自分発、世の中を良くする人になって下さい ~ コロナワクチン接種の話から

木の花ファミリーでは、何か決めごとをする際に、常にみんなでその内容を共有し、全体の総意の下に物事を決定します。
現在、新型コロナウィルスのワクチン接種については、自身が媒体となって感染を拡大することを防ぐという社会的責任を果たす意味もあり、大人メンバーは全員がワクチンを接種することを決定し、順次接種を進めていますが、子ども達がどうするかについては保留となっていました。そんな中、同級生に感染者が発生した子どもから「ワクチンを接種したい」という声が上がり、ある日の子どもミーティング(毎晩夕食後に開かれる、子ども達がその日の出来事を大人を含めたみんなの前で発表する場)にて、改めて話をする時間が持たれました。
以下、その時のお話をご紹介します。


 

ジイジ:
今日は、みんなで大事なことを決定しなければなりません。そこでは、みんなの心が揃わないといけないですね。そこで今から、心が揃わないのはなぜか、という話をします。だから今日は、二つの話があります。

一つ目は、コロナワクチンのことです。ここでは、60歳以上の人はもうみんな2回接種しましたね。ジイジも2回打ちました。ワクチンを打ったからと言って、何か特別な症状があったわけではありません。60歳以下の人でも、ワクチンを打って何か症状が出た人はいますか?

まりねえ:
38℃の熱が出ました。

ジイジ:
それはまりねえちゃんの平熱だったりして。(みんな:笑)

みちよ:
私も平熱より2℃高い熱が出ました。

ジイジ:
それは、日頃のあなたの姿勢を見ていると、心が原因かもしれないね。とりあえず、そんなに大きな問題はなく接種が終わり、今は50代以下の人達が接種を進めています。

それで、今日の話は、20代より下の人達の接種をどうするかについてです。
ここでは、ジイジが話すことが決定ではありません。ジイジが話すことを強制する場ではないということです。ただ、大人については、基本的にみんな打つことにしました。それはなぜかと言うと、木の花ファミリーにはロータスランドというお店があり、たくさんの人が訪れます。そしてこの場所でも、こうしてたくさんの人たちが一緒に暮らしています。そこで感染者が一人出ると、クラスターとなって周りに広がっていく可能性があります。そして、こういう共同生活の場所で感染者を隔離することも、なかなか難しいのです。
ですから、そういった問題が起きないようにすること、そしてこのように大勢で暮らしている場所は特に気を付けなければならないという、社会的責任があることを考えました。みんなで共に生活する豊かな暮らしだからこそ、自分の家のためだけではなく、社会に対しても責任があるということを、大人達みんなで考えて、基本的には大人は全員ワクチンを打つことに決めました。ここまではわかるかな?

子ども達:
はーい!

ジイジ:
まずは大人が打ってみて、10代以下の人達については、どうするかを決めていませんでした。社会的責任という意味では大人よりちょっと軽いかな、でも大勢で暮らしているのだから打った方がいいのかな、と微妙なところです。
そこで、自分は打ってもいいと思っている人、打ちたくないと思っている人を確認したいと思います。正直に答えてください。打つか打たないかを決定するのか、それとも、それぞれのケースに合わせて対応するのかわかりませんが、まずはみんながどう思っているのかを確認したいと思います。打ってもいいと思う人!

(半数以上の子ども達が手を挙げる。)

ゆりか(中学生):
えー、注射痛いのに~。

子ども達:
そういう問題じゃないでしょ。

ジイジ:
じゃあ、やっぱりワクチンは打ちたくないなと思う人!

(数名が手を挙げる。)

ジイジ:
打ってもいいという人は、打ってもいいということだからとりあえず置いておいて、打ちたくないという人は、どういう理由があって打ちたくないのかな?

ゆうゆ(高校生):
「痛いから」っていうのは理由にならないからね。

ピッポ(小学2年年):
痛いからじゃなくて、ピッポはもともとコロナにはならないと思ってるから。

ジイジ:
なるほど、そういう理由ね。他には?はい、こうたろうくん。

こうたろう(小学1年生):
ワクチンを打つと動けなくなるから。

子ども達:
そんなことないから!

ジイジ:
それはどこで聞いたの?

こうたろう:
ようちゃん。

ジイジ:
じゃあ、ようちゃんは何を根拠にして、そういうことをこうたろうに伝えましたか?

ゆりか:
ワクチンを打ったら、痛くて腕が動かせなくなったってようちゃんが言ってたんだって。

ジイジ:
前に、ようちゃんは他の人にも、コロナワクチンを打つとみんな5年後に死ぬと言ってました。

子ども達:
えーっ!(笑)

ゆうとう(中学生):
それって、ただワクチンを打たせたくないだけじゃないの?

ジイジ:
もしもそうなら、5年後に日本はなくなるね。(みんな:笑)

ようちゃん(大人):
昨日ワクチンを打って、腕が上がらなくなったってこうたろうに言ったね。

ジイジ:
今も動かないの?

ようちゃん:
今日は大丈夫です。こうたろう、もう治ったからね。

ジイジ:
こうたろうは、この話を聞いてどう思いますか?

こうたろう:
腕が動かなくなったって。

ゆりか:
ずっと動かないわけじゃないんだよ。

ゆうとう:
動かないっていうか、腕が上がりにくいってことでしょ。

ジイジ:
こうたろうは、それを聞いたからワクチンを打ちたくないの?

こうたろう:
そう。

ジイジ:
今の話は、この後の話につながる話です。この話をよく覚えておいてください。
ようちゃんがこうたろうに伝えたことと、それを聞いてこうたろうが受け取ったことは、一緒だったのか、違っていたのか。そこにズレがあるかどうか。実際にようちゃんの中に、なるべくワクチンを打たせないような情報を流す意思があったのか。それとも、そんなつもりはなくて、ただちょっと腕が上がらくなっちゃったと言ったことが、こうたろうの中では「一生腕が動かない」という話になっていったのか。そこは重要なところです。
他にワクチンを打ちたくない人は、どんな理由がありますか?(子ども達がパッと答えないのを見て)あのね、「打ってもいい」という人は、打ってもいいわけだから、理由はどうであってもいいんだよ。だけど「打ちたくない」という人には、その理由を聞いて、それを尊重するべきかどうかをみんなで考える必要があるでしょう?

なり(中学生):
うちでは、ジイジが作ってくれたレンコンとか栄養のあるものを食べてるし、たぶん免疫力があると思うから、別にワクチンを打たなくてもいいと思った。

ジイジ:
うちのレンコンを食べるとコロナにかからないという理由は、どこから持ってきたの?

なり:
コロナにはかかるけど・・・(みんな:笑)

ジイジ:
あのね、大人たちが社会的責任としてワクチンを打とうと決めたのは、自分がかかるかかからないかではなく、かかった場合にそれを他の人にうつすことがあるから、その責任を考えようということで決めました。自分は免疫力があるから、かかっても大して重症化しないから大丈夫、ということだと、自分がかかって他の人にうつしてもいいという話になるんだよ。それについて、どう思う?

なり:
人にうつしたら、いろんな人が困るから、人にうつしていいということじゃない。自分一人だったらいいけど、他の人のことを考えたら、打った方がいいと思いました。

ジイジ:
ジイジは、打つ方向に誘導しているわけではなく、今の打たないことの理由について話してるんだよ。そういう理由の元にある心について、考えなきゃいけないねということです。
はい、他に打たないと言った人の理由は?

あまの(保育園児):
5年後に死んだらいやだから。

ジイジ:
そういう怪情報を流した人がいるんだよね。「それは違うでしょう」という話をしても、「えー、ようちゃんがそう言ってたよ」という噂がいろんな所へ広まっていくと、消しても消してもその情報が一人歩きしていくんだよ。これはすごく大事な話だよ。
はい、他の人はどうですか?

なお(中学生):
打ったら運動がしにくいということと、熱とかが出たらイヤだから。

ジイジ:
それは自分のためということ?さっき、なりに話したことについてはどう思う?

