時代の変化とともに真理すら変わっていく世界

今年の7月16日から18日に開催された「第10回大人サミット」では、宇宙的そして歴史的に観ると、この世界がどのように観えるのかについて語られました。その中でも、以下のいさどんによる分析は、参加者の皆さんにとって目からウロコの視点でした。

■    ■    ■

 
ガンジーは非暴力による運動を唱えてきました。しかし、ガンジーは非暴力という暴力を使っていたことを皆さんは知っていましたか?ガンジーは拳を振りかざしませんでしたし、銃で撃つことはしませんでしたが、拳を上げ銃を使う人たちに暴力を使わずに対抗したのです。つまり、そこで対立の対象となったのです。ですからその後、「ガンジーは勝利した」と言われたのです。つまり、暴力の世界には勝ち負けという勝利があるのです。もし、本当の非暴力であるならば、そこに勝利はないでしょう。そうした真実が今、明らかになってきたのです。ガンジーも微妙な世界の中にがんじがらめになっていたのです(チーン♪)。それは、闇の時代へ向かっていく中の正義だったのです。ですから、闇のピークを超えると、その正義の質が問われるようになるのです。平和活動家が「戦争反対!」と言って新たな対立を生み出しているように、非暴力主義者は「非暴力で戦おう!」と言って対立関係の対象となるのです。それは戦いのひとつなのです。

一昨年、2014年の11月に僕はインドへ行き、デリーのガンジー記念館を訪れました。ガンジーの魂は僕にこう語りました。「新しい時代が始まりましたので、皆さんにつなげていただきたいと思います。よろしくお願いします。」彼はわかっていたのです。彼の時代はそういった時代だったので、彼は非暴力という旗印のもとに戦っていたのです。

その昔、ジャンヌダルクという人がいましたね。彼女はまさに戦士です。彼女は英雄とされてきましたが、彼女が英雄ではいけないのです。日本にauという会社はありますが(みんな、笑)、それでえーゆーとか言って(チーン♪)

それとは逆に、ヒトラーが上行菩薩であるという捉え方もこの世界にはあるのです。ヒトラーという魂が地上に降りる前、天の神様はたくさんの優れた魂たちに、「この役割は地上では人々のうけは悪いが、大切な役割であるゆえ、誰かそれを引き受けてくれる者はおらんのか?」と尋ねました。しかし、地上で悪人とされる役割を引き受けようとする者はなかなかいなかったのです。そのときに、勇気ある魂が「それではわたしがその役割を引き受けましょう」と言って、地上に降りてきました。そして見事、その難しい役割を成し遂げたのです。役割を終え、天に還っていったとき、天にいる魂たちからは「難しい役割だったが、おまえはよくやった」と褒め称えられ、その魂は上行菩薩として悟りに至りました。わたしたちの中には、ヒトラーという存在は悪の権化としての認識が定着していますが、あのような出来事を起こす人間がいることによって、人々は自らの行いを戒めることができるのです。

もしも、そういった悪人の人生を生きる者たちがわざわざそれを役割として生まれてきているとしたならば、善人と言われる人々はそういった悪人の役割をする人々に支えられて、善人の立場にいることになります。ですから、この世界には善も悪もなく、ただ人間の可能性の枠の中の役割があるだけなのです。そういったことを自らの感情や特定した視点から判断するのではなく、広い世界観のもとにすべてのことを情報として判断し理解した上で、活かしていくことが大切なのです。

このように、悪の中に善があり、善の中に悪があるのです。すべては宇宙の成り立ちであり、神様の意志なのです。2012年12月21日に闇のピークを超えた今、これまでの価値観が逆転するトキを迎えました。今までは聖域があり、聖なる存在であるキリストやお釈迦様について触れてはいけない、ガンジーの正義について触れてはいけない、ヒトラーは悪人だ、とすべて善悪を決めていた時代だったのです。ところが宇宙の法に沿って観てみれば、善があり、悪があり、正しさがあり、間違いがある――、それはどれも解釈によって正しいのです。そういったことがすべて明快に観える時代が訪れたのです。

本来、地球も宇宙の中にありますから、カタカムナ宇宙理論で解釈すると、現象化されたものはいずれ潜象界へ還ります。そうすると、すべてリセットされます。そして、響きという宇宙創造の原料に戻り、また現象界に現れてくるのです。それは時代に応じた現象の元となって現れてきます。わたしたちはここで今、何が正しくて、何が間違っているのかを議論しているのではありません。ましてや、わたしたちは正しい側にいましょうという話をしているのでもないのです。そういったことを言えば、政治家や哲学者、宗教家の世界になってしまいます。

大切なことは、どこにも属さず、ただ情報として現象を観るだけの位置に自分が立てるかどうかです。それは、自らから閃きが湧くということです。それは真我が目覚めている状態です。そこに宇宙(天)の法が降りてくるのです。それは直観です。それが五感の次にあるわたしたちの秘められた能力です。

 

 


わたしたちは何者であるのか

昨年2015年8月15日、宇宙から全人類に向けて「地球談話」というメッセージが贈られました。それから約1年が経った7月16日、第10回大人サミットの中で、この「地球談話」は参加者の皆さんにシェアされました。「地球談話」を受けて、いさどんからは次のメッセージが語られました。

■    ■    ■

 
「地球談話」を読み解いていくと、問題事はすべて解決されます。しかし、そのためには絶対に必要なことがあります。それはまず、わたしたちが何者であるかを知ることです。地球上には280万種の生命が存在しています。そして、その一つ一つを数えたら無限にあります。その中で、わたしたち人間は、地球上で最も優れた、そして最も影響力のある生命です。

人類は今、宇宙空間に出て生命の痕跡を探しています。そこで得られる生命の存在は、痕跡です。しかし、わたしたちは地球上でいとも簡単に生命に接することができます。つまり、わたしたちは生命の海の中にいるようものなのです。

その中でどれひとつ、無駄な生命はありません。わたしたち人間を含めた生命はすべて、生命ネットワークで連動し、地球という生命を共に形成しているのです。そこでは極めて複雑かつ精妙な関係によって、この生命ネットワークが運営されています。

もし、わたしたちが実際の宇宙の姿を観ることができたとしたら、それがどれほど広大かつ複雑で精妙なのかに驚くことでしょう。それは、わたしたちが地球上で形成している生命ネットワークと同じように複雑なのです。その中に、わたしたち一人ひとりが存在しています。

さらに、わたしたち一人ひとりの中に60兆の細胞が存在しています。その細胞一つ一つには、体全体を形成する情報がすべてインプットされているのです。人類はその構造を解明したがために、クローンという技術にまで到達しました。しかしそれは、単に物理的な貢献を人類にもたらすためではありません。それは、わたしたち一人ひとりがひとつの小宇宙であることを示しているのです。そして、わたしたち一つ一つの小宇宙は、さらに他の小宇宙とネットワークし、地球という宇宙を創っているのです。

皆さん、そのようなことを意識しながら日々を生きていますか?
そのようなことを大切にしながら、毎日を生きている人はいますか?

