人の名前には、多くの情報が秘められています。木の花ファミリーでは、カタカムナの単音の思念やカルマ読みといった宇宙の法則を紐解く手法を通し、名前から、表面的にはわからないその人の心の本質を読み解くことを行います。この分析を元に、いさどんが今話題のニュースについて語りました。
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最近、テレビで大きな話題となっているのが、5月28日から行方不明になっていた北海道北斗市の小学2年生、田野岡大和君(7歳)が6月3日の朝、陸上自衛隊駒ケ岳演習場の宿泊施設にいるのが発見されたニュースだ。
考えてみれば、彼は6日間水だけで生き延びていた。彼はドクターヘリで函館市の市立函館病院に運ばれたが、診察の結果、両手足に擦り傷があり、軽度の脱水、低体温の状態が確認されただけで、大きなけがはなく、衰弱していた様子はなかったそうだ。ある意味、これは達人の成せる業だ。
なぜ、それが可能だったのか。それは、「大和」君だから、できたのだ。「大和」という心の性質が猪突猛進型であり、深く物事を考えず、ただ生命力のままに動いたから可能だったのだ。それは、人間が難しいことを考えずに本能のままに生きれば、このような生命力が内在しているという証でもある。
これが、「大和」という心の性質ではなく、難しく複雑な心の性質の人であれば、自分で自分を追い詰めていくから、精神状態がおかしくなっていく。彼のような精神構造でなければ、恐怖心が強くなったり、余分な動きを取ることもある。「大和」という、ある意味単純で能天気な心の性質が、ただ単純に今ある状況に合わせ生き延びることを可能にした。だから、その人の精神構造が成せる業なのだ。
現代人の多くは頭の中でああでもない、こうでもないと考えてしまい、考えるだけでエネルギーは衰退していく。さらに、恐怖心や不安からむやみやたらと動き、体力を消耗し、その結果生き延びる可能性が低くなっていく。しかし、彼のようなタイプの人間は、脳のエネルギーをそれほど使わないので、車から置き去りにされたその日のうちに歩いて演習場にたどり着き、夜は宿泊施設の中でマットレスに挟まって寝ながら、施設の外にあった蛇口から水を飲むという生命力があるのだ。
それは、子どもだからそういう生命力があるとも言えるが、人間の中にある本来の生命力は、余分な自我や迷いの心がなければ発揮されるという証でもある。「大和」という子はそういう子なのだ。
「大和」は古代日本国・「ヤマト」に通じる。古代宇宙物理学のカタカムナで「ヤマト」という思念を紐解くと、「飽和安定(ヤ)した間(マ)が、統合(ト)している」という状態を意味する。つまり、可能性を秘めた空間が安定した状態で継続しているということになる。だから、先が観えなくても、不安なく進んでいくことができるのだ。
彼の父親の心の性質からすると、大和君をコントロールすることはできない。あの父親が「大和」という子をしつけすること自体が、親子の因縁のカラクリなのだ。だから、コントロールできないものをコントロールしようとした結果、起こった今回の出来事は、霊的に言えばしっぺ返しを受けたようなものでもある。
この出来事は、そのような霊的な背景を理解せず、父親が息子をしつけしようとしたことから起きている。そういったことが理解できていれば、現世的には父親であるのだから、彼の性質に寄り添いながら、しつけという行為を適切に行うことができたと考えられる。ところが、とりあえず自分の子どもだから、自分の思うようにしつけようと思ったところから今回の出来事が起きたのだ。
大和君が行方不明になった当初は、「山菜採りの最中に行方不明になった」と両親は通報していたが、その後、彼が小石を人や車に投げたため、「しつけのため」として山中に置き去りにしたと説明を変えた。しつけのためと言うならば、なぜ、父親は信念を持って行動しないのか。大和君はよく考えないがために、石を人や車に投げるような行動を取ったのだろう。しかし、彼にはものをよく考えない性質があるからこそ、よく考える人になるよう子どもに接していくのが、親の立場であり、本当のしつけというものだ。彼のそのような行動から、彼は発達障害もしくはADHD(注意欠陥多動性障害)なのでは?とインターネットで書き込みをしている人もいるが、そこでは表面的な出来事を通して安易に診断を下しているように思われる。
今、そういったことを分析して語れる人が、世の中にどれほどいるのだろうか。今の社会では心理学者や小児科医などが、今回のニュースについていろいろと解説しているが、あの出来事は今の時代に欠乏している生命力を伝えているのだ。また、海外メディアも含め、奇跡の結末に多くの感動の声が寄せられ、彼がヒーロー扱いされている反面、「彼がかわいそうだ」という声も多く寄せられている。しかし、それだけでは物事を表面的にしか捉えられていない。
ようやく、出来事の全容を解説できる時代が訪れた。出来事の背景に流れる一人ひとりの人間の性質を把握し、さらに時代の流れを読んでいかなければ、出来事の本質を理解することはできない。そういった物事の本質を掴み取る時代が訪れたことの証として、どこにでもあるしつけ事件の顛末が、時代の流れを示唆しているのだろう。
今、本質を分析できる時代がようやく訪れたのだ。
Source of photo: newsnya.com/tanooka-yamato-missing