日出ずる国=地球(クニ)ツクリ

《プロローグ・その心、これからは日の本の国全体に説くがよい》

1991年、いさどんが40歳の夏のこと。天からいさどんに「富士の山に登れ」という声が降りてきました。「なぜですか」と尋ねると、「日の出前に、日の本の国の頂点に立て。そして命を受けよ」と伝えられました。いさどんには、なぜ富士山に登る必要があるのかまったくわかりませんでした。とにかく神様がそう言われるのだから登ろうと、富士山へ向かいました。

週末の富士山は人でごった返し、初めての富士登山だったいさどんは、すっかりくたびれてしまいました。けれども、何としても日の出前に頂上に着かなければいけない。いさどんは死に物狂いで登り、何とか日の出前に頂上に到着しました。

東の空が、だんだんと明るくなってきます。ふといさどんは、そこに一つ、星のようなものが光っていることに気付きました。「自分をここに呼んだのはあれだ」と思い、その光に向かって言いました。「お約束通り、私は今、日の出前に日の本の国の頂点に立っております。命をお伝えください。」1991年8月12日の朝4時45分頃のことです。天から言葉が降りてきました。「その心、これからは日の本の国全体に説くがよい。」

「日の本の国」とは、日出ずる国・日本のことだけではなく、日のあたる国、つまり地球全体のことです。いさどんは咄嗟に「無理だ」と思いました。自分のような者にそんな大役が果たせるわけがない。けれどもそこで、自問自答をしました。お釈迦様は「歩んでみなさい。歩めるから」と言われたのです。これまで9年間心を磨くことを学んできて、これからもその道を歩み続ける決意は揺らがない。ならばこれからも、この心を生き続けるだけではないか。

下山の時、登る時にはあんなにも辛かったのに、それを乗り越えたら「また来よう」という気持ちになっていることが不思議でした。「まるで人生みたいだ」といさどんは思いました。


 

──── それから24年の時を経て、2015年12月、タイの僧侶であるプラ・サンコム氏からの招待を受けて、いさどんと数名のメンバーは同氏が運営するマブ・ユアン自然学校に新たに建立された寺院の仏像の開眼式に参列し、セレモニーの冒頭にいさどんは「クニツクリ奏上」を行いました。

さらにそれから2年の時を経て、2017年12月2日、その寺院の落成式に参列するため、いさどんと数名のメンバーがタイへと向かいました。また、プラ・サンコム氏には「自分の故郷に今後木の花ビレッジを展開していきたい」というビジョンがあり、彼の故郷を視察することも今回の旅の目的の一つでした。

タイへと出発する数日前、富士山麓にある日本最古の大鹿窪遺跡にて、いさどんはクニツクリ祝詞を奏上。ようことみちよはカタカムナ第63首、「みろくの世」の舞を奉納してから、タイへと向かったのでした。

13000年前の大鹿窪遺跡にて

 

12月2日 第1日目・ヒ
(一つ・日・火・陽・秘かに始まる)

― 成田空港へと向かう車中にて

《タイ・タイヨウ・核融合》

ようこ:
今日タイへと向かうということで、今朝から「タイ」の「タ」の思念について考えていた。「タ」の思念は分離独立でしょ?「リ」も分離でしょ?でも、自転・公転を意味する「マワリテメクル」の「リ」の分離と、「カタチサキ」の「タ」の分離独立は違う意味なのだろうと考えていた。というのも、「タ」は「タイ」の「タ」でもあるし、「タナココロ」の「タ」でもある。以前いさどんが、「タイは癒しの国だから、マッサージなども学べるといいね」と言っていたね。その時に、「タイのタはタナココロのタでもある」と思っていた。

そして今、昇る朝日を観ていたら、「タイヨウ」も「タ」だ!と思ったの。

いさどん:
「タ」の分離独立というのは、それ自体が自立してある状態。つまり、ものの本質が強いもの。それに対して「リ」は本体からの分離という意味で、何かから付属のものが離れた状態。だから、「タ」のほうが独立心が強く、「リ」は本体からの分離だから、「リ」のほうが弱い。

ようこ:
「タイ」をカタカムナの思念でひも解くと・・・

いさどん:
独立した(タ)位置(イ)だから、タイは独特の世界観を持っているということ。

ようこ:
タイという国は本当に独特だよね。昨年プミポン国王が亡くなられた時に国民全体が悲しむ雰囲気をテレビで観ていて、そう感じていた。今年2017年を木の花では「爆発の年」と呼んでいるでしょう?「爆発」は、ある意味「核融合」とも言えるから、太陽の核融合にもつながるし、いさどんは「心の水爆」の話もしていたね。

タイ・タイヨウ・核融合・・・

いさどん:
太陽は、独立した(タ)位置(イ)の横の渦(ヨ)の渦(ウ)だから、太陽というのは完全に独立したものの渦が極端に強いということ。だから、核融合だ。それに、太陽は英語でSUN(サン)だから、「サン」の思念をひも解くと、まず「サ」は差があって狭い位置を意味し、それに「ン」がつくということは、「サ」が強いということ。つまり、極端に差があるもの。狭い位置というのは、それしかないところに強く表現されるということ。それが「サン」だ。

ようこ:
この前、「チキュウ(地球)」の思念をひも解いた時に「アース(EARTH)」でも観ていったように、日本語と英語の両方でひも解くと多角的に物事の本質を掴めるね。爆発の年の締めくくりに、このタイ行きがあるというのも、今はわからないけれど、何かありそうな予感がする。

いさどん:
タイでの新しい村づくりがどうなっていくのか。それが意外と火がついたように進んでいくのかなとも思う。

ようこ:
これまでインドでも木の花ビレッジを建ち上げようという話はあったけれど、今回は現実化する気がする。そのことが今回の旅でひも解かれていくのでしょう。

いさどん:
僕は前から、なぜタイという国に縁ができたのか、と思っていた。今回のこの旅がこのことを確認する旅になるのだろう。

 

──── 成田空港に到着し、約7時間のフライトを経て、タイ王国・バンコクに到着。そこから車にてチョンブリー州まで移動し、エコ寺院のあるマブ・ユアン自然学校に到着。エコ寺院に到着したいさどんはまず、2年前にクニツクリ祝詞を奏上した仏像に挨拶に行った。

 

《仏像からのメッセージ》

エコ寺院の仏像

いさどん:
利益(りやく)を願うものではないと思うが、2年前に招かれた仏像の開眼式では、確かに性入れをする役割を果たした。しかし、それに対する、自分が何か特別なことをしたという意識はなかった。

そして今日、何もない気持ちで、とりあえず仏像の前に座った。ここまで来たのだから、と。そうしたら意志表示があり、「共に創り上げていきましょう」と言われた。そこで「もちろんです」と答えた。それは、実は枠が大きな話でね。

タイまで来てどのような役割があるのか、それはまったく未知なる歩みだが、先のことは考えない。何の役割があり、どのような目的が未来にあるのかを考えない、今までと同じように、わからない状態でいこうと思う。与えられるものは何でも引き受けていこうと思い、意欲としては真っ白な状態でいる。飛行機に乗って7時間、車に乗って3時間も揺られながらここまで来て、何ができるのか、と思う。そのエネルギーがどこに役立つのかと思いながら来た。そうしたら、「共に創り上げていきましょう」と言われた。

そこでは、こちらから何かをお願いするということはない。「もちろんです」ということ。「もちろんです」というのは、時代が切り替わっていく時に役に立つものであるということだ。

 

12月3日 第2日目・フ
(二つ・膨らむ・拡大縮小という矛盾する二つの性質が広がる)

《毎朝、新たな太陽をいただきながら》

いさどん:
このタイの出会いは理屈とはまったく違う話だろう?だから、いただいた縁をただこなしていくだけ。そして結果がついてくる。だから、僕の心はまったく無色で無欲だ。

例えば、僕が祝詞をあげる。そうすると、それはここの僧侶の読経や子どもたちの演目とはまったく意味の違うもの。どうもプラ・サンコムは、「世界中の人たちと共に」というイメージを持っている。だから、タイからだけではなく、ブータンやアメリカから僧侶が来ていたり、ラオスやブータンの伝統衣装をまとった子どもたちがいたり、インド・ロシアやドイツからもゲストが来ている。

プラ・サンコム氏の初の試み・第1回インターナショナルパレード

ようこ:
今日の午前中に行われたパレードは、プラ・サンコム曰く、「第1回目の試みのインターナショナルパレード」ということで、「このパレードに参加する皆さんはパイオニアなのです」と言っていたね。

いさどん:
そうしたら、ようこやみちよが奉納する舞や僕の祝詞も十分に個性的な参加の役割を果たしている。そして、我々は物理的なパレードではなく、霊的なパレードの参加者だ。

寺院の落成式・夜の式典にて ー タイ舞踊の披露
「みろくの世」の舞を奉納

いさどん:
・・・そうか。プラ・サンコムには目的があって、それを成し遂げようとする道がある。彼にはそれが見えていて、それを成し遂げようとする意志があり、行動している。我々にも目的があり、それが観えている。ただ、その観えているものが何かはわからない。我々の目的は天の意志に従って美しい世界を創ること。それは、結果いただくもの。違いはあっても、今、目的に向かってやるべきことをやる立場は同じということだ。

プラ・サンコムがなぜ僕のことを「マスター」と呼ぶのか。それは、プラ・サンコムにはたくさんの縛りがあり、それを壊していくことができないからだ。それに対して、縛られていない新しいパイオニア的存在が必要なんだよ。それを突破口にして、彼の目的を果たしたい。そこに、彼の曇りや悪意はない。そこに天が目をつけて、この道をつなげ、地上に光の道の突破口を開こうとしている。つまり、プラ・サンコムの活動は、天の意志がやっているものだ。だから天は、「いつも共にあります」と言うのだ。

ようこ:
今、気付いたけれど、プラ・サンコムのプラは尊称でしょう。サンコムという彼の名前の中には「サン(太陽)」が入っているね!まさに、太陽の導きだ。

いさどん:
そこでひとつ、気付いたことがある。夜、一日が終わって眠る時、その睡眠の先には明日がある。眠る時に、眠る内容を考えない。そして、精神状態にふさわしい夢を見て、時間に縛られずに自然に睡眠が終わる。そうすると、そこに次の日、つまり新たな日が現れて、それは霊的な日の出だ。その時に現れる思考は、新たな日を生きる太陽の意志。日の出の意志。朝の閃きは、天の意志。そうやって毎日を生きればいい。どんなに忙しい日々を過ごそうとも、今日一日が終わったら、新たな一日に向けて真っ白で無垢な状態にして向かい、朝、新たな太陽をいただく。極めて新鮮に一日をスタートさせる。瞬間瞬間をこの心で無垢に生きていくことだ。そこには思惑も何もない。美しく生きるとはそういうこと。それは、天の意志を生きることであり、宇宙を生きるということだ。これが、21世紀の人類の歩み方だ。お釈迦様の時代には、まだそこまで人々は到達していなかった。今、2000年を越えたからこそ、人類の目覚めの時を迎えている。

夜空に輝く満月

 

12月4日 第3日目・ミ
(満ちる・目に見えないが心で感じるもの)

《プミポン前国王からのメッセージ》

クニツクリ奏上を行ういさどん

いさどん:
今日の午前中、仏像に向かってクニツクリ奏上をしていた時、昨年亡くなられたプミポン国王の魂が来ていた。「志を受け継いでくれて、ありがとう」と。

ようこ:
そうだよね。霊的には、私たちはプミポン国王との縁でタイに来ているようなものだものね。物理的にはプラ・サンコムとの縁だけれどね。

いさどん:
タイという国を大きく二つにわけると、タイはまさしく今、モータリゼーションの真っ只中。日本の30年~40年前の状態で、人々は豊かさの欲求を満たそうと、車を買うことが物理的な豊かさのステータスになっている。プラ・サンコム曰く、タイには50ぐらいの財閥があり、タイの政治・経済を握っているとのこと。そういった人たちが儲かるような仕組みになってしまっている。だからある意味、これから経済的には発展しようとする国なのだが、腐敗は進んでいるということだ。

それに対して、プミポン国王が提唱していた「足るを知る経済」に共鳴する人たちも少数ながらいる。「足るを知る経済」とは、物理的豊かさを追求すると人々の心が乱れ、国土が荒れ、地球環境が悪くなるということで、必要な分量をわきまえ、心の豊かさを追求することの大事をプミポン国王は提唱した。そういった意味では、まさしく木の花が提唱しているのと同じことだ。彼はとても意識が高い人だったが、残念ながら彼の精神の高さとそれを受けた国民の意識は一致しなかった。

心の豊かな国を創っていこうとする動きは、世界的には先駆けた動きだ。タイのように経済発展が後から出発した国であっても、そういった意味ではこれから世界の最先端になれるという考え方を持っている人たちもいる。ただ、それは全体数から言えば、僕が感じる限り、少数派だ。プラ・サンコムはその代表的な人なのだが、彼の立場はあくまでも僧侶なのだ。

本来、仏教は自由・平等というお釈迦様の教えのもとにあったはずなのに、男女の格差ができ、戒律でがんじがらめになってしまっている。たとえば、男性のお坊さんと女性の尼さんのランクの違いは絶対的なもの。さらに、小乗仏教でもある個人の悟りを探究するというところから、悟りのレベルがどこまで到達しているのかによって、僧侶の間にもランクがある。そして、僧侶と一般市民の間にも絶対的な差がある。そういった封建的な縦社会がそのまま現在も残っている。

