昨年11月15日から11月27日にかけての2週間、いさどんは数名のメンバーと友人たちとともにインドを旅しました。
きっかけは、ヒマラヤに「ハルトラビレッジ」というコミュニティを築こうとしている古い友人のトニー、そしてこの春に木の花を訪れた、インド最大のコミュニティ「オーロヴィル」の中心的存在であるプラサドの二人から招待を受けたことでした。
インドへの旅に先立ち、高野山で開かれたカタカムナ勉強会への参加と玉置神社での木の花祭りの舞の奉納のために、いさどんは紀伊半島を訪れていました。インドは世界の中でも霊的に大きな役割を持つ地であり、いさどんの魂の故郷でもあります。その魂の故郷との対話を通して、ずっと以前から紡がれてきた物語が、紐解かれ始めました。
どうぞ、いさどんと一緒に、この宇宙物語の旅をお楽しみください。
(旅の様子は、こちらのスライドショーからもご覧いただけます。)
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天から降りてきた意志が日本の富士山(天教山)に降り注ぎ、それがマグマの中に潜って、ヒマラヤ(地教山)から噴き出す。それはイメージとして太陽の一螺旋回転・25800年の半分の12900年、そしてそのまた半分の6450年前、銀河の秋分から冬至までのこと。そして、ヒマラヤに噴き出した聖なる天のエネルギーがヒマラヤの聖者たちによってガンガーの流れとともに南へと広がり、南インド・ポンディチェリーの近郊にあるオーロヴィルの地よりさらに世界へと広がっていく。オーロヴィルの中心は、マトリマンディールというドームの横にある菩提樹であり、この樹のもとが一番波動量が高く、イヤシロチとなっている。
マザー曰く、「ここから世界にその心が発信されます。」
日本を世界地図にたとえると、高野山と玉置のある和歌山県や奈良県はインドになる。それで和歌山県の北にある玉置はヒマラヤにあたり、高野山はカイラス山のあるチベットになるのだろう。そして、和歌山県の南端にある花窟神社がオーロヴィルに相当する。
*マザー
パートナーのシュリ・オーロビンドの意志を受け継ぎ、すべての人々が調和的に生きる理想郷として国際タウンオーロヴィルを立ち上げ、精神的支柱となった女性。1973年死去。
《11月16日~20日・ヒマラヤの山々との対話》
いさどん:
インドの田園風景を眺めていると、あのまだまだだと思うオーロヴィルの人々に比べて、ここの一般の人たちのほとんどは、まだ目覚める意志がないことを感じる。どのようにこの人々が目覚めていくのかと思うと、遠い道のようにも感じる。しかし、次の時代は確実に気候の変化や環境の問題が迫ってきているのだから、いくら人々が目覚めなくても現状は後戻りできない状態になっている。それをどのように新しい時代につなげていくかと考えると、現象的目線には気が遠くなるようなことである。太陽の活動が人類の目覚めを促すようその活動を変化させるように、時代は地球の地殻変動によって人類にそういったことを気付かせるように促すだろう。人間の営みのツケとして、地殻変動や気候変動が既に始まっていることを思うと、できればそういった強制的なことを受けなくても人々が目覚めてくれることを願う。
久しぶりにインドの大地に立つことになった。まず始めにデリーに着いたのだが、デリーの空港は31年前に訪れた時と比べると、とても美しくなっていた。そしてクアラルンプール(注:マレーシアのクアラルンプールを経由してインドに到着しました)の景色と違って、空港内の施設にはインドの雰囲気が良く出ていた。大体インドという土地は、インドらしい香辛料のにおいがするものだが、今回訪れてみて、そういった香辛料のにおいはあまり感じられなかった。
デリーの空港からトニーの家に向かう道路で、夕方の交通渋滞による車の量と、3車線の道を4車線にして人々が巧みに走っていく姿を見て異文化を感じた。それにしても車で走る道中に、こうした後進国のドライバーの癖としてクラクションを鳴らす音がうるさい。この交通マナーの中で、この人たちには民族的な阿吽のルールがあるのだろうと感じる。そして、インドにもモータリゼーションが起きていて、日本車の中でも特にスズキの車が沢山走っている。それは、インド人に良く馴染んで走っていた。こういう形で近代日本もインドに貢献しているのかと思うと、何となく微笑ましい。
そんな夕方のラッシュで大変混雑している道路を走って、トニーの家には30分と聞いていたところ、1時間位で着いた。トニーの家はインドでは豊かな高級住宅街の中にあり、敷地の中に入るには、守衛のいるゲートをくぐらないと入れないのだ。
そして、久しぶりにトニーに再会したのだが、4年前のイメージからすると、少し老けたような印象を受けた。風格があり白髪のヒゲもたくわえたジェントルマンなトニーが、とても懐かしく大切な友を迎えるように力強いハグをしてきたのを受けて、この人にとって我々の存在は大きいのだと感じた。
早速、トニーのお父さんが建てたという築50年の黒い鉄柵の門構えの家に入ったのだが、お金持ちの家という感じがしてベッドルームもとても大きく、20畳くらいのスペースがあった。その日の夕食は、体調不良の僕のために特別に作ってくれた胃に優しいレンズ豆のおかゆをいただいた。トニーの家は使用人が5人いる。ナースでメイドの女性が一人、男性の使用人が2人、ハウスキーパーの女性が2人、そこに娘のディヴィヤとプリヤンカと3人で暮らしている。奥さんはフランス人でフランスに暮らしているという家族構成。インドではとても裕福な暮らしだ。トニーはアメリカ資本の保険会社をインドで経営していて、近々その保険会社が日本にも進出するということで、今後日本に行く機会が増えるという。そういった意味でも、ビジネスマンとして成功している人物だ。
