「現代医療について語る」に引き続き、エリーといさどんの対談第2弾です。
エリー:
ご自身の治療者としての基本的な考えや思想性についてお話し下さい。
また、「木の花ファミリーは治す場所ではなく、心を振り返る場所」というお考えについて、
より具体的なイメージをご説明下さい。
いさどん:
私は一般的な立場の治療者としては資格も経験もないわけですから、
自分自身を「治療する者」として認識はしていません。
ですから、治療者が治療という立場から病気に対して持つ知見とは、
全く視点の違うところからものを観ることの出来る自由な立場にいると考えています。
もう一つ言えることは、私は病気を持ってここを訪れる方に治療をしているというよりも、
情報提供をしているということです。
情報提供をするというのは、その方に病気を発症させている現象に対して、
客観的な角度から捉えたことを伝えるわけです。
例えば、ネガティブな思考を持っている人にポジティブな捉え方を伝えることによって、
そのネガティブな思考からくる病的な状態を和らげる効果があります。
それによって、客観的に自分を捉えられるようになり、自分で心の調整が出来るようになります。
ここで生活していくと、そういった効果が現れてくると考えています。
この世界はエネルギーの交換、あるいはエネルギーの発散で成り立っていると私は考えています。
例えば、ある出来事に対してプラスのエネルギーが過剰に消費された時には、
そのバランスを取るために、マイナスのエネルギーが発生するようになっています。
誰かがネガティブなエネルギーを出し、それが過剰になっていたとしたら、
必ず逆のポジティブなエネルギーを用意してやらないとそれを相殺出来ないようになっています。
これは治療としての考え方ではなく、
この世界を成り立たせているルールとしてそのように捉えています。
そのように考えていくと、いわゆる精神疾患だけではなく、
病気やさまざまなトラブル、問題事、さらにあらゆる出来事が
そうした仕組みによって現象として現れてきている、と捉えることが出来ます。
そうすると、そうした偏ったエネルギーの消費によって発生した病気があるとします。
それに対して、逆のエネルギーの消費の仕方についての情報を提供すれば、
自らバランスを取ることが出来るようになるわけです。
それが、私の言う情報提供ということです。
もう少しわかりやすく説明しますと、
ケアを希望してファミリーを訪れる人がいらっしゃいます。
その方はうつ病にせよ、引きこもりにせよ、何らかの問題を持っておいでになるわけです。
当事者の方もそうですし、そのご家族も問題を抱えた状態になっています。
その時に、当事者の方は自分がそういう状態になった理由を語られるわけですが、
それが本当に客観的な視点に立った話かというと、そうは言えないケースがほとんどです。
やはりその人の人格的な問題であったり、
中には機能的な欠陥から来る偏った捉え方をしてしまっている人がいます。
当事者は当事者からの、保護者は保護者からの視点だけで捉えていて、
その症状がどういうものであるのかを見極められるような多面的な捉え方は出来ていません。
そもそも、バランス良く物事を捉えられていたら、その状態には至っていないわけです。
それに対して、ネガティブに捉えすぎていることについてはポジティブな見方を提供しますし、
ポジティブ、つまり楽観的な捉え方をしすぎている場合は、
より慎重に、正確な見方を情報として伝えます。
そうすることによって、当事者にも家族にも現状が正しく認識出来るようになります。
今までなぜその状態が起きていたのかを理解出来ていなかった人たちが、
「こういうわけでこの状態が起きていたのか」と捉えられるようになります。
そうすると、先の見通しが立つようになり、不安や恐怖から解放されていきます。
それまでは、わからないところで歩んできたから不安でしたし、
不安から発生する恐怖に脅かされてきたわけです。
現状を正確に理解することで、急速に楽になっていくのです。
また、当事者が非常に深刻に捉えているような問題であっても、
見方を変えれば「人間というのは面白い発想をするものだよね」と、
そこに愉快さや滑稽さを見出すことが出来るものです。
自分自身を滑稽と言われると不愉快に思う人もいるかもしれませんが、
自分自身を他人のように客観視する視点を提供することで、
「自分はなんて滑稽なことをやっていたんだろう」と
思わず笑ってしまうような方向に誘導することもあります。
当事者には非常に苦痛な状態であっても、
捉え方を変えれば笑いに持って行くことも出来るものです。
そのように心がけて対話をしています。
「治す場所ではなく心を振り返る場所」という考えについての
具体的なイメージをご質問いただきましたが、
それはこれまでお話したように、客観的に物事を捉えながら、
精神的な疾患に至った経緯を一緒に振り返っていくということです。
