僕が30歳でお釈迦様との出会いをいただくようになってから、宇宙の真理や人のあるべき生き方を世の中に広める場を創ろうと思っていました。そんな僕に対して父親は、「夢というものは見るものだ。そして夢というものはいずれ褪せて、それがはじけるものだ」と思っていたようです。僕のプランは40歳でお金儲けをやめて、日々を世のため人のためにお返しする人生を始める、というものでした。そしてその日が近づいてくると、父親の予測とは逆に、どんどん僕の想いは熱くなっていったのです。そして、僕が40歳になって、いよいよそれを実現しようということで、仕事を辞めて両親のところへ行き、両親の面倒をみながら、農業の勉強をし、人々にもそういった心を伝えていこうと自分の生まれた土地に移り住んだのです。
当初、僕が田舎へ戻ったことを両親は喜んでくれていました。ところが、僕が思っていた親孝行と、両親が考えていた親孝行には大きな違いがあり、両親は息子が商売でもっとお金を得て、豊かな生活をするというような一般的な価値観を自分たちの喜びとしていました。しかし僕は、世の中が良くなって、みんなが助け合って暮らせる幸せで平等な社会を創りたいと思い、そのために自らが生まれた土地を活かしていこうと考えていたのです。その結果、両親は僕の理想を理解できず、悩むことになってしまいました。
ある日、父親は僕にこう問いかけました。「おまえな、世の中のためって言うけど、日本にはどれほどの人がいると思うんだ。ましてや、世界にはもっと沢山の人がいるぞ。おまえ一人そんなことを言って、世の中が変わるか?」
そこで僕はこう答えました。「そういう親父のような人が世の中に沢山いるから、世の中が変わらないんだ。そういった人の理屈では確かにそうかもしれないけれど、塵も積もれば山となるというように、そんな人ばかりいるから、今の世の中のようになっているんだ。だから、人にどうしろということは当てにならないが、自分の行いだけは自分の責任で、ひとり分だけ世の中を変える!それは、絶対に出来る!そうしたら、それを見ていた人がわたしも!と言って変わっていく可能性が生まれる。そして、それが広がっていけば、いずれ70億の人が皆そういった考えに変わっていく可能性につながる。もしも、自分がそういった考えを持っていながら、それを怠ったら、すべての可能性が消える!」と伝えました。そして心の中では、「僕がひとりその志を持っているにもかかわらず、親に言われたからと言ってやめてしまったら、世の中は変わらない!」と思っていました。そうしたら、父親は「おまえってやつは、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うといって、どうしようもないやつだ」ということであきらめてくれました(笑)。
その後、ある朝、僕が2階の部屋から下へ降りようとしたら、両親が下でテレビを観ながら話しているのが聞こえました。二人は「どうしたものか。世間の人が息子を見たら、いい若いもんがどこか具合でも悪いのだろうかと思ってやしないだろうか・・・」と悩んでいたのです。それで僕は父親にこう伝えました。「僕も40歳を過ぎたんだよ。そうしたら、早い人は孫もいるよ。僕はもう子どもではないのだから。親父だったって、若い頃は父親の言うことは聞かないで、『俺は筋を通してきた』って言っていたじゃないか。僕も40歳を過ぎたのだから、『老いたるは子に従え』という言葉があるように、子どもの方針を認めて、それに賭けてみたらどうだ」と言いました。しかし父親は、息子の人生イコール自分の考えの延長にしたかったのです。そのあたりで、父親の考えと自分の考えが違っていたことが明らかになってきました。
僕としては、家長制度が壊れていく本家の古田家を盛り返すということと、平成の二宮金次郎が世の中に現れてもいいだろう、という想いでふるさとに戻ったのです。そして、ふるさとで