皆さんが意識する意識しないにかかわらず、わたしたちはそうした仕組みの中に生きているのです。

わたしたちは呼吸します。それは、わたしたちの体と空気の循環です。地球上に大気はひとつしかありません。わたしたちは食べ物を食べます。植物は大地から芽生えてきます。その大地はひとつです。大地は大きな地と書きます。それは大地球のことです。大地に生命が芽生えるということは、太陽の光が大地に当たり熱を与え、生命の種が芽生え育ちます。その過程の中で、植物は光合成という自らの体と空気を循環させる作業をします。これは太陽の力です。ですから、ある意味わたしたちは光だと言えます。それはわたしたちと太陽がひとつだということです。そして、わたしたちは生命として体の中に70%の水分を持っています。わたしたちに水分を与えてくれるのは雨です。雨は川をつくり、田畑を潤し、海に流れます。この仕組みを司っているのも、太陽です。ですから、わたしたちは太陽です。

わたしたちが生きていると、いろいろな出来事に出会います。これを人生の風と言います。人生の風と同じように、わたしたちは地球上で風を受けます。風は生命にとってどのような役割をするのでしょうか。わたしたち生命は、必ず終わりを迎えます。ですから、次の世代につなげていくために、花を咲かせ、実を結びます。実は、情報を次の世代に伝えるためのDNAです。しっかりと充実した実は体に負荷をかけます。そこで、生命は芽が出てすぐのときから風を受けることによって、自分の体を支える以上の体力を身につけていくのです。ですから、風は不要なもののように見えて、とても重要なものです。それが、わたしたちがたくましく育ち、次の世代にいのちをつなぐ種を残していくための力となるのです。地球上に吹く風は、わたしたちの人生に吹く風と同じです。そして、この風は太陽がもたらしています。ですから、わたしたちの人生は太陽と共にあるのです。

そして、この空間―― 今、わたしたちは日本の富士山麓にいます。地球は自転し公転しています。公転速度は秒速30kmです。皆さんはその風を感じますか?地球上にそれほど速い乗り物はありませんね。この場所は、地球上的には昨日も今日もここにありました。昨日から一日が経ちました。今日、この場所はここにありますね。それは、わたしたちが同じ乗り物に乗って旅をしているからです。実際にはこの乗り物は一日で約260万km移動します。ですから、宇宙的には常に未知の世界に移動しているのです。

わたしたちが地と呼ぶところはどこにありますか?そして、天はどこにありますか?今、わたしたちは日本にいます。天を上にすると、地は下になります。もうじき、リオデジャネイロでオリンピックがありますね。そうすると、ブラジルの人たちの天はどこにありますか?ブラジルの人たちの地はどこにありますか?日本で言う天がブラジルの人たちの言う地になって、ブラジルの人たちの言う天は日本の人たちが言う地になりませんか?

地というのは、地球の中心の方向のことです。そして天は、点でもあるのです。カタカムナ的に言えば同じ音ですから、同じ意味になるのです。天は宇宙のことであり、それは点の集合体です。今、ここにひとつの点があるとします。この点は秒速30kmで移動しています。そうすると、地球の直径は約12000kmですから、地球の端から端まで6分40秒で移動します。今こうやってわたしたちが話している間に、この点は地球何個分も移動してしまうのです。

ひとつの太陽のもとに、ひとつの大地のもとに、ひとつの水のもとに、ひとつの空気(空間)のもとに、ひとつの風のもとに、わたしたちは地水火風空という5原則のもとに生きているのです。そして、ひとつの乗り物(地球)に乗り、旅(宇宙旅行)をしています。その中で太陽の光が基軸となり、わたしたち生命は調和し、共存しています。

わたしたちのすべてのもとは、ひとつです。そこに立ち返って、わたしたち一人ひとりを捉えれば、地球上に平和は自ずと訪れます。

先日、イギリスのEU離脱の国民投票が行われ、日本では参議院選挙が行われました。今、人々の多くは、ひとつの枠の中で争い、自らが共鳴するところを正しいとしています。これが自我であり、エゴです。その構造から外れている人はほとんどいません。そして、自らが正しいと思う心が、この世界を創っているのです。

わたしたち人間には、他の生命とは違う能力があります。それは自分というものを特定することができる能力です。そして、自らの尺度から世界を図ることができるのです。それはすばらしい能力ですが、そのときに重要なことは、自らの尺度の位置はひとつであるということです。そして、この世界には無限の尺度があるということです。この世界はその尺度のネットワークなのです。しかし、自らの尺度だけが正しいとしたときに、すべての問題事の発生源になるのです。

今の世の中を見てください。争いという現象の背後にはどちらの側にも正しさがあります。それは正しさと正しさの争いなのです。ある意味、正しさは優れていることを表します。その優れているものたちが創っているのが、今のこの争いの世界なのです。

時代は21世紀に入り、これから3000年に向かってわたしたちはどこへ進んでいけばいいのでしょうか。自らの尺度をもってこの世界を観ることは、わたしたち人間に与えられた能力ですから、誰ひとりこの仕組みから外れることはできません。しかし、自分自身の尺度は、数ある尺度の中のたったひとつなのです。そこで、自らの尺度を超えてこの世界を観ることができるかどうかが今、わたしたち一人ひとりに問われています。

「悟り」とは、「差を取る」ことです。その反対は、「差がある」ということです。差があるということは、自分と他の存在が違うということです。そこで差を取るためには、互いの共通点を見出せばいいのです。それは、わたしたちは皆人間であり、生命であり、ひとつの太陽・大地・水・空気・風のもとに地球というひとつの生命を形成しているということです。

そのときに、自分自身は個性として存在します。自分という存在が大きな器の中のひとつであることに気付いたら、わたしたちは他のすべての存在と共にこの世界を創っていることが観えてきます。

そのときに、地球上に平和は自ずと訪れます。平和は創るものではありません。求めようとするものでもありません。わたしたちは何者であるのか。そしてわたしたちは何を観ているのか。その実体がわかれば、この世界の問題事はすべて解決されます。そのときに、この世界はたちどころに平和な世界です。それは、わたしたちが生命であることを思い出せばよいのです。

わたしたちは生命であり、地球人であり、宇宙の中に存在します。そして、永遠と紡がれてきたいのちのネットワークの中で今、ここにたどり着いているのです。わたしたちにはすでにすべての情報が内在しているのですから、わたしたちの中にある物理的・霊的なDNAを呼び覚ませば、わたしたちが何者であるかをたちどころに思い出すことができるのです。新しい知識は自分の中に取り入れるときに拒絶反応が起きることもあります。しかしこれは、皆さんの中にある眠っていたもの、もしくは忘れていたものを思い出すだけです。ですから、これを「目覚める」というのです。これに拒絶反応はまったく発生しません。それは、本当の自分(真我)に還るということです。

 

 


「血液」からこの世界を探求していく~献血・輸血編~

タイから木の花ファミリーの暮らしのあり方を学びに来ている高校生のマインちゃんとナッちゃんに対して、身近な「食」を切り口として世界観を広げるプレゼンテーションが行われてきました。その最終回のプレゼンテーションが終わったところで、マインちゃんから献血について、いさどんに質問がありました。

 

マインちゃん:
日本では献血をしますか?

