「真釈天技場」という文字が下りてきて~前編

「選挙が終わった。」今朝、開口一番いさどんから出た言葉です。そのあとに、「選挙のことで一つ思い出したことがある」といさどんは続けます。

僕が、30歳のときに、お釈迦様からこの道をいただいて、こういった宇宙の真理、人があるべき生き方を世の中に広める場所をつくろうと思っていた。自分の生まれた土地で、うちの先祖の土地があいていたから、父親にその土地を自分にくれないかと頼んだ。当時、僕は親にとっては大変孝行息子で、物心ついたときからずっと親孝行を考えていたから、親は僕が何をするかわからないけれど、僕がやりたいことに対していいよ、と言ってくれた。毎週日曜日になると、田舎のその土地に行っては、北側の山を削っては南側に足して、石垣を積んで、それを丸い土地にしようとしていた。その目的は、本当に人々があるべき生き方を伝えるための道場をつくるということ。丸い土地ができたら、そのまん中に八角形の建物をつくって、そこでみんなで一緒に宿泊することもできる、合宿所だよね。

そして、その道場にどんな名前をつけたらいいのか、と思っていたら、真釈天技場という文字が下りてきた。真実の生き方を解釈して、その技を表す場所。ただ、その道場はきっかけの場に過ぎず、つまり、「真釈天技場というのはどこの場所を指すのですか」と尋ねると、「それは地球のことである」と。肉体を与えられた人間が、自分たちが地上に降ろされた本当の意味を知り、地上を理想郷にしていく。そして、そういったことから外れてしまって道を歩めないものに対して、真実を伝えて、どう生きたらいいかを伝える場。それが、真釈天技場だと。

僕には、他にもその田舎の場所に対してビジョンがあって、その地域はいずれ、住んでいる人たちが高齢化でいなくなってしまう。そのときに、その土地を全部使って、治外法権のような村づくりをしよう。杉やヒノキだけで埋まっている山を、もっと緑豊かな自然の山に変え、もともと田んぼや畑だった棚田をもう一度開墾して、人々が本当に自然とともに生きていく場。僕らが子供の頃のように、田んぼも小さいけれど棚田になっていて、その一番上から眺めると、春にはれんげがいっぱい咲いて。その段々畑をみんなで、上から駆け下りてくる。それをすごく楽しみにしていた。時々野壺があるから、落ちないように気をつけないといけない。そういったのどかな風景。そして、山がおい茂ってしまって川には光が入らず、自然の山ではないから虫もいなくなってしまい、やまめもいなくなってしまった川の生態系が戻って、山の動物たちも里に下りてこなくてもいいようにして。そういったところで、動物と人間、自然と人間がにこにこ笑って生きている。そういった里づくりをする。そして、その里を自分は眺めて微笑んで、満足しているというイメージがある。そんな場所で生きていく人々の心、それを学ぶ場所が真釈天技場なんだと。

その理想を僕の中でイメージしていたら、自然と人が調和して生きている。そして、そこには今のようなハイテクはないけれど、人々が笑って生きている。それを眺めている僕のところへ、お客さんがやってきた。この国を司る役割を持っている人たちが何人か訪れて、僕に問いかける。

「私たちは、一生懸命この国を豊かな国、本当に人々が幸せになれるように、この国を治めようとやってきましたけれど、これはと思うことをいくらやっても、それがどうにも上手くいかない。本当に国を正しく豊かに治めるにはどうしたらいいのでしょうか、良い案が出ず考えあぐねています。どうしたら、正しくこの国を導くことができるのでしょう」と問いかけてくる。それに対して、僕はこう答える。

「それはね、制度やしくみをつくることではないんですよ。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きている人々を見てください。このような心や考え方、それで人々が暮らせるような国づくりをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。」

そして、僕が40歳になってから、いよいよそれを実現しようということで、両親の住んでいる田舎に行って、農業を勉強し、両親の面倒をみながら、人々にもそういった心を伝えていこうと、自分の生まれた土地に移り住んだ。でもこれは、半年くらいで断念して終わるという結果となった。それは、僕が思っていた親孝行と、両親が考えていた親孝行にちがいがあって、両親は息子が商売でもっとお金を得て、豊かな生活をすること、そういう一般的な価値観をもって、それを自分たちの喜びとしている。僕は、世の中がよくなって、みんなが助け合って暮らせる、そういった幸せな社会づくり、そしてみんなが競争しない、平等な世の中をつくりたい。そのために、その場所として、自分が生まれた土地、先祖の土地を活かしていこうと考えていた。だけど、両親が自分の理想を理解できなくて、悩むことになってしまった。

結果、それまで住んでいた愛知県の小牧へ戻って、そこで考えたのは、富士山麓へ行こう、兼ねてより自分の憧れの地であり、神様から啓示をいただいた地である富士山麓へ行こうと、考えたのでした。ツꀀそういったことをいつか伝えるために、僕は富士山麓に理想郷をつくろうと。そして、その里の名前は「菩薩の里」でした。人々が、自分の願いを叶えていくのではなく、世のため他人のために生きて、世の中がよくなっていくこと。人々が幸せになって生きていくこと。それを見て喜びとする人々。それを菩薩と言う。菩薩は、自らの喜びを喜びとせず、世の中や人の喜びを喜びとするものだ。菩薩の里の建設が自分の目的なんだと。

自分の田舎にそれを夢見て、その土地を開墾して、八角形の建物を建てて、そこで真釈天技場の精神を世の中に広めて、理想郷をつくる。もともと、僕の両親、僕の先祖のそのもとにつくるというビジョンではあったが、すべての親はすべての子の親。すべての先祖はすべての子孫の先祖としたならば、たまたま肉体の縁をもらった自分の両親だからといって、特定の人を大切にするということではなくて、すべての人を大切にするという心につながるためのきっかけをいただいたにすぎない。自分の生まれた家の先祖や、自分をこの世に出してくれた親に執着するためにそれらが与えられたのではない、ということがわかって、もっと広い世界に向けてこの心を伝えようと。真釈天技場というのは地球のことである。だから、特定の場所ではなくて、もともと聖地であるこの星を理想郷にするということが目的であることをのちに教えられて、富士山麓に来ることになった。 ~後編につづく


喜怒哀楽すべてを楽しめてしまう物の見方

ようこ:

今日は、“感情”というテーマです。まずは、感情の波にのみこまれないコツという切り口で始めてみましょう。

ツꀀいさどん:

感情というのは、人間のもっている特徴だよね。喜怒哀楽、それをもっているから人間だと言えるようなもの。その喜怒哀楽があることによって、痛みが発生したり、幸せを感じたり、それできっと成長していくんだと思う。だけれど、人間のように思考がいっぱい働いてものを考える生き物にとっては、喜怒哀楽がなくなってしまったら、無味無臭で何も楽しくない。喜怒哀楽に全部の感情が入っているのだから、喜怒哀楽、それこそが楽しくて人生そのもの。逆に、それがなくなったら、感情の波に翻弄されることがなくなり、楽なんだろうね。それは喜怒哀楽の楽とは違うよね。きっとまだ、自分たちが人間である間には、喜怒哀楽がなくなるということを、考える必要がないってことなんだろうね。

ツꀀそうすると、さっきの質問にある、心の中にある感情の波にのみこまれるということは、心のくせだよね。そのくせを個性として活かすか活かさないかというところにコツがあって、自己コントロールできるものと自己コントロールできなくて勝手に出てくるものの違いによって、コントロールできれば意欲も湧いてくる。でも、くせとして出てくれば、全く自分が意識しないで出てくるものだから、その結果出てくるものが喜びならいざしらず、問題事が発生するようでは、なんでこうなるんだろうということになってしまう。よく、ひとから相談事を受けると、その状態になっている人が多い。多少は、自分のくせをわかっている人もいるけれど、完全にわかっていても繰り返す人もいるし。自分のくせを知り、コントロールして、それを場所に応じて使い分けられるようになると、その人の個性になって味になる、というところにもっていけたらいいよね。

ツꀀようこ:

そうだよね。感情表現豊かともいえるし、感情の波にのみこまれるともいうしね。感情にふりまわされるとか。

ツꀀいさどん:

豊かというのは、感情に強弱をつけて表現するという、劇場で役者が劇を演ずるようなもの。感情に強弱をつけないで、ただとろんとしている人もいるし、相手の言ってることを理解しないでとろんとしている人もいる。それは全くコントロールなしでいる状態だけれど、それが自分の個性となると、「あの人はとうとうと語るよね」ということにもなる。

ツꀀようこ:

感情を押し込める、抑制しようとするタイプもいるよね。

ツꀀいさどん:

それは、過去に自分から発した何かによって、トラウマをもってる人はそうなるんだろうね。トラウマをもっているということは、逆に、こちらから何かを発していた結果、それに対してふさわしい反応が返ってきているということを考えないといけない。大体トラウマをもっている人は、被害者的意識をもっていて、こちらから発したものはほとんどチェックしないで、向こうからきたものだけによってトラウマができていると思っているケースが多いね。100:0はないからね。いつだって、50:50の関係で、自分の発していることを見ることができたとしたら、トラウマというものはすごく少なくなるはず。

ツꀀだから、しっかりとそこでは、自分の感情の流れとか波とかを振り返って、あなたの想い、感情があなたにとって何をもたらしているのか。まわりにとって何をもたらしているのか。さらに、地球にとって何をもたらしているのかを見ること。まあ、地球からトラウマをもらっている人は少ないけどね。地球と感情のやりとりをしている人は少ないから。

ツꀀようこ:

感情のテーマでよくあるのは、人に何かを言われてむっとする。こういうことは条件反射のように出てしまうものだから、これについても、自己観察、自己コントロールで、自分の感情とうまくつきあうということに尽きるのかな?

ツꀀいさどん:

感情が出るということは、自分を学習していることだからね。だから、それが出るということはいいことで、それを押し殺すというのは、学習しないことになる。嘘をついていることにもなる。だから、自分自身をよく理解しない形で、自分を表現している人がいる。そのことによって、結果起きたことに出会って、何でだろう?と思い、相手のせいにしてしまう。それは、自分を振り返る、自分や人をよく観察するということをしてないからだよね

確かなことは、感情が出るということは、自分の中にある思いの種が、全くまわりに関係なく出てくるということはない。自分は相手に対して、相手の感情にふさわしく反応している。さらに、自分が出すものに対して、相手は相手流の反応をしている。そうすると、お互いの感情に対して、お互いの反応である両方のケースを見ている。

ツꀀそれは、自分を見る機会であったり、こうするとこの人はこういう反応をするんだって相手を見る機会だったり、自分を含めた人間ウォッチングだよね。学習の場。それが、対象がたくさんあればあるほど、たくさんの機会を得る。相手が変わることによって、自分から出てくるものが違うわけだから、たくさん機会を持てば、自分の中の要素を多角的に見ることができるともいえる。

ツꀀたくさん人と出会うことによって、自分が対象に対して自分の中のいろいろな部分を出す機会にもなる。さらに、相手に対して学習の場を与えるということもある。だから、人間関係が多かったり、たくさんの人と語り合うということは、自分の内面をいろんな機会で知ることとなり、たくさんの人に自分を使ってお互いを学習し合うという、大切な関係になる。一般の社会で生活していると、そういった機会はなかなかもてない。

ツꀀそう考えてみると、今の木の花の大人会議は、自分の思ったことを、一人ひとりに対して、全体に対して、自分に対して出すことによって、そこから冷静で客観的な判断がいくつもうまれてきて、学ぼうとする人にとっては、非常に有意義な場所である。ある人は、トラウマのようなものをもっていて、自分の中からそれが出てくるのを恐れている人もいるけれど、それを冷静に見ることができれば、トラウマを取り去って、もっと自由になることができる。結果として、自分がもっている問題事の解決という意味では、ものすごくいい治療、修繕の場。さらに、問題事を解決したのちに、今度は魂を向上させるような心の磨きの場所となる。

ツꀀ人間は、ほぼそれが目的で生きている。結局全部、最初の喜怒哀楽という感情表現の中に入っていて、ならば、人間は感情を表現するために生きているのか、というとそうではない。感情表現は、一つの機能のようなもので、そうした機能が働くことによって、人間の中にある感情のもと、魂の形であったり、色であったり、そういったことが刺激を受けて、それによって痛みや喜びが出てきて、人の奥にあるものを見ることになる。そこから、人は自分自身を学ぶことができる。そうすると、人間が生きている目的がそこに隠されているということなんだよね。