僧侶たちの説法を聞くと、内容についてはまったくその通りだが、もう世界観が古くなっている。彼らは戒律を元にして教えを説いているから、戒律を超えた思考が生まれてこない。それが宗教の限界だ。逆に、そういったことではこれから宗教が時代の進化を妨げるものにもなっていく。そして一般庶民が真実を知り出すと、お坊さんに頼らなくなる。そうすると、お坊さんも自分たちの土台をすべて取り払い、一から積み重ねなければならない時が来るだろう。その時に本当に僧侶の精神を持っていたならば、潔く今までの台座を捨て、ゼロから積み上げる志があれば、やはり僧侶は今までの志の分だけ早く目覚めることとなるだろう。しかしその地位に執着すると、時代に乗り遅れ、逆に落ちていくことにもなる。僧侶たちにも、これからその覚悟が必要だ。

本来、得度する人々が減り、一般民衆が目覚める時が来ている。21世紀は民衆の目覚めの時代だからね。

 

12月5日 第4日目・ヨ
(よこしま・混沌・世・横回転の現象化の渦)

《真の自由=クニ》

いさどん:
本来、仏教の教えは平等であること。僕が言う仏教の教えとは、皆が「差」を「取り」、共に助け合って暮らすこと。それが「悟り」だ。

昨日思っていたのは、僧侶は仏教の本当の意味をもう一度問い直すべきだということ。仏教とは何ぞや、と。お釈迦様は、経典に書いてある通りのことを言っただろうか。どこに根拠があるのか、と。

そして、大切なのは、人がヒトとして時代を生きながら、その真実を見出せる力を持つこと。なぜ仏像があるのかと言うと、それは仏像にすがるためにあるのではなく、我々がブッダの精神に立ち返るためにあるのだ。

ブッダの精神とは、高い意識のこと。高い意識とは、本来、自由でなければならない。それは、戒律からも解き放たれた自由だ。そうすると、時代が変われば人の心も変わる。戒律が壊れることにより、自分たちが維持してきた組織や生き方が変わることを恐れてはいけない。時代が変わるということは価値観が変わるということであり、それが宇宙を生きるということ。だから、目の前に起きることに常に寄り添う姿勢が大切だ。

僕は昨日、クニツクリ奏上をした。実はあの時、集中して奏上していたわけではない。僧侶たちは、まったく違うものが来たという感じで、彼らなりに新鮮にそれを受け止めていたから、僧侶たちが座っていた左側の方は気にならなかったが、右側の方にいた子どもたちのことは気にかけていた。子どもたちが、これをどう受け止めるのか。この場に居続けられるのか、それとも飽きてしまうのか。飽きてしまう前に、収めてやることが大事だと思った。そうすれば、中身はわからなくとも、彼らの精神レベルのキャパを超えることはないから、「ああ、こういうものもあるのだ」と受け取れる。そんなことを思っていた。

やはり、次世代の子どもたちには良い形で渡さなければいけない。新たな時代を生きる子どもたちの精神を一切無視して、古い戒律を一生懸命語り続ければ、やがてそれは子どもたちにとって苦しいものになっていく。この学校で勉強した子どもたちはとても良い子たちだが、これから先、どこまで仏教徒であり続けるのだろうか。仮に仏教徒であり続けなくても、今までの時代をどこまで維持し続けられるのかと言えば、タイの社会の現状からすれば、やはり車も欲しいだろう。そこで、そういったものを戒律から否定するのではなく、本当に自分自身に問うて、物やお金に使われるのではなく、どう使いこなしていくのかが大切なのだ。

今現実に、仏教の中でも差別化が起きていて、そこに平和が見出せない状態でいる。だからここでは難しいと思った。そこで、何ができるのか。

昨日、確かにプミポン国王の魂を感じた。お釈迦様の心も感じた。そこで僕は、「この僧侶たちの精神の延長に、この動きが時代を乗り越えていけるのでしょうか」と問いかけたら、「だからあなたをここに呼んだのです」と言われた。そこで、「私に何をしろと言うのですか。私は先を読まない者ですからここにおりますが、一体私に何ができるというのでしょうか」と問いかけた。そうしたら、一番初めに仏像と対話した時に、「共に創り上げていきましょう」と言われたことを思い出し、こう伝えた。「その精神ならば、私はやれます。しかし今、何かをするということは、私の頭の中には何もありません。最初はとても違和感を感じていましたが、今は、何か役に立つのかもしれないと思い、落ち着いていられるようになりました。」

仏教精神をもっと広く拡大し、平等な場を創った ──── もしくは目指しているのが、木の花ファミリーのあり方だ。カタカムナまで行くと極端な拡大だが、そこまで、人間たちの精神が宇宙時代にならなければいけない時が来ている。それは古いけれど新しい。だからそれは、古くはならない。ブッダの教えも、たった2600年のことなのだから、それにしがみついてはいけない。そういった賞味期限を感じながら、地球はどんどん宇宙を先へと進んでいく。そして、次の時代が確実に押し寄せてくる。

プラ・サンコムのマスターが語っていたように、誰もが死ぬ。それは当然のことであり、だからこそ、縛られていてはいけないのだ。

プラ・サンコムは、いさどんという得体のしれない存在を「マスター」と言う。しかしそれは、仏教という枠の中では捉えきれない存在だ。そういう可能性を彼は残していきたいと思っているのだろう。しかし戒律の中で、彼はそれを表明しきれない。僕が彼に伝えたいことは、ここでの活動はとても意味のあることだが、ある程度これをやりきったら、やはり木の花村をタイに創るべきだ。そして彼はそこのリーダーとして、もっと自由に生きるべきだ。

現代の人々は、自分の考えを持ち過ぎてしまった。だから、自分を否定されることを怖がっている。そして、結局何かに囚われている。

宇宙を生きる ──── 宇宙と共にあるということは、自己否定の道だ。しかし、世の中がここまで来ると、誰もが自分自身を否定できない。しかし、本来我々は自由でなければいけない。そのことが、皆わからない。僕が奏上する祝詞を、なぜ「クニツクリ奏上」というのかと言えば、「自由(ク)が定着した(ニ)世界を創る」ということだ。

ようこ:
それはまさに、真の自由のこと。

いさどん:
人が自我による願望を叶えることをやめ、宇宙の響きと一体となった時に、必要な物事はすべて自動的に成っていく。それが、宇宙の星々の関係のような、フリーエネルギーの状態であり、自ずと成っていくということ。それは極めてエネルギーがかからず、スムーズで精妙に行われていくので、我々人間の思考では到底理解できないような状態でもある。そのような状態になった時、自らの囚われから解放される自由と、物事が自ずと成っていき、それが極めて道理にのっとっているからその心地良さに乗った自由の、ふたつの自由がそこでは感じられるようになる。

ようこ:
それが、「クニ」ということだね。

いさどん:
そう。それは我々が日常を生きている中に感じることができるもの。だから、心を磨いて自我を優先させない姿勢が大切だ。そこまで宇宙の流れが現象化してくると、自ずと事は成っていくから、それが極めて心地の良い状態。それは、宇宙遊泳で人間が自分の体重の圧力、それから大気の圧力を感じなくなるのと同じくらい、解放された状態なんだよ。それは、人間が悟りを開き、魂だけになった時の状態でもある。その状態で日常が生きられる。これは、仏教でいう「悟り」の世界。その道に気が付くということが、たとえばキリスト教で言う「福音を聞く」ということだ。

その悟りの境地に至るということは、地球に平和をもたらすためにある。平和というのは、心が解放されて、誰もが自由になっている状態のこと。プミポン国王は、亡くなってからそのことに気付いたはずだ。彼は疑問を持ちながら、その本当がわからないまま亡くなったのだと僕は感じる。そして、彼が亡くなってから気付いたのは、「ブッダの精神は戒律の中にはない」ということなんだよ。

ようこ:
だから、プミポン国王は亡くなられた直後にいさどんの元に現れた。それは、バトンタッチということ。

いさどん:
彼の理想は、この古い仏教にはない。しかし、亡くなってからそのことに気付いた。誰も、一つの生き方をモデルにして、それを正解として歩むべきではない。聖なるものとは、見本ではない。それはそのもののオリジナルの生き方の見本だ。皆が自分らしく生き、その自分らしさがこの宇宙の法の秩序に則っている世界そのものが調和であり、それが平和だ。自らに与えられたオリジナルのピースを存分に発揮し、一番ふさわしいところにはまる。そこを見つけることだ。それは他者が喜び、社会を健全にし、そして自らが存分にその生き方を喜び、希望を持って表現する道だ。

ようこ:
昨年プミポン国王が亡くなられた時にまとめたものがあるので、読んでもいい?昨年の10月15日に書いています。

 


《プミポン国王からのバトンタッチ》

一昨日の夜7時のニュースで、タイのプミポン国王の容態が不安定だということを知り、「彼はもうそんなに長くないかもしれない」と思った。

そして7時半頃、座椅子に座っているいさどんの後ろに、プミポン国王の立っている姿が現れた。その時の国王の姿は先程のニュースで映っていた現在の白髪の年老いた姿ではなく、いさどんと一緒に昨年タイを訪問した際、寺院に飾られていた若かりし頃の国王の姿だった。

2015年12月に仏像の開眼式に招かれた

いさどんの後ろに国王が立っている姿を目の当たりにした私は、「彼はいさどんにバトンタッチしてから彼の行く先に向かうのだ」と思った。

それで昨日、午後3時頃、みちよんからの「タイの国王が崩御されたことを受けて、プラ・サンコムにメッセージを送ろうと思います」というメールを見て、国王が崩御されていたことをそこで初めて知った。それでインターネットで調べてみたところ、実は彼は日本時間で一昨日の午後5時52分に崩御されていたことを知り、「彼は肉体を離れてから、いさどんの元に来ていたのだ」とわかった。

そこで気付いたこと。昨年いさどんはプラ・サンコムに招待されて仏像の開眼式で祈りを捧げた、と今日まで私は認識していたのだが、実はいさどんは霊的にはプミポン国王に呼ばれ、彼の最後の誕生日(2015年12月5日)をタイの地でお祝いしてきたのだということ。もちろん、プミポン国王というよりも、そこには天の意志、時代の流れがある。

プミポン国王は、親日家としても知られ、1963年国賓として日本を公式訪問し、2006年の即位60周年祝賀行事には天皇皇后両陛下が出席されていたそうだ。

昨年、いさどんと一緒にタイを訪問した時には、特にプミポン国王との霊的なつながりを私は感じず、一昨年のインドの旅に比べタイという地にそれほど霊的なつながりを感じてこなかったのだが、今日になってその物語がするするとひも解けてきた。

昭和天皇様が崩御された後にいさどんの元に現われ、「日本の国をよろしくお願いします」と挨拶されたこと。談話室で休んでいたいさどんに山岸巳代蔵が現われ、いさどんに握手していったこと。一昨年の11月インドのガンジー記念館で、いさどんがガンジーの聖なる魂の波動を感じ、新たな時代の幕開けにつなぐものとして、彼から魂のバトンを受けたこと。今年の花祭りの際、出口王仁三郎さんから「私が実現したくてもできなかったことを実現してください」と託されたこと。そして今回、タイのプミポン国王からバトンタッチされたこと。

木の花ファミリーに託されているものは、私の人智では到底計り知れない ──── 。だから、天の物語を共に紡いでいくだけ。想像以上の物語がすでに用意されているのだから。


 

いさどん:
あなたはやはりここにいるべきだ。なぜなら、そういった記憶を忘れずに今日のこの場につなげるのだから。

ますます、先は見えなくなった。見えなくなったからこそ、進める。これが見えていたら、先へは行けない。なぜかと言うと、見えていたら、この古い戒律の中に我々も入ることになってしまう。それは今さらできない。見えないからこそ、行ける。この先に何があるのかを楽しみにして。見えていては行けない。

すべてのものは様変わりしていくのだから、わかった時点でそのわかったことを捨てなければいけない。いつでも自由自在に方向転換できることが宇宙の実相だとしたら、いつでも自由自在に時代の要請に合わせ、自らの価値観をひっくり返すことができるはず。それが本当の意味の高い精神を有するものであり、本来の仏教精神だ。それが「クニツクリ」であり、自由になっていくこと。そこに尽きる。

我々には、時代の波を泳いでいくことしかできない。波に呑まれてはいけない。逆らいもしない。波を乗り越えて泳いでいくことだ。我々の存在は、今までの世界に在る価値観で特定できないことは確かだ。何ものであるかはわからないが、それは未来が教えてくれる。

ようこ:
だからタイの人たちにとって、私たちが奉納したことは単に異国の空気というだけではない。これは日本の伝統でもないからね。だから、「一体何ものなのだろう?」と感じるのだろう。例えばクニツクリ奏上にしても、どうも日本の伝統ではないようだけど異国の新しい感じが漂っている。いさどんの奏上している雰囲気から、何か重要なことをやっていることは確かだ、と感じている人もいた。それは、「あれ?ここはどこだろう?」という世界。その心を私たちが生きれば、人々が目覚めるきっかけとなる。

いさどん:
我々は前人未到の道を生きている。それはパイオニアということではない。これは宇宙の実相だ。それは、常に自由であるということ。何ものにも囚われない。変化・変容・変態をくり返しながら常に進化する。そして時代を生きる。それが、宇宙を生きるということだ。

そうすると、過去のたくさんの聖者たちがここに託してくる意味が理解できる。彼らの生き方は決してそこで終わっているわけではなく、時代と共に未だに生き続け、進化し続けているのだから。そこにつなげないと、皆がつながらない。これは、地球上に平和をもたらすだけではなく、霊的にも平和をもたらす道だ。

僕は昨日のプレゼンテーションの最後に、「仏教の教えによって自我を取り除くことが、21世紀の新たな時代を導くことに気付きました。ですから、世界を平和にするためには仏教の精神が必要なのです」と語った。しかしそう言いながら、「NO」とも言っている。なぜなら仏教も進化し続けるものであり、戒律で縛るものではないからだ。仏教とは宇宙の法なのだから、そこを間違えてはならない。

僕は少なくとも、自由に生きられる立場を持っている。難しいとはいえ、誇れる生き方だ。

プミポン国王の志が何であったのか。お釈迦様の志が何であったのか。それをもう一度問い直さないといけない。後の人たちが自分たちの組織を維持するためにつくった戒律に、いつまでも縛られていてはいけない。