なお:
それだったら、打てばいいかな。

ジイジ:
だから、前の人の話をきちんと聞いておいて、後の人はそれを受けて「そういう理由があるのか、じゃあこうしよう」と繋げていかないと、いちいち同じ話を繰り返さなければならなくなるよ。前の話をしっかり聞いて、そこに自分を乗せていけば、話はとてもスムーズに進みます。これも後の話につながる話だよ。
他にはどうですか?はい、みのちゃん。

みの(高校生):
みのはどっちでもいいんだけど、できれば打ちたくなくて、理由はただ単に注射が苦手だから。あとは、病院に行くのがイヤなんだよね。

ジイジ:
なるほど。そういう個人的理由ね。
今はもうそういう段階ではなくなっていますが、ワクチン接種が始まった時に、まずはお年寄りから始めましょうということになったね。どうしてか知ってる?

子ども達:
重症化しやすいから!

ジイジ:
お年寄りが重症化しやすい理由として、基礎疾患と言って、高血圧や糖尿病など、もともと病気を持っている人が多いんだよ。そういった人は、コロナウィルスに感染すると重症化しやすい傾向があります。だからお年寄りから打つことになりましたが、まあ、少子高齢化ということから考えると、なるべくお年寄りには打たないで、高齢で病気の人から旅立っていただいた方が、国のためにはなるかもしれない。

バァズ(おばあちゃんメンバー)達:
たしかに!(笑)

ジイジ:
だけど日本はそういう国ではありません。命はなるべく長く生きた方がいい、その内容については問わない、という国ですから、高齢者から先にワクチンを打ってきました。
ところが、先日も、40歳でコロナに感染し重症化した男性の話がニュースで取り上げられていました。これまでは、30代や40代で感染しても重症化しないと言われていたのですが、最近はコロナウィルスも変異しています。変異ってわかるかな?人間がいろいろな勉強をして新しい取り組みをするのと同じように、ウィルスも、人間がワクチンを打ったりいろいろな対策をすると、そのワクチンが効かないようになったり、より感染しやすくなったりと変化していきます。人間は世界中でワクチンを打とうとしていますが、コロナウィルスもそれに対抗しようとしているのかはわかりませんが、ウィルスとはそういうものだということです。インフルエンザもどんどん変化して、前のワクチンが効かなくなっていくでしょう?
現代医療では多くの治療で抗生物質を使用しています。抗生物質は、体の中で悪さをするウィルスや菌を殺すものですが、これには問題もあって、悪い菌だけでなく、いい菌も殺してしまうのです。そして人間の体から、抵抗力を奪っていきます。それどころか、菌の方が抗生物質を学習し、抗生物質が効かない耐性菌がいろいろな所で広まっています。そして、近い将来に現代医療が機能しなくなる可能性があると言われています。ですから、世界は将来もっと不安定な状態になります。
その時に、さっきなりが言った話に繋がります。本当に薬が効かなくなった時に何ができるのかと言ったら、薬に頼るのではなく、自分が病気に対抗する力を持つことです。これを何と言いますか?

子ども達:
免疫力!

ジイジ:
レンコン力とか、葉っぱ力だね(笑)。自分の力で対抗して治っていく力を身に付けるということです。それは、ワクチンを打っても打たなくても、いつも心掛けておきたいことです。
幸いなことに、ここには免疫力を高めてくれる力を持った食べ物がたくさんあり、毎日食卓に出てきます。そして、それを買ってくれるお客さんのことも考えながら、大人は作物を作っています。それはとても大切なことです。
だけどもっと大切なのは、先ほどの話のように、何の根拠もない意味不明の噂が広まっていくことがあるでしょう?その時に、そういったよくわからない情報を聞いて、正しく判断できる力を身に付けることです。これを「心の免疫力」と言います。不確かな噂を聞いて「わあ、怖い」と自分の中でさらに膨らませていくと、意味なく自分や人を不安にさせていくことになります。これはとても重要なことです。それだけで人はパニックになっていくのです。実際に「注射が怖い」と言って、その気持ちだけで具合が悪くなってしまった人がいましたね。もっと冷静に、なぜこれが必要なのかということを考えることが大事なのです。意味不明なことを考え、さらに自分の中で膨らませていくと、さらに問題を引き起こす原因になります。

今、コロナワクチンは世界的に接種を進める傾向にあります。若い人達は免疫力があるから、お年寄りから進めようということになっていましたが、最近では若い人の中で感染が広がっています。NHKが取材した40歳の男性は、何も基礎疾患を持っていないのに感染して肺炎になり、2ヶ月間意識不明の状態だったそうです。その間、お医者さんはとても高度な機械を使って一生懸命治療を続けていました。その人は回復はしたものの、肺が潰れてしまい、今も苦しさが続いて、もう元のように運動をすることはできないそうです。お年寄りは後遺症が残っても、もうそんなに未来がありませんから(冗談です。笑)いいのですが、若い人はこれから未来があるのですから、後遺症が残ると大変です。これまで若い人達は、自分はかからないから大丈夫、と言っていましたが、そうではない状況になってきているということです。
これは、説得をしているのではありません。そういったことを考えた上で、今どうするべきかを考えるということです。ここの子ども達のワクチン接種をどうしようか、と聞かれても、ジイジが答えを出すことはできません。一人ひとりの考えを聞いて、そしてみんなで決定をしようと思いました。それがこの場所です。「自分はコロナにはかからないから打たない」という選択肢もあるでしょう。確かに、みんながかかるとは限りません。でも、かかってしまった時に、いろんなリスクがあるということです。

大人達は、みんな打とうということに決まりました。そこで、今度は大人の人達に聞きます。ここの子ども達はどうするのが良いかについて、大人達はどう考えますか。はい、ワクチンを打たなくてもいいと思う人。

(誰も手を挙げない。)

では、本人が打ちたくないという場合は、打たなくてもいいと思う人。

(21人が手を挙げる。)

打った方がいいと思う人。

(26人が手を挙げる。)

みかこ(大人):
どちらでもいいという人もいるね。

ジイジ:
これが大人の人達の考えです。「打った方がいい」という人が、少し多いですね。
では、「打たなくていい」という人はその理由を教えてください。

ピッピ(大人):
さっき子ども達に確認した時に、ほとんどの子が「打ってもいい」という考えだったから、打たない子が多少いてもあまり影響ないかなと思いました。

ジイジ:
だけどね、「打たない」という人は、それはそれで認めても、社会的責任ということから考えたら、感染して人にうつさないよう、注意してもらう必要はあるよ。

ピッピ:
もう一つは、ワクチンについてまだわからないところがあるから。でも、大人に関しては、わからないから打った方がいいと思いました。

ジイジ:
では、「打った方がいい」と思う人の中で、代表して意見を言える人はいますか?

あや(大人):
私達は、こうやってみんなで一緒に暮らしていて、子ども達も外でいろんな人に会うでしょう?だから、できるだけ危険なことは避けた方がいいと思いました。

みの:
具体的に、どこがどう危険なの?

ジイジ:
危険というのは、一人がここへウィルスを持ってくると、ここはたくさんの人が暮らしているから、一気に広がってクラスターになるということです。濃厚接触者ということになれば、自分は陰性でも隔離されなければなりません。つまり、全員隔離が必要になるということです。

みんな:
不可能だね~~。

ゆりか:
ワクチンを打ったら、コロナにはかからなくなるの?

ジイジ:
ワクチンを打って感染しなくなる確率は、95%と言われています。だから、ワクチンを打っても20人に1人は感染する可能性があるということです。それから、感染しても重症化しにくいと言われていますが、感染すれば人にうつす可能性はあります。つまり、ワクチンを打てば絶対に大丈夫ということではないので、ワクチン接種を勧めている日本政府も、ワクチンを打てば何をしてもいいということではなく、引き続き注意して日常生活を送ってほしいと呼びかけています。それは、打つ人も打たない人も、誰であっても、社会的責任というものがあるということです。それは、「自分は健康だからいい」という話ではありません。ここまで感染が拡大した今は、みんなに社会的責任が問われているのです。
その上で、今日の結論をどうするか。多数決でいくと、子ども達はみんな打った方がいいということになりますが、その結論はつまらないでしょう?

