うつ病とは何か~後編

今回は、エリーといさどんとの対談第3弾「うつ病とは何か」の後編です。

エリー:
カウンセリングも含め、一般社会で行われている精神医療と
ここで行われていることとの一番の違いは、当事者と共に生活をしているという点です。
一般社会で当事者と付き合う時間は、
大体グループという形で1ヶ月に1回というのが最大限度ではないかと思うんですね。
あとは、個人のカウンセリングだと、多くても2週間に1回くらいで1時間というのがせいぜいです。
しかも費用は高いわけです。

今振り返り、木の花の実践を観ていて一番の特徴は、その人がここに滞在しているということです。
それが通常の社会ではありえないことで、ここではそれが基本的な体制として取られています。
生活を一緒にしながらその人を観ていくという環境が前提になければ、
今いさどんがおっしゃったような、
具体的な本人の人柄にアプローチしていくという方法で効果を得るのに、
1ヶ月や2ヶ月ではまず不可能だと思います。
しかし、その不可能がここでは可能だということです。

通常、その人の背景に家族関係や親子関係の問題があるとか、
夫婦関係の問題があるということを感じられても、まずそこに触れません。
それはその人の問題であり、本人が話題にするのであれば別ですが、
通常のカウンセリングや相談業務ではまず触れていきません。
触れられないというのが多くの現状だと思います。

それが、ここではストレートにその問題に入り込んでいく。
それが通常の社会ではありえないですね。
これが出来るのも、生活を共にしていくという前提があるからだと思います。

24時間体制の大きなメリットは、外界から遮断されるので、
その人がある意味では特殊な環境に置かれる、ということが言えるのではないかと思います。
外界から遮断されることが不健康だということではなく、
健康な環境の中に置かれるからこそ、その人が潜在的に持っている精神性が
引き出されやすい状態に自然に置かれているのではないかと感じます。
そのことによって、もちろん気づきもその人の中に生まれてくるのだと思います。

食の問題や睡眠の問題、また薬の問題も含め、
24時間滞在させるということが、通常ではありえないここの大きな特徴だと思います。

私はこのことが色々ある効果の一番の基本だと思うのですが、
いさどんは最初からうつ病や精神的な病にはそういう体制が必要だとお考えになって、
こういったケアを始められたのでしょうか。
また、そういう体制が果たす役割についても、少しお話ししていただけますでしょうか。

いさどん:
私は治療者ではありませんし、当然医師ではないわけです。
私は今まで30年にわたって、社会のトラブル、特に家庭内のトラブルの相談に乗ってきました。
家庭というのは誰もが持っているものであり、
独居で暮らしている人も一人の家庭を構成しているわけです。
そういった場所で発生した問題の相談に乗ってきました。
相談に乗りながら問題事を解決していく中で、
人の「心」が原因となって、色々な問題を引き起こしていることに気がつきました。

ですから、治療者として、うつ病について特別な意識を持っていたわけではありません。
人々が健康で幸せな日々を送っていくということを、
問題事、特に家庭の中から捉えてきたということです。
家庭というのは24時間共に暮らす場ですよね。
昼間働きに行ったりすることもありますが、
基本的に生涯共に暮らす場ということです。

家族の中では、プライバシー的なことも全て分かち合い共有し合うことが原則であるわけです。
しかし、核家族化が進み、人の価値観が多様になっていく中で、
そういったことがだんだん希薄になってきました。
それがまず、うつ病に限らず様々な問題を発生させ、
トラブルを引き起こしてきた原因になっていると思います。

ですから、今の医療では、色々な症状の背景にあるものを別々なものとして捉えてしまうことが、
根本的な問題解決から遠ざかっている要因だと思います。
うつ病一つをとってみても、何が原因で起きてきたのかということを遡っていくことが大切です。
どのあたりから心の組み違いが起き、バランスが崩れ、現在に至っているのかということを観ていき、
その原因を捉えることが根本的な治癒、その問題を解決することにつながるのだと捉えています。