ある意味、プミポン国王は戒律の頂点にいた。頂点にいたからこそ、ある意味自由であり、不自由であった。その両方を感じていた。意識の高い人であったことは確かだが、意識が高ければ高いほど、自らの立場というものに矛盾を感じる。彼は王として生まれてきて、お釈迦様の精神と同じものを持っていたということだ。僕はいいね、自由な場所にいるよ。

ようこ:
だからこそ、この役割を果たせる。

いさどん:
心の王ではあるが、形の王ではない。難しいけれど自由な立場を与えられている。ありがたいね。

ようこ:
ありがたいね。

いさどん:
これは難しい。つまり、心はこの地上を生きるのではなく、天を、宇宙を生きなければいけない。我々は今も宇宙空間を旅している。世界観を広げることが、唯一、次に扉を開く道だ。だから、今やっていることは間違いない。「間違いない」というのは、囚われた「間違いない」ではなく、自由を見つけたという意味での「間違いない」だ。悟りというのはそういうことだ。ある特定の位置にポジションを見つけるのではなく、自由自在に囚われないというところに見つけなければいけない。

よし!今、「ありがとう、タイよ」というフレーズが出てきたが、そうではない。「この世界と共に」ということだから、そこにタイも入っているというだけのこと。

今日は良い時間をありがとう。

ようこ:
ありがとうございました。クニツクリ奏上をしてこの時間を締めませんか。

(クニツクリ奏上)

 

12月6日 第5日目・イ
(位置・現象界に最初に現れる粒子)

ー 朝、寺院を出発する前、仏像の前でクニツクリ奏上を皆で行った。

《昇る朝日のような道しるべ》

いさどん:
今、天に語りかけることは ──── 私の思うところを生きます。それは、天の示されている美しい心を持ち、地上に美しい世界を表現すること。私の意志はそのことに何ら偽りはありません。しかしながら、地上のものたちが未だ今までの価値観に囚われ、天の示される意味を理解しておりませんゆえ、正しさを履き違えております。そこで、私は天の意志に目覚め、新たな時代と共に先駆けとしてそれを実践していくことを自覚したものとして進みます。

なぜならば、地上のものの知恵を使って先を思い、それを想定していくことは、天との対話により存在するこの世界の真実から離れるからです。我々が目指すべきもっとも重要なことは、天の意志に沿って生きること。その先について、我々は考えません。それがどのような道であっても、その苦難を受ける覚悟はありますが、歴史がそうであったように、その道を開く天の意志と共になければ、その道はただ苦難だけに終わります。

まっすぐな道の先に、昇る朝日のような道しるべを示していただく ────。わかりました。

(しばし沈黙)

今、この歩む道の先に昇る朝日のような光が射してくるのが観えた。

お釈迦様は、自らに訪れる自分の中の魔を払拭した。お釈迦様は人々を導き新たな時代を示すために、自らの心の中に訪れる魔と対峙したわけだ。・・・そうか。わかったぞ!

僧侶たちはお釈迦様に訪れた魔を想像し、それを戒律として定めたのだ。しかし、魔と対峙するということは、戒律を守ればいいということではない。それは、真っ直ぐな光への道を見極める心をつくること。だから、出来事を指しているのではない。出来事はすべて幻だ。しかし、その出来事に対するこちらの心が魔を生み、汚れをつくり、美しいものを汚していく。だから、美しい心で真っ直ぐ歩めば、この世界にあるものはすべて美しくなる。それが、天が我々に求めていることであり、そこに汚れた心を一切介在させるな、ということ。つまり、解釈を介在させるな。解釈を介在させず、自然生態系の姿のように、一切そこに駆け引きの心をはさまず、美しい行いをすれば、美しい世界になっていく。

・・・言葉で表すのは難しい。でも、わかったぞ!

魔は、人の心の中に差すのであって、人々はそれを恐れて戒律をつくった。そして、戒律を守ってさえいれば道から外れないということにしたから、人々は美しい心を見分ける力を失ってしまった。己の心が美しく、真っ直ぐに、その光に向かっているならば、そのまま行けばよい。

目的は美しい心になることであり、戒律を守ることが目的ではない。戒律は手段だ。ただ美しくなればいい。

ようこ:
結局、世の中でも仏教でも、「形」が問われているけれど、私たちは「心」を問うているわけだから。

いさどん:
心を美しくすれば、自ずと形は美しくなる。

私がそのようになればいい。もうすでに時は来ておるゆえ、私がそのように歩めば、そこに道のあるものはすべてそこに追随していく。

・・・目をつぶると、この道に出会った頃のことを思い出す。己の姿が大仏のように大きくなって、目の前にいる小さな小豆粒のような存在が、その時の自分自身であるということに気付いた時のことを。

今は目をつぶると、己が黄金に輝く巨大な魂であって、その目からこの世界を眺めている。それは、おごりでもなく、真実の目を持ってみると、そのような景色が観える。

ようこ:
だから、いさどんに現れた黄金のブッダは、人の到達すべき魂としての境地を示していた。仏像はいつも人間界を眺めているでしょう?だから、仏像を偶像として崇めるのではなく、魂のあるべき姿として観ればいい。

いさどん:
我々は仏像を崇拝しているわけではないが、けじめだからね。クニツクリ奏上を行おう。

(クニツクリ奏上後)これは良い旅だ。

ようこ:
このエコ寺院をデザインし、天井画も描いたナショナル・アーティストのプリーチャさんによると、この月は7つあって、7日間・1週間を示している。しかし、それを聞いたいさどんは、「でも、あそこに見えない新月があるから、月は8つだよ」と言っていた。

上部に新月がある

その時に私は、「第8番目の聖者」の話を思い出した。これからは一人ひとりの衆生が目覚める時代でしょう。誰もが第8番目の聖者である、ということを思った時に、この8番目の月の下のところにマハジャナカ王(ブッダの過去生)が7日7夜泳ぎきって自分のやるべきことはやりきった時に、天使が現れ、天のサポートがあって助かったという物語が描かれている、と思った。

いさどん:
決意を持って命を懸けて乗り切ったということだ。

ようこ:
あそこに描かれているのが現代のバンコクのような混沌とした乱れた人間世界だけれど、ちょうどこの新月のところに描かれているのは人間のあるべき理想世界なんだよ。

いさどん:
これは桃源郷を現している。

乱れた人間世界
人のあるべき理想の姿

ようこ:
プリーチャさんがそのことを意識して描いたのかはわからないけれど、天意としては、これからの人々の目覚めを示していると感じたんだ。

いさどん:
この世界は八方世界だから、そうすると七方に対して、見えない八方世界に人間には見えない真理がある。この天井画でも、我々が行うクニツクリ奏上でも、宇宙の成り立ちを現していて、我々はその成り立ちの中に皆、組み込まれている。

だから、人々はそろそろ上を向いて生きていかないといけない。

昇る朝日に向かって歩くいさどん

 

― その後、ニーム製品を輸入しているワサント社のあるサラブリ州に車で向かう。お昼にワサント社に到着し、午後は施設見学。

 

12月7日 第6日目・ム
(六つ・上下左右前後の六方向・無)

― サラブリ州から、プラ・サンコム氏の故郷であるスリン州に電車で向かう。夕方、スリン州に到着。大きく真っ赤な夕日に出会う。

《六角堂ではなく、八角堂を》

ようこ:
私は今まで太陽が八角形というか、正八面体と思ったことはなかった。太陽は球だと思っていたのだけれど、今、太陽を見ていたら八方に観えてね。すべては同じだと思った。

いさどん:
太陽にも、北もあれば南もある。春分から夏至・秋分・冬至もある。だから、この世界は八方世界なんだよ。

ようこ:
それを、ナショナル・アーティストがプラ・サンコムの寺院の天井画に表現していたのもすごいね。彼は「宇宙は八方だ」と言っていた。

中央の花のようなシンボルが、宇宙が八方であることを示している

いさどん:
その昔、僕が田舎の先祖の土地に八角堂を創ろうとしていた(笑)。

ようこ:
本当だね!なぜその時に八角堂だと思ったの?

いさどん:
普通、建築では六角堂というのはあるのだが、僕はなぜだか「八角堂でなくてはいけない」と思ったんだよ。

ようこ:
すでにこの世界の仕組みを感受していたんだね。

いさどん:
そして、そのまわりの土地は円にして、円の中に八角堂を建てるというイメージだった。まあ、途中で終わってしまったけどね。

「宇宙は丸く、地は方なり。」方というのは、四方ということ。

ようこ:
四方というのは、八方のことだからね。四の対向発生は八になるものね。

いさどん:
だから、四苦八苦というんだよ。

ようこ:
いさどんは、ここスリンでもクニツクリ奏上をする感じがする。先のことは行ってみないとわからないけどね。

 

12月8日 第7日目・ナ
(七つ・成る・質的転換・分身)

― 午前中はプラ・サンコム氏一族が運営する土地を見学。午後は市内を見学し、夕方、プラ・サンコム氏の故郷の寺院に招かれた。プラ・サンコム氏はいさどんにクニツクリ奏上を行うことをリクエストし、その前にいさどんは寺院に集った村人たちに対して挨拶をした。

寺院に集う村人から歓迎の読経をいただく

《この世界を清浄にするために》

いさどん:
皆さん、はじめまして(大拍手)。私たちは日本の富士山麓に暮らしています。その土地は13000年前に人々が暮らしていた、日本最古の遺跡の上にあります。ちょうど13000年前、東アジアにカタカムナ宇宙物理学を元にした高度な精神文明が栄えていました。私たちはその土地に暮らしながら、今の時代が物やお金にあふれ、人々が幸せでないことを憂い、共に助け合う暮らしをカタカムナ文明に倣いながら、心を美しくすることを最も大切にして生きています。今回、タイには友人のプラ・サンコムに招かれ、皆さんとお会いするために来ました。

これからの時代、世界中の人々が助け合って暮らし、その心の豊かさの上に幸せがあることが大切です。その大事を皆さんと共に広げたいと思っています。私は今回で3回目のタイへの訪問です。タイの国へ来ると、仏教国であることがわかります。本来の仏教の自由で平等な精神は、私たちが目指す社会創りの元となるものであり、私たちが求める精神そのものです。特に、この土地にはとても親しみを感じます(大拍手)。

ただ今から、宇宙の誕生・発展・消滅を表したカタカムナのマントラを奏上します。それはこの世界を清浄にします。皆さん、お聞きください。

クニツクリ奏上前に仏像に献花

 

12月9日 第8日目・ヤ
(八つ・飽和安定・極限)

《「やっと出会えたね」-ヤイターさんとの運命の出会い》

いさどん:
昨日、プラ・サンコムにここの土地を初めて案内してもらっただろう?実は不思議なことに、プラ・サンコムの姪のお父さんが持っている土地に行った記憶が僕にはある。そして、そこへ行った時にその隣で土地を持っているヤイターさんという女性がいただろう?彼女は70歳くらいに見えたのだが、実際は54歳だと言っていた。実は、僕は彼女に会った記憶があるんだよ。

彼女はプラ・サンコムやプミポン国王の話に賛同し、プラ・サンコムのビレッジと同じように、彼女の土地のまわりに池をつくった。池には魚がいて、ホテイアオイがたくさん繁殖していた。それに、たくさんバナナの木が植えられていた。プラ・サンコムもそれを手伝ってね。そうしたら、彼女の夫はそのことに強く反対し、それでも彼女がやり続けたら、彼女に暴力をふるい、しまいには彼女の歯が折れてしまった。彼女は今も一人でそれをやり続けている。

過去に、僕はその話を聞いた覚えがある。彼女の土地をずっと歩いていくと、途中の池にホテイアオイがたくさん茂っているのも見た記憶があるし、さらに奥に行くと豚が飼ってある場所も見た覚えがある。

池に繁殖しているホテイアオイ
豚小屋

しかし、プラ・サンコムは、今回彼女の土地へ行った時に初めてその話を僕にしたのだと言う。ところが、僕にはその景色の記憶がすべてある。それに、彼女の歯の話も僕は知っていた。だから、プラ・サンコムがその話をし出した時、「あれ?聞いたことがある話だ・・・」と思い、懐かしく感じていた。だから、余計に彼女も懐かしく感じたのだと思う。昨日、僕が彼女に「あなたのしていることはとても大切なことですね」と伝えたら、彼女は泣き出した。そんなこともあって、ヤイターさんとはとても仲良くなった。

ヤイターさんといさどんの運命の出会い

ちなみに僕の知っている豚小屋は、もう少し整備されていた。だから、もしかしたらそれは、未来のことかもしれない。

ようこ:
それを聞いたプラ・サンコムは、「それはいさどんの第六感ですね。あなたの魂がヤイターさんの元に行っていたのです」と言っていたね。

いさどん:
まさにデジャブだよ。スリンは初めて来た場所だからね。

 

― 夜行列車にてバンコクへと向かう。

 

12月10日 第9日目・コ
(極限を超える・転がり出る)

― 朝になり、バンコクに到着するまでの車中にて、いさどんとプラ・サンコム氏はスリンでの村づくりプロジェクトについて語り合った。

《日出ずる村・アルンルンビレッジ!》

いさどん:
スリンでのプロジェクトを進めるためには、まず、ビレッジの名前を考える必要がありますね。そこからスタートです。

プラ・サンコム:
タイ語で、このプロジェクトの名前は「母なる大地への感謝」です。それは、私にとっての理想のビレッジの名前でもあります。

いさどん:
そのプロジェクトの名前を村の名前にしたらいけないのですか?

プラ・サンコム:
それはあまり良くないですね・・・。何か別のものを考える必要がありますね。というのも、村の名前はもっとインパクトがあるほうがいいと思うのです。たとえば「木の花ファミリー」のように。

いさどん:
ハッハッハ。

プラ・サンコム:
たとえば、タイには「パンパン」というビレッジがあり、それは何千もの種という意味です。

いさどん:
それでは、あなたの姪に「ギン」ちゃんがいますが、「ギンギン」はどうですか(笑)?