いさどん:
本来、一人ひとりの魂は独立したものです。ですから、一人ひとりの生命の性質を示す血液も、霊的には独立した存在です。つまり、親子兄弟といった血縁は関係なく、血液は独立したものと言えるのです。

たとえば体の臓器を移植することは可能ですが、マインちゃんの心とナッちゃんの心を混ぜることはできないでしょう?ですから、心臓という心の臓器は血液を通して栄養を運んでいるだけではなく、心も運び、わたしたちの体をひとつのネットワークとして束ねているのです。血液は、心の通り道ですからね。それは、太陽系の太陽磁場が星々を連携させ、束ねているのと同じ構造です。ですから本来、血液は交ぜてはいけないものなのです。

今は日本でも医療が進み、輸血をするようになりましたが、そういった行為は霊的には混乱をもたらすものです。ただ、近代的な技術を使って輸血をしても、血液もいずれ循環して変わっていくでしょう?たとえば血液がすべて入れ替わるのに4ヶ月かかると言われていますが、その間は霊的には混乱が生じるということです。ですから、血液はなるべく交ぜないほうがいいのです。

マインちゃん:
では、輸血をしないほうがいいということですか?

いさどん:
輸血をするということは、すでに輸血をしなければいけない状態に自分が人生の中で出会ったということです。そのような状態に出会わない人生を生きていくことが、大切なのです。そのために、美しい心で生きることのほうが大切ですね。

人は「死にたくない」という心があると、生きるために何でもしたくなるものです。しかし、覚悟があると、「いのちはいただいたものですから、わたしは充実した人生を生き、いつでもお返しできます」という心になり、輸血などに頼らなくても、寿命があればいのちは復活します。しかし、そういった心がなければ、ただ生きたいばかりですから、輸血でも何でも手段を選びません。その心は汚れたものです。

輸血の技術がないときには、人々は覚悟を持っていのちを返してきました。そういった意味では、今の人間の心が死に対して潔くなくなったのは、輸血に限らず、他の医療技術に対しても依存するようになったからです。それで、日々を真剣に生きなくなったのです。日々を真剣に生き、自らの心を磨いていれば、毎日が充実しているので、いつ死んでもいいという心になるものです。

科学やテクノロジーの進化が進み、人々の生活が豊かになっていくにしたがって、人々の心はそういった物理的な豊かさを求めることを優先してきました。そして、物事の本質を捉え、生きていることの意味を見失い、一方的に延命することだけを求めるようになりました。

本来、わたしたちが肉体をいただき生きていることの意味は、物理的なものに惑わされることなく、自らの霊的な意識の高まりを目指し、霊的な世界から生まれ霊的な世界へ還っていくことを悟り、そしてこの世界へ生み出された目的を達成することです。

ですから、現代人のようにそういったことを忘れ、物理的なことを優先する意識が強くなれば、社会にも混乱が生じるのです。

わたしたち生命は皆、いずれに死に至る約束のもとに生きています。ですから、死に到達するという絶対なる約束事のもとに、日々を生きていくことが大切なのです。

輸血をしないということは、いのちに対して覚悟がひとつ余分にあるということです。本来、人は肉体という物理的な存在ではなく、霊的な存在です。死んだ先の世界にいのちをつなげて捉えていれば、死は恐ろしいものではないのです。魂は一人ひとりオリジナルであると考えられます。以前、血液は汚れているものを回収してろ過する経路だという話をしましたね。血液は心の運び道ですから、他の血を取ると霊的にも血液は汚れていくのです。

近代医療のテクノロジーが優れていて、生きることに対して恩恵をもらえるとしたら、いのちが永らえるということです。しかしそれは、輸血によって他の霊的・物理的汚れを自分に取り入れることでもあるのです。僕は、そういった行為を否定しているのではありません。

大切なことは、そういった仕組みを知り、自らの心を綺麗にしていくことです。そして、生活も綺麗にして、血液を浄化していけば、常に美しい人で生きられるということです。

ワンちゃん:
今、タイでは献血のキャンペーンを行っています。それは、「献血によっていのちを助けましょう」という活動です。

いさどん:
それは、いのちの質や人生の質を問わず、ただ永らえることだけが大切だという現代医療の考え方です。ですから、そうした考え方が進めば進むほど、混乱した社会が広がっていくのです。

ワンちゃん:
今まで、献血は良いことだと思っていました。

いさどん:
それは、表面的ないのちの捉え方なのですよ。

それよりも、いのちに対して覚悟を持ち、潔く爽やかな人生を生きることは、その人の人生が健やかで、それこそ神人(天人)が地上を生きるというようなことにつながります。これは新たな時代を生きる人々の考え方です。

ワンちゃん:
タイで献血のキャンペーンを行うとき、「これは他の人たちのいのちを永らえるために、あなたが出来る最善の行為です」ということで広まっています。

いさどん:
それは、現代的な浅い医療の考え方です。それでは、問題事は根本的に解決せず、医療行為がどんどん広がっていくことになります。

ワンちゃん:
ただ、わたしは低血圧で献血ができません。だから、それを喜びとすべきですね。

いさどん:
あなたが低血圧だとしたら、それを喜びとする部分とそうでない部分があります。その低血圧はあなたの心の現れなのです。その状態を改善するためにまずは心の持ち方を改めると、食生活が変わり、生活が変わり、あなたは低血圧ではない健全な状態になるのです。ですから、低血圧であることは喜びにはつながりません。

ワンちゃん:
タイにも血圧を上げるような食養生プログラムがあります。

いさどん:
それは体の健康のためにやるのではなく、心のバランスを取るためにやるべきですね。健康は心のバランスの現れなのです。「健康になろう!」と思って取り組んだ結果、心が不健全なのに体だけ健康になったら、別の意味で人生に問題をもたらします。ですから、常に自分と向き合って生きることが大切です。いろいろな滞りは自らの心の実態を見せてくれているのですから、そこから逃げないことです。それはある意味、出家者の心構えのようですが、今、お坊さんたちでもそこまではやっていませんね(笑)。

ナッちゃん:
今、わたしたちの精神は健康ではありません。ですから、多くの人たちが異なる病気を抱え、不健康な状態でいます。そこで、どのようにしてその病気の原因を知り、どのようにその状態を改善していったらいいのでしょうか?

いさどん:
まず、人間の不健康は地球の病気です。それは社会が病んでいるとも言えます。病気になった人のことをかわいそうだと思いませんか?ところが実際は、病気になった人は世の中に問題をもたらしている人なのです。

世の中に問題があると、喜ぶ人がいるのです。生きることに不安な人がいると、喜ぶ人がいます。それは保険屋さんです。人が争うと、喜ぶ人がいます。それは弁護士です。裁判官も、人が争うことによって自らの仕事が充実します。人が欲深くなって不要なものまで欲しがるようになると、喜ぶ人がいます。それは物を作る人です。病人が増えると、喜ぶ人がいます。それは、その人たちによって支えられている製薬会社や医者です。ですから、この世界は、混乱や問題事で成り立っているのです。

ナッちゃん:
いさどんは、皆それぞれオリジナルな魂を持っていると言いましたが、科学は血液型をいくつかに分類しています。それはどういうことなのでしょうか?