そんなトニーたちと、その日の夜9時に家を出発し、10時半の電車でオールドデリーの駅から寝台列車で、トニーの所有するヒマラヤのハルトラビレッジへと向かった。オールドデリーの駅は大変ごった返していて、そこら中で寝ている人がいる。インドらしいパワフルな景色を堪能した。しかし、昔のデリーと違ってそこには物乞いをする人がいなかった。それだけ人々の暮らしが豊かになったということだろう。
そして、寝台列車はハルトラビレッジに一番近いカトゴダム駅に朝の4時半頃到着した。そこから車で3時間くらいかけてヒマラヤへの旅が始まった。ハルトラビレッジへの道中は、豊かな山々に囲まれたヒマラヤの広大な地域を車で走っていく。途中の風景は日本の長野の山々のようで、全く違和感のない景色だった。桜の花(チェリーブロッサム)が咲いていたり、松の木(パインツリー)が沢山あったりして、何となく懐かしさを感じながらの道中だった。
そして、4年前木の花に来たトニーがまだ建設途中のハルトラビレッジの建物の映像を見せながらプレゼンしてくれたのを懐かしく想い出しながら、トニーのハルトラビレッジへ到着した。建物は日本の建物のような精密なものではないが、インドのお金持ちの別荘という感じでとても立派なものだった。そこから見えるヒマラヤの素晴らしい景色に感銘を受けると同時に、自分が今世においてヒマラヤの地に来たことの意味を確認したいという心が湧いてきた。それで翌朝5時頃眼が覚めたので、ひとりで外に出て、ビレッジの敷地内でヒマラヤの山々がよく見える絶好の場所を見つけ、そこに椅子を持って行き、ヒマラヤの山々と対話した。
久しぶりにヒマラヤの山々と対面して、以前その土地にいたことを再確認するとともに、魂の故郷との再会を懐かしく感じながら交流した。
また再び出会いが復活して、その出会いが流れ出したことと、遠くに見えるヒマラヤの山々に対して懐かしい気持ちを伝えると同時に、まわりの土地から聞こえる鳥の鳴き声や辺りにある木々や草花に対して心を向ける。しばらくの間、そこで交流する感覚を持っていた。そして、懐かしいこの地に訪ねてきたことと、そこにある生命たちと交流し互いの存在を確認し合った。しかし、それはこの土地に対してでもあり、地球全体の生命に対してでもあるような感覚であった。
ヒマラヤに訪れることで長い年月の間隔てていたものが解消する感覚と、解消したことによって新たな出会いが始まることを感じ、ヒマラヤの山々やハルトラビレッジの土地全体から感じるものは、とても爽やかなものであった。
その日は一日、ハルトラの村人たちやその土地の住人である聖者ババジとの交流があり、これからこの土地やハルトラビレッジの発展に我々がどのように関わっていくのかを考えさせられる出会いであった。ハルトラの村と大地、ヒマラヤの山々に対しては、今回の日本からの訪問者6名でカタカムナの奏上と、ようことみちよによる舞の奉納を敬意を持ってさせていただき、またの再訪を心に誓った。
そして夜にはまた夜行列車に乗って、翌朝にはデリーにあるトニーの家に戻ることになった。
その日の夕食後には、トニーと今後のハルトラビレッジの運営について話し合うことになったのだが、ヒマラヤの地へ行くことと今回南インドのオーロヴィルへ訪問することは、我々にオーロヴィルとヒマラヤをつなげる役割があったことを感じながら、何かの形で今後も双方と関わっていくのだという確認の場所にもなった。
次の日は、現代のデリーの観光を兼ねて、この旅で知り合ったトニーの友人であるロビンソン(大学教授)の案内でガンジー記念館に向かった。途中、日本の技術を導入して完成した地下鉄にも乗ることができた。ガンジー記念館では、ガンジーの聖なる魂の波動を感じ、新たな時代の幕開けにつなぐものとして、彼から魂のバトンを受け取ることになった。そして、多くの出会いのうちにインドの旅の前半が終わった。
《11月22日夜の話・はじめてマトリマンディールに行って》
いさどん:
オーロヴィルの聖地・マトリマンディールに行く前に、オーロヴィルのビジターセンターでオーロヴィルに関するビデオを観た。そこで、シュリ・オーロビンドの伝えるオーロヴィルで生きる人々の大切にしている精神性原則は天とつながって生きること、目覚めるとはそういった生き方に徹することだと再認識した。また、オーロヴィルは経典や宗教を持たないが、信仰は心の上に根差していると語られていて、それがまた木の花と同じであることの確認になった。
しかし、残念ながらオーロヴィルに現在暮らす人々にはマザーやオーロビンドの精神が浸透していない。書物や映像で精神性を伝えていても、その境地に到達している人々は少ないと感じる。おそらくその境地で生きている人は今はいないのだろう。
今朝、雨が降ってきたときには清めの雨が降ったと感じたが、雨期の今、当たり前に普通の人が考えると、このまま雨が降り続けるとべたべたになってマトリマンディール見学が中止になってしまう、と考えるかもしれない。しかし、これは清めの雨だから、マトリマンディールに着くときにはきっと天気の状態が良くなるという予感がしていた。そして、ビジターセンターに着いた頃にはすでに晴れていた。天と共にあるとは、そんなものである。
今回のオーロヴィル訪問の目的の一つは、マザーの精神との接触であり、シュリ・オーロビンドの魂の確認にあった。マザーの意識に関して言えば、ビジターセンターでビデオを観た段階で少しマザーと通じたような感じがした。そして、僕は日本にいる時から、天理教の中山みきさんとマザーの魂がとても似ていると感じていた。だから、中山みきさんとは魂が兄弟の関係である自分は、マザーの魂とも近いのだと思った。そこではオーロビンドの聖なる魂は全く感じられなかった。それから、バスに乗ってビジターセンターからマトリマンディールに向かった。
バスの中でトイレに行こうかどうしようかと考えていた。そして天に向かって「トイレに行くかどうか、どうしたらいいでしょうね?」と問いかけた。そうしたら、「体のことはそちらでやってください。流れは私が創りますから」という言葉がマザーから返ってきた。「わかりました」と微笑ましく受け取った。