ようこ:
日本語では、「ギンギン」と聞くと、エネルギーが強く、輝いているイメージが浮かびます。

プラ・サンコムの姪 ギンちゃん

プラ・サンコム:
それでは、「Rising Sun (昇る朝日)」はどうですか?「Rising Sun Village (日出ずる村)」というのはどうでしょう?・・・・見てください!鳥肌が立っています!!

Rising Sun Village!!

富士山に昇る朝日はぴったりでしょう??

富士山と昇る朝日といさどん

いさどん:
その昔、僕は「その心、日の本の国全体に説くがよい」と天から啓示を受けました。「日の本の国」とは地球のことです。

プラ・サンコム:
世界中には木の花ファミリーやオーロヴィルのような新たな価値観を目指すコミュニティがありますが、私のコミュニティは「Rising Sun Village」です♪

ようこ:
英語で、日本という国は「The Land of the Rising Sun (日出ずる国)」とも言われています。

プラ・サンコム:
お釈迦様の時代、お釈迦様は、「叡智とは昇る朝日のようなものだ。黄金の光のようなものだ。黄金の光を受け取ることは叡智を受け取るということだ」と言われました。

木の花ファミリーは、Rising Sun ファミリーです♪ Rising Sun(昇る朝日)とは黄金の光のことです。それは、叡智が湧き出るということであり、どのように涅槃という境地に到達するのか、悟りに至るのかという叡智なのです。

いさどん:
黄金の光だったら、黄金の鯉を持ってこないとね(笑)♪ ハッハッハ。

プラ・サンコム:
もちろんです!昇る朝日に黄金の鯉!大きな魚を育てないといけませんね(笑)。

ようこ:
Rising Sun Villageは、インパクトがあっていいですね!ちなみに、タイ語で「Rising Sun」は何と言うのですか?

プラ・サンコム:
「アルンルン」です!

いさどん:
アルンルン!いいね!!

プラ・サンコム:
皆さんの国である日本の民は、太陽から来ていると考えられていますね。ですから、日本人は「太陽の子ども」なのです。それで、木の花ファミリーは宇宙の愛を表現しているのです。なぜなら皆さんは、太陽から来たということは宇宙から来たということだと信じているからです。

私は高校生の時に日本の歴史についての本を読み、日本人は太陽の子どもだと知りました。

いさどん:
それは、天照大御神のことでしょう。

プラ・サンコム:
詳しくはわかりませんが、日本の歴史についての本を読んだ時、日本人は自らの民族に誇りを持っていると書いてありました。

いさどん:
それは、日本の成立時代のことですね。しかしその後、第二次世界大戦の時代には、日本は間違いを犯しました。軍がそれを利用したのです。戦後、その精神を日本人は失い、今は西洋的価値観に汚染されてしまっています。それは、日本人が優秀であるがゆえにできたことなのですが、今はそのことによって国が滅びようとしているのです。これから、日本人の本来の精神を取り戻す時が来ています。そして、日本人の中に新たな価値観が生まれてくる時、それは世界のモデルとなるのです。木の花ファミリーは、その一つの雛形なのです。

プラ・サンコム:
世界の人々は、日本を世界の技術大国だと見ています。しかし、木の花ファミリーはその対極を行っているので、とても斬新な存在なのです。なぜ、技術大国である日本という国に、精神性を求める木の花ファミリーのような存在があるのか?日本にあるからこそ、世界の人々は、「このような国にこのような場所があるのだ!」と木の花ファミリーの存在に驚くのです。もし、木の花ファミリーのようなコミュニティがタイやラオス、ベトナムにあったとしても、それはインパクトがありません。なぜなら、私たちはすでに自然豊かな国だからです。

いさどん:
木の花ファミリーが日本にその存在を認められるのは、難しいところです。難しいところですが、木の花の芽は絶対につぶれません。

プラ・サンコム:
はい。ですから、私たちは協力していく必要があります。共に学び、平和を維持し、愛や慈悲を表現し、母なる大地に感謝していくことが大切なのです。そして、次世代にバトンタッチしていく必要があるのです。

いさどん:
その智慧を渡さなければ、我々の世代は遺産として苦難を次の世代に残すことになってしまいます。

プラ・サンコム:
その通りです。ですから、これから木の花ファミリーとアルンルン・ビレッジが共にあるべきなのです。そして、タイの子どもたちに、木の花ファミリーの考え方や生き方を学んでいってもらいたいと思っています。

 

《2018年のテーマは「再スタート」》

いさどん:
これからアルンルン・ビレッジの形を整えていく時に、精神性を発信するという意味では、タイには仏教精神がある。仏教精神を新たにリニューアルし、「太陽のもとに」という意味での、日本とタイを合同させたような精神性に仕上げていけばいい。それを背景にして、精神性を日本から発信し、自然と融合した具体的な生活のモデルをタイに置く。そうすると、相互が足らないものを補い合ってひとつのビレッジのネットワークを創ることになる。地域の特徴を生かしたビレッジがありながら、その精神性は共通しているということ。それが最終的に、地球コミュニティになっていけばいい。

いずれにしても、次の時代は、人々が共同して生きていかなければ乗り越えていけない。その意味を若い世代に伝えていく。それは教育というよりも、次の世代の人たちはそういった精神性をすでに持っているから、それを呼び覚ましていくということ。実際に、今までのような分離の時代に抵抗感を持っている若者が現れ始めている。分離のもとに豊かさを探究していた者が、融合し共有することによって豊かさを求めていかなければ、次の時代を生き抜けない時が来ているのだから。

・・・今、来年のテーマが出てきたぞ!今年は「爆発の年」だっただろう?爆発で壊れたから、来年は「再スタート」だ。実は、「旅立ち」という言葉も出てきたのだが、これは単なる旅立ちではない。我々はすでに船出という旅立ちをしているのだから、改めて出発ということだ。ここまで歩んできたからね。

ようこ:
そうだね。日本に原爆が落ちて、戦後、日本が再スタートしたように――

いさどん:
そういった意味では、これは再々スタートだよ!

ようこ:
日本で言ったら、再々スタートだね。今日は12月9日だけれど、76年前の12月8日は日本が真珠湾を攻撃し、原子爆弾が落とされる直接のきっかけとなった日。

でも、心という意味では再スタートということなのかもね。だから、今年のキーワードは「心の水爆」なんだよ!心の水爆があって、核融合があって、来年、精神性が再スタートする!

以前からいさどんが言っていたけれど、2018年、2019年、2020年の3年がセットになっているイメージがある。2015年、2016年、2017年の3年もセットだったのだけどね。来年からの3年間は2020年に向けての準備期間に入る。

それこそ、2020年頃には、このタイとのプロジェクトも形になっていることでしょう。

いさどん:
アルンルン・ビレッジが立派な森になっているよ。あそこは自然豊かな木の花のパーマカルチャー版になるのだろう。

 

― バンコク駅に到着。

 

《プミポン国王の黄金カラー=いさどんに現れた黄金のブッダ》

ようこ:
さっき、電車の中で来年のテーマが出たでしょう?そのことを思っていたら、プミポン国王の魂を感じ、昨年彼が亡くなられた直後にいさどんの元に現れ、バトンタッチされたことを思い出した。それは霊的なバトンタッチであり、今回実際にプラ・サンコムの故郷を視察したことにより、「物理的にも日本とタイをつなぎましたから、私の役割はここまでです。あとは皆さんに託します」ということだった。

プミポン国王のシンボルカラーは黄色でしょう?いわゆる黄金なのだけれど、それが先程プラ・サンコムが話していた「黄金の光は湧き出る叡智を意味し、それは悟りに至るための叡智です」という話につながった。その黄金とはきらびやかな物理的なゴールドのことではなく、神聖なる天の叡智を黄金で示していて、いさどんに黄金のブッダが現れた時の黄金の意味とまったく同じなんだよ。

だからこれから、見えないものを見える形として現象化するために、タイと日本が共同することによって、ここから世界へ発信していくということが感じられた。タイでの滞在9日目にして、この物語の意味がひも解かれ、転がり出たと思っていた。

いさどん:
プミポン国王の意志とは違い、大多数の国民はその意志をどちらかというと無視して生きてきた。だから、国王は心が晴れて亡くなったわけではない。だから、次に託さなければいけなかった。当然、彼が生きていた時代背景もあるから、それは成しえない時の役割だった。一般民衆ももちろんそうだが、僧侶たちや国王のもとで国を運営してきた政治家たちも、その意志を進めようとしなかった。だから、プミポン国王は人生を通してその志をやりきれなかったのだ。

ようこ:
それは時代と地域性の、トキ・トコロの両方の面でそうだった。

3年前にインドに行った時もスピリチュアルな旅だった。あの時は、いさどんの魂の故郷の地であるヒマラヤにいさどんが挨拶に行くという、過去と現在をつなぐ旅だった。しかし、今回のタイへの旅は、現在と未来をつなぐ旅。いさどんがタイに縁があるといっても、過去生でいさどんがタイに住んでいたのかというと、それは感じられない。

いさどん:
僕にはタイの仏教を新しくしていく役割がある。

ようこ:
今回のタイの訪問は、いさどんの人生にとっては3回目ということだったね。タイと縁が深いということは、これからつないでいく役割があるから。

いさどん:
1回目は35年前にインドを訪れる前バンコクを経由し、バンコクの市内観光をした。2回目は2年前に訪れたマブ・ユアン自然学校、そして今回の3回目はアルンルンビレッジ!

ようこ:
今、世界中で人々の心は乱れているけれど、その建て直しがまずは、日出ずる国・ヤマトから始まり、それがタイヘと広がっていく。タイヨウの国・タイだからね。その話を成田空港へと向かうバスの中で話したね。

いさどん:
そうだね。

ようこ:
そこにつながった!爆発の年というのは核融合の年でもあるのだから、太陽の核融合の年に、タイに、太陽ビレッジ構想が始まった♪

 

― その後、クイーンズギャラリーに到着。ナショナル・アーティストのプリーチャさんに案内してもらいながら彼の展示品を鑑賞した。

 

《内なる美を現すゴールド》

プリーチャさん:
私は、プミポン国王をゴールドで描いていますが、このゴールドは物理的なゴールドを指しているのではありません。このゴールドは、内なる美を表しているのです。

― しかも、彼の作品の中には、「内からの爆発」というタイトルの作品がふたつあった。そのひとつ、「内からの爆発」は、2016年10月13日プミポン国王が88歳で亡くなられた日から翌日にかけて、プリーチャさんが仕上げた作品。もうひとつの「内からの爆発NO.2」は、プミポン国王が18歳の時に即位され、初めてスピーチを行った時の作品だ。

「内からの爆発」
「内からの爆発NO.2」

― アートギャラリーの入り口近くには、プリーチャさんと一般の人たちが共同で仕上げていく作品が飾られていた。プリーチャさんによると、左側は若かりし頃のプミポン国王、中央は死後のプミポン国王、そして右側は晩年のプミポン国王を描いたそうだ。左側と右側のプミポン国王のローブには、一般の人たちからのメッセージが書かれており、中央のプミポン国王のまわりにはメッセージを書いた人たちの名前が記されていた。

いさどんは、若かりし頃のプミポン国王のローブには、「タイ国の民衆と共にあります」というメッセージを記し、晩年のプミポン国王のローブには、「次の時代に託します。木の花ファミリーへ」というメッセージを残し、アートギャラリーを後にした。

― 夜のフライトでタイを出発し、日本に向かう

 

12月11日 第十日目・ト
(統合・融合・高次のエネルギー)

― 朝、成田空港に到着。木の花へと向かう車中にて。

《世界人類のためのプロジェクトとして》

いさどん:
ナショナル・アーティストによると、「プミポン国王は、民族・宗教を超えて、タイ国民のためだけではなく、世界の人々のために活動されました。これまでの10人のタイ国王の中で最も重要な国王であり、民衆はプミポン国王を単に国王として敬意を払っていたのではなく、タイ国の父として慕っていました」ということだった。

ようこ:
プミポン国王が亡くなられた時、国連の事務総長が「プミポン国王は国際的にも尊敬されていました」とコメントしていた。

いさどん:
それを聞いて思ったことがある。

富士浅間木の花祭り・世界中の清水が一つの釜で焚かれる

毎年1月の終わりに木の花ファミリーで開催される「富士浅間木の花祭り」では、世界中の清水が集められ、一つの釜で融合し、聖なる火で焚かれることで、新たな「クニツクリ」が始まる。つまり、「クニツクリ」とは、逆さまの時代を生きる人々が真実に目覚め、宇宙に創造された生命の星・地球で、神人合い和す平和な世界を創ること。そして、祭りの後にその清水はまた一つの海へと還っていく。

今回、我々はタイでの寺院の落成式に招待されたのだが、あの寺院は今回をもって正式に国の認める寺院として登録された。それは、プミポン国王の提唱する国創りに賛同した寺院ということだ。だから、あの仏像の体の中には世界各地の土が入れられている。それは、平和の象徴ということだ。しかも、プミポン国王の誕生日である12月5日は、世界土壌デーとなっている。

金色のカップに入れられた世界中の土が、仏像の中に入れられていく

そういった寺院の落成式に招かれる我々は、この富士山の地において世界中の水を集めた、火と水の祭りを開催している。だから、本当に縁が深いということを感じざるを得ない。

今の時代、タイに限らず、ここの生き方が求められていることは確かだ。そして、これはタイ国のためだけではなく、世界人類のためにあるプロジェクトだ。それを我々は現象化し、モデルとして、世界中の人々に示す必要がある。それがプミポン国王が望んでおられたことであるし、お釈迦様の意志でもある。

