『散骨式~自然へ還るセレモニー』より ~「解放」することの大切さ

木の花ファミリーを基盤として様々な社会貢献活動を行うNPO法人ぐりーんぐらすでは、毎年大晦日に、その年に亡くなった縁ある方々のご遺骨を人の手で丁寧に砕く粉骨式を行っています。そして年が明けると、『散骨式〜自然へ還るセレモニー』を開催し、粉骨されて小さな粒子となったご遺骨を、富士山麓の自然の中へとお還しします。

『散骨式〜自然へ還るセレモニー』にて 斎主による散骨式祝詞の奏上
散骨を希望する一人ひとりの手に、粉状になった遺骨を渡していきます
参加者は、思い思いの場所に遺骨を撒き、自然へ還します

2023年は、6人の方々のご遺骨を散骨しました。まるで春先のように暖かく澄み渡った空の下、生前には互いに見ず知らずの存在であった方々の遺骨を共に自然へお還しし、歌と舞の奉納が行われた後、ジイジは以下のように挨拶をしました。

ナイジェリアの研修生から送られた民族衣装で挨拶をするジイジ

今日は、いつもながら天候に恵まれ、とても良い散骨式を執り行うことができました。
昨年、私たちとご縁のある6人の方が旅立たれ、今日はその方々のご遺骨を散骨させて頂きました。6人の方の中には、生前に私たちと関係の近かった方もいれば、遠かった方もいらっしゃいます。普通であればお互いに他人同士であった方々のご遺骨を、みんなで一緒に、自然へとお還ししました。この散骨式については、意味深いところがあり、そのことについて少しお話をさせて頂きます。

私たちの暮らす地球上には、命というものが溢れています。人間も、その中の一部です。命は必ず死を迎えますから、私たちもいずれ死を迎える時が来ます。しかし、命には、突然に死だけが訪れるわけではありません。死の前に、生まれるということがあるから、死を迎えることになるのです。
私たちは生まれると、その生まれた場所で頂いた縁を紡いでいきます。まず最初に、親を頂きます。いろんな事情の親を頂くわけですね。この世界に生まれてくる時に、差別ではないかというくらい、それぞれに個性的な縁を頂いて、いろいろな人生を歩み出します。しかしそれは、人間世界の話です。その前に、そもそも生命とはどういうものなのか、ということを考えてみたいと思います。

『太陽の導き』の奉納

今日、この散骨式で、『太陽の導き』という歌を、舞と共に披露させて頂きました。私たちはそもそも何ものなのかというと、太陽から来るエネルギーが転換して、私たちの命になっています。そして、地球上に地水火風空という自然の現象が寄り添い、命の循環が生まれます。その循環の中で、動物も、植物も、目には見えない微生物までもが育まれており、私たち人間も、その循環の中にあって生かされているはずなのです。
なぜこのような話をするのかというと、人間以外のものは、その循環の中で、自分の与えられた立場、そして自分の与えられた生き方の枠を守って生きています。現在もそうです。時代は21世紀になり、人間の社会ではどんどん進化・発展して豊かになることを追求していますが、人間以外の生き物は、地球上で何も変わらず生きているということです。そこで今、そういった命の原点を考えると、今の人間たちが地球上でしていることは何なのでしょうか。
去年、戦争が始まりましたね。あの戦争は仕掛けた側が悪いのかというと、それは私たち人間が創った社会の中で起きたわけです。その社会の一員である日本の現状はどうですか。日本は平和だと言いますが、現実にはたくさんの格差があり、学校に行けない子供や、引きこもりになって自殺する人たちまでいます。小中学校の先生の中にも、精神的な病気が原因で休暇を取る人が1万5千人を超えたそうです。学校だけでもうつ病の人がそれだけいるということは、うつ病になる予備軍は日本中にもっといるのです。これが豊かな国である日本の現状です。日本だけではありません。アメリカでは、つい3日ほど前に、6歳の男の子が口論をして先生をピストルで撃ったというニュースがありました。それが、人々が求めてきた豊かさの結果です。今の時代は、歪み乱れた世界が究極を迎えていると思うのです。現代の地球上に、そういった問題ごとを見付けることは、難しいことではなくなっています。

そこで改めて、この散骨式の意味について考えたいと思います。私たちがこの世界に生を受けたのは、お父さんとお母さんがいたからですが、その始まりには、何もありませんでした。その何もなかった存在がどこから来たのかということを、考えてみましょう。
まず、形として現れた。その時に、何かしらの定めを、既にそこで頂いているわけです。そして自然の仕組みの中で、太陽のエネルギーを頂き、地水火風空の循環の中で食べ物を頂いて、成長していきます。成長するとは、そのエネルギーを体に取り込むということです。そして取り込むだけでなく、排泄もします。排泄したものはどこへ行くのでしょう。それも自然に還っていきます。それを繰り返しながら成長し、やがて寿命を迎え、死に至ります。この循環から外れて生きることは、誰もできません。太陽が要らないとか、空気が要らないとか、水が要らないとか、そんな人はいないでしょう?大地のお世話になっていない人はいないでしょう?しかし、人間たちは、そのことを忘れてしまっているのが現状です。
今の時代を生きる人々は、お金をたくさん稼ぎ、好きなものを食べ、好きなことを何でもやれるのが豊かさであり、成功者であるとしていますが、それがいっぱいに広がっている世界は、自然から離れた世界です。大都会でこそそういった豊かさを享受できることになっていますが、生命としての原点を考えたら、それは本来の在り方とは真逆の世界です。このような価値観が人々に求められるようになったのは、産業革命以降のたった260年ほどのことですが、その僅かな期間の人間の行いによって、地球温暖化や様々な問題が起きています。すべて私たちがやったことです。それが何を意味するのかというと、人間は他の生き物とは違う行動をするようになった ——— つまり、「自分が」「自分の」と、自分というものを特定し、その自分に執着するようになったのです。

