イスラム教徒は何を伝えようとしている?~ダッカ人質テロ事件から時代を読む

バングラデシュで、日本人7人を含む28人が死亡するテロが起きた。マスコミでは多くの報道がなされていたが、この出来事の背景を観ようとする視点がどこにもない。ただ「テロは悪い」ということばかりがニュースから流れてくる。

バングラデシュの高学歴で裕福な若者たちが、なぜテロを起こすに至ったのか。
バングラデシュは新興国として今、著しく産業が発展していく過程にあり、これから中国に代わる発展途上国の代表的な国として、希望に燃えているはずだ。そこでこのようなテロが起きているということは、今のモノカネ重視の価値観に矛盾を感じ、キリスト教国に代表されるような現代社会の価値観に異議を唱えるイスラム教徒の存在があるとも捉えられる。
実行犯は、わざわざシリアやイラクへ行ってISに参加したのではなく、バングラデシュ国内の組織からの支援で犯行に及んだと言う。若者たちが自国にいながらインターネットで刺激を受けてテロリストになっていく事例は、アメリカやフランスでも起きている。それはなぜかと言うと、彼らはISに共鳴しているというよりも、自国の体制に不満があるのだ。

バングラデシュは今、目覚ましい経済発展を遂げているが、その中には必ず近代化していく社会にひずみがあり、貧富の格差も生まれている。若い世代の中には、そういったことを許さない純粋さがある。「黙って働いて金を稼ぎ、豊かに生きればいいのだ」という発想に対し、命をかけて金ではないのだということを訴えているとしたら、この金ばかりの世の中がおかしいのだという反感を持っている人間が今の世の中にはいるということだ。
ところが日本人は、なぜ日本がこんなに貢献しているのにテロリストの犠牲になって死ななければいけないのかという視点一辺倒になっている。ではその貢献とは何かというと、JICAの支援の下に企業に携わる人々がプロジェクトを組み、ダッカの交通網を整備して、経済を発展させることが目的だった。その背景にあるのは、個人は個人の、企業は企業の、国家は国家の利益を求める心だ。中には途上国を支援したいという純粋な想いもあるが、そうやって途上国を支援した結果どうなるのかと言ったら、今のアメリカやヨーロッパや日本のような国がもう一つ増えるということだ。
新しい世代の人たちは、もうそれでは駄目なのだということを理屈ではなく感じている。そういう人間があのような行動を起こしているということを、考えていかなければいけない。それは時代を感じるということだ。

彼らも、ISも、これまでの世界の矛盾を表現している。もしくはこれまでの時代の終焉を示していると捉えられる。そのように、時代の流れを感じ取りながら、ものごとをバランス良く平等に観ていくことが必要だ。
昔は、今よりもまだ双方を見るということをしていたはずだが、今は極端にテロだけが悪になっている。確かにテロを引き起こしている人々は問題だ。しかし逆に言えば、この社会という器の中でテロが起きているのだから、自分たちが構成している社会がそれを創り出しているのであり、誰もが自分のせいであるとして振り返らなければならない。そういった世界観が、現代社会に欠けている。テロを起こす側を一方的に悪として、自分たちを正義の側に置いている多くの人間たちの体質が問題なのであり、それが現代社会の様々な歪みを生み出しているのだが、そのことに気付いている人はほとんどいない。
だからこそ、バランスよく内外を観て、特に自らの内を先に観るということをしなければならない。すべてを一度リセットし、内外をなくして、人間とは何ぞやということを探求する必要がある。そこにこそ、次の時代への希望がある。

イスラム教徒の正義や真剣さは、どこから来るのだろうか。

現代のイスラム教徒は、キリスト教徒などに比べ、どちらかというと虐げられる立場にある。しかし、最初から差別があったわけではない。差別を受けているということは、結果としてそうなっているということであり、そこに至るようなそもそもの彼らの在り方があったからそうなっている。彼らが命までかけてやろうとしている、他と相いれない部分があるということだ。

