「みんな、ありがとう」〜 人生のたびだちに向けて

木の花ファミリーでは、死を人生の終わりではなく、新たな旅の始まり、即ち「出発(たびだち)」と捉えています。
以下は、ある日の大人ミーティングにて、数年前から病を患ってきたメンバーが医師から余命1ヶ月と伝えられたことを受けて、ジジが語ったメッセージです。


今、年々厳しさを増していく酷暑のように、悪化していく地球環境のことを思うと、この星に生きることは、あまり楽しいことではありません。しかし、我々は修行に来ているのだと思えば、それもまた、自らを向上させるために必要なことであると言えます。そこから学び、向上して、木の花楽団の数々の歌で表現されるような世界を実現し、人生を全うしたいと思います。

僕は、出発(たびだ)つ人を見送るためのしっかりとした意志を持っています。ただし、出発つ者には、やはり完全燃焼していってもらいたいと思います。出発ちの心構えをしっかりと持って、終わりを迎えてもらいたいのです。
人は生き物ですから、必ず死にます。今年は終戦80年を迎えましたが、過去には醜い死に方をしていった、もしくは醜い企ての末に死んでいった人々がたくさんいます。しかし、それは人の本来あるべき姿ではないと思うのです。歴史を振り返り、そういった時代の変遷を観ていると、それが他人事とは思えないのです。なぜなら、同じ人間だから。
人間という生き物は、地上に現れてからこれまでずっと、ひとつの種として生きてきました。私たち一人ひとりにそれぞれのカルマがあるように、人間という種にもまた、ひとつの生命としてのカルマがあります。カルマは本来、そこに顕れる現象を通して自らを学習し、美しくなっていくためにあるものですが、使い方を間違えると、汚れた醜いものにもなるのです。人である限り、願わくば、人生という旅の物語を美しく仕上げて終わりたいものです。

人生を生きていると、様々な出来事に出会います。出来事は様々ですが、そこに表現される自らの性質は常に共通しており、同じ人であれば同じ性質によって出来事が表現されていきます。その、人それぞれに個性的な性質を分析し、読み解く能力がここには与えられています。自らが何者であるかを知り、いつでもそれを問いかけることができるのです。しかし、そのように恵まれた環境にいたとしても、自らを理解することへの取り組みが十分でない者達がいることも事実です。
2030年は、人類と地球の関係が取り返しのつかない灼熱地球へと向かうのか、それとも本来の健康な地球に戻っていくための歩みに進むかの、分岐点だと言われています。私たち一人ひとりもまた、人生をポジティブに生きるのかネガティブに生きるのか、即ち、人生を学習の場として昇っていくのか、それとも学習が不十分で落ちていくのか、その分かれ目を迎えるのです。どんなに自らのカルマに翻弄され、溺れている人であっても、目覚めれば、いつでも優れた人生を歩む道を行くことができます。その道は誰もに開かれています。なぜなら人には、どう生きるかという選択肢に対して、自らがどうするかを選ぶ意志が与えられているからです。
罪を犯し、場合によっては死刑になるような人であっても、死の間際に「ああ、生きるとはこういうことだったのか」と目覚めれば、何も気付かずただカルマのままに生き、何ら悟ることなく時が来たから死んでいく者よりも、意味のある生を生きたことになります。どんなに寿命が長かろうと、認知症のように自分が何者であるか全くわからない状態になって逝くよりも、自分自身がしっかりと自らを見極め、与えられた寿命を生ききり、完全燃焼していくことが大切なのです。生きるとはそういったことに価値を見出すためにあるのです。

このような話を、それを聞くにふさわしい段階に来ていない者に語っても仕方がないでしょう。しかし、命があと1か月という人がいれば、やはりこの話を語らないわけにはいきません。僕は、余命宣告を受けたことを気の毒だとは思いません。なぜかと言うと、このように生きることに対する覚悟を示すことができる場所に出会い、それで終わりを迎えることができるのです。世の中にはそのような出会いのないまま最期を迎える人がたくさんいます。ですから、こういった人の命に係わる真剣な場所に出会うと、心がピリッと引き締まり、真剣とはこういうことだ、と思うのです。
それを、最期を迎えた時だけでなく、常日頃から持ち続けていたい。自らの意志で人生を歩み、そこで出会うことの全ては自らが選び、望んでやっていることであり、出発つ時もまた自らの意志によって出発つのだというくらいの覚悟があれば、送る側も気の毒だとは思わないし、惜しいとも思いません。よくやった、と拍手で送ることができる。ぜひ、皆にそのように生きてもらいたいのです。

だからと言って、気張って無理をする必要はありません。与えられた寿命のままに、体が教えてくれるままに、素直に素直に、いい人生だったという結論を出すために歩んでください。その時に、「ああ、自分はまだ大切なことを学んでいない。これではいけない。そこを仕上げて出発たなければ」と気付いたなら、見苦しかろうと何であろうと、延命治療を受けてもいいのです。本当に大切なことは、しっかりと仕上げていきなさい。
現代の医療は狂っています。過剰な治療をして、本来の寿命を狂わすような出発ち方は避けた方が良いでしょう。しかし、何か大切なことに気付き、それを掴むために時間が必要であり、その覚悟をもってまだ出発てないと思うなら、その人生のテーマの達成に向けて、現代の技術を使ってでも地上に留まっても良いのです。そのように、生きることを悟るとは、柔軟であるべきです。
縁というのは、不思議なものです。人それぞれに個性があるように、一人ひとりの人生もまた個性的で、ひとつとして同じものはありません。その、あなただけに与えられたオリジナルな人生を、しっかりと噛みしめていきなさい。我々はもともと、ほとんどが他人でした。それが今では、身内でもここまで近くないくらいの関係になっています。その仲間が出発っていくというのは、僕にとっても、身を削られるようです。しかし、出発ってからいくら悔やんでも仕方ないからこそ、生きている間に思い切り伝え合うのです。
できれば、最期を迎える時になってから慌ててやるのではなく、余命宣告を受けていない、当たり前の日常を、その覚悟をもって生きていきたいものです。

出発ちは、地上に生まれ、生きてきたことに対する答えであり、人生の一大イベントです。生まれた時に人生学校に入学し、様々な学びを経て、いよいよ卒業の時が来たのです。その大イベントを、ただ肉体の寿命が尽きたからと言って無自覚に終わるのかどうかは、あなた自身にかかっています。人生を悲観して自ら命を絶つ者もいれば、認知症になって何も分からない状態で逝く者もいる。殺される者もいれば、殺して死刑になる者もいる。内容は本当に様々ですが、どの人も、自らの寿命が尽きることに対して真剣に向き合い、悔いのない出発ちを迎えるべきだということでは同じなのです。
本当に悔いのない人生とは、まず自分自身をよく理解することです。悪いことは悪いなりに、良いことは良いなりによく理解して、しっかりと学び、その上で覚悟を決めて、寿命が来たら出発っていく。そうしたら、その時には「みんな、ありがとう」という意志で、いくことができるのです。そして送る側も、「よかったね、おめでとう!」と送ることができるのです。

みんな、ありがとう。

 


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