自分とは、一人ひとり個性的で、とても大切なものです。しかし、この自分という個性を自分のためだけに、或いは自分の身内のためだけに使うようになった結果、それが大きくなって、自分の国のためだけに、と、戦争にもなっていくのです。これが今の世の中を混乱させている根本原因であり、このまま進めば、いずれ人類を滅亡に導くかもしれません。
今日散骨させて頂いた遺骨に対しても、その人が生きている間はもちろんのこと、亡くなって骨になってからも、これが私のお父さんだ、お母さんだ、私の大切な人だ、と骨を見ます。そしてそれを、お墓や骨壺のように特定の器の中に閉じ込めます。それは、死というものを固定しているからです。固定したイメージを作り、器の中に閉じ込めているから、死は避けるもの、恐ろしいものだと思っている。それは絶対に通過するものであるはずなのに、そのような概念を作って閉じ込めている。しかし、お墓を持つとか、仏壇を持つという風習は、歴史的にはそんなに古い話ではないのです。

人間以外の命はすべて、自然の循環の中へ還っていきます。それは、自然から頂いた肉体的生命を循環の中で紡いでゆき、終わりを迎えたらまたお還しする、ということです。私たち人間も、同じです。では、魂はどこへ行くのでしょうか。それは、一人ひとりの心の位置に相応しい場所へ行きます。ですから、一律にどこへ行くということは言えません。しかし明らかに、魂の精神性は高い位置と低い位置があります。それはどのような違いがあるのかというと、日頃自分のことだけを考えている人は、自我の枠の中に心の位置があるわけです。自分のことばかりで枠が狭いですから、それだけ毎日枠の狭い命を表現していることになります。
枠が狭いと、循環から外れます。そうでしょう?すべてが繋がり、支え合って循環している中で、自分のことばかりになっているのですから。循環の中にいれば、それは流れの中にいるということですから、物事がスムーズに流れて順調に進みます。しかし、「自分だけ」という考えで一生懸命生きていると、一生懸命の分だけさらに流れが悪くなり、滞るのです。それは、自分にとって都合の良いご利益を求めてどこかへ拝んでも、良くなるものではありません。
この大いなる循環とはどのくらいのスケールなのかと言ったら、私たちは今、地球の循環の中に在ります。地球の循環と言いますが、実は地球が運営されているのは、太陽系があるから運営されています。太陽系が運営されるのは、銀河があるから運営されています。銀河が運営されるのは、銀河群があるからです。さらに、人間にはまだ分からない、銀河群よりさらに大きな宇宙の仕組みが、全体を運営しているのです。
その大いなる循環の中で、今日散骨した皆さんの遺骨も自然に還り、いずれ草木に吸われ、生き物に吸われ、炭素循環、窒素循環、いろいろな循環の中で、空気や土に還っていきます。そのように心を大きく広げていくと、今月のお給料がどれだけだったとか、自分の欲しいものが手に入ったとかいうことは、微々たることです。そんなことよりも、もっと大切な枠によってこの世界は動いているのです。

人間は社会を築き、それぞれにいろいろな人生をもらっていますが、それは修行ですね。何の修行かと言うと、自分の枠を取り払うために生きているということです。なぜなら、もともと「自分」という枠はなく、他のものが存在するから、その循環の中で生かされているのです。それなのに、人間はいつしか自らの枠を所有し、そこから離れられないようになっています。これが現代の、本当にどこを切っても問題だらけという社会を創っている一番の原因ですが、現代の人々の中で能力が高いとされる人ほど、そのことがわからないのです。
いずれ、このことを理解しないと社会が行き詰まる時代を迎えます。2012年12月21日に、私たちの世界は25800年ぶりの銀河の冬至を迎え、昨年2022年12月22日の冬至を以って10年が経ちました。それは、人間たちが自我を膨らませることにとても熱心だった時代が終焉を迎え、次の時代が始まったということです。ですから、2012年12月21日以降、地球上での人間の振る舞いはうまくいかないようになりました。そこからさらに10年が経ったわけですから、さらにそれが明快になり、今、2023年を迎えているわけです。
今日は、普通であれば互いにご縁のなかった方々を、一緒に散骨して自然へお還ししました。自然に還すということは、何もなくなってしまうわけではないのですよ。自然という、ひとつの命の循環の中に還すのですから、今まで別々だったものが、ひとつに還るのです。つまり、まったく縁のなかったものたちが、本来の自分自身となってひとつになっていくのです。
太陽が自分自身だという人はいますか?太陽があるから自分がいるのでしょう?土もそうです。空気もそうです。空気が無かったら生きていけないでしょう?そのように考えたら、この世界は自分自身です。この世界が自分自身であるならば、自分はそこで何をするのかと言うと、生きて、この世界をひとつにするためのお返しをするのです。この世界が健全になるために。

今日は6人の方々の散骨をさせて頂きました。いずれ私たちが旅立つ時も、やはりひとつのところへ還るでしょう。私たちがこのような散骨式を行うのは、世界はひとつであり、みんなが助け合ってこの世界が成り立っていることを、理解しているからです。
今、人間たちはそのことを忘れてしまいました。自分の自我を表現し過ぎて、自我を叶えることが良いことだと錯覚してしまっているのです。しかし、生きることは、自我を手放すために生きているのです。それは、今までも、今も、そしてこれからも、ずっとそうです。自我を手放した状態で生きることは、世界に貢献します。そこで、「自分」という狭い枠に貢献しても、欲深い心が育つだけなのです。

そこで今朝、今年のテーマが降りてきました。それは「解放」です。何から解放されるのかと言うと、一番かわいくて、一番捨てられずに大事にしている「自分」からです。それから解放することが、自分を楽にさせます。そして、価値あるものにします。その自分は、欲深い心で争ってばかりいるこの世の中を良いものにしていきます。
地球はひとつです。ひとつの地球の中で、なぜいがみ合わなければならないのですか。みんな太陽の子どもですよ。みんな大地の子どもですよ。それなのに、どうして争うのですか。人間は今、自然の循環の中の弱肉強食とは違う、互いを貶め、つながりを断ち切ることで、自らの価値を落としているのです。

