人生は自分を知る旅である

今年3月に30歳になったNちゃんは、「30歳になる直前になんだか心がざわざわしてきて、いてもたってもいられなくなって・・・」ということで、いさどんに相談に来ました。3年前に2カ月間ここでケア滞在をし、うつ病を克服したNちゃんですが、今後安定した心で生き生きと毎日を過ごせるように、今回子供2人と一緒に木の花ファミリーに長期滞在をすることを決めました。

そして、長期滞在が始まってから約1ヶ月が経ち、Nちゃんの夫のKくんがファミリーを訪れ、いさどんと話す場がもたれました。今回はその面談の模様をご紹介します。
 
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いさどん:
今回Nちゃんがここに来ている目的について、二人の中で共通の認識はありますか?

Kくん:
どうですかね・・・正直、人に説明する時にどう説明していいのかわからないのです。彼女自身がこれからの人生を生きていくことを見据えた上で、自分をもっと成長させたいというところから、今ここで生活している、と捉えているのですが。

いさどん:
Nちゃんはそのつもりでやっているのですよね?

Nちゃん:
はい。

いさどん:
それについては着々と進んでいますよ。

Kくん:
はい。ただ、僕がこの1ヶ月を過ごしてみて、理屈ではそれを理解しています。彼女がここに来る前に手紙をもらい、そういった内容も書いてあったので、それが必要なのだということは頭では理解しているのですが、実際心の面ではついていっていないのです。仕事は変わっていませんが、家に帰ってきても彼女も子供たちもいませんし、今仕事が結構忙しいということもあって、やらなければいけないことは沢山あるので常にこなしているという感じなのですが、こなしても仕事がどんどん増えている状態です。
そういった状況もあって、自分の中で消化しきれないところもある上に、今回のことがあって、家に帰ってさみしいとか、子供の顔も見られないという気持ちがあります。彼女にとって本当に必要なことだと頭では理解していますが、心がついていっていないので、彼女にどうしてもあたってしまいそうで、彼女がこちらに来てからずっと連絡を取っていませんでした。彼女から電話がかかってきても、わざと出なかったときもありましたし、「なぜこんな想いをしないといけないんだ」と思ってしまったこともあります。

それで、昨日こちらに来て、彼女から「これから外勤をしたい」と言われたときに、「なぜ急にそんなことを言い出すのだろう」と思ったのですが・・・

いさどん:
その話の中身は聞きましたか?

Kくん:
はい、聞きました。聞いたのですが、彼女が「外勤をしたいので車を使いたい」と言ったのです。僕は正直なところ、これ以上今の自分の環境を変えたくない気持ちがあって、休みの日にちょっとゴルフに行くことが今は息抜きになっているのです。でも、彼女が車を使うとなると、ゴルフに行けなくなるので嫌だと伝えたのですが、彼女から「ゴルフを手放せないから車を手放したくないの?」と言われて。彼女としてはそれを言っただけなのですが・・・

いさどん:
ゴルフというのは、車のゴルフじゃなくて、打つゴルフのことだよね(笑)?

Kくん:
そうです(笑)。

いさどん:
車の話が出て、ゴルフが出てきたら、車なのか、ゴルフなのかと思ってね(みんな:笑)。

Kくん:
後から冷静になって考えてみたら、彼女はそれを言っただけで、そこに何もないのかもしれないのですが・・・ここに来る前にお金の話になったときに、これはいくらであれはいくらで、と家計の話になって、彼女が「これだけ大変なんだから、あなたのおこづかいを減らせばいいね」と言ったことがありました。僕からすると、「あなたの都合でここにいるのに、なぜ僕のおこづかいを減らすことになるの?」という感覚があり、今回の車のことに対しても同じような気持ちがあります。

いさどん:
そのあたりがお互いの中でしっかりと落としあえていないということですね。

Kくん:
はい。理屈では、そういう意味では理解・・・もしかしたらこれは理解していると言えないかもしれないですが、表面的には、理論上で文を読んでいるような感じの理解の仕方はしているのですが、心で落とし込めていないので、純粋にそこを応援していこうと思えていないのです。

いさどん:
それはスタート地点ではどうでしたか?

Kくん:
スタートから複雑でした。

いさどん:
複雑というのは、二つの心があったということですか?

Kくん:
そうです。心から純粋に応援しようと思えていないというか・・・

いさどん:
僕はこの話を聞いて良いことだと感じています。それはなぜかというと、今までの状態でNちゃんが何年もいたとしたら、結局あなた方の家族は崩壊するかもしれないからです。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
それを長いスタンスで見て、崩壊しないようにする為に長期的な対策を打たないといけないということで、その長期的な対策の中のある一点に今取りかかっているということです。これはある意味、難しい家庭の病気の治療のようなものです。それを健全にしていくための最初の取り組みが今回のことなのです。
それについて、僕は彼女を見ていて順調に進んでいると思っています。それで、順調に進んでいるNちゃんの取り組みと、あなたも同じ家庭を構成している一員としてそれを認識し、家庭を健全にしていく為に同じような気持ちで取り組まないと意味がありません。Nちゃん一人が改善されても、あなたとの関係が悪くなったら、何にもならないわけですから。僕は彼女から、今あなたが孤独な状態だと聞いていたので、「Kくんはもっと頻繁にこちらに来て、心の調整をここでしていくといいね」という提案をしたのです。
今回のことで一番健全になっているのは、子供たちですよ。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
あなたが向こうにいて、仕事から帰ってきたときや休みのときに接していたときの子供たちの状態と、ここへ来て1ヶ月経った子供たちを見て、何か違いはありますか?

Kくん:
そうですね、今のほうが健全だと思います。

いさどん:
以前の家庭環境で子供を育てていたときや、ここに来たばかりのときでもそうでしたが、Nちゃんと子供たちはべったりとくっついて切り離せない状態でしたが、今は子供たちがとても自立していて、健全に育っています。
そういった環境をつくって子供たちに与え、子供を健全に育てていくのは親の務めなのです。しかし、実際にはNちゃんが直接育てていたかもしれませんが、あなたは父親としてその環境が提供できていなかったわけです。そういったことも含めて、現状はとても良い成果が現れています。

Nちゃん自身が仕事を始めるというのは、彼女自身が楽をしようということではなく、あなたに経済的に負担をかけていることが良くないので、負担を少しでも減らす為に外勤したいという提案を彼女から受けたのです。そのことに対して僕は何も言っていませんし、まだここに来てから1ヶ月しか経っていませんしね。

Nちゃん:
そこなんですけど、私もよくよく考えてみたら、そこには逃げもあったところがあって・・・

いさどん:
どこからどのように逃げるのですか?

Nちゃん:
キッチンスタッフの中にいることが・・・キッチンの仕事はすごく好きなのですが、ただメンバーに馴染めなくて・・・

いさどん:
それはメンバーに馴染めないのではなく、あなたが馴染まないのではないですか。

Nちゃん:
そうです、私が馴染まなくて・・・

いさどん:
言葉は正しく使わないとダメですよ。

Nちゃん:
自分が馴染もうとしなくて・・・

いさどん:
つまり、自分が馴染もうとしなくて、自分の癖が出て、そこに居づらくなったことに対して、そこから逃げの心で外に働きたいということですね。それで、外で働きたい理由がKくんに負担をかけない為ということにしたということですか?

Nちゃん:
はじめはそう思っていたんです。でも、よくよく考えてみると、私は毎日キッチンにいて、「早く働きに出たいから、早く探そう」と思い始めて・・・

いさどん:
そうしたら、目的はキッチンから逃げ出すことになりますね。

Nちゃん:
そうです。そこで、「なぜ早く働きに出たいと思うのだろう?」と考えたときに、キッチンから出たいという気持ちが出てきたので、昨日振り返っていました。

いさどん:
ところで、キッチンのどこから逃げたいのですか?

Nちゃん:
キッチンの・・・

いさどん:
キッチンスタッフのやじーのことですか?

Nちゃん:
やじーは大好きです(笑)!

いさどん:
でも、ついこの間まで、あなたはやじーのことが嫌だったんですよね。

Nちゃん:
嫌だったんですけど、いさどんに面談してもらって、私の心がおかしかったことがわかりました。

いさどん:
それで、やじーは良くなったということなら、他に何が嫌なのですか?

Nちゃん:
・・・・・・何が嫌なのか・・・

いさどん:
よくわからないのですか?

Nちゃん:
はい、気持ちだけ・・・

いさどん:
それは、自分の心の動きをしっかりと観ていないということです。
たとえば、気分が悪いとか不愉快だと感じたときに、その不愉快を発生させているのは何か、自分は何に反応しているのだろうと対象を観たとします。そうすると、その対象はどのような姿勢なのだろうか、そのことに対して自分はどのような感情を持っているのだろうか、と捉えたときに、自分を正さないといけない場合もあれば、相手を正さないといけない場合もあるのです。それを冷静に見つめて、相手に伝えるべきことは伝え、自分のことは自分で収めていく。それができないときには誰かのサポートを受けて、その判断を正しいところへ落として、不愉快の原因を解消していくことが大切なのです。

そこまで皆やらないかもしれませんが、Kくんがゴルフができなくなるというのも、ゴルフをやりたいのは何かストレスがあるから、ゴルフに行きたくなるのです。心の持ち方が健全であれば、エネルギーは綺麗に使えるし、無駄がないので、能力は沢山発揮できるようになります。

そのときに、Nちゃんは今何の目的でここで生活しているのかが明快でないといけないのです。それを今は練習しているわけですから、やじー以外のキッチンの何が問題なのかと一人一人他のメンバーを挙げていくと、のんちゃんが問題なのか、それともはるちゃんが問題なのか、というわけにはいかないわけです。Nちゃんは今、そういった自らの心の癖に取り組む為にここにいるのですよね。それから、そういったことをやれていないあなたが、子供たちと今までの生活で接していてあのような関係をつくっていたのですから、それは大変なことになっていたのですよ。それも含めてあなたをサポートできないKくんがいて、ああいった家庭ができていたわけですから、Nちゃんの心はなおさら改善されないということです。それを今、家族ごとまとめて修理中なのです。

そういった意味では、今KくんはNちゃんの話を聞いていてわかると思いますが、Nちゃんにはまだ未熟なところはあるとしても、こうやって自分のことを冷静に捉えられるようになってきています。これは過去にはなかったことです。それだけ進歩していたら、あなたはそれを喜ばしく思って、それでこそあなたたちが将来もう一度本来の生活をするときに、そういったベースのもとに子育てにしろ、家庭を築いていくべきだと考えるとしたら、良い方向に進んでいると思うのですが、それではダメですか(笑)?

Kくん:
ダメではないです(笑)。僕は長期的に見ていないというか・・・

いさどん:
そこが、今度はあなた自身の問題でもあるのです。

Kくん:
そうです。それは自分自身の問題です。

いさどん:
そのあなた自身の問題が、結局彼女と気持ちがわかりあえない、彼女の気持ちを理解できないことになって、「なぜ僕が普通に働いて、ちゃんと稼いできて、そして子供もいて家族があって、Nちゃんは一日を主婦として過ごすだけなのに、それができないのだろうか?」という気持ちがあなたの中にあると思います。では、何が問題なのかというと、そこの心の組み立て方が間違っていたら、どのような体制ができていたとしても、うまくいかないのです。だから、そのベースになる心の状態を今、組み立て直しているのですが、このようなことは精神科に行ってもなかなか治らないですよ。

Kくん:
そうですね。たぶん、彼女が以前ケア滞在でお世話になったときのような状況で生きていれば、自分はそんなことを想わないと思います。

いさどん:
彼女がもうちょっと重い状態でいたら、ということですね。

Kくん:
きっとそうだと思います。

いさどん:
ただ、以前の状態でももちろんそうかもしれませんが、彼女自身の状態が以前より良くなっているとしても、今度は子供との関係や他の問題が現れてくるので、全体の状況としては以前より軽いということではないと僕は観ています。それから、話がNちゃんのトラウマだけの問題ではないことにすでになっているものですから、問題としてはほっておけない状態だと思っていました。
しかし、Nちゃんのスタンスが変われば、今のように冷静に自分を見つめようとすることもできるのです。それが、家にいたら、自分を観て振り返ることはなかなかできません。ここのように軸がしっかりとしているところで生活していれば、彼女は自らの問題は自らの問題として捉えることができるようになるわけです。しかし、今彼女が家に帰ったとしても、Kくんがその軸になることは難しいのですから、逆にお互いにそういったものの捉え方を学びながら、力を合わせて話し合っていく場をつくっていくことが大切なのです。

一番簡単なのは、僕がそこに行って、お爺ちゃんとして暮らし出して、「これはこうだぞ、あれはああだぞ」と伝えれば問題ないのですが、そういうわけにはいかないでしょう(みんな:笑)?僕には僕の面白い生活がここにあるのですから(笑)。僕があなたたちのお爺さんとして、逆養子縁組・・・養子ではなく、養爺縁組をするとか、そういったことはどうですか(みんな:爆笑)。

Nちゃん:
大歓迎です(笑)!!

いさどん:
大歓迎はいいけれど(笑)。親が子供を養子縁組することはあっても、父親を養子縁組するようなことがあったら、面白い!「これは法律にありませんので、検討しますのでお待ちください。国のほうへも相談してみます」と言われたりして(笑)・・・やってみましょうか?

Nちゃん:
面白い!