ツꀀ今のこの話からとれるのは、喜怒哀楽があって豊かなのか?というと、喜怒哀楽のままに感情のままに流されているということは、この世界の中で勝手に湧いてきた感情によって縛られているということにもなる。自分の中にあるものによって縛られている状態。だけれど、喜怒哀楽も、個性としてコントロールしていくと、悲しみや怒りすら楽しいものであって、コントロールしていない状態の喜怒哀楽と比べたら、非常に楽しいものであり、有益に使いこなすこともできる。

ツꀀようこ:

そうだね、一般的に、怒りや悲しみがだめで、楽しいことや喜ぶことはいいとなっているけれど、コントロールしていない喜びがいいのか?というとそうでもないよね。

ツꀀいさどん:

コントロールしていない喜びは、極端なことをいうと、病気にもつながる。それから、自分にも世の中にも害をもたらすよね。人間の欲望ばかり叶えていくと、この世界は自然のバランスを壊して、環境問題やいろんな問題を引き起こす。やっぱり、コントロールして、自分をしっかり把握することによって、喜怒哀楽、喜びや楽しみはもちろん、悲しみや怒りすら有益なものになるということだよね。これは、コントロールできていない人にとっては、深刻な問題であるから、この物の見方を採用すれば、様々な人のもっている問題に対する大きな解決策ということにもなるね。

ツꀀようこ:

今1歳のゆうとうやひみも、感情を出すことによって心の垢だしをしているのかな?

ツꀀいさどん:

子供は、感情的な自己表現はまだ少なくて、その時そのままの自然な状態の反応をしているだけ。1歳の子供が感情を出しているというよりも、ただ条件反射をしていて、まわりで接するものが自分のくせを見せてもらって学びをいただいているということだよね。木の花の子育ては、みんなで子育てをするから、自分の子供というふうに見ないで客観的に見える条件になっている。でも、場合によっては、自分のくせが強くて、相手から受ける反応を冷静に見れないような人だと、自分の子供を育てているような感じで、育児ノイローゼみたいに気持ちがいらいらすることにもなり、心を学んでいるような人もいる。

ツꀀ小さい子供と接することは、複雑な心をもたない練習をするようなものだよね。それこそ、1歳児や幼児にむきになっている人がいるけれど、それはむきになっている人が幼稚だということ。大人同士だと、幼稚な心は出せないから、ふさわしくちょっと大人っぽく表現してみるので、中にある幼稚が見えにくいんだけど、1歳児や幼児とむきになっているようでは、これは幼稚に決まっているんだから。たまに僕はね、そこでむきになっている人を見て、「同じ土俵にいるね」って言うと、本人はふっと我に返って、自分に呆れかえっている人もいる、まさしく鏡だねっていう。

ツꀀようこ:

何でも自分の鏡として見るならば、感情も神様から与えられた贈り物だなと。何でも自分を磨いて学んでいくための材料としていければ。

ツꀀいさどん:

それはスタンスとしてはそうなんだけれど、“神様から与えられている”というと、人間は、ついつい感情が起きていることすら与えられている。自分の感情に対して、相手からの反応があって、そこに対立や調和の場ができる。それすら、与えられているというと、全部神様が介在してコントロールされていると思うことにもなってしまう。人には自由が与えられ、自らの意志で学んでいくという場として、人生が与えられている。すべてがコントロールされていることになってしまうと、そこには学ぶということや自由もなくなってしまう。

ツꀀところが、喜怒哀楽そのものが害になってしまって、何でも辛いという状態で生きている人もいる。そういう人たちは、神様ありがとうありがとうと言って、願えば神様から何でも与えられるというようなご利益的な発想では、とてもとてもそのしくみを理解し、喜びに変換していくことはできない。

ツꀀそのしくみをより深く理解していけば、素晴らしくて、悲しみも喜びもありがたいものだというところにいくんだろうと思う。そこでは、ありがたいの重みも全く違うということになる。

ツꀀようこ:

そのしくみの中で、どう使うかは任されている、その自由が与えられているということだよね。

ツꀀいさどん:

人間によっては、浅かったり深かったり、いろんな人生がある。だけど、生まれもってのその人の性質を変えることはできないのか、と言ったらそうではない。自分のもっている出発点、今回生まれてきたときにもっている出発点は、過去にもずっとそれをもって旅をしてきていて、旅をするたびに変わってきているんだよね。学べば学ぶほど、人間は変わって、成長し進化することができる。自分の心のくせというものを学んで超えていくと、浅くも深くもものを見ることができるようになる。広い解釈が誰にでもできるようになる。そのためには、自分の枠を広げていくこと。それによって、いくらでもその可能性は広がっていく。

ツꀀ今日は、個人の学び、個々へのアドバイスというアプローチで、どちらかというと、個が自分を内省して、自分の内に向かい学んでいく方法について語りましたが、もうひとつは、外に向かうアプローチで、それは個がこの世界で、どういう役割を果たしているのか、何をもたらしているのかという、個から全体へ、未来に向かうアプローチ。そのどちらのアプローチでも、この感情という切り口で見ることができる。それは、この世界が、感情からくる想念でつくられているということになる。後者の話は、またいつかということで、予告編でした。


障害者でいてくれてありがとう

ようこ

木の花ファミリーメンバーの中には、耳が聞こえづらい、こまねちというメンバーがいます。今日は、いわゆる障害者、障害をもって生まれてくる魂について、いさどんに聞いてみたいと思います。

いさどん

障害があるということは、普通の見方をすると、障害がある方に目がいってしまうのだけれど、障害があることに目的があるのではなく、障害があることの意味に目的がある。いわゆる健常者と呼ばれる人は、五感というものとそれをとりまとめる意識の6つの機能を持って生きている。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、そしてその五感で感じたことを意識が束ねて、いろんな反応をする。それが人間の機能。

それで人間は、すべてのものを理解できるわけではなくて、肉の目、肉の耳、肉の鼻、肉の口、肉の形、それを意識という見えないものが情報をもらって動くのだけれど、それですべてが見えるかというとなかなかそうはいかない。この世界というのは、五感という物理的なものを理解するセンサー、意識という見えないものがコントロールしているわけだから、そうやって考えると、物理的なこの世界の中にいて、物理的なものがあることの意味、それを感じとらないと、この世界で人と人が意識を交わしたり、会話したりすることはできないんだよね。つまり、言葉を聞いているのではなく、心を聞いている。