何かを正しいとして固定してしまうと、それと相いれないものとの間で対立が起きる。もしも地球上に一つの価値観しかなく、すべての人が人間はこうあるべきだという共通認識の元に生きていたら、そこにはそれしか価値観がないのだから、正しいも正しくないもなくなる。ところが、現実には価値観はいくつもある。
しかし一方でまた、人間は実に単細胞であるとも言える。グローバル化だと言って、お金でほとんどのことが解決されるような一辺倒の価値観に世界中が染まってしまった。例えばライオンはアフリカだけに生息しているが、その中でも土地によってたてがみが多いものもいれば、少ないものもいる。雄が協力して狩りをするものもいれば、しないものもいる。その土地ごとの自然に合わせてそうなっている。それは天と共に生きているということだ。それに対して人間は、世界中がモノやカネを優先する価値観で単一化され、自然の中で大らかに暮らしていた遊牧民や先住民族たちもお金を欲しがるようになった。
その中で、イスラムの人々が命をかけてまで訴えようとしていることの原動力は何なのか。イスラム教にはジハードという概念がある。そもそも、生きるということの意味が違うのではないか。

彼らは信仰を一番にして生きている。物理的なものを最優先にするのではなく、生きる上での信条や意味を大切にしようとする。だから死をも覚悟している。彼らはそういったことに共鳴する魂たちであり、それが基準でスタートした者たちにとっては、それが当たり前なのだろう。
例えば、グチグチと被害妄想ばかり言っている人がいるとしよう。一般的な健康を基準にして見たら、そんなに愚痴ばかり言うのは間違っているよ、ということになる。しかし、グチグチ星や被害妄想星に住んでいる人にとってはそれが基準であり、それをベースにして生きているのだから、その通りに生きるのがその人らしいということになり、当たり前のことである。それを別の価値基準から見て「あなたは間違っている」とは言えないものだ。

今の社会に対して、イスラム教徒たちが、彼ら流の価値観で何かを訴えている。一口にイスラム教と言ってもいろいろあり、さほど過激ではない人々は、過激とされる人々と同じような思想は持ってはいても、それでは世界全体とうまくやっていけないからほどほどのところで妥協をしているところがある。妥協しない人たちは過激思想と言われ、彼らは自らの信条に則ってとことん社会をイスラム化しようとした。そこで、彼らの思想と相いれない、自分たちの価値観こそが絶対だと考えている者たちがいて、互いに相手が間違っているとして対立が生まれた。
そこには、どちらが社会的にメジャーなのかという違いがあるだけだ。イスラム教が世界の主流になったら、今のモノやカネや酒などに溺れている人々は、間違っていることになる。基準がどこにあるかによって、排除される側と排除する側が変わるだけだ。
例えば、キム・ジョンウンを世界の基準にし、外からの情報がなくなれば、それが当たり前の世界になる。違う秩序があるからあれが異質なものとされるだけで、それしかなくなればそれが秩序になる。

そういったことをすべて超えて、もう一度価値基準を組み換えられないだろうかと考えた時に、何を基準として取り入れるかと言ったら、自然の成り立ちだが、今の自然はずい分人間に汚染されておかしくなってしまったので、やはり宇宙の法則に沿うということだ。星と星との関係やその成り立ちを、もう一度地上に降ろす。
その昔、この世界には地球という意識はなかった。我が星という意識はなく、宇宙そのものだった。ところが、人類の歴史の中で「所有」という意識が発達してくると、「自分の星だ」という見方をするようになり、天動説のような世界観が生まれた。そのうちに、人間は世界を自らの都合のいいように捉えるようになり、自然も何も、すべて人間の都合のいいようになることが便利で豊かであるとされるようになっていった。それをもう一度本来のところへ立ち還らせなければ、今の人類は生きることの意味すら見失ったままになる。