いさどん:
血液型はとても大まかな人の性質の傾向を示していますが、それは環境、時代など一人ひとり様々な要因が違うので、同じ血液型の人でも厳密に言えば違う人なのです。心の臓器から送られる血液はいのちの通り道であり、血液自体はまさに霊的なものなのです。ですから、血液型でもその霊的なものが分類できるのです。輸血が始まった頃は、血液型の分類がない時代でしたから、そうしたことに構わず他人の血を入れていました。そこから科学によって血液が分析され、その違いがわかるようになり、一人ひとりがオリジナルな存在であることが観えてきたのです。ですから、最終的には血液は交ぜてはいけないというところに到達するのです。血液型で人格を観る場合も、大まかな傾向は観えますが、それを厳密に観ていくと、最終的には一人ひとりがオリジナルであることに行き着くのです。

今の医療は人のいのちを生かすことばかりを優先していますが、死ぬことの大切さがあるのです。長く生きてとても見苦しい人生よりも、短くても美しく素晴らしい人生がありますよね。人々が医療に頼って長生きしようと思うようになったのは、人々が自らと向き合わなくても、医療がいのちを救ってしまうようになってしまったからです。

大切なことは、病気に限らず、どのような問題事に出会ったときも、それに出会った自分を振り返り、その原因を突き止めることです。ある意味医療は、病気という自分が出会った問題事から振り返るチャンスを、人々から奪ってしまったのです。それは、医療自体が本来の目的から外れ、お金儲けのためにまわるようになってしまったからです。ですからその行為は、人間が生まれてきた目的を奪ってしまうようなことでもあるのです。

人間は生まれてからいろいろな出来事に出会い、その出来事から自らの実態を知って、そして高まっていくために生きています。そして高まった結果、執着を一切持たず、自らの霊的な価値を持って旅立っていくのです。それが生きることの本当の目的です。

そういったことがわかると、一人ひとりが生活の中で出会う出来事だけで学び、成長することができるのです。そうすると、宗教も指導者もいらなくなるのです。そういった時代の扉が今、開いたのです。

ナッちゃん:
今の学校に入る前、将来わたしは大学に進学して心理学を学ぼうと思っていました。それは、心理学者になって精神的な病を持つ人々を助けたいと思っていたからです。ですから、自分と向き合って自らを改善していくために、心理学ではふたつの方法で患者を助けることができます。ひとつは患者の問題をしっかり聴き、導く方法です。もうひとつは薬を処方して、たとえば夜眠れるように睡眠薬を、一般社会で普通に機能できるような薬を処方するという方法です。人気のある学部について調べてみると、以前は医学部、工学部、文学部、商業芸術学部などが人気がありましたが、現在は心理学部が人気があります。わたしが思うに、それは人々を助けるために心理学者になりたいのではなく、心理学者になると良い収入を得られるからです。

また、タイの国王は満ち足りた経済を提唱しようとしています。満ち足りた経済を理解するためには、まずどのような状態が満ち足りているのかを知ることだと言われています。それは、衣食住において足るを知るということです。しかし、わたしたちの教育センターに満ち足りた経済について学びに来る人々は、何が足りている状態なのかを理解する心の状態にはありません。彼らはただ欲が深く、お金儲けのために何かを学び、自給自足しようとしているのです。わたしはそういった状況に対して、嬉しくありません。

いさどん:
それは、あなたの中に時代を先取りした想いが湧いているということです。今、時代は欲ばかりかけて生きていると、必ず行き詰まるようになっています。今、拡大・発展の時代から、不要なものをそぎ落とし、必要なものだけを選ぶ時代に入りました。それは物理的なものだけではなく、心も同じ流れです。ですから、あなたが考えていることは次の時代のことなのです。そのままその考えを進めていけば、あなたは世の中が必要なことをやっていることがわかってきます。それは、木の花ファミリーが実践していることであり、心理学の先を行くことなのです。

あなたはこれから一生懸命英語を勉強して、来年の2月に開催される「1ヶ月間の真学校」を受けるといいですよ♪そうしたら、医療や心理学を超えた世界をマスターできます。また会いましょう♪

 

瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?
瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?

 


「血液」からこの世界を探求していく~宇宙の仕組み編~

タイの代替教育学校の高校生である、ナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃんは5月27日より3ヶ月間、木の花ファミリーに滞在しています。世界観を広げるプログラムの一環として、身近にある「食」について深めていく時間が4回にわたって持たれました。その最終回では、「霊的な進化」というテーマから、この世界の「血液」について深く探求していく時間が持たれました。
(写真右より、ナッちゃん、マインちゃん、ワンちゃんです。)
presen

いさどん:
英語でも心臓のことを「心の臓器」とは言いますか?

ようこ:
心臓は英語でハート(heart)と言います。

いさどん:
ハートというのは心もハートですね?

ようこ:
英語では心も心臓も同じハートという単語が使われます。

いさどん:
同じなのですね。タイ語では心臓は何と言いますか?

ワンちゃん:
心は「チッウィンヤン」と言って、心臓は「ワチャイ」と言います。心臓の「ワチャイ」という言葉は心と関係しています。

いさどん:
ということは、日本語でもタイ語でも、心と心臓のどちらも、「心」が関係しているということですね。英語でもこの二つは共通しています。

心臓は臓器の中心という意味でもあり、それが体の隅々まで血液を送り体が運営されています。これは地球も太陽系も宇宙も同じ構造なのです。太陽系でいうと、太陽は心臓の役割をしています。ですから、太陽が何を発するかによって、その指令を受けて他の星たちがどう動くのが決まるのです。そのようにして太陽系は成り立っています。

わたしたちの体でも、例えば感情が高ぶれば心臓がドクドクしますね。ですから、わたしたちの感情が高ぶったり冷静であることによって、心臓に指令が行き、血液をどのように送るのかによって、わたしたちの行動が変わってくるのです。偏った食生活や偏った心によって血液を悪いものにし、心臓に負担をかけることは、その人の生命を汚染することであり、人生を間違った方向に持っていくことになるのです。

マインちゃん:
ワン先生が補足的に、「健康な暮らしをするためには、善意で平和な心である必要があります。怒ったり、イライラしたり、感情の起伏が激しくなると、健康もジェットコースターのように上がり下がりが激しくなり、それでは健康にはなれません」と説明してくれました。それを聞いてわたしは、頬をはたかれたような気分です・・・

いさどん:
体に負担をかけないために冷静に正しい食べ物を選び、そして感情的にならず冷静な心で常に正しく物事を判断できることが大切です。どちらにしても血液を汚すことは、血液を汚すような生活習慣をしている「心」に原因があるのです。血液を汚すことによって、他の臓器や体のいろいろな部分に問題が生じて不健康になっていき、最終的に人間は心臓が停止することによって死を判定されます。ですから、血液を汚さない美しい体、血液を汚さない美しい心、そして血液を汚さない美しい生活を心がけることが大切です。

人間の血液は生命そのものです。そしてそれが生命を循環させ、すべてのところへ平等に行き渡るようになっています。血液が汚れていたら、すべてのところへ汚れが行き渡ります。そして、血液の通り道である血管がどこかでつぶれていたら、そこから先は腐っていきます。

ナッちゃん:
とてもわかりやすい結論ですね!

いさどん:
実は、人間社会にも血液のように循環し、すべてを平等につないでいるものがあります。「人間社会の血液」は何だと思いますか?

ナッちゃん:
いさどんはとても良い質問をしますね!

いさどん:
ハッハッハ。

ナッちゃん:
社会ではわたしたちの行動やコミュニケーションによって、お互いに影響を与えています。社会のあるグループの人たちが幸せでなければ、その不幸せな波動を言葉や行動によって放ち、それが他のグループに伝わり、そうやって今の不幸せな社会を創っていると思います。それは、わたしたちの考え方や行動が原因です。ですから、わたしたちは悪い波動を社会に発しないように、意識的に思考し行動する必要があります。

いさどん:
それをわたしたちの体で例えるならば、血液が癖という自らの心を運び、それを表現しているのです。そうすると、人間社会はひとつの生き物ですよね。そこに平等に行き渡っている血液のような役割をしているものは何だと思いますか?