我々は、形のいろんな出来事に出会うけれど、その形が起きたときに、それは形が起きる結果であって、そこには形の起きる原因があって、その原因をわかることによって、形が起きている意味を受けとることができる。もっというと、形が起きるということは、原因があって形が起きている連続、つまり因果の法則に基づいてこの世界はある。

もうひとつは、その因果という原因と結果の連続の結果、その因果がなぜ起きているのか、という目的と、原因があって結果があった結果、そこには場、その場所の醸し出す雰囲気、その場作りの目的もあって、この世界がある。

ただ、因果というだけの法則によって、この世界ができているのではなくて、因果が続いていくことによって、そこにその場をもたらしてこの世界が動いている目的、がそこにできている。

だから例えば、木の花ファミリーという生活が今ここにあるとする。そうすると、それは原因と結果の羅列だから、こういった生活をするためにみんなが出会った。出会って一緒に暮らしだした。だから、こういうふうな世界ができている。それは、こういった考え方を思った。なぜ思ったかというと、社会にいろんな問題事を感じた。感じたことの結果、それはこういう場所が必要だと思った。だから、こういう行動を取った。因果の羅列だよね。

それに対して、そこで暮らしている人たちが、「これが大事だ」と思ってやっていたとする。そうすると、「これが大事だ、ここは許さないぞ」という心をもっていたときに、そこは結構厳しい場所になった。ところが、こういったものが大事だと思っていても、厳しい場所ではなくて、つまりそこで大切だけれども、大切なんだからこそ、どういう大切か?つまり、そこに目的みたいなものがあって、ほんわかとしたやさしい場所、それが大切だと思っていれば、結果としてほんわかした場所ができる。そうではなくて、「これじゃないとだめ」という心をもっていると、そこは多様性のない非常に厳しい場所になる。

ということは、結果として、因果の結果、そこに目的があって、そしてその目的の結果、そこには因果が続いていても、場が違ってくる、ということがある。そこを考えないと、ただ因果の羅列といっても、いろんな方向に流れていく。その場がどんなものであるかということによって、そこで行われていることの意味がそれでわかることができる。

そうすると、そうやってこの世界を、我々が体のセンサーである五感をもって、意識が束ねて生きている。そして、因果の連続の結果、その人たちがもっている心を表わすという意味で場ができていく。そして、その場の雰囲気を感ずることによって、概ね、そこにいる人たちの目的がわかる。因果だけでは目的はわからない。そういう仕組みになっている。

そうすると、これを今度は、障害がある人に当てはめてみると、障害があるということは、物理的に何か機能的な問題があるとか、遺伝的なもの、後天的に生まれてから起きたもの、それからもっと言えば、魂的にまだ十分に育っていない人、そういういろんな原因があって、結果として、障害をもっているのだけれど、その障害の結果、何を伝えようとしているのか?ということに着目しないと、単に不自由な人、機能が十分でない人という、物の見方しかできなくなってしまう。

障害者と言われる人たちが、単に不自由ということが目的でそこにいるとは思えない。つまり、一般の人たちは十分な能力、機能をもっているのだけれど、それですべてのものが見えているのかというと、実は例えば、目に見えないことによって、目が見える人が見えないものが見えることがある。耳が聞こえないことによって、耳が聞こえる人が聞こえないものを聞くことができる。そういうことがあるということが大切。

それともうひとつ。耳が聞こえる人たちが、聞こえることを当たり前にしている。そのことに対して、聞こえないことの不自由さ、それから聞こえないからこそそれを補うという形での機能や、補って生きていくことの意味、聞こえないことの意味を健常者のために伝えること。十分な人たちが、そういった人と出会うことによって、今自分が与えられていることに対する満足、感謝、そういったことを得る機会にもなる。

それと、今は耳とか目の話になったんだけれど、例えば心の機能が十分に働かない人たち。心の機能が十分働かないということは、一般の人たちのように、あれがしたい、これがしたいと思ったり、また駆け引きができないということ。一般の人たちは、あれがしたい、これがしたいと欲をもつ、企む、駆け引きをする、そういった十分な機能をもつことによって、自分というものを汚すことができる。汚すことができるということは、結果問題事となって自分に返ってくるから、その痛みを知って、改めていかなければいけないんだけれど、こういった障害のある人たちは、駆け引きとか、そういったことができない。だから、きれいな心のままでいる。一般の人たちを人間と見るならば、もっと植物や動物に近い。それも、それは単に遅れているということではなくて、植物や動物はこの世界のしくみのまま、そこに欲や駆け引きの心をもたず、美しく生きている。魂の原点に近い美しい魂。そういうふうに見ることができる。

そこのところに、表面で見える障害に対して、その目的というものがいろんな形で隠されているということを見なくてはいけない。それは、障害があることによって、不自由と見える表面的なことと、不自由さからくるメッセージ、不自由であるがために本来見えないものが見える、聞こえないものが聞こえる、そこに価値があるということ。そうすると、障害者は何のためにいるのか、といったら、僕は障害者のためにいるんじゃなくて、健常者が健常者であることの大切さをまず理解するために、障害者がいるんだと思う。そして、心をもって自由に自分のわがままを表現できるために、人間は汚れているとしたら、そしてなかなか自分の汚れを取り去ることができないとしたならば、そういったものを取り去ったときの本当に純粋な美しさを表現するために、神様がそういった人たちを地球上におろしている、そういうことだと思っています。

そういう障害者の人たちと身近に過ごすことによって、僕らも学んでいく。そして、その障害があるということは個性であり、多様性の世界。いろんなものを認めていく世界。障害がある人も、そのことの意味を自分の中で十分に理解して、健常者のために自分たちはいるんだと誇りをもって共に生きていける。健常者は、自分が十分に与えられていることに気づいて、それに感謝して、不自由な人たちに愛をもってやさしい社会づくりをする。それが本当に来るべき、福祉が一般の中に溶け込んでしまった、福祉という言葉がなくなった社会。

だから、新しい時代は、もう一度人々がつながっていくこと。それは、血縁という家族だけがつながっていくのではなくて、血縁を超えても、人々がこうやって、もっと言えば血縁以上の関係をもって家族として暮らしていけること。そういった意味で、人々がつながって、より豊かな社会をつくっていくこと。だから、福祉施設をつくらなくても、こうやってたくさんの人が暮らし合うことによって、そこに機能がたくさん保たれる。例えば、子育て機能、教育機能、経済システムだとか、福祉機能だとか。エコビレッジ的に新しい生活スタイルをすることによって、いろんなことが同時に解決するヒントがここに隠されているというふうに、僕は考えている。