ゆうとう:
つまらない!

ジイジ:
だから、みんな打って5年後に死ぬのはどう?(みんな:笑)
ではもう一度、大人と子ども全員に聞きます。打つか打たないかは本人の意志で決めればいいと思う人。

(37人が手を挙げる。)

では、子ども達も全員打った方がいいと思う人。

(35人が手を挙げる。)

では、本人の希望で、打ちたくない人は打たなくていいことにします。

(子ども数名が拍手をする。)

そんなふうに、喜ぶことではありませんよ。ここで次の問題があります。それは、打っても打たなくても、社会的責任は常にあるということです。
「自分だけ良ければいい」という話ではありません。そして、いい加減な情報を流してもいけません。
打つ人は、「なぜ打つのか」ということを自分の中でしっかりと考えて、その責任を果たすために打ってください。打たない人は、自分の意志で打たないのですから、その分毎日の生活をしっかりと気を付けて送る必要があります。打つ人もそうですが、打たない人は打つ人よりももっと気を付けて、自分から人にうつさないようにする。そして、人からももらわない。それを、責任を持ってやってください。そのことを、いつも考えていられるかどうか。
もしも誰か一人でもかかったら、ここでは全員が濃厚接触者になります。自分は陰性であったとしても、14日間は隔離しなければなりません。ここでは、個人の意志を尊重します。その個人の意志を託された人は、自分が全体のことを託されたのだということを、しっかり考えて行動しなければいけないということです。いい加減な行動はできないのです。それはワクチンを打たないからということではなく、周りの人に対する責任を果たすということです。そういったことを考えて行動するようにしてください。
ここではロータスランドも運営しており、いろいろなお客さんと出会います。大人達はその責任を考えて、打つことを決定しました。自分が他の人にうつす可能性がない立場にいる人、他の人と関わらない人ならば、「私は打たない」ということでもいいでしょう。個性的な生き方は尊重されて良いのですから。しかし、その個性が人に迷惑をかけたり、不安を与えるとしたら、社会人としての責任を取らなければいけません。

そこでもう一つ、みんなに話したいことがあります。
ジイジは、人の心というものをずっと観てきました。この間は、4人の子ども達を呼んで話をしました。この4人はなぜ呼ばれたかというと、日頃の言葉遣いが悪かったり、友達に乱暴な振る舞いをしたりしたからです。その中の1人は、ジイジが話をした後も、また悪い言葉を使ったので、今度は叱りました。
本人は、「悪い言葉を使おう」と努力しているわけではありません。本人に聞くと、「自然に出てくる」と言うのです。つまり、自然に悪い言葉が出たり、人が嫌がることをするような人になっているということです。みんなはこれをどう思いますか?

子ども達:
よくないと思う。

ジイジ:
よくないと言っても、他にもそういう人がいるでしょう?だからジイジは本人を呼んで、今からそういう状態でどうするのか、という話をしました。そこでは、あなたの心の状態はこういうことだよ、という話をします。前はこういう状態で、今はこうなってるよ、ということを話します。そして、さらに先へ行くとこうなるよ、という話をします。
よく、小学生のうちはまだ親の方が力関係が強いので抑えられていても、大きくなると親の方が怖がってしまって、伝えられなくなるという話があります。極端になると、子どもが親を脅したり、逆に「こんな子を世の中に生かしておけない」と親が子どもを殺してしまうようなこともあったでしょう?親から離れて好き勝手に振舞い、暴走族になったりする人もいます。それは、本人達もそれで良いとは思っていないのです。でもなぜかわからないけれど、そういった場所に心が合うので、そうなっていくのです。
ここでも、最近小さい子ども達が悪い言葉を使うことがあると聞きます。どうしてそうなったかわかりますか?それは、上の子達が使うからです。使っている本人にどうしてそういう言葉を使うのかと聞くと、「何でだかわからないけど、そういう風に言ってしまう」ということでした。そして何回注意しても、また同じことをやるのです。これは、深刻な話です。そうしてその人の人格、心がつくられていくのです。
そこでジイジは、本人の親を呼んで話をしました。子どもというのは、お父さんの遺伝子と、お母さんの遺伝子を受け継いで生まれてきます。ジイジはこれまでたくさんの人の相談に乗ってきましたが、話を聞いていると、その問題のルーツが観えてきます。それは、その問題の本人だけではなく、家ごと解決する必要があるケースがたくさんあることです。その時に大切なのは、本人が問題に気付いたなら、まずは自分から解決することです。

自分が問題を解決すると、今度は自分が子どもに遺伝子を受け渡す時に、子どもに悪いものが行かなくなります。そして自分自身も、問題を解決したのだから、良い人として生きることができます。さらにもう一つ。その問題点が、自分の親や、そのまた先祖からずーっとつながって自分に来ているとしたら、自分がその問題からしっかり学んで、優れた人になることは、昔の人たちが個性的な人生を生きて自分につないでくれたお陰で自分は気付くことができたのだ、ということにもなり、その問題のお陰で学ぶことができました、ありがとう、と、昔の人達の問題も、良いことに変わるのです。つまり、昔も、今も良いこととなり、そして未来の子ども達にも、良いものを与えることができるということです。
ここはポイントです。もしも今、その問題ごとから学ばずに、そのまま先へ進むと、「あそこの家の子だからね、やっぱりそうだね」ということになります。そしてその人が将来パートナーを見つけて子どもをもうけると、「やっぱりあの家の子どもは、親のようになったね」ということになります。
今、悪い言葉を使ったり乱暴をしている子ども達は、今はまだ子どものしたことのように思っているかもしれませんが、そのまま大きくなると、校内暴力になったり、警察沙汰になったり、誰かをいじめて相手が自殺するなどということが、世の中にはたくさんあります。そうしたら、一生償わなければいけません。自分だけでなく、相手の一生も取り返しのつかないことになり、自分の家族も「あそこの家の子は」と周囲から言われるようになります。ここの子は「あそこの家の子は」ではなく、「木の花の子は」という話になり、ここの全員にそれがかかってくるのです。
これは、さっきのワクチンの話と同じです。自分が打ちたくないということは認めます。しかし、自分の立場というものを考えたら、それを認めてもらった分、打つ人も日常生活には気を付けなければいけませんが、打たない人はなおさら、打つ人よりもさらに真剣に考えなければいけません。そして、人にうつさない。そういうことをしっかりやっていかなければいけない。それが、その人が生きていく上での責任ということです。

これは、最低限の話です。気に入らないから悪い言葉を使った、というようなことでは、だんだん済まされない話になっていくのです。今はまだ済まされているから、この話で終わっていますが、そういった姿勢を今のうちに正していかないと、将来済まされなくなっていくということです。心の持ち方がいい加減だと、思わぬことに出くわすことがあります。そのようなことを引き起こす心を持たないようにすることが、責任ある人の生き方です。それは本来、人として当然のことです。
ジイジも子どもの頃に、嘘をついたり、「大人には内緒だよ」「誰々には言っちゃダメだよ」という秘密を持っていました。よくあるでしょう?それは、隠しておきたいことがあるということです。でもね、隠しておきたいことが多ければ多いほど、今のような問題につながっていくことになります。こんなに大勢で暮らしていても、みんなが自分の中にあるものを正直に出して、これについてどう思う?と、常に正直に話し合える場所を創ったら、この場所に良い風が吹いて、「あそこは気持ちのいい場所だね」という所になるでしょう。しかしどうしてなのか、人は隠そうとするのです。ジイジはね、きちんとした毎日を送って、責任ある行動を取っていたら、子ども達がゲームをやるのもいいと思うんだよ。ところが、隠れてゲームをやろうとする子がいるでしょう?
隠れてやると、簡単に中毒になります。それは、隠しておくことは病的な心だからです。心が病気を創るのです。今の世の中には、心の病気を持つ人がたくさんいます。精神疾患を持つ人は、日本全体で400万人と言われています。そしてその10倍が、予備軍といって、精神疾患になる可能性があるというのです。そうすると、日本人の3人に1人が心の問題を持っていることになります。大変な数ですね。