家庭内のトラブルや人間関係を観ていった時に、
結果として引きこもりの人がいたり、引きこもりがうつ病になっていったり、
それがさらに深刻になって大きな問題を引き起こしている場合もあります。
そして、当然そこには心の仕組みの方程式があるのです。

例えば、家族間の心の組み合わせによって、
そこにはいつも同じような結果を引き起こす仕組みがあります。
その仕組みの中でいくら話し合い、いくら悩んでも、
原因を起こしている仕組みが理解されなければ、
根本的な問題解決にはならないということがわかってきました。

そこで、客観的に自分の姿を捉えるために環境を変えるということです。
環境が変わると、過去の自分がいたところを客観的に観ることが出来ます。
ですから、ここでは冷静に、過去や現在の自分を振り返る作業が可能です。
過去の状態の自分を、今の自分が振り返るということです。

当然環境が変わっても、その人の心の癖というのは日常の生活の中に出てきます。
私の姿勢としては頻繁にカウンセリングや面談を行うのではなく、
その人を眺めるというスタンスをとっています。
大体最初の1週間くらいは何も声かけをしないで、眺めているわけです。

そうすると、その人はここの色々な人たちと接する中で心の癖を出していきます。
私はそういったことに対して、その人の心の傾向を観ていきます。
そのことによって、その人にはどのような心の癖があり、
どのような心の偏りによって今の問題に行き着いているのかということを捉えていきます。

そういう作業を最初の1週間くらいしていきます。
その後は1週間から10日くらいの単位で面談をしながら、
こちらから観える情報を本人に伝えていくという作業をするわけです。

初めてここを訪れた時には、今までの環境から来るその人の心の癖がありますが、
1週間経てばある程度変わります。
その変わった心にさらに情報を提供しながら視点を切り替えていく、ということを行っていきます。

よくあるのは、今までの環境でついた癖、心の状態から考え、
「こういった環境でやっていけるのだろうか。
ここで心がパニックになった時にどうしたらいいのだろうか」と最初に考えてしまうことです。
しかし、それは今までの環境で起きてきたことを元にして、本人は不安になっているのです。

ところが、ここでの新しい環境で1日経てば、1日分違う人がいるわけです。
1週間経てば1週間分違う人がいます。
環境が変わって、今まで観えていなかった新しい情報をもらうわけですから、
そこでは考えがもう既に変わっているわけです。
ですから、「1日経ってから考えましょう。1週間経ってから考えましょう。
そして、1ヶ月経ってから考えましょう」と伝えます。

そうやって、今の心で未来について考えないということです。
常にその時の材料でその時の自分の心を捉えていくことが大切です。
それをここでは「現場合わせ」と言います。
そういった捉え方を勧め、新しい自分を見出していくという作業をしていきます。

癖で悲観的に捉える人に対しては、ポジティブに捉えられるような代替案を提供していきます。
逆に、楽観的に捉える人に対しては、慎重にものを捉えるようアドバイスしていきます。

さらに、私が代替案を提供するだけではなく、
ここには色々な人たちがいることによって、色々なものの捉え方があるわけです。
また、その人と同じようなトラブルを持っているケア滞在者もいます。
そういった人たちの姿勢に出会うことにより、悲観的に自分と重ね合わせるのではなく、
他者の客観的な状態を見て自分と照らし合わせ、
自分の状態を判断するのに役立てることが出来るのです。

ここでは一緒に生活しながら、みんながお互いを見合い、心を許し合い、自分を表現していきます。
さらに、色々な他者からの考え方をもらいながら、多角的な考え方を育てていくことが出来ます。
こういった取り組みは、一般医療の中ではなかなか難しいですね。

例えば一般医療は産業ですので、仕組みとして時間的な問題もありますし、
共に暮らすということも難しいものです。
しかし、例えば家族からもっと詳しい情報を聞き、その人の心のルーツや歩みを体系的に理解し、
アドバイスを提供するということは出来るのではないでしょうか。