今、ナッちゃんが表現したのは、血液の汚れということです。そうした汚れや美しさを運んでいくものが、人間社会にはあるのです。それは、人間の心によって汚れたり美しいものになります。わたしたちの血液も、自らの心によって汚れたり美しくなったりするでしょう?

タイの3人:
(しばらく3人は考えました。)降参です!!

いさどん:
では、答えを言いましょうか(笑)。それは、「お金」です。

ワンちゃん:
わたしは、その答えは「自我」とも思っていました。

いさどん:
自我は、お金に乗っていくものです。本来、お金は皆に平等に行き渡る社会システムとして存在していますが、一箇所に貯まってしまって皆に行き渡らないお金もあります。わたしたちの体で血液が汚れると、腎臓や肝臓で洗浄しますね。同じように、犯罪や戦争に使われ、汚れたお金がこの世界にはあるのです。そうしたお金を綺麗にするのは、人の心です。

ナッちゃん:
なぜ人々がマネーロンダリング(資金洗浄)をするのかがわかります。

いさどん:
そうですね。では、次の話をします。「地球の血液」は何だと思いますか?地球の生命の循環のために最も重要なものは何だと思いますか?

ワンちゃん:
空気か水ですか?

マインちゃん:
わたしは水だと思います。

ナッちゃん:
わたしは自然の仕組みだと思います。

いさどん:
それは、「水」です。水が自然の仕組みを健全に運びます。それはわたしたちの体の血液と同じですね。

マインちゃん:
わたしたち人間一人ひとりが地球の細胞のような存在ですから、水がなければ地球も死滅しますし、まず、細胞であるわたしたちも死んでしまうのです。

いさどん:
それでは、自然生態系ネットワークも維持されませんね。水が汚染されたら、すべてのいのちに汚染が広がるのです。

ワンちゃん:
わたしたちの国王も、「水はいのちである」と同じことを言っています。

いさどん:
では、ネクストクエスチョン♪その地球の血液である水を循環させる、心臓の役割は何ですか?

ナッちゃん:
いさどんの質問がどんどん難しくなってきているので、集中して考えないと答えられません!大学受験のための国の一斉試験よりも難しいです!!

いさどん:
大切な質問ですから、真剣に考えてくださいね。これは、とても重要なことです。

ナッちゃん:
いさどん、ヒントをください!

いさどん:
それは、すべての生命に平等に与えられるものです。

ナッちゃん:
時間ですか?

マインちゃん:
土ですか??

いさどん:
土の前のものです。

マインちゃん:
微生物でしょう!

いさどん:
それは、そのものによって生命が循環し、育てられていくものです。
ヒントです!それは空から降ってきます。

ナッちゃん:
雨ですか?

いさどん:
雨もそれによってつくられています。それは、いのちにとって最も大切なものです。

マインちゃん:
魂ですか?

いさどん:
地球の血液が水であるならば、血液である水は循環するでしょう?わたしたちの体で血液を循環させるシステムは心臓ですね。では、地球の血液である水を循環させ、その心臓の役割をしているものは何ですか?それは、空から皆に平等に降ってくるものです。それは、いのちにとって最も大切なものであり、水より重要なものです。

ワンちゃん:
エネルギーですか?

いさどん:
エネルギーです。エネルギーですが、そのエネルギーの元のものです。

タイの3人:
わからない~(笑)!

いさどん:
ギブアップですか(笑)?それは聞いたら、「なるほど!」と思う答えですよ♪それは、すべての生命の元です。それは、太陽です。

ナッちゃん&マインちゃん:
あ~!(笑)

ワンちゃん:
でも、太陽は地面に落ちませんよね??

いさどん:
太陽の光が大地にあたり、太陽が水を循環させているのです。太陽の光自体が汚染されることはありません。その太陽の光を受けて循環する血液である水や空気、土が汚れるのです。わかりますか?

さて、次の質問があります!地球の血液が水であり、その心臓が太陽であるならば、「太陽系の血液」は何だと思いますか?

マインちゃん:
一生懸命考えてみます・・・

いさどん:
考えると難しいですよ。太陽系がどのような構造になっているか、想像してみてください。

マインちゃん:
星ですか?

いさどん:
それは、星を連携させ、循環させるものです。

ワンちゃん:
一つ一つの惑星の動きですか?

いさどん:
それを連携させ、創る元となるものです。皆さん、ギブアップですか(笑)?

マインちゃん:
わたしはギブアップします!

ナッちゃん:
磁場の力でしょうか?

いさどん:
そうです!それは、「磁場」です。太陽磁場が、太陽系を連携させ循環させているのです。それでは最後の質問です。「宇宙の血液」は何だと思いますか?

宇宙全体を束ねているのは、「スピリット」です。スピリットはある意味、精霊の巨大なものであり、魂の存在、つまり神のことです。

今日は、人間の体の血液から、人間社会の血液、地球の血液、太陽系の血液、そして宇宙の血液の話をしました。人間社会の血液はお金であり、地球の血液は水であり、太陽系の血液は磁場であり、そして宇宙の血液はスピリットです。

この世界と人体の関係
この世界と人体の関係

そのスケールが大きくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになります。それがわたしたちの体のスケールまで小さくなると、密度が濃く、物理的なものになります。そしてそのスケールがさらに小さくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになるのです。宇宙の最極小微粒子であるカに戻ると、現象としての存在はなくなります。

ということは、わたしたちの体の状態が一番心の状態を見やすく表してくれているということです。わたしたちの血液がどのような状態であるのかということは、まさにわたしたちの心の現われです。血液の汚れには、物理的な汚れと霊的な汚れがあるのです。社会の血液であるお金にも、物理的な汚れと霊的な汚れの両方があり、すべて同じ仕組みになっています。

ですから、心が綺麗な人は血液も綺麗であり、体も健康で、良い人生を生きることになるのです。

 

 


真実を発信していく

ここ最近養蜂作業が忙しく、生活のリズムが狂っていた。そして今日、養蜂の作業が一段落したので、狂ったリズムを整えるために休んでいたら、夢を見ているとも起きているとも言えないような状態の中で、ある意識が浮かんできた。それは「トキが来た」ということだ。

今、インターネット上に、真実を歪めて木の花ファミリーをバッシングしているサイトが横行している。ものすごいエネルギーを使ってここを貶め、封印しようとする力が働いていることに対して、そのエネルギーを逆に、真実を発信していくためのエネルギーに転化できると気付いた。
多くの人が興味を持っているからこそ、ああいったサイトを見る。そこで、彼らが見ているバッシングサイトの情報に対して、その情報の出所の元にある心がどのようなものであり、そこに表現されている現場の実態は実際にはどうだったのかということを提示してあげれば、彼らはバッシングサイトを見ていたのと同じエネルギーで、真実は何なのかということを感じ取ることになる。それは、バッシングサイトが描いて訴えようとしているイメージと実際は違うということや、それを見る自分自身の視点の偏りに気付くチャンスになる。
バッシングが始まって3年目となり、ある程度それが社会に浸透した今だからこそ、トキが来て、そこに表現されたエネルギーは一気に逆転する。うたた寝から目を覚ました僕は、養蜂の一段落と、バッシングが逆転へ転じるトキが同じタイミングで来たことを感じた。