ようこ

そう考えると、こまねちがファミリーにいることも豊かさの表れだし、あることもないことも、見えることも見えないことも、すべてありがたいなと思っていただいていけばいいってことですね。

いさどん

そうですね。僕はこまねちがいることによって、ここに耳が聞こえない人がいると思ったときに、僕はどちらかというと、言葉がしっかり出る。伝えたい意思をしっかり持ってる。だから、歯切れよく語ることをするんだけれど、自分を十分にもっていない、だから言葉に力がない、歯切れが悪い人たちが語り出したときに、自分が聞こえるからそれでいいというふうに思っているところがある。だけれど、例えば、「言葉が十分出てこないから、それはいけないよ。意識をしっかりもって、しっかり伝えて、キャッチボールすることが大切だよ」ということを言葉を発しているひとに伝えると、人によっては圧力をかけられたような、自分ができてないことを求められているというふうに思ってしまう。でも、「あなたが十分に言葉を話さないことによって、こちらに聞くことができない人がいるんだよ」と間接的にその人の表現を伝えることによって、「そうか、人のために自分はしっかり話さないといけない、それがやさしさなんだ」とその人に伝えるもう一つの方法ができて、二つの方法で伝えることができる。これは、こまねち効果だな、というふうに思って、障害のある人がそこにいることの大切さを感じた。そういうことだよね。

この世界に起きている現象、出来事は、全部意味があって、ただ偶然に起きているのではない。全部つながって、つながりの中で意味があって起きている。そういう意味では、一つ一つの出来事の奥にある意味、そしてそのもっと奥にあるエッセンス、一番もとにある種。種には必ず目的があって、そしてその目的が現象を起こしている背景をつくって、これが現象になって、この世界という場ができている。

だから、障害者ということでもどんなことでもいいけど、ただ表面で物を見るのではなくて、その背景にある原因、それを起こしている原因、そしてそのもとにある目的、原因から結果にいたる目的、それの羅列でこの世界ができているとしたら、一番もとにある心。それがこの宇宙をつくっている神様の心、意思。それを知ると、我々は、表面に見える出来事のずっと奥にある深い意味を知り、この世界に自分たちが生きていることの大切さ、そして生きていることによって果たしていく役割を知ることができ、豊かな人生を送ることができる。

最後に。

障害者でいてくれてありがとう。障害を与えてくれてありがとう。そういうふうに、みんながすべてを神様の愛と受けとめ、感謝しながら生きていけるといいですね。

追記

こまねち

同じように思っていたよ。ここまで体系的に言葉にはなっていなかったけれど。こういうふうになることを願って今まで生きてきた。障害が個性だっていうふうに思ったのは5年前。昔は、障害で思いつめて自殺を考えるほど絶望していた。あるとき、障害は個性だし、障害者こそ神様に近い感覚をもった。

そこで、一昨日の夜のりちゃんに、「耳が聞こえないことを所有してるんじゃないの?」というコメントをいただいた。そのときは、そうなのかなと思ったけれど、今思えば所有していたことに気づいた。所有していないということは、共有しているということ。だから、今ままでは大人会議でみんなの発言が聞こえなくても流していたけれど、今は「聞こえません」と言うことで、自分の障害をみんなと共有している。

自分の耳が聞こえづらいという側面から、みんなにも相手を配慮する心が育つようになったら、それが僕が障害をもって生まれてきた役割を果たしていることになる。それこそ、絶対善なる真円に近づくなって。だからそのように生きていく。


今日は“パートナーシップ”についてインタビュー!

ようこ

今日は、“パートナーシップ”というお題でインタビューします!

いさどん

ちょうど今、そのテーマで話が出るといいねって和子ちゃんと話していたところ。

ようこ

気があったね。でも、このパートナーシップというのは、いわゆる恋人ということだけではなくて、すべてのパートナーシップだな、と思って。

いさどん

そうそう。これは話が広い。大きい。これは単なる恋人との関係から、もっと言えば、一人の人間がいて世の中に関わっているものすべてがパートナーなわけだから、それが近いものと言えば、恋人とか夫婦とか家族となる。そうすると、最終的には、自分が出会う可能な個がパートナーだと思っているんだけれど、実は究極には、お釈迦様の教えである、自分と宇宙、自分と神様のパートナーシップ。ところが、自分と神様を区別するのは自分がいるから区別するのであって、それは宇宙が一つだということになると、パートナーシップって消えるんだよね。だから、ものすごくテーマは大きい。これだけで一冊の本ができるよね。

ようこ

例えば、具体的に、パートナーが自分の思い通りにならないという人に、アドバイスはありますか?

いさどん

パートナーが自分の思い通りにならないということは、思い通りにならないのはパートナーということだけではなくて、つまり、思うようにならないということは、思うようにしたいという心が働いているということ。思うようにしたいということは、相手を無視しているという状態。こちらの思い通りにしようとすれば、相手にとっては無視されている状態だから、必ず抵抗がおこる。だから、この関係はうまくいかない。そして、当然のように思うようにならないことが起きる。これを解決するには、相手を無視して単純に相手を自分の思うようにしたいと思うところに問題があるのだから、相手を無視しないで、相手の意向を配慮しながら、自分の意向を伝えていく。そうすると、相手は自分の思うようになる可能性がある。

ただこの場合、お互いが共通する価値観を持ち合わせていない場合もある。そうなると、そこのところをよく確認して、共通するものに対して、自分の意向を相手に伝える。相手の意向を聞く。その中で練り合わせて調整して、相手を思うようにする。そういうふうにしていけば、良い人間関係が築ける。

ようこ

相手のエゴが強く、相手が自己主張ばかりする場合、相手の意向を聞くときのバランス、コミュニケーションのとり方はどうすればいいのかな?