その中で、どこでどのような捉え方をしてきたのか、ということを一緒に考えていきます。
その時に、当事者の方は当然それまでの延長線上でものを考えられるわけですから、
こちら側からは常に代替的な捉え方を提供していきます。
そうすることによって、過去のイメージから作られているトラウマからその方を解放していく、
という作業をしていきます。
そういった情報は、面接という特別な時間だけではなく、
ここに滞在して生活している日常の中でも提供しています。
私が常にそういう立場を取って当事者の方について回るわけにはいきませんが、
普段はその方がファミリーの中でどのように過ごしているのかを眺めています。
その方の状態を観察し、その方の心の癖や性格的なものがどのように表われ、
変化していくかを見ているわけです。
その時に、ファミリーメンバーとのやりとりの中に表れるその方の性格や心の癖を観察しながら、
次に接点を持った時に情報提供するための材料を集めていきます。
ファミリーメンバーたちも、その方と接していて気づいたことを私にフィードバックして、
材料集めを手伝ってくれます。
こうして集めた情報を次の面接で伝える、というようなやり方をしています。
それがここで行われている、一般に言う「治療」ということにつながる方法ですね。
これまでエリーに対してもそのような接し方をしてきたと思うのですが、
それを受けた側としての感想はありますか?
あるいは、それに関する質問等もあればどうぞ。
エリー:
ネガティブな思考や発想について一貫しておっしゃっていますが、
それはうつ病に関してだけなのか、それとも病気全般に関して言える傾向なのか、
ということをお伺いしたいと思います。
また、ネガティブな思考に偏ってしまうということが、
それこそどこから来ているのか、ということについても知りたいです。
いさどん:
ネガティブやポジティブというと、一般的にはネガティブが問題であって、
ポジティブが問題を解決するための良い方向と捉えがちだと思うのですが、
そういった捉え方をすると、良いこと、悪いこととして分けてしまうことになります。
それでは問題事の本質を捉えることが偏ってしまい、
問題解決はかえって難しくなっていきます。
ネガティブということがここでは何を示しているのかというと、
その人の心の状態を表現する材料ということです。
それに対して、ポジティブが物事を前向きに捉えていくことだとすると、
自分や周囲にとって都合の良い部分を表現していくと、ネガティブな部分は封印されてしまいます。
ポジティブが進みすぎたら躁状態と考えてもらったらいいと思うのです。
それに対してネガティブが進み過ぎたら鬱状態ということになると、
鬱と躁というのは通常の人の中にもあるものです。
それを上手にバランス良く使い分けることによって、健全な状態を保つことが出来ます。
そうすると、物事をネガティブにしか捉えられない状態に偏ってしまった時に鬱になるわけです。
ここで悪意と善意という視点で見ていくと、
物事を悪意的に捉える傾向が極端になると、
物事や他人のことをどうしても好意的に捉えられない状態になってしまいます。
しかし、物事を悪意で捉えるということは、視点を変えれば慎重ということでもあります。
それは物事をより正確に見極めようとする心の働きですし、
疑ってかかるというのも「転ばぬ先の杖」で、大事な発想です。
反対に、ポジティブに考えるというのは何でも良いこととして捉えていくということですが、
人によってはきちんと物を考えずに進んでいってしまうこともあるわけです。
ですから、本来はネガティブさとポジティブさを使い分ける冷静さが必要とされます。
その偏りというのは病気として出てくるだけではなくて、
家庭内や会社の中といった日常のさまざまな人間関係においても表れてくるものです。
そこで、自分の中のネガティブな部分を物事を慎重に見極めるために使っている人は、
その部分をコントロールして個性として活かせているわけですね。
これに対して、ポジティブな部分を良い方向に活かせば、
物事をどんどん発展させていくことが出来ますが、
それが偏り過ぎてしまうと時期尚早なのに物事を進めすぎたり、
必要のないことまでやってしまったりして、
あとからそれを補わなくてはならないようなことにもなります。
これと関連するのですが、私は鬱を二つのタイプに分けて捉えています。
一つは、ネガティブな方向に偏りすぎた鬱ですね。
それは、もともと鬱的な要素がある人の鬱とも言えます。
ネガティブに考え続けた結果として、物事を悪く捉えることしか出来なくなってしまい、
思考が停止して行動出来なくなってしまうタイプです。わかりやすいタイプです。
一方で、ポジティブな方向に偏りすぎた鬱というのもあります。
物事を楽観的に考えどんどん行動を進めていくのですが、
慎重さを欠く結果として、物事が次第に行き詰まっていきます。