たったこれだけの規模の散骨式ですが、それは人類にとってとても大きな意味を持っています。特定の墓や骨壺に閉じ込めず、亡くなった人を解放してあげることが、魂にとってどれほど大切なことか。私たちはもっと大きな循環の中にいずれ還っていくのだということを、認識してください。
私たちは一人ひとり個性を与えられていますが、それを自我の枠の中で自分のためだけに使ってはいけません。この世界に命をもらったということは、生きて、この世界を健全にする役割をもらったということです。そしていつか役割を終えたら、「ありがとうございました」と言って、物理的なものはすべてお還しする。そうすると地上に未練がなくなりますから、魂は軽くなって上へ昇っていきます。いろんなものを抱え、未練を残せば残すほど、魂は重くなってなかなか上へ上がれないのです。これが生命の道理です。
来年もまた、こういった散骨式でご縁のある方々を送ることになるかと思いますが、この活動を世の中に広げていくことが、世の中を良くすることにつながっていくのです。

今日はとても良い日で、太陽がこのように暖かい陽を注いでくれているのも、「これをやりなさい」と恵まれたのだと思います。どうか、そういった大切な輪を広げていきましょう。本日は、ご縁のあった皆さまと散骨式を無事に執り行えたことを本当に感謝いたします。

ありがとうございました。

 

 


NPO法人ぐりーんぐらすでは、亡くなられた方のご遺骨を自然の循環の中へお還しする、独自の粉骨及び散骨式を行っています。詳しくは、直接NPO法人ぐりーんぐらすへお問い合わせください。

NPO法人ぐりーんぐらす 
電話:0544-67-0485
メール:green★npo-greengrass.org(★を@に変えてください)



生きるということは、感謝、感謝、感謝です ~ 2022年収穫感謝祭より

木の花ファミリーでは、毎年一年の締めくくりに、その年の恵みに感謝を捧げる「収穫感謝祭」が行われます。今年の収穫感謝祭で、ジイジは「感謝」について以下のように語りました。


今日は、1年の締め括りとなる収穫感謝祭です。

そもそも、「感謝祭」とは、感謝をすることです。今の人たちは、いろいろなことに感謝をします。しかしその前に、感謝を叶えるために、要求をするのです。
自分の欲しいものをもらえたら、感謝する。昨日はクリスマスでしたが、あれが欲しい、これが欲しいとお願いをして、その願いが叶えられたら「ありがとう」と言う。「ありがとう」も感謝の心ですね。ただ、そのように自分の願いが叶えられて感謝するのは、本当はその心に魂が入っていないのです。

我々は肉体を持って生きていますが、肉体が生きているわけではありません。肉体に魂が入って初めて、自分の個性的な日常が続くのです。日常が続いていく中で、その肉体の中にどんな魂が入っているのかによって、それぞれ個性的な人生があるのです。その個性的な人間の人生が、今、極めて怪しい状態になっています。それは、欲望の虜になり、自分の願いが叶えば「ありがたい」と言う人たちが増えてきたということです。地球上にはたくさんの命がありますが、それが人間の特徴になってしまいました。そしてそれによって、人間は感謝というものを忘れてしまいました。

人間は、創意工夫することによって様々な技術を発展させ、テクノロジーを進化させることにより、自分たちの願いを叶えてきました。それは良いことですが、自分の願いが叶うとどうなるかというと、次の願いを叶えたい、という心が湧きます。もしくは、叶ったことが当たり前になり、それがあるのが当然という世界ができていくのです。これは意外と簡単なカラクリなのですが、現代人はそのことを極めてわかっていない状態で社会を創ってきました。

ですから、このような一年の節目を迎えた時に、ここでは「本当はどうだったのだろう」ということを振り返ります。今、『愛とお米があればいい』という歌が、舞と共に歌われました。お米は、この地球上で最も優れた食べ物と言われています。面積あたりの収穫量が最も多く、栄養も豊富です。その最も大切な食べ物と、その前に、食べ物ではなく「愛」があればいいと言う。愛とは何かと言うと、絆です。それは、人に対する思いやり、自分と人を同じに思うことです。

そうすると、「感謝」とは何でしょうか。今の世の中にある感謝は、自分が先に願いを持って、それが叶うと「ありがとう」と言う感謝です。
この世界には元々法則があり、その下に、私たちはこの世界に降ろされました。太陽を頂き、雨を頂き、風を頂き、大地を頂き、太陽のエネルギーと空気によって生命の循環が起こり、その中で私たちは命を与えられています。ということは、それがないと生きていけない仕組みの中にあるのです。
しかし、今の人間はそのことをまったく考えません。ですから今、そういったことをまったく忘れた社会ができたことによって、こんなにも発展して豊かになったはずなのに、混乱がたくさん起きています。それはメッセージなのですが、その混乱をどうするのかというと、賢い人間たちは創意工夫して技術革新によって解決していくのです。解決すると、それよりもさらに大きな問題が起きるようになっています。まるでこの世界から意地悪をされているようですね。今、人間が創っている社会とこの世界の関係は、そのようになっているのです。何故かというと、そこに人々の感謝がないからです。

本当の感謝とは、既にあるものに生かされている、そのことに感謝できた時に、それは本当の感謝となります。生きることのすべては、それがベースでなくてはなりません。
幸いなことに、私たちはこの生活を始めて29年目であり、来年は30年目に入ります。30年は、天体で言うと土星の1周のサイクルです。それは人間の人生にとっても大きな節目となるサイクルです。生まれてからの30年間は、自らの人間性を様々な形で表現し、自分が何者であるのかを体現する期間です。そして自分が何者であるのかを知った後で、それでは、その自分を使ってこれからどう生きるのか、というのが、次の30年間です。そうして60年を生きた結果を元にして、これからどのような終末を迎えるのかというのが次の30年間で、合わせて90年でほぼ人生を終わります。そのように、節目節目に、それまで歩んできたことの意味をよく知って、そしてその意味にふさわしい生き方をする。それが、魂が入っているということです。