いさどん:
そうやってご意見番がいたらいいんです。Kくんももう少し自分を磨かないといけませんよ。そのときに、あなたがさみしく感じるのもわかりますが、そうであるならば、Nちゃんが今ここに子供を連れて自らの心に取り組んでいて、子供たちもここで心磨きをしているわけですから、「僕も皆においていかれないように、ここへ来て自分も皆に歩調を合わせて学んでいこう」という心になるほうが、長い目で観たら大事だと思うのですが、どうですか?ストレスがたまるからとゴルフへ行っている場合ではない、と僕は思いますが。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
だから、もっと頻繁にここに来たらいいですね、という提案をしたのです。ここに来さえすれば、僕がこのような話をして、あなたは「ああそうだ」と思い出すのですが、一人でいたらこのような話を思いつくこともないでしょう。

Kくん:
それは、自分でもそう思います。たぶん、このまま行ったらあまりにも皆と差ができすぎて、一緒に暮らせないだろう、と思っています。自分の程度の低さもすごく認識していて、ゴルフやおこづかいの話をするのも程度が低いと自分でも思うんです。

いさどん:
Nちゃんがそこまでなるかどうかは、彼女の意識の問題ですし、あなたももちろんそうですが、僕が考えているのは、これからの時代の人々はやはり地球規模でものを考えないといけないということです。あなたの家庭が今日一日何をするのか、それが日本中の家庭になって、世界中の家庭になって、それが未来の地球の環境をつくります。これから非常に厳しい時代が訪れますからね。そうすると、一軒一軒のひとりひとりがそれを考えないといけない時代がもう来ているのです。あなたたちはまだ若いので、30年後、40年後も生きていますよね。そのときに、どんなに大変な状況になっているかは、今データとして出ています。その為に、どのような精神で生きるべきなのかです。
僕はあと20年弱で旅立っていく契約になっているのですが、誰の魂も死ぬわけではありません。肉体があろうがなかろうが、地球に関わりながら生きていくのです。僕たちはその地球の未来のことを憂いて今このような生活をしているわけです。あなたたちは30年後、40年後、まだ地球上にいる可能性が高い。そのとき、あなたたちがお年寄りになっているとしても、あなたの子供たちはその厳しい環境の真っ只中にいて、あなたたちはどう家族を守っていくのかと考えると、そのときには家族単位の問題ではすまないことになっているのです。
今、そういった時代が来ているのですが、世の中の人たちはそういったことをあまりにも考えていません。そういった意味では、もっと広い視点で物事を考えたときに、「これが充実した人生なのだ」というこれからの時代にふさわしい生き方があると思うのです。僕はそれを押し付けるわけではありませんが、そういったことを出会った人に伝えながら、そういったことを考えて生きる人は立派な人だと捉えています。今、世の中の景気がどうのこうのと言っていますが、それは結局自らのエゴであったり、企業のエゴであったり、社会のエゴ、そして国家のエゴの結果なのです。それが地球環境を壊し、自分たちにも、それから自分たちの子孫にもたいへんな思いをさせるのですから、これからの人々はそういった広いスタンスでものを考えるべきだと思うのです。
・・・ついつい演説をしてしまった(みんな:笑)。

Kくんも、「そんなことを僕はなかなか考えられないし、難しい」と思ったとしても、仮にそうであるならば、そのような話を聞いて、それから自らの状態を観て、どちらが大切なのかと問われれば、それは一目瞭然だと思います。そうしたら、自分の考えがその程度ならば、もっと優れた考えに馴染んでいこうとするのが、より良い人生を生きる為の賢明な選択だと僕は思います。

Kくん:
わかります。

いさどん:
そこで、「わかるのだけど・・・」と言っているようなことでは女々しいだけのことで、そのうち子供から「お父さん、何をぐちゃぐちゃ言っているの?」と言われてしまいますよ。あの子たちは始めは抵抗しますが、すぐに大切なことを受け取ります。それより、親のNちゃんのほうが、キッチンがどうのこうのと言っていますが(Nちゃん:苦笑)、子供たちはスカッとしてここでの暮らしをエンジョイしていて、もう別人のように生活しています。かえって親のほうが面倒くさいものです。

僕は人の人生を僕の考えに巻き込もうとは思っていません。しかし、伝えないといけないことはある、と思っています。それは、全ての人間に、自らが何者で、そして自分がどう生きるかによってこの世界にどのような役割を果たしているのか、もしくは今の人間の在り方で進んでいったらこの世界にどのような影響を与えていくのかに気づいてもらいたいのです。それは、私があなたに何かをしてほしい、ということではないのです。それはひとりひとりがよく考えていくことなのです。

このように聞いていけば、大切な話だと思いませんか?僕は、Kくんが会社や取引先などでは出会えないような人です。僕は自分のことを歴史的な人物だと思っています。しかし、今の人々はそのことがわからないので、色々と言いますが、先を進みすぎているから人々には理解できないだけのことなのです。

この世界には人々がもっとイキイキとできる生き方があります。さらに、イキイキとした良い生き方が、良い死に方につながって、優れた魂として昇華し、次に役割として地球上に降りて、世の中に優れたものをもたらす道もあります。私たちの存在は生死を超えたものなのです。それが本当の生きる価値なのです。
そういった高い精神のもとに子育てをしたら、人にはその種があるのですから、そういったことを受けて優れた人として育っていきます。子供にもそれぞれに我がありますから抵抗するときはありますが、親が本当に大事を生きていたら、その大事の種が芽生えてくるのです。特に、ここで育った子供たちではなく、外で普通に育ってコンビニなどの食べ物に慣れている子供たちは、あの危険なものがおいしいものになってしまっています。しかし、子供だからこそ、そのことに対してどこかで違和感を感じていて、正しい食べ物と出会ったときにはすぐに正しいものに馴染めるようになっていくのです。逆に、そういったものばかり食べていると、育てにくく扱いにくい子供ができるようになっていきます。

どちらにしても、物事をそのように広く捉えないと、どんなに大切なことをやっていたとしても苦痛になることにもなるのです。Nちゃんは今、大切なことをしているのに、それをきちんとやっていないから、キッチンの作業が苦しくなるのですよ(みんな:笑)。
きちんとやっていないから、キッチンが苦しくなるのです!

Nちゃん:
もう2回目(笑)!

いさどん:
それで、キッチンできっちりやっていないから、外へ出ていって、チキンでも食べたいという心になるのです(笑)。

Nちゃん:
ハッハッハ!上手い(笑)!でも、本当に自分の心を流していました。

いさどん:
僕は毎回伝えていますが、あなたは強いくせに、結局自らをそうやって傷つけてダメにする要素があるのですから、そこは常に気を付けて振り返らないといけません。自分を傷つけて、さらに他人まで傷つけるのですから。

(Kくんに向かって)あなたはこんなふうに上手くNちゃんに伝えられないでしょう?

Kくん:
はい(苦笑)。

Nちゃん:
じゃあ、養爺にしないと(笑)!

いさどん:
養爺縁組という制度があるかどうか、市役所に行って聞いてごらん(笑)。戸籍係に行って、「養爺を迎えたいのですが」と言ったら、「判断ができませんので、裁判所に行ってください」と言われて、裁判所も「事例がありませんので、ちょっと国のほうに聞いてみます。最高裁まで行ってください」と言われるかもしれませんよ(笑)。

Nちゃん:
最高裁(笑)!

いさどん:
そこで、Kくんのもやもやを解消するには、どうしたらいいと思いますか?

Kくん:
どうしたらいいのでしょうね・・・どうしてもこの1ヶ月、ここに足が向かなくて・・・日帰りであればいつでも来られるのですが。

いさどん:
それで、どうしたらいいと思いますか?この間、Kくんが孤独を感じているという話を聞いたので、それはいけないから、一回Kくんを呼んで話をしようとNちゃんに言っていて、今回あなたがこちらに来たので、今話をしているのです。Nちゃんを修理する為の作業にとりかかっている延長として、あなたのことも考えているわけですが、心がほころびているからこちらに持ってきてほころびを直すということではないのです。あなたの自立した心の安定が大切なわけですから、まずは今あなたが心の中にあることを全て出したので、ではこれからどうしたらいいのかを話し合っているのです。

Kくん:
心の中にあるものは全て出しました。

いさどん:
出した結果、次へ向けてどうしたらいいと思いますか?

Kくん:
やるべきことは、もっと頻繁にこちらに通って、そういったことに触れていくことなのかなと思っています・・・

いさどん:
その後、「けど」と言いますか(笑)?

Kくん:
・・・

いさどん:
人間は、「けど」「でも」と言うから、僕は人間が嫌いなのです。人間以外のものは「けど」「でも」と言いません。

Kくん:
感情に振り回されていると思います。

いさどん:
あなたの人生なのですから、いかに曇りなく充実して生きるかという意味では、あなたはあなたで今考える必要があると思うのです。

Kくん:
そうですね。

いさどん:
本当は、僕が考えている方向に人が目覚めていけば、人間は地球に良い貢献ができるのです。それは僕の一番の大事業ですが、そこまでの意識を持たない人に僕は無理強いしませんし、まずは今の自分の人生を良くするところから順番に取り組んでいけばいいのです。そういった意味では、さきほどあなたが「僕はここに頻繁に通うべきですね」と言った後に、何が出てくるのですか?その後に「けど」「でも」が出てくるのか、それとも「そうします」ということなのか、どちらなのですか?

Kくん:
どうでしょうね・・・今はそう思っていますが、感情にコントロールされている気がします(苦笑)。

いさどん:
だから、自分の感情を自分でコントロールできる人と、自らの感情にコントロールされている人がいるのです。やはり、自らをコントロールする人でないと、賢明な人生は生きられません。未来の自分がどんな人であるのか、イメージできますか?

Kくん:
・・・あまりイメージできませんね。

いさどん:
それは、今を生きているということでもありますが、ただ時に流されているだけではダメですね。それは「人生を生きている」ということにはなりません。そして、「生かされている」わけでもないのです。ただ流されているということです。
そういう人も世の中にはいますが、僕は人生の価値を考えると、やはり人は「生きる」べきであり、生きるときにエゴで生きるのではなく、「時代とともに生きる」「時代の役割を果たしながら、大きな充実を得ながら生きていく」ことが大切だと思います。自らの中から湧き出てきた欲求を満たしながら生きていくと、欲求はどんどん膨らんでいきます。その膨らんだ欲求を満たすことが豊かさであり自由だと思って進んでいくと、今のような地球と人間の関係ができるわけです。今のような人間同士の関係ができるわけです。そして、今のような国家と国家の関係ができ、今のような人間と自然界の関係ができるのです。人間がそんなことをやり続けていったら、地球にとって癌ということになるのです。

・・・また、講演してしまった(笑)。

Nちゃん:
パチッパチッパチッ(大拍手)!

いさどん:
これは大切なことです。しかし、この後に「けど」「でも」と言う人がいるから、僕は人間が嫌いなのです。だから、朝起きたときに「また今日も生きないといけない。また分からず屋たちに伝えないといけない」と思うのです。僕のこの悩みがわかりますか?「仕方がない」と思いながら、人間たちに付き合って生きていますが。僕はこういった役割のもとに生まれてきたわけですからね。
そこでNちゃんには、「もっと意識の高い自分でありたい」心がどこかにありますよね?

Nちゃん:
あります。

いさどん:
「いさ爺のような生き方がしたい」と思っていますよね?そのわりにあなたは、自分の足を鎖につないで歩いているようなものです。本来、人間は食べていければいいのです。生きられればいいのです。しかし、貧しくてもいけません。貧しいと、蓄積しようとするのです。だから、心が貧しくてはいけないのです。
生きること、つまり食う・寝る・生きる、そういった生活に不安がない状態になったときに、人は「自分が何者であるのか」を知る旅に専念できるのです。それが優れた人間をつくる始まりになります。ですから、お金に追われていたり、ましてや自らの欲の心にコントロールされているようなことでは、優れた人生は生きられません。今の人間たちの姿勢は、まず地球が喜びませんし、なによりも自らの価値が高まりません。

Kくん、どうしたらあなたはご機嫌に生きていけますか?良く考えてみてください。

Kくん:
はい。

いさどん:
僕から出てきた話であっても、人間として生きることの大切さを考えたときには、あなたがそのことを大事だと思えば、それはあなたの考えになります。しかし、それをどうでもいいと思えば、ゴルフのほうが大事だということになるのです。Nちゃんもそうです。
あなたが本当に自らをバランスの良い人にして、生きていることが本当に社会の為になって誇れるあなたになったときに、子供たちがあなたを見て「そういうふうに生きたい」と思い、あなたの人生は豊かなものになるのです。そのためには自己コントロールが必要です。そこで物事に囚われて、「けど」「でも」と言っていては豊かになりません。しかし、それはそう思ったときに思えることであって、「やっぱり、でも・・・」と言っているようなら、僕は僕の考えを押し付けるつもりはありませんが、あなたの中には確実にそういった真理を求める心があるのです。

(ちょっと英語を話しているような口調で)ミナサン、ドウシマスカ?いずれ僕も外国に行くことになると思うので、今英語の勉強をしているのです。(英語風に)ソレデ、ドウシマスカ、ミナサン(みんな:笑)?コレカラハ言行一致デ、イキテイキマショウネ(みんな:苦笑)?大分英語が上手くなったでしょう?発音はバッチリですね(笑)!

Nちゃん:
私はここでしっかり自分を上げていきたいので、流さないで出しながら、そして皆に見てもらいながら、やっていきたいです。

いさどん:
今、あなたはすごく成果が出ていますよ。1ヶ月で子供たちも大変扱いやすくなりましたし、後はNちゃんとKくんをお互いに扱いやすくするだけですよ!

Nちゃん:
ハッハッハ!

Kくん:
そうですね(笑)。

いさどん:
残っているのは、親のほうなのです。

Kくん:
自分の問題だと思っています。彼女はここにいれば大丈夫だと思いますから。実際、「どうでもいいや」と思う自分もいて、ぐちゃぐちゃなんですよ。

いさどん:
それは自分というものを確立できていないということです。確立できていないのであれば、それをどうでもいいとほっておいたら腐りますよ。しかし、それをどう整理して、優れたものに使えるようにするのかといったら、そこは逃げないで取り組んでいくことです。自分でできなければ、「自分が何を目指しているのか」というもっと先の目標を見て、そこにどう進めばいいのかわからなければ、誰かに仕立ててもらっても、出来上がったときには自らの人格になるのです。それが、自らに囚われがあると、「僕流にやりたい」となって、かえってできないことにもなります。自分に道がない人のほうが、優れたものをパッと自分のほうに引き寄せられるのですから、そのほうがいいのです。だから、方法は何でもいいのです。「何が最終目標であり、何を得るか」をしっかりと見据えていけば、それでいいのです。終わりよければ全て良し、ですよ。

少し話が飛躍するかもしれませんが、Kくんは半導体製造の仕事が忙しいと言っていましたね。それは今の時代には重要な仕事かもしれませんが、それがどんどん浸透していくと、人間の能力を奪っていくことにもなるのです。そういった人工のものが世の中に浸透して便利になればなるほど、本来人間が持っていたコミュニケーション力を奪っていきます。しかし、だからといってそれを否定するのではなく、その優れた能力を人々がコントロールして使い切れる人になったときに、人間の高い能力やテクノロジーは人類や地球の健全化、そして個人の質を高めるためのものになるのです。ですから、テクノロジーに使われるのではなく、それを正しく使いこなせる人間にならないといけません。

そして、それと同じように、自らの心についても同じことが言えるのです。自らの心をしっかりと認識し、その特徴をつかんで、必要なときに必要なように使い分けられる人になったら、それはその人の個性として人生に活かすことができます。しかし、それをせずに、ただ湧き出てくる感情や欲のままに生きていたら、それは癖となって出てくることになって、害ばかり起きるのです。だから、自分を知ることが必要なのです。それで、自らを知って、魂磨きをすることで自己コントロールすることが、これから人間にとって最も大切なことになるのです。

・・・また、演説してしまった(笑)。

Nちゃん:
パチッパチッパチッ(拍手)!