本来はそこで振り返らなければいけないのですが、
ポジティブに考えるものですから、どんどん前に進んでしまい、ますます行き詰まってしまいます。
結果的には自信を喪失して行き詰まり、鬱になってしまうというタイプです。
ですから、その方の鬱がどのようなタイプなのかをまず見分ける必要があります。
また、原因を捉える際、当事者の家庭環境が大きな材料を提供してくれます。
本人の兄弟、両親の精神性や関係、さらに両親の親の関係まで家系図を書いてもらい、
分析して、その家族の傾向を捉えていきます。
それがその人にどのように影響しているのか、を捉えていくことが有効になります。
どのようなタイプにしても、
どこかでバランスを欠いた結果として今の状態があるわけですから、
過去を振り返り、色々な時点の状態を思い出してもらいながら、
どこで自分が鬱に入っていってしまったのか、
どのような偏りが原因でそうなっていったのかを分析し、情報提供をしていきます。
そして、その時点からの思考を組み立て直しながら現在に戻ってくる作業をすれば、
持ってしまったトラウマを解消し、バランスの良いその人に戻れる、ということです。
ご質問は、ネガティブな発想がうつ病に特有のものなのか、というご趣旨でしたが、
ここまでお答えしたように、それは病気に限らず、人生の中で常にあることだと考えています。
それから、そうしたネガティブな発想がどこから来るのか、というご質問については、
宗教的に言えばカルマ(業)ということになり、そういった心の癖があるわけです。
それは、より宗教的な捉え方をすれば、
その人が現在のような魂の状態になるような歩みが過去にあった、ということになります。
その過去というのは、その人の人生における過去だけでなく、
いわゆる仏教的に言う過去世も含めた魂の歴史があり、
その上で生じた心の癖や性格から出てきている、と考えられます。
いずれにしても、病気の原因を捉えていく時にはホリスティックに原因を捉え、
それを遡りながら、一つずつ解決していくことが大切になります。
私はこれまでに沢山のケアの人たちを引き受けてきましたが、
親子や兄弟、夫婦といった魂として近い縁は、
心の癖をお互いに出し合うためにいただいている、と考えています。
お互いに役割を果たし合っているということです。
そういった心の癖をお互いに出し合い、
トラブルを発生させることによってエネルギーを消費させ、
そこから学び抜け出していくという作業をしている、と捉えています。
エリー:
そうすると、バランスを欠いた状態というのも、
やはりバランスを欠きやすい魂として生まれた結果、と捉えていらっしゃるのですか?
いさどん:
バランスを欠きやすいというよりも、
バランスを欠くことを必要としている、ということですね。
つまり、魂がアンバランスなものを持っていて、
それを解消するために生まれてきているということです。
まずは表現することが必要なわけです。
見方を変えれば、それを表現するために生まれてきている、とも言えるわけです。
それを表現することを約束し生まれてきた、と言ってもいいと思います。
そうすると、それが表現されるということは、
魂の目的が果たされているわけですから、いいことなんですね。
表現すればするほど、約束通りに自分自身を学んでいく作業が進んでいる、ということですから。
エリー:
そうすると、うつ病になるというのも、ある程度予想されているということでしょうか。
いさどん:
私が当事者の方とお会いする時には、
当然、その人がどのような歩みで今に至ったのかはわかりませんが、
その人と接することで人となりがわかると、
おおむねその人の魂の歩みを捉えることが出来るわけです。
そして、その方の現状と、生まれてから現在までを聞くと、心の傾向が見えてきます。
そうすると、その方が何を表現するために生まれてきているのか、ということが捉えられますから、
そこからうつ病に至った流れをつかむことが出来るのです。
その流れの全体をつかめると、どういう理由でそれが起きてきたのか、
ということを当事者の方に情報として提供することが出来ます。
それを受けた当事者の方が納得し、
自分がその状態であることが不必要になったことを悟れば、
自分でそこから抜け出してくることが出来ます。
つまり、当事者の方が自分の魂のアンバランスを表現した結果、
自分の意志でそこから抜け出すということです。
そこには治療者と患者という関係ではなく、
情報を提供する人と、それをもらうことで自分のことを知り、
自分の意志で病的な状態から抜け出してくる人、という関係があるのです。
エリー:
今の話は、現代医療の中で行き詰まっている人には大いに救いになると思います。
同じことを宗教的な視点を持たない人、
魂の存在といったことにあまり触れたくないと思っている人にも
わかりやすく説明していただくことは出来ますか?