さらに、プミポン国王はそれを民衆の生活に表現したかっただろうと思う。

ようこ:
そうだね。中国の天盤の巡りによると、1927年に白陽期が始まっている。白陽期とは、民衆の目覚めの時代。実は、その年にプミポン国王が誕生しているのだから、まさにプミポン国王は民衆の目覚めのために貢献された方だった。

しかも、戦後、1946年という年は、プミポン国王が18歳で即位された年でもあるし、昭和天皇が国家の象徴となった年でもある。昭和天皇は天皇の神格性を否定し、新日本建設への希望を述べられたということだから、まさに民衆の時代の幕開けを意味している。

いさどん:
そして、人々がそれを実践していくことが、我々が次の時代へとつなげていくための役割であり、若い世代につないでいくことが我々に今、求められている。

 

― これは、新たな時代を生きる全人類へのバトンタッチ。
まずは、今ここに出会っている、あなたへのバトンタッチです。

 

21世紀のクニツクリは、
地球の細胞である私たち一人ひとりの目覚めにかかっている

 

 


2017年収穫感謝祭のいさどんの挨拶 ~ 毎日毎日が収穫の連続です

毎年12月になると、木の花ファミリーでは「収穫感謝祭」を行います。今日は、その祭典でのいさどんの挨拶と、それに続くなかのんの乾杯の挨拶をご紹介します。


 

いさどんの挨拶
~ 毎日毎日が収穫の連続です ~

今年も12月になりまして、恒例の収穫感謝祭の日が来ました。1年の最終章ですから、今年は何が収穫できたのかを振り返り、新たな気持ちになって新年を迎える節目の神事です。

収穫とは、何を持って収穫と言うのでしょう。まず、畑や田んぼのように、農に関わる収穫があります。それは、命をいただくことであり、私たち農をベースとして生き、それを生業とする者にとっては、最も基本となることです。そしてそれが健全であること。一般社会では、健全な生産物とは、物理的に健全な場所から生まれてくるということで、様々な技術がありますが、ここ木の花では、健全とは美しい姿であり、美しい姿とは美しい響きをもって表現することです。たとえ科学的に健全であると立証されたとしても、それを生産するものの心が不調和であれば、その響きが生産物に反映されるのです。自然界では分解が難しいような化学物質であればなおさら、美しい生命の調和の中に組み込まれないわけですから、それは自然界では異物となり、それをいただく私たちの体の不健全となって返ってきます。

ですから、私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

美しい生産物は、霊的な美しい心によってもたらされます。ならば、収穫感謝とは、物理的に生産をして、それが良い収穫であったかどうかということの前に、それに携わる私たちの心が美しいものであったかどうかを振り返ることです。畑や田んぼ、その他の様々な活動を通じて、この1年間、自らの心が美しい響きを発するものであったかどうか。1年を通して何が自分自身に定着したかということも、収穫なのです。そこを考えなければ、本当の収穫としての意味がないのではないかと思うのです。

しかしながら今、2000年を越えて17年が過ぎた世界の情勢を観ると、そこまでものごとの本質を観抜いて生きているものは、なかなか見当たりません。見当たらないどころか、欲があふれ、奇妙な世界がそこかしこにできています。だからこそ私たちは、1年を通して美しいものを収穫することをテーマとしていますが、時代はまさしく混乱の真っただ中にあるわけです。

その中で、ここの暮らしは特別な暮らしに見えるでしょう。特別な暮らしとは、何をもって特別なのかと言うと、私たちがただ独りよがりで豊かさを追求し、自らが満足をするために生きているわけではないということです。私たちの暮らしは、この混乱した世の中に秩序をもたらします。そしてそこには、新たな美しい世界のための先駆けとなる目的が観えてきます。

世の中はますます混乱し、それをひも解くものがいなければ、混乱とはただそこに混乱があるとしか見えません。そのような状態では、世の中はただ右往左往するだけです。そこで道理を持って正しいことを語っても、混乱の中にも理屈はありますから、ただ問答をするだけのことになります。だからこそ、私たちは毎年毎年1年を通して、どれほどの収穫が自らに積み重ねられたのかを振り返るのです。

健康とは、美しい響きのものをいただくことによってもたらされます。心は、美しい響きを発し、その美しいハーモニーを受けることによってますます美しくなります。本来、世界はそういったところでなければなりません。私たちはそのことに気付いた者として、日々の中でそれができているでしょうか。それはこれからも課題です。いつでも、丁寧に丁寧に、自らを観ていられるかどうか。これは難しく厳しいことのようですが、それができた時には大きな喜びとなります。難しいからこそ、皆とそれを目指していきたいと思っています。皆さんの前で今日この話ができるということは、その段階に至ったということであり、今年の収穫は大きかったのではないかと思います。

もうひとつ、先ほどから収穫感謝祭の神事をしていただいている中で気付いたのは、秩序ということです。一般社会でもこういった儀式をしますが、ここでは子どもたちも参加しています。子どもは子どもなりに、一人ひとりの個性と秩序があるものです。こういった厳粛なる場で、子どもたちはその場の空気を感じ取り、受け止めています。ここの子どもたちは自由に育てていますが、秩序を感じ取る力がある、ということを感じました。私たちの歩みをこの子たちの未来に託すためのベースが、既にできていることを感じ、未来は希望あるものだと思いました。

そしてもうひとつ、気付いたことがあります。
今日は収穫感謝祭の神事を神道に則って行いました。先日タイを訪れ、タイに新たなコミュニティを創っていこうということで、その実践の地を見に行ってきました。タイは仏教国です。そこで、現在の宗教の世界は戒律に縛られた堅苦しいものになっていることを感じましたが、タイに仏教精神が根付いていることは確かです。その仏教精神と共に調和を築いていけると思いました。それは私たちがその仏教精神をここに表現しているということでもあります。そうでなければ、タイの村づくりを共に進めていくことは難しいでしょう。

そしてさらに、皆さん見てください。この神道の祭壇の脇には、クリスマスツリーが飾られています(みんな:笑)。日本人のクリスマスは、信仰心はどこかへ行ってしまって、プレゼントがもらえるとか、若い男女がどうやって過ごすかということばかりですね。教会での敬虔なミサなど、ほとんどの人にとっては関心事ではありません。しかし私たちの中には、キリスト教の精神である愛の心があります。そこにも共通するものがあり、共にあるのです。

過去3000年から始まった宗教精神が今、その本質を人々がわからない状態になっています。人を尊いものへと導くはずであった宗教が、混乱の元になっているという世界の事実があります。しかし、すべての宗教の精神の元はひとつです。なぜかと言うと、簡単です。地球がひとつだからです。その秩序も、ひとつだからです。そして宇宙もひとつだからです。そして私たちは、一本道のトキの時代人(じだいびと)だからです。

私たちが生きているこの世界に現れてくる様々な個性や秩序は、同じ法則の下にひとつであるということがわかれば、過去の聖人たちが残してくれた智恵もひとつだということが明らかになります。そのことを明快に理解し、表現しているのがこの場です。

私たちはこの混乱の時代において、何を学び、何を行い、そして何を収穫し、それをどうこれから生かしていくのか。その自らの姿勢はどのようなものであるべきか。今日のこの場に至り、そのようなことを改めて思います。そしてそのことをこうして皆さんに語れるということは、私たちがその段階に来たということで、これも大きな収穫であることを感じています。

ですから、収穫とは、畑だけではありません。生きることすべてにその取り組みがあり、そしてその取り組みをしっかりと自らに落としていくことにより、初めて収穫がもたらされるのです。そのためには、自らを美しく磨くことです。1年の区切りを持って、そのことを皆さんと確認する場を持ちました。毎日毎日が収穫の連続です。その美しい響きを持つ者たちは、美しい調和の場を創ります。そこに混乱や矛盾や無秩序が発生すれば、自ずとそれを浮き立たせ、改善させていくのです。

そういった場をもたらす私たちが、受け皿となり、これからの時代の見本となりたい。「なります」ではなく「なりたい」と言いました。それは、僕が一人で語っているだけではできないからです。皆さんの志をまとめて、ネットワークとし、初めてそれが実践されるからこそ、「ます」ではなく「たい」と言うのです。

私たちはこの場をもって、来年に向けて新たな気持ちで、物理的なことは更に研鑽をして高めていきますが、その背景にある心をさらに磨き、美しい響きを発し、この場を調和のとれた美しい場所にしていく。それを今の時代の見本としたい。

そのようなことを思いながら、とても凛として、どっしりと落ち着いた心で、今、ここに立っています。そういったことを日々皆さんと表現していきましょう。

改めて、収穫感謝祭を迎えて、おめでとうございます。そしてこれからも、よろしくお願いします。

 

なかのんの乾杯の挨拶

いさどんが語った通り、収穫を通して僕たちがしていくことは、この世界をきれいにしていくことだということが確認されました。そのために、美しい響きを発していく。それを日々心がけていく。
美しい響きって何かな、と思うと、やはり天の響きだと思うのです。天の響きが、それぞれが持つ良さを存分に活かし、天の響きを感受していくことで、美しい響きを収穫物を通して世の中に広げていくことができるのだと思います。
天の響きを感受するには、心が空っぽになっていくことが大切です。皆で「乾杯」し、「杯」を「乾」(あ)かすことによって、皆の心も空っぽにして、これからもずっと皆で一緒に、美しい響きを世の中に広げていきたいと思います。

───────── 乾杯!

 

 


大町道中記② 〜 心の水爆

車は無事に大町に到着!そして大町ビレッジメンバーのこうちゃん、くわっち、みほさん、きたじゅんとの夕食後、いさどんが語り始めました。


 
今起きていることが 宇宙の答え

いさどん:
9月1日から、チャンネルが切り替わった。でも切り替わったことを知らない人がほとんどだ。9月1日から、北朝鮮とアメリカの立場が逆転したんだよ。今は北朝鮮の方が優位に立っている。
アメリカがずっと優位のままでいると、北朝鮮は核兵器を使う可能性がある。でも北朝鮮優位なら核兵器は使わない。だから人類にとっては、北朝鮮優位の方がいい。おもしろいね。
アメリカは、これまで自分たちがやってきたのと同じことを北朝鮮がやり出したら、北朝鮮を「ならず者」だと言う。同じことをずっとやってきているのに。だから北朝鮮はあえてならず者の役割をしており、それは大きな役割ではあるけれど、つまらないね。幼稚だから。

うちにケアに来る人たちも、引きこもったり、精神病になったりして、今の社会の矛盾を表現している。それも役割だ。彼らのような状態の人なんて、戦時中にはいないよ。みんなもっと生きることに必死だから。今の彼らの状態は、時代の矛盾を表現している。でも、僕ならそんな役割はしないね。それはものが観えずにそこでしか使い物にならないから、その役割をしているんだよ。僕が「賢くなれ」と伝えても、愚かな自分に囚われている。評価されたいのに、評価されない方へ自分を貶めていく。自業自得なんだからそのマスターベーションをやめなさい、とわかりやすく伝えても、最後は「わからない」と言う。それでは救われないよ。それは「わからない」のではなく、拒否している状態。わかろうとすればわかるのに、「わからない」と言うのは、そういう自分であることを認めたくないんだよ。

すべてのことは、そういう事実が起きたんだということを受け入れるところから始まる。その事実は、実体でしょう?実体とは何かと言ったら、宇宙の答えだよ。すべては宇宙の法則の通りに動いているのだから、今起きていることはこれまでの自分の行いに対する答えであり、それを受け取ることは宇宙の意志を受け取るということなんだよ。

こうちゃん:
いさどんブログに奇跡や神通力のことが書いてあったけど、僕が思うのは、いさどんは現象化の人だということ。その視点から見ると、このコミュニティが今こうして存在していることも奇跡だし、カルマ読みも地球暦もカタカムナもすべて奇跡じゃない?すべてが神通力以外の何ものでもない。

いさどん:
神通力と言うと異常なことが起きるように思うかもしれないけど、そうではないんだよ。この世界で現象化すること自体が神通力なんだよ。Tくんが精神病もどきになることも、みんな神通力なんだよ。

ともこ:
今日ここに来る車の中で、人はいらない思考にエネルギーを使っているという話があった。自分の思考については、どれがいらない思考でどれが必要なのか、しっかり見ればわかると思ったけど、例えば大人ミーティングのような全体の場で、この話し合いはいらないとか見極めるのは難しい。その場にいると自分もその話し合いにのめり込んでいって、後で誰かから「あの話し合いは必要のない時間だったね」と客観的に言われて、初めて「そうか」と思うくらいで。

みほさん:
うんうん。

いさどん:
今「うんうん」と言ってるけど、その「うんうん」は理解できていないよ。

みほさん:
いや、今考えてて。とりあえず話を聞いちゃうなーって。

いさどん:
だから今の話が腑に落ちてないんだよ。そういうことをわからなければいけない。それは「うんうんもどき」なんだよ。つまり、わかったもどきということ。そこで「私はそういうことがさっぱりわからないんだ」と自分の実態を認識した時に、わかる人への道がスタートするんだよ。それなのに、ただ話の内容を聞くだけで終わりにしようとするから、自分がわからない人であるということを理解しないんだよ。それでは「わかったもどき」が続くだけで、いつまで経っても自分がわからない人であることを認識できないよ。
簡単だけど難しい話で、これはカラクリなんだよ。みんなそういうカラクリに引っかかっている。大事なのは、自分の状態がどういうものであるかを認めることだ。いい人でありたいなんて思っちゃいけない。そんなことはどうでもいいんだよ。実態がこういうものであると認めたくないところを、認めるということだ。認めた時に、自分はこういう人なんだ、だからどういう風になっていきたいのか、という訂正の道が始まるんだよ。