そして、マトリマンディールに到着し、ガイドの人から説明を受けて、40名ぐらいのグループごとにマトリマンディールに向かった。中に入る前に菩提樹の横を通った。僕はガイドの説明を受けているときから、菩提樹のところにマザーの魂が存在するのを確認していた。それで、菩提樹の横を通りすぎるとき、菩提樹の幹の根元の中心に彼女の魂を確認した。普通はこういう場合、樹の手前に立っていたりするのだが、彼女の魂は樹の中に存在していた。それで彼女を感じてみたら、「私はここの中にいるのよ。この樹を見てごらんなさい。私にそっくりでしょ?」と語りかけてきた。それで菩提樹をよく見てみると、幹がごつごつとしていて全体の感じが本当に彼女にそっくりだと感じた。
その後、菩提樹の前を通ってマトリマンディールのドームの中に入るのだが、ようこはその前から体がしびれていたらしく、中には入らず菩提樹のもとで休むことになった。ようこを菩提樹のもとにおいて、僕たちは中に入っていった。まず回廊を上がっていき、一番上の天井から太陽光が降りてきてそれを最初に受ける水晶玉がある部屋に着いた。そのとき僕は、まだ見ていない自分が瞑想するところを決めていた。しかし、僕はグループの一番後ろにいたから、そこが空いているとは限らなかった。しかし、そこは空いて用意されていた。だから、天気といい、場所といい、すべてが用意されていた。
そこで、集中して瞑想を始めたところ、天との対話が始まった。まず僕が、「私は今まで自信がありませんでした。しかし、この道の大事を知っていますから、ここまで歩んできました」と伝えると、天からは、「これからはその心を取って、役割を果たしていきなさい」という言葉があった。だから、「私は私を持ちません。天の意志のままに生きていくことを決意した者ですが、今までは自信がありませんでした。しかし、これからはそのようにします」と伝えた。そこでは正直を明かした。
ようこ:
いさどんは自信があるとかないとか、そういったことを感じていないように私には見えていたから、いさどんのその話は意外な気がした。
いさどん:
心が段階を踏んで行く過程ではいろいろと乱れはある。しかし、どちらにせよ行き着くところはわかっているのだから、途中がどうであっても、目的のところへ行く。それで、そこへ行ってから皆に出すから、途中のことは皆にはわからない。しかし、途中ではいろいろとぶれがあることを修正してきているから、自分の中にはそのような心の変遷がある。全体を通して観ると、その途中経過のぶれはいらないものだと思うのだが、あるものはあるからそれを天に正直として伝えた。(天が全てお見通しであることはわかっている。)
この道があるかないかと問われたら、この道がないことは生がないことと同じなのだから、その決意にはぶれがないに決まっている。しかし、地上を生きていると、どこかに心の緊張を持っているのだろう。それが天に心が向かうと、緊張がほぐれる。(天とは宇宙法則のことである。)
それで瞑想の時間が終わって、マトリマンディールから外に出た。そのときにマザーの魂が感じられたので、「あなたの魂は感じるのですが、シュリ・オーロビンドの魂はどこにおいでなのですか?」と尋ねたら、マザーからは「あの方の魂は上のほうで宇宙の運営をされており、宇宙にちりばめられているので、地上にはおいでになりません。私が役割として、ここにいます」ということだった。
いさどん:
マトリマンディールから出たときに、菩提樹のもとで休んでいるようこの状態を確認しようと思った。それは、とても大事なことだと思った。菩提樹の影になっていたのか、ようこの姿は見えなかったが、菩提樹のところにマザーの魂は確認できた。僕は、ようことマザーの存在を確認したくなった。最初はマザーだけ観えたのだが、その後ようこが菩提樹の近くにあるベンチの上で横になっている姿が見えて、ようこの中にマザーの魂が入ったのが確認できた。
ようこ:
正確に言うと、マトリマンディールに行く前のビジターセンターでビデオを見始めたときに、彼女は私の中に入ってきた。
いさどん:
あのときに、彼女はすでに来ていた。
ようこ:
あのときに、マザーは巨大な白い光としてドーンと頭上から私の中に入ってきた。その白い光を感じていたら、昨晩いさどんと一緒にいたときに感じたいさどんのエネルギーととても近いと思った。それから、バスに乗って、マトリマンディールに着いてからもずっとその白い光が私の中にあり続けて、そのうち体がしびれてきたので、とてもマトリマンディールの中までは行けないと思って、菩提樹のマザーのもとで休むことにした。
いさどん:
あそこに彼女とようこが一緒にいたんだよ。あの菩提樹の下でようこが休んでいる景色はとても美しかった。聖なることが起きたんだよ。
《11月23日朝の話・今日もマトリマンディールに行く前に》
いさどん:
僕からお釈迦様が離れて23年、ひとりで歩んできたが、今まで弱音を吐くことはなかった。それは、この道が大事であると自らに言い聞かせて歩んできたから。
しかし、昨日、マトリマンディールの一番上の部屋に入って、天と対話をしたとき、もう一度自らの使命を確認した。そこでは自らの役割を再確認すると同時に、久しぶりに自分の中にある揺れる心を現した。しかし、また自らの足で歩み出せば、揺れる心は奥にしまわれてなくなる。
それから、マトリマンディールを出て、菩提樹のところでマザーと対話をした。彼女は、「私が支えますから」と言った。それは、天とともに歩むということ。
そこで、揺れる心がどこから湧いてくるのかを探ってみた。その揺れる心は自分の心臓の下、へその上のあたりにあって、赤い炎となって燃えている。それをよく観てみると、わかってほしいという心があるから苛立ちになり、それが揺れる心になって、赤い炎として揺れていた。
さらに、そのわかってほしいという心が何であるのかを探ってみると、それは真実に目覚めてほしいという心。そこには一切、自らの為という心はない。ただ真実に目覚めてほしいというだけのこと。そこで、真実に目覚めてほしい対象は誰か。それは、人々に真実に目覚めてほしいという強く燃える炎である。振り返ってみたら、この道を歩み出して30年あまり、ずっとその心で生きてきた。人々に真実に目覚めてほしいという一途な心で歩んできた。
