先日、木の花を訪れたアメリカ人のアナンヤといさどんとの会話の中で、こんなお話がありました。
アナンヤ:
昨日、草刈りをしていたら、草の中からたくさんの虫が出てきました。草を刈れば、彼らの住処を奪うことになりますし、たくさん殺すことにもなるでしょう。ここでは肉や魚を食べませんが、牛や豚などの命を奪わないということと、草や虫たちの命には何か違いがあるのでしょうか。
いさどん:
それは僕から教わらなくとも、あなたがこれからピュアな存在となっていけば、自然にわかることです。でも、とても大切な投げかけですから、今解説しますね。聞ける相手がいる時には聞けばいいのですが、本来、人が目覚めるということは、他人に聞かなくても自然に自らの中から湧き出してくるものなのです。
私たちは、この物理的な肉体の中に、DNAとして膨大な情報を持っています。しかし、私たちは霊的な存在でもあるのですから、真実は、この物理的DNAの情報量よりもはるかに膨大な情報を、霊的DNAとして持ち合わせているのです。そこに目覚め、アクセスできるようになると、近代文明が求めてきた学問的知識は幼稚なものであることがわかるでしょう。
氷山は、水面上に出ているのは全体の約10%だと言います。残り90%は水面下に沈んでいて、表からは見えません。これまでの歴史の中で、人類は物理的な目覚めの進化の過程の中で、今、脳の10%を使うようになりました。残る90%は、まったく使っていないとは言いませんが、有史以来の文明に貢献したのは、ほとんど10%の方でした。残る90%の脳にアクセスできるようになると、閃きが湧いてくるようになります。偉大なる先人であるキリストや仏陀、孔子などは、学校にも行っていなければ師匠もいなかったのですよ。ですから、私たちにとって大切なことは、知識で覚えようとすることではなく、感じることです。生きることを感じるのです。
そこで先ほどの質問に対してですが、小話をひとつご紹介しましょう。
昔、僕がまだ畑の現役だったころ、土手の草刈りをしていました。その畑には、生姜とウコンが植えられていました。僕はその管理をしていたので、草が生えれば草刈りをします。しかし、生姜とウコンの間に生えている草は取りますが、同じ植物である生姜とウコンは残していくのです。
そこで僕は、疑問に思いました。同じ植物なのに、この差別は何だろうかと。そうしたら、今僕に刈られている草が、こう教えてくれました。
──── それでいいのですよ。私たちは、そういう存在なのですから。今あなたは、私が土手の草である状態を見ています。でもあなたが、刈った後の私を生姜の畑に入れてあげれば、私はいずれ、あなたの育てる作物になるでしょう。ウコンのところへ持っていけば、ウコンになるでしょう。私は、あなたが大切にしている存在にもなるのです。
あなたが刈り取った草をそのままそこにおいておけば、私はまた土手の草となり、あなたに刈られることになるでしょう。そのことに私たちは、何の抵抗も感じない存在なのです。ですから、それでいいのですよ ────
そこで僕は、自分の目指している境地はこの雑草たちの境地だ、ということに気付いたのです。この世界は、なんて素晴らしいのだろう、と。
では、動物と植物の違いはどうでしょうか。
植物は、そこに種が落ち、芽が出ます。そして木ならば何十年も何百年もそこにいます。それは、自然のままに育つということです。そこへ我々が切り倒そうとしてチェーンソーを持って行っても、彼らは「やめてくれー!」と逃げては行きません。木が逃げていったら大変ですね(笑)。つまり、それはカルマが少ないということです。そもそも、彼らは光合成によって成り立っています。太陽のエネルギーを使い、水と炭素の化合物を作ることで成り立っているのです。
一方、動物たちは、我々人間が近付いていくとペットでない限り逃げますね。動物は、植物よりもカルマが多いのです。そしてさらにカルマが多いのが、人間です。動物よりは魚の方がカルマは少ないですが、それも同じことです。そして、命がまだありながら、その途上で屠殺されたカルマというのは、肉体がなくなってもカルマの迷いが存在しています。
例えば、ライオンがシマウマを食べる時には、その生命の存在をすべて、自らの命に変えます。そうすると、シマウマの魂も自然循環の中に入ります。それは殺されたわけではありません。循環の中に入っただけです。それは循環を健康な状態に保とうとする自然の作用なのです。それを、ライオンがシマウマをつかまえて食べるところだけを区切って見ると、弱肉強食に見えるでしょう。自然界は、小さく区切って見ればどこもそうなっています。しかし大きく観れば、すべてのものが活かされていく循環の中にあります。命というバトンが次へ次へと渡されていくのです。
他にも、肉を食べる必要のない理由はいろいろとあります。もちろん魚もです。それを人が食べたいと思うのは勝手ですし、食べることに対して何も言いませんが、人が本当に目覚めたら、自ずと食べないことを選択するでしょう。
現代の食肉生産は、霊的にはとても汚れたものになっています。かつてユダヤ人がアウシュビッツで殺されていきましたが、屠殺の現場も同じようなものなのですよ。今年の初めに木の花にケア滞在に来ていた女の子は、農業大学の実習で豚の牧場へ行き、豚がどのように飼育されているかを見て大きなショックを受け、それがきっかけで心の病気になりました。ひどいことに、雄豚は睾丸をつぶされるのだそうです。そうすると去勢されて、肉が柔らかくなるからです。それは一例であり、食肉生産の現場ではもっと恐ろしいことがたくさん行われているようです。
幸いなことに、私たちはこのような暮らしをしていますから、そのような恐ろしい食べ物を食べなくても生きていくことができます。これはとても重要なことです。菜食は健康とおだやかな心をつくるのに貢献しますが、私たちは自分たちの健康が目的で菜食をしているわけではありません。3時間もあればその全容をあなたに伝えることができますが、それは単純なことではありません。ですから、それを食べずに生きられることは、とても誇らしいことです。
(菜食の意味については、木の花ファミリー通信第90号「食から始まる意識革命」をご覧ください。)
今、20世紀型社会の偽りの仕組みが暴かれ始めています。マスコミは様々なことを暴きますが、実はそんなことは重要なことではありません。それは時代が切り替わる時に、当然のこととして起きているだけなのです。何よりも大切なことは、次の時代をどう生きるかということに気付くことです。
どうぞ、次の時代の歩みに、切り替えてくださいね。そして、地球が喜ぶ生き方をしてください。私たちが生きることは、私たち自身の自我や願望を満たすために生きているのではありません。私たちが存在する世界の表現に貢献するために、私たちはその役割を果たし、その結果、生かされているのですから。どうぞ、地球が喜ぶ生き方をしてください。