いさどん:
先日、宝くじの話(詳しくは、いさどんブログ『覚悟しております』をお読みください)をしたでしょう?こういった気付きに目覚めることは、宝くじに当たるよりも貴重なことですよ。今世界にこのようなことを考えて、地球のことを想って生活している人々が一体どれだけいるのでしょうか。あなたは今そういった場に出会えました。ましてや、あなたのように自分がそういった生き方をしようとする人は本当に貴重な存在ですよ。出会えたこともそうですが、自分がそこに共鳴し、これからそういった生き方をすることは、本当にありがたいことなのです。それが「価値」というものだと思うのですが、いかがですか?

Nちゃん:
すごいところに出会ったと思っています。一度離れたのに、またここに来ることになったのも御縁をいただいたからだと思っています。

いさどん:
それだけあなたがこの道に縁が深いということです。血縁というのは、法律上切っても切れないものですし、DNA上の情報としても、切っても切れないものです。しかし、さらに広い意味で捉えると、私たちは人類という起源が同じものとして、切っても切れないものなのです。もっと広く言えば、私たちは生命として、大地から切っても切れないものなのです。これは水とも、太陽とも、風とも、空気とも、宇宙とも、切っても切れないものです。みんな同じものなのですから。
だいたい、人間が宇宙で言ったら点にもならないような小さな地球の中でこのように繁栄しているのに、自らそのことが全くわからないこと自体がおかしな話なのです。僕が話していることは当たり前の話ですが、それがわからない人間たちに伝えようと思って今回地球に降りてきたのです。

Nちゃん:
私もここに出会っていなかったら、全く知らないまま人生が終わっていたと思います。

いさどん:
しかし、それは事実なのです。Kくんは、昨日ここに来ましたね。それはこの場所にここがあるからです。しかし、あなたは昨日ここに来たつもりですが、昨日から24時間経った今、昨日のここと今日のこの場所は違うのですよ。すでに170万2080㎞も離れているのです。地球は秒速30㎞で移動しながら太陽と共にいるのですから。それが宇宙の事実です。今、目の前にいるこの場所で手をパチッと合わせると、音が出ましたが、この空間は今は地球上ですが、1時間12分すると宇宙空間に移動してしまうのです。そうやって宇宙は常に移動しているのです。
僕たちがこうやって話しているうちに、太陽がどんどん上に上がっていきますよね。そして、そのうち西へ降りていきます。あれは実際には降りていっているのではなく、地球がマッハ1.3でまわっているのです。こういったことも全て事実なのです。そして、私たちは二度と同じところへ行くことはありません。自分自身ですら、二度と同じ自分には出会えないのです。つまり、二度と同じ時間はなく、二度と同じ自分はいないということです。

そうしたら、自らも常に変わっていかないといけないのです。生命は変わり続けることに意味があるのですから。そして、進化するということは、古い自分をどんどん捨てて、新しい自分になるということです。古い自分に捉えれていることは執着していることであり、執着していたら新しい自分にはなれませんし、そこには進化も成長もありません。成長しないところに、希望は生まれないのです。成長しないから、古いものに執着するのです。そして、執着するから、成長しないのです。それを繰り返しているのです。生きるということは、進化・成長することによって、宇宙の構造を表現しているのです。そうやって、私たちも生きることで宇宙を創っているのです。

・・・また、いさどんワールドを話してしまった(笑)。

Nちゃん:
その話をこの間、面談でしてもらったので、やっぱり今もすでに未来というか・・・

いさどん:
瞬間に未来に行っているのです。ということは、未来は何なのかといったら、どんどん近づいてくるものでもあるし、過去はどんどん離れて行って、あるのは今の連続だけです。しかし、この今は止めることができないのですから、特定できないものです。そういった世界の中にいて、人生という旅を自由自在に楽しんでいくことが本当の姿なのです。

Nちゃん:
私は過去にかなり執着していました(笑)。

いさどん:
良い執着ならいいのですが、恨み・つらみの執着だと人生を楽しめませんね。

Nちゃん:
だから、今はすごく楽になりました。今でも執着が出ることはありますが、それは過去だと捉えられるようになったので、それだけでもすごく楽です!

いさどん:
そこをコントロールできるようになったということですね。あなたたちの家庭でこれまで生産されてきたものは、ここで生産されるものとはあまりにも違うものでした。そして、あなたたちの家が我が家かといったら、実は地球が私たちの共通の我が家なのです。ですから、ここを我が家だと思えば、いつでもあなたたちの家になるのです。さらに、僕は地球が家だとは思っていないのです。僕にとっては宇宙が我が家ですからね(笑)。今はこの小さな器に入ってわからず屋の人間に伝えるのが少し面倒くさくなってきましたが、僕の想念の中にはもっと広い世界はありますし、誰でももっと広い心になれるのです。

Kくん、少しは気持ちのガス抜きにはなりましたか?

Kくん:
そうですね(笑)、もう少しここに通うようにします。自分の心が安定してやれるのが一番ですからね。今はやっぱり自分が安定していなくて、振り回されているので辛いです。

いさどん:
これは何をやっているのか、どんな目標があってやっているのかという客観的なスタンスを持ったら、目の前のことに囚われる必要はないです。それがないと、目の前のことに振り回されて、不必要なことにエネルギーを使うようになります。

Kくん:
仕事でも、今は結構冷静に考えられなくて、仕事場で出すことはないのですが、自分の中で葛藤があります。

いさどん:
それは、そういったことばかりやっていると、そのうち自分が壊れたりしますよ。

Kくん:
壊れますね。

いさどん:
そうすると、場合によっては誰かのせいにしたくなるものですが、それは自分が未熟だからそうなるのです。
「人生は自分を知る旅である。」ですから、そうやって負荷をかけてもらって自らの実態を知りながら、自分で自分の修理をしていくのです。

Kくん:
ここ1ヶ月生活していて、この生活が過ぎると自分が壊れると思いました。

いさどん:
そう、でもありがたいことに、1ヶ月でこうやって自らを振り返って見つめ直し、スタートラインに立てたと思ったらよかったと思いませんか?

Kくん:
そう思います。今までは自分の中にそういった葛藤がなかったのです。わりと安定してやれてこられたと自分では思っていたのですが。

いさどん:
それは良いことですが、もし人生が成長する為にあるとしたら、あなたの場合は低空で安定していたことになります。低空で安定すると、人生の目的は必ず変化・変容・変態することになりますので、その低空安定には負荷がかかるようになっているのです。それは神様の意志であり、この宇宙の法則です。ですから、時が来たということですね。
本当は、この世界の法則に委ねて、自らを法則とともに生かすとしたら、人は本当の充実を得ることができます。そうすると、無駄なエネルギーを使わなくなって、地球も良くなります。ところが、人間がそのことをよくわかっていないので、どんどん地球環境に負荷をかけ、それが人間だけではなく全ての生命に、そして地球自身に影響を与えているのです。それは天に向かって唾を吐いた状態です。それが今の人間の成せる技です。
しかし、それをKくんが1ヶ月かけて少しストレスがたまり負荷がかかりましたが、学び、その意識を超えた新しい高い意識のあなたがいるとしたら、それは全てにとって良かったことなのです。ですから、今、地球がこのような状態でいることも、それを学んで次につなげれば、人類の本来の役割として地球に貢献していけるのですが、人間は学ばなければ単なる地球にとって癌細胞です。あなたの言う、病気になるのと同じことなのです。

これからKくんは、無理のないところでここに通ってきて、Nちゃんの取り組んでいる姿を見たり、子供たちの変わっていく姿を見たり、ここの人たちの生活を見て、自らをそこに沿わせていけば、また安定できると思いますよ。そして、今自分がやるべきことにつなげていくといいでしょう。

(Nちゃんに向かって)きっちんとキッチンで仕事してください。

Nちゃん:
はい(笑)。

いさどん:
一つの選択肢として、Nちゃんは外勤してもいいのですよ。それが逃げではなく、前向きに次のステージに行くということならば、それでもいいのです。しかし、とりあえずキッチンで変な空気を醸し出すようなもやもやしたものがあるのならば、とりあえずそれは解消してから次のステージへ行くほうがいいですね。気持ちが良いからキッチンで作業していてもいい、ということであれば、そこで続ければいいでしょう。そもそもお金というものは、健全なる精神のところに健全なるお金が湧いてくるものなのです。不健全な精神のもとにはその人間が勝ち取らないと、得られないようになっているのです。そして、不健全な精神のもとに無駄なお金を使って、お金はどんどんザルのように減っていくのです。それは貧乏神の仕組みですからね。ところが、健全に生きていくと自然に生きられるように与えられるのです。それが自然ということです。

Nちゃん:
キッチンできっちんとやってから、次へ行きます(笑)。

いさどん:
そうしてください。
Kくんは家にいるような感じでここで過ごして、また明日からのあなたのスタンスに立ってやってみてください。今というものに囚われない生き方がいいですね。流れのままに生きていったら、人にとってそれが本当の自由ですから。

Nちゃん:
最後にひとつ、質問があります。

いさどん:
どうぞ。

Nちゃん:
キッチンで作業をしていて思ったことは、私はかなりその場の雰囲気を壊していることを感じていて、それで「自分は悪魔だ」と思ってしまうのです。

いさどん:
そうやって、また自分を責めているのですね。悪魔というのは、魔法使いみたいなものですから、天使に変身できるんですよ。自らに囚われて、あくまでも悪魔でいたいなら(みんな:苦笑)、それはそれでいいですが、いつでも天使に変身できます。それは裏返しの心ですから、どちらの側を採用するのかというだけです。人間の中にジギルとハイドがあるように、どちらを採用するかだけなのです。
それをコントロールできなくて、場所をわきまえずに悪魔が出てくる状態でいると、統合失調症のようなことになります。自分の中にある精神がコントロールされず、統合されていない状態です。たとえば、不愉快な心が出てきたら、「それはこういう状態ですよ」と自らに言い聞かせてあげられることが、自己コントロールができて、人格が統合されている状態です。Nちゃんの場合、今の状態が進んでいくと、自らの中で心の分裂が起きて統合失調症になります。自らを攻撃する心が自分から切り離されて、語りかけてくるようになってくるのです。

自分が悪魔だと思えば、逆を行けばいいのです。それは両刃の剣で、僕はあなたが敏感で鋭いからこそ、大事なところで使いものにしたいと思っています。僕はNちゃんという包丁をどうやって使っていこうかと考えていますが、あなたにはその自覚がなく、自分で自分を下手に使おうとするのです。ですから、そういうものは「いさどん、使ってください」と(笑)、使い切る人に使ってもらえばいいのです。そして、僕を養爺にすればいいのです(みんな:笑)。

Kくんでは使い切れないでしょう(笑)?

Kくん:
逆に切られます(笑)。

いさどん:
それこそ使おうと思ったら、返り討ちにあってしまうでしょう(みんな:笑)。僕にはそれができますから、良い所に出会いましたね。

Nちゃん:
お願いします!

いさどん:
でも、いずれは自分で自己コントロールできる人にならないといけませんよ。そういった意味では、未来は楽しみです。

「人生は自分を知る旅である。」
そして、学び、成長する為にあるのです。
 
 


目覚めるとは?

いさどんブログ「この世界に、マインドコントロールを受けてない人っているの?」の中に出てくるいさどんと天の会話を、いさどんが次のように解説しました。
 

「こういった世界に誰がしたのですか?・・・あなたですね。」
「わかるか?」と返事が返ってきた。
「わかるか?」「やっとわかった?」という心が降りてきた時に、それは軽いノリで伝えられているけど、「それが目覚めるということなのですね。私はあなたの真意を理解しました。」ということになる。

 

これは、「この複雑な構造を理解させるために、人間の世界に複雑な矛盾を沢山配置したのかがわかるか?」と天が伝えているのです。それはあまりにも複雑なので意地悪をされているみたいですが、よく考えてみると、それは人間が招いたことなのです。つまり、人間にとって自業自得だということです。天は、「あなたの持っているカルマがあなたにその現象を与えたのですから、自らの行動がどんなことをもたらすのかをこの仕組みによってあなたに伝えているのです。それがわかりますか?そのことを理解したら、あなたは自らや他者に優しい世界を生きるでしょう。そして、そういったことを人々に伝えるようになるでしょう。」と伝えているのです。

そういったことがわかるようになると、「それが目覚めるということなのですね。私はあなたの真意をやっと理解しました」ということになるのです。

そこで、「今まで不満を言ってごめんね」と僕がフレンドリーに天に向かって言うと、天からは「いいのですよ。そこから観ているのだからそれは仕方のないことです。しかし、始まりはこういうことだったのです」と返ってくるのです。

世界に問題事が沢山あって大変だと思うと、人は意地悪をされているように思うものです。僕は、人が意地悪をしているとは思いませんでしたが、「この仕組みを創っている天が意地悪をしているのだろうか」と一瞬考えてしまいました。しかし、そこをよく観ていくと、それは自業自得だったことがわかるのです。そして、その仕組みがわかればわかるほど、自らの行いが自らに返ってきていることがわかるのです。

そうやって、「自らの愚かしさがわかること」を「目覚める」と言います。だから、自らを手放す方へ進めばいいのです。

元々、天の意志を外れて我々の存在はありえないのです。ということは、我々は天のマリオネットであり、自ら働くことは我々に与えられていないのに、それが与えられているかのように想ってしまっているのです。

逆に捉えると、神様はそれをゲームのように我々に仕掛けているのです。
「気が付くかな?どうかな?私とあなたは同じものなのに、別々と捉えているのだろうが、そのことにいつ気が付くのだろうか?」

それで、人間があまりにも気付かないと、天もいらだってきます(笑)。それに対して、僕が「あなたは心が狭いですね。逆にゲームを仕掛けたのですよ」と伝えると、「やられてしまいましたな(笑)」と返ってくるのです。

だから、常に自らを自覚しながら、天と共に歩むことが続いているのです。
 
 


この世界に、マインドコントロールを受けてない人っているの?

