい、そういった自己愛。辛くて仕方がなくて、自分を解放してあげようと自殺するわけだから。

だけど、愛もそこまで歪んでしまうと、生まれてきた根本の目的を放棄するという、最も不幸なところにまでいってしまう。そこは、考えないといけない。自分の愛がどんな愛なのか、しっかりと考えないと。

これほどすばらしい世界にいながら、なぜそこまで自分を苦しめるのか。なぜそこまで辛い心を持つのか。

それを思うと、涙が出てくる。

なぜ、自分のいのちを絶つようなところまで自分を追いやるのか。他人に追い込まれていると思っているけれど、自分で追い込んでいる。

なぜ、そこまで見えないのか。これは、何とかしなければいけない。この世界の創造されている目的、真実の目的に気づかなければいけない。

これも、僕が肉体の中に入っていて、心がせまいから、そんなふうに思うんだけれど。神様は、「それもプロセス。もっと先があって、今があるんだから。今を悲しんではいけない」と言われる。

それは、上から見たら確かにそうかもしれない。僕もこの肉体を返して、それこそ惑星間を旅しているようだったら楽しいのかもしれないけど。でも、今ここに現実に肉体を持っていて、そういうことを目の当たりにしたら、全部ゲームだって笑ってばかりもいられない。

毎年8月になると、ものすごい馬鹿な時代を振り返らないといけない。あの第二次世界大戦で行われた、あの不幸は何だったのかと。人間があれほど真理から外れて、馬鹿になってしまうような。人が人を食べるような。何もそこに益がないのに。肉弾で殺戮の中に走っていき、それを他人に強要するような。それを泣きながらやるような、泣きながらならやめろって思うのに。人間ってのは、そこまで愚かなものになることがある。

自然を見てごらんよ。自然の中にはそんなものはいない。でも、人間は、そこまで愚かだからこそ、そのエネルギーの反作用を生かせば、究極の尊さまでいくこともできる。

これは、神様のゲームなんだから。テレビゲームを作っている人たちでは、こんなすごいゲームは作れない、すごいゲームなんだ。

話し終わって、「そんな神妙な顔をしなくていいんだよ、世の中が明るくなるように話をしているんだから」といさどん。

いさどんから湧き出してくるものが何であろうと、それはいつだって善なる愛なる調和なのです。

真剣に話を聞く「やかまし村」のみなさん
真剣に話を聞く「やかまし村」のみなさん

One thought on “自殺する愛から究極の尊さまで”

  1. >それは、上から見たら確かにそうかもしれない。僕もこの肉体を返して、それこそ惑星間を旅しているようだったら楽しいのかもしれないけど。でも、今ここに現実に肉体を持っていて、そういうことを目の当たりにしたら、全部ゲームだって笑ってばかりもいられない。

    これがきっと、なによりの今で現実で、木の花が多くの人にとって魅力的に移る部分だなぁと思いました。
    いわゆるスピ系でなかなかぬけられなかった私には、この地に足のついた考え方はとっても大事だったなぁと思って。
    あらためてみんなに会えてよかったです。
    そして私はけっしていさどんと同じ眼でこう思えているわけではないけれど、
    これをこう思えてから、私の中の戦争はたまにちいさないざこざはあるけれど、終戦したなぁと思う。
    みんなの心の戦争が少しづつ終戦させれるお手伝いをしていきたいです。

    今少し黄帝内経という中医学の中の陰陽五行論を勉強していたときに学んだこと。
    『陰陽は宇宙のありとあらゆるものにあり、その関係は相互相成の関係にあり、対立、依存、制約の状態は静止不変ではなく、不断の運動変化の中で行われているということ。』

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