今、高齢者の栄養状態が悪化しているとして、厚生労働省が13年ぶりに国民の健康作りの指針を見直し、高齢者が肉などのたんぱく質をしっかり食べるようにと指導に乗り出しています。
はてさて、それではお肉を食べて元気になったら人は幸せになるのか?!いさどん、大いに語ります!
*高齢者への肉食のすすめについては、下記番組にて特集されています。
クローズアップ現代 11月12日放送
「高齢者こそ肉を?!〜見過ごされる高齢者の栄養失調〜」
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ともこ:
国が65歳以上の高齢者に肉食を勧めるのは、年を取ると自然と筋力や免疫力が落ちるけど、肉食はそれを補うことができる、というのが理由のようです。
いさどん:
実際に、沖縄では豚肉を食べるよね。豚肉はビタミンBが豊富で、沖縄では長寿の後押しになっていると言われている。肉と野菜のバランスはとる必要があるけどね。
一時期、肉を食べることが、高齢者にとっては悪のように言われていた時期があったでしょ。それが今、戦後間もない時代よりも高齢者のカロリー摂取量は下がっていて、5人に1人が栄養失調気味で問題が起きている、という話があるんだよ。
うちでも食養生(生野菜と玄米が中心で油や砂糖を使わない食事をとる)に取り組む人がいるけど、精神が伴わない食養生は栄養失調気味になる場合がある。マクロビのような健康法でも、かえって気力が生まれないこともあるから、肉食を一概に否定することはできないね。
僕は、もう少し違う切り口から話したいと思います。
年を取ると、脂っこいものやカロリーが高いものを自然と受け付けなくなるでしょう。人間の一生の中で、青年期が春だとしたら夏は壮年期、秋は初老、そして冬は枯れていく。その年代にふさわしい食事というのがあるんだよ。
日本人は今、栄養過多になっているよね。それがいろいろな問題を引き起こしている。過去になぜ肉食が悪のように言われたのかというと、そこには実際に問題があったから。肉食をすることによる利点だけを取り上げて肉食を勧めるのは、過度に肉食を悪者扱いした結果、その反動で過度にそれを復活させようとしているという、言わば躁鬱の人に薬をやっているような、とても安易な発想だね。健康のことを考えたら、食事だけでなく運動とのバランスも必要だし、もっとも大切なのは心のバランスなんだよ。
人は本来、年を取るにしたがって、いい意味で欲がなくなって、体と共に枯れていくもの。昔ゲートボールが流行り出した時に、対戦者のプレイをわざと邪魔して競うようなゲームだったために、心ができていない人たちがやるとケンカが起きて、確か死亡事故まであったんだよ。それでグラウンドゴルフというものに変わった。
老人ホームが始まり出したころには、男女が出会って老いらくの恋が流行って、判断力のないお年寄りたちが結婚すると言い出して一族の問題になったり、嫉妬から殺人事件まで起きたりして、それはもういろんな問題があった。それも、心ができていない人が集まるとそうなるんだよ。若い人に恋愛感情を抱いたりね。それがはたして微笑ましいことなのかどうか。
心を作らずただお年寄りの体だけを健康にしていくと、きっとこれまでとは別の、いろいろな問題が起きてくるだろうと思う。肉食によって生命エネルギーが供給されれば、それはどこかに使われることになる。心が伴えば社会に貢献するエネルギーにもなるけれど、心ができていなければ欲望にもなっていく。それが何をもたらすかは、実際にいってみないとわからないね。少子高齢化の中でお年寄りがいつまでも現役でいることを良いこととして、それが社会貢献につながればいい社会になる。これは大いなる実験だよね。
まり姉:
若い世代が新しい社会を創るのを邪魔することにもなるかもしれない。
いさどん:
そうだね。若い人にいつまでもバトンタッチしないのを良しとするかどうか。社会は、年寄りはお金を持っているからそれを利用するためにエネルギッシュにした方がいいと、利用することを考えている。
しかし逆に、時代ごとの問題もあってね、それは時代ごとに整理されて終焉を迎えないといけないものでしょう。だけど年寄りが肉体的に偏って元気でいるということは、その問題も一緒に復活することにもなるのだから、そこの心のところも考えていかないといけないよ。
ともこ:
淘汰されないわけだね。
いさどん:
そうそう。心の教育がされて、そして健康で長生きするならば、良いことだろうと思うんだよ。それが今の医療のように、病気になった心の原因を観ないでただ症状だけを治していくと、結局は病気の種類が変わるだけで、病気になり続ける人間が社会に蔓延するんだよ。そして莫大な医療が必要になり、問題も蔓延する社会ができる。その轍をもう一度踏むのか、ということを、このことから僕は感じるんだよ。
まり姉:
お年寄りの栄養不足は、肉不足だけが原因じゃないよね。一人暮らしの人なんかは、わざわざしっかり食事を作って食べる気がしないということもあると思う。
いさどん:
食べる意欲がないということは、生きる気力もなくなってるということ。その人にただ肉を食べさせたらものごとが解決するのかというと、それは安易な発想だと思うけどね。それは食生活ではなく、心の問題だよね。
あき:
冒険家の三浦雄一郎さんは80過ぎても肉食で生き生きしてる、という話があったけど、彼は目的を持って生きている人。心が生き生きしてるから、何を食べても生き生きしてる。
ともこ:
「心の教育」が必要ってこと?