みほさん:
そうだね。

いさどん:
いや、本当に「そうだね」か?そこが怪しいところだ。

みほさん:
確かに。

いさどん:
「確かに」というのも怪しい。どこまで行っても怪しいんだよ。それで先ヘ進めば、ほらわかってなかったでしょうという現象にちゃんと出会うんだよ。

 
「異常な状態」を認識して生きていく

いさどん:
誰でもそうだけど、いい人生を生きようとして自分流に生きた結果、人生に行き詰っている。それは誰のせいなのかと言ったら自分のせいなんだよ。自分に対する想いが空回りして現状を作っている。それは自分が間違っているのだから、「自分は間違っているんだ」と気付いた時に初めて間違いを改める道がスタートするのだけれど、自分への思い入れが強く執着していると、いつまで経ってもそこから抜けられない。自己矛盾の最たるものだよ。自分で自分を苦しめながら、その自分のやり方で何とか楽になろうとしている。それが自分を辛くしているのだから、カラクリでしょう?すごくわかりやすい話だけど、難しいんだよ。何で難しいのかと言ったら、自分からの目線が強すぎて、外側から客観的に自分を観ることができないからさ。それが自我というやつで、自分がかわいくて仕方ないんだよ。

だけど人間が優れているのは、誰でも己を忘れて世のため人のために生きられる道があるということ。優れているとは、己を離れることができるということだよ。この世界の法則のままに存在するということだよ。それなのに、己に囚われることが自分を幸せにすると思っているんだから、すごい矛盾でしょう?そんな人間ばかりだから、宗教は「あなたの願いを叶えますよ」と人集めをするようになったんだよ。だけどそれは違う。必要なのは、「願いを叶えます」ではなく、「自分の実態がわかりますよ」ということ。「そうすると、呆れてその自分を捨てられますよ」ってね。そうすれば自由になれる。今の宗教がやっていることは逆さまなんだよ。

日本の人口推移を見ると、2008年が人口のピークになっている。ではどのあたりから増え始めたのかというと、1600年、つまり文明1600年周期の闇のピークなんだよ。
そこから徐々に増え始めて、明治維新以降、加速度的に増えた。明治維新というのは、日本の産業革命だよ。ヨーロッパを見てみても産業革命を機に一気に人口が増えている。世界も同じ。その前はほぼ横ばい状態だが、微妙に増え始めたのは6500年前の有史以降。それは紙が発明されて、人間の思考が平面的な二元思考 ――― 即ち良いか悪いか、勝つか負けるかといった二元的な価値観で生きるようになった頃だ。その頃から、三次元の人間は宇宙を忘れて、自分の損得で生きるようになった。
そして日本は2008年をピークに人口が減り出した。それは日本が世界の象徴だからで、世界の人口のピークは、2100年頃だと予測されている。112億ぐらいになって、そこから減り始める。そして学者は2100年のピークまでは想像しているが、そこから先のビジョンがない。つまり、有史以降の価値観は右肩上がりの発想しかなく、下がっていく価値観がわからないんだよ。そういう発想自体が、思考にない。
そこで僕はそれを想像した。長い間ほぼ横ばいできたものが、産業革命を機に急激に上がった。その後どうなるのかと言ったら、急激に落ちるんだよ。そしてその後は、また低い位置でほぼ横ばいとなるだろう。今我々は、まるで事故のように急激な人口増加のピークの時に生まれて、この世界のカラクリを知って、そして死んでいく。そこでこの時代をどう捉えるのかと言ったら、「すごい時に生まれてきたんだな~」ということだよ。そこに何か意志を感じない?

この異常な状態にいることを、視野が狭いとわからない。長い歴史からしたらほんの一瞬である自分の経験だけをもとに「今までこうだったんだからこれからもそれを維持して保っていこう」という浅はかな発想になる。視野を広げたら、今の状態が異常なんだとわかるはずだ。この状態は異常で、終わっていくものなんだとわかったら、その思考に囚われる必要はない。
そうしたら何も心配はない。今は異常な中にいるのだから、その異常を体験してるだけのことであって、それを大変だの辛いだのと言う必要はないんだよ。

今、太陽のメカニズムをコンパクトにして活用する技術が進んでいる。水爆も太陽のメカニズムだ。あれをコンパクトにしてロケットにくっつけて破壊するために使うというのだから、人間というのはおかしな生きものだ。視野を広げて過去から現在にかけて見渡してみても、そんな愚かなものはどこにもいない。逆に未来にも、そんなものはいない。いかに今が異常か。
それがわかったら、客観的にその状態を観て、「今自分は異常な中にいるんだな」と認識して生きていく。そうすると、例えば自分は社会に適応できないとか自立しなきゃとか悩んでいても、ああ自分は異常な時代を表現する役割をしているんだな、ということが観えてきて心が穏やかになる。そこであくせくしてどうにかしなければなんてことは必要ないんだよ。そうすると冷静になれるでしょ?冷静になれば、ものが観えてくるようになる。今は、異常な中にいて自分まで異常になって、自分を傷めつけているんだよ。傷めつけながら、まだその自分に執着している。
その自分をやめなさい。そうしたら、その苦痛から解放される。他人を見るのと同じように、すべてのものを見るのと同じように自分を見ればいい。ところが執着していると、自分の姿だけが見えない。その自分が唯一自分を貶めているのに。
お釈迦様の言う悟りの境地とはそこにあるんだよ。ところが宗教は全然違うところに行ってしまった。四苦八苦から解放されることが目的となり、「色即是空」というようにすべてが無いものと捉えたら人は何も苦しむことなく平穏な毎日を過ごせると説いているけれど、そんなものはおまじないだよ。無理やりつくったバーチャルな境地だ。

事実に基づいた思考回路を持たなければいけない。そして自らが自らを救済する。なぜなら、自らに対する加害者は自分自身なのだから。

これは極めて面白く、そしてやりがいのあることだよ。なぜなら現象化するからさ。宗教的救済では現象化しない。自らを救われる対象にしているから、いつまでもそのレベルにいて、結局救済されないんだよ。そうではなく、救う自分、もっと言えば、救う必要のない自分になるということだ。

 
心の水爆

ともこ:
今、答えを言ってくれたね?

いさどん:
何が?

ともこ:
さっき、「9月になったらあることがわかったんだ」って言ってたでしょ。でも具体的にどういうことなのかは教えてくれなかった。

いさどん:
最終的な結論はそうかもしれないけど、もっとコンパクトなことだよ。だから・・・超ミニの水爆みたいなものだよ。北朝鮮が作っているのは大量破壊する水爆だけど、僕が言っているのは超ミニの水爆。

くわっち:
自分の自我を爆破するってこと?

いさどん:
言わない。

みんな:
えー!!

いさどん:
薬で言うと、これをひとつ飲めばたちどころに効果が現れるというようなカプセルがあるとするでしょ?そんなようなものだよ。

ともこ:
ちょー気になる!!!

いさどん:
それはプロセスも何もいらないんだよ。だってそうじゃん。人間の思考回路を見てごらんよ。すべてにプロセスがあり、こういう原因があってこういう経緯でこの結果になって、というのが連続して、ずーっと物語を刻んでいるんだよ。それは宇宙の法であり、何かと言ったら因果の法則を立証しているわけだ。原因があってそれにふさわしい結果が起きて世界はこのようになってるんですよ、と。
ということは、現状が良くないものであるとしたら、そこから抜け出るにはどうしたらいいか。こうするとこうなるからああしてこうして・・・などと頭を回しても、それは今の結果を作ってきたのと同じ思考回路だから、結局同じ結果になるんだよ。そうではなく、この思考回路の物語をここで爆発させて、終わらせるということだ。
「わかったぞ!だからこうしよう」なんてことを繰り返していても、結局は同じことなんだよ。そこで爆発させると、物語が終焉を迎える。だから、これは言わば小型の水爆。霊的水爆だよ。

ともこ:
そんなものがあるの!?(✪ω✪)

いさどん:
いやいや。9月1日から、何かが変わった。それは宇宙的なものだ。現象としては、地球上ではダラダラとした状態が続いていて、明らかに何かがどうしたというものではない。しかし、確かに何かが切り替わった。
2012年の12月21日に銀河の冬至を越えて、次の時代が始まったでしょう。闇が増していくサイクルが終わり、光が増していくサイクルに入った。それと同じことが9月1日にあった。だから少し、言うことが変わった。
今、超能力や神通力の世界に入ってきている。超能力や神通力というと、普通の人にはできないようなものだと思われている。しかしそもそも、この世界のメカニズムを理解できている人というのはほとんどいない。ということは、それを理解していない人々ができないことをできるようになることは、超能力なんだよ。わからないことがわかるようになることは、超能力だ。
それをわかるということは、この世界の仕組み ─── 神が運営している仕組みに通じているということ。それが「神通力」だよ。

それをわかると、とんでもない奇跡が起きるようになる。それはどういうことかというと、太陽と地球の関係、銀河と地球の関係、そういったものすごく大きなスケールで、同じことを繰り返すことなく無限に、超緻密に運営している宇宙の仕組みが、人間の生きる世界に顕わされるということ。
そうすると、食べ物を食べる効率もずっとよくなるし、ものごとも阿吽になっていく。不要な打ち合わせはいらない。そこからが、水素爆弾の話だよ。

みんな:
へぇー!

いさどん:
ハイ終わり。

みんな:
え ────!!!Σ(゚д゚;)

いさどん:
この世界はフリーエネルギーだ。考えてごらん。空気があって、その大部分は窒素と酸素と炭素だ。それがこの世界を創っている。空(くう)が原料なんだよ。すごいでしょう?空から有が生まれてるんだよ。これこそフリーエネルギーだ。そしてそれが循環しているだけで、この世界は時代を刻んで、今こうしてここにいるんだよ。そうしたら、どうしてそんなにあくせくする必要がある?もっともっとと欲しがる必要がある?すでにここが宇宙であり、極めてわかりやすいフリーエネルギーの世界なのに、どうしてこんなに右肩上がりに偏らなければいけないのか。その偏りの反動で、今異常が起きているんだよ。

 
勘違いの最高傑作

いさどん:
有史以前は、この世界は天が創るものだった。しかし有史以降、人間の能力が創る世界になった。そして物語が紡がれていって、その結果として今がある。だから「有史」と言うんだよ。そこに歴史があるということであり、それは人間の歴史の記録なんだよ。
それ以前は、人間も天の支配の下にあった。しかし紙の発明と共に、「ニンゲン」は二元論になっていった。それが「ヒト」になると、「ヒ」から「ト」までの十元論というか、多次元になるんだよ。今は、二元論の人間がずーっと世界を創ってきて、そうすると結果的にこうなるんだよということを教えてもらっているだけなんだよ。
地球では、過去6億年の間に6回大量絶滅が起きている。このままいくと、人類は7回目の大量絶滅の引き金を引くかもしれない。実際に、2100年に112億人まで人口が増えて、その後に一気に減っていくわけだから、これは大量絶滅と言えるね。

みほさん:
今が異常な状態であることを知るのと、自分のアホさを知ることは一緒だと思った。

いさどん:
一緒だよ。異常な状態というのは、普通ではなくアホな状態なんだよ。そこでテンションが上がっちゃいけない。異常な状態をわかるためには、距離を置いて冷めた目で見ることだよ。そのためには自分に水をかけてやることが必要だ。それができないから、いつまで経っても自分目線のままでいる。だから、懲り懲りしなければいけないんだよ。同じことを繰り返すということは、天はこの仕組みを使って、人間を懲り懲りさせようとしているんだよ。いつまでその狭い自分に執着しているんだ、もっと広い自分がいるだろう、とね。

宇宙にはいろんな次元があり、一つひとつの現象にも無限の可能性がある。自分をフリーにしてやると、それがあふれ出てくるんだよ。地球は生命の海でしょう?ということは、生命の数だけその可能性が表現されているんだよ。火星や月へ行ってもワンパターンだけど、地球にはものすごく多様なパターンがあり、人間はその最たるものだ。そこには、70億通りの表現がある。

だから、行き詰まりの突破口も無限にあるよ。それを無限に利用できるかどうかは、美しい状態でなければできないよ。自分の想いややり方に囚われていたら、そこに染まってワンパターンを繰り返すだけだから。でもこの世界は、本当は無限なんだよ。

人間というのは、本当におもしろいものだよ。宇宙を創造して、銀河を創造して、太陽系を創造して、地球と太陽と月の関係を創造して、地球生態系を創造して、あり得ないような可能性の上に自分がいるんだよ。それなのに、このレベルの社会しか創れていない。そしてこのレベルの自覚しか持てていない。
我々はある意味、ものすごく貴重な生き物なんだよ。今の世界は、ここまで外すかというくらい外れた世界になっている。ここまでの世界を創れるとは、それはもう傑作だよ。神様にしてみたら、とびっきり変態を創ってみたいという衝動に駆られたんじゃないの。大いなる勘違いを一度創ってみたいなぁと。本当に、これは勘違いの最高傑作だよ。

ともこ:
でも同時に、大いなる勘違いだとちゃんと気付くような仕組みに、世界を創った。

いさどん:
そりゃそうだよ。そうでなければ、そのままいっちゃうでしょう?そうすると、「おいおい、私の範疇を超えていっちゃいけないよ、あくまでもこの世界は私の範疇なんだから」って神様は言うんだよ。
僕が今考えているのは、我々が所属する神様の範疇を超えた世界があるかどうか。

ともこ:
いさどん、昔神様にそのことを質問してたよね。

いさどん:
その時は「それを聞いてどうする?」という返事が返ってきた。僕はそういうことをついつい考えるんだよ。
必ず、あるんだよ。この世界は必ず一対だから、今我々がいる世界があるということは、必ずそれと対になる世界がある。そちらはどうなっているんだろうと考えたら、神様から「やめておけ。おまえのすべてはこの世界でできているのだから、そこと対になる世界を想像する要素を一切持っていないのに、考えてもわかるわけがない」と言われた。好奇心が膨らみすぎてそこまで行くと、不要な思考の最たるものになる。解釈できないものを解釈しようなどという不要なことはやめておけということだよ。それでも人間は欲が絡むと、それをわかりたいと言うのだから、恐ろしいね。

 
仏という存在は「道」 それを歩めるのが人間

いさどん:
あのね、面白い解説があるんだよ。神という存在と、仏という存在がある。「神」という存在は、この世界の実体。「あってあるもの、なきてなきもの」というように一対になっている、この世界の実体そのものを神と言うんだよ。ところが「仏」という存在は、道なんだよ。何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道のことを仏と言うんだよ。そして神の実体へと近付いていく。

そうすると、実体である神は、そこに在り続けるだけなんだよ。これってむなしいでしょう?神様の領域に在り続けることはむなしいんだよ。しかし、仏という状態は、愚かしいところから実体へと向かう道で、とても希望のあるものであり、それを歩めるのが人間なんだよ。人間は、愚かしいところから神までへも行ける幅の広いもので、神よりももっと豊かなもの ──── その可能性を秘めたものであり、それが「ヒ」から「ト」までを歩む「ヒト」なんだよ。

そういう解釈があるんだよ。そうすると、「人に生まれるってすっごいな ────!!!」と思わない?この宇宙のすべての存在には魂があり、その一つひとつの集合体がこの世界の実体となっている。その一つひとつの魂が、「自分はここだけしかわからない」「自分もここの部分しかわからない」「もっと全部をわかりたい!」と思った時に、人間となって、仏道を歩み始めるんだよ。だから人間に生まれてきたことはとても価値があるんだよ。そして「ヒト」の道を歩むんだ。カタカムナの単音の思念でひも解くと、「ホトケ」とは、気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)を言うんだよ。

おもしろい話でしょう?今、この場では何も生産しない。だけど心が、「ああ、そうだったのか~」と開けていく道のこと。

くわっち:
人間てすごいなぁ。

いさどん:
違う。人間がすごいんじゃない。

くわっち:
神様?