今、その赤い炎が黄金の炎に、そして黄金から白光に変わろうとしている。それは、自らの心の段階を昇っていく過程でもあるが、同時に時代が移り変わろうとする段階も示している。今までの時代は、真実を語っても、真実が真実として通らない時代だった。しかし、これからは魂のこもった真実を語れば、それが通っていく時代に切り替わっていく。そして、その流れがさらに強くなっていく。だから、真実に目覚めてほしいという心はいらなくなる。真実が通らない時代には、情熱という赤い炎がなければ歩んでこられなかったが、時が移って真実が開かれる時代に入り、真実を語れば情熱を持って熱く語らなくてもそれが広がる時代になった。
そこで気づいたことは、今まで情熱の熱い炎で役割を果たしてきたことが、自らをもその熱によって焦がしてきたということだ。それをマザーが、「私のところに来なさい。その焼かれた体を癒してあげますから」と伝えてくれた。そして、天の存在が示す真実を人々に降ろす役割をもう一度再確認した。これからもそれをやり続ける。そして、これからは心の中で赤い炎を燃やす必要はなくなった。燃やすのではなく、ただ湧いてくる光とともに流して行けばいい。
ああ、楽になった。今までずいぶん酷使してきたものだ。
その想いが強かったから、面倒くさいと思う心も沢山出てきた。このような大切な道を歩み、世の為に生きる者が、面倒くさいなどという心を持っていること自体が、道に対する矛盾を生んでいたのだろう。それが自らを焦がしてきたことに気付いたのだ。
難しい時代に、難しい役割を受けて、これまで歩んできたから、やはり情熱が必要だった。だから、心の中には赤い炎が燃えていた。これからはその炎を燃やさなくても、ただこんこんと湧き出る真理を示していけば伝わっていく。それは、いよいよ天が地上に采配を振るう時が来たということ。そして、地の者がそのことを理解し受け取って、実行していく。それが、天と地が共に創造する時代。
なぜ今まで30年も、言いようのない不快感を持って生きてきたのか。
ようこ:
その総仕上げとして、インドに来る前に逆流性食道炎と胃潰瘍、十二指腸潰瘍をいただいて、人生で初めてステロイドの点滴と服薬を経験した。
いさどん:
良いも悪いもすべてなしにして、新たな気持ちで行きなさい(全てをステロイド!)、ということ。(チーン♪)
ようこ:
そうしたら、情熱の炎が消えた。
いさどん:
ただ真実を語るのみ。「感情を抜きにして、物事を観なさい」と昨晩夢の中でずっと人々に語ってきた。その精神の状態はとても人の心を惹きつける魅力的なものであり、ひとたび人々の前に出て語れば、いつでも真実は湧いて出てくる。その真実は僕の内にある。そして、これからは情熱の赤い炎を持って語らなくてもよくなった。今までの焼けた体はマザーが癒してくれると言ってくれた。
ようこ:
菩提樹のエネルギーは本当に癒しの、生まれ清まりのエネルギー。元の響きに戻るエネルギー。
いさどん:
真実の側に立て。真実は自我の中にはない。それは天の側にある。真実の側に立てば、自らの内にも天が存在する。自我を離れて、天の側に立てば、真実を生きることになる。それは、生命として生きることである。
人々に語る場所に出会ったら、いつでも真実は湧き出てくる。今日はここオーロヴィルで木の花のプレゼンをする。記念すべき一日目だ。それをスタートとする。今から焦げた体を癒されに菩提樹のもとに行こう。
昨日、僕はコンクリートで作られたマトリマンディールを見て疑問が湧き、マザーに「ずいぶん人工的なものを創りましたね」と問いかけた。そうしたら、マザーからは「そうですね。時代はこのようなものが必要な時代でしたから」と返ってきた。そこで僕が、「どのような素晴らしいものも、心の中に創るべきですね」と伝えると、マザーは「そうなのですよ」と言った。デリーで行った黄金の寺院も、あのマトリマンディールも、宇宙の真実を表現しているとしたら、それは人の心の中にこそあるべきである。あのような形にするものだから、人々はその形に惹かれて、自らの心の中に真実を創ることを忘れてしまう。だから、これからはひとりひとりの心の中に黄金の世界・光の世界を見出していく。
マトリマンディールがなくても、どこででも真実に目覚めることはできる。マトリマンディールを否定するつもりはない。まだ途上の者には必要だが、眼が開いた者には不必要になる。
そして、あの素晴らしいマトリマンディールの設計は木の花曼荼羅を球体にしたもので、宇宙の構造を表している。誰でもそれを精神性で心の中に創ることができる。宇宙自体が精神性によって創られたもの。だから、そういった時代が来たことをマザーと確認し合った。
そして、我々には宇宙をコンパクトに表した地球という住まいがあって、そこに生きている。つまり、「フトマニ」の中に我々は生きている。
だから、「十(ヒト)」という個人の悟りから、コミュニティ・生命ネットワークの悟り、そして道教による「天は丸く地は四角」という「フトマニ」の悟り・宇宙創造の法則の悟りへと進んでいくことができる。「十(ヒト)」の悟りという個人の悟りから、全人類の悟りへと二段階も時代は進んでいく。自らの中にある真実の扉を開けさえすれば、真実はいくらでも内から湧いてくる。
《11月23日昼の話・マトリマンディールに行った後》
いさどん:
とりあえず今日は、今まで焼けてきた体を癒してもらおうと思って行ってきた。それで、これからどうしようかという想いが浮かんできたときに、マザーがにこっと笑って、「あなたの役割を手伝いますよ。天の計らいがないと、地上の人間の力だけでは、いくら霊的なレベルが上がっても、事はなっていきませんから」と言ってくれた。
今日も改めて感じたのは、マトリマンディールが聖地なのではなく、地球そのものが聖地であるということ。我々が生命として、人間として、この聖地である地球に生きることは、宇宙の多くの魂からしたらうらやましい限り。それを理解することが、「フトマニ」の悟り。
