天然農法と性について語った「天然の意識で生きる」を大人ミーティングでメンバー全員でシェアした翌日の、いさどんとともこの会話です。
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いさどん:
心が整ってくると、睡眠時間が少なくてもいいという話があってね。肉体労働をする人はそういうわけにはいかないかもしれないけど、心が整うと、食べ物でも睡眠でも少なくてすむようになる。それは歳のことも関係しているかもしれないけど、若い人たちでもそれほど睡眠をとっていないような気がする。
ともちゃん:
特にここの人はね。私も、以前より睡眠時間が少なくても平気だね。
いさどん:
いつのことか覚えていないけど、一般社会で生活していた頃は、朝目が覚めると仕事に行かないといけないから、起きないといけなかった。目がなかなか開かなくて、すぐに起き上がれない頃もあった。でも、そういったことが不思議となくなって、面白いものだと思う。
ところで、昨日の話は何気なく出したけど、なかなかリアルな話だった。みんながそこに言及して話し合うのはどうかな、と思って聞いていた。こちらも、あえてそこに触れなかったけど、どうなのだろう?
たとえば、どこかの情報として本の内容を紹介するのと、その現実がリアルにありますよと話すのとでは、大分受け取り方が違うと思うんだよね。僕が思っているのは、いつかみんなが心の壁を越えて行くと、その世界は何でもないこととして存在するようになる。その心の壁を越えてしまうと、逆に不必要なものがいらなくなっていく。今の睡眠や食の話と同じようにね。欲求がなくなっていくんだよ。
そうすると、必要に応じてふさわしくそういったことがあり、不必要なことはいらなくもなる。そして、いらない人は全くいらなくなるということだけど、昨日のような情報が出されると、自分もその境地になってそれをしないといけない、という強迫観念を持ってしまう人も出てくるだろう。そういった心境の世界ではそのようなことがあるんだ、と切り離して考えるだけの冷静さが本当は必要なのだけど、人によっては自分をそこにあてはめて、「そんなことが自分にはできるのだろうか?」と思う人もいたのだろうと思うんだよ。
ともちゃん:
昨日ミーティング後にまっちゃんたちと話していたとき、そんな感じだったかも。「ああいう話を聞いても、体感としてわからないから、コメントもできないんだよな」と言っていた。
いさどん:
体感としてわからないからといって、そのようなことは「ではそれを体験してコメントします」というわけにはいかない。
ともちゃん:
それではいつまでたっても話ができないね。
いさどん:
体感としてわからなくてもそれがわかる者になることが大切だよ。天然農法の極意を表現できる者にならないと意味がないのと同じことで、そういった場に出会い表現できる者になったときに初めてその役割があるものなんだよ。もしくは、そういった場を創りだせる双方があって初めて、その場に出会える。
あのようなことは、捉え方によってはゴシップのネタとしていくらでも受け取られるからね。
ともちゃん:
そうだね、マインドコントロールと言われそうだし。
いさどん:
だから、当事者がどういった状態でいるかが大事なんだよ。
ともちゃん:
そう思った!昨日も、外の人に向けてだけじゃなくて、うちの中でも自分がああいう体験をしたことをみんなに伝えられることがきっと大事なんだと思った。でも、不十分だったなとミーティング後に思ったの。
いさどん:
それは、受け取る側が不十分だからだよ。しかし、次の次元の話を伝えるとしたら、受け取る側ができあがってからそれを伝える、というわけにはいかないからね。だから、これは昨日のままで終わりにする話ではないんだよ。もう一度引き出して、みんなと確認する話だね。
ともちゃん:
そう思ったら、少しわくわくしてきた!
