木の花ファミリーでは、月に一度お誕生日会があります。今月は、いさどんのアイデアを元にして創った木の花劇団のオリジナル劇『貧乏神と疫病神』が上演されました。
『貧乏神と疫病神』
うつ病を治すため、木の花ファミリーに「ケア滞在」をしにやって来た健一。実は健一には貧乏神と疫病神がついており、そのことを知った健一は、ある決心をして貧乏神と疫病神に会いに行きます ――――
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この日は、うつ病と統合失調症を抱えて以前木の花にケア滞在をしていたMくんが、「もう一度木の花で病気の克服に挑戦したい」と再びケア滞在をスタートさせた日でもありました。
そしてその夜の大人ミーティングで、メンバーのくにさんが大事なことをおろそかにしていたという心のシェアをした後に、いさどんは次のように語りました。
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今日のお誕生日会では、木の花劇団が「貧乏神と厄病神」の演劇を行いました。これは、以前から僕のイメージの世界にある真実です。それを何かの形で表現することが出来たらと思っていました。
今回こういった形で提案してそれが実現したのですが、この演劇を定番のものとしていきながら、観ている人にとって日常の中に落としてもらえるようなものにしていきたいと思っています。
ここではケア滞在される人の心の問題を取り上げ、それをあのような形で紐解き表現したのですが、これは大きな枠で捉えれば、国の問題、地球規模の問題であり、人間が持っている本質を個人という一番身近なところで捉えたものです。そして、今日からMくんがケア滞在をスタートしたように、ここには難しい問題を解決できる素養があるのです。
Mくんは、「僕は木の花であれば改善することができると思います」と言っていますが、医者には「あなたの病気は治らないので、これから一生薬を飲み続けていくのですよ」と言われたそうです。それは現代医療の視点から見るとその通りなのですが、そうではない視点、つまり元々人間は、天から降りてきた段階では完全なもののはずなのです。しかし、地上世界で色々なことに囚われていった結果、それが染みついて取れない状態になっていくのです。
今日、ヤマギシのFさんとTさんと、2時間ばかり話したのですが、彼らは長年の姿勢が染みついてしまっています。僕はこれと同じことをケアの人や準ケアの人たち、あるいは自らを立て直さないといけない人にも感じています。
僕はそういった人たちと日記でやりとりをしているのですが、良い感じになったとしても、人間は面白いもので、自らを越えていくところではすごく抵抗するのです。彼らはそこを越えていくと自らを失ってしまうと感じるほど、自分自身を所有しています。ヤマギシの人たちでも、問題を抱えている人たちでもMくんもそうですが、自らを大事にする心と自らに執着する余分な心が自分に何をもたらすのか、そのギャップに気が付かないといけないと思うのです。
執着がなくなれば、そこを越えることは簡単な話で、今まででも越えてきたのですからそこを大切にしていけばいいと思うのです。しかし、人というのは本質のところへ行くと、自らに囚われ、それを失ったら自分らしくなくなると思ってしまうのです。囚われの自分を持っていて、そのしょうもない自分が自分らしいと思っているようなところがあるのです。
今日、くにさんが「また同じ心が出ました」とシェアした話も同じことです。結局、一番ポイントのところへ行くと、自らを抱え込んでそこから抜け出そうとしない。ですから、そういった段階へ至ると、同じことを繰り返すのです。
ヤマギシに対しても、どれほど賢明な話を今までしてきたのでしょうか。そしてそれを受けて、Fさんも「ここまで言ってくれる人は他にはいない」と思って今日ここに来たのですが、結果として彼の姿勢を問うと、彼も自らのこととなるとそこを越えていこうとしないのです。
昨日の大人会議で、Tさんは「ファミリーになる」と言っていましたが、それがどういう意味なのかよくわかりません。彼女流のスタンスでそういった発言をしているのだと感じ、僕も疑心暗鬼の状態なのです。今日面談の時にTさんは、「来月は10日間来ます」と言っていましたが、その意図もよくわかりません。そういうふうに、人間はとても中途半端な状態で自らを守ろうとするのです。