そのタイミングを感じた時に、台所に8個のキジの卵が置いてあるのを見た。それは日中に草刈りをしていた畑隊が見つけて持ち帰って来たもので、ステンレスのボールに入れて流し台の上に置いてあった。巣の周りの草を刈るだけでも、人間の匂いが付いて親鳥は寄り付かなくなる。そこで畑隊が持ち帰って来たのだが、僕はそれを見た瞬間に、そこから生気が湧き出ているのを感じた。あんなにも生きようとするエネルギーがあふれ出しているものを、ステンレスのボールに入れて置いておくということがあるだろうか。
懐中電灯で卵を透かして見ると、幸いなことにまだ分裂を始めていなかった。今から温めてやればまだ間に合う。これは食べるものではなく、命として孵してやらなければいけないものだ。そういうことを感じられることが大切なのだ。

かつて僕はまりちゃんとコンビを組み、合鴨の卵を孵してきた。温度は37.8℃、湿度は50~70%で、1日に5~6回転卵をする。孵化させるのにどれほどきめ細やかな配慮が必要か。それは真剣に向き合わなければできない。
しかしそれは、神経をすり減らすようなこととは違う。コンピューターがやるのではなく人間がやるのだから、命が育っていくのを感じながら、楽しんで、気楽にできるものだ。自然界の親鳥も、トイレに行ったりごはんを食べたりしながら、それでもきちんと命と対話しているから卵を孵化させる。そういうファジーな能力が、人間にはある。感じ取る能力があるのだ。
まりちゃんと卵を孵してきたように、かつて僕はやすえどんとコンビを組んで糀を仕込み、ひろみちゃんとコンビを組んで木の花菌を作り、かずこちゃんと組んで雛鳥を育てた。そうやって人間の持つ能力を研ぎ澄ませてきた歴史が、木の花にはある。それはとても神聖なことであり、そういう場を汚してはならない。

今、僕ときょうこちゃんは、新たなプロジェクトに取り組んでいる。それは、新しいきょうこちゃんをつくること。僕は彼女にこう伝えた。「それはきょうこを壊すこと。自分を壊すことだぞ」と。自分を壊さなければ、奥に眠っているものは出てこない。
これまでのきょうこちゃんは自分のことばかり考えて生きてきて、その姿勢の結果ガンになった。彼女は命がかかっている。それは自分がつくってきたことであり、それをつくった自分自身を壊さなければ、命は取り戻せない。とても真剣なことだが、人間はその段階へ行く時が来たのだと僕は感じている。
このプロジェクトが始まって、最初は僕がきょうこちゃんにヒーリングをしていた。きょうこちゃんは毎日まじめにやって来るが、僕はだんだんきょうこちゃんにヒーリングをする気が起きなくなった。そうすると、逆にきょうこちゃんに、僕に対して何かしたいという気持ちが湧いてきた。きょうこちゃんが僕に癒しを提供することで、きょうこちゃんが癒されている。
僕は最初自分がやってあげるつもりでいたのにだんだんやる気が起きなくなって、この意識の変化は何だろうと思っていたが、そこで答えが出た。そうだ、人のためになるという心をきょうこちゃんに目覚めさせるということだ、と。自分のことばかり考えてガンを作った者が、人のために生きたら、ガンは消える。(「癌」は、品物を山のように抱えてなる欲深な病気と書く。)
何日か続けているうちに、お腹にあったしこりがやわらかくなって、確認できなくなってきた。病院での検査結果がどう出るかはわからないが、今、きょうこちゃんのお腹の中から、悪いものを発している波動を感じられなくなってきた。

僕がきょうこちゃんにやっていることは、単なる病気治しではない。人間の能力を引き出す実践をやっている。それはキジを孵すことと同じだ。
我々がやっていることは、一人ひとりの人格を探求することも、個人の道を見極めることであると同時に、21世紀の人類の歩みにとって重要なことだと言える。それは、一人ひとりの意識が現状の地球の混乱の原因になっていることに気付き、その責任をとるという意味で、個人は自らが地球世界にもたらしている矛盾を一人分解消するべきだ。それを、国や地域のリーダーたちの責任にしている場合ではない。なぜなら、そういった立場の人々を選んでいるのも、自分自身なのだから。そのように、一人ひとりがこの世界に対する自覚を持つことが、次なる新たな時代へのステップとなる。
これからは、我々人間の奥にあってまだ我々自身も気付いていない、人間がこの世界に生み出された目的に目覚めることにより、これまで眠っていた能力が開花していく。それは今、田畑で行われている栽培法の変化(詳しくは木の花ファミリー通信「農業革命」をご覧ください)や、新たなプロジェクトが次々と立ち上がっていることともつながっている。同時に、世の中の人々がここの真実をわからずにいる不幸を解き明かすトキが来ている。この存在を理解できないことは21世紀の損失である。これは本当に21世紀の人類が進むべき方向性であり、時代が生み出した宝だ。

我々が生きていることに対して、自らが理解をしていることはごく僅かであり、生きているということに対し我々は無力である。真実は、存在するとは与えられていることであり、生かされていることである。現代人は、自らの思考の延長線上に生きようとしているがために、この世界から与えられていることを受け取る能力(現代人は脳の10%しか使っておらず、残りの90%は休眠状態にある)を退化させている。その現実を理解し、その状態に自らを貶めている自身の中にある性質と向き合うことにより、眠っている能力を使いだすことができる。
ところが、文明を発展させていく過程で人間の自我が優先するようになり、人々は自らの自我が生み出す欲求に翻弄され、その欲求を満たすことのみに奔走してきた。本来人間の能力とははかりしれないものであるが、自我の欲求を満たすことに囚われているがゆえに、自我により認識されている能力の奥にある、潜在的な力を使うということを怠っている状態だ。それは、今自分が起動させている以上のものはないと思っているからだとも言える。だから自らの枠の中でしかものを考えようとしない。
その場合、自らの枠を壊す作業をしなければいけないが、囚われている人間はその勇気が持てるかどうかだ。囚われという枠を壊せば、その奥にあるものが出てくる。それは思考回路だけでなく、その奥に秘められた潜在能力が出てくる。木の花の中にも、一生懸命やっていてもなかなか流れを読み切ることができない者たちがいる。そこで彼らは僕に「どうしたらいいでしょう」と聞いてくるのだが、そんなことを人に聞いてどうするのか。思い切り悩んで、自らの内にあるクセにまみれた思考回路を壊すところまでいかなければ、その奥にある潜在能力を引き出すことはできない。

一生懸命仕事をすれば、物理的には役に立つ。しかし役には立っても価値は付かない。価値がついて初めて、人は本当に役に立つことができる。それは、今までにないものになるということだ。
これまでは、一生懸命だけでもよかった。しかし、一生懸命に見当違いのエネルギーを使っているようでは、この世界に害がまき散らされることになる。それを、今の時代の現状が表している。そこでこれからは、眠っているものを掘り起こすということをやっていく。我々は起きていてこの世界を認識していると思っているが、その世界で目覚めるということは、実はこの世界が眠っているということだ。その眠っているものを起こすには、自らを壊す必要がある。