それから、ただ症状を薬で抑えてコントロールしていくということだけではなく、
言葉かけをすることによって、薬と同じような効果を提供することが可能です。
ここでしていることには、薬のような副作用がありません。
副作用があるとしたら、先程エリーの質問にあったように、
「責められている」と相手が感じるということですが、
これも受け取り方をしっかりすることによって、それは責められているのではなく、
「客観的な情報を得ている」と捉えることで解決出来ます。

当事者も、こちらからの情報提供を善意に受け取る姿勢が大切です。
悪意に受け取る人には治療的効果は得られません。
お互いの信頼関係をまずつくるということが大切で、そういったことにもここでは努めていますが、
あくまで善意が根本にあることが前提になります。

病気でも何でも「旬」というものがあるのですが、
エネルギーからすると自分が今トラブルを受ける必要がある人、
つまり、今の段階で自分に負荷をかける必要がある人はここで治るのは難しいです。

負荷がある程度かかってうつの状態に行き、そして今度はうつから学びの段階があります。
その学びの段階において、ここでの取り組みは有効だということです。
人生というものを通して色々な気づきを私たちは与えられているのですが、
気づく必要があるところまで負荷がかかっていかないと、私たちは気づけないのです。

そうすると、今問題を引き起こす段階になっている人に、いくらアドバイスをしても聞く耳を持ちません。
そういう人は自分流に走っていきます。
アルコールに依存している人に、「ダメだよ」といくら言ってみたところで、
それはその人の意志ですから、そういったエネルギーを消費するためには、
そのような行動をする必要があるのです。

そして、トラブルが起きて苦痛を感じ、学ぶ段階で初めて、自分を振り返ることが出来るものです。
そのタイミングで声かけをします。その声かけのタイミングが大切ですね。
治療的タイミングを失わないような注意が必要です。
それが遅れすぎてしまうと、回復に時間がかかります。早すぎると効果がありません。
そこを見極めて適確なる対処をすることが大切です。

先程も触れましたが、問題が起きるということは、
まわりの環境と本人の内面の両方を表現しているわけですから、
その原因を知って解決するためには、その症状は起きなければなりません。

つまり、問題事というのは問題事ではなく、
問題事を引き起こす原因があり、それを解決するための糸口だということです。
そういう意味で捉えると、問題事は良いことになります。

世の中には沢山の問題事がありトラブルが沢山起きていますが、
それは物事を改善するための大切な要因であって、
そこに気づいて学習していけば、どんなことでも前向きに捉えることが出来ます。
それは病気でも社会の問題であっても同じことです。

医療の現場では医療だけを考え、
症状的な病気を治すということだけに偏っていると思うのですが、
うつ病はこの世界にある色々な問題事を解決するための大きな糸口になると考えています。
元々私はうつ病を解決するためではなく、30年前から家庭内のトラブルの相談に乗り、
世の中の問題事の解決の糸口のために、こういった考え方を元にした暮らしを始めました。

それともう一つ、病気は治療することだけが良いばかりではありません。
病気の元になる原因があるから病気が起きるのであり、
その場合、病気は起きなければいけないこともあるのです。
問題事を解決するためには、病気を起こすことによって、
そのことをきっかけに学ぶことが必要となるのです。

まだそのことに気づいていないのに症状だけを治すということは、
表面の問題だけを解決することになります。
そうすると問題の種は常に残るわけです。
これは宗教でも医療でも、裁判のような訴訟でもそうですが、
根本的な原因を解決せず現象だけを解決するだけでは、また新たな問題の種を残すことになります。
これは全てのことに共通することでもあります。

そうすると、社会には問題事がいつまでも蔓延し、
良い世の中がいつまでも来ないということになります。
お医者さんは病気によって自分たちの生活が維持され、医療産業が支えられていきます。
宗教も人々が迷うことによって巨大な組織が成立し、経済が賄われています。
さらに、人のトラブルや対立が訴訟産業をつくり、経済的効果がもたらされていきます。
問題事は経済の維持のためにあり、あり続けることが大切になり、
問題を生産し続ける世界がそこにはあり続けていきます。

