課題に出会うことは、その課題を超えて新たな可能性に出会うということであり、それは本来喜ばしいことだ。しかし、それまでに持っていた概念にとらわれていては、その課題は常に目の前にある障害物にしか見えない。
一年に四季があるように、人間が生きていく上で新たな発想が芽生え、伸びていく時がある。その成長が旺盛になり物事がどんどん様変わりしていく。そしてそれが熟して収穫をする秋を迎え、次の課題のための熟成の冬を迎える。そして、新たな課題に出会い、自らの新たな可能性の春に出会う。人間の生の一年の中にも四季のリズムがあり、それは一生の中にも同じように刻まれている。
大局的にとらえれば、どのような時も前向きに生を全うすることができるが、大局は人間の思考の中にあるのではなく、宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされている。それを人間一人ひとりが命の営みの中で受け取り、思考に転換し、自らの生の中に表現していく仕組みになっている。
我々の命は自然そのものであり、さらに自然の奥にある宇宙秩序そのものであり、自然の奥にある自然を法則化している天の意志・「天然」そのものである。それを理解するためには大局的にものをとらえないと、この世界の事象の奥にある本当を観ることはできない。
だから、人間が考える思考と、生命として生態系につなぐ自然と、さらにその自然を保つための宇宙の法則・天然、その3つの視点があってこそ、人間が生を受けてきた目的や役割、そしてこの地に降り立った意志を満たすことができる。
個の気付きがなされないことには人類の目的も達成されない。目的が果たされないことは本来与えられた役割も果たさないことであり、それは本来の道から外れることであり、人間の存在は天の意志からも、自然の法則からも、自らの目的からも外れることになる。
生きることは命を紡ぐことであるが、それは生涯を通して続くことであり、かつ我々は生死を超えた魂の存在である限り、それはあり続けることなのだ。その目的は、この世界を現象化している意志に目覚めることである。
その目覚めのための気付きを一つひとつ得ていくために、我々は日々の中で課題をもらう。それと向き合い、学んでいくのが本来の人生の姿である。人生の四季を経て年輪を刻む大樹となるように、あるいはその時々に応じて節をもらい育っていく竹のように、育っていくために人生の課題があるとしたならば、それは喜ばしく希望あることである。
だから、日々、瞬間瞬間、それに向き合い、味わい、そして伸びる時には思いっきり伸ばし、それを楽しんでいけばいい。
そのために、人間には考える力が与えられている。だから、よく考え、そしてよく観て、育っていく。それを怠るものは目覚めが遠くなる。怠ることの原因として、己にとらわれている。それでは新たな世界には出会えない。
常に今と出会い、いただいていく姿勢がそこには不可欠だ。その姿勢こそが道の扉を常に開くことになる。