いさどん:
もし、そこまで意識レベルを上げていくとしたならば、自分で意識レベルを上げてその場を創っていく意識が必要だよ。それがないと、色々なところで昨日の子どもミーティングのような現象をもらっていくことになる。でも本当は、それを創っていく人になるために、この場が与えられているんだよ。
仏の尊称は十号あって、その中のひとつに「仏の世間解(せけんげ)」というものがある。仏は実際には世間を生きていないし、男でも女でもないけれど、世間にある人間の心境を全て理解し語ることができる。だから、人でも意識が高くなると、そういったことが可能になるんだよ。
ところが、まっちゃんを代表とする意識レベルは、そういった情報を得ると、「自分がそれをできるのだろうか?」とか「体感していないからわからない」という発想になってしまう。それはあくまでも情報であるのだから、自らをそこにあてはめないで、冷静に受け止め、そのときの心を想像していくことが大切なんだよ。それを冷静に受け止め理解したときに、そういった場所を創れる人となり、実際の出来事に出会うことになっていくのだろう。
たとえば、自然農法から天然農法へ意識が移っていくときに、何が違うのかといったら、その場を整えられる人になって初めて、天然農法を行ずる人になれるわけだ。昨日シェアした話の中にそれは説明してあったよね。しかし、そういったことが十分に会得できていないから、まっちゃんのような反応になるんだよ。
そういったことを信じて受け取れず、傍観者的立場に立ってそのアレルギーが溜まったときに、ここを離れていった者たちと同じ現象が起きることになる。
ともちゃん:
それは、表面的で物理的なことに囚われているんだね。
いさどん:
だから、そこで今まで僕が伝えてきたことは、「精神が美しければ、全ての出来事は美しいことになる。そのことを理解して、まずは美しい方へ行きなさい」ということだよ。それは昨日の話の最後にも書いてあったけれど、あれが付録みたいになってその前の話とつながらないと、そこが腑に落ちないから、そのようなことになる。
今、いよいよこのような難問を乗り越えて、みんながその気になってきたから、次のステップに行きましょうということで次の話をすると、早速動揺するということだね。でもそれは、「あなたもそういった世界を創れる者なんですよ」という話をしているだけ。本当は、ここでもひとりひとりが自らの意識を上げていって、次のステージの話ができるようになれば一番いいのだけど、それも今は他からもらっていることになる。
世の中にこういったデリケートな話が引き出されたおかげで、みんなで共通した立場を共有できたよね。その立場を共有できたからこそ、我々はどういった境地でいるべきなのかが提示されたわけだ。そこで次のステップの心に出会ったときに、早速動揺しているというのが今の現状だね。
それも人によって色々で、「当然でしょう」と言う人もいれば、「よくわからないけど、私はそれでいいと思う」と言う人もいれば、「自分がそんな体験をできるのだろうか?」と動揺するようなレベルの人もいる。しかし、それは情報であり、「そういった境地に至ったときにその心が理解でき、表現できるのだ。その立場の者に自らがステップアップしていくのだ」と意識を高めていくこともできる。だけどそれは、形の話ではなく、心の話だから、心が伴っていない者が考えると形に囚われてアップアップすることになるんだよ。
ともちゃん:
性って、いいテストだね。人の欲が沢山絡んできた分、見えにくいというか、余分なものが出やすいというか。
いさどん:
性について語ることは、それこそネットで調べたら、忌まわしい情報からスピリチュアルなものまで色々な情報があふれているけれど、それを深い意識につなげるための教材として提供するとしたら、意識が高まっていくようなものを引き出していかないと意味がない。単に、性を知識として伝えても、それは個々の人の意識レベルで勝手に膨らませるだけのことで、我々が伝えたいようなものとはかけ離れたものになってしまう。ましてや、意識レベルが低い者にそれを提供することは、火に油を注ぐようなものだからね。
だから、どこでもこのような話を提供できるわけではない。しっかりとした精神的立ち位置を保ち、伝えられる相手や場所が大切になってくる。こういった話題は、両刃の剣だからね。扱いには気をつけないといけないね。
ともちゃん:
ここがインターネットで批判的に流されている情報と実際に違うのは、そういう深い意識が日々の生活の中で実践されていることだと思うんだけど、実践している人たちが語るにしても、受け取る側次第では単なる知識の話になってしまうでしょ?昨日のミーティングの場もそうだったよね。知識の話になってしまって、実際の自分の心とつながっていかない人もいるね。
いさどん:
だから、「出張木の花塾のテーマが性ですから、これについて今、内容を模索している中で、この話が出たんですよ」と説明したんだよ。それで一昨日のミーティングで木の花のあゆみを振り返る場があった。これは我々が実際に通ってきた道であって、それが現在につながっているのだから、二つの道はなかったということだね。
この道を尊いと思うのであれば、全ては尊いしかない。それを切り離して、ここは良いけどここは好きじゃない、ということはあり得ないという話をした。そして昨日、農と性の話を出したんだよ。でも、そこでも切り離して、「こっちはわかるけど、こっちはわからない」と言っている人がいるということだよね。
しかし、わかるということは全てわかるという境地になるべきで、わからない者は「わからないけれど、そういうことなんだ」というところに理解を持っていかないといけないのに、「体験していないからわからない」ということになってしまっているんだね。そこで早速、それがマスターできているかどうか、その人のテストが実施されているわけだ。
だから、受け取る人たちによって色々だけど、そういった心境になる者がいるということなんだよ。それは、自分を常に観察していないから、湧き出てきた感情に翻弄されている状態だということだ。
湧き出てきた感情に翻弄されている者もいれば、今はいなくなったけれど、昔は疑心暗鬼や怒りの感情が出てきたりするような者もいた。だから、全体がおかしくなっていたんだよ。もしも信じる心がベースにできあがっていたならば、「そういうことなんだ」と受け取って行ける。逆に、「そこまでのことが人間の可能性としてあり、信じている限りは自分の未来にもありえるのだ」と思うこともできる。
そういった冷静な心がないと、違和感があるたびに議論することになってしまう。しかし、信頼がベースになっているコミュニティには、議論はいらないんだよ。
ともちゃん:
そうだね。
いさどん:
昨日、誰も性の話に触れないと思いながら、僕はみんなの中にある色々な心の状態には触れなかったんだよ。昨日の農の話と性の話は、両方とも同じようにメインの話なんだよ。しかし、農の話の方には話題は行ったけど、性の話の方には触れない状態だった。
そこで、「これを木の花の性として語っていいのですか、みなさん?もしも自分からこれを切り離したら、それは自分とは違うものだという認識でありながら、木の花の性としてあなた自身の認識でもあるということで語られているのですよ。それで大丈夫ですか?」ということだよ。
「それは私の認識とは違います。いさどんが創っている世界ですから、それはいさどんだけの世界だよ」という話であったなら、「木の花のみんなは純粋で良い人だけど、いさどんだけに問題がある」ということで、いさどんはもっとも忌まわしいところに置かれてしまうんだよ。
ともちゃん:
本当にそうだね!だから、これは性について語ってるけど、実は性の話じゃないんだよね。
いさどん:
そう。それで、人によって個人差はあるけれど、比較的女の人は感覚的に受け取りやすい。しかし、男の人は形に囚われるから不器用なところがあるんだよ。
どういうことかと言ったら、僕がやっていることは役割だとしよう。たとえば、お医者さんが患者を診るとする。そのときに、普通の人ができないことを提供する。それは、それができる資格や資質があるからできるわけだ。できる資質がない人がそれをやったら、問題事になってしまう。そこでは、その境地としてふさわしい位置にいるかどうかを求められるのだから、それにふさわしい位置に立てばいいわけだ。そして、自分はそこに向かっていく者だと考えれば、途上の者は「自分もその位置に行かなければ」という話になるだけだ。