こういったことは、根本的な人間の質、社会を改善する窓口だと捉えていけば、
家庭内の問題も、医療や宗教など色々な問題をホリスティックに捉えていくことで、
そういった問題事の基本が見えてきます。

その中の一つとして、今回うつ病を取り上げているだけのことです。
ですから、うつ病の解決には全てのことが関係しているということです。
問題の一つとしてのうつ病から、社会病理が観えてきたのです。

例えば大学の学問でも「○○学部」という区別をしていますが、
医療だけで物事を観ていていいのでしょうか。
教育だけでものを観ていっていいのでしょうか。
政治だけでものを捉えていいのでしょうか。

総合的にこの世界を捉え、人とは何であるのか、自分とは何であるのか、
生きている目的は何であるのか、人はなぜ生まれてきて何の目的で生き、どう死んでいくのか、
全てにつなげて観ていくことだと思っています。
そういった体験から学んでいくことにより、木の花の取り組みが生まれてきたのです。

エリー:
歴史的に言えばそれが哲学や宗教学だと捉えられ、学問の基礎であったと思うのですが、
同時に物理学が学問の基礎となっているという経緯もあります。
確かにいさどんがおっしゃったような、
人が生きる目的を考えることが学問の一番の基本になければ、
その上に重ねた物質的に偏った学問というのは、あまり意味がないのだと思います。

いさどん:
そうですね。学問というのは本来、
人が豊かに幸せに暮らし、良い社会をつくっていくためにあると思うのです。
しかし、社会の中にある色々な要素、例えば携帯電話にしろ、アルコールにしろ、
食べることでも、大学に行くことでもそうですが、
そういったものにコントロールされ自分で使い分けられないような状態になれば害が出るわけですね。
学問というものが本当の意味で、人々に良い人生をもたらすものになっているかどうかは、
疑問のところがありますね。

便利な携帯でもアルコールでも、依存症にもなります。
お金でも、お金を使っているのではなく、お金に使われているような人も沢山います。
そう考えますと、バランス良く自分に有益に使える人、
それが有益に浸透している社会が今後求められるということですね。
問題事が発生することにより、
企業などはそれをビジネスチャンスとして企業活動に利用していますが、
そういったことでいいのかということが問われてくると思います。

ですから、自分の前に現れてくる出来事を結果から原因、結果から原因と遡っていき、
最後に、私たちは何のためにこういった世界にいて、
何のために生きているのかという元のところへたどりつけば、
私たちが存在している目的により近付けるはずです。
そして、みんなで手を結べる社会が出来るはずだと思っています。

それをバラバラに捉えている状態では社会を混乱させ、
不安の種を飯の種にしていくような悪意的な社会が生まれます。
みんなが富を得て幸せを獲得しようとしているのですが、
人々の意志がバラバラになっているから対立や競争を生み、
そこで獲得された富がまた競争を生むという悪循環になっているのです。
そうやって、雪だるま式に原因をつくっては、GNPというカウントになって標示されているのです。

物質的なものを求めることに偏り、精神性がバランスを欠き、
社会に混乱をもたらすことでさえ豊かさであると錯覚した社会が出来てくるのです。
病気もそこの中の一つとして発生したものです。
私の捉え方から言えば、病気は心のボタンの掛け違いのようなものです。
自分の中から湧いてくる欲望の持ち方、その叶え方の間違いが、
病気を含めた全ての問題事を発生させていると捉えています。

エリー:
私はここに出会い救われた一人ですが、
世の中には医療関係者も含め、もっとどつぼにはまっている人が沢山いますからね。

いさどん:
もっと気楽に、「心のボタンの掛け違いだよ!」と笑いながら、
「バカバカしいことをやっていたね」と気づき、健全な状態に戻り、
真実に目覚めることが出来ればいいですよね。
そういった客観的な視点があれば、問題事から学び成長し、楽しめるものなのです。
人類も、もうすぐそういった気づきに出会う時が来るでしょう。
その時を楽しみに、この役割を果たしていきましょう。