農と性について語った「天然の意識で生きる」、それを受けて語った「コノハナ人としての新たな時代の生き方」を大人ミーティングでシェアした翌日の、いさどんとともこの会話です。
木の花ファミリーはマインドコントロールされている、という人がいますが、はてさて、それではマインドコントロールとは、いったい何なのか?!
 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
いさどん:
毎日こうやって同じような話を、みんなが似たような価値観の中で語り続けていくと、これはマインドコントロールということになるのかね?

ともこ:
そうだね、マインドコントロールと言ってもいいよね(笑)。

いさどん:
これだけ価値観を共有しようとする場所にいたらね。

db6f65c6ともこ:
マインドコントロールって何だろうね?

いさどん:
たとえば、毎日安倍総理の話が出てきて、「経済を活性させましょう!」と言われ続けたら、それもある意味マインドコントロールだよ。

ともこ:
でも、かかるマインドコントロールとかからないマインドコントロールがあるよ。私は毎日安倍総理の話を聞いても、たぶんそのマインドコントロールにはかからない。

いさどん:
それは興味がそこに行かないからだね。だから、マインドコントロールは何かと考えていくと、確かに今ここがやっていることは完璧なマインドコントロールをしようとしていることにもなる。しかし、そこに強制しようとかマインドコントロールしようという意図は働いていない。

ともこ:
働いていないね。

いさどん:
結果として、これは強烈なマインドコントロールになるとは思うけど、たとえばここで語られていることに興味がない人がいるとする。それで、ここで毎日その話を聞いていると、「やっぱりそうだよ!」と考えるようになるのだろうか?

ともこ:
そうなるかな・・・?

いさどん:
たとえば障害者支援センターの紹介でここに来たAちゃんや長期滞在者のBちゃんのような人は、ここの生き方に共鳴しているわけではないよね。では、あの人たちの中にそういった感情が強くなっていくのだろうか?

ともこ:
感情というのはわからないけど、生活様式というか、人のために動くというふうにはなっていってるよね。

いさどん:
たとえば、木の花に対するバッシングの中には「土日の休みもなく働かされる」と書いてあったけど、誰が働かせているのか?ここにはそういった人はいないでしょ。例えば、食べることを休むことはないのだし、生きることも休むことはない。それは生活するということで、毎日あり続けることだよ。そしてここでは、働くことも生活をしているだけなのだから、毎日あり続けて当然のことじゃない?

ともこ:
うん。別に休みがほしいって感覚はないね。疲れたらその時には休むんだし。

いさどん:
でも、生活することが働くこと、という考え方が定着していない今の社会では、生活の中で休むことと働くことが別になっている。それはひどいマインドコントロールだよ。人間以外どころか、人間自身も生活すること自体を絶対休まないのにね。
我々は、生活することと働くことを区別していない。しかし、一般社会では生活することと働くことを別にしている。働くことは仕事だと考えているけれど、本来働くことは生活することなんだよ。

そこで、視点を広く持って、人間と地球の関係について話すと、「そのような生活に関係のないことを言ってマインドコントロールする!」というようなニュアンスの反応があるを感じるのだけど、今の地球の現状を考えたら、国を挙げてそういったことを考えないといけない時が来ているんだよ。それを実践して生活していることに対して、マインドコントロールだと言われるんだよ。

ともこ:
「宇宙なんておかしなことを言ってマインドコントロールして!」ということだよね(笑)。

いさどん:
宇宙の話は、事実だからね。昔、人間が空を観て考えていた想像とは違って、今はNASAのデータに基づいて考えているわけだから、事実なわけだよ。

ともこ:
事実だよ。だいたい、マインドコントロールを受けていない人は世の中にいないよね?

いさどん:
マインドコントロールがない世界はない、ということだよ。そうすると、さっきともちゃんが「私は安倍総理の話を聞いてもそこに興味が湧かない」と言ったけれど、そこに興味が湧く者が集まって、その意識をお互いに刺激し合いながら維持している世界はマインドコントロールの世界だよ。

今の人間は変だよ!人間社会のやってきたことに限界が来ているのだから、そこで新しい扉を開けないといけない時に、いつまでたっても開けようとしない。それは、何か強烈なマインドコントロールがあって取れない状態だよ。
逆に、そのマインドコントロールを解こうとすることを、我々はやっている。今の医療にしろ、経済システムにしろ、教育にしろ、福祉にしろ、どれを取っても本当に矛盾だらけでしょ。

ともこ:
性もそうだよね。

いさどん:
そう。それを「あそこはマインドコントロールしているのだ!」と言われてもね。
僕はどう考えても、実体としては、マインドコントロールをしていると思うんだよ。しかし、そのマインドコントロールは、ものの捉え方を変えて、新たな視点を持っていこう、そして単なるマインドコントロールという心の状態だけではなく、それを生活まで反映させよう、という“超マインドコントロール”をしていて、それは別のマインドコントロールを解こうとする目的の元にやっているわけだよ。

ともこ:
それは視点を広くするマインドコントロールだよね。今、自分のことだけを考えて生きている人たちが、もっと自分の思考範囲を広くするマインドコントロールだと思う。

いさな(0歳)
いさな(0歳)

いさどん:
(いさなに向かって)素晴らしい子!
なんて傑作な子なの!

いさな:
わあ!

ともこ:
いさなは傑作で生まれてきて、毎日こういう話を聞いて育つんだね。

いさどん:
そう、毎日与えられる環境がその人の人柄を引き出してくる。色々な人柄がその人の中には内在されていて、魂の約束としてどういった人格として生きていくのかを人間は設定してきている。だから、人格の可能性は全てあって、その設定にふさわしい環境を与えられるところに降りてきているんだよ。
だから、この人は毎日、この宇宙的な話や視点を広げる客観性とか、今まで人類が持っていなかった領域のことばかりを聞いて育っているんだよ。

ともこ:
それが日常会話だものね。

いさどん:
いきなり朝からそれでスタートするのだから(笑)。それで、まわりには血縁を超えた人々の暮らしがある。

ともこ:
そう考えると、マインドコントロールって何だろうね?いさなは自らその環境を選んで生まれてきているでしょ?

p1130331いさどん:
例えば、マインドコントロールについて書かれた本を見ると、マインドコントロールは悪いものだと書かれているものが多いと思わない?しかし、マインドコントロールは日常の中に当たり前にあって、「この世界は全てマインドコントロールですよ」という意図で書かれているものはない気がするんだよ。
マインドコントロールというと悪いことであり、オウム真理教の「オウム」と聞いただけで悪いことにしてしまっている。しかし、「オウム」とは本来、宇宙根源の響きのことだよ。

いさな:
イェイイェイ!

いさどん:
なぜ、今日このような話をしたのかというと、ここ何日かのことを想い返してみて、僕はみんなをマインドコントロールしてきたと思うんだよ。あるテーマに向かって、毎日色々な投げかけをしながら深堀をしているでしょ。
昨日読まれた文章を聞いている時に、なぜあのような長い文章になるのかと思っていた。一通り体系づけて話していくと、ああなってしまうんだよ。あれをみんなに聞いてもらって、みんなからもフィードバックをもらいながら、一段落ずつ深めていく必要があると思う。最初は感覚的に受け取ればいい。しかし、感覚的に受け取って「そうだ」と信じる心が出来た後に、一段落ずつ分析していくと、全体像に対してひとつひとつの部品に魂が入っていって、それが機能するようになる。
それをやらないとその投げかけが生きないと思ったときに、それはすごいマインドコントロールだと思った。しかし、それは絶対にやるべきことだと思った。今の社会のマインドコントロールが進んでいったら、今の世の中を観て「変だ」と感じないようになってしまう。ここでやっているのは、社会にマインドコントロールされている者をそれから解き放って、次の時代に必要なマインドコントロールをしているんだよ。

昔、マインドコントロールの最たるものは統一教会だと騒がれていて、そのマインドコントロールを解くのにキリスト教の牧師さんがそれを引き受けてやっていたんだよ。それで、その牧師さんが何を伝えたのかといったら、「普通の生活に戻りなさい。当たり前の生活をしなさい」と伝えていた。その牧師さんは自分たちの正統とするキリスト教の神様を信じ込ませたいわけだよ。それっておかしいでしょ?

ともこ:
ここのことをマインドコントロールだと言う人は、マインドコントロールは自分で考えることをなくさせてしまう、というイメージを持っていて、それでここをマインドコントロールだと批判するんだよね。

いさどん:
ここでは「自分で考えなさい」と伝えているんだけどね。

ともこ:
そうなんだよ!楽して答えをもらおうと思っても、絶対に教えてもらえないよ(笑)。でも同時に、昨日の天然農法の話にもあったように、「自分」というものの考えがあると天とつながれないわけでしょ。

いさどん:
そうだよね、「自分で考えなさい」と伝えながら、「自分を捨てなさい」と伝えている。それを外から見て、「人に考えなくさせるからこれはマインドコントロールだ」と言う人もいるんだけど、自我が勝ってしまったら天然の意志が感じられなくなってしまうのだから、自我を打ち払って天に耳を傾けなさいという話なんだよ。
マインドコントロールについて考えていくと、何がなんだかわからなくなるね(笑)。

ともこ:
わけがわからなくなるね!

いさどん:
人間はおかしな生き物だよ。だいたい、マインドコントロールという言葉を気楽に使っていること自体、おかしいね。

ともこ:
おかしいよ。ここがマインドコントロールをしているとして、その行為の元になっている心がどういうものかということは全く考えられてないし、その結果がどうなっているのかも全く観られていない。

いさどん:
部分的に区切って、「あそこは特別な考えを押し付けている」と捉えているけど、その物語を全て紐解いて観ているのかといったら、観ていないんだよ。

ともこ:
ここをマインドコントロールだと批判する人たちは、これをやり続けた先にどういう世界ができるのかを予測しているのかな?たとえば、いさどんの言いなりの世界ができるとか。

いさどん:
それは素晴らしい世界だよ!

ともこ:
そうなんだけど、それをネガティブに予測しているのかな?

いさどん:
だから、僕の言いなりの奴隷のような世界ができると思っているんだよ。

ともこ:
やっぱり、観察が足りないね。実際には、そうではないからね。

いさどん:
そう。あまりにも一方的に、それもネガティブで感情的な捉え方で結論を安易に出している状態だからね。

ともこ:
結局、マインドコントロールってよくわからないね。

いさどん:
わからないのに、安易に確信を持ってその言葉を使っている。

ともこ:
確信を持っているね。

いさどん:
それは、とてもあいまいな状態で確信を持っている。ものを観察したり特定するときに、前もって結論を決めてしまってからものを見ているので、そのような状態になるんだよ。

ともこ:
自分の結論に合わせてものを見ているんだよね。

いさどん:
だから、それはものを観ていないことになる。

ともこ:
それは自分の中にあるものを観ているんだね。ものを観るときに不安や恐怖から来る決めつけがベースになっているよね。

いさどん:
そう。マインドコントロールを分析していったら、そこらじゅうがマインドコントロールだらけであって、そうすると、それをマインドコントロールと呼んでいいのかという話だよ。情報をもらって認識していくこと自体が、マインドコントロールだからね。

ともこ:
カタカムナのうたいの奏上も、マインドコントロールに観えるんだろうね。

いさどん:
あれは、マインドコントロールを解いていくためにあるんだよ。結局、現象界に現れたものは全てギャップからできているから、マインドコントロールされていると言える。そこに自らという特定ができて、対象を計っていくわけだ。
その位置が変われば価値観も変わるのに、そのこと自体も現象界のギャップだから、自らを特定して何かを観たらその特定のマインドコントロールにかかる。そういった特定が沢山あって、そのネットワークがこの世界の多様性だということすら、全てマインドコントロールなわけだよ。ギャップによって現象界ができているのだから、現象界は全てマインドコントロールだということだよ。

それを全てなしにして、ギャップが起きる前の状態に戻していくことをやっているのがカタカムナ奏上なのだから、それは究極のマインドコントロールを解く作業をしているんだよ。しかし、その世界に安易に出会ったら、「これはマインドコントロールだ!」とアレルギー的に反応する人もいるだろう。それは実際にその本質を観ていない状態だよ。

ともこ:
よっぽど自分で考えていたいんだろうね。自分の考えをなしにすることが、人間にはできない。

いさどん:
それを恐怖に感じる人間が、自分がなくなることを恐れて何かの情報を得ることを「植えつけられる」とネガティブに捉えたときに、「マインドコントロールされているんじゃないか?」という発想に膨らんでいく。情報をどんどん取り入れて自らを拡大していくことによって自分自身の特定をなくしていくことは、マインドコントロールから自らを外していく作業なのに、それをマインドコントロールされていると感じるんだよ。だから、全く正反対の受け取り方になってしまう。

ともこ:
やっぱり観察がないね。そうやって自分で考えようとして創ってきたのが今の社会でしょ。問題だらけの結果が現実に現れてきているのに、まだ自分の考えでやれると思っているんだよね。

いさどん:
宇宙を人間にとって都合の良いように運営できると考えているんだよ。我々は宇宙から生み出されたものだから、宇宙に従ってこそ、本来の姿になる。なんだか、馬鹿馬鹿しくなってきたね。人間と付き合っていて時々嫌になるのはそこなんだよ。当たり前に考えて当たり前のことを言っているだけの話なのに、そんな当たり前の事が特別になってしまっている世界だね。