しかし、そこで動揺するようなことでは、ケア滞在者のKくんがここで色々な情報に出会いながら勝手にそれを自分の中で膨らませて騒ぐのと同じ話になってしまう。僕はKくんに、「それはあなたには縁のない話なのだから、そんなところに反応するのは見当違いの話なんだよ」と伝えるけれど、ケアの人が心を治しに来ているのにここの色々に反応して、ケアの進捗に影響が出てくるようなところもあるでしょ。ここの人々の意識が高いからケアが提供できているのだけれど、そのケアを受ける側の人の意識が高いところを理解できないからといってKくんのように反応しても、それは全くお門違いの話になる。
それでは、意識が自分と合うところへ行ったら心が改善されるのかといったら、改善されないのだから、その場合「自分とは切り離して受け取る心ができたときに、あなたはどこにいても安定して暮らせる人になるのです。人は人、自分は自分として切り離して生きていけるようになりますよ」と僕は伝える。しかし、そこを勘違いする人がいるんだよ。ここはある意味、そういった認識のトレーニングの場でもあるのだけど、人は往々にして色々な情報を得ると、それを全て自分にだぶらせてしまうところがある。
ところが、自分の道をしっかりとわきまえたら、人がどうであっても、「あなたはそうなんですね。私は私の立ち位置でこの役割をしていきます」となり、そこでは動揺が全く走らない状態になる。もしくは、「私は今この位置にいますが、もしその心境でそういった場に出会ったときには、そのような役割も果たせるのですね」という冷静な心があって初めて、それが当たり前の世界で生きることになる。
道は、登山のように進めば進むほど高まっていくし狭まっていく。その時に山の中腹を歩いている人が頂上近くの景色を想像して何だかんだと言っても、中腹の意識では頂上近くの意識はなかなか受け取れない。しかし、自らがいずれ歩んでいく先だと思えば、そこにたどり着いたときに受け取ればいいことであるし、その山の構造の全体が想像できれば、ここではこの心の負担でこのような余裕で歩んでいるとか、頂上近くでは心にこういった負担が生まれて、このような気持ちでそこを極めていこうとしている、というだけのこと。それは単なる情報であって、今の状況をわきまえない心を働かせることは慎まないといけない。
こうして懇切丁寧に語るのだけど、本当は伝えられてわかることではなく、自らがそこをわかっていく人にならないと、いつも授業を受けて学ぶ人になってしまう。こういった学びは常に生の学びであり、そこには生のテストが常に用意されているのだから、誰かからそれを解説してもらうのではなく、自らの中から回答が湧き出てくる人にならなければいけない。常に自分がどう反応したかがテスト結果なのだから、その結果を受けて、この心境はなぜこうなっているのだろうという分析から復習ができて、次の予習につなげていくことが大切だよ。それが常に自分と瞬間瞬間、真剣に向き合い、自らを成長させていく人だと伝えてきた。
なぜそういったことをここで出したかと言うと、今我々はそれをステップとしてみんなが理解していく場所にきているわけだから。しかし、早速テストが来ても、それがテストであるということさえ気づいていないことにもなっているね。
ともこ:
昨日はそれを学ぶいい材料がいっぱいあったね!でも、あまりそうは受け取られていないよね。
いさどん:
そうだね、そこまで考えていないね。だからそこに触れようともしなかったね。
ともこ:
むしろそれを避けてしまっていたようにも感じたね。
いさどん:
そう。そこでは自らの中に避ける心も見つけて、あえて避けているからこそ出さなきゃ、わからないからこそ出さなきゃ、というくらいの気持ちになったら、あの場もまた違ってくる。これだけの段階に来たのだから、一日ちょっと思考をし、それを熟成するための期間を置いて出すという意味では、これもちょうどいいのかもしれない。
早速テストを受けると、そのテストに対する反応はいろいろだね。いつものように全くそこのところを考えていない人もいれば、考えているけど見当違いに考えている人、そこに反応しても出してはいけないのではないかと勝手に想いがふくらんで出さない人、と挙げたらいろいろといるんだよ。しかし、みんなそこを超えていく為に今この登山に挑んでいるわけだから、そこを超えてもらいたい。そうでないと、このネタは新たなバッシングのネタになるだけだよ。
ともこ:
ほんとだ~。
いさどん:
下手をすると、この話題でも、「目が覚めました!」と心が翻ってバッシングを浴びそうなネタでもあるわけだ。それを敢えて出すのだからね。
ともこ:
そうだね。こういう話も、バッシングの雑誌の中では「古田氏との交わりは聖なる交わりとされる」というような話になる。
いさどん:
完全にマインドコントロールのネタになるね。
ともこ:
ほんとだね。やっぱり、これは性の話だけど、結局、性の話じゃないんだよ。
いさどん:
だから、昨日、そのあたりもしっかりとみんなに伝えたよね。「これは性と農というテーマで取り上げられていますが、全てのことに共通することです」と伝えたけれど、そのことはしっかりとはみんなの頭の中に入っていない。だから、ヒットするところだけがもやもやしていて、それで「こっちはわかるけど、こっちはわからない」となっていくことにもなるんだよ。
ともこ:
その伝えようとする心が観えたらおもしろいね。
いさどん:
だから、胸にチャックがあって見せることができたら、どんなに楽か。だからね、「ああ、めんどくさい、めんどくさい」という話だよ(笑)。
ともこ:
本当にその人の心が出るんだね。その出来事とかモノではなくて。出来事は材料にしか過ぎない。
いさどん:
だからそういうことも含めて、自分自身もどこの位置にいるかという心のざわめきが観えるわけだよ。そうしたら、それも客観的に観るくらいの冷静さがあったら、動揺するようなことはない。
ともこ:
そういうことも出し合って、材料にして、みんなで話し合えたらいいね。
いさどん:
そうすると、天然農法にしろ、性のことにしろ、本当に超えて表現していける。そういったことを現象化できる資格が得られるわけだよ。
ともこ:
そうだね。カタカムナ奏上だけではないね。
いさどん:
だから、その手法とそれにふさわしい意識レベルの人ができるということなんだよ。その入門編として、感情が働かないところで「アワの歌」があるんだよ。そして、「カタカムナ」のレベルになっていく。
ともこ:
アワの歌は、1つ1つの音に思念がないから。
いさどん:
そう。カタカムナは、その思念をしっかりと理解してコントロールできる人がその世界を表現できる人で、その場を創っていく人になる。その段階に至っていない人は、心を無にしてその場を整える役割に徹する。
ともこ:
難しいね。カタカムナの方がレベルが高いという話になると、ついつい頭を使って理屈で考え始める。
いさどん:
そこの危険があるから、結局、アワの歌になってきたんだろうね。
みかちゃんが「不思議だ、不思議だ」と言うんだよ。それは日水伝文とカタカムナは全く同じことを言っているそうで、カタカムナを学んで日水伝文を見ると、神の働きで人間に伝えようとしていることが全て書いてある。ところがカタカムナでは神の働きというものはなくて、世界は単なる物理性だというように神を封印している。しかし、よくよく調べていくと、そこには同じことが語られている。日水伝文では、カタカムナがその元だとは言っておらず、別々に体系化されて伝えられているのがすごい。だからお互いの関係を切ってあるんだよ。
我々はこの道とカルマ読みと地球暦とカタカムナ、そして自然農から天然農といろいろなものに出会ってきた。それが今、全てひとつの道として日常生活に定着してきている。それが本当の意味で形に表すということだよ。
我々は、いかに今まで現されなかったことを与えられているかということで、その道を与えられ特別に選ばれた者達であり、ある意味神仙民族で、それが娑婆世界に生きているということだよ。
ともこ:
だから、ひとつのひとつの出来事を区切るということはありえない。
いさどん:
そうだね、ありえないね。
ともこ:
全て同じところから現されているから、農のことはわかるけど性のことはわからないということはありえない。
(ここでイサナ登場)
いさどん:
それは全てのことを同源として語っているのだから。それをまさしく現象世界に現してくれるのが「ナ」だよ。「イサナ」。よろしく。あなたが活躍するのはもう少し先ですが、人類の歴史からすれば、もうすでに扉が開く時に来ている。それは、陰陽の男女のギャップによって区切られていたものが統合して示されるということ。今までの人類にはそれがなかったんだよ。
ともこ:
素直さがあればいいね。
いさどん:
そう。ただ信じる心があればいい。みかちゃんの歌は本当にそのままだね。
(にこりと笑うイサナに向かって)なんて素晴らしい笑顔!
我々は前人未到のところに来ているということを示しているんだよ。
ともこ:
おもしろいよ~!