道教の教えで「天は丸く地は四角」という言葉がある。それはフトマニのこと。だから、孔子はカタカムナのからくりやフトマニの悟りのことを理解していた。そして、それを「道(タオ)」だと説いた。
《11月24日朝の話・昨日のプレゼンテーションを受けて》
いさどん:
昨日のプレゼンテーションを振り返ってみると、あれで十分だったのかと思う疑問の気持ちもあったが、そこでマザーから「受ける対象の意識の段階がありますから、あれでパーフェクトですよ」と伝えられた。彼女はいつも笑っている。
僕が最初の神様に出会った当初は、僕が何か滞りに出会って上のほうを見ると、天は「何も滞りはないぞ。滞っていることは何もないぞ」といつもにこっと笑っていた。さらに僕が、「どうしたらいいのでしょうか?」と尋ねたり、「あなたは何の為にそこにおいでになるのですか?」と聞いても、いつも返ってくる答えは、「何も滞りはないぞ。滞っていることなどどこにもないぞ」ということだった。(地上で人間の出会う滞りと解釈する出来事も全て天の采配であることを指している。)
マザーもそれと同じ姿勢で僕を観ている。しかし、違うのは、神ははじめの頃、「何も滞りはないぞ。滞っていることなど何もないぞ」と表して、その返答は常に固定されたままであった。ところが、マザーは「パーフェクトでした。良かったですよ」と言いながら、「私は私でやることをやっていきますから」と言う。最初の頃の天との関係は見守られていたことに対し、マザーとは「私は私の役割を果たしますから、あなたはあなたの役割をしてください」という共同の関係になっている。
そこで僕が、「インドの旅ももうすぐ終わりますね。ところであなたは日本でもこうやって私のサポートをしてくれるのですか?」と尋ねると、マザーはにこっと笑って、「日本もここも地球ですよ。ひとつの世界ですよ。」という言葉が返ってきた。
《11月24日夜のミーティングにて・ポンディチェリー・オーロビンドのアシュラムに行って》
いさどん:
今日11月24日は、今回のインドの旅のきっかけになったオーロビンドのアシュラムが公開される日であり(年4回のうちの1回)、オーロヴィルの友人・プラサドが今年木の花を訪問したとき、この日に僕をオーロヴィルに招待したいと言ったのがきっかけだった。
今、トイレに入ったとき、マザーと会話した。それはマトリマンディールに行ったときより、今のほうがマザーとの距離が遠いから、「これからどのようなお付き合いになるのですか?」とマザーに尋ねて、「面倒くさいから、僕の体の中に入ってくれますか?そうしたら、健康管理もしてもらえますし」と伝えると、彼女は笑いながら「いいわよ。でも、私があなたの中に入ると私の客観性がなくなるから、本当は外にいたほうがいいのよ」と言うので、それはそれでもっともだと思った。だから、「それならどちらでもいいです」と伝えると、「じゃあ、好きなように出たり入ったりしますね」と言っていた。
こういった会話も、波動量が上がってはじめて成立すること。
それで今日行ったオーロビンドのアシュラムでの出来事を振り返ってみる。まず、ポンディチェリーのアシュラムで昼食を食べるためのチケットをもらいに行ったとき、そこにオーロビンドとマザーの展示場があった。そのあたりから、僕はマザーと一緒に展示場をずっとまわっていた。展示はすべて英語で書いてあるから僕に内容の理解は難しいのだが、写真を見てまわるたびに登場人物やマザー自身のことをすべて彼女が説明してくれた。僕は何だか嬉しくなって、まわりの皆にそれを伝えたくなった。その説明はとてもリアルでわかりやすいものだった。親しい友が語ってくれているようで、とてもよく理解することができた。楽しい時間だった。
その時点でオーロビンドの魂は全く感じられなかった。
次に、オーロビンドのアシュラムに向かう途中、路上で何人かのインド人がいろいろなおみやげをしつこく売りつけようとしてきた。その中のひとりはタトゥースタンプを売りつけようとしてきて、僕の手の甲にシルバーのタトゥースタンプを見本として押してきた。それは、木の花でインドナイトをするときやお誕生日会のときには重宝するから買っておこうと思ったので、アシュラムに行った後に買うよ、と彼に伝えた。それで、どうせ買うなら彼から買おうと思っていた。それはたとえ彼らでも、日本人はちゃんと約束を守るとか、礼儀正しいと思うかなと思ったからだった。それまでもいろいろな所でそのような意識をすることがあった。靴を脱ぐときなどにも日本人らしくしようという意識が働いた。だから、彼との約束も守ろうと思っていたのだが、結果アシュラムの出口を出たときには違うところに出たので、約束の彼とは会えないだろうと思い、そこに居合わせた違う人から買った。しかし、買った直後に最初の彼が僕を見つけて駆け寄ってきた。結局、仕方がないこととは言え、やはり日本人の精神性を示すべきだと思った。今でも心に残るエピソードになった。
ようこ:
その最初の人と出会い、アシュラムに入る前に、いさどんが私の両腕から金粉が出ていることを発見した。
いさどん:
アシュラムに近づくにつれてようこの体調が悪くなっていったのだが、彼が僕の手にシルバーの模様をつけたとき金色は全く使っていなかった。それで彼が僕の手にスタンプをつけ終わってから、何となくようこの右腕を見たら、きらきらと光っていた。金粉が出ているよと言ったら、彼は「それは僕の持ってきたスタンプの粉が飛んだんだよ」と言ったのだが、彼はシルバーしか使わなかった。彼のスタンプセットを見ても、そこに金色は見あたらなかった。それでようこが着ていたブラウスの右腕の部分をまくり上げてみたら、腕の上のほうにも金粉が出ていた。左腕はどうかと思って見てみたら、右腕よりは少なかったが肩のあたりまで金粉が出ていた。
これは、どう考えてもスタンプの粉が飛んだわけではないと思いながら、そういえば1年前の11月22日、浅間大社の湧玉池で雅秀さんがアワの歌を奏上したときに、いさなの頭から金粉が噴き出てきたことを思い出した。だから、きっと何かこれには意味があるのだろうと思って、アシュラムに入った。