これから、人間がこの世界に存在する本当の意味を開花させる時が来る。ここは、それが世の中に先駆けてできる所だ。しかし毎日既製品のような仕事をこなしているだけでは、新しい能力は出てこない。物理的に仕事をこなせているから自分はできていると思っていると、自分を足りない者だと自覚して真剣に向き合い、その奥にあるものを引き出そうとする姿勢にはならない。
日頃はボケていても、ポイントのところはピッと感じられる人間になることが大事だ。ボケているから、キジの卵をステンレスのボールへ入れ、平気で台所に置いておいたりする。それではまるで食材だ。しかし卵からは「食材じゃないぞ!」という生気があふれていた。原始的な人々や食べることを優先する人間はためらうことなく食べるかもしれないが、意識レベルが高くなった人間は、やっていいことと悪いことを、そのものごとに出会った時に瞬時に感じ取れるものだ。この卵は食べて命を終わらせるものではなく、循環を止めるものでもない。自然から奪ったものだから、命として孵るかどうかはわからないが、少なくともその挑戦をしてあげることは、卵にとっても本望だろうと思う。食べられるために野に生みつけられていたわけではないのだ。
そういったことが、直観で感受できる者になる。それは本来当たり前のことで、人間が自然と共にあった時代にはあり続けたものだ。現代人はそれを忘れている。

そして今、我々に求められているのは、その次の段階だ。発信するのは、木の花というのはいったい何もので、何を目指しているのか。
今の世の中の多くの人たちは、それが理解できない。自らの枠の中では解釈できないものを、自らの枠の中でイメージし、創り上げ、それをバッシングサイトで表現している。しかしそれはここの実態ではなく、その人自身の中にある世界だ。

何か現象に出会うということは、自分自身を知ることであり、自分との出会いだということが、人間はわかっていない。出会うとは、自分という現実に出会うこと。自分がない人は自由自在に変化していく。しかしいつまでも古い自分がとれないと、痛い目をして学ぶことになる。ひどいのは、痛い目をしてもわからずに同じことを繰り返す。それが今、人類に問われている。

今、僕の中にはとても重要なことが湧き出してきている。

近ごろ、皆神山が僕の中に浮かんでくる。今年3月、皆神山で特別な生き方を受託していることを再確認したが、その後しばらく日常生活をやっていた。しかし、その生き方をここに表現する役割がある。
これは、人類に目覚めを与える話だ。ネット上の批判のような汚れをかぶっても、この歩みは時代の意志を表した歩みであるがゆえに、止まることはない。今の時代は、自らを振り返らない者たちがその実態をわからないがために、それに立ち向かえば火の粉をかぶることもあるだろう。
しかし今、トキが来ていることは確かだ。この一連のバッシングはなぜ起きたのか。それが天の采配であるならば、それは一体全体何であったのかを全て解き明かし、世に示す時が来ている。それはバッシングをする人々に向けたものではなく、世の中全体に向けるものだ。
これからの時代に、我々は何をしようとしているのか。その価値は未来に行ってみて観えることであり、約束されてから行くようなことでは、自我の納得の上にいるに過ぎない。人間たちはもう、そういうことをやめなければいけないということを表現するために、我々はこの生き方をしているのだから、これは前人未到の世界だ。人間はいよいよその領域に入ったのだということを、この場全体で表していく。

もう、物理的五感を優先する人間を超えなければならない。時代はそれを求めている。これまで以上の段階へ進もうとしたときに、自分を壊せない人間はダメだ。自分の枠を超えられない人間はダメだ。自らの能力を超えたところを開発して、そこを観ていくのだから。それは見せかけをきれいに整えるのではなく、囚われの枠を壊して湧いてきたものを表現するということだ。
そういったことの価値を考えない者にとっては、ここは厳しい場にも見えるだろう。しかしある景色が観えた者にとっては、インチキな場所ではいけない。表面だけを繕っているような場は、嘘だろう。この時代のこの世の中に、なぜここがあるのか、ということを、世の人々に伝えていく。

現代の人々に伝えたいのは、なぜこれがわからないのか、ということ。なぜその視点に立てないのか。これは珍しい話ではなく、当たり前に道理を追っていけばわかる話なのに、それがわからないのはあまりにも思考が狭い範囲に特定されてしまっているからだ。しかし21世紀の宇宙時代を迎える人類は、それではダメなのだ。時代はすでに、この思考回路を元にして創られる時代に入っているのだから。

「現代の人々に対して」と言うと焦点がボケてしまうから、あえてこう言おう。今、あなたに問うている。そこに目覚めることが、次の時代を生きる資格なのだ。
世界のリーダーたちがいくらサミットを開催しても、それは結局は個人の損得勘定の思考回路が国家レベルになっただけで、エネルギーが大きいか小さいかの違いがあるだけで同じパターンをやっている。今の経済にしても環境問題にしてもテロ対策にしても対処療法的なことしか考えられていないのは、思考がとても狭い範囲に限定された損得勘定の上にしか回っていないからだ。しかし、人間は本来、そのような存在ではない。

これは伊勢志摩サミットを超える話だ。あのサミットで、20世紀までの人類が地球にもたらした矛盾を解決する画期的な対策を、何か打ち出しただろうか。
話し合われたのは、経済をさらに発展させるにはどうしたらいいかということだが、今の人類の経済に対する姿勢のままで経済を発展させたら、地球環境をさらに悪化させることになるのは周知の事実だ。にも拘らず、世界のリーダーたちは方や環境問題を語り、方やそれと矛盾する経済発展を追い求めている。そのように欲望を叶え続けることが、この世界の矛盾を連鎖させ、さらに大きくしている。

もう一つおかしなことは、資本主義国家だけが集まり、立場の違う国家を排除して自分たちの利害の元に一方的に世界を導こうとし、それを正義として掲げていること。それが今の世界の現実だ。テロの問題にしても、体制的に相いれない国を否定することで世界を安定させようとしているが、それは自らの利害関係の上に立っている以外の何ものでもない。
このサミットがなぜ行われたのかというと、そのように結束する仲間集めをアピールするために行われただけで、今の矛盾への解決策や、新たな時代の方向性を見出せていない、極めて20世紀型のものだ。そして、なぜ世界のリーダーたちがそろってそのような姿勢をとるのかと言えば、彼らを輩出している国家を形成する国民がそういった価値観を求めているからだ。そこから支持を受けている彼らは、本能的にそういった姿勢をとらざるを得ない。つまり、今の世界の矛盾はリーダーの責任ではなく、国民一人ひとりの責任なのだ。リーダーは、それにふさわしい人だから選ばれただけだ。

サミットでリーダーたちは演説を行ったが、それは表面的で言葉にも力がなかった。背景に自国の世論の圧力があるために、彼ら自身の明快な意志を表すことができないのだ。人々の欲望を駆り立てる時には、欲まみれの人々によって熱狂的な支持を受けるが、どんなきれいごとを語ろうとも、その姿勢に矛盾があっては、結局は筋の通ったものにはならない。背景にたくさんの利害関係が絡み合って、強いリーダーシップを発揮できなくなっているのが、今の世界の現状だ。
オバマ氏もあと8ヶ月で任期が切れるのだから、大統領としての立場を離れて一個人としての本心をあの場で語ったならば、もっと人の心を打つ演説になったかもしれない。しかしアメリカの大統領はスポンサーが多すぎて本音が出せなくなっており、それがアメリカ大統領の限界となっている。そこを突破する可能性があるのが、トランプ氏だ。
トップが民衆の顔色を伺う風見鶏のようになって強いリーダーシップが取れなくなった、ある意味終焉を迎えている国の末期症状として、トランプ氏のような人物が台頭してきた。国民は現状の矛盾に対する言いようのないフラストレーションを抱えており、それが彼らをトランプ氏支持に走らせている。
ではそのフラストレーションとは何か。これまでアメリカという国は、自分たちは世界を平和に導く善の国であるという自負の元にリーダーシップをとってきたが、その幻想が今、崩れようとしている。アメリカ人の中には自らが常に世界のトップに君臨していたいという感情があり、その実態は極めて身勝手で幼稚である部分も秘めている。しかし、対外的には「世界の警察官」という立場をとってきた。そのように、ある意味偽善者をやってきたことにより、国内に矛盾が発生し、豊かな国アメリカの影の部分に立つ人々に言いようのないフラストレーションが溜まり、それが限界に来ている。