素直さがあって、わからなくてもパッといけばいいと思うと同時に、それでは実は真意とか道理とかは掴んでいないわけだから、それを常に探っていくということが同時に必要だと思ったの。
いさどん:
それはそうではなくて、素直な心が表現できる人はそれだけすでに心の準備が出来上がっているわけだから、素直であるということは、正直であるというベースが出来ていて、「正直、素直、信じる」になる。その時に道理というのは後からついてくる。道はいつもそうなんだよ。よくわからなくても、直感で大事と思うほうをやっていると、後から道理がついてくる。それが引き寄せの法則。それが天理で生きているということだよ。
ともこ:
それを頭で理解しようとすると、逆になかなかパッといけないのかもね。
いさどん:
そう。
ともこ:
性の話でもそうだ。理屈でわからないから「よくわからない」という。
いさどん:
そういった話になるんだよ。天とともに生きる、直感人間で生きるということは、理屈なんかまずはどうでもいい。これが大事と思ったら、そこで歩む方向を仕分けられる。本当に直感人間で生きる気があるのかどうなのかが問われるところだね。
ともこ:
そう、本当に直感人間で生きる気があるのかどうかだね。
いさどん:
昨日あの場をわざわざ提供して、そこにいろいろな心の反応があることを観ながら、あなたが昨日話した人達のような反応もあるだろうと想像はしていた。そうしたら、ちゃんとこのような報告があって、それに対して回答する場所が設けられた。これはまるっきり授業だね。これは生きた授業なのだから、それを生かすために自らから湧き出す人になるのが目標だよ。わかりましたか!
ともこ:
はい!今、懇切丁寧に解説してもらっているけど、解説してもらっている時には受けるばかりなんだよね。
いさどん:
だから、それが湧き出す人になるんだという意志が大切なんだよ。
ともこ:
それこそ、そこに直感が関わってくるということだね。
いさどん:
そう。自らから湧き出す人になる。そうでなければ、こんな道はやめた方がいい。でも、みんなむずむずすると思うんだよ。誰にもそういった種があるからね。それだったならば、その種に水をやって芽を出させて開花させるということだ。
ともこ:
その結果、すごい場になるね。
いさどん:
だから、前人未到なんだよ。それは何か特別なパフォーマンスにつながるような話ではなく、生活自体がそういった人達の表現の場所ということ。過去の事例をとってきて、例えば「タオコード」とか、「神仙民族」とか、「アナスタシア」「ホピ族」「マヤ」とか、いろいろ当てはめてもいいけど、これは新しい「コノハナ人」の生き方なんだよ。歴史の中でカタカムナ人やホツマ人の流れを受けて、これからはコノハナ人としての新たな時代の生き方の始まりなんだよ。それは全人未踏の歩みなんだよ。
ともこ:
すごいことをやっているね。おもしろすぎる!
いさどん:
ここまでくると、タブーをなしにして、何でも発信しなさいということだ。
ともこ:
全て同じ心だものね。タブーはない。
今度ホームページに改めて、まりちゃんの「15年目の合格」の話を載せようと思って、昨日まりちゃんに「20年目のコメントはある?」と訊いたら、いろいろ話してくれたの。「わかった、ありがとう」と言って終わろうとしたら、まりちゃんが、最後に一つ言いたいことがあるのって言って、こう言ったの。「私には、こうやって教えてくれる人がいて、一緒に笑って一緒に泣いてくれる人がいたの。でも、いさどんという人にはそういう人がいなくて、自分の拳で自分の頭をたたいて、一人で車の中で泣いて、歩んできたんだよ。みんなが助けてとそれを望むから、いさどんは手を貸してきたんだよ。でも、みんなはそういったことがわからないんだよね。わからないからといって相手に何かを思うということはないんだけどね」って、最後にこれだけは言いたいって言っていたんだ。
いさどん:
(涙ぐんで、しばし沈黙。)
まりこに会いたくなった。まりこに会いに行こう。
〈まりちゃんの部屋に移動して〉