アシュラムに入っても、相変わらずマザーとは明快に対話しながら、アシュラムの内部を案内してもらっていた。その内容は、まるで日常会話のように、しばらく会っていなかった親しいお姉さんと話しているかのようだった。
アシュラムには棺のようなものが置いてあり、それを横目で見ながら左のほうに入っていったときに、初めてオーロビンドの魂を感じた。
その魂は、僕の目線を誘導するように、その辺りにあるいろいろなものに目線を向けさせた。同時に僕の指も一つ一つその目線の先のものを指していく。植物があり、その葉っぱがあるとか、大理石の柱があるとか、壁のペンキの傷だとか、それを僕が指差すと、「そこに私はいる」、「そこにも私はいる」、「どこにでも私はいる」と言葉が降りてくる。それで、その存在はすべてに遍満している存在なのだと直感したら、「すべてに遍満しているということは無である」と降りてきた。つまり、すべてに遍満しているということは、その存在は特定の位置に立たないから、すべてが自らであり、自ら(自我の特定)はないことになる。
無という境地は深いものであり、仏教で伝えられている奥にある存在なのだ。そして、もしかしてこの魂は地球の魂なのではないかと直感した。
それでインドに来る前からのことを振り返ってみることにした。そういえばインドに来る直前に、高野山と熊野本宮・奥之院・玉置山にある玉置神社(世界の高天原)に行ってきたこと。そこでカタカムナ奏上と花祭りの鬼の舞を奉納してきたこと。その後、熊野の一番の高みから、熊野・吉野を下って、和歌山県の海辺にある日本最古の神社・花窟神社に行ってきたこと。(そこには太平洋が広がっている。)
これは、日本を世界地図でたとえればヒマラヤにあたる玉置山にまず我々は行った。そしてチベットは高野山にあたる。
そこからガンガー(熊野川・吉野川)を下って、オーロヴィルに行き、さらにそこからポンディチェリーにあるオーロビンドのアシュラム、つまり花窟神社に行った。そして、インド洋(太平洋)を望んだ。これは日本での奉納の旅と同じことをインドでしていると気付いた。
そして、オーロビンドの魂は国常立命・艮の金神だと思った。日本では艮の金神は人の姿に化身しなかったが、元々天教山である富士山に魂が降りて地球のマグマの中に入り、それが地球のヘソ・ヒマラヤへ噴き出し、聖なる人々によってガンガー(地球の子宮)を下り、インド洋から世界に広まったということは、これは地球すべての元である艮の金神の軌跡なのだろう。
最初はそれがわからなかった。つまり、アシュラムのオーロビンドの棺のところで人々がひれ伏している姿を見たときに、マザーに「あの方の魂はそこにおいでになるのですか?」と問いかけた。それで、僕もそこに行ったら同じことをするのだろうかと思っていたら、マザーは「いいのですよ。感じるように行動しなさい。そうしたらわかるから」と言ったのである。
途中でそれを思いながら進んだ。アシュラム内にはオーロビンドが椅子に座っている写真があちこちに飾られているのだが、その椅子の実物が置いてあった。それを見たときに言葉が降りてきた。
「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」
それはまさしく艮の金神の言葉だ。それで僕が、「あなたは私の中においでになりますね?」と尋ねると、「私はあなたの内にも外にもどこにもいる」と言われた。それでなるほどと思い、あの棺のところまで行かなくてもいろいろなことが紐解けてきた。
その後、列が棺のところへ近付いたときに、これは皆と同じような姿勢を取るべきだと感じ、棺に手を掛けひれ伏した。そうしたら、この魂は国常立なのか、出口王仁三郎なのか、どちらなのだろうと思った。というのも、オーロビンドとマザーは、出口王仁三郎と出口なおの関係のようでもあるから。ところが、出口王仁三郎は艮の金神がかかったとは思えないが、艮の金神を世に出した人でもある。
どちらとも結論は出しがたいが、自分の中にひとつの結論のような流れが湧いた。それはこれからの流れを考えたときに、その魂に玉置から始まって日本で出会うことと、インドで出会うことは意味が違うと思った。
これは6000年の再スタートであり、25800年の半分は12900年、その半分は6450年、その四半分の再スタートのように観えた。だから、インドや中国の文明は6000年の歴史を持っているし、6000年という数字が僕の中で出てきた。その歴史の切り替え時である新たなスタートだから、日本ももちろんそうだが、これからはインドが発信源となるのだと思った。(日本、中国、朝鮮、インド、東アジア、東洋文明がこれから世界をリードする時代の始まり。中国天盤の巡り。)
後は、マザーが伝えてくれたように、「私が手伝いますから。あなたは自分の感じたようにすればいいのよ」ということだから、大それたことだと思わずに、ただ流れのままにやるだけ。
人間はやるべきことをやり、天はそのやるべきことのために出会い(流れ)を用意する。だから、人間は出会いを考えなくていい。ただやるべきことだけをやっていけばいい。我々は特別なことはしなくていいのだ。(人事を尽くして天命を待つ。)
ようこ:
だから、私の両腕から金粉が噴き出た。天が特別なことをしてくれるから、私たち人間はただ当たり前のことをやっていけばいい。
いさどん:
ただ感じたままを生きていく。我々は生きることに自らの意志はない。
現代人は自らの意志、我から湧き出る欲望を満たすことで生きている。そういった愚かなことはもうやめないといけない。自我の意志は捨てて、直観で今、目の前にあることをやっていく。それが天につながっている人間の姿。
天とつながっていると、天はふさわしい出会いを用意する。逆に言うと、天とつながらないと、自我の意志で生きようとして天との矛盾が発生する。天はそれに対して矛盾の分だけ出来事を与える。