そこでの自らの歩みを振り返ると、生かされていることばかりです。人間はいつの間にか、自分の力で生きているとか、何かを獲得することを当たり前に思うようになりました。しかし、今自分がこうしてここにいるのは当然だ、ということは、本当は無いのです。すべて、毎日、瞬間瞬間を頂いているばかりで、つまり生きるということは、感謝、感謝、感謝なのです。

『愛とお米があればいい』とは、一番のシンプルな食べ物と、そこに愛のふりかけがあったなら、人はそれだけで幸せに生きられるものなのです。しかし実際には、それ以上に、山のようにたくさんあるでしょう?挙げたら切りがないほど、今の人間たちはたくさんのものを持っています。ここにも様々な供物が祭壇に供えられていますが、こんなにたくさんのものを、私たちは自然から与えられているのです。電力でも、スマホでも、挙げ始めたら切りがないくらい、たくさんのものを与えられている。こんなにも溢れているのに感謝のない世の中が、行き詰まるのは当然のことでしょう。

2012年12月21日の銀河の冬至から、今年2022年12月22日の冬至をもって10年が経ち、「統合」を迎えました。こういった、本当を生きること。それは、誰かが音頭をとって「こうしよう」と言うのではなく、一人ひとりが、自らが生きることの本当の意味を知り、魂が入った悟りをもって、本当の感謝で毎日を生き、命を繋いでいく。そうすると、周りにいい流れが生まれます。出来事がとても順調に進み、いい毎日だね、と言って、みんなが仲良く、感謝し、良い日々を送れるようになります。この世界は、我々にそういった約束を与えてくれているのです。それは間違いのないことです。

感謝のない世の中では、始めは無かったものがいつの間にか有るのが当たり前になり、それが無くなった時に「自分のものを失った」と傲慢になるのです。今日は一年の区切りとして、ここでは収穫感謝祭を迎え、たくさんの供物がお供えしてあります。それは、太陽が恵みとして自然から私たちに与えてくれたものですが、与えられたものへの感謝だけでは、これまでの人々が表現してきた浅い感謝です。これからの感謝とは、ここに在ること。不思議でしょう?時間は、未来にしかいきません。過去には戻れない。しかし、過去の経験を繋いで、未来に生かすことができる。そのような世界を、一体誰が創ったのでしょう?

天体はものすごく大きくて、私たちにはまったく縁が無いようですが、実は、太陽の作用、月の作用、惑星の作用、銀河の作用、我々にはまったく関係のないように思える無数の星々が、ここにこういった世界をもたらしてくれているのです。
もう一つ、二つ、深いところで、一体全体この世界は何であるのかということを考え、そしてそういった深い恵みを頂いていることに対し、改めて感謝する時代が来なければならないと思います。そういったことを、これからも皆さんと共に深めていきたい。その段階に、ここも入りました。なぜなら、この地球の人間社会がそれを失ってしまい、これから本当にそれが必要な時代が来る、その先駆けとしてここがあるからです。
ですから、一人ひとりがその自覚を持って、これからやっていきましょう。誰の中にも、愛と絆の芽はあります。それを芽吹かせ、周りが良くなり、その中で自らも良い人生、価値ある人生を生きることが大切だと思うのです。

今の世の中は、自分のことばかりでしょう?そして格差が生まれ、対立が生まれ、そんな中でどうして、自分だけが良くなることができるでしょう?みんなが良くなるからこそ、自分も良くなる。それが本当の人間の立つべき立ち位置です。

今日も、明日も、明後日も、そのことをみんなと深めていきたいと思います。感謝です。ありがとうございます。

 


『人間』という宇宙的実験 〜 2022年冬至のメッセージ

「夜明けは近い」という印象的なフレーズが繰り返される『友よ』という歌があります。この歌は、1960年代末の学生運動が盛んだった時期に、社会変革を訴える歌として世の中に受け止められ、ベトナム戦争の時にも反戦歌としてよく歌われていました。あれから半世紀が過ぎた今、夜明けが近くなるどころか、世の中の闇はさらに深まっているように観えます。
現代は、一人ひとりの個人も、地域社会も、世界全体も、大きく滞っています。その根本は皆共通しており、そこから腐敗が発生し、広がっていることが感じられます。今、現代の地球上にこの事を発しなければならないという思いが湧き、それが言葉となって湧き出してきています。2012年12月21日の銀河の冬至から10年となる今日、2022年12月22日冬至の日に、その事を皆さんにお伝えします。

地球生命の歴史の中で、時を経て、人間は他のいかなる生命とも違う歩みをするようになりました。その最大の特徴は、個の喜びを追求するようになったことであり、それが自我の増幅を際限なくもたらしていることです。
生命の成り立ちとは、元々、個の喜びを追求し、自我を表現することではありませんでした。人間以外の生命は、人間のように強い自我による意志を持たず、地球生態系の大調和を定めとし、その大いなる循環の中でそれぞれの位置を与えられ、役割を果たし、全体の調和を表現してきました。それは絶対的で、揺るぎのないことです。不調和をもたらす目的で地球上に生まれてきた存在はいないのです。
そのような生命世界に、人間は誕生しました。そして、自我を持つことにより、『人間』という生命は、宇宙的実験を使命付けられました。