それで、さっきの話に戻ります。インターネットには、いい加減な話が溢れています。そしてそのいい加減な話が、「そうなんだ」「そうだよね」と確かではないのに広がっていきます。それが誰から出てきたのかわからないのに「そういうことらしいよ」という話が「そうだよ」ということになって、真実になっていくのです。ジイジは、どんな人の話でも必ず「それはどこから聞いたんだ?確かなことか?」と確認します。それは疑っているのではなく、確かな話ならいいけれど、確かでなければ、自分から世の中を混乱させる元をつくっていることになります。人の迷惑を広げているのです。
そう考えたら、いい加減なことは言えません。そしてワクチンを打たないとしたら、いい加減な生活をしてはいけません。ワクチンを打ったとしても、効果は100%ではないのですから、やはりいい加減な生活をしてはいけないのです。それは、社会のためにも、自分のためにもそうするということです。そういったけじめのある意識を持つことが大切です。
今、この場所で子ども達の後ろにいる大人達は、そんな風に親から言われなかったでしょう?だからいい加減な人になるのです。その悪いクセを、大人になってから取るのは大変です。
子ども達は、今それを取るチャンスをもらっています。小さいうちにそれをやると、早く取れます。大きくなると面倒です。自分の理由を言うようになるからです。今は、そんなことをしてはダメだよと伝えれば、「そうだね」とすぐにわかりますが、大きくなると、自分の理由をたくさん並べるようになります。

心が、この世界を創っています。いい加減な心を持っていると、いい加減な人間関係、いい加減な世の中ができます。だから、その元の心がいい加減ではいけないのです。
今の世の中では、そのいい加減さが分析できなくなっています。そして大人が、いい加減なことをたくさん言いふらします。そして子ども同士でも、すぐに隠し事をする。「言わないでね」と隠し事にしていることが、問題となって独り歩きをするようになるのです。
そこのところをとことん自分に言い聞かせてやらないと、染みついてからでは本当に取れなくなります。そして今のような、混乱した世の中ができてしまうので、子ども達とこういった話をするべきだと思いました。今なら、子ども達はそれを広げる側から、やめさせる側になれるだろうと思うからです。
コロナウィルス対策についても、いい加減なことではいけません。責任ある行動を取りましょう。みんな、1人で生きているのではないのだから。

毎日の子どもミーティングで、ただその日の出来事を報告するだけでなく、自分はいけないと思うことをやりました、ということが言えるようになったら、この人は自らを正す道を歩み出した、ということです。それは、良い人生を生きることになります。そして、周りの人にとっても良いことをもたらす人になります。
自分発、良い場所ができるように。自分発で悪いことを起こすのではなく、自分発、良いことが起きるように。それを心がけてください。そうしたら、相手発、悪いことに対しても、「それはいけないよ」と言ってあげられる人になります。自分発、良いことをし、相手発、悪いことに対しても「それは良くないよ」と言ってあげられるようになったら、自分発、世の中を良くする人になります。それが大事です。
今は、そういうことを誰もしません。これからは、それがとても必要になる時代が来ます。これは大人も子どもも関係なく、世の中を創っている人はみんなそのように生きるということです。
ワクチンについても、大切なことですからよく考えて判断し、そして判断したことで自分の責任をきちんと果たしてください。

 

 


宇宙が何ものであるかを知るために

この世界は、性質の異なる二つのものが向き合い、共同作業をし、ひとつのものを成立させる「対向発生」によって成り立っている。例えば、原子は原子核と電子で対向発生している。上があれば下があるように、男がいれば女がいるように、個人がいれば社会があるように、必ず相反する存在が互いを成立させる対向発生の原理により、この世界は成り立っている。

ところが、現代は個人が強くなりすぎて、対向発生をしなくなった。自らの存在が他の存在によって支えられていることがわからなくなり、個人のことばかり優先して考えるようになった。そして、家庭が孤立し、個人が孤立するといった現象が起きるようになってしまった。これは、人間が「自我」という自らの我を優先するようになった結果だ。他者によって自らが生かされていることを忘れ、助け合うということをしなくなった。
現代は、若い人が子どもを作らなくなり、少子高齢化が進んでいる。個人の自我が強くなり、自分のために生きるようになった高齢者たちが、医療にすがって長生きをするようになり、そのニーズに乗り、医療は一大産業となった。若い人々は、そのような不健全な社会の中で生きることが嫌になっている。生きることが嫌だということは、子孫を残す希望が持てないということでもある。生きることに意欲があると、子孫を残す。しかし、生きることへの意欲を失った現代の人々は、子どもを作らない。結婚もしない。その背景にあるのは、この世界に命をもたらす対向発生の神聖なる仕組みであるはずの性が、ただエロいだけの卑しいものとして行われてきたということ。その結果が、現在の現象をもたらしたのだろう。これがすべての間違いの元である。生命の発生原理である性が歪められたことで、世の中のすべてが歪むこととなった。

現代物理学は、物質が発生する時、そこには必ず、その物質を存在させるための「反物質」が発生すると言う(対向発生)。面白いことに、その反物質の存在は、確認できていない。そして、物質が再び反物質と出合うと、光となって消えると言う。ということは、すべての大本は光だということ。光から発生して物質と反物質になり、その分かたれたものが再び出合うと、光になって消える。とても興味深いこと。そこに行き着いた物理学は今、行き詰まりを迎えている。
物質に対し、反物質という存在がある。それは、現象界(ある世界)に対する潜象界(ない世界)を紐解くカタカムナ物理学では説明がつく。しかし、科学者たちは見えないものを否定する。現代の科学は、「ない世界」どころか「見えない世界」をも否定するから、限界を迎えている。
物質と反物質が同時に発生するということは、必ず相反するものの対向発生によって世界が成り立っているということ。そうすると、「ある世界」に対して「ない世界」があるという理論を持たなければ、この行き詰まりは突破できない。物質世界に存在する我々は、物質は「ある」ものだから、「ある」ものだけを肯定する。だからその先に進むことができない。

現代物理学は行き詰まっていると言うが、もともと物理学は行き詰まっていた。物理学は、この世界をひとつの世界と捉えている。しかし、我々が知っているこの宇宙をAとしたら、それと対向発生するBという宇宙があるはずだ。世界が対向発生によって成り立っているとしたら、Bという宇宙があるから、我々のAという宇宙があるという理論だ。
そこで、我々のA宇宙が何ものであるかをわかるためには、B宇宙へ行き、そこからA宇宙を見る必要がある。光の中にいては光は見えず、闇から光を見て初めて光が何であるのかがわかるように、或いは、低い所にいるだけでは低いということがわからず、高い所から低い所を見て初めて低いとはどういうことかがわかるように、その存在を本当に理解するためには、必ずそれと対向する存在へ行って見る必要がある。
しかし現代の科学は、物理的な発想のみで宇宙を探索するため、A宇宙全体からすると塵のように微小な太陽系の観測すら、まだまともにできていない。現代科学が考え得る最速の乗り物は、秒速30万㎞で進む光子ロケットだ。しかし、我々が存在する天の川銀河の直径は10万光年と言われており、光子ロケットをもってしても、銀河の端から端までを観測するのに10万年かかる。そして、宇宙には約2兆個の銀河が存在すると言い(誰が数えたのか)、銀河から銀河へ行くのは更に遠い。
光子ロケットは、現実にはまだ作られていない。しかし、我々は光を基軸にして生きるものだから、光を超える、もしくは光と同じ速度で飛ぶということは、時間が止まることになる。時間が止まった世界で我々が存在できるかというと、存在できない。ということは、光子ロケットは実現不可能だということになる。つまり、物理的探査では、我々はこのAという宇宙を観測し、理解することはできない。ましてや、Bの宇宙へ行くことはできない。即ち、我々物質人間は、この宇宙が何であるかを観測し、理解することはできないところに至る。これが現代物理学の限界だ。