(ヤマギシ会の創設者である)山岸巳代蔵さんは、心に濁りがあって駆け引きがあり、人間としてはそれほど美しい人ではなかったと思います。ただ、天とつながっていたことは確かでしょう。あとは時代が時代でしたから、方向性だけつけて後はヤマギシの村人に委ねたのです。その歴史の中で、後の人々は一番元の揺るぎなきものから外れてしまったのでしょう。だから、今は元が何であったのかを失ってしまっている状態なのです。
僕は山岸さんの元の志を復活させようという想いで、これまでヤマギシに関わってきました。それは、ここにいる皆に今、伝えていることと同じで、ヤマギシの人たちが目覚めて、山岸さんの精神を直感で継承していく。木の花の皆が僕にずっと頼りきりになるのではなく、ひとりひとりが直感に目覚め、僕がひいた道をひとりひとりが自らの意志で歩んでいくことと同じなのです。
僕は演劇の中で大神様役をやらせてもらいましたが、天から人間の世界を観て、「目覚めて上がってきなさい。そのように仕掛けはしてあるぞ」と伝えています。しかし、人間はそのことになかなか気が付きません。そして、上に上がってくる道があるにもかかわらず、下に落ちていく者がいるのです。
僕はそういった者がいることに対し呆れて、「好きにすればいい」という心境でもあります。ただ、ハードルは越えられるものですから、貧乏神と厄病神と仲良くしていた健一がそうでない健一に変身したように、それを誰にもやってもらいたいとも思っています。
事実、ここにいる皆は、ここの生活が何であるかを知っていると思うのです。外でここをおとしめようとしている人たちや、その情報を受けて週刊誌が書いた内容を鵜呑みにする人たちの現象とは違うものが、ここにはあります。それは簡単な言い方をすれば、全く別世界がここに表現されているのです。
しかし、「捉え方によっては全く別世界なのです」と伝えてもそれは通用しません。なぜかと言うと、人が伝えようとする心にのっとって聞こうとする心が、人にはなかなかないからです。つまり、自らの癖でしか受け取らないからです。人間はそういった性質を持っていて、頑なに自らを守ろうとするところがあるのです。
そういった自分に囚われている限り、人間は自らを超えて生きることができません。ここが「菩薩の里」という看板を揚げ、そこが越えられないようなことなら、ヤマギシの二の舞です。しかし、我々はヤマギシを知って、さらに世の中の色々な矛盾を知り、そこを越えていって、世の中が開かれるためにこういった生き方をしているのです。
今のくにさんの話でも他の人のことでもそうですが、自らを越えていくために人生をもらい、ましてやここの人として世の中の為に生きていることを考えたら、ここの人である自覚が足らないと僕は思うのです。僕は色々なケースを通じて同じことを語ってきているのですが、今日もそういったことについて、ヤマギシは看板を掛け違えて来たのか、それとも看板を忘れて全く別世界を生き世間以下になっているのか、と伝えました。
そういったことを考えると、木の花でも、いさどんがいなくなったらヤマギシ化する可能性があるのです。ただし、その前例があってそれを理解しているからこそ、我々はそうならない道を歩んでいるのです。ヤマギシがあるのも我々のためでもあるし、我々のためということは世の中のためでもあるのです。
今、ここの真実とは全く違うような表現でここの存在が社会に出されたことは、観方によっては我々を鍛えてくれています。そして、それだけ世の中に知らしめられたことによって、我々を鍛えてくれたあかつきに、「真実は何であるのか」をいつか世の中に示す下地ができたということでもあるのです。
先日、テレビの報道特集で、松本サリン事件が取り上げられていました。その中で河野さんのことが出ていたのですが、当時の警察は彼が犯人だと決めつけていたのです。しかし、今になって長野県警の責任者が捜査のずさんさを語っていました。結果、真実が明らかにされているわけです。ところが、彼は一時本当に犯人のように扱われていました。
我々も、ある意味今は、それこそ悪であり、犯罪者扱いです。しかし、実際ここで生活していれば、真実が何であるのかはわかることです。それは、我々が一番よく知っています。
その匂いを嗅ぎつける人を我々は安易に求めているわけではありませんが、Aさんのようにここのことを信頼して支援し続けてくださる方もいます。そうやって真実を観ようとする人はいるのです。我々が真実であることを確信していたら、そういった人たちは我々を社会のバッシングから守るために必ず存在してくれるのです。
