いさどんの「Mの精神」人生哲学

一つのことが長続きしない人は、
少しやると限界を感じ、
ダメだから次のことを選ぶということを繰り返していく。
それは色々なことに出会えていいようだけれど、
行き詰まりが来るということは、
自分の中の興味が変わっていったり、
直面する出来事に顔をそむけたりするような作用である。

一つのことを続けていくことで、
自分の中がせっかく変わろう(成長)しようとしている時に、
自分の眼の前のものを変えてしまうから、
いつも変わらない自分と付き合うことになる。
だから、変わらない自分に対して、
どこに行っても同じような現象が
待ち構えているということが起きてくる。
大体同じようなリズムでハードルが
眼の前に現れて来るようになっている。
そこでは常に直面する出来事を避けないで、
真っ直ぐ進んでいくことが大切である。

自分が嫌だな、うっとするなと思う方向へ進むと、
今の自分を離れ、人は成長する。
ところが、楽な方向へ行くと、
楽が待っているように思うけれど、
その人の問題の種はあり続け成長しないから、
また同じようなテーマが自分の眼の前に現れてくる。
そうすると、またうっとする。
楽な方へいく。
またテーマから逃げたのだから、
うっとするようなことが起きる。

つまり、心がうっとする方向へ進んで行った方が
その人に成長を与え、
心の段階をクリアしていく結果に結びつく。
そこに希望を見出していけば良い人生を歩める。

僕は、「先天性M」です(笑)。
僕の中にはうっとする方へうっとする方へ
行こうとする心がある。
「この先何があるのか見てみたい」
という思いが湧いてくるのです。

道路が渋滞していると、
「迂回して行こう」という心もあるのだけれど、
「迂回したら何が原因で渋滞しているのかわからない」と思い、
わざわざ渋滞の中にいたい僕がいることがあります。

これって僕にとっては、
人生の中でも重要なことなのです。

例えば畑で作物を作る時に、
虫が発生したり作物の出来が悪いと、
みんなはその対策を取ろうとする。
しかし僕は、
「それでは、この結果どうなっていくのかわからない」と思い、
そのまま何もしないで見ていることがある。
そうすると、その後良くなっていくこともあったり、
自分では想像出来ないことが起きることがある。
その方が学べる機会が多いというのが僕の発想である。

だから、自分流に拒否的解釈をせず、
「いただく」という精神が必要である。
自分流で日々を過ごしていけるからといって、
それだけでどんどん進めていっても人は成長しないし、
「これが正しい」という自分の枠に捉われてしまい、
狭い自分をつくってしまう。

人はとかく、楽な方に行きたがるものですが、
本当の意味での楽を自分にもたらすように、
賢明な物事の見方や判断の上で、
気持ちを込めて自分の内側に気持ちを向けていくことが
大切であると思います。

うっとする方向へ向かっていけ。
いさどんの「Mの精神」人生哲学でした。


2 thoughts on “いさどんの「Mの精神」人生哲学”

  1. 本当の意味での楽っていうのをやはり求めて生きていきたいですね。
    自分はわざわざ手間の掛かる方を選ぶ傾向があって、自分は不器用だからかとかやっぱ変わってるのかなって思うこともあったんですが、楽な方法ばかりだと充実感や達成感がなくてつまらないんですよね。
    でもこれも「Mの精神」かなとも思えて、心の成長といった部分を物事の見方の基準にして生きていきたいと改めて思いました。
    うっとすることから逃げずに、成長の為の出来事がキターっ!!って思うようにしていこうと思います(笑)。

  2. 新約聖書マタイ伝第七章
    「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」
    Enter by the narrow gate.

    虫がついた野菜を見守るという試みは、雇われ奉公人の立場では許されにくい貴重な観察の機会ですね。発見や実践の学びがありそうです。

    長らくいる業界から離れて木の花に伺うとしたら、これは逃げなのか挑戦なのか考えています。
    「いのちに向かう門」を見出したとすれば、「逃げか挑戦か」といった勝負事ではなく、得難い道が見えたとの解釈が適当と感じます。

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