物理学者たちは、形あるものだけを見ているから、宇宙を解明することができない。しかし、カタカムナ理論は、現代の物理的理論を超える。それは、人間には「思念」があるということ。
思念は光より早く、それはアマハヤミと言い、光の速度の10の64乗倍で宇宙を駆け巡ると、カタカムナ理論は言う。人間は思念を走らせ、宇宙を瞬時にして観測することができる。つまり、物質を超える能力を人間は持っており、その能力を発達させることで、この無限なる宇宙がどのようなものであるのかを解明することができると言う。
その視点に立った時、近代物理学は、物質物理学を超えることが、初めてできる。

 


人の心の夜明けです ~ 124年ぶりの立春正月の日に、マツリの精神と共に

木の花ファミリーでは毎年立春前に「富士浅間木の花祭り」を開催します。祭りを通し、一年間の穢れを祓い清め、生まれ清まった新たな心で農事暦の始まりである立春正月を祝います。この立春正月祭の場で、ジイジは以下のように語りました。


 

立春正月、明けましておめでとうございます。

今日は、富士浅間木の花祭りの締め括りとなる立春正月祭であり、農の新たな一年の始まりの日でもあります。例年、立春正月は2月4日ですが、今年は2月3日で、それは124年ぶりだそうです。人間は美しく生きると、124歳まで生きるという話を聞いたことがあります。現代の日本の平均寿命が約80歳ということは、まだ修行が足りないということでしょうね。
神の一息は、吸って60年、吐いて60年、合わせて120年と言います。この124年という期間とほぼ同じサイクルです。宇宙的には、太陽系の中で太陽の次に大きな質量を持つ木星が太陽を1周する周期が、12年です。その次に大きな土星の周期は30年で、木星と土星は、太陽と一直線に並ぶ「結び」の会合を60年ごとに持ちます。それが2回で120年です。120年と124年の4年の誤差は、宇宙の遊びと言えるでしょう。さらに、冥王星の周期は248年で、ちょうど124年の2倍です。これは、天体の「トキ」の話です。

今回の立春が124年ぶりというのは、一体どういうことなのでしょう。天体が時を刻むことは、地球が1年365日をかけて太陽を回ることに示されます。しかし、ぴったり365日ではありません。1日も24時間と言いますが、ぴったり24時間ではありません。そこには常に誤差があり、その誤差を調整するために、今回は124年ぶりの立春となったのです。つまり、そこには遊びがあるのです。
これにはどんな意味があるのだろうと考えた時に、その遊んでいたものをもう一度元の位置に戻し、襟を正していきなさい、という意味でもあるのだと思いました。
124年前というと、明治30年です。先ほど祭主が祝詞を奏上しましたが、その中の「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」とは、艮の金神のことです。神の一息が120年であるとしたら、大本の出口なおさんに神様がかかり「この世の中をたて直す」と宣言をされてからちょうど一息を経て、いよいよ始まるぞ、という時に来たのだろうと思います。そこで、富士浅間木の花祭りは今年で九回目を迎え、転がり出て(コ)、いよいよこれから十、次の「統合(ト)」へ向けての生活が始まります。

花祭りの起源は、700年前とも800年前とも云われます。ちょうどその頃、日本では封建時代が始まりました。戦乱の時代の始まりです。人の土地を奪い、支配することが成功者であると称えられたのです。そして江戸時代を経て、明治になり開国をすると富国強兵を打ち出し、また他者の土地へ侵略することを始め、その結果大きな戦争をすることになりました。世界中がそのような時代でした。その大戦が終わり、75年が経ちました。
年が明け、2021年の始まりにあたり世の中を見渡してみれば、新型コロナウィルスが蔓延し、人々は不自由な生活を送っています。そこにはたくさんのメッセージが隠れていることを思うと、やはり「襟を正していけ」ということだと思うのです。身の回りに起こる小さな物事をよく観て、自らのことだけではなく、世の中全体の在り方を振り返り、正して行け、という区切りのメッセージが、今年の立春正月には示されているのだろうと思いました。

「マツリ」の精神とは、ある特定の日を特別な一日として神様と接するのではありません。神とは、「カ」即ち宇宙最極小微粒子が、「ミ」即ち満つっている状態、つまり、すべての現象宇宙に顕れている物理性と、その背後にある仕組みのことを指して呼ぶのです。ご利益を求め「いいことが起きますように」と怠け心で願いをかけるものではなく、日々の生き方を正し、道理の通った生き方をすることにより、災難のない豊かで調和的な世界を創ることになるのですから、ご利益は私たち自身の生き方にかかっているということです。なぜなら、私たち自身も「カ」が満つって現象化した、宇宙の法則の顕れそのものだからです。
この祭りを一年に一度行うのは、そのことを襟を正して考え直し、祭りが終わってからも一年を通してその精神を生きなさい、ということです。そして一年が経ったら、その結果を祭りに顕し、そこから自らの姿勢を振り返り、また新たな心で次の新しい一年へ向かいなさい、ということです。ということは、マツリとは特定の一日を示すことではなく、一年中マツリなさい、と示されているのです。
そもそもマツリとは、政(マツリゴト)と言い、世の中を運営することです。そこでは、私人ではなく公人として一年を生き、自らが生きたことが世の中に良い形で反映されることを目的としているのです。それが本当の人の在り方です。
今の世の中は「自分さえ良ければいい」どころか、皆でこぞって地球の仕組みを乱し、環境破壊による温暖化のような問題を引き起こし、さらに人間の間では争いが絶えません。現代の日本には戦争がないと言われますが、莫大なお金が軍事費に費やされています。そして日本の産業は、世界の他の国々で行われている戦争の軍備に貢献しています。まだまだ争いの種を創り続けている人間の営みを考えると、124年の区切りをもって襟を正せと示されていることは、本当のことだと思うのです。一年365日をマツリの精神で生きるということは、それが普通になれば、何も特定の日に襟を正す必要はなくなるでしょう。そういった心が人々の中に芽生えれば、世の中は必ず豊かで平和な世界になります。

私たちは、この世界に生まれました。生まれる時は、天から降りてくると言います。作物は土から芽吹いてきますね。その土から芽吹いてくるものは、太陽の光が注ぎ、その循環の仕組みの中で育ち、私たちに土のエネルギーが与えられるようになっています。土のエネルギーとは、地球神である金神様のエネルギーですから、私たちは金神様のエネルギーをいただき、生きることを与えられているのです。そしてそれにふさわしい生き方をした時に、私たちは誇りをもって次へと旅立つことになり、天へ昇っていくのです。
天に昇ると、次にまた役割ができた時に降りてきます。ところが、この世の仕組みに囚われ、上を見ずに「何かいいものは落ちてないか」と下ばかりを見ている者は、魂になっても天に昇ることができません。そのような魂がたくさんいます。人間だけではなく、人間の営みの犠牲となった他の生き物の魂まで天に昇れなくなっているのです。そのような心の乱れ、魂の汚れが、この世の中の混乱を創っています。
だからこそ、そのことに気付き、世の中を美しくする。自分が生きた結果、世の中が美しくなる。お陰様で自分は世界を美しくすることに少しは役に立てた、と自らに合格をあげられるようになった時に、誇りをもって天に昇っていけるのです。体という質量をこの世界の自然循環の中にお返しし、囚われのない心であれば、魂は軽いですから自ずと天へ昇っていくのです。
しかし、昇れない魂もいます。それは、人間が自我を与えられ、心を美しくしてこの世界の循環に貢献する役割をいただいてきたのに、そういったことを忘れ、怠っているからです。今また、新たな124年の節目が来ました。そして、金神様は乱れた世の中を正すと言って出てこられました。僕もこれまで、一体いつになったら本当の世直しが始まるのだろう、もう命が続かない、と思っていましたが、いよいよそういう時が来たのです。