今の日本では、介護殺人が社会現象化している。見えないところでは昔からあったのかもしれないが、今ほどではなかっただろう。少し前まではうつ病や自殺者やニート、引きこもりがいて当たり前の社会だったが、今度は介護殺人が社会現象化するという異常な状態になっている。
日常生活の中で、他者と円滑なコミュニケーションが取れて自己責任で生きている状態を正常とするならば、他者とのコミュニケーションが円滑ではない、もしくは円滑でないことを認識できていない状態というのがある。それは精神的に異常をきたしている場合もあれば、肉体的に異常をきたして他者に委ねなければいけない場合もあり、そういった状態の人を補助するのが介護だ。
本来、そのような状態では自然界では生きていけない。しかし人間は情が強く、補助をするようになった。ところが最初は愛情を持ってやっていても、コミュニケーションを取る意味がだんだん感じられなくなってくると、ただ義務的にやっているだけになり、そのうちに強制的にやらなければならない状態になって、苦痛になっていく。そして思考が極端に狭くなり、苦痛を排除しようとして突発的な行動に出たのが介護殺人だ。
社会には、対処療法的ではあるが、介護施設などの社会福祉が昔よりは遥かに充実している。そういった何も生産しない産業が発展し、それが経済効果となって社会がまわっている。しかし、社会の義務や豊かさの表れとしての福祉制度も、結局はそういったものを必要とする人々の面倒を見切れていないのが現状だ。

現代は、生きるということの意味がとても表面的になっており、生きることがすべてお金のためになっている。その結果、生きることの本質である生命の基軸が狂っているのだが、まだ誰もそれに気付いていない。人々はもっぱらお金があれば余裕ができて心が楽になるという幻想に囚われているが、今の世の中はどうしても豊かな人と貧しい人の差ができるようになっており、その矛盾のしわ寄せが必ず人間の性質のひずみとなって、社会に還元される。人間が心を病むと体の弱い部分に症状が現れるように、社会が病んでいることの症状が、弱いところに現れてくる。それは社会全体が病にかかっているということだ。
死とは、人生の終末のもっとも肝心なところだ。そこに介護殺人のような混乱が起きているということは、生きることそのものに混乱が起きている。

そこで、木の花で生きる年よりたちのことを考える。生きることに対する充実感という意味では、木の花で生きる年寄りたちは毎日やることがあって、それぞれにふさわしい役割を与えられその人らしく生き生きと過ごしており、年寄りという意識がない。そして個人的な欲に執着していない。先日ここを訪れたゲストが、「なぜここの人たちはこんなに穏やかな空気で生きているのか」と聞いてきた。彼は会社の経営者であり、毎日社員と仕事で顔を合わせているが、そこに見るチームワークや人々の人間関係には、そういった木の花のような空気は異質なものに感じられたようだ。そこで僕は「それはそうですよ。給料のために働いていませんから。だから、あなたの会社の社員にも、給料を払わなければいいんですよ」と答えた。
木の花の年寄りも、将来具合が悪くなったら若い人たちのサポートを受けるかもしれない。しかし、役割を与えられて生き甲斐を持って生きている人が、介護が必要な状態になるだろうかと考えると、それは先へ行って確認することだが、少なくともボケるような兆候は木の花のシルバーたちには一切見られない。そういった姿勢で毎日が過ごせる人々の人生に、介護の必要が極めて少ないことが当たり前に感じられる。そう考えた時に、僕は改めてこの生活の重要性を確信した。この生活にこそ、その隅々にまで新たな時代を迎えるための解決策がちりばめられていると再確認した。

現代の人々が平和だと認識し、守ろうとしているものは、歪んでいる。今の世の中を見て、それでは平和とは言えないだろう。ではいつ平和だったのかと考えると、人類の歴史上、平和な時などあっただろうか。
もしもあったとしたら、今の文明が始まる以前の、もっと原始的で自然のままに生きていた頃にはあったかもしれない。かもしれないと言うのは、価値基準があまりにも違い過ぎて想像できないのと、資料が十分ではないので、あくまでも仮定の話だということだ。そしてそれから時が進み、時代は対立と混乱の方向へと向かった。それはまさしく闇の時代へまっしぐらだったのだ。

