僕が世の中に対して訴えたいこと

今の社会で勝ち組と言われるような、
会社を大きくしたり、自分の望みを叶えてしまった人たち。
社長さんや、政治家、その他大学の先生。
そういった人たちが、自分のやるべきことをやり終えた後に
「やり切った」と思うのだろうか。
そこで満足してもらっては困ります。

沢山の人たちが激烈な環境で生きている中で、
私は人生の成功者としてそれを成し遂げた。
そういった人たちが自分を振り返った時に、
「それだけで終わっていいんだろうか」という自問が
生まれてこないといけないと思う。

今、世の中が熟してきて、
自分の願いを叶えた人たちが沢山出てきた。
しかし、自分の願いを叶えたということは、
自分の願いのレベルの満足に過ぎない。
自分の欲望を叶えた満足から、
己を離れ世のため人のためにある価値というのは、
もう一つ上のランクになる。

有形でも無形でもいい。
そういう価値を成し遂げ、
自分の徳積みをするということである。
ただ自分の願いを叶えるだけでは、
大した人間とは言えない。
最近、そういうことを考える人たちとの出会いが多く出てきた。
それは、時代も次の段階に進んでいる表われなんだと思う。

お釈迦様のように、
過去に尊い道を私たちに残してくれた聖者がいた。
インドではバラモン教という宗教があり、
一番上にバラモンがいて、
その下に王がいるというカースト制度がある。
バラモンという真理を探究するものが一番上で、
カースト制度では王であってもランクを変えられないということになっている。

しかし、魂がそういう枠を超えて成長していくと、
そういった仕組みは崩壊し消滅していくはずである。
魂がどんどん成長して高まっていくということを考えたら、
王であっても、自分の価値のためにさらに高みを目指すべきである。

そういった魂の旅があるとしたら、
この世の中には企業にしろ政治家にしろ、
いろいろな形の成功者がいるけれど、
その人たちは自分の望みを叶えただけで果たして終わっていいのか、
問われていくだろうと思う。

この世界の先端を担っている人たちは、
ある意味時代の寵児だから、
時代をリードしている。
しかし、その人たちがリードしてきた結果、
病気大国であったり自殺大国であったり、
アンバランスや貧富の差が発生している。
それは、その時代をリードしてきた寵児たちの責任でもある。

その人たちは、それを埋め合わせるための作業をして
人生を終えていくことが肝要である。
個人的な望みを叶えた結果、
世の中に与えたことに対する責任を果たしていないことになる。

そういった人たちに、
「その責任を果たして人生を終えましょう」ということを言いたい。
その時に、財を成した人は本当の意味で豊かになる。
単なる物理的な富を抱えただけでは、
それが汚れとなって自分の価値を落とすことになる。

財といっても、
物理的な金銭や物のことだけを言っているのではない。
知識だって同じだと思う。
自分が築きあげてきた知識が、
本当に世の中のために生きているのか考えるべきである。

自分のためだけに人生を生きて終わってしまったら、
それはあまり高い価値とは言えない。
ただ欲深く人生を終わっただけならば、
財や富、知識は尊いものでも有益なものでもないものになってしまう。
そこのところをしっかりと捉え、
観ていくことが大切な事だと思います。

そういった精神が社会に還元されることによって、
今のこの歪み、格差が是正されて平等な社会ができる。
格差をなくし平等な社会をつくる。
獲得できなかったものも獲得したものも、
そこの奥にある心の尊さに気づき、
霊的にも平等になっていく。
皆が神人として地上に生きる、
そういう時代が現実にできてくるのだろう。

それは最近よく思うことで、
競争社会に打ち勝ってきた人たちに特にそれを訴えたい。

僕は、ある意味では成功者だと思う。
自分の成し遂げたいことを成し遂げた。
まだ全ては終わっていないけれど、
少なくともこういった生活を実現し、
こういう世界をつくりたいと思ってそれを成し遂げた。

しかし、これは僕のビジョンではなくて、
神様のビジョンである。
僕は、神様のビジョンがこの世界に降りて実現することを願っていたから、
さらに成し遂げたことになる。
これは無限の道だからこれからもこのまま生きていく。

世の中にはそれを理解できる人と理解できない人がいるから、
万人がそのことをわかるのは、
時代が進んでいくことで事が成っていくことであるが、
少なくとも僕の内には曇りなく大切をやり切れている。
終わりがないことだから、
今はここまでやり切れている。
そしてこれからもこの延長にやり切っていく確信がある。

いつ死んでもいい。
瞬間瞬間、全く悔いがない。

僕の中に私利私欲が全くない。
世のため人のためだけに自分がいるということは、
大変幸せなことであり、
私欲から解放され自由な世界を満喫できることである。

皆にそういう人になってほしい。
人間にそういう生きものになってほしい。
人としてそう生きてほしいという想いがある。

しかし、それは欲ではない。
なぜかといったら、
そのことによってこの世界に理想が切り開かれるから。
理想が切り開かれるからといって、
「ならなきゃ」とか「したい」というものではない。
この世界の仕組みや流れを観ると、
そちらの方に事が動いている。
ただそちらの方に進んでいることでしかない。

そんなにお金も持っていない、
世の中の成功者とも言えない人たちが、
農的暮らしが大事だと言っている。
それに対して、
成功した人たちがいつまでも自分の財を抱えているようなことでは、
あなたたちは本当に富を獲得してそれを豊かさだと言えるのか。

本当の豊かさというのは、
形あるものを抱えて終わっていくものではない。
それは、単なる欲望を満たしたことに対する価値である。
本当の豊かさというのは、
心の中に積み重ねていくもので、
世のため人のためにもたらすものが価値である。
それが本当の富である。

そのことを僕は世の中に対して訴えたい。


3 thoughts on “僕が世の中に対して訴えたいこと”

  1. 繰り返し読んでいます。
    ようこさん 文字にしてくださってありがとうございます。

  2. そうだね~。
    僕もさいきん、「しあわせ」という日本語の語源が森羅万象とこころを通い合わせるという意味だと知りました。
    幸せは関係性の中にこそあるのに、「個人」の幸福を追い求めるようになってから、
    人間はかえって不幸になったのだと思います。

    自分の望みがかなえばかなうほど「幸せ度」があがると思ってみんながんばってきたけど、
    実はそこにしあわせはなかった。

    世界のなかに自分が溶け込んで、生かされていることを実感している瞬間こそがしあわせなんだと、
    みんなが気付くことによって、この人間社会も大きく変わっていくのだと思います。

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