いさどん:
自分の歩んでいる道が何であるかを考えていた。
そこには、答えがない。ただ、人間というものの可能性の幅は非常に広い。私の歩んでいる道が何であるかと考えた時に、その中のひとつであることは確かだが、それがイエスなのかノーなのか、何であるかはわからない。
そこで、私の歩んでいる道は何なのですかと問うと、人間の歩むべき道、という答えが出てきた。
しかし、人間の歩むべき道は幅が広い。ではこれもその中のひとつにすぎないのかと考えてみると、それは私のとるべき道である。「私」というのは、天のこと。そして自分自身のこと。それは天のとるべき道であり、私という自分自身のとるべき道である。
自らに囚われて「私の道」を見ると、たくさんの中のひとつにしか過ぎない。しかし、自らに囚われずに、人のあるべき道、と捉えると、私のとるべき道、つまり、天のとるべき道は、私という自我のとるべき道。
それはどういう道なのかと考えると、この世界の仕組みの映像が浮かぶ。だから、それでいいのだ、と思う。ただそこに道があるのみ。
ただし、今の世界の状態から見ると、それは孤独な道でもある。
しかしまた、こうも考える。今、この形で生を紡いでいることは、多様な「私」という存在の幅の中の、一点にしか過ぎない。この期間はこの形である、というだけのこと。そう捉えると、この孤独も、どうということではない。
ともこ:
だけどいさどんは、もっと通じ合いたいと思ってるよね。
いさどん:
誰と?
ともこ:
みんなと。
いさどん:
そうだね・・・確かに。
しかしそれは、こちらが何か不足していることを埋めるために通じ合うことを求めているのではない。通じ合うということは、少なくとも同じ視点に立つということ。そうすると、共通した認識のもとにいられる。
それは、何か共通点がなければ淋しいというような意味ではない。ただ、人が高まっていけば当たり前に観えてくる景色を、観てもらいたい。そしてそれを観たら、そこにふさわしい姿勢になるだろうということを伝えているだけ。
それを客観的に捉えると、今、時代はそのような位置の視点で生きる者たちを求めている。しかし、自分の時間軸から捉えると、それがなかなか成らない。
一人ひとりに、自我がある。自我とは、自己愛。自己愛とは、宇宙の究極の姿。
この世界は全て、自己愛によって紡がれている。究極の自己愛とは、この世界を紡ぐための部品となること。それは、自我を超越した状態。自我を超越した自我の状態。
それを感じると、心が躍動する。心の躍動とは、喜びのこと。そういった世界を、ただ表現したい。
それは究極の喜びだ。そこへ到達することが最終目的であるはずなのに、人間は自我を満たすことにばかり囚われて、囚われに喜びを求めている。それでは究極の自己愛にはつながらない。
そこで、私とは何だろうと考える。それは、たくさんの人間の可能性の中のひとつである。
それは私という天の望みと、私という自我の望みが共通している点のところを歩んでいる。それは、たくさんの可能性の中のひとつ。人間にはたくさんの可能性がある。その中のひとつに過ぎない。
人間は、自らが受け取れる範囲内のものを良しとしたいもの。それが囚われであっても、それを良しとしたいのだ。しかし、そこを超えていかなければ次が観えてこない。
この広い宇宙の中で、人間たちが当たり前と思って生きている今の地球上の姿は、特殊の特殊の特殊の世界だ。人間は、そのことに気付いていない。良くも悪くも、特別の特別の特別を生きている。そこに気付いていないから、こういう形で存在していることの本当の価値がわからない。だから、人間であることを生かせない。
今のところ、それは人間一人ひとりの意志ではなく、天の采配によってしか、成っていない。本来人間は、天と協議しながら道を歩むべき者なのである。
ともこ:
ある意味、人が歩むべき道を歩む時に、本人の意志はないと思ってた。
いさどん:
意志は、天からわざわざ与えられ、地上に降りてきている。そうでなければ、この世界の大本の存在がむなしいから、人間に意志を与えた。
そして、互いに協議しながら築いていく場を創った。そういったところへ登りつめる可能性を、人間に与えた。しかし、人間はそれに気付かず、生かし切れていない。
ともこ:
いさどんや木の花のこれまでの歩みを見ると、こういう世界を創ろうという自分の意志によってやってきたというよりも、天から道を与えられて、それをいただくことを選択してきた、という感じがする。
いさどん:
与えられたことをいただくという意志を選択してきた。それが、自らの意志だということ。ただ、そこが本当に解釈できているかどうか。与えられるままに生きることが、与えられたのではない自らの意志であるということだ。
人間には自我があるから、天と共にその道になり切ることが難しい。そこでは自我が邪魔をする。我々は、そこになり切るという道を歩んでいる。
これからも、この道を歩む。これしかない。時代はそのように進んでいる。他に選択肢のない自覚を、自らの意志で選択している。そこには強い意志があり、そこには自我の意志はない。