イスラム教徒がいかに熱心に信仰をしていても、ある特定の境地を絶対としてしまうと、結局は対立の原因になる。何かを特定すれば、それとは別の何かを特定したものと相いれることができず、対立するのだ。
そこで、木の花ファミリーはイスラム教徒と同じように過激思想を持っているかというと、そうではない。ここでやっていることは、そういった特定のものから離れて、囚われの位置から自らを解放する宇宙視点を持ちましょうということだ。それはその境地に到達した者にとっては奇抜でも何でもなく、当たり前のことになる。それは、遥か昔はみんなそうだったということであり、気付けば今現在この瞬間がそうなのだから。

そこにいつ人類は気付くのだろうか。時代はすでに、社会の行き詰まりをもって次の時代へといざなっている。今の世の中、政治も経済も宗教も医療も教育も、矛盾のないところはない。
戦時中、マスコミはプロパガンダに利用されていた。今は、例えば日本のマスコミ関係者は、何ら罪の意識を感じることなく、自分たちは自由に報道をしていると思っているかもしれない。ところが実は極めて偏った、世界観の狭い報道をしている。そういったマスコミの報道姿勢の背景に、お金がすべての価値観がある。視聴率という数字の元に、お金に翻弄されている人々が支持する情報だけを報道することを繰り返すマスコミによって、世界が動いている。それはある意味、悪魔的現代社会の主役だ。マスコミに登場する人々は知識人であり、優れた人々であるという印象の上に、そういった社会的マインドコントロールが密かに進められているのが現状である。

今の過激思想として捉えられているイスラム教徒たちの訴えている世界は、お金ではない世界だ。彼らは命をかけている。しかし、お金ではない価値観であることすら、結局は対立の原因となっている。お金が基準となって混乱している世の中を間違っていると言って、お金よりももっと大事なものがあるということを命をかけてまでも訴えながら、さらに世の中を混乱させている。
それはある意味天のメッセージではあるが、ではあのやり方でこの世界に秩序をもたらし、新たな時代が来るだろうかと考えると、仮にそうなったとして、それが正しいと世界の価値観が統一されれば、それはそれでそのような世界が現れてくるのだろう。しかし現実には、これほど地球全体がモノカネ優先の価値観に汚染され、そういったマインドコントロールにはまっている人々が膨大に存在する現代の社会を、すべてイスラムの価値観に染めようとすれば、そこには大変な破壊や混乱、痛みが発生することになる。だから、そうはならないだろう。

やはり、そういった特定の価値基準を超えた、新しい秩序が必要だ。それが自然の姿であり、宇宙視点だ。我々は宇宙人であるという認識を持ち、外側の視点から、自らの立ち位置を捉え直す必要がある。それは、自らの外にある大きな価値基準と、日常の自分の中にある個人の意識とが一致しているということだ。
これは僕の考えではなく、時代が人類をそのようにいざなっている。いつの時代にも、時代の転換期には新たな価値観のメッセンジャーが現れる。それは古い価値観を破壊するためのメッセンジャーであったり、新たな秩序を示すためのメッセンジャーであったり様々だが、今はまさにその転換期に来ていることの証として、そういった役割を果たすためのメッセージを持った人々が現れてきている。