これは明快な道理で、次の時代を生きる人々はこのカラクリがわからないといけない。だから、世界観を広げ、波動量が上がっていかないとそれが理解できない。波動量を上げて、直観で感じ、天の意志で生きることが最もムダがなく簡単なこと。それは頭で損得を考えない、段取りをしない、法則のままに流れていくことである。
今の人間は賢いつもりで頭を回し、自我におぼれて物事の本質を外してばかりいることになる。多くの人々は外していることさえもわからないような者になっている。
それで、アシュラムを出て、昼食を食べるためのホールに向かうとき、マザーからの「もう仕組みはわかったようだから、私は行きますね」という言葉とともに彼女を感じなくなった。その後ホールに入っていくと、マザーの大きな写真が壁に飾ってあるのが見えた。すると、彼女はまた僕に語りかけてきた。それで、「さっきは行きますねと言ったのに、また戻ってきたのですか?」と聞くと、「私の写真があるところには私の魂はあるのよ」とマザーは言った。
それは、インドにはオーロビンドのアシュラムが沢山あって、その寺院ごとにオーロビンドの分霊がいるように、写真があるところにはマザーの魂がいるということである。小さな写真はパワーが弱いのだが、大きな写真は強いパワーを持っているという。それと、写真の中のマザーの表情によって、そこから発せられるエネルギーも内容も違う。それは興味深く面白いと思った。それで僕が写真から離れると、彼女の存在は感じなくなった。
そして、アシュラムの出口のところにあるみやげと本を売っている店に入ったとき、本はいらないが写真はいると思っていた。しかし、自らその写真を選ぶ気持ちは生まれなかった。そこでは自分の意志はなしにしていただくことだからと思って、出口から外に出た。
そこでは自らの意向がわからない者が選んだ写真が神の意志だと感じ、みちよちゃんとまゆちゃんに託して代わりに買いに行ってもらった。自分の意向がわかる者が選んだら、それは天の意ではなく、結局自らの意志になってしまう。僕がオーロビンドとマザーのふたりがセットで写っている写真がいいと内容をイメージしていたら、その写真を3枚ふたりは選んできて、しかも眼鏡ケースに入れる小さな写真まで買ってきてくれた。僕の眼鏡ケースにはひとみちゃんの写真がいつも魔よけ(笑)として入れてあるのだが、そこに入れるといいだろうとみちよちゃんが思って、僕があの表情が一番いいとイメージしていたものを選んできてくれた。それと、3枚ある大きな写真のひとつを僕の部屋に飾り、ひとつはひまわりのホールに飾るといいと思った。(結局、残りの一枚はようこの部屋に飾られることになった。)
その時点ではマザーの魂はもう近くに感じられず、遠く離れていたから、僕が「日本に行っても、私たちは同じ関係なのですか?」と聞いた。そうしたら、マザーは笑って、「日本もインドも地球よ。あなたが活躍するところにはどこにでも私はいるわ」と言った。
僕は中山みきさんから兄弟の魂と言われていたが、そういった守護霊的な交流はなかった。しかし、今回インドに来て、マザーの魂とは本当に親しく接することになった。そして、中山みきさんとマザーも兄弟関係のようなものだと感じる。それに対して、シュリ・オーロビンドの魂は僕にとってさらに馴染みのある魂だった。マトリマンディールでマザーに、「あの方の魂はどこにおいでになるのですか?」と尋ねたとき、「あの方はもう上に昇られて、宇宙と一体の存在ですよ」ということは聞いていたが、その実体は国常立命だった。日本で玉置神社に行った後、海辺の花窟神社から太平洋を望んだように、ここインドの地でもヒマラヤに行った後、オーロヴィルに行き、海辺のポンディチェリー・オーロビンドのアシュラムに行って、インド洋を望んできた。
じゅんぞう:
ビーチにガンジーの銅像があったのですが、ガンジーとオーロビンドはどのような関係だったのですか?(ポンディチェリーの海岸は、ガンジーが独立運動のときに塩の道の行進の後、塩を作った海岸でもある。)
いさどん:
どちらも、インドの独立運動の大きな勢力の一人だったとは思う。デリーでガンジー記念館に行ったとき、記念館に入る前の道路で彼の魂が温かく迎えてくれているのを感じた。その後もあたりに彼の魂を感じた。彼は僕にこう言った。
「新しい時代が始まりましたので、皆さんにつなげていただきたいと思います。よろしくお願いします。」
ようこ:
オーロビンドの誕生日が8月15日で、その日がインドの独立記念日でもあり、しかも日本の終戦記念日でもあるのだから、やはりインドと日本の関係は深い意味がある。
いさどん:
もうひとつ、艮の金神が出口なおにかかって、大本という組織ができて信仰の対象になった。今日オーロビンドのアシュラムに行って、それと同じことがインドでも起きていると感じた。
大本の教えでも意識は高いし、オーロビンドの宇宙観も元々は我々と同じなのだが、それが生活に反映されていない。大本の信者たちもご利益主義に陥ってしまっている。やはりそこは、ひとりひとりの意識が目覚めて、世の中の目覚めに役立つ者になる流れに切り替わることが大切。
ようこ:
それがコノハナ人のあり方。実践する人たちのこと。
いさどん:
昨日のオーロヴィルでのプレゼンテーションを受けて、さらに僕たちの話を聞きたいということで連絡を取ってきた人たちがいる。そうやって、早速、事は動き始めている。
《11月26日の朝の話・マザーからのバトンタッチ》
いさどん:
人は形を整えることばかり優先して、心を整えることを忘れてしまっている。そして、心を整えることを忘れるどころか、心が整っていないことすら気付いていない。心が整っていないと、どんなに優れた形を創っても、結局それは有効なものにならない。それどころか、この世界に害をもたらす。
だから、ただひたすら心を整えることを大切にすること。それは、他者を想う、自らの意志を保つこと。しかし、人は自らの欲望を叶えようと、欲望の満足ばかりを追い求める。そして、自らの心に向き合わず、外にばかり心を向ける。だから、教えを書物や経典から引き出そうとする。そして物質的な豊かさを求めることばかりに走っていく。