人間は、個々の目的を達成することを喜びとする特殊な生き物です。それは、探求心を持ち、過去の経験を現在に繋ぎ、未来に向かって自らの意志で現在の状況を変えていくことができる、特別な能力を持っていることでもあります。しかし現代の人間は、その特別な能力を、自らに都合の良い未来を想定し、全体を無視して自分だけの利益を追求することに使うようになりました。それは自我から生まれる自己実現の欲望をくすぐり、欲望が満たされれば満たされるほど、人間はその虜となっていきました。それを可能にしたのは、自らを他と区別し、差別するようになった人間の心です。
区別とは、自分と他との違いを認識し、その違いを個性として互いに補い合い、全体を繋いでいくものです。ところが人間は差別をすることにより、自分と他とに差を付けて違いに優劣を生み、違いを生かすのではなく、違いによって優越感を見出したり、反発したりするようになりました。そして、自らが他のために存在するという、生命の根幹たる姿勢が失われていったのです。

現代の人間社会の営みは、すべてがゲームやスポーツのように、地球生態系の大調和の中にある生命本来の在り方とはまったく違った感覚で行われ、自然界には決して無い生き方を貪るようになりました。そして自我から生まれる欲望の自己実現をすることが、当然のこととして、代々伝承されるようになりました。生命として生まれ、新鮮な欲求が新たに湧いてくるというよりも、DNAに刻まれた欲望の心が自動的に湧き出してくる状態です。それがあまりにも身近にあり過ぎて、そのことが何をもたらしているのかが観えないのです。
欲望を叶えようと、誰もが当たり前にするようになった結果、大調和の下にあった地球の生態系は大きく乱れました。今や人間というひとつの種が、地球上に汚染をまき散らし、まるで地球のガン細胞のように、全体の生命バランスを破壊するところまで来ています。人間が欲望を叶えるために創った経済システムは、自然界とはまったく異なる「人工」という世界を構築しました。それは一見、人間の特殊能力である探究心や創造力、テクノロジーによって豊かさが表現されているようでありながら、その実態はこの世界の秩序を無視し、自然を破壊する力を持ち、地球全体を貧しくして危機的状況に陥らせる驚異の源泉となっています。
近年の地球規模の危機的状況は、多方面からの情報によって多くの人々の知る所となりました。ところが、特別な能力を持つ賢い生命であるはずの人間は、その深刻な事態を知っているにも拘らず、自らの欲望を満たす快楽の方が勝ってしまい、危機的状況の源泉である自らの生き方を改善することができない状態に陥っています。それは、個人という小さな単位の生き様に現れているだけではなく、国という単位の国家エゴにも如実に現れています。それぞれが自らの欲望の延長に生きた結果、他者との不調和を生み、最終的には自分自身の健康や生命としてのバランスさえも脅かし、自らの行いが自らを破壊する自己矛盾を創り出す生き物となったのです。

宇宙は、極めて道理の通った世界です。その宇宙において、人間が道を踏み外し歩んできた結果、地球上にしかない矛盾に満ちた現象が、問題ごととして発生しています。歴史を紐解き、世界観を広げ、高い視点から未来までを見通して現在の実体を捉えてみれば、今地上で起きている現象は、時代の流れの奥にある時(トキ)からの大いなるメッセージであることが感じられます。それは、宇宙の始まりから常に世界をひとつの方向へ導き続け、壮大なる生命進化の物語の果てに人間を地上に降ろした「宇宙的意思=大いなるもの」からのメッセージです。
21世紀に入り、25800年ぶりの銀河の冬至(2012年12月21日)から10年の「統合」を迎えた今、道を踏み外して物事が観えなくなっている人間たちに対し、時の物語は様々な現象を起こし、メッセージを送っています。しかし、自らの側だけに立ち、欲望を叶えることの虜になっている人間には、そのことがまったくわからず、気付こうとさえしないのです。そこに、地上に理想世界が生まれないすべての原因があります。
ネイティブアメリカンの言い伝えにもあるように、人間が本当に馬鹿になってしまったように見える闇の時代の局面を今、私たちは生きています。銀河の冬至が明け、霊的な光が差し始めたことで、これからさらにその闇が浮き彫りとなってくることでしょう。それでも真実に向かうことを諦めず、歩んでさえ行けば、その先に確実に光が観えてきます。

地球の生命進化の歴史を振り返ると、過去6億年の間に、6回の大量絶滅が起きています。時の意思と共に進み続ける進化の物語にそぐわないものは淘汰され、その度に質的転換が起き、新たな種が誕生してきました。
近年、人類という種の営みは、地球生態系の調和を破壊する特に見苦しいものとなっています。その愚かしさの極みを、時のメッセージを受けて自ら振り返り、それを痛みとして善きものに転換する能力を、人間は発揮するべきなのです。このまま7回目の大量絶滅に向かうのか、それとも、人間の叡智がそのことを学習し、絶滅を伴わずに次の進化へとソフトランディングするのか。それは、次の時代を生きる人間の新しい姿がもたらすものです。
有史以来の6500年間、人間は文明を築いてきましたが、それは人間の地球上での身勝手で我儘な振る舞いを表現するためのものでした。自我から生まれる願望が、たとえどれほど他を傷付けるものであったとしても、一たび勝利者となってその願いが叶えられれば、それが正義となり、その有利な立ち位置に立てば何をしても良く、それこそが正義であると称えられる時代でした。しかし本来、他の生命にはない特別な能力を与えられた人間は、この多種多様な生命の大循環の中でコンダクターとしての位置を与えられ、宇宙の奇跡として創られた命あふれる星、地球を、その大調和の法の下に、より美しく、より優れたものに仕上げるための存在でなくてはならないのです。
人間は元々失敗作であったのか、それとも宇宙的実験の結果、失敗に至ったのか。或いは、大いなる宇宙的意思の下、本来の尊さへ向かうための物語を今、歩んでおり、現象を通して気付きを得ることで、その広く高い視点から世界を観ることを学ぶプロセスの中にいるのか。前者であれば、人間はこのまま気付くことなく、自らの矛盾によっていずれ破壊を生み、地球生命進化の歴史の中で7回目の大量絶滅のプロセスを迎えるのかもしれません。その結論を今出すことはできませんが、できれば後者でありたいものです。その可能性を、示したい。