いさどん:
この歩みが特別な歩みだということがわかるでしょ?しかし、多くの人はそれがわからない気持ちもわかるでしょ?だからこそ、これに出会った者は真剣に生きないといけない。
ともちゃん:
そうすると、「生きている目的って何なのだろう?」と思う。
いさどん:
そうだね。生きることは、ただ腹が減るから物を食べ、時間が経っていくから歳をとっていくことではないんだよ。生きることは悟るためにある。そして、その悟りへの道を現象化して、時代を刻んでいく役割が我々にはあるんだよ。これは人間にしか与えられていない道だからね。
ともちゃん:
そう。昨日の天然農法の話を聞いていて思ったんだけど、自然は曲がっているでしょ?人間がその仕組みを理解した者として潜象界へ戻していくというのは、すごい存在だと思ったの。人間も曲がって生まれてきているのにね。
いさどん:
だから、自分を超えた世界へ行ける存在なんだよ。その極めてデリケートな部分が性の話だよ。それは全ての神聖な成り立ちのはじまりなのだから。それは、この物語のカラクリの大本なんだよ。
ともちゃん:
性のことが理解できることがあるのかはわからないけど、性のことがわかったら、他のことはもっとすぐに理解できるんだろうね。
いさどん:
その微妙なところに触れれば触れるほど、人間は心が震える。だから、それはわかりにくいものでもある。それは潜象界の響きのようなものでもあるんだよ。それは現象化していないから解釈できないのだけど、その響きに惹かれる。
ともちゃん:
その響きさえ、感じていられればいいね。
いさどん:
そう。ただ、響きだけ感じて、潜象界で孤独を感じていたのが神様だったんだよ(笑)。そこで、「これを現象として現そう」ということで、潜象界から現象界へ出てきたんだろうね。そういった考えがあったかどうかはわからないけれど。
ともちゃん:
神でさえ、孤独を感じる?
いさどん:
神様が孤独を感じたからこの世界を創って、人間もそれを受けて孤独を感じながら群れて、そして全ての生命を群れるようにしたわけだ。
ともちゃん:
神の感じる孤独と、人の感じる孤独は同じ?
いさどん:
おそらく本質は同じだろうね。ただ、そのスケールが違うだけのことで、結局ちりばめられている孤独は同じなのだろう。
ともちゃん:
神の場合は、孤独を感じる対象がなかったわけだよね。
いさどん:
それは無限なる孤独なんだよ。
ともちゃん:
私たちには、まわりに対象が沢山あるもんね。
いさどん:
それは無限に対象があるわけだけど、沢山あって満たされているはずなのに、そこで孤独を感じるわけだよ。それは、己に囚われているから。宇宙全体がひとつのいのちなのに、自分に囚われているから、いくら対象が沢山あっても孤独を感じるんだよ。それを神様は反対のほうから観ておられるわけだ。全てが自分自身だから、孤独を感じられて沢山の対象を創ったんだよ。だから、神様が感じている孤独と、我々が感じている孤独は、カタカムナでいう相似象のようなものだよ。
ともちゃん:
そうすると、神様は今はもう孤独を感じない?神の中に境はないよね?
いさどん:
こういう世界を創ってしまったからね。でも、これは呼吸と同じだから、この世界をない状態にして、またある状態にして、ない状態にして、ある状態にして、そうやってこの世界は繰り返されているんだよ。でも、その先に行くと、また空しくなる。結局、自らがやって自らが遊んでいることになるとマスターベーションの世界だから、空しくなるね。だから、リアルに自分自身を自分と切り離して、自分以外のもののように分けることにしたんだよ。
ともちゃん:
だから、人間をこんなに分からず屋に創ってくれたんだね!
いさどん:
僕も、その気持ちはわかるんだよ。それは「結局、自分だけの世界なんだ」「この世界はひとつなんだ」ということ。神様は「あってあるもの、なきてなきもの」という不可思議な立場にいるわけだからね。分ければ分けるほど矛盾だし、それを統合してみるとひとつになって孤独になる。分ければ矛盾、統合すれば孤独!