ともこ:
そうだね。宇宙の話も当たり前なのに。

いさどん:
僕からしたら、宇宙の話でも何でも、道理に沿った当たり前の話だよ。それなのに、変わった人ということになる。

ともこ:
宇宙の話をしていると非現実的な変わった人で、電子マネーとか株とか経済のバーチャルな話をしていることの方がリアルな現実なんだよ。

いさどん:
そう。電子マネーどころか、お金に追われて毎日生活している人がいる。この間も福祉施設のコンサルタントという人が来ていたけど、なにしろ頭の中はお金のことだけで、福祉業界でいかにお金を稼ぐかということばかり考えている。彼を観て、「あなたは頭が狂っている」と僕は思うけれど、世の中にはそういったことが常識の人が沢山いるんだよ。

ともこ:
すごいマインドコントロールだね。

いさどん:
そう。ひどい話で、僕は話を聞いていて嫌になった。お年寄りが老いていく福祉の世界すら、そういった金儲けのネタとしか考えていない。それなのに、それが正常ということになっているんだよ。

ともこ:
そこに本人は疑問を持たないんだね。見事なマインドコントロールなのにね。

いさどん:
たとえば、人が鬱病になったり引きこもったりすることも全て、思いこみの中から生まれてくる。だから、それを解き放ってやれば病気はすぐ治る。ただその思い込みが強いから病気の状態にいるだけだよ。
それを解明して、病気の状態から解放するメカニズムはここに既にできている。だから、それに乗るか乗らないかであって、それに乗るということは病気から解放されるマインドコントロールだということだ。

ともこ:
そう。病気もマインドコントロールだね。自分にマインドコントロールをかけている。

いさどん:
そうだよ。それと、お酒がないと生きて行けない状態もマインドコントロールだよ。生活習慣病もそうだけど、当たり前に毎日その常識から離れられないのがマインドコントロールということになる。だから、そこから解き放ってやれば健全になる。それはどこに解き放つのかと言うと、宇宙の法則、自然界の循環の法則に解き放つと、人間の体は自然の生態系の法則と同じになって循環して健全になっていく。
しかし、自然自体が歪んでいるということが最近になってわかってきた。自然はこの世界の美しい調和の歪みによるネットワークで成り立っているんだよ。

人は、自分が現在持っているものを否定されるのが嫌なんだよ。それは、自分に執着しているから。
僕は一つだけ気になることがある。それは、一昨日、農と性の話があって、昨日それをもう一度深めた時に、農の話についてこうちゃんがコメントをした。その時に、もともとの有機農業や自然農法の癖が出ていて、肥料をやって採ろうとする考えが残っているわけだよ。岡田茂吉(自然農法の創始者)は肥料を入れることは毒であると言っている。特に、畜糞とか人間の糞のような堆肥は毒であると言っている。しかし、そんなことを言っても現実には作物ができないから、自然農法をしてきた人たちは、肥料を使い続けて科学しながら解明してきたのだけれど、画期的な答えはまだ出せていない。

そこから、我々は今、これがなぜ限界に来ているのかを気付き出して、天然農法へと段階的に移行している。ということは、やはり毒を使ってからそれを正常にする、ということをしていてはいけないんだよ。毒は始めから使わないで正常化する作業をしないと、手間がかかるからね。
昨日のミーティングでこうちゃんは、かぼちゃの出来が悪いという話を出した。堆肥を入れて窒素を補給したのに、結果として窒素欠乏の症状が出ている。だから僕は、それは自然農法がやってきたことそのものだと伝えたんだよ。それは、人間が分析して答えを出してやろうという考えだよ。
しかし、せっかくだから土の地力を生かしてやるとしたら、その辺の草を刈ってきて上からマルチをして、土を裸の状態から保護して、後は土が循環していく力をいただくところに気を降ろすと、これが岡田茂吉の提唱した自然農法になる。それにプラス、カタカムナ奏上で天然農法になる。

ただ、こうちゃんには以前の自然農法や有機農法の亡霊が憑りついていると思うからその話をしたのだけど、それを聞いても彼の心は晴れていかなかった。「そうだね!」とならないんだよ。それはなぜかと思って観ていたら、自分がやったことを否定されたと受け取っているんだよ。
そこでは化学農法で育ててきた作物と量や質を競争しないで、何か別のものがあるぞということを追及していけばいい。それで、「採らなければいけない」とか、物質的に質のいいものを採ろうとする想いに追われていることから、自らを解放しようよ、という話をしたんだよ。
それは、こうちゃんの気持ちを楽にしようとしたのだけど、結局楽にはなっていかなかった。だから、よほどそれを説明しようかと思ったのだけど、とりあえず伝えたのだから、そこでは「そうだね!」と直感が降りてくることが大切だったんだよ。そこで直感が降りてくるのではなく、説明してもらってやっとわかったという話になってしまうと、本末転倒になるからやめたんだよ。

結局、有機農業や自然農法のマインドコントロールを解く話をしたのに、解放されなかった。自分がやったことに対して、間違っていたと言われたと受け取っている感じがした。「僕はあなたの側なんだよ。あなたに楽になってほしい。そして、本物の本物の本物をこれから追及していく場所をみんなでつくっていこう」という話をしたのだけど、通じていなかったなあ。

ともこ:
一昨日の性の話の時でも、いさどんは今のようなことを言っていたのだけど、聞いている側は、「自分にできるだろうか」という想いに囚われながら聞いてしまっていたね。

いさどん:
結局、一昨日の話を昨日して、昨日の話をまた今日しなければいけない。本当は、その話が出た時に、直感人間だったら「そうだね!」「よくわからないけど、そっちがいいね!」となっていく。しかし、一昨日の話を昨日して、昨日の話を今日してというふうに手間がかかる。でも、それをしていかないと事が成っていかない。それを丁寧に丁寧にやっていったら、これはすごいマインドコントロールだと思ったんだよ。これからも徹底的にマインドコントロールしていくぞ(笑)。

ともこ:
そのマインドコントロールだったら、みんなも望んでいるわけだよね。

いさどん:
ここを離れた人たちでも、そのマインドコントロールを求めてここに来て、そして納得していたはずなのに、ある時、それを嫌だという自我の感情が出てきて、それで全く逆の視点を持ち、今のような立場に立っている。だから、これはいつ逆転するかわからない話でもあるんだよ。

ともこ:
この前ホームページの自然療法プログラムのページを見ていて、あれは元メンバーが書いたものだけど、やっぱり彼はもともと目的が違っていたのかも、と思ったの。あれを読むと、「個人」の改善がベースになっているな、と思う。摩擦の起こる心をいかに個人がコントロールしていくか、みたいなところに主眼が置かれて書かれていて、彼の目的はそういう段階だったんだな、と思った。

いさどん:
だから、彼は自分が救済されることが一番だったんだ。しかし、そうやって凝り固まっている人間を柔らかくして、広い視点のところに持っていくことは大事なんだよ。
ところが、自我は彼にとって強烈な執着であったから、それは強く抵抗するものとなって、こちらが柔らかくしようとしても「強要されたくない」という感情がどこかに働いていたのだろうね。しかし彼は、自らの本来求める道に戻って、自らの力でどのように自分自身を導いていくのかといったら、それができない人でもあるんだよ。だから、それを与えられる場を失って苦しいだろうとは思う。マインドコントロールされることの心地良さと豊かさをどこかで求めながら、そうなっていくことを否定する自分が同居しているのだからね。

ともこ:
それは苦しいね。

いさどん:
だから、今は楽じゃない生活をしていると思うよ。それは彼らの今の生活を実際に観なくてもわかるよ。仏の世間解だからね。しかし、分析すればするほど奇妙な世界だね。人は自らがとっているスタンスで生きていることを妙ではないと思っているけど、わかればわかるほど妙な世界に生きているんだよ。

「こういった世界に誰がしたのですか?・・・あなたですね。」
「わかるか?」という返事が天から返ってきた。
「わかるか?」「やっとわかった?」という心が降りてきた時に、それは軽いノリで伝えているけど、「それが目覚めるということなのですね。私はあなたの真意を理解しました。」ということになるんだよ。

ともこ:
昨日の朝、お風呂掃除をしていたらまりちゃんがお風呂場まで来て、「わかったよ!」と言ってきたの。その前日のまりちゃんへのインタビューで、「なぜまりちゃんの心は変わってきたの?」と訊いたら、まりちゃんは「この道の価値がわかってきたからだと思う」と答えていたのだけど、昨日はお風呂場まで来て、「価値がわかればわかるほど自分の小ささやしょうもなさが観えてきたんだよ。そうしたら当然選ぶのはこっちの道でしょ。」と言っていた。

いさどん:
そう。自らを手放す方に行けばいいんだよ。

ともこ:
でも、人はわかればわかるほど、むしろ自分の我が大きくなっていって、自分がわかった側になるんだと思う。

いさどん:
それは知識的な学習の場合だね。しかし、実際に知恵が湧いてくる状態でも、わかればわかるほどその者の器は大きくなっていく。ところが、知識的にわかる人はどんどん知識に捉われ、器は硬くなり、世界は小さくなっていくんだよ。その人が真実だと特定した世界にね。だから、大きくなるという意味ではどちらも大きくなると言える。すごく妙な世界だよ。
今の世界で優秀だと言われている人たちは自分でも賢いと思っているから、そうでない理屈がくると腹が立ち、否定したくなる。エコビレッジを考えている人たちや大学の先生、テレビに出てくるコメンテーターでもそうだけど、自分たちがそういった人間の枠を作って世界を計っていることを知らないんだよ。

何だか訳のわからない話になってきたね。ともちゃんも完全にマインドコントロールされたね(笑)。

ともこ:
された(笑)。でも、これは自分で望んだマインドコントロールだから。

いさどん:
このマインドコントロールはアメノミナカヌシの力だよ。

ともこ:
だから、このマインドコントロールには確信がついてくるんだよ。

いさどん:
それは、この延長に行けばいいのだという確信だね。

ともこ:
そう。

いさどん:
だから僕は、「人間は命を紡ぐ人生という魂の旅をしています。その延長に行き着く目的がこの道の先にあるのです」と伝えたんだよ。それは間違いないことだ。

ともこ:
そこに私はとても自信をもっているのだけど、世間でマインドコントロールされている人たちも、それはそれで確信があるのかな?

いさどん:
それはないだろうね。世間のマインドコントロールというのは、とりあえず、何か特定の概念から解き放って一般社会に出し、それで終りだからね。それ以上の責任を持つ者がいないんだよ。例えば牧師さんだったら教会にいて、「神様に学びなさい」と言うぐらいで、通常のマインドコントロールを解く世界は、たとえばオウム真理教に行っている者にそういった概念を捨てさせて、「普通に会社に行って仕事をしなさい、それで生きていきなさい」と言うだけで、後はほったらかしだよ。

ともこ:
そこに新たな確信と希望は持てないよね。

いさどん:
だから、次の保証はない。たとえばオウム真理教に入った人は、もともと社会に潜む家庭の問題や個人的な問題から何かの疑問を感じて、オウムに入信したんだよ。だけど、彼らをオウム真理教から救済するという人たちは、そこのところまでは責任を持たない。どうしたら私はオウムに魅力を感じたようなエネルギッシュな人になれるのでしょうか、と彼らがオウムに代わる価値観を求めたら、その人が持っている新たなマインドコントロールを代わりに提供することになる。しかしそれをしたら逆マインドコントロールになってしまうから、それをしないで、「毎日会社に行って働きなさい、いい人と出会って結婚して家庭を持ちなさい。そして、平凡な人生を生きなさい」と、それだけで終わりなんだよ。

ともこ:
それでは、もともと疑問を感じていた周りとの問題も解決されているわけではないから、結局何も解決されないことになるね。

いさどん:
そう、何も解決されない。
マインドコントロールという言葉は、ただ攻撃をするネタとして使われている。それを使う人たちは、社会の側に立って、自分とは価値観の違うものを攻撃する。だから、このマインドコントロールという言葉を使っている人たちは、本当に深く物事を捉えていない人たちなんだよ。
そこで、自らを振り返り、他者と自らを平等に客観的に観る視点を持ちたいものだね。
  
  


コノハナ人としての新たな時代の生き方

天然農法と性について語った「天然の意識で生きる」を大人ミーティングでメンバー全員でシェアした翌日の、いさどんとともこの会話です。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
心が整ってくると、睡眠時間が少なくてもいいという話があってね。肉体労働をする人はそういうわけにはいかないかもしれないけど、心が整うと、食べ物でも睡眠でも少なくてすむようになる。それは歳のことも関係しているかもしれないけど、若い人たちでもそれほど睡眠をとっていないような気がする。

ともちゃん:
特にここの人はね。私も、以前より睡眠時間が少なくても平気だね。

いさどん:
いつのことか覚えていないけど、一般社会で生活していた頃は、朝目が覚めると仕事に行かないといけないから、起きないといけなかった。目がなかなか開かなくて、すぐに起き上がれない頃もあった。でも、そういったことが不思議となくなって、面白いものだと思う。

ところで、昨日の話は何気なく出したけど、なかなかリアルな話だった。みんながそこに言及して話し合うのはどうかな、と思って聞いていた。こちらも、あえてそこに触れなかったけど、どうなのだろう?
たとえば、どこかの情報として本の内容を紹介するのと、その現実がリアルにありますよと話すのとでは、大分受け取り方が違うと思うんだよね。僕が思っているのは、いつかみんなが心の壁を越えて行くと、その世界は何でもないこととして存在するようになる。その心の壁を越えてしまうと、逆に不必要なものがいらなくなっていく。今の睡眠や食の話と同じようにね。欲求がなくなっていくんだよ。

そうすると、必要に応じてふさわしくそういったことがあり、不必要なことはいらなくもなる。そして、いらない人は全くいらなくなるということだけど、昨日のような情報が出されると、自分もその境地になってそれをしないといけない、という強迫観念を持ってしまう人も出てくるだろう。そういった心境の世界ではそのようなことがあるんだ、と切り離して考えるだけの冷静さが本当は必要なのだけど、人によっては自分をそこにあてはめて、「そんなことが自分にはできるのだろうか?」と思う人もいたのだろうと思うんだよ。

ともちゃん:
昨日ミーティング後にまっちゃんたちと話していたとき、そんな感じだったかも。「ああいう話を聞いても、体感としてわからないから、コメントもできないんだよな」と言っていた。

いさどん:
体感としてわからないからといって、そのようなことは「ではそれを体験してコメントします」というわけにはいかない。

ともちゃん:
それではいつまでたっても話ができないね。

いさどん:
体感としてわからなくてもそれがわかる者になることが大切だよ。天然農法の極意を表現できる者にならないと意味がないのと同じことで、そういった場に出会い表現できる者になったときに初めてその役割があるものなんだよ。もしくは、そういった場を創りだせる双方があって初めて、その場に出会える。
あのようなことは、捉え方によってはゴシップのネタとしていくらでも受け取られるからね。

ともちゃん:
そうだね、マインドコントロールと言われそうだし。

いさどん:
だから、当事者がどういった状態でいるかが大事なんだよ。

ともちゃん:
そう思った!昨日も、外の人に向けてだけじゃなくて、うちの中でも自分がああいう体験をしたことをみんなに伝えられることがきっと大事なんだと思った。でも、不十分だったなとミーティング後に思ったの。

いさどん:
それは、受け取る側が不十分だからだよ。しかし、次の次元の話を伝えるとしたら、受け取る側ができあがってからそれを伝える、というわけにはいかないからね。だから、これは昨日のままで終わりにする話ではないんだよ。もう一度引き出して、みんなと確認する話だね。

ともちゃん:
そう思ったら、少しわくわくしてきた!