先日、富士浅間木の花祭りの祭事を行い、その締めくくりとなる神返しの神事を行った際、僕は祭主にある注文をしました。祭事の前には、神寄せの神事を行いました。しかし祭事を行うのに、神様に「降りてきてください」と言うのはおかしい。なぜなら、神様はそもそも、いつでも万物に遍満しておられるのです。それを、今日だけ降りてきてくださいと言うのはおかしいでしょう。この世界のすべてが神の物理性の顕れであるのに、降りてきてくださいと言うことは、日頃神様と共にある意識がないということです。さらに、祭事の後に「ありがとうございました。どうぞお帰りください」と神返しをするようでは、一日だけ一緒にいて、残りの364日は神様と共に生きていないということになります。
ですから僕は祭主に、神返しをすることはやめましょうと提案しました。これまでは、どこでも同じことをやっていました。それは、神というこの世界の物理性の中に遍満し、常に私たちと共にある存在から、人々の心が離れていたからです。この124年の区切りをもって、私たちはそのことを意識し、毎日を生きていきます。
そうすると、宗教はなくなるでしょう。都合の良い時だけご利益を願うことはなくなり、毎日の物理性の中で、そこに循環している尊い仕組みのもとに自らが生かされていることを感じ、その意識で、この世界を運営していく側になるのです。それは「大学に合格しますように」とか「宝くじに当たりますように」といった自分の都合で願いをかけることとは違います。
現代の人々は、神社で2回手を叩きます。本当は4回叩くものですが、それを半分だけやるということは、本当の半分、つまり、ご利益だけが欲しいということになります。なぜ本当は4回叩くのでしょうか。2本の手で4回叩くと、合わせて八つになります。それは八方が安定する、即ち本来すべきことをきちんと行い、道理に適った利益をいただいて、幸せに生きていくということです。四(し)を合わせるのですから、しあわせです。

こういったことが、僕の中に浮かんできます。その時に、これは夜明けだ、と思いました。何の夜明けかというと、天体の区切りの夜明けでもありますが、人の心の夜明けです。
夜明けには何をしますか?そう、目を覚ましますね。目を覚ますと言っても、この肉の目は毎日覚めています。そこで覚めるのは、心の目です。これからの時代は、人の心の目が覚めるのです。

その時が来たのだと思うと、たくさん話がしたくなります。しかし地上には地上の都合がありますから、そういうわけにはいきません。今日という節目をもって私たちは先へ進みますが、これからは心の目を覚まし、その目覚めた状態で毎日を送るようにしたいものだと思います。
今、気持ちはとても晴れやかです。その割には(涙をぬぐいながら)雨が降っていますけどね。この不可思議な人生をいただき、これは一体何なのだろうと思いながら生きてきましたが、いよいよ扉が開いたことを今年は特に感じます。扉が開き、目覚めた人たちは、その大事を生き切ることです。
今日は、去年植えた桑の木の剪定をしました。苗木をとるために、「とり木」と言って枝の一部を土の中に埋めて上から抑え、そこから根を出させるようにしていたのですが、今日掘り起こしてみたら、まったく根が出ていませんでした(笑)。そこで思ったのは、予定が外れたということではなく、自分の思いが必ず叶うとは限らないからこそ、叶わなかった時には次のことを考える。そうすると、頭を使い、智恵が湧く。桑の木に根が出ていなければ、枝を切って挿し木にすれば苗は取れるのですから、何も問題はないのです。(実はその次の日に別の種類の桑の木のとり木を掘り起こしてみたら、根がたくさん出ていて、これについては予定通りでした。笑)
何かが起きた時に、予定が狂ったと捉えるとがっかりして嫌になりますが、そうではなく、そこから違ったことを考えるきっかけと捉えると、どんなことでも新しい取り組みを始めるチャンスとして生かすことができます。生きるとはそういうことです。そうやって私たちは育てられているのです。

天体の動きと共に、世の中は確実に時代を刻んでいます。すべての現象はトキ軸を柱として巡っていきます。ただ欲のままに生き、ストレスを溜めてそれを解消するために暴飲暴食をし経済を大きくするなど、余計なことをたくさん行って体の中に矛盾を溜め込み、病気になるような生き方が、世の中には蔓延しています。今の世の中は豊かになったはずなのに矛盾だらけで、問題だけがどんどん膨らんでいくのです。
そういった無駄を行わず、本当に必要なことを相応しく行い、皆がシンプルな豊かさで生きれば、地球の資源を無駄遣いすることもなくなるでしょう。そうすると、いろいろなことが好循環になります。今は好循環ではないのです。それが好循環に転じた時、いよいよ宇宙の星々が何億年も何百億年も運営されてきたのと同じように、地球にも無限の世界が生まれることでしょう。
今日は、私たちがそのことに目覚める区切りの日です。124年ぶりのメッセージを受け取り、心はとても晴れやかです。しかし一人で晴れやかになっていても仕方ありません。皆で和やかにそういった日々を送り、世の中へ広げていきましょう。世の中がどんどん難しくなっていくようなことでは、本当に求められるマツリの精神で生きることとは違うのです。だからこそ気付いた者たちは、それをやり切る。その動きは小さいですが、その響きはこれから、世界中どころか宇宙中へと響き渡ることでしょう。

僕は今、宇宙の響きをいただいてこの話をしています。それは、天地一体の世界を築くということです。我々は太陽の光をいただいて命があるのですから、まず始めに天があります。その光を受けて地上に食べ物ができ、それをいただいて、その循環の中で地球に命が表現されるのです。その物理性を本当の豊かさとして顕す、その自覚をもっていきたいと思っています。
今から、お神酒で乾杯をします。ここのお神酒はアルコール度数がありません。それは、お酒で酔っ払っていくのではなく、飲む点滴と言われるほど滋養のあるお神酒をいただき、本当に健康で豊かに、そして正気で、時代を生きていこうということです。正気でなければ、本当は創れないのです。
「カ」が満つって(ミ)現象化することを神と言います。人間も、他のどんなものも、「カ」が満つって存在しています。我々がめでたいと思う心も、乾杯をしてお神酒を飲むことも、すべては「カ」が満つった現象がそれを味わっているということであり、味わうことで神様と直会(なおらい)をしているのです。

立春正月を迎え、これから新たな農の一年が始まります。124年ぶりの地球規模の新しい門出を祝い、魂からの目覚めとして日々を生きていくことを、皆さん、どうぞよろしくお願いします。おめでとうございます。乾杯!

 

 


ただただ、他者を思い生きること 〜 2021年1月1日

私は、夢を見ました。

それはどこか工場のようなところで、ほこりっぽく、あまり衛生的とは言えない閑散とした場所でした。そこにビニールのようなものに包まれた、卵よりも二回りほど大きな水のかたまりが、ほこりにまみれて、いくつか転がっていました。それはどこからか現れて、少しずつ増えていきます。そして増えるごとに、その場が幸せになっていくのです。
その感覚を、言葉でどう説明したら良いのかわかりません。そこは美しく整っている場でもなく、近代的な設備もないのに、まだ未完成のその工場を稼働させ、実験を繰り返していると、不思議と幸せな気分が満ちていくのです。何かを創ろうとしているけれど、何を創ろうとしているのかわかりません。何かのエネルギー源がそこにあるのかというと、そういうわけでもない。ただ幸せな気分が生産され、広がっていく。生産の仕組みはよくわかりませんが、そこにある原理は、「ただただ、他者を思って生きなさい」ということでした。
もしもこんな世界があるのなら、これを最終到達地点としていいのではないか ——— そう思えるほど、その場は不思議な満足を与えてくれました。大きな卵のような水の玉が、その空気を生んでいるようでした。そこには美味しい食べ物が並んでいるのでもなければ、快適な空間があるわけでもない。何もたいしたものを生産していないのに、こんな気分ならもう何もいらない、これでいい ——— そう思いました。