過去から現在の自分へと連なる人類の歴史を理解し、それを学びとして自らを転換すれば、現在の自らが浄化されると同時に、結果としてその先にある未来も、そしてその元となった過去も、すべてが浄化されます。「あれがあったから、こうして今気付くことができた」と、過去の愚かしい出来事が、気付きへと繋がる尊いことに変わるのです。あなたのベースを築いた祖先が愚かであったとしても、あなた自身が目覚め、優れた者となることで、そのあなたにつながる祖先もまた尊い者となるのです。
これまでの人類の歩みは、浄化どころか、更なる愚かしさを積み重ね、次世代へ負のカルマの連鎖をもたらすものでした。しかし、銀河の冬至が明けて宇宙的ターニングポイントを迎え、時代は闇から光へ、即ち浄化の方向へと舵を切りました。ですから、この事を理解した者は、信念の下に、誰もがそれをやり切らなければなりません。時代がそれを後押ししています。それは、このターニングポイントに生まれてきた者としての一番の醍醐味と喜びにするべきことです。現代人は、お金を稼ぐことや、物に執着することを生きる上での最優先事項にしていますが、それは本来、生命として最も大切なことを育む時に付随するものでしかなく、最優先事項ではないのです。

過去、人(ヒト)である事の尊さを探究する道は、狭い視野での修行や、そういったことを行う人々が組織となった宗教などによって探究されてきましたが、それはまだまだ宇宙的存在としての人間の実体を掴んでいなかったがために、人類の歩みを訂正して人間を尊き者へと導き、この惑星を本当に美しいものとする能力を人間にもたらすことはできませんでした。人間は、個々の自我が持つアイデンティティを自らのためだけに積み上げてきたのであり、人類という種としては、地球上における宇宙的な役割に対して何も積み上げてはいないのです。それが、人類がどうしても大局に立てない原因となっています。どれほど自己矛盾を生んでも、地球や、宇宙にまで汚染をもたらしていても、それに気付くことができず、そのことの重大さについていくら語って聞かせても、その道理の響きが響かないほど、汚染が蔓延しているのです。
そこで今、なぜこの話が湧き出しているのかというと、現在のその実態がようやく人々にも観える時代に来たからです。そして私たちがこの生き方をしてきたのは、そのことに気付いてもらうためなのです。
残念なことに、現在は個々の人間の霊的な価値があまりにも低くなっています。願わくば、こういった気付きを持つ者を、天から多く地上に降ろし、真理の気付きのウェーブを人類にもたらす、風を起こしたい。事実、天はそのような気付きを持つ者を少しずつ降ろし、時代を現わしていることが感じ取れます。その時代の流れの中で、こういった気付きを体系化し、語る者が地球上にいることも、また事実です。ここに道理があるということは、それがほんの小さなものであっても、今その動きが始まっているということです。そしてそれは、大局の視点に立ち、大いなるものの側から観た道理であるから、時代は必ずこれを進めていくのです。
その時に、願わくば人間一人ひとりが自らの自我を超えてこの視点に立ち、その延長に生きることを少しでも早く成し遂げることを望むものです。

個人の希望はどうでもよいのです。個人の小さな使命や願望の下に、大いなる使命を果たすのではないのです。個であっても、大局の使命は持てます。それは、私たちは皆、この大いなるものの一部であるからです。
物理的には人間には限界がありますが、霊的には無限の存在です。なぜなら、私たちはこの大宇宙の中にあり、大宇宙と共にあるのだから。そのことを、霊的には悟ることができるのです。一日の些細な行いであっても、人間がその姿勢を改めることで、大いなる宇宙と共に世界を生き、救っていくことができます。人間にはそれだけの能力があるのです。
その揺るぎない心をもって、互いの違いを生かし、補い合い、その喜びを分かち合うパートナーシップを組む。それこそが大切であり、私たちが生まれてきた意味です。それは、過去に個として修業を重ねた者たちには到達し得なかった境地です。
どれほど歩みが外れたとしても、人間の成り立ちの根本は、その尊き仕組みの下にあることを忘れてはなりません。そこに気付けたことの喜びを持ちたいものです。そしてそれは、ひとりの者が気付きとして発しても、あまり意味がありません。これを発するためには、同じ価値観をもってそれを受け取る対極の受け皿がないと、発する響きは微細なものにしかなりません。そして、その対極の受け皿が無限に連鎖していけば、世界は変わるでしょう。人間は個人ごとを離れ、大局を生きることを求められる時代に立っています。かつて孔子の語った「大同世界」は、古い時代の話であり、人間の生き方に限定されたものではありますが、大局を歩むための悟りの出発点でもありました。

人間は魂を与えられ、自らの手の中にはない世界に降ろされました。肉体を返上した魂はどこへ行くのかも、自らが選ぶのではなく、自らに相応しいところへしか行くことができません。しかし逆に言えば、自らに相応しいところへ行ける、ということでもあります。
その最終段階の結果は、日々の生活をどのように積み上げてきたかという、それぞれの人生の道のりの先にあります。ですから、日々を怠ってはなりません。この尊き道には、特別に美味しい食事もなければ、お金が山と積まれているわけでもありません。この世界において最優先するべきことに歩みを進めるからこそ、そこに価値が生まれるのです。
その人生の過程で、自らの事に限定し、心がうきうき、わくわくするのは、心が低い位置にあるからです。自然療法プログラムを受けている人の症状が良くなっていくと、主治医としての私の心はうきうきわくわくしますが、自分自身のことに対しては常に冷めています。人間は、自らが低い位置にいて、高い所を目指す時に、うきうきわくわくするものです。そこに差があることで、そうなります。それはある意味、そういった美味しい餌(高揚する心)で、天は人間を釣り上げているのかもしれません。