いさどん:
もし、そこまで意識レベルを上げていくとしたならば、自分で意識レベルを上げてその場を創っていく意識が必要だよ。それがないと、色々なところで昨日の子どもミーティングのような現象をもらっていくことになる。でも本当は、それを創っていく人になるために、この場が与えられているんだよ。

仏の尊称は十号あって、その中のひとつに「仏の世間解(せけんげ)」というものがある。仏は実際には世間を生きていないし、男でも女でもないけれど、世間にある人間の心境を全て理解し語ることができる。だから、人でも意識が高くなると、そういったことが可能になるんだよ。
ところが、まっちゃんを代表とする意識レベルは、そういった情報を得ると、「自分がそれをできるのだろうか?」とか「体感していないからわからない」という発想になってしまう。それはあくまでも情報であるのだから、自らをそこにあてはめないで、冷静に受け止め、そのときの心を想像していくことが大切なんだよ。それを冷静に受け止め理解したときに、そういった場所を創れる人となり、実際の出来事に出会うことになっていくのだろう。

たとえば、自然農法から天然農法へ意識が移っていくときに、何が違うのかといったら、その場を整えられる人になって初めて、天然農法を行ずる人になれるわけだ。昨日シェアした話の中にそれは説明してあったよね。しかし、そういったことが十分に会得できていないから、まっちゃんのような反応になるんだよ。

そういったことを信じて受け取れず、傍観者的立場に立ってそのアレルギーが溜まったときに、ここを離れていった者たちと同じ現象が起きることになる。

ともちゃん:
それは、表面的で物理的なことに囚われているんだね。

いさどん:
だから、そこで今まで僕が伝えてきたことは、「精神が美しければ、全ての出来事は美しいことになる。そのことを理解して、まずは美しい方へ行きなさい」ということだよ。それは昨日の話の最後にも書いてあったけれど、あれが付録みたいになってその前の話とつながらないと、そこが腑に落ちないから、そのようなことになる。

今、いよいよこのような難問を乗り越えて、みんながその気になってきたから、次のステップに行きましょうということで次の話をすると、早速動揺するということだね。でもそれは、「あなたもそういった世界を創れる者なんですよ」という話をしているだけ。本当は、ここでもひとりひとりが自らの意識を上げていって、次のステージの話ができるようになれば一番いいのだけど、それも今は他からもらっていることになる。
世の中にこういったデリケートな話が引き出されたおかげで、みんなで共通した立場を共有できたよね。その立場を共有できたからこそ、我々はどういった境地でいるべきなのかが提示されたわけだ。そこで次のステップの心に出会ったときに、早速動揺しているというのが今の現状だね。

それも人によって色々で、「当然でしょう」と言う人もいれば、「よくわからないけど、私はそれでいいと思う」と言う人もいれば、「自分がそんな体験をできるのだろうか?」と動揺するようなレベルの人もいる。しかし、それは情報であり、「そういった境地に至ったときにその心が理解でき、表現できるのだ。その立場の者に自らがステップアップしていくのだ」と意識を高めていくこともできる。だけどそれは、形の話ではなく、心の話だから、心が伴っていない者が考えると形に囚われてアップアップすることになるんだよ。

ともちゃん:
性って、いいテストだね。人の欲が沢山絡んできた分、見えにくいというか、余分なものが出やすいというか。

いさどん:
性について語ることは、それこそネットで調べたら、忌まわしい情報からスピリチュアルなものまで色々な情報があふれているけれど、それを深い意識につなげるための教材として提供するとしたら、意識が高まっていくようなものを引き出していかないと意味がない。単に、性を知識として伝えても、それは個々の人の意識レベルで勝手に膨らませるだけのことで、我々が伝えたいようなものとはかけ離れたものになってしまう。ましてや、意識レベルが低い者にそれを提供することは、火に油を注ぐようなものだからね。
だから、どこでもこのような話を提供できるわけではない。しっかりとした精神的立ち位置を保ち、伝えられる相手や場所が大切になってくる。こういった話題は、両刃の剣だからね。扱いには気をつけないといけないね。

ともちゃん:
ここがインターネットで批判的に流されている情報と実際に違うのは、そういう深い意識が日々の生活の中で実践されていることだと思うんだけど、実践している人たちが語るにしても、受け取る側次第では単なる知識の話になってしまうでしょ?昨日のミーティングの場もそうだったよね。知識の話になってしまって、実際の自分の心とつながっていかない人もいるね。

いさどん:
だから、「出張木の花塾のテーマが性ですから、これについて今、内容を模索している中で、この話が出たんですよ」と説明したんだよ。それで一昨日のミーティングで木の花のあゆみを振り返る場があった。これは我々が実際に通ってきた道であって、それが現在につながっているのだから、二つの道はなかったということだね。
この道を尊いと思うのであれば、全ては尊いしかない。それを切り離して、ここは良いけどここは好きじゃない、ということはあり得ないという話をした。そして昨日、農と性の話を出したんだよ。でも、そこでも切り離して、「こっちはわかるけど、こっちはわからない」と言っている人がいるということだよね。
しかし、わかるということは全てわかるという境地になるべきで、わからない者は「わからないけれど、そういうことなんだ」というところに理解を持っていかないといけないのに、「体験していないからわからない」ということになってしまっているんだね。そこで早速、それがマスターできているかどうか、その人のテストが実施されているわけだ。

だから、受け取る人たちによって色々だけど、そういった心境になる者がいるということなんだよ。それは、自分を常に観察していないから、湧き出てきた感情に翻弄されている状態だということだ。
湧き出てきた感情に翻弄されている者もいれば、今はいなくなったけれど、昔は疑心暗鬼や怒りの感情が出てきたりするような者もいた。だから、全体がおかしくなっていたんだよ。もしも信じる心がベースにできあがっていたならば、「そういうことなんだ」と受け取って行ける。逆に、「そこまでのことが人間の可能性としてあり、信じている限りは自分の未来にもありえるのだ」と思うこともできる。
そういった冷静な心がないと、違和感があるたびに議論することになってしまう。しかし、信頼がベースになっているコミュニティには、議論はいらないんだよ。

ともちゃん:
そうだね。

いさどん:
昨日、誰も性の話に触れないと思いながら、僕はみんなの中にある色々な心の状態には触れなかったんだよ。昨日の農の話と性の話は、両方とも同じようにメインの話なんだよ。しかし、農の話の方には話題は行ったけど、性の話の方には触れない状態だった。

そこで、「これを木の花の性として語っていいのですか、みなさん?もしも自分からこれを切り離したら、それは自分とは違うものだという認識でありながら、木の花の性としてあなた自身の認識でもあるということで語られているのですよ。それで大丈夫ですか?」ということだよ。
「それは私の認識とは違います。いさどんが創っている世界ですから、それはいさどんだけの世界だよ」という話であったなら、「木の花のみんなは純粋で良い人だけど、いさどんだけに問題がある」ということで、いさどんはもっとも忌まわしいところに置かれてしまうんだよ。

ともちゃん:
本当にそうだね!だから、これは性について語ってるけど、実は性の話じゃないんだよね。

いさどん:
そう。それで、人によって個人差はあるけれど、比較的女の人は感覚的に受け取りやすい。しかし、男の人は形に囚われるから不器用なところがあるんだよ。
どういうことかと言ったら、僕がやっていることは役割だとしよう。たとえば、お医者さんが患者を診るとする。そのときに、普通の人ができないことを提供する。それは、それができる資格や資質があるからできるわけだ。できる資質がない人がそれをやったら、問題事になってしまう。そこでは、その境地としてふさわしい位置にいるかどうかを求められるのだから、それにふさわしい位置に立てばいいわけだ。そして、自分はそこに向かっていく者だと考えれば、途上の者は「自分もその位置に行かなければ」という話になるだけだ。

しかし、そこで動揺するようなことでは、ケア滞在者のKくんがここで色々な情報に出会いながら勝手にそれを自分の中で膨らませて騒ぐのと同じ話になってしまう。僕はKくんに、「それはあなたには縁のない話なのだから、そんなところに反応するのは見当違いの話なんだよ」と伝えるけれど、ケアの人が心を治しに来ているのにここの色々に反応して、ケアの進捗に影響が出てくるようなところもあるでしょ。ここの人々の意識が高いからケアが提供できているのだけれど、そのケアを受ける側の人の意識が高いところを理解できないからといってKくんのように反応しても、それは全くお門違いの話になる。
それでは、意識が自分と合うところへ行ったら心が改善されるのかといったら、改善されないのだから、その場合「自分とは切り離して受け取る心ができたときに、あなたはどこにいても安定して暮らせる人になるのです。人は人、自分は自分として切り離して生きていけるようになりますよ」と僕は伝える。しかし、そこを勘違いする人がいるんだよ。ここはある意味、そういった認識のトレーニングの場でもあるのだけど、人は往々にして色々な情報を得ると、それを全て自分にだぶらせてしまうところがある。
ところが、自分の道をしっかりとわきまえたら、人がどうであっても、「あなたはそうなんですね。私は私の立ち位置でこの役割をしていきます」となり、そこでは動揺が全く走らない状態になる。もしくは、「私は今この位置にいますが、もしその心境でそういった場に出会ったときには、そのような役割も果たせるのですね」という冷静な心があって初めて、それが当たり前の世界で生きることになる。

道は、登山のように進めば進むほど高まっていくし狭まっていく。その時に山の中腹を歩いている人が頂上近くの景色を想像して何だかんだと言っても、中腹の意識では頂上近くの意識はなかなか受け取れない。しかし、自らがいずれ歩んでいく先だと思えば、そこにたどり着いたときに受け取ればいいことであるし、その山の構造の全体が想像できれば、ここではこの心の負担でこのような余裕で歩んでいるとか、頂上近くでは心にこういった負担が生まれて、このような気持ちでそこを極めていこうとしている、というだけのこと。それは単なる情報であって、今の状況をわきまえない心を働かせることは慎まないといけない。

こうして懇切丁寧に語るのだけど、本当は伝えられてわかることではなく、自らがそこをわかっていく人にならないと、いつも授業を受けて学ぶ人になってしまう。こういった学びは常に生の学びであり、そこには生のテストが常に用意されているのだから、誰かからそれを解説してもらうのではなく、自らの中から回答が湧き出てくる人にならなければいけない。常に自分がどう反応したかがテスト結果なのだから、その結果を受けて、この心境はなぜこうなっているのだろうという分析から復習ができて、次の予習につなげていくことが大切だよ。それが常に自分と瞬間瞬間、真剣に向き合い、自らを成長させていく人だと伝えてきた。
なぜそういったことをここで出したかと言うと、今我々はそれをステップとしてみんなが理解していく場所にきているわけだから。しかし、早速テストが来ても、それがテストであるということさえ気づいていないことにもなっているね。

ともこ:
昨日はそれを学ぶいい材料がいっぱいあったね!でも、あまりそうは受け取られていないよね。

いさどん:
そうだね、そこまで考えていないね。だからそこに触れようともしなかったね。

ともこ:
むしろそれを避けてしまっていたようにも感じたね。

いさどん:
そう。そこでは自らの中に避ける心も見つけて、あえて避けているからこそ出さなきゃ、わからないからこそ出さなきゃ、というくらいの気持ちになったら、あの場もまた違ってくる。これだけの段階に来たのだから、一日ちょっと思考をし、それを熟成するための期間を置いて出すという意味では、これもちょうどいいのかもしれない。
早速テストを受けると、そのテストに対する反応はいろいろだね。いつものように全くそこのところを考えていない人もいれば、考えているけど見当違いに考えている人、そこに反応しても出してはいけないのではないかと勝手に想いがふくらんで出さない人、と挙げたらいろいろといるんだよ。しかし、みんなそこを超えていく為に今この登山に挑んでいるわけだから、そこを超えてもらいたい。そうでないと、このネタは新たなバッシングのネタになるだけだよ。

ともこ:
ほんとだ~。

いさどん:
下手をすると、この話題でも、「目が覚めました!」と心が翻ってバッシングを浴びそうなネタでもあるわけだ。それを敢えて出すのだからね。

ともこ:
そうだね。こういう話も、バッシングの雑誌の中では「古田氏との交わりは聖なる交わりとされる」というような話になる。

いさどん:
完全にマインドコントロールのネタになるね。

ともこ:
ほんとだね。やっぱり、これは性の話だけど、結局、性の話じゃないんだよ。

いさどん:
だから、昨日、そのあたりもしっかりとみんなに伝えたよね。「これは性と農というテーマで取り上げられていますが、全てのことに共通することです」と伝えたけれど、そのことはしっかりとはみんなの頭の中に入っていない。だから、ヒットするところだけがもやもやしていて、それで「こっちはわかるけど、こっちはわからない」となっていくことにもなるんだよ。