先日、木の花ファミリーではクリスマス会がありました。会の最後に、大人も子供も一緒になって、木の花楽団の新しい歌を合唱しました。その歌はまだ不完全で、私は初めて聴いた時から「この歌には何かが足りない」と感じていました。ところがいざ合唱が始まると、小さな子供からお年寄りまでがひとつになって、みんながその場を良い場所にしようと歌っていました。みんなはこの日に向けて練習をしていましたが、それで何か得をしようとか、見返りを求めていた人はいなかったでしょう。ただ誰もが、人を喜ばせようとして歌っていました。
その時私は、次の世界を見たような気がしました。そうすると、何かを得ようとする心が消えていくのです。もっと少ないエネルギーで、満足して生きていける。そういう世界を味わったのです。
夢の中の工場はまだまだ未完成で、さらにレベルを上げるために探求をしていました。ちっとも美しい場所ではないのに、そこには「なぜだろう。どうしてこんな気分になるのだろう」と不思議になるほど、幸せな気分が満ちているのです。まるでこれまでに体験したことのない麻薬でも使っているかのようでした。そのベースにあるのは、ただただ、他者を思って生きること。それがその場の原料となり、自らの幸せの元となり、新しい時代を創っていく原動力となるだろう、と感じたのでした。

今、新型コロナウィルスの感染拡大や地球温暖化など、世界が大きな行き詰まりに直面する中、それでもなお、人々は現在の暮らしの延長線上に未来を描き、それを維持することでしか先が考えられない状態になっています。しかし、過去を振り返ってみれば、現代の私たちの暮らしは、人類が歴史上経験してきた多様な歩みの中のたった一つである、ほんの一瞬のものに過ぎません。現代の人々は、そのたった一つの生き方に縛られ、社会の先行きに不安を感じながら、今なお同じ生き方のままで突き進もうとしています。しかし、それは進めば進むほど、さらに無理のある世界を突き進めていくことになるのです。
その進んできた道を振り返り、冷静になり、本当にこれしかないのかを考える時が今、来ています。視野を広げ、客観的に捉えてみれば、これまでの延長線上を突き進むのとは違う、新たな方向が観えてくるはずです。

世界はもともと、調和で創られています。調和が表現されれば、そこには自ずと持続可能な世界が現れてくるのです。人間以外の生命は、すべてが調和し連鎖していく大生命生態系の循環の中にあります。近年、私たち人間がより豊かでより幸せな暮らしを追求してきた結果、現在の世界が持続可能でなくなっているとあなたが思うならば、私たちはもう一度、豊かさとは何か、幸せとは何かを捉え直す時に来ています。
現代の人々は、何かしら心に不安を抱えて生きています。不安であるが故に、人と同じになることで安心を得ようとし、一律に同じものを求めてきました。個性の違いを無視し、一律な尺度で人と比較することで優劣を生み、人より豊かになろうとして争うようになったのです。そして自らが得することばかりを考え、その優越感を持ち続けなければ不安を感じるようになりました。その一方で、他者のことを顧みず、自らの好きなことだけで日々を送る人々も増えています。そのどちらも、根底にあるのは「自分さえ良ければいい」という心です。その結果、地球の本来の姿である大循環生命生態系とは程遠い世界を創ってしまったのです。
しかし自然界の生き物を見れば、一見自らのためだけに行動しているようでありながら、その行動には節度があります。ここまで得たらそれ以上は求めない、即ち「足るを知る」ことを本能的に知っており、生態系のバランスを崩すことなく、自らの必要を満たしているのです。かつて人間も、他の生命たちと同じように、自らの命をつなぐために必要な分だけを生態系の循環の中でいただき、その仕組みから逸脱することなく生きていました。ところが産業革命以降、科学技術の発展によって自らの願望を叶える快感の虜となっていった人間たちは、際限なく欲望を膨らませ、他の生命を犠牲にしてまでも、自らの豊かさを追求するようになりました。

現代を生きる私たちは、とても豊かな暮らしを享受しています。日々働いてお金を稼ぎ、そのお金で物を消費し、食べ物を食べ、余暇を楽しみ、何も悪いことはしていない、当たり前のように思っている私たちの毎日の暮らしが、他の生命の犠牲の上に成り立っていることを認識している人々が、世界にどれだけいるでしょう。

人間は、多種多様な地球生命の長い進化の物語の末に、地上に誕生しました。その命は、自然から与えられるものによってつながれてきました。今もその仕組みに変わりはありません。ところがその仕組みの中にあって、人間はいつしか自分のことだけを考えるようになり、人間のためだけの社会が地球上に異様に展開するようになりました。
その行き過ぎた人間の行いに対し、地球は今、警告として様々な現象を起こしています。他の生き物たちは、人間の行いの犠牲となっていくことはあっても、それを危機だと騒ぎ立てることはありません。ただ人間が気付くように、自らが絶滅するといった現象を通して、メッセージを送っています。それは、声なきメッセージです。そのように、強いメッセージを発することのできないもののことを思う心が、これからの時代を生きる人々には必要です。自己主張のできる人間のことばかりを優先することは、もう終わりにしなければなりません。それが、他者のために生きるということです。

今、新型コロナウィルスには外出規制や治療薬の開発、温暖化にはリサイクルやクリーンエネルギーの推進というように、世界中で起きている様々な現象を、人々は物理的な対処によってのみ解決しようとしています。しかしその物理的現象はすべて、人の心が元となり、発生しています。「自分さえ良ければいい」という根本に不調和を生む人間の心を変えることなく、テクノロジーの力で問題ごとの表面的な解決を図っても、その根本的な解決を先送りすればするほど、さらなる問題が現れてくるのです。
人間は楽になることが豊かさであると思い、その高い能力を使い、便利なものをたくさん創りました。しかし、便利なもので身の回りを固めれば固めるほど、自らの生きる力(生命力)を失っていくのです。そして能力を失ったことで、さらなる問題が自らに起き、それを解決しなければならなくなるのです。だからこそ、際限なく求め続けるのではなく、「足るを知る」。そこに気付く必要があります。
それには、既に十分であることに気付くことです。私は既に、十分与えられている。自分で獲得したと思っていたものも、実はすべてこの世界の大いなる循環の中で与えられたものであり、私がこうして存在していること自体が、生きることを与えられている。存在することを与えられている。ありがたい。そのような謙虚な心になった時、初めて、これまで追い求めてきたものとは違う豊かさに出会うこととなるのです。それは、心の豊かさから生まれてくるのです。

人間がこれまで築いてきたものを否定し、返上しようということではありません。この世界が循環によって成り立っているならば、循環とはすべてを肯定することです。これまでにあったことはすべて、それが必要な時代だったから存在したのであり、それが行き過ぎた結果様々な矛盾が現れてきたということは、私たちは自らの姿勢を振り返る段階に来たということであり、それは次のステージへ進むために大切なことです。否定ではなく、肯定し、そこから学ぶ。そうすることによって、私たち人間は進化することができるのです。
有史以来の6500年の歴史の中で、地上には様々な文明が生まれては消えていきました。その消滅の原因は、行き過ぎた文明の発達によってバランスを欠いた環境破壊であったと言われます。産業革命以降の急速な科学技術の発展により栄えた現代文明は、過去に類を見ない速度で環境を破壊しながら、その高度なテクノロジーにより文明を維持し続けています。しかし、矛盾の根本にメスを入れることなく、矛盾を生み出す元である現代文明を人工の力のみで保ち続けることは、さらなる重大な結果をもたらすことになります。だからこそ、その根本の原因に気付くことで、偏った豊かさを突き詰めてきた鋭い矛先を収め、破壊の手を止めなければなりません。
右肩上がりの経済から一歩引き、本当に必要なものは何であるのか、余分なものは何なのか、その仕分けをする時が来ています。今まで通りの生活を維持することから、求める心を少しだけ引いて80%にしてみれば、足りないものはみんなで共有するチャンスを得ることができるのです。それが難しければ、まずは90%から始めてみる。やってみて大丈夫なら、今度はさらにその90%にしてみる。そうやって少しずつ慣らしていくうちに、みんなで助け合い、無駄がなくなり、生きることの新たな方向性に出会えるのです。