人々の心の中には、人としての地上目線や、人智でものを考える価値観が当然あるのですが、人は元々天から降りてきた真理の元にある者です。そこに意識がつながっている者たちは、そこからここが本物であってほしいと願う心はあるわけです。そうしたら、我々はそれを受けて生きていくことが大切なのであり、中途半端に生きていたら意味がないのです。だからこそ、とことんやりきったときに、「私たちにはできないことをやってくれているのだ」といずれ理解され、ここが木の花(個の花)を咲かせることになるのです。
最も大切なことは、我々の心の中にある真実です。これは走馬灯のように思考が巡って忘れ去られるものではなく、真実としてあり続けるものなのです。そのもとに自らがあるとして、確固たる覚悟を持って日々を生きていったら、くにさんのように「また同じ心が出ました」と毎回似たような振り返りをすることはなくなるはずです。
その心に楔を打つ覚悟を持ってほしいと思います。そうやってひとりひとりが自らに楔を打っていったら、いさどんの力はいらないはずなのです。
今日僕は演劇の中で、「あってあるもの、なきてなきもの」という天の存在を演じましたが、それは僕が演じたようなフレンドリーな存在ではありませんよ(笑)。カタカムナ的に言えば、潜象界の存在なのですから、物理性なのです。しかし、それは本当に確固たるものです。その確固たるものが、楔を打つことによって自らの中に揺るぎのない形で現れてくるのです。
そうしたら、今日の大神様の最後のセリフ(『われわれ神とて道を行く者。神とて成長するものなのじゃ。その気になりさえすれば、道はいつでも誰にでも用意されておる。さぁ、二人ともわしと共に参るか?』)のように、皆でそういった心を持って生きていきましょう。そうすると、コメントは人からもらわなくても、ひとりひとり自らの中から湧き出てくるようになります。そうしたら、ここが過去の宗教や御利益をうたっているような団体や、ヤマギシのような存在になることはありません。時代がこれから道を開いていくときに、ふさわしい人々が集う場になっていきます。
これをユートピアと呼ぶのか、菩薩の里と呼ぶのか、いずれにせよ名前は何であれ、ここが掲げている看板通りの場所になっていくことが大切なのです。
そのためには、ひとりひとりが今日の自らの思考と付き合ってみて、それが何であったのかを自分でよく認識し、それを自由自在に自己コントロールできる人になっていくことです。それは強制するものではなく、自由自在に使い分け、そうやって自らの価値を高めていくことができるのです。そして、それを人様に見てもらって、世に示し、我々の役割を果たしていくことになるのです。
僕がこうやって皆に話し、皆がまた僕についていこうとなったら、これは元の木阿弥で何にもなりません。「私の魂はそれを目指して、このような特別な道を歩んでいるのです。あなたの意志に共鳴して、私は自立してこの道を歩んでいきます」とひとりひとりが自覚するきっかけに、くにさんの話も生かしてもらえたらいいと思います。このように自らにけじめある楔を打つ覚悟ができたときに、くにさんのような心のシェアはしなくてもよくなるのです。
今日の演劇のように、劇を通して、それからその背景にあるこの生活を通して、世の中の姿勢を問うていく役割ができます。今日の「貧乏神と厄病神」の劇も、一つの定番劇として今後もやり続けながら、我々の日常生活の姿勢をあの中に滲み出させることが大切だと思うのです。そして、ここだけではなく、色々なところであの劇を見てもらいながら、見た人たちが自らの日常を振り返るきっかけになるような実感のこもったものにこれから仕上げていきたいと思っています。
世の中を見ていると、先日放送されたNHKスペシャル「エネルギーの奔流」でも描かれているように、人間の愚かしさや馬鹿馬鹿しさにあふれています。今日、ヤマギシの調正所の話を聞いていても、本当に馬鹿馬鹿しいと思うのです。ですから、そういったものはたちどころに捨てて、本当に自らの魂が「これだ!」と思える生き方をしなければいけません。そういった時代がすでに来ているのです。何かに執着して囚われていては、いずれ人間は地球に見限られてしまうでしょう。
僕は皆を激励しているわけでも、叱咤しているわけでもありません。ただ、目覚めてほしい。ここにいる人たちが目覚めていくことによって、世の中に新たな時代の生き方のモデルを示していきたいのです。
これは僕の道です。しかし本来、人間誰もが歩むべき道だと僕は考えています。