木の花ファミリーは22年前に、この生き方の目的が何であるのかわからないまま、スタートした。世の中のコミュニティの多くは、こういう場所を創りたいという自らの理想が先にあり、その願望を叶えるために立ち上がった。しかし、我々には願望も何もなかった。ただその現場を生き、未熟なら失敗をして、その時々に出会うことに対処しながら変化してきた。それは確実に体験を活かし、確信に変換する歩みだった。
自らの願望を叶えようとして進めば、それが叶った分だけさらに自らの願望に囚われていくことになる。そして自分のやっていることが正しいと思うようになり、他者と共に世界を築いていくことができず、結果的にそういった人々は、調和的な世界を創ることができない。
他者と共に築いていくということを実際にやったことのない人間は、自らの姿勢が具体的にどんな現実をもたらすかということを体験していないため、頭の中だけでそれを考え、それこそ単なる創作のようなバーチャルな世界で理想を追い求め、実体の伴わないことを語っていくことになる。しかし、現代社会のように言っていることとやっていることのギャップが多くても成り立つ社会構造の中では、バーチャルなことを語っていても評価される。そうして評価されることによって自らが正しいと思い込んでいることが多いのだが、そういった人々こそ、多くの人と共に生きる現場に実際に立ち、他者との関わりの中で自らの性質がどんなことを引き起こし、結果、どのようなことと対面するのかを体験し、自身の人間性の実態を思い知る必要がある。そうでなければ、何も現実にはやらないまま、表面的な支持を得て自らが正しいと思い続けることになり、そのような人々の姿勢こそが、今の行き詰った社会を創ってきたのだ。

生きるということを、人間の側からのご都合主義で実現していくと、それは人工の世界のオンパレードになる。生きるとは、宇宙の法のもとに生かされているという現実を理解することが、本来の順序だ。
実は人間には、宇宙の構造や、宇宙そのものとしての自分自身の在り方がすべて、自らの内に情報として眠っている。我々がエゴという囚われを手放し、大いなる宇宙の法のもとに自らの意識を解き放った時、これまでの物理的発展を支えてきた二次元的発想の時代から、いよいよ三次元的時代への進化が始まる。
それは、これまでのような善悪や損得、我良しの発想で捉えていては、とても解釈できない世界だ。我々はすでに三次元的脳を持っているが、発想が二次元的であり、二元的損得勘定に囚われているため、脳の三次元的解析能力を活かすことができていない。もしくは、そこの部分が退化している。そこで、その二元的損得勘定を離れ、自我を超えた発想ができるようになると、極めて奇抜な発想が生まれてくるようになり、地球上にいながらにして宇宙の実体が瞬時に理解できるようになる。
その進化を前にして、人類のこれまでの二元的発想が、すべての面において行き詰まりを見せていることは、現代社会に起きている様々なことを冷静に分析すれば明快なのである。従って、人類の内面の精神構造にメスを入れ、その発想の転換をすることが、現代の行き詰まりの突破口を開くことになるのだ。

どの切り口からも全てひっくり返らなければいけない時が来ている。現代社会につながる文明的価値観がすべてひっくり返る時が来ている。そのためには、まず一番に、自分自身を例外としてはいけない。誰もが、自分自身を例外としないで取り組んでいく必要がある。
これは明らかに時代の転換点だ。今までの価値観が終末を迎えている。実は宇宙的には完全にそれを超えて、次の時代に入っているのだが、地上はまだ闇のピークを越えたばかりで、徐々にそれが明らかになって来ている。
イスラムの問題からも、イギリスのEU離脱からも、アメリカ大統領選からも、世界中で暴き出されている政治的社会的不正からも、そして介護殺人からも、現代社会の人類の営みのすべてから、時代が我々を新たなステージへといざなおうとしていることが観える。

 

Source of photo: jp.sputniknews.com/

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7月16(土)〜18日(月/祝)
第10回大人サミット
「地球会議 in 木の花ファミリー」開催!

時代が大きな転換期を迎えている今、年齢、職業、国籍、宗教、ありとあらゆる枠を超えて、地球の未来を真剣に想う真の「大人」たちが集い、語らい、新たな時代の幕開けを発信する「第10回大人サミット」が木の花ファミリーにて開催されます。より良い未来を築こうとする意欲さえあれば、どなたでも参加OK!ブログで語られていることを現実の世界で実践し、人類史上に新たな1ページを刻むかけがえのない3日間を、ぜひ共に過ごしてみませんか。

第9回大人サミットより
第9回大人サミットより

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