ともこ:
その伝えようとする心が観えたらおもしろいね。

いさどん:
だから、胸にチャックがあって見せることができたら、どんなに楽か。だからね、「ああ、めんどくさい、めんどくさい」という話だよ(笑)。

ともこ:
本当にその人の心が出るんだね。その出来事とかモノではなくて。出来事は材料にしか過ぎない。

いさどん:
だからそういうことも含めて、自分自身もどこの位置にいるかという心のざわめきが観えるわけだよ。そうしたら、それも客観的に観るくらいの冷静さがあったら、動揺するようなことはない。

ともこ:
そういうことも出し合って、材料にして、みんなで話し合えたらいいね。

いさどん:
そうすると、天然農法にしろ、性のことにしろ、本当に超えて表現していける。そういったことを現象化できる資格が得られるわけだよ。

ともこ:
そうだね。カタカムナ奏上だけではないね。

いさどん:
だから、その手法とそれにふさわしい意識レベルの人ができるということなんだよ。その入門編として、感情が働かないところで「アワの歌」があるんだよ。そして、「カタカムナ」のレベルになっていく。

ともこ:
アワの歌は、1つ1つの音に思念がないから。

いさどん:
そう。カタカムナは、その思念をしっかりと理解してコントロールできる人がその世界を表現できる人で、その場を創っていく人になる。その段階に至っていない人は、心を無にしてその場を整える役割に徹する。

ともこ:
難しいね。カタカムナの方がレベルが高いという話になると、ついつい頭を使って理屈で考え始める。

いさどん:
そこの危険があるから、結局、アワの歌になってきたんだろうね。
みかちゃんが「不思議だ、不思議だ」と言うんだよ。それは日水伝文とカタカムナは全く同じことを言っているそうで、カタカムナを学んで日水伝文を見ると、神の働きで人間に伝えようとしていることが全て書いてある。ところがカタカムナでは神の働きというものはなくて、世界は単なる物理性だというように神を封印している。しかし、よくよく調べていくと、そこには同じことが語られている。日水伝文では、カタカムナがその元だとは言っておらず、別々に体系化されて伝えられているのがすごい。だからお互いの関係を切ってあるんだよ。
我々はこの道とカルマ読みと地球暦とカタカムナ、そして自然農から天然農といろいろなものに出会ってきた。それが今、全てひとつの道として日常生活に定着してきている。それが本当の意味で形に表すということだよ。
我々は、いかに今まで現されなかったことを与えられているかということで、その道を与えられ特別に選ばれた者達であり、ある意味神仙民族で、それが娑婆世界に生きているということだよ。

ともこ:
だから、ひとつのひとつの出来事を区切るということはありえない。

いさどん:
そうだね、ありえないね。

ともこ:
全て同じところから現されているから、農のことはわかるけど性のことはわからないということはありえない。

(ここでイサナ登場)

いさどん:
それは全てのことを同源として語っているのだから。それをまさしく現象世界に現してくれるのが「ナ」だよ。「イサナ」。よろしく。あなたが活躍するのはもう少し先ですが、人類の歴史からすれば、もうすでに扉が開く時に来ている。それは、陰陽の男女のギャップによって区切られていたものが統合して示されるということ。今までの人類にはそれがなかったんだよ。

ともこ:
素直さがあればいいね。

いさどん:
そう。ただ信じる心があればいい。みかちゃんの歌は本当にそのままだね。
(にこりと笑うイサナに向かって)なんて素晴らしい笑顔!
我々は前人未到のところに来ているということを示しているんだよ。

ともこ:
おもしろいよ~!
素直さがあって、わからなくてもパッといけばいいと思うと同時に、それでは実は真意とか道理とかは掴んでいないわけだから、それを常に探っていくということが同時に必要だと思ったの。

いさどん:
それはそうではなくて、素直な心が表現できる人はそれだけすでに心の準備が出来上がっているわけだから、素直であるということは、正直であるというベースが出来ていて、「正直、素直、信じる」になる。その時に道理というのは後からついてくる。道はいつもそうなんだよ。よくわからなくても、直感で大事と思うほうをやっていると、後から道理がついてくる。それが引き寄せの法則。それが天理で生きているということだよ。

ともこ:
それを頭で理解しようとすると、逆になかなかパッといけないのかもね。

いさどん:
そう。

ともこ:
性の話でもそうだ。理屈でわからないから「よくわからない」という。

いさどん:
そういった話になるんだよ。天とともに生きる、直感人間で生きるということは、理屈なんかまずはどうでもいい。これが大事と思ったら、そこで歩む方向を仕分けられる。本当に直感人間で生きる気があるのかどうなのかが問われるところだね。

ともこ:
そう、本当に直感人間で生きる気があるのかどうかだね。

いさどん:
昨日あの場をわざわざ提供して、そこにいろいろな心の反応があることを観ながら、あなたが昨日話した人達のような反応もあるだろうと想像はしていた。そうしたら、ちゃんとこのような報告があって、それに対して回答する場所が設けられた。これはまるっきり授業だね。これは生きた授業なのだから、それを生かすために自らから湧き出す人になるのが目標だよ。わかりましたか!

ともこ:
はい!今、懇切丁寧に解説してもらっているけど、解説してもらっている時には受けるばかりなんだよね。

いさどん:
だから、それが湧き出す人になるんだという意志が大切なんだよ。

ともこ:
それこそ、そこに直感が関わってくるということだね。

いさどん:
そう。自らから湧き出す人になる。そうでなければ、こんな道はやめた方がいい。でも、みんなむずむずすると思うんだよ。誰にもそういった種があるからね。それだったならば、その種に水をやって芽を出させて開花させるということだ。

ともこ:
その結果、すごい場になるね。

いさどん:
だから、前人未到なんだよ。それは何か特別なパフォーマンスにつながるような話ではなく、生活自体がそういった人達の表現の場所ということ。過去の事例をとってきて、例えば「タオコード」とか、「神仙民族」とか、「アナスタシア」「ホピ族」「マヤ」とか、いろいろ当てはめてもいいけど、これは新しい「コノハナ人」の生き方なんだよ。歴史の中でカタカムナ人やホツマ人の流れを受けて、これからはコノハナ人としての新たな時代の生き方の始まりなんだよ。それは全人未踏の歩みなんだよ。

ともこ:
すごいことをやっているね。おもしろすぎる!

いさどん:
ここまでくると、タブーをなしにして、何でも発信しなさいということだ。

ともこ:
全て同じ心だものね。タブーはない。
今度ホームページに改めて、まりちゃんの「15年目の合格」の話を載せようと思って、昨日まりちゃんに「20年目のコメントはある?」と訊いたら、いろいろ話してくれたの。「わかった、ありがとう」と言って終わろうとしたら、まりちゃんが、最後に一つ言いたいことがあるのって言って、こう言ったの。「私には、こうやって教えてくれる人がいて、一緒に笑って一緒に泣いてくれる人がいたの。でも、いさどんという人にはそういう人がいなくて、自分の拳で自分の頭をたたいて、一人で車の中で泣いて、歩んできたんだよ。みんなが助けてとそれを望むから、いさどんは手を貸してきたんだよ。でも、みんなはそういったことがわからないんだよね。わからないからといって相手に何かを思うということはないんだけどね」って、最後にこれだけは言いたいって言っていたんだ。

いさどん:
(涙ぐんで、しばし沈黙。)
まりこに会いたくなった。まりこに会いに行こう。
 
〈まりちゃんの部屋に移動して〉
 
いさどん:
この歩みが特別な歩みだということがわかるでしょ?しかし、多くの人はそれがわからない気持ちもわかるでしょ?だからこそ、これに出会った者は真剣に生きないといけない。

ともちゃん:
そうすると、「生きている目的って何なのだろう?」と思う。

いさどん:
そうだね。生きることは、ただ腹が減るから物を食べ、時間が経っていくから歳をとっていくことではないんだよ。生きることは悟るためにある。そして、その悟りへの道を現象化して、時代を刻んでいく役割が我々にはあるんだよ。これは人間にしか与えられていない道だからね。

ともちゃん:
そう。昨日の天然農法の話を聞いていて思ったんだけど、自然は曲がっているでしょ?人間がその仕組みを理解した者として潜象界へ戻していくというのは、すごい存在だと思ったの。人間も曲がって生まれてきているのにね。

いさどん:
だから、自分を超えた世界へ行ける存在なんだよ。その極めてデリケートな部分が性の話だよ。それは全ての神聖な成り立ちのはじまりなのだから。それは、この物語のカラクリの大本なんだよ。

ともちゃん:
性のことが理解できることがあるのかはわからないけど、性のことがわかったら、他のことはもっとすぐに理解できるんだろうね。

いさどん:
その微妙なところに触れれば触れるほど、人間は心が震える。だから、それはわかりにくいものでもある。それは潜象界の響きのようなものでもあるんだよ。それは現象化していないから解釈できないのだけど、その響きに惹かれる。

ともちゃん:
その響きさえ、感じていられればいいね。

いさどん:
そう。ただ、響きだけ感じて、潜象界で孤独を感じていたのが神様だったんだよ(笑)。そこで、「これを現象として現そう」ということで、潜象界から現象界へ出てきたんだろうね。そういった考えがあったかどうかはわからないけれど。

ともちゃん:
神でさえ、孤独を感じる?

いさどん:
神様が孤独を感じたからこの世界を創って、人間もそれを受けて孤独を感じながら群れて、そして全ての生命を群れるようにしたわけだ。

ともちゃん:
神の感じる孤独と、人の感じる孤独は同じ?

いさどん:
おそらく本質は同じだろうね。ただ、そのスケールが違うだけのことで、結局ちりばめられている孤独は同じなのだろう。

ともちゃん:
神の場合は、孤独を感じる対象がなかったわけだよね。

いさどん:
それは無限なる孤独なんだよ。

ともちゃん:
私たちには、まわりに対象が沢山あるもんね。

いさどん:
それは無限に対象があるわけだけど、沢山あって満たされているはずなのに、そこで孤独を感じるわけだよ。それは、己に囚われているから。宇宙全体がひとつのいのちなのに、自分に囚われているから、いくら対象が沢山あっても孤独を感じるんだよ。それを神様は反対のほうから観ておられるわけだ。全てが自分自身だから、孤独を感じられて沢山の対象を創ったんだよ。だから、神様が感じている孤独と、我々が感じている孤独は、カタカムナでいう相似象のようなものだよ。

ともちゃん:
そうすると、神様は今はもう孤独を感じない?神の中に境はないよね?

いさどん:
こういう世界を創ってしまったからね。でも、これは呼吸と同じだから、この世界をない状態にして、またある状態にして、ない状態にして、ある状態にして、そうやってこの世界は繰り返されているんだよ。でも、その先に行くと、また空しくなる。結局、自らがやって自らが遊んでいることになるとマスターベーションの世界だから、空しくなるね。だから、リアルに自分自身を自分と切り離して、自分以外のもののように分けることにしたんだよ。

ともちゃん:
だから、人間をこんなに分からず屋に創ってくれたんだね!

いさどん:
僕も、その気持ちはわかるんだよ。それは「結局、自分だけの世界なんだ」「この世界はひとつなんだ」ということ。神様は「あってあるもの、なきてなきもの」という不可思議な立場にいるわけだからね。分ければ分けるほど矛盾だし、それを統合してみるとひとつになって孤独になる。分ければ矛盾、統合すれば孤独!

ともちゃん:
だから、どちらもありえないんだね。

いさどん:
この世界は南無妙法蓮華経の「妙」と言って、不可思議(妙)な世界だよ。しかし、我々はそこの境地まで至っているということだ。だから、神様の気持ちはわかる。あとは、肉体を離れれば、その心そのものになれるよね。
肉体の中にいると、自らのポジションをもらうから、どうしてもこの世界と一体にはなりきれない。だから、菩薩の境地になっても、仏にはなりきれないのは、肉体があるからだよね。仏になるということは、この世界と一体となって、この世界に遍満している状態のこと。それもある意味悟りと言うけれど、結局潜象界と現象界を行ったり来たりしているということであれば、それも単なるポジション取りの話だからね。悟りに至っていないというのは悟りに行くためのプロセスであって、悟っている状態は悟っていない状態へのプロセスにしかすぎないのだから。だから、そのカラクリがわかればどちらでもいいということだよ(笑)。
そこまでの解釈をすると、解釈の意味もなくなってしまうから、この世界をわかることは必要ないことになるんだよ。だから、わからないことは問題のようで、全く問題ではないことになる。

ともちゃん:
完全に不完全を散りばめることだね。

いさどん:
あってあるもの、なきてなきもの。神様の存在は面白い(妙な)存在でしょ。そうすると、全ての現象はそれで良しとなる。馬鹿なことをやっても何をしていても、それは全てゲームだから。

ともちゃん:
でも、そのゲームの過程で色々と大変な思いもするね。

いさどん:
それは、低い位置に自らを置くから大変な思いをすることになるわけだ。高い位置から観ていたら、プロセスとしてそのときにそのことがあるだけだから、理解があろうが無理解があろうが、全ては過程だからね。自らに囚われなければ、どうということはない。自らに囚われなければ、テレビのニュースを見ているのと同じことだから、身にふりかかってくることも全く気にならなくなるよ。自分のことを週刊誌で見ようが、テレビで見ようが、その印象が良かろうが悪かろうが、同じようなことは他の情報からも出てくるわけでしょ。そうしたら、自分の心の位置と同じようなことが他から出てきたら、直感で、「ここまでの人間たちが出てきたんだ!」と感じるんだろうね。

昨日、長期ヘルパー滞在中の中国人のゼンと話していて、彼は今、問題児だけど、若い頃の僕とだぶって観えるんだよ。昔、僕がこの道に出会って、「絶対そこを行くんだ!」という気持ちになったことがある。今、彼も同じ状態なんだよ。しかし、まだその確信に至っていないから彼の心は雑で、まわりの者となかなか調和的にならなかったり、自らの思いを素直に伝えられなかったりすることで、彼にはいらだちがある。だから、「僕はあなたを過去の自分とだぶらせて観ているところがあります。だから、あなたの未来に興味があるのです」と伝えたら、彼の気持ちは落ち着いたよ。