いさどん

パートナーシップを別の形で例えると、スポーツで言ったら、1対1の競技。相撲とかボクシングとか何でもいいけど競技なんだよね。そうすると、同じ土俵とか同じリングに立っている。その場合、同じ土俵の上で、二人で、これからあるルールをもってお互いの関係性を決定しようとなったときに、そこでは最終的に勝ち負けがあったり、どちらかがイニシアチブをとったりと、そういうことはある。

だけれど、同じ土俵に立っているということは、そのルールでやっていきましょうという約束事のもとにやっているわけだから、相手が一方的にルール違反したとか、わがままを言ったということにはならない。そのルール違反もわがままも、その土俵に立っているからこそ、それもルールの中に入っているわけだから、つまり、相手が私のほうを向かないで他を向いているということがあるとしたら、それはこちらのほうが相手を他に向かせるようなルール違反を先にするから。あなたはこっちを向いていないよ、というふうに何かの形で言っているのに、実は言っている側が自分がそうさせていることに気づいていない。だから、自分が引き起こした種、きっかけを全く無視して、相手にだけルール違反をしていると言っているんだけれど、この土俵では必ず、相手と自分しか当初はいなかったはず。そのときに、自分が相手の方に向きあわないで、別のほうへ向いてしまっていたということを全く検証していない。そういう意識をもっていないものだから、相手が一方的に向こうを向いてしまったというふうに考えているのだけれど、必ずこれはお互いの関係の中でどちらかからこういう投げかけがあって、そのことに対してそれに呼応するような行動があったからこそ、すれ違いが起こっている。

そこを全く見ないで、相手だけを問題と言っているのは見当違いで、相手をもう一回こちらに向かせようとしたら、向かせようとする側が、先に種をまいたことをしっかり振り返ること。相手に対する自分の心の動きや行動をずっと正確に分析していったら、その履歴の中に必ずここからだ、ここで見過ごしていた、というのがあるはず。そこを全く見ないで、ただ表面だけを見て、私の思惑と違うと言ったら、あなたの責任はどこにあるのか?

この場合の関係はいつも50:50であり、それがパートナーシップというもの。だから、一方的に一方のためのパートナーシップというものはない。お互いに、そこではちゃんと自分が相手にしたこと、それがふさわしく自分に返ってくる。お互いにそういう関係性の中で成り立っているということ。だから、一方的に相手がわがままでこうなったと見ている人は、自分の姿勢こそ改めていかなければいけない。

ようこ

もともと学びのために修行のために、パートナーシップは与えられているけれども、でも、それだけでもないのかな?

いさどん

修行という意味で学んでいくことは、それは個人としてのスタンス。ところが、全体としてこの生命の世界を表現するという意味では、宇宙生態系の中で生命としての自分の役割を果たしながら、同時に個人の学びや修行をしていく。そのふたつのスタンスがある。でもそのふたつは、最終的には、宇宙生態系の表現という形でひとつである。

ようこ

あと、パートナーシップのお題でよく出てくるのが、「パートナーが欲しいのですが、どうすればいいですか?」という質問。そういう人に対して、何かコメントはありますか?

いさどん

パートナーが欲しいということは、パートナーがいないと思っているということ。さっきも言ったように、究極には自分と宇宙というパートナーシップもあるように、いろんなパートナーシップがあるのだけれど、ここではわかりやすいから恋人同士のパートナーシップとする。そのパートナーシップの結果もたらされるものは、恋愛、愛というもの。

愛には非常に幅があって、高い愛と低い愛がある。まず、一番最初に現れてくる愛は、自分がかわいい、自分を大切にしたいという、自分に対する愛。これは実は万物がもっていて、鉱物でも植物でも動物に至るまでもっている生命の愛。生命が自分を保っていこうとする愛。鉱物すら意図的に意思が働いて、鉱物であり続けようとする。植物が虫に食べられないように自分を守る。動物が危険から逃げていく、又攻撃するのも自己愛。これが一番原始的な、最初の愛。

次に、もうちょっと高度なのが、種を保護しようという愛。植物で言うなら、おしべとめしべがくっついて、自己受粉するものもあれば、他の花粉をもってこないとだめというものもある。そこで、虫や風の力を利用しているものもあり、すべて自然の生態系の中でもらっているもの。動物も本能というものをもらって、あるとき発情し、交尾をして、そして子孫を残していく。そうして、自分がなくなっても、自分の情報が、種があり続ける。

ここで面白いのは、人間はあるときパートナーシップを求めること。そして、それは自分の意志だと思っている。ところが、自然界の植物や動物の世界では、それが季節とか生命としての積み重ね、熟し度によって、それまで全く興味がなかったオスがメスを、メスがオスを求める。そこに、愛情という感情、情があるのが人間であって、情がないのが植物や動物である。そうすると、その情というものが複雑になって、植物はただ自然のままに、動物はただ本能のままに、そして人間は情のままに表現するということが、ある意味では進化である。ある意味では、生命の表現の仕方の体系、順番の違いのようなものである。

さて、そこで愛というもの、つまりパートナーシップというのは、そこに必然性、必要というものが見いだせる。なぜなら、自己愛、自分を存続させたい、そこから始まっている愛の変化を見てきて、ここまで歩んできたのだから。

愛というものは、本来、人を愛するときに発生するもの。でも、恋愛ははたして愛するためにあるのだろうか?実はその背景にもうひとつの愛があって、それは愛されたいという、つまりギブ&テイクの愛。恋愛の愛は、自分が相手を気に入った、愛する、その時点で愛は成立していない。だから、何が働くかというと、相手が自分を愛するように働きかける。そして、自分の思うように愛されないと、自分の相手に対する愛が攻撃に向かうとか、不愉快に思うということに変化する。これが条件付きの愛。これが恋愛。

ところが、愛というのはそういう条件付きの愛ではなくて、どういうものかというと、例えばカップルが見事に結婚して、子供が生まれた。そうすると、恋愛の関係では、自分が相手に愛を向けて、相手がそれを返してこないといけないギブ&テイクの愛。これは何かというと、相手がまだ自分ではない状態。ところが、結婚して夫婦として月日が過ぎると、身内という関係になり、相手の利害と自分の利害が一緒になってくる。そうすると、利害に関係なく、相手のために行動する。

「相手は自分の思うようにならないけど、まあ、夫婦だから。これをやってあげましょう」と。もっというと、相手も自分も一緒なんだから、「もう何でもしてあげよう」と。でも、この夫婦というのは、離婚すると他人になってしまう。

ところが、子供ができ、完全に身の内になると、自分を思うように相手を愛する。極端なことを言えば、溺れている子供がいれば、自分を犠牲にして救おうとする。それは、無条件の愛。本来、親が子供を思う心は無条件の愛で、自分のいのちと同じように相手のいのちを大切にするということ。相手が本当に自分自身となった状態。自然界の植物たち、動物たちは、それに近いものをもっている。それは、この世界をつくった神様が、自分を分けて、自分を変化させて、この世界をつくったから。だから、神様は、自分自身としてこの仕組みをみんなに与えているから、神様の愛は無条件の愛。