いさどん:
違う。そうじゃない。
この世界の実体には、いろいろな存在がある。では今の話を、そこにあるパソコンが語れるだろうか?そこのさつま芋の葉っぱが、外をうろうろしている熊が、空気が、語れるか?どれも語ることはできないよ。その仕組みを語れることがすごいんだ。そこに至ることがすごいことなんだよ。つまり、その「道」がすごいということだ。
僕は自分で「幸せ者だなぁ、これを語っているよ」と思う。そうするとあなたは、「幸せ者だなぁ、それを語っている場に出会って」ということでしょう?それよりも、自分がこれを語れる人になることだよ。そしてさらに語っていかなければいけない。

時代はもう、21世紀なのだから、20世紀までの「尊い」なんてどうでもいいんだよ。21世紀とは、20世紀がリセットされて3000年に向けてスタートしているのだから、これまでの価値観を全部捨てなければいけない。そうしないと、次の時代に通用する道は観えてこない。
その時に必要なのが、心の水爆だ。すべてを壊す。9月1日を境に、僕の中で「プツン!」と破裂したんだよ。

来年は大町の他にもさらに番外地ができる。福井でも、タイでも始まるよ。僕なんてそのことに対してまったく無力だよ。だってそうでしょう。現状では何もできることはない。だからいいんだよ(^皿^)
それは、僕の道じゃない。私の道ではなく、あなた(天)の道ですから、段取りをどうぞよろしく。そういう無責任でいいんだよ。植木等の「無責任男」だよ♪
どうなっていくのかわからないけれど、わからないのがいいんだよ。つまり、わからないということは想像できないことが起こるということ。そこに希望を見出せばいい。想像できることが起きて、それで安心なんて言っていたら、そんなつまらないことはないよ。想像できないことをポジティブに考えると、どっちみち想像できないことが起こるけれど、それはポジティブの延長線上に来るんだよ。

この世界はすべてがポジティブだからね。ということは、神様がポジティブなんだよ。その証拠に、ネガティブに見えることでも何でも、ポジティブに捉えられるようになっている。それをネガティブに捉えるのは人間の特徴だよ。

 

────── 「大町道中記③」へつづく!

 


地球は真釈天技場

いさどん:
みんなはこの生き方を楽しんでいるだろうか?

ともこ:
楽しんではいるだろうけれど、まだまだ楽しみきれていない。

いさどん:
充実はしていると思うが、楽しめてはいないだろう。これが楽しめるようになったらいい。

ともこ:
楽しめたら桃源郷だね。この間ここを訪れたある人が「もっと楽しむことですよ」と言っていた。

いさどん:
しかし、楽しむにもレベルがある。どのレベルで楽しんでいるのかという度合いがあるから、一概に言うことはできない。
目指しているものに到達しなければ楽しむことはできないが、それは目指しているものがどのレベルにあるかによって変わってくる。目指すものが高くて到達できずに楽しめていないこともあれば、目指しているものが低くて到達しているから楽しんでいるということもある。どこを目指すのかによって変わってくる。それはつまり、その者の目がどこを向いているのか、旬がどこにあるのかということだ。
そこで、無理に高いものを目指して楽しめていないことも問題だが、低い所で楽しめているからそれでいいというものでもない。自らがどの位置にいるのかということが客観的に観えていないと、楽しめているのかどうかもわからない。

先日ロータスカフェで「経済革命」のプレゼンテーションをしながら、皆は話についてこれているだろうか、と思った。彼らが考えたこともないような話をしているのだから。考えたこともないような話だからこそ聞いていられる、ということもあるのだが。
我々が無意識に毎日行動していることがこの世の中の混乱になっていたり、格差を生んでいたり、現代の様々な問題の原因になっていませんか、と問いかけると、そこについてはみんな理解する。道理が通っているから、「そう言われればそうだな」とわかる。では自分の生き方を今から変えるかというと、そうはならない。

ともこ:
ならないね。昔自分が会社勤めをして暮らしていた時も、これではいけないと思いつつ、どうしたらいいのかがわからなかった。結局は心のことだから、一般社会にいようとどこにいようと本当はできることがあるんだけど、わからなかったな。

いさどん:
社会にいてもできることはあるが、社会にいてはできないということもある。仮に頭でわかったところで、社会にいる限り、自分一人がそんなことをしても世の中が動くだろうかというと、動かない。だから少なくとも、その理解が確実に現象化して大きなうねりになる動きを見付けるか、もしくはその中に入ることをしないと、結局はその理解もただの知識として持っているだけになる。そして何も変わらない。
しかし、生きているということは、自動的にその動きの中にいるということでもある。自分がそういった行動を取ろうが取るまいが、確実に世界はその方向へ向かっているのだから、生きていることによってそこに参加していることは確かだ。大事なのは、そのことをよく理解して行動しているかどうかということだ。
自分一人が行動したとして、世の中に対しては大した力になれないとしても、世界の流れには呼応しているのだから、それを自らの人生の結果につなげたければ、その意識を常に持って生きていくということだ。

何かが成就するかどうかは、結局時代の側が握っており、それは自らの手の届かないところにある可能性がある。今回の人生でそこに旬がなく成就しなかったとしても、それに対して道理をしっかりと積み上げて旅立てば、次にそれが起きる旬に生まれてくる可能性もある。そしてそこで事が成る。だから、ここで終わりとしないということだ。

ともこ:
自分の思考が二元論的であることを日々感じている。そうではないと思いつつ、無自覚のうちにものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断している。今の話のようにずっと先までつなげて捉えるのではなく、今だけを見ているからそういう判断に陥りやすいのかな。

いさどん:
そこだよ。二元的な教育を受けてきた現代人は二元論に慣らされている。だから、ついついそこで結論を出したがる。しかし実際は、二元論ではなく、三元でも四元でもないところに世界の実体はある。我々は形の世界にいる。そこは本来三元の世界だが、現代人の思考は三元にすらなっていない。
しかし、世界の実体はもっと多次元の中にあり、いいとか悪いとか単純に決めることのできないものなのだから、この世界に存在するあらゆることはすべて認められることだ。どんなに理不尽なことであっても、現象化が可能だということは、認められることなんだよ。そのことを理解すると、ものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断して固定する視点に囚われなくなる。しかしそこまで悟ってしまうと、人はそれぞれ他者にはないオリジナルな個性を持って役割を果たしているのだが、その役割もなくなってしまうことになる。
例えば道を極めて聖者となった者に対して、本来、そこに御利益を求めるということ自体があり得ないことだ。聖者とは、何人の側にも立たない者。そこに御利益があるのではなく、己の側に立たず、単に宇宙の法則と同化しているにしか過ぎない。元々の仏教の世界観は、そこにすがって御利益を求めるようなものではなく、ただ人として生きることの道しるべとしてあるものだった。ところがその境地まで至らぬ者たちが、自らの飯の種としてそれを利用した結果、現在の御利益宗教や葬式仏教につながっていった。
寺院には仏塔や仏像があるが、それに対してどんな心で向き合うべきかといったら、本来、そういった仏教的建造物は、この世界の実体をわかりやすくひも解くための道具にしか過ぎない。そんなものに向き合わなくとも、直接自然と向き合い、その奥にある仕組みや法則、即ちこの世界の実体を感じることができれば、それで道は開かれる。この世界は真釈天技場(しんしゃくてんぎじょう)なのだから。

ともこ:
真釈天技場?

いさどん:
昔僕が田舎に創ろうとしていた道場の名前だよ。それは地球のことだ。だから、我々が地球上に肉体を持って人として生きるということは、地球という心の道場に修行に来たようなものなんだよ。真釈天技場の「真」は真実の真、「釈」は解釈の釈であり、お釈迦様の釈でもある。仏教の真理とは「天」を理解する「技」である、というのが真釈天技場の意味であり、その道場が地球なんだよ。
僕が「私は特定の場所を指定してそこに人々が道を求める場を創ろうとしているが、本来人間が真実を理解するための場所はどこなのか」と天に問うたら、「真釈天技場」という文字が降りてきた。その5文字の示す意味を解釈していくと、そのために地球は創られているのだから、地球上すべてがそうだということだ。ということは、宇宙空間はそうではないということ。もともと宇宙には、地球のような三次元生命世界がなかった。そして宇宙の魂たちは、コンパクトにかつ短期間に宇宙の法則を学ぶ世界を求めていた。だから、その総意によって地球が創られたんだよ。地球上には、これほどまでに多様な生命が無限のネットワークを織りなし、宇宙の法則が凝縮して表現されている。宇宙中を探しても、こんな世界はない。

ともこ:
私たちは真釈天技場に生きてるんだ。

いさどん:
だから地球上ならどこでもいいのだが、南極と北極のような極地に近い所はあまり適さない。一日を体験するのに理解し難い場所だから。赤道に近い所は生命力旺盛で変化は激しいけれど、その変化は常にワンパターンで四季の移ろいもあまりないから、ここも適地とは言い難い。大陸の中は、海の影響がなく変化が極端で、四季の微妙な機微に欠ける。
そういう意味で言うと、中心から斜め45度上にある日本の環境はいい。四季があり、海に囲まれて変化に富んでおり、極めて真釈天技場として相応しい場所にある。

ともこ:
日本はある程度南北にも長いから、日本国内でもバリエーションがあるね。

いさどん:
斜め45度は艮の方角であり、人間の体で言うと心臓の位置だよ。インドを地球のへそとか子宮だとすると、日本は心臓の位置になる。
人間の体のどこかに問題が起きると、その問題は血液を通って心臓に戻ってくる。送り出した血液が問題のある場所で汚染されてまた戻ってくるのだから、心臓は情報が集約される場所だ。本来日本はそのような位置にあるのだが、それだけの役割がありながら、現代の日本人は本来の大和心を忘れ、アメリカボケしている。
現代は、文明800年周期説で表されているように、この800年間世界をリードしてきた西洋文明に代わって、東洋文明が台頭してくる切り替えの時にある。その時に、より多く矛盾が発生するのは東洋の社会だ。西洋文明が西洋文明であるのは当然のことであり、それは800年ごとに東西の盛衰が入れ替わる文明のサイクルに沿い、ごく自然にこれから低調期に入っていく。ところが、これまでの東洋は東洋でありながら西洋かぶれをしていたのだから、本来の東洋的傾向が台頭してくる時に、そのギャップを埋め合わせる分だけ、より多くの矛盾が発生することになる。これから真実が紐解かれていく中で、東洋はより激しく変化するが、その激しい変化の中に、新たな時代への指針が生まれてくることになるだろう。

ただ、こういったことを語れば語るほど、ある意味孤独を感じるものでもある。なぜこのような思考が湧き出してくるのかというと、そういった思考の次元に意識がアクセスしているから話すのだが、それに共鳴する者は限られている。そういった解釈に触れれば人々は「なるほど」とは思うだろう。道理が通っていれば、否定はしない。実際に起きている現象もそれを明らかに裏付けている。しかしだからと言って、そういった刺激を受けて人々が生き方を変えるかというと、そこまではいかない。
今は、ピコ太郎が世界的にウケるような時代だ。今朝、福島と熊本の被災者がくまもんを通じて支援し合うということがテレビで放送されていた。NHKが視聴率を上げるための物語で、とても浅い話だが、そういった話題は人々にはウケるだろう。しかし、それでは今の社会の根底にある矛盾を根本的に解決することにはつながらない。

ともこ:
私はよく動画を編集するけれど、その時に思うのは、映像というのは編集者のバイアスがかかることなしには成り立たないということ。数ある情報の中でどれを採用するのか、長いコメントのどの部分を切り取るのかは編集者にかかっていて、その情報も嘘ではないけれど、一つの作品として仕上がった時に、それは完全に編集者の意図による寄せ集めになる。もっとも、編集者の意図も時代の流れだとも言えるけれど。