いさどん:
いやいや、僕は教育をすればいいということを言いたいのではなくて、それは無理だという話なのよ(笑)。
みんな:
そうだよね(笑)。
いさどん:
そんなことは無理だよ。肉だって、食べたいと思っていない人たちに食べさせたら無理強いになって、そこにさらに矛盾が起きるよ、ということも言っているのよ。
ともこ:
肉は硬いから食べたくないというお年寄りたちに、やわらかくする調理法を教えたりしてね。
あき:
うちの母親でも、「肉がいい」と聞くとすぐに「肉がいいんだって」っていうふうになっちゃって、何でそんなに単純なのって思う。
いさどん:
その部分だけを切り取って見てるからね。ライオンがシマウマを食べるのを見て、可哀そうだからライオンとシマウマを仲良くさせよう、と言っているようなものだよ。
肉食を推進するメディアも、政府の方針も、何か食肉業界の息がかかっているのだろうね。
ともこ:
お年寄りの5人に1人が栄養失調という話も、日常問題なく過ごしている人の血液を検査して、何々の値が低いからあなたは栄養失調ですよ、と言っている。だけど年と共に値が低くなることが自然な流れだとしたら、何を持って栄養失調としてるのかもよくわからない。これは、人間の生き方とか老い方についての話だよね。
いさどん:
そこなのよ。何でも長生きすればいいとか、健康であればいいということなんだろうか。僕は、老いに相応しい生き方、そして相応しい終末の迎え方というのがあると思うのよ。教科書があるわけじゃない。人それぞれに、いい終末だったね、という人生の終わり方があると思うのよ。
まり姉:
三浦雄一郎さんはあれで幸せなわけだよね。
いさどん:
そうだね。彼は彼でいいんだよ。それを、ああいう風になろう、と右へならえでやろうとするのは乱暴だよね。
ともこ:
うちのおばあちゃんは、もういつ死んでもいいってよく言ってるよ。
いさどん:
いつ死んでもいい、というのは、ある意味完熟した人の話でしょ。それはどちらかと言うと、モデル的なお年寄りの話だよね。でも世の中には、不幸な人もいっぱいいるわけだよ。そうすると中には、早く死にたいという人もいるわけだよ。そういう人にさらに肉を食べさせて、ただ長生きさせるのかね。難しい問題だよね。
人はある程度の年齢が来たら面談をして区切りをつけて、もう医療は施さずに、枯れるのを待つというのはどうだろうね。
ともこ:
そうだね。世の中の価値観は、死ぬのはいけないとか、病気にならない方がいいということが前提になってるね。
いさどん:
いや、元気でいるのはいいことなんだけど、心も健全で元気であるべきだと思うんだよ。
で、本日は宇宙視点の話ですから。これは食の問題じゃなくて、命の問題なんですよ。寿命を長くすることを良しとする風潮があるでしょう。それは、死というものの理解が十分に得られていないから、死を恐怖に感じたり、忌み嫌って遠ざけようとするんだよ。
死というものは、生の終点でもあるけど、新しい生の出発点でもあるのだから、この終末の迎え方はすごく大事なんだよ。肉食で健康になって医療も少なくなるのなら、それはそれで良しとして、同時に、死とは何であるかを知り、受け入れていくことが必要なんだよ。なぜかというと、必ず人は死ぬからさ。
みんな:
そうだよね~!(笑)
いさどん:
これは百発百中、外れる人はいない。そしてこれは年寄りだけの話じゃなくて、若い人だって、生きているということは常に死と隣り合わせということなんだよ。だから、若いころからそういう教育をしていくべきなんだよ。70、80になってから教育って言ったって難しいでしょう。だからこそ、若い頃から生と死に対する概念をセットにして教育していって、その結果、不自然なエネルギーを使わない、自然に冬を迎えていける心が育つのだろうと思うんだよ。
これまで、生に対する教育はされてきたかもしれない。けれど、死に対する教育はされてこなかったんだよ。本来は宗教がそれをするべきだったんだけれど、宗教は生きている人間をいかに組織化してお布施をまき上げるかというご利益宗教になってしまったからね。自然に枯れて死を迎えるという、死へのソフトランディングは語られてこなかったんだよ。そんなアンバランスな心の状態では食欲もわかないから、食べないお年寄りがいる。それも、栄養失調のお年寄りたちを作っている原因になってるんじゃないかと思うんだよ。希望が湧かなければ食欲も湧かないからね。