ところが、人間はそこから分かれてきて、自分が特定というところで愛そうとするから、条件付きの愛。人間が、相手を自分の思い通りにしようとする愛は、確かに愛ではあるんだけれど、どちらかというと自分に近い愛。それが、家族をもらって、いのちがひとつなんだよ、自分から生まれているんだよ、という愛、つまり、神様の愛を知る。

すべての親は神様だから、すべては神様の子供。我々はみんな兄弟である。その仕組みを本当に知ったときに、我々は、子供を通じて神様の愛を、親である神様の心を学ぶ。

ようこ

この世界が、すべて神様の愛でできていると真に体感できたならば、パートナーが欲しいとか、誰かを自分の思い通りにしたい、と思う心は瞬時に消えてしまいますね。いさどん、ありがとうございました。


引き分けが一番楽しい~空気の色の見方

今日は、ファミリーメンバーのようこが、日頃思っている疑問をいさどんに質問します。

ようこ:

自分で悪い空気を出しているのに、それに気づかない人を見るたびに思うことがあります。自分が醸し出す空気に色がついていたらいいのに。例えば、怒りは赤色。自分なんかだめなんだと思う人は灰色というふうに。なんで、人は自分の出している空気に気づかないのでしょう?いさどん、教えて下さい!

いさどん

ちょうど自分も同じようなことを考えていたんだよ。

悪い空気というのがどんな感情かというと、例えば怒り、悪意、不調和、孤独。それに対して反対の空気は、愛、調和、善意。そういう相反する心があるとすると、ある感情を出している人を見て、物理的な色は見られないんだけれど、その感情に対して色をあてはめてみることはできるよね。

だから、ようこちゃんの言っている、怒りは赤、自分に自信がなくて落ち込んでいる人は灰色っていうのは正解だと思うし、おおむね誰でも感情に対して色をつけることができると思う。便利がいいから、例えば怒ってるときには顔が赤色になっていくとか、それこそ、だんだん気持ちが滅入っていったときには顔が灰色になってくれば、人はその人の心の中を見なくても、色で判断すればいいよね。

でも、残念ながら、人間は肉体をもっているので、自分の肉体的外観と心の中を、別々にすることができるような機能をもっている。だから、顔で笑って心で泣いてとか、顔で笑ってるけど心の中で怒ってるということができるのが人間の特長で、これは人間以外の生き物にはないもの。これは、ある意味、人間が優れているとも言えるし、人間がそれだけ複雑で巧みなもの。もっと言えば、悪だくみと言われるように、一歩、能力の使い方を変えれば、悪いことにも使うことができる。

ただ、何でこんな機能が人間についているのかということを考えると、我々は肉体をもらって、その肉体が魂の中に封印されている。これを、肉体と魂がセットになって生きている、という見方もできるけれど、もっと言えば、魂がわざわざ肉体に封印されてこの世界におろされている。そして、人間は、自分の感情や他人の感情を色や形で見せることなく、自分の感情を出し、又他人の感情を受けながら、その中で自分の心を悟り、そして自分の心の問題事に出会うことによって、それを痛みとして感じ改めていく、それが生きてる人の姿。そういうふうに言えるかなって思います。

それで、最初の質問に戻ると、人は、自分の出している空気に気づかないんじゃなくて、その人流に気づいている、その人流の気づきの歩みがあって、その人の歩みにふさわしく気づいている。人はそれぞれ自分の学びのスピードだとか学び方があって、だから1回でわかる人もいれば、100回聞かないとわからない人もいて、ひょっとすると、ある部分のことについてはある人にとって生涯わからないかもしれない。でもそれは、生まれ変わって次の人生のプランとしてやり直す、そういう人もいるわけだから、気づかない人ってのはいないと思う。

だから、「なんで気づかないのでしょう」ってのは、気づいている人から見た解釈であって、まわりに対して問題ある空気を出してる人は、確実にまわりからその空気を出している反応をもらって、さらにまわりからの反応に対して自分も反応している。だから、我々は人間関係をもらっているし、誰一人として同じ人間関係をもらっていない。そして、一人ひとりに対して違う感情を表現している。僕は色も感じるし、それからその人のまわりから出てくるオーラのようなもの、その人の過去に持ってるトラウマから発生するものなんかで、人の感情を感じることがある。

ようこ

そうすると、私が人を見て、あの人悪い空気を出してるな、なんで気づかないのかな、と思うのも私の枠っていうことだよね。

いさどん

それは枠ですね。悪い空気を出してるっていうことは、悪いというのがさっきの不調和、対立、怒りということだとしたら、その感情がその人の中にあるわけだから、もし仮に『調和が大切、怒ることはだめ』という場所があるとしたら、そういった感情があるにもかかわらず、その人に自分の感情を出さないでおこうという心がはたらく。

本来、人は自分の中にあるものを表現することによって、気づくことができる。また、自分が気づかなくても、まわりの人がそのことを受けて、その人に伝えてあげられる。そういった場所があることによって、その人はそういう心が自分にあることに気づくというチャンスをもらえる。気づいて改めるということにつなげられる。

また、非常に悪いこと、ずるいことを行い、自分の中の悪い感情を表現している人がいるとする。何を自分から発していることに気づかないでいる人に対して、その人が気づくために、自分の中に怒りの感情がなくても、敢えて怒りの感情をもって伝えてあげる。お釈迦様もイエスさまでも、そういったことがあったって僕は思っているし、悪意に対して怒りをもって伝えたという記述を読んだこともある。悪意に対して怒りをもって伝えることによって、相手がその怒りを受けて、自分が発しているものに気づく。

そういうことができるという意味では、いい感情、悪い感情と区別するのではなく、そういったいろいろな感情を表現することによって、自分の中に何があるのか気づくことができ、そのために感情があるんだって理解すれば、いろんな感情をどういう目的に使うのか?使う目的によって、有効にもなり悪いものにもなる。