天に近い所に意識があると、特別にうきうきわくわくすることはありません。意識が低い位置にあると、例えばカジノやゲームなど、人の心を刺激するものの依存症にもなります。それはうきうきわくわくするものですが、同時に落とし穴も常に伴うものです。今や、人間は皆、欲望の依存症になっています。その結果、欲望が人間を支配するようになりました。その依存症に陥っている自らを取り戻し、自己コントロールすることによって、初めて自らを有効に活かせるのです。それには、己を離れ、高い位置から俯瞰して捉える目線を持つ必要があります。それは、現代を生きる人々には難しいことであるとも言えます。
得をしようと思えば、「何か得するものは落ちていないか」と目線が下を向き、視野が狭くなります。その目線の違いを自ら認識し、心次第で自分はどちらを向いているのか、判断する必要があります。その時に基準となるのは、物理的な上中下ではなく、霊的な目線です。今日一日自分はどこを向いていたのか、その目線を振り返れば、自ずとわかるはずです。
私は近ごろ、日々の作業の中で、充実した時間を過ごしています。それは、作業を目的としているのではなく、今ある流れに乗っていこうという、その姿勢の延長に作業があるからです。それは、自我で算段をするのではなく、流れに沿い、今するべきことを淡々と進めていくことになりますから、結果として良い時間を過ごすことになります。自然療法プログラムを通しても、心身を病んだ人々と向き合うことで、不要な思いを乗せない、ある意味冷めた視点を育ててもらいました。私がどれだけ相手を治そうと思っても、私の誘導に乗らない人もいるのです。ですから、そういった人々と出会った時には、「可能性は彼らの中にしかない」と、相手を治そうとする自らの欲を捨てるのです。

人間という種の歴史は数百万年、猿人を含めると一千万年の歴史があるそうです。その種としての歴史を紡ぎながら、人間は今もこの世界で個として地上に降ろされ、生まれてきます。他の生命は種として地上に降ろされ、その種を存続させ、大いなる生命の大循環を表現するために存在しています。
人間は、強い自我を持ったがために、自我の欲望に囚われて大循環を破壊する存在にもなれば、自らの自我と対峙し、それを超越することで、この世界の全容を捉える広く高い視点のもと、世界をより良き方向へと導くコンダクターの位置にも立てるのです。
古の中国の「天盤の巡り」では、文明の発祥からおよそ3000年間の「青陽期(王の時代)」、その後約3000年間の「紅陽期(聖人の時代)」を経て、1927年より「白陽期(民衆の時代)」が始まることが予言されていました。それは、これまでのように王や聖人が人々をリードしてきた時代から、個々が自ら宇宙と対話することによって真理に目覚める「個の悟り」の時代に入ったということです。
「個の悟り」とは、特定の経典を学ぶように、個の救済を目的としたり、個々の満足を得るためのものではありません。個が悟るということがウェーブになると、人間の価値が本来の位置へ戻り、人類の種としての役割を果たすことになるのです。

今、あるイメージが浮かんでいます。それは、女性のお腹の中に卵があり、そこに魂の種が入り、子宮のベッドで新しい命として育まれるのと同じように、個々の人間もまた、人として生まれてきた本来の役割や尊さを自らの中に表現するため、長い時をかけて築かれてきた生命の土台の上に、肉の身体を与えられ、そこに魂を宿らせて、地球上で育まれてきたということです。
今も私たち人間は、ここ地球上での様々な修行の結果もたらされる、個の悟りのために生きています。個の悟りがウェーブとなり、連鎖すると、初めて人類としての悟りがもたらされます。それはつまり、「コミュニティの悟り」です。
お釈迦様の時代は、「個の悟り」の探究でした。その後宗教は「個の悟り」をご利益のように扱い、その本来の目的を見失ってきました。21世紀の悟りは「コミュニティの悟り」であり、それはお釈迦様の時代より宇宙的に進化したものとして、私は語ってきました。しかし、今私が語っているのは、21世紀から30世紀(3000年)に向けての悟りとして語られているものです。いずれ人間がもっと大局に生き、魂が進化していくと、肉体を超越してこの宇宙を運営していく存在となります。
私たちが肉体を持って生きるこの物理的世界は、背景にある霊的世界が運営しています。我々人類も、役割として、そこに立てる時が来るのです。今は、地球生命生態系の中の一生命である、人類という枠の中での役割を果たしていますが、この間違いが一体どこから始まっているのかを、徹底的に紐解いたなら、それは「30世紀の悟り」へと到達するのです。

個々の悟りは、宇宙の大樹に、花を咲かせます。その一つひとつの花は小さくとも、一たびそれが連鎖し、無数の花々が咲き出せば、それは乱舞の如く宇宙に花開く、満開の大樹となるでしょう。そしてその大樹に、個の花が咲き切った時、この宇宙の実体である大いなる精神の花 ——— 宇宙生命曼荼羅が誕生するのです。

 


いずれまた あなたのもとへ

私はいつも意識があなたの方を向いていることに気付きます。それは、私がこの世界に存在することの原点を感じるからであります。そのあなたを感ずる私の力は微妙なものであります。私が肉体的意識をセンサーにして生きれば、あなたの存在を感じることは難しいものですが、たびたび意識の隙間からあなたの存在する世界にセンサーがアクセスすることがありますので、存在を感じるのです。私はあなたの存在を感じたとき、不思議な気持ちになります。それは私の存在する世界で、どのように喜びを発掘しようと思っても得られないものです。そのあなたのおいでになるほうに意識を向け、あなたの存在の息吹を感じたとき、なにかしら言いようのないすべてのふるさとのように感じられる響きの世界があることを感じ、私が存在するこの現象世界で得られるであろう喜びのすべてを超越した満足が、そこにあることに気付くのであります。

ですから、私は時々この世界にいることを空しく思い、そしてあなたの方に旅立つことを望むのであります。どちらにしても、あなたのもとから来た私にとっては、いずれまたあなたのもとへ還るのですから、私は十分に満足なのです。