現状のままでは天から与えられた役割を人類に果たすことは難しいと思って、今朝は少しうつっぽくなっていた。それが面白いことに、体の左側を下にして寝ていたときにはそういう気持ちになった。これはいつもの朝うつだと思って、だから何はともあれ目の前にあることをやろうと思い、今度は右側を下にして寝たら、前向きな気持ちになった。難しいと思っていた心が消えて、ただ粛々とやるという心が湧き出してきた。
大事なことは、どこがポイントなのかをつかむこと。
「どれほど人々が優れた形を求めても、心が整わなければ、形は良いものとはならないのです。心がすべてを決めるのです。良し悪しは、心の状態で決まります。」
今朝、ネガティブだったときには、マザーに助けを請う心が出てきた。しかし、そういったときには全く反応がない。だから、見捨てられたような気持ちにもなる。それは自らにとって都合の悪いときだけ求める心。
そして、同じように何も感じられなくても、大事な基本を思い出したとき、つまり心が整うと、それにふさわしい形が現れて、その形は有効に作用する。そして、そこから身の丈に合ったものを求めるようになるし、それが足るを知る心につながる。そして、ありがたい心がそこに湧き出てくる。
昨日、ポンディチェリーの町へ行ったとき、一般インド社会の人々にはまだ物を求める心が強くて、それはとてもパワフルである。一方、オーロヴィルの村の中に来ると、外国の人々が多いせいか、物を求める心は強いものの、すでに物質的に満たされているように感じた。だから、ある意味生きていることにそれほど危機感を感じられない。
そこで、物の豊かさに見合った心を求めていけば、それもパワフルにつながるのだが、物が豊かになっても真理を求める心が伴わないと、自己主張が始まり不調和が広がる。だから、人は常に心を磨いていかないといけない。それで、心を豊かにして、それにふさわしい現象をいただくことだが、現在のオーロヴィルの中にマザーやシュリ・オーロビンドの精神が薄れていることを感じた。
心を整えて、心のバランスを保ち、自らを客観的に観察することから、自らの存在をよりバランスの良い社会の成り立ちにつなげる。そこが一番のポイントで、物が優先して豊かさの中に生きている人は、豊かなことすら忘れてしまう。だから、心に不平不満を持ってしまう。
物が貧しい者は、少しの物を与えられても、ありがたいと思う。しかし、心が貧しいと、さらにもっと欲しい心になってしまい、エネルギーはパワフルになるが、欲望のとりこになって豊かさを求める心が人や社会の弊害を生むことになる。
やはり、すべてのベースに心の豊かさがあることが大切である。まずは心を豊かにして、形の豊かさを結果としていただくことの基本を想う。
働くということも、心が貧しいと、自らの為に欲望を満たそうとして働く。それは、傍を楽にするのではなく、自らの欲望を叶えるだけのこと。
大切なのは、この世界が自らを生かしてくれていることをいただく。だから、世界の為に貢献すると、自らも傍も楽(傍楽)になる。
そのことが一番大事とわかる位置まで心の波動を上げれば、形は自ずとついてくる。そのことの優先順位が人間にはわからない。
しかし、どんなにわからない者がいても、「なぜあなたはそれを伝え続けるのですか?」と問われれば、「そこにわからない者がいるからです。そして、そこに不幸があるからです。だから、伝え続けるのです」と答えるだろう。そうやってこれからも歩んでいく。その心でいれば、天は共に歩み、形を用意してくれる。
ヒマラヤは美しかった。偉大だった。ヒマラヤからガンガーを下ってインド洋まで来ると、その道中には人間の欲望の心が沢山反映されていて、潜象界から始まって現象界の自然、そして人工へと表現され、歪んでねじれてこの世界を表している。ヒマラヤの純粋な人々もこれから欲望に目覚めていくのだろう。結局欲望に目覚めると、あの山を降りて人工の里へ降りていくのだろう。
そこで、人々をどのように導こうかと考えるのだが、それは時代と天の意志なのである。だから、考える必要はない。大切なのは、常に天とともに生きる意志。道は天が握っているということだ。
日本の神話では、天孫降臨といって天が降りてきて地上を治める物語になっている。それは歴史的には支配したと見られているのだが、それは天の心を地上に降ろし(地球は宇宙法則によって成り立っている)、それを地上に生きる人間たちが受けて、地球上に実現するという仕組みをさしている(地上天国)。
地上を生きる者たちが自我に溺れ、天を忘れた今こそ、もう一度天の心を思い出し、天(宇宙法則)とともに地を生きていく。それが地上天国である。
しかし、肉体を持つ役割の者(人間)は、どうしても五感を与えられるとその五感の魅力にとりこまれてしまい、地の者は天の存在を忘れてしまう。それで、「地(チ)」が濁って「自(ジ)」、つまり自我ばかりで生きていくことになる。だから天は、天の心を思い出すように常に働きかける。そして、天地の心がひとつになったとき、地上天国が常にあり続ける。
あのマトリマンディールは上から太陽の光が水晶に降り注いでいる。そして、その光は一番下の水の中心にある水晶に降りている。それは「カ(火)」「ミ「水」」を表している。そして、十(カミ・カタカムナ的には「ヒト」と言う)が地上に降りると、土(ツチ)になる。それは天が地に降りて命となる仕組みを表している。
マザーは僕にこう言った。
「マトリマンディールは、人々の心の中に表現されるべき宇宙の真理の型です。」
だから、僕はこう伝えた。
「そうですね。これからは人自体が神殿ですから、人の心の中に宇宙の曼荼羅が表現される時代なのです。だから、あなたの想いを受け継いでいきます。共に歩んでいきましょう。」
全人類の心の中に宇宙の曼荼羅が表現される為に、我々はこれからも天とともに歩んでいく。
3 thoughts on “天教山から地教山へ向かって”