ともちゃん:
だから、どちらもありえないんだね。
いさどん:
この世界は南無妙法蓮華経の「妙」と言って、不可思議(妙)な世界だよ。しかし、我々はそこの境地まで至っているということだ。だから、神様の気持ちはわかる。あとは、肉体を離れれば、その心そのものになれるよね。
肉体の中にいると、自らのポジションをもらうから、どうしてもこの世界と一体にはなりきれない。だから、菩薩の境地になっても、仏にはなりきれないのは、肉体があるからだよね。仏になるということは、この世界と一体となって、この世界に遍満している状態のこと。それもある意味悟りと言うけれど、結局潜象界と現象界を行ったり来たりしているということであれば、それも単なるポジション取りの話だからね。悟りに至っていないというのは悟りに行くためのプロセスであって、悟っている状態は悟っていない状態へのプロセスにしかすぎないのだから。だから、そのカラクリがわかればどちらでもいいということだよ(笑)。
そこまでの解釈をすると、解釈の意味もなくなってしまうから、この世界をわかることは必要ないことになるんだよ。だから、わからないことは問題のようで、全く問題ではないことになる。
ともちゃん:
完全に不完全を散りばめることだね。
いさどん:
あってあるもの、なきてなきもの。神様の存在は面白い(妙な)存在でしょ。そうすると、全ての現象はそれで良しとなる。馬鹿なことをやっても何をしていても、それは全てゲームだから。
ともちゃん:
でも、そのゲームの過程で色々と大変な思いもするね。
いさどん:
それは、低い位置に自らを置くから大変な思いをすることになるわけだ。高い位置から観ていたら、プロセスとしてそのときにそのことがあるだけだから、理解があろうが無理解があろうが、全ては過程だからね。自らに囚われなければ、どうということはない。自らに囚われなければ、テレビのニュースを見ているのと同じことだから、身にふりかかってくることも全く気にならなくなるよ。自分のことを週刊誌で見ようが、テレビで見ようが、その印象が良かろうが悪かろうが、同じようなことは他の情報からも出てくるわけでしょ。そうしたら、自分の心の位置と同じようなことが他から出てきたら、直感で、「ここまでの人間たちが出てきたんだ!」と感じるんだろうね。
昨日、長期ヘルパー滞在中の中国人のゼンと話していて、彼は今、問題児だけど、若い頃の僕とだぶって観えるんだよ。昔、僕がこの道に出会って、「絶対そこを行くんだ!」という気持ちになったことがある。今、彼も同じ状態なんだよ。しかし、まだその確信に至っていないから彼の心は雑で、まわりの者となかなか調和的にならなかったり、自らの思いを素直に伝えられなかったりすることで、彼にはいらだちがある。だから、「僕はあなたを過去の自分とだぶらせて観ているところがあります。だから、あなたの未来に興味があるのです」と伝えたら、彼の気持ちは落ち着いたよ。
ともちゃん:
嬉しかっただろうね。
まりちゃん:
ここを去ったあの分からず屋たちもスタートは一緒だったんだよね。学ぶか学ばないか、自分以外のものを受け入れるかどうかの違いだけなんだよね。
いさどん:
そういう意味では、まりこはなかなか気がきいたことを言うんだよ。僕が育てただけのことはある(笑)。随分手間をかけてきたからね。手間をかけたのは、まりこか和子ちゃんか・・・やすえにも手間をかけたけど、そのままにしておいたら全く役に立たなかったからね。人のために役立つ人にしたんだよ。
まりちゃん:
私たちは自分に囚われないで、自分以外のものを受け入れただけで、ここを離れた人たちはそれが受け入れられなかっただけなんだよ。
いさどん:
自分の価値を信じていないと、出会ったものが信じられない。しかし、人間は誰でもこの境地に至れる。これは特別なことではないんだよ。世界はひとつだから。
ともちゃん:
いさどんが昔、「自分なんか」という心が出た話と同じだね。
いさどん:
そう。そこを信じて、自分を越えられるか、自分を疑う心を越えられるかどうかだけなんだよ。正直に素直に信じられるかどうか。そういう意味では、そういったことを先駆けて語っている立場では、僕は特別な人ということになるけれど、ではその特別がどこから湧いてきたのかといったら、当たり前の人間から湧いてきたんだよ。つまり、当たり前の人間は全て特別な存在だということだ。
One thought on “コノハナ人としての新たな時代の生き方”