いさどん:
本来、宗教的な捉え方は、宗教という特別な枠の中にあるわけではないのです。
そういう意味では、宗教的なものを良いとか悪いと判断してしまうと、
かえってそれを宗教という枠に閉じこめることになってしまいます。
この世界を科学的、物理的に捉えたり、哲学的に捉えたり、宗教的に捉えたりと、
色々な切り口があるうちの一つだと私は考えています。
あくまでこの世界を知るための窓口の一つとして捉えればいいと思うのです。
今、私がお話ししているようなことは、私が歩んできた経緯がありますので、
どうしても宗教的、スピリチュアルな語り口になります。
ただ、宗教的な表現を否定されたり、魂という言葉を嫌がる方でも、
自分の個人的な考えや想い、その人のオリジナルなものの捉え方というものは必ず持っています。
それをここでは魂と表現しているだけですから、
それを心理学的に語ることももちろん可能です。
その魂の表現がバランスを欠いていれば、それが症状として表れてくるわけですから、
バランスを取っていくことを心がけましょうということで、
先ほどもお話ししたように情報提供をしていくわけです。
その時に、宗教的に捉えたい人には宗教的に、
心理学的に捉えたい人には心理学的に伝えればいいのです。
もっと科学的に、ということであれば、
例えば脳内物質が過剰に出ているとか足りないといった伝え方になるかと思いますが、
その場合も、いきなりそのようになったというよりは、
それ以前に何か原因があってそうなったわけです。
この世界というのは、常に物事が起きることによって次のことにつなげている世界です。
原因と結果の仕組みでつながっているわけです。
さらに、この世界は原因と結果だけで成り立っているわけではありません。
現象が起きているということは、必ず目的があるわけです。
原因と結果が無意味に、ただ機械的に連鎖しているのかというと、
原因があり、それが連鎖して結果になり、その結果によって何かを表現しています。
そこには常に目的があります。
例えば、鬱という現象があるとすると、
それはとかく問題事として捉えられるものですが、
その現象によって私たちが何かを知る、
その目的のために現象があり学びになっているということに気づいていきます。
ですから、病気を単に問題事として捉えている人は、
なかなかそこから抜け出すことが出来ません。
しかし、病気を通して何かを学び、自らが成長するための出来事として病気を捉えれば、
病気という結果には目的があることがわかります。
何かを我々に与えているのです。
病気を原因と結果という側面から捉えると、
例えばネガティブな思考があって、自分に過剰な負荷をかける行動によってストレスが溜まり、
自律神経の機能が低下した結果イライラして、人とのトラブルが起き、
それがさらにストレスになって、最終的に病気が発症した、というような連鎖があるわけです。
そこで、例えばトラブルによって人との絆が切れれば、そこに孤独が生まれます。
そうすると、孤独を学習することになります。
そして、その状態を体験することを通して、
調和や愛に目覚めるという目的がそこに表現されるわけです。
そういう捉え方をした時に、
私たちはアンバランスなことが起きることによって何かを学ばされ、
成長させられている、ということになります。
そうすると、病気などの問題事も、
それを与えられることによって育てられている、という解釈になります。
それを宗教的に捉えるのか、それとも心理学的、科学的に捉えるのかはそれもバランスですから、
色々な切り口で捉えていくスキルがあるほど、バランスの良い人が出来るということです。
病気などの問題事から自分を知り、この世界を知ることが出来ます。
知るということは悟るということです。
広い意味での世界が観えてきます。
そのことによって、社会が進化し、成熟して、問題が解決されていくと考えています。
(後編へ続きます。)
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