ともちゃん:
嬉しかっただろうね。

まりちゃん:
ここを去ったあの分からず屋たちもスタートは一緒だったんだよね。学ぶか学ばないか、自分以外のものを受け入れるかどうかの違いだけなんだよね。

いさどん:
そういう意味では、まりこはなかなか気がきいたことを言うんだよ。僕が育てただけのことはある(笑)。随分手間をかけてきたからね。手間をかけたのは、まりこか和子ちゃんか・・・やすえにも手間をかけたけど、そのままにしておいたら全く役に立たなかったからね。人のために役立つ人にしたんだよ。

まりちゃん:
私たちは自分に囚われないで、自分以外のものを受け入れただけで、ここを離れた人たちはそれが受け入れられなかっただけなんだよ。

いさどん:
自分の価値を信じていないと、出会ったものが信じられない。しかし、人間は誰でもこの境地に至れる。これは特別なことではないんだよ。世界はひとつだから。

ともちゃん:
いさどんが昔、「自分なんか」という心が出た話と同じだね。

いさどん:
そう。そこを信じて、自分を越えられるか、自分を疑う心を越えられるかどうかだけなんだよ。正直に素直に信じられるかどうか。そういう意味では、そういったことを先駆けて語っている立場では、僕は特別な人ということになるけれど、ではその特別がどこから湧いてきたのかといったら、当たり前の人間から湧いてきたんだよ。つまり、当たり前の人間は全て特別な存在だということだ。
  
 


台風8号を通して 〜 天の気とつながって生きる

台風8号が接近していた一昨日(9日)の夜の大人ミーティングで、いさどんは次のように語りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
僕がいつも皆に語っていることは、僕の日常会話です。生きていることの意味を日々ここまで追求しているということで、日常想っていることをこのようにしてミーティングの場で皆に伝えているのです。

今日、NHKのクローズアップ現代で取り上げられていましたが、今、ミャンマーやベトナムの労働者を、自国では労働力が足りないからという理由で、日本と台湾と韓国が奪い合っているようです。そこで、アジアの人たちは昔は日本という先進国にあこがれがあったのですが、今は韓国や台湾のほうが労働条件が良いのでそちらに行く人のほうが多い、という話題を取り上げていました。

それが、今の社会の現状です。つまり、時代が変わってきたということです。その中で日本の経済的競争力は弱くなってきています。昔のように産業で日本が世界のリーダーシップをとったり、産業だけで豊かさを追求することは幻になってきているのです。逆に、台湾や韓国がそれをいつまでも続けていけるのかといったら、そうはならないでしょう。だから、時代は変わっていくということです。

今、日本に来ている台風8号には、今まで表示されなかった「特別警報」が沢山出ています。それは今まで出されていなかったことです。数十年に一度あるかないか、50年に一度あるかないかの状況になることで、その条件を満たすと特別警報が出されるのです。今日は新潟県にも特別警報が出されていました。台風の影響を受けて、日本海側から太平洋側に向けて雨雲がかかり、その地域に3時間に200mlの雨が降ったのです。佐渡のあるおじいさんは、「私はここに70年暮らしていますが、こんなことは初めてです」と言っていましたが、オリンピックの記録ではないのですから、そんな初めてが沢山あっても嬉しいことではありません。しかし今は、そういった時代なのです。

そういった状況を受けて、人間の性質や今までの営みを観て、なぜそうなったのかを振り返るような人たちは全く出てきません。それを振り返るためには、人の意識にアメノミナカヌシを立てないといけないのです。(詳細は、いさどんブログ「天然の意識で生きる」をご覧ください。)ここではそういったものを立てる場所を創ってきました。観えないものが観える為の生き方をしていますし、観える人たちが生活をしているのです。それは、毎日の生活を通しての深い自覚の中にある暮らしだと僕は捉えています。

台風は、自然からの私たち人間に対するメッセージです。人間がもたらす滞りは、全てメッセージとして私たちに返ってくるのです。生きることは、そこから何を受け取り学ぶかの連続だと思います。観えないものが観えてくるように日々を歩んでいくと、本来その歩んだ分にふさわしい気付きが与えられるようになります。ということは、しっかり観ていかないと、観えるものも観えないということにもなるのです。

そこで、どの方向に向かって歩むのか、が重要です。命をいただいて生きることは、物理的に肉体が命を紡いでいくこと ―― 食べて、呼吸して、24時間が経って1日が経過し、それを365日繰り返して1年歳をとり、さらにそれを80年繰り返すと寿命が来る ―― それでも人は生きられます。そういった人生も私たち生命には可能なのです。何の変化も成長も気付きもなくても、充実していようがいまいが、人は生きられるようになっているのです。それは植物でも動物でも同じことです。全ての生命は生きられますし、そのことで生命としての役割を果たすことはできます。

では、私たちはなぜこのような暮らしをしているのでしょうか。この暮らしは、今のところ大変マニアックな生き方です。それを、あえてそれぞれが自らの意志で選んで歩んでいるのです。その理由は、ひとりひとりが自覚しないといけません。それを理解することが、ひとりひとりが一本筋を通して生きるということです。

20、30年前の、少し前の時代であれば、このような暮らしをしている所は怪しい団体でした。しかし、21世紀に入って今の時代にやるからこそ、新しい時代を開く世の為人の為の暮らしだと僕は思っています。大本の出口なおに艮の金神がかかって120年が経ちました。そして、あの戦争があっても、時代は全く変わる気配が感じられませんでした。それでは、いつ立て替えの時代が来るのでしょうか。「いよいよ三千世界を立て直すぞ」と言って、いつのことを示しているのかといえば、今のことだと僕は直感しています。

その区切りとして、2012年12月21日に銀河の冬至を迎えたのだと思っています。それは、本当に今だと示しています。やっと、天理という名を持って世に道を説いた中山みき、それから大本の出口なおにかかった神の意志が、地上に現れてきます。その実体は、宇宙創造の神の意志なのですから、天理教や大本教の為の神ではないのです。それは、宗教を超えた、元の元の宇宙法則への目覚めなのです。しかし、今まで人々はそれを宗教にしてしまったので、真実に目覚めることができなかったのです。もっとも、カタカムナ的に言えば「トキ」が来ていなかったということなのでしょう。

しかし今、「トキ」は来ています。人類の未来にはすでに選択肢がないのですから。人間は愚かなので、選択肢がなくならないと目が覚めないのです。しかし、それでは価値がありません。

大人ミーティングより
大人ミーティングより

今、台風が近づいてきて、気圧が低くなっています。気圧が低いということは、ある意味鬱状態であり、体の調子も上がりません。反対に、高気圧のときには躁状態になります。天の気が低気圧のときは鬱状態ですから、外では雨が降っていますし、家の中(自分の心の内)で日頃やれなかったことを観るチャンスでもあります。それは、自らの内を振り返る機会なのです。だからこそ今、ここにいるひとりひとりが、なぜこういった暮らしをしているのかを観る機会にしたいものです。みんながその意味を自覚し、つながったときに、ひとりひとりの意志がネットワークして、コミュニティという命を創り、それを世の中に発信していくことができるのです。

かとけん:
僕は瞬間瞬間、天の意志が自分たちの頭の上に降りてきていると感じています。それを感じられる心であれば、日々が非常に充実したものになっていくのだと思っていて、それをみんなと共感し合って、広めていきたいという想いがあります。

いさどん:
今、かとけんが「天の意志」と言ったときに、僕が天に心を向けると、「私の意向がわかるか?」と意志が降りてきました。「私は皆とは目線が違うのだ。私は私の位置(天)から皆のことを観ておる。それは、皆に私のほうへ目を向けることを望んでおるのだ。しかし、皆の意志は横を向いているから、私のほうには意志が向いていない。私は皆のことをいつも観ている」ということでした。天は、全てに目を向けておられるわけですから、トキ・トコロに関係のない働きです。皆は自らという意志がある限り、全てを常に観られていることを理解できる存在なのですから、皆も生きることの全てを天に向けないといけないのです。

かとけん:
今日、トマトの芽かきをしていたときに思ったことは、トマトは普通真っ直ぐ上に伸びていくんですけど、木の花のトマトは斜め上45度に伸びていって、1本仕立てで育てています。その芽かきをしていたときにふと気づくと、斜め上45度に伸びていって、先端が少し細くなっているので、脇芽、つまり脇のエネルギーをとってあげて、真っ直ぐ進めるようにしてあげると、それこそが天の意志に向かうことだと観えてきたんです。どこにでも天の方へ向かう意志があるんだと感じて、観える景色がハッと変わる感覚がありました。日々の中でそういった感覚があると、すごく充実していて楽しいと感じました。

いさどん:
そうです。どんなことでも、天につなげられます。僕が日々皆に語る他愛のない話でも、全てのことが今のこの場につながってきたのです。それは、つなげるからつながることでもありますし、全てのことから「これは何を伝えられようとしているのか?」と捉えるからつなげられることでもあるのです。

生きることは「直会(なおらい)」ですから、私たち人間は天の意志に代わって地上を生きているのです。それは神が地上を生きていることだとすると、私たちは生きていることから何を求められているのでしょうか。私たちは神の代わりに地上に生きて、その結果を天にフィードバックしているのですから、常に天と情報交換をしているのです。

そのことを意識し、日々を生きることが、一本筋を通すことです。これは、長い間地上目線になってしまった人間に忘れられていました。やっと、それを取り戻す時代が来ています。今まで忘れられていたことを、天とつながり実現するときが来ているのです。

しかし、「それは全て人の意志でなるように道が創ってあるわけでないぞ」と天は言われます。それはトキとトコロとヒトが用意され、100匹目の猿現象のように目覚めたものがつながっていくと、つながっている者たちの輪が台風のように渦を巻き、下にいるわからない者たちを巻き込んで、わからない者たちの価値観を竜巻のように壊して創り直す作業をしていくことです。それは、1から10まで全てをやらないといけないのではありません。あるところまではやる、ということです。

では、今来ている台風を受けて、これから人間の思念の大きさを立証するために、皆でカタカムナを奏上し、今日のミーティングを終わりにしましょう。

(ここで、ミーティング終了の意識合わせとしてカタカムナのうたいを奏上。その後、再びいさどんが語り始めました。)

いさどん:
さきほど、今日カタカムナを奏上する目的について皆に伝えましたが、それはとても勘違いしやすい話ですので、皆が勘違いしないために次の話をしようと思います。

僕がお釈迦様と出会って9年後、お釈迦様との別れがありました。その後に日の本の神との縁をいただいて、最終的には「あってあるもの、なきてなきもの」の存在に出会いましたが、その途中の段階で、神様事で色々な場所を訪ねることがありました。そういった中で、天候が自由自在になる体験をしました。自由自在になるということは、「こうしてほしい、ああしてほしい」ということではなく、私たちの予定に合わせて天候が変わっていった、ということです。

ある時、台風が中国地方へ上陸するときに、僕たちは広島へ向かいながら傘を持っていかなかったことがあります。そして、広島で目的の場所(神社)へ行き、そこで夜中の丑三つ時に神事を行ったのですが、その神事の際には風も吹かず雨も降りませんでした。
不思議だったのは、そこら辺りに杉の枝や木の葉が散らばっていて、ついさっきまで天候が荒れていたはずなのに、僕たちがそこに到着したときには天候がおさまっていたことです。そこで神事が終わってバスに乗って出発すると、激しく雨が降り出してくるようなことがありました。つまり、僕たちの行動は、天の気に通じていたのです。当時はそのようなことは珍しくもなく、当たり前に思っていました。

ある時、僕の生まれの地である岐阜県にある瀧神社に皆で集まりました。そのときにも天候が変わって、「自分たちのやっていることは天候すら自由に変化できる」と有頂天になっていたことがありました。そこからが人間の間違いの始まりです。地上に生きている者の都合で天を想うようになると勘違いが起きて、間違いが始まります。そして、ご利益宗教のようになっていきます。当時、そのことに気付いたのです。

だから、天に、人間目線の都合を求めてはいけないのです。天気は、天の気であり、私たちは天の気をいただく立場なのです。
天の気と人の気が合っていないと、人間にとって都合の悪いことが起きます。しかし、その都合の悪いことすら、いただきものなのです。その都合の悪いことをいただくようになって初めて、天の意志を受け取って人は成長します。つまり、自らの気が勝っていて、人々は天の気を忘れていたのです。
天の気を忘れた人間は、天に心を向けることをせず、横の目線(人気取り)や下の目線(欲気)に心が向いてしまい、正しい人の道を踏み外します。ですから、自らの気を天に向け、天の気と合わせ、努めていくことが大切なのです。

今日この話をして、皆と一緒にカタカムナを奏上した目的は、この世界の構造を知るためです。だから、これから台風が起きるたびに、台風方向がそれるように、勢力が弱まるようにと願って、カタカムナを奏上していくのではありません。今まで人間は天の気の存在を忘れ、生きることを自分たちの都合のいいように変えてきたのです。今回は、僕たちの中で確認をするためにこういったことを行いましたが、これも正しく理解していないと、皆の中に御利益的な心が育っていく可能性があるので、それを訂正するためにこの話をしています。

その行為の結果、台風の勢力が弱まりしぼんでいっても、その意味をわからない人間が台風発生の意味に目覚めることはないでしょう。今の人間たちは地上の人間の理に汚染されて、振り返ることをしないのですから。
そうすると、目覚めのためには、一度全てが壊れてしまうくらいのことが必要なのです。私たちもその世界に共にいるものとして、何を求められているのでしょうか。それは、覚悟です。共に台風という禊を受けて、その禊を受けたことの意味を知る者として、生きていくことです。私たちはその意味を理解している者の覚悟を持って生きる者であります。

今回は、台風を沈めて、天の理があることを理解しましたが、それが理解できたら、それを次にどうつなげるのか、その覚悟はどう持つべきなのかの見本を示すことが大事です。だから、カタカムナの奏上は、災害を受けないためにやっているのではありません。これは、災害(人間の行いの結果受けるわざわいから学ぶ為の現象)を受けるときの覚悟を持つためにやっているのです。

人間はそこを勘違いしやすい。そこに大きな落とし穴があるのです。

天の気に対して、人の気で生きている人は、他人の顔色(人気取り)、つまり横ばかりを観ています。今の民主主義や世の中の仕組みも、天の気が降りていない、人の意向ばかりを反映した世界になっています。だから、矛盾が発生し、やっていることの筋が通らないのです。

だからこそ、天の気を理解し、天と共に生きていく(天と気を通す)ことが、これからの時代にますます求められているのです。