それは難しいことのように思えるかもしれません。しかしこれまで他の生命の犠牲の上に成り立ってきた私たちの欲望は、100%でも飽き足らず、さらに120%も200%も求めてきたのです。その矛を今収めなければ、鋭い矛先がいずれ、自らに向かうことになるでしょう。
新型コロナウィルスは、その行き過ぎた人間の行いに歯止めをかけました。今はコロナウィルスによって無理やり強いられているように思えることを、私たちが自らの意志でできるようになったなら、コロナウィルスが現れることはなくなるかもしれません。その力を借りる必要がなくなるからです。それが次の時代に求められる私たちの生き方です。
人間は失ってから気付くものです。だからこそ今、これまで当たり前であったものが失われようとしていることで、世界は私たちにメッセージを送っています。しかしそのような痛みをもらわなくとも、私たち人間には、これまでの行き過ぎた行いを振り返り、そこから学び、傷付いた世界を再生させ、新たな方向性を見出す能力と可能性が秘められています。その道の始まりとなる心が、他者を思うことです。

世界は、共有のもとに成り立っています。私たちはすべての生命と、太陽や水や大地や空気や風を共有しながら、大いなる命の循環の中で生かされています。その中で、他者を思い、他者のために生きることは、私たち生命にとって当たり前の姿なのです。
私たち人間の本質は、愛や絆によって、みんなで力を合わせて生きることが幸せな世界を生む元になると、どこかで知っています。ところが自我が膨らみ、自分のことだけを考えるようになった人々は、他者のために生きることがまるで自らの自由を阻害されるかのように感じるマインドコントロールにかかっています。しかし、他者のために生きることは、本来とても心地良いことなのです。
これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。
それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる —————

私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。
そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。
この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。
そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。

そのような世界があることを、私は観たのです。

 

 


希望の風を世界へ吹かせましょう

昨日、2020年12月13日の13時より、木の花ファミリーでは、メキシコの太陽マヤ族が主催する世界的イベント「人類昇天の世界宣言」のオープニングとして、「希望の風セレモニー」を行いました。
このイベントは、すべての人類の精神を解放し、誰もが豊かさと尊厳をもって幸福に生きられる世界を築こうというイベントの趣旨に共鳴した世界各地の人々が、それぞれの地で人類の精神の解放を祈る儀式等をリレーのように行っていくもので、「日出ずる国・日本」の木の花ファミリーはその第一番目として、オープニングセレモニーを担いました。奇しくも、2020年12月22日より、宇宙的には「風の時代」が始まると言われ、セレモニーの名は「希望の風セレモニー」となりました。(セレモニーの詳細はページ下部をご覧ください。)

以下は、セレモニー冒頭のジイジのお話です


 

希望の風を世界へ吹かせましょう

「希望の風セレモニー」オープニングより

2020年12月13日、日本時間13時をもちまして、地球人類の目覚めのための「希望の風セレモニー」が始まりました。

私たち人類はその叡智により、これまでにたくさんの文明を築き、大きな影響力をこの地球上に示してきました。このような高度な文明を築いた星を、私たち人類は今、宇宙観測によって他に確認することはできません。これから先の未来においても、このような文明を築いている星に人類が出会うことはないかもしれません。私たち人類が繁栄しているこの類まれなる星は、宇宙の中でも特別な状態になっています。それは、今周りを見渡してもわかるように、生命の星であるということです。

地球上にこのようにたくさんの生命が無限に展開することは、宇宙の奇跡です。そしてこの生命の特徴は、互いに調和し、協同し、地球というひとつの生命をみんなで表現することです。宇宙が善なる愛なる調和で表現されているように、地球の生命生態系も、大調和でなければ成り立たない表現なのです。この美しい生命の大循環が地球上に広がり、これから未来を歩んでいこうとしています。

しかしながら近年、私たち人類の営みによってこの大循環が壊され、汚染され、私たちが創る社会に暗い影を落としているのも事実です。今世界中に蔓延する新型コロナウィルスも、温暖化による自然災害の多発も、私たち人類がその叡智を使い、豊かな暮らしをしようとした結果起きていることです。なぜ豊かで幸せに暮らそうとした結果、このようなことが起きているのでしょうか。それは、私たち人類が他の生命のことを忘れ、大調和の精神を忘れているからです。

この現象は、近年に限ったことではありません。地球上に人類の叡智による文明が発生してから、6500年になると言います。私たち人類の側から見れば、それは発展であり、希望でもあったのです。しかしながら、その文明が現在に至った結果もたらす現象は、地球全体の生命に暗い影を落としていると言えます。

私たちは今、何をしなければいけないのか。新たな希望を見出すために、何をするべきか。

私たち生命の本質は、自分である前に、全体のために存在しているということです。国家は、その国を構成する人々の調和の上に成り立ちます。そして人類は、他の生命が健康で健やかであるよう、大循環の世界を表現するために存在しています。その心の根底にあるのは、他者を思うことです。そしてつながるということです。その精神が調和を生み、平和な世界を築きます。

その心の大本はどこにあるのかというと、大宇宙にあります。現在のように資源を奪い合い、争い、格差を生み出すような時代から、宇宙の星々が織りなす美しく無限なる調和の世界、そして地球生命が織りなす美しい生命世界のように、私たちは今、その精神に目覚めるべきなのです。

それは、簡単なことです。自らを大きく捉え、他者を自分自身だと思うのです。私たちは地球であること。そして宇宙にいること。そのことを自らの中に目覚めさせれば、今の社会の矛盾を解決するのは、いとも簡単なことです。

今はまだ、多くの人々はそのことに気付いていません。しかしまた、そこに気付き始めた人々が今、地球上にたくさん現れてきています。私たちは日本の富士山の地より、その始まりの宣言をします。そして希望の風を吹かせます。この風のウェーブは、地球を回り、この星全体を調和の響きで包みます。それは、努力をしなくてもいいのです。一人ひとりが人間の本当の姿、地球の真実の姿、それを思うだけで、その思いが人から人へつながり、響き渡り、地球を包むことでしょう。

これまでそれができずにいたのが、なぜこれからはできるようになるのでしょうか。それは、この2020年の12の月をもって、新しい風、宇宙の風が吹き始めるからです。その始まりのセレモニーに、こうして皆と共にその意識を持ち、この場に立てることをとても喜びに思います。この小さな響きは、いずれ地球全体を包むでしょう。そしてこの奇跡の星地球を、本当に美しい世界にしてくれることでしょう。その役割を担えるのは、地球生命の中で最も高い能力を持ち、最も尊い、私たち人類の目覚めなのです。

本日、12月13日13時をもって、その始まりのセレモニーを日本の富士山の地よりお届けします。人類の目覚めのための希望の風を、世界へ吹かせましょう。そして、地球全体に広げましょう。ありがとうございました。

 


 

セレモニーでは、木の花楽団の新曲「希望の風」が歌われました。

 

希望の風

暗い宇宙の 水平線に
かすかな光が 広がり始めている
どんな時代が 始まるのだろう
重い扉が今 ゆっくりと開いてゆく

希望を失った人々よ
絶望の淵から光へ向かおう
不安と恐れの向こうへ
忘れた羽を取り戻して
今羽ばたいてゆこう

未来があなたを 呼んでいる
失った希望が ここにあると
本当は誰でも そのことを知っている
今ここから 歩き始めよう

暗い宇宙に 広がる叡智
何故人々は 知ることが出来ないの
どんな暗闇が 心を覆っても
扉を開けば 光は流れて来る

希望を見出した人々よ
真実の道を歩み始めよう
不安とおそれを乗り越えて
今羽ばたき始めれば
星々のエールが聞こえる

未来があなたを 呼んでいる
この道をまっすぐに 行けばいいと
天と地をつなぐために生まれた者たちよ
手を取り合って 共に行こう

愛を知るために 憎しみがある
光を知るために 暗闇がある
闇に秘められた たくさんの想いを
手放すと決めるのは あなたの意志(こころ)

今やっと 新しい風が吹いてきた
みんなの心を つなぐために
希望の風がみんなを つないでゆけば
世界に奇跡が 起こるだろう

全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある
全ては善きことのためにある

 

*セレモニーの一部始終の動画を、フェイスブックのライブストリームにてご覧いただけます。

動画を見る