今年は天候がおかしかったから、紅葉が美しくない。日光でも、突然葉っぱに黒い斑点ができて、紅葉する前に落ちちゃったんだって。どうもそれと同じことが、人間にも起きるんじゃないかと思うんだよ。
あき:
きれいに紅葉して、美しく散っていくのではなく。枯れまいとするものだから。
いさどん:
きれいにならないで、その前にボソッと散る。
ともこ:
自然からしたら、枯れなきゃいけないんだもんね。
いさどん:
だから僕は、元気で長生きということの中に、美しく散っていくことを大事にしなければいけないと思うんだよ。それが、その人の価値を高める。長生きしたところで見苦しく散っていったら、次にまたそこからスタートしなきゃいけない。完熟死やピンピンコロリのように、美しく散ることができれば、少子高齢化の歯止めにもなるよ。早く死ねということではなく、美しく散ってもらいたいのよ。
まり姉:
枯れるしか選択肢がなかった時代とは違って、今は枯れないで済むような技術や誘惑が山ほどあるでしょう。その中で枯れるという選択をするのは、意志の力がいるよ。
いさどん:
いつまでも元気でいられるという錯覚を持っていると、あれもしたいこれもしたい、まだやり残しがあると言って死んでいくことになる。それは仏としてはあまり美しくない姿だね。
ともこ:
肉を食べるよりも、死の意味やこの世界の真理を知ることの方が、本当の意味で人が元気になるんじゃないの。
あき:
何となくみんな根底に不安があるよね。病気になりたくないとか。
いさどん:
病気というよりも、死に対するイメージが良くないんだろうね。
ともこ:
良い老い方とは何なのかという話を聞きたい人はたくさんいると思うんだけど、そういう話ってあまりない。テレビから流れてくる情報は、もっと肉を食べましょうとかいうことばかりで、じゃあとりあえず食べてみるかってことになる。
まり姉:
自分が10代のころを思い返してみると、テレビから流れてくる情報を見てなんかおかしいと思ってたけど、何がおかしいかわからなくてもやもやしてた。
いさどん:
それは多くの人に共通してるよね。でも「多く」と言っても3分の1もいないかもしれない。ほとんどの人はおつむを使ってないよ。直感が働いていない。テレビなんてノーチェックで一方通行に情報が入ってくる。
まり姉:
例えば肉の話でも、何となくもやもやしていたものが、そうか、業界が絡んでいたのかということがわかるとスッキリする。
いさどん:
それも、業界が人々をマインドコントロールしているんだ、と言うと、今度はその反対にマインドコントロールする人が出てくるんだよ。
まり姉:
両極端のものがあるおかげで学べるんじゃないの?
いさどん:
人間が安定していなければ、極端から極端に振られるだけだよ。しまいには戦争になるよ。だからお釈迦様は中庸を行きなさいと説いたんだよ。
ともこ:
それって、実はみんなの中にあるものだよね。
いさどん:
それは誰の中にもあるよ。陰も陽も中庸も、一人の人の中にも全てがある。ただ、魂が刺激を求めていて、その求める方向が陰を向いているのか陽を向いているのか、それとも刺激じゃなく冷静に情報としてそれを求めているのか、という違いがあるだけのこと。
世界観が大きくなればなるほど、それを全て情報として取り込んで、観て判断するから、振られることはなくなるね。大人サミットで言う「大人」の視点に立つということだよ。視野が狭ければ狭いほど情報に振り回されることになる。その人の心のクセに応じて、右に振られる人もいれば左に振られる人もいる。或いはどっちも違うと真ん中に居座る者もいるけど、それは中庸ではなく単なる頑固だったりする。
大事なのは、カラクリを解き明かすことだよ。情報というのは人を惑わす材料でもあるんだよ。心が不健全だと、偏った方に見える。しかし我々の魂には真実が織り込まれているのだから、そこから湧き出てくる判断ができるはずなんだ。
霊魂の世界があると知って、死ぬのが俄然楽しみになりました。
願いは、いよいよ娑婆卒業というとき
昏睡状態とか麻酔で寝ているのでなく、
「あ!じいじが迎えに来てくれた!
わっ死んだ愛犬も来た!会いたかった~」
ばたっ。
という感じがいいなぁ と。