いさどん:
それを言うならば、今の情報はすべてがそうだ。本来そういったことは、自らの意図を乗せているということを自覚して行うことが大切だ。そこに気が付かなければ、自分が正義の旗印のもとにいるかのようになり、その時点で情報提供ではなくなってしまうことになる。
編集者の意図が乗るのは仕方がない。どこかで意図を持たなければ単なる出来事の羅列になってしまい、物語として成立しないことにもなる。それではわかりにくいから意図が乗るのはよいとして、そこで編集者が自らの感情が入っていることを理解し、そのことに配慮すると、フリーな映像になる。
先日、アニメ映画『この世界の片隅に』についてのクローズアップ現代を観たが、あれは極めて表面的な作品だった。それを時代の風潮として取り上げる番組には意図が働いていた。しかしその意図が観えない視聴者は、テレビの中で語られるミーハーな感想に乗っていってしまう。

なぜそうなってしまうのかというと、日頃から自らの意思をよく表現していないし、物事をよく観ていないから、出来事の奥にあるメッセージを感じ取るような思考を巡らせていない。思考を巡らせるとは、やりくり算段をするということではない。それは自動的に湧き出してくるものだ。例えば目が自動焦点になっているように、心の焦点をぐっと絞って観る。意図してやるのではなく、瞬間瞬間の状況に合わせて自動的に思考が巡る。そうすると気付きが湧いてくる。それは、人智を回して出てくるものではない。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいのか。それには自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいることが最もふさわしい。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在に物事に対処できるということ。それができていない状態で生きることは、人生の奇跡に滞りを発生させることになる。滞りの種を播きながら生きているようなものだ。自らの人生にも、世の中にも。

この世界には流れがある。自らが常に流れと共にあれば、滞りは発生しない。流れに沿って動けばよいだけだから、難しくもなく、とても効率的だ。エネルギーも少なくいける。そのためにはやはり、自らを研ぎ澄ませることだ。
本来、地球上に生きるということは、宇宙の精妙なる法のもとに存在することを、極めて短期間に、そしてコンパクトに体得できる道場に生きるということ。それは、我々人間が生命として地球上に生まれ、生命ネットワークの中で役割を果たす(他者のため)ということと、自らを磨き高次の存在として目覚めていく(自らのため)ということの、二つの生きる目的を果たすことだ。それを同時に達成できる宇宙に存在する唯一の場所が地球であり、それが真釈天技場なのである。

 


 

「自分」という囚われを解き放ち

地球に生まれてきた本当の意味を知りたい方へ

2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

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囚われを外したら

そこは宇宙だった

 
何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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ヒトイズム

─ ヒトという存在の実体は 何ものなのか ─

 
いさどん:
出口王仁三郎聖師がこの世界の仕組みを説いていたのは、今からおよそ100年も前のこと。今解明されてきているようなことがわかっていたかどうかは別としても、人としてあるべき姿勢はとっていた。それが「宗教」であってはならないということで、彼らは「大本」と名乗った。当時の日本の人口は5000万人ほどだったが、日本人の約4割が信者だったという説もある。

当時は、天理教などの宗教が世の中をリードしていた時代だった。そういう時代だったということなのだろうが、様々な教えを説く人が現れて、どれも宗教になっていった。王仁三郎聖師の弟子であった岡田茂吉氏は、独自の宗教観を持つに至り、世界救世教を立ち上げた。同じく王仁三郎聖師の弟子の谷口雅春氏は生長の家を立ち上げ、そこから影響を受けた五井昌久氏は白光真宏会を立ち上げた。みんな組織宗教となり、それが今も存在している。そういう時代だった、ということでもあり、そういった人々は、今に至る組織宗教の道を創ってきた張本人たちだとも言える。
彼らは、人として外れた心をしていたわけではない。だから、このような結果になって申し訳ないというか、本人たちも不本意なことではあるだろう。歴史を振り返れば、空海や最澄が出てきた時代もあれば、親鸞や日蓮が出てきた時代もあり、世界的な音楽家が相次いで誕生した時代というのもあった。時代がそういったものを生み出しているのだ。時代の要請を受けて出てきているのだからやむを得ないとはいえ、彼らの教えは見事に組織宗教への道を歩んできた。

ともこ:
そう思うと、本当に時代の意志を感じ取ることが大事だね。時代が今どう進もうとしているのかを感じ取り、それに沿って生きる。だけどそう考えると、「時代を創る」ということは果たして人間に可能なことなのかな。

いさどん:
時代には、骨組みがある。それは星と星との関係や、太陽系が銀河を何周回ったとか、らせんをどれだけ描いたかということによって変化していく。星々の振動や自転や公転によって、大枠が決まっていくんだよ。
その大枠の中を、トキが進んでいく。そして星々の振動や回転によって、打ち出の小づちのように、現象が振り出される。その振り出される時に、この世界へのひとつの味付けのような形で、そこに存在する者たちが何らかの形で関わることはできるかもしれない。星々が紡ぎ出すサイクルには様々なものがあり、例えば今の人間の寿命なら80年だ。それは宇宙からしたらほんの一瞬のことだろう。そこについては、もしもこの仕組みを理解したならば、自らの意志によって何らかの影響を与えることはできる。
しかし大枠については、例えば惑星や恒星の動きのような全体のリズムに至っては、コントロールすることは不可能だろう。それはもっと大きな意志に委ねられている。明らかに宇宙は生きていて、意志を持っているのだから。ただ、もしも我々の魂の次元が高くなり、視野が拡大して魂が完全に巨大な宇宙にちりばめられ、その巨大な宇宙に存在する司令塔のようなものに組み込まれるとしたら、大枠の動きとなって全体のリズムに関与する側になることも可能だ。そこまでの可能性が、人間には与えられている。

大切なのは、そういった領域を想像し、そこに思考が関わっていること。それによって初めて可能性が開く。まったく考えもしないような世界には、絶対に関与することはできない。固定概念に囚われず、いかにフリーにものごとを考えるかということだ。
しかしそのフリーな思考が、何の根拠もないものでは意味がない。そこにはやはり道理が通っていなければならない。その道理のスケールが大きいか小さいかというだけの話だ。

スケールを広げて、何億年という単位で時間軸を観てみよう。何億年というのは星の生死のサイクルだ。我々人間は、1年というサイクルを紡いで、およそ80年という寿命を持っているが、星々は何億年というサイクルを紡いで、何十億年、何百億年というサイクルで存在している。
太陽や地球はおよそ46億年前に誕生し、今日まで来ている。そしていずれは賞味期限を迎えて消滅していく。太陽の生命活動は、「誕生」して「維持」して「破壊」して、そして「空」になるという「成住壊空」のプロセスを辿っており、それで1サイクルだ。その太陽に惑星として関わる地球のサイクルは、もっと小さい。その地球に関わる生命のサイクルは、それぞれもっと小さく、微細だ。そこで何十億年というサイクルの意識を持っていたら、地球のサイクルに関わることはできるわけだ。

そういったスケールで考えてみよう。いつか地球が三次元生命を維持することができない状況に陥る時、生命の種を新たな場所へと移住させる。物理的に言えば、例えば元素のような生命の一番元となる単位のものを移住させる。霊的には、魂を引き連れていく。物理的要素を束ねている魂たちがいて、それを引き連れて新たな場所へと移住する。これはまさしく、宇宙版ノアの箱舟だよ。
それは、例えばこの地球上で木の花ファミリーを束ねて引き連れていくのと同じこと。スケールが大きいか小さいかだけで、仕組みは同じだ。宇宙を旅して新たな銀河へ向かい、そこに三次元生命を発生させる。その次元の発想を持っていれば、将来そこに関わることができる。何億年というサイクルを意識の中に持っていれば、十億年単位でそれを表現していくことができる。この宇宙空間で新たにそれをやろうとすることは、不可能ではない。なぜなら、地球にこういったものがいつしか始まったということは、どこかにあったものが移住してきたということになるのだから、地球が既にそれを立証しているのだ。

───── すごいね。今ね、目の前で、ブルーの光が点滅していたんだよ。いつも目の前にブルーの光が見える。その光というか、雲のようなものが、ぽわっ、ぽわっ、と暗闇の中で点滅していた。それが今、だんだんゆっくりになって、ゆっくりになって・・・・ああ、今、消えようとしている。
最初はブルーで、中心が白かった。その青白い光がだんだんブルーになって、ゆっくりになるに従って紫になって、それでだんだん・・・・光が小さくなっていく。紫の中心は明るいね。とても点滅がゆっくりになっている。ぽわっ、ぽわっ、と、終わっていく。何か、銀河雲の中に消えていくようだ。

ああ、そうか ───── 。

ある星が光っているということは、生きているということだ。それが終末を迎えると、光が強くなり、やがて消滅していく。そして完全に光が消えて、生命活動をしていない星が、宇宙空間にはたくさんあるそうだ。それは、見えないんだよ。存在がわからないんだよ。闇の中にあるものだから。
人間は、生命活動が活発な星だけを確認している。しかし実は、ダークマターと言われる闇の中にも、生命活動を終わって休止している存在があるそうだ。

ともこ:
それって、すごい数なんじゃない?

いさどん:
すごくいるんだよ。ひとたびある星が強い光を発すると、その光が休止している星々に当たり、それがたくさんあるから雲のように見える。太陽の光が降りてきた時に、水蒸気の粒がたくさんあると、それに光が当たって雲に見えるでしょう。それと同じだよ。今突然、そんな風景が目の前に現れた。

大切なのは、どこまで思念をフリーにして広げられるかということだ。フリーになれば、思考は自動的に湧き出てくる。例えば目が自動焦点になっているように、焦点をぐっと絞って観る。それを意図してやるのではなく、瞬間瞬間のニーズに合わせて、自動的に焦点が絞られていく。だから、気付きは自動的に湧き出てくる。それは自分の頭であれやこれやと思考を回して出てくるようなものではないんだよ。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいか。それには、自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいるということだ。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在な状態だ。その状態で、思考を巡らせてみる。

「人生」というと、地球上で人として生きるという意味だね。しかし「人存」というと、人として存在するという意味になる。それは、人生よりももっと永遠なるものとして存在し、スケールもずっと大きい。人間は今、80年まで寿命を延ばして人生というサイクルを持っているが、人存というサイクルは、それこそ星と同じように、何億年というスパンで存在する。それだけのスケールのサイクルを、人として存在する。

ともこ:
人生っていうと、そこには生死があるよね。人存には、死がない?

いさどん:
宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。
英語には” humanism(ヒューマニズム)”という言葉があるでしょう。超自然的な存在よりも人間の理性や尊厳を重んじる人間中心主義のことで、その元になっているのはhuman(人間)だ。それに対して、人間が魂だけの状態になり、宇宙の始まりから終わりまでの仕組みをマスターした存在をヒトというのだから・・・・ヒトイズム!これはヒトイズムだよ!

やはり、世の中がここまで行き詰まってくると、人々に新たなフロンティアの夢を与えなければいけないね。新たなフロンティアとは宇宙時代にあり、それは次の時代を語れる人でなければ与えることはできない。
今、社会は欲の渦に巻き込まれて成り立っている。それは自制心でコントロールできるものではなく、どこかで振り切ることが必要だ。しかし、個人は既に、こんな社会はおかしいと感じ始めている。そして社会と一線を画しながら、それを止められずにいる。だから、社会よりも先に個人が目覚めていくだろう。

ともこ:
この世界の仕組みをマスターするのに、やっぱり星ではなくて、人としての形態をとる必要があるの?

いさどん:
ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

昔、人々は天の星々を見て、今自分はどこにいるのか、季節はどのように巡っているのかを知っていた。まず、太陽を見る。次に月を見る。そして星を見る。命と天体が直結し、それによって自分たちが生かされていることを理解していた。それは思考を超えたものだ。人間の中にはそれを感受する受信機のようなものが内在していて、その時代にはそれがまだ生きていた。今は全て携帯などに置き換わってしまったけれどね。

ともこ:
カレンダーができて、時計ができて、そういうものを頼りに今の人間は生きている。だけどそれも元をたどれば、すべて天体をベースにして創られている。

いさどん:
だから、すべては星なんだよ。天体なんだよ。すべては天の意志だ。どうしてそんな当たり前のことを忘れてしまったのだろう。今もそれによって生かされているのに。
我々が天体の動きを感じるのは、目や耳などの五感で感じる程度のものだろう?それを眼耳鼻舌身意という五感+一感、つまり六感で解釈していくのだが、その奥に、それを統括しているものがある。その統括しているものが、受信機になっている。それが我々の体だ。体は全細胞の集合体であり、細胞の一つひとつが受信機だ。その受信機が星々と対話して、我々は生きている。それがヒトの本当の姿だよ。それなのに、そのことをまったく考えもしないのは、ある意味退化している。それを復活させるのが、目覚めるということなのだろう。それが時代人であり、ヒトなんだよ。

昔はそういった位置に行った者を聖人と呼んだ。するといつしか神格化されてしまい、仏像のように祭壇に祀られて崇められ、身近な存在ではなくなっていった。しかし本来、すべての人がその領域へ行く潜在能力を持っている。その時代が始まった。誰かを崇めるのではなく、日常会話の中でそれが語られたり、表現されていく時代だ。

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。
それには、0.5秒待てばいい。どういうことかと言うと、地球46億年の歴史を1年に例えると、イギリス産業革命が起きたおよそ250年前から現在までは、たったの2秒間だ。その2秒の間に人間社会は劇的な変化を遂げたが、それも宇宙の歴史からしたらほんの一瞬のことであり、時代は常に先へ先へと進みながら、確実に変化し続けている。そしてそれはひとつらなりの物語となって、永遠に続いていくんだよ。そういった大きな視点を持てずに自らの物理的寿命に囚われて何とか解決しようとすることは、とても気の短いことだとも言える。
そこで、0.5秒待てるかどうか。その余裕がなければ、宇宙の実体は観えてこない。

例えば、医者が病気について「今病気はこのように進んでいて、それをこういう風にすればこうなって良くなりますよ」と言うのは、科学的分析の結果の話であり、人間が理屈で理解して納得できる世界だろう。しかし、この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。
それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。

さて、それがこれからどのように世界に現れてくるのかが、楽しみだ。

 

 

Source of image:www.stuffhood.com/post/emma-lindstrom