これからの世界の国々のリーダーたちは、トップダウンのリーダーシップを取るのではなく、本音で語り合い、我々人間とはいったい何であるのかということを、これまで積み上げてきたものをすべて崩して話し合う必要がある。いじけている北朝鮮のような国も仲間に入れて話し合う。そういった意味では、トランプ氏は金正恩氏と話し合う用意があるというのだから、画期的かもしれない。
オバマ大統領にせよ安倍首相にせよ、今回集ったリーダーたちは今の体制や今までの価値観を守ろうとしている人たちだ。しかし、時代や社会的、環境的背景は、今や、これまでの人類の地球上でのふるまいを否定することを示すメッセージを発し続けている。だから、幻のように欲望の上に積み上げてきたものは、壊れなければならない。そういった矛盾をはらんだものを守ろうとすればするほど、サミットも単なるパフォーマンスの場となり、希望が生まれないどころか、利害の上に集う者たちがいれば、それに対抗する立場の者たちとの対立を深めることになってしまう。

オバマ大統領は、今回のサミット参加直前に、かつての敵対国であったベトナムを訪問し、友好の証として武器輸出の商談を成立させた。自らの強い望みとして核兵器のない世界をうたい、核兵器の拡散を防ぐと言いながら、その一方で通常の兵器を拡散し充実させており、その上に平和な世界を実現するという矛盾を語っている。
そして、核兵器のない世界を実現すると言いながら、すでに核を持っている国に対しては保有を認め、持っていない国には核を装備することを禁止する。事実、核兵器をなくすことに反対しているのは、核保有国だ。そのように矛盾している国々が国連の常任理事国であり、拒否権を持っている。こんなにも道理の通っていない世界秩序があり続けることを、おかしいと思わないのですか。みなさん。
そしてまたオバマ大統領は、かつて自国が核兵器を落とした地へ行って戦争の愚かしさや核をなくすことを訴えながら、その直前に米軍の岩国基地で行った自国軍への演説では「あなたたちは国家を支える重要な人たちだ」と激励し、やる気を起こさせている。軍人にやる気を起こさせるとはどういうことか。これが核兵器廃絶を願い平和を訴える者の、矛盾でなくて何だろうか。

しかし同時に、その訪問を受ける側の国の人々も、かつての敵国のリーダーが来たことだけで喜ばしいという、温厚なのかお人よしなのかわからない姿勢でいる。怒れとは言わないが、少なくともその言葉の奥にある実態を感じ取るだけの直観力を持ちたいものだ。
世界各国の代表が高級な車に乗り現れるのを見て、この国の人々は偉い人たちが来たと思い迎えたかもしれないが、アメリカ大統領の車はロケット砲でも通用しないような戦車のような車であり、戦艦が空を飛ぶような飛行機やヘリコプターを使い、常に厳重な警備の元に行動しなければならず、そういった立場に立った者の不幸というものがある。そしてその立場は、自らが招いている。そのような背景を知っていたならば、彼らをただ微笑ましく迎えるばかりではないとも言える。
そして今回のサミットには、600億円の費用がかかったと言う。それで世界の経済を発展させると言うのだが、ロシアも中国も参加していないのに、西側諸国だけが集まっていったい世界経済の何を語るのだろうか。この2日間のために28億5千万円をかけて建設されたメディアセンターは、サミット終了後には取り壊されると言う。そういったお金の使い方をしながら、一方では災害復興や原発の廃炉のための資金が必要だと言い、毎年大量の国債を発行して借金を増やし、消費税を増税すると言ったかと思えば、選挙の前にはそれも先送りする。やっていることが滅茶苦茶なのだ。

今、日本ではSEALDsのような動きがあるが、香港の傘兵の他、台湾やフィリピンなどアジアの各国で、若者たちが今の政治に疑問を投げかけ、新たな動きを起こそうとしている。しかしそれは、次の時代の呼び水にはなるかもしれないが、現行の体制に対する反発として条件反射のように出てきたものであり、それ自体が新たな時代のあり方として出てきたものではない。つまり、20世紀型なのだ。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、ガンジーの非暴力を掲げているが、実はそれもまた暴力だ。なぜなら、そこには対立軸があるから。彼らは優秀で、いずれ政治家になるのかもしれない。しかし世の中を変えるということからすると、彼らは今の体制があるからこそ、そこへの反発をエネルギーとして出てきたのであり、彼らの中から独自に新たなものが湧き出しているわけではないのだ。

もう新たな時代が地球上に来なければいけないのに、そのための指針を示せる場所が、世界中のどこにもない。19世紀、20世紀に発生したイデオロギーは、社会主義でも共産主義でも資本主義でも、人々の実際の生活につながっていた。ところが最近台頭してきたイデオロギーは、生活に密着していない。何か強大なものに対する反発として発生しており、単なる闘争になっている。
それをもう一度、生活に落とすというところへいかなければいけない。それを生み出すのは、智恵だ。イデオロギーも本来智恵であるはずだが、20世紀型のイデオロギーは智恵ではなく、怒りのエネルギーが元になっている。それが智恵となって湧き出した時に、若者たちは実際にその生き方を始めるだろう。そこがまだできていないから、今の若者たちの動きはまだ次の時代の受け皿にはならず、ただ大人たちがやっていることへの反発となっている。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、それを壊そうとしている。それは体制側が今の状態に執着しているからこそ、それを壊そうとするエネルギーが働くのだが、そうしている若者たち自身も同じ立ち位置にいることに気付き、自らを壊さなければいけない。なぜならそれは、執着と執着の対立だから。これはかつての西側対東側、共産主義対資本主義といった構図も同じで、双方が共に壊した時にこそ、新しい世界を創ることになるのだ。

これはおもしろい分析だが、こんなことを語る年寄りの存在に若者たちは気が付かないから、なかなか伝える機会もない。この視点は彼らの情熱に水をかけるようなものだから、熱く燃焼することに邁進している彼らが、水をかけられるようなものに興味を示さないのも仕方がない。しかしあのままいくと、そのうちに火傷することになるだろう。

我々がやることは、ウケ狙いではない。ニセモノだらけになってしまった今の時代に、真実を、生命エネルギーを乗せて表現していく。
我々がいかに、土に触れ、自然と向き合いながら生きるということをやってきたか。そのエッセンスがここにはたくさんある。それと対話する能力をこれから開花させ、広めていく。机上の空論で理想郷を語っても、現実に成るわけがない。成るとは、地球はそもそもそういうところだということに気付くということだ。

久しぶりに、天の扉が開いた。
最近は上を見ると天井が見えていたが、久しぶりに天井を突き抜けて、その奥が観える。

これは個人的な偏った見解ではなく、必ず近い未来に人類が体験することを予言として語っているものである。それを感知できるような人類でなければ、これから訪れるであろう更なる困難を乗り越えることはできない。