例えば、ほんわかした心がいいのかというと、ある人がとても行き詰って孤独な状態でいるときには、ふんわかしたあったかい感情はとても有効だけれども、わがままで自分勝手なことばかり考え、その人がどうにもそこから抜けられないときに、『それでいいんだよ、それでいいんだよ』と言うことがいいわけではなく、厳しいことをその人の気づきのために、伝えてあげることも大事。

それから、世の中にある戦争や対立も、それが悪いのかというと、悪いことがそこに起きているのではなく、人の心の中にそれを引き起こす感情があるから現れてくるのであって、対立や問題事から、それを喜びとするにはどうしたらいいのか、という学びを得ることもできる。そうすると、いろんな感情をもって生きていること、またいろんな人たちから感情を受けることは、そこから学ぼうとするならば、なんでもいいことだということにつながるのかなって思います。

ようこ

なんだって、まわりを想ったり、人を想うことの練習の材料になりますね。

いさどん

そう。だから、すべての出来事を有効に、善意に使うこと。最終的には、愛を表現し、伝えていけば、この世界は調和でつながり、そういった心がいつも働いている世界だってことに気づくことだと思います。

ようこ

最近、子供会議でも大人会議でも、一人ひとりがその場を担っている自覚を持とうということが言われているけれど、そういったことがなかなか持続できない人もいる。やっぱり人から言われて、反省ぐせがついている人に対して、その人がその心を持続できるようなアドバイスはありますか?

いさどん

個々のアドバイスっていうのは、あんまりないんだよね。それは、一人ひとりが自分の中でオリジナルに湧いてきた気づきによって気づいていくというのが原則だから。

個々のアドバイスはないんだけれども、大切なのは、我々が単独で生きていないということ。集団で生活をしながら、人生を学びの旅にしている。とするならば、木の花のように敢えて意図的に集団で暮らしていなくても、この世界に人として生きてるってことは、みんな集団生活をしているということ。大きく言えば、地球という村に、いろんな役割の人が、人類という集団生活をしている。

個々にも役割があって、目的がある。全体にも役割があって、目的があるとしたならば、我々は、自分がどういう心をしているか、そしてそれがいいものか悪いものか。自分にとって全体にとって何をもたらしているか。悪いものは悪いもののように役割を果たしているんだけれど、悪いものは痛みを与える。それは、善意であり愛であり調和であるこの世界では、悪意は改めるような仕組みになっていて、善意、愛、調和に反することは、ちゃんと痛みを感じられるようになっている。そして、それを改めることが喜びとなるようにできている。そこのところに気づくということだと思うんだよね。

みんなで心を通じ合わせながら、お互いを鏡として伝えあい、気づいて改めることによって、善意、愛、調和を表現していくこと。それがこの世界の目的なのだと思います。だから、一人ひとりに調和的に幸せな毎日を送ろうという意思と、まわりの人たちも、そのことを求めている人には一生懸命いろいろな表現の仕方をもって手助けをしてあげる。それは、問題事すら調和の材料となるということで、いいことだと思う。

ようこ

そういうふうに皆で助け合って暮らしていけるならば、空気に色がないことはいいことだよね。何でも自己完結せずにできるっていう醍醐味を味わえるよね。

いさどん

そう。空気に色がついていたら、形を見てわかってしまったら、人間は心を感じとるということ、心を伝えることができなくなってしまう。

我々は肉体をもっているか?本質は見えない心によって生きてますから、敢えて物理的な色を見ることができなくなっている。でも、物理的な肉体を卒業して魂の世界になると、実はすべて丸見えの世界。だから、もともと物理的な世界が我々の本当に存在する場所なのか。魂の世界、つまり死をもって肉体、物理的なものを全部生態系の中に返して旅立ったとき、そちらのほうが我々にとって本当の存在の場所。

宇宙のオアシスのような地球を建設するために、地球に心を表現した物理的な世界の理想郷を築くために、それは善意であり愛であり調和を表現するために、我々は地球上におろされて、あちらとこちらで役割の場を行ったり来たりしている。そういった意味でこの世界に死はない。愛に対して、我々はわざわざ遠い孤独というところに置かれて、その愛の方に向っていくことによって、喜びを表現しながら、この世界の目的を悟って、役割を果たし、神様に還っていく。

そういう仕組みの中にいるのならば、ある意味で、問題事は問題事だけを見るとつらいことのように見えるけれど、違う見方をすればこれはゲームだと。ゲームだからそんなにむきにならなくていいのよ。悪いことだ!辛い!となる必要もなくて、今提示されていることをどういうふうに受け取るのか、自分を試されている。

僕は、いつも神様とのゲームをしているんだけれど、うっとすることがあると、そこでうっとして怒るとか悩みそうになってしまったときに、待て待て、この世界はすべて神様が起こされているとしたら、そのもとは善意であり愛であり調和であるのだから、自分がぐちを言ったり悩むを表しているとしたら、それは自分の思いが湧いてきているのであって、それはあんまり自分にとって愉快じゃない。じゃあ、それを善意であり愛であり調和のほうにどうやって自分が解釈したらいいいんだろうって思った時に、『神様、待って下さい。私の中から怒りを出そうとして、そういうふうにされているあなたの働きかけを、あなたの配慮、善意だと解釈します』と神様に投げかけると、神様は、『おお、また引き分けになったのう』と返ってくる。そうすると、僕も怒りの感情を笑いに変えることができる。

それに対して、怒ったり悩んで落ち込んでしまうと、『このゲームは私の勝ちだな』と神様の勝ちとなる。いつもこのゲームは神様に負けがない。自分が負けることはある。そして、負けないように、神様の善意を受け取ることで引き分けになる。神様の勝ちか引き分け。自分には引き分けか負け。それしかない。なぜかというと、この世界は、神様が神様の自分という世界の中で、自作自演している世界だから。神様に負けはないんだってことになる。それで僕は愉快と思って生きていくことができるということですね。

ようこ

いいね、引き分けっていうのが一番楽しいというのが。皆仲良く楽しそうでいいね。

いさどん

そう。勝ち負けじゃなくて、だから神様に負けているうちはだめで。いつも引き分けってのは、ゲームだから。ゲームはもう一回やり直すこともできるんだから、もう一回チャラにしてやり直そうよ。損も得もないのよ。そういうふうに人生を生きられたら、もっと楽に、もっと有効なものとして使えるよね。

ようこ

疑問もすっきり解決して、いさどん、ありがとうございました!

いさどん

人生はゲームである。だから、どんなことも楽しく愉快に生きていられるってことですね。