毎日、瞬間瞬間の時の旅を留まることなく永遠に歩んでいますが、この永遠は私個人の体感する枠の中では有限なのです。私はそのことがわかっているので、永遠に続くように思われるこの現象世界の中にいても、至福の心を持ち続けることを可能にするのです。

私は赤子のように物理的なすべてを取り去って裸になり、霊的にすべてのこだわりを取り去り魂だけになったとき、この境地に浸ることの喜びに至るのです。

 


人間が本当に進化するために

僕は30歳の時に、お釈迦様に出会いました。
30歳の12月26日に、ふと気が付くと、頭の上に黒い男の人の姿がありました。それは、お釈迦様でした。以来9年間、僕はお釈迦様から心の学びを頂いてきました。

最初の2年間は、泣いて暮らしました。それは自分を否定していく道だったからです。自分の中に、ああしたい、こうしたい、という自我の欲求が湧いてくる。でもお釈迦様が説かれることの方が、自分の中から湧き出す思いよりもはるかに優れている。ならばその優れた方を選ぶしかない。
そうして自分の思いを否定していくうちに、まるで自分が消えて無くなってしまうかのような淋しさに苛まれ、そのように未熟な自分が情けなくて涙を流し、それでもその自らの思いを超える、より優れた方、より道理の通った方を選び、歩み続けました。
そして9年が過ぎたある日、お釈迦様は「私の役割は終わりました」と、僕のもとを去られました。その時僕は、自分はまだ未熟であなた無しでは歩むことができません、行かないでくださいと懇願しましたが、お釈迦様は「あなたは十分に育っています。歩んでみなさい。歩めるから」と言い、天へ昇っていかれました。そう言われたら、自らの思いを否定し、その命に従うのが僕の常の姿勢です。ならば私は歩みます、と心に決め、自分はもう霊的な存在と対話することはないのだろうと思っていると、その直後に、日の本の神様が現れ「これからは我がそなたを守護する」と言われたのです。

*ジイジの霊的な歩みについては、「木の花記~金神様の巻」でご紹介していますので、より詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。

その後、僕を守護する神様は七度替わられました。そして最後に現れたのが、「あってあるもの、なきてなきもの」です。
日の本の神様に出会ってからの1年間、僕は神界というものの多様性を学んできました。そしてある時、故郷の氏神様である滝神社の262段の階段を降り、実家に向かって歩き出したところで、上に何ものかがいることに気付きました。その日は快晴で、空は高く澄み渡っていました。僕はその何ものかに向かい、「どなた様ですか」と尋ねました。神々様には皆名前が付いていたので、僕は新しい神様に出会う度に名前を聞くことが癖になっていたのです。しかしその上にいる何ものかは、何も答えませんでした。そこで僕はもう一度「どなた様ですか?」と尋ねました。するとその存在からは、こう返事が返ってきたのです。
「名などない。」
僕は、困ったなと思いました。名のない存在をどのように認識したらいいのだろう?そう思っていると、その存在からは続けてこう返ってきました。
「我は、あってあるもの、なきてなきもの。」
そう言われても、僕にはさっぱり意味が分かりませんでした。その時僕は40歳か41歳。富士山麓へ移住する前のことです。

その後富士山麓で木の花ファミリーを創立し、人々の心の目覚めを促す活動を続けながら、その暮らしは常に「あってあるもの、なきてなきもの」と共にありました。そして19年が過ぎたある時、縁あってカタカムナに出会いました。そこで「ある世界」と「ない世界」という、この世界の構造を解き明かす概念に出会った時に、初めて「あってあるもの、なきてなきもの」が何であるかの裏付けを得たのです。
この世界は「カタチサキ」、つまり、物理的肉体を持って現象世界を生きる私たちは、まず物理性であるカタチから物事を認識します。それが「あってあるもの」です。そしてその奥に、その物理的現象世界を成り立たせる、根源的な世界が存在します。それが「なきてなきもの」の座する場です。
カタカムナに出会い、僕は初めて、あの時自分のもとに現れた存在は宇宙の実体そのものだったのだということを理解しました。それは、人間のように名を持ち、特定の意志表示をするものではなく、この世界の全て ——— 「ある世界」だけでなく、その奥にある「ない世界」までも含めた、この世界の実体を示されたのです。

出会った時にはさっぱり意味が分からなくても、分からないからと否定するのではなく、そのままを頂いて、歩んでいくと、その歩んでいった先に解答が出ます。そしてこの姿勢は、行き詰った現代の物理学を新しい世界へと導きます。
現代科学は、物理的な現象をもって証明できることだけを真実とする、現象一辺倒の世界です。しかし、現象だけでは解決できないのがこの世界です。私たちは一人ひとりにそれぞれのオーラがあり、響きがあります。そして心があります。そういったことをどう捉えるのか。科学の世界の人々も、アインシュタインがそうであったように気付いてはいるのですが、結局は物理的に立証できることだけを真実としなければ、怪しい世界がいくらでも広がって秩序が取れないのです。
だからこそ、もっと広い世界から、世界の実体を捉える必要があります。対向発生という仕組みから世界を捉えていけば、もっとこの世界の成り立ちが理解できるはずです。しかし、広い世界ではなく、自分の見えるところから探求していくと、自分が見えること、自分が理解できることのみを真実としてしまうのです。そうすると、限界が生まれます。自分の度量によって見える世界は違ってくるのに、見えないものを無しにしてしまったら、その先へ進むことはできないのです。

多くの人は、自らの心のキャパシティを超えるものを認めない傾向があります。そうすると、人間が進化しません。物理化学の世界は、その分野としては進化したかもしれませんが、人間の本当の進化を妨げています。そういったことを、物理化学の世界の人々は、理解しなければなりません。
自らの価値観を取り払うことによって、新たな価値観が入ってきます。排泄せずに、食べ続けることができますか?息を吐かずに、吸い続けることができますか?それと同じことです。
この当たり前の事実が通用しないのが現代の世の中です。それが人間の限界を作っています。人間がその自我の枠を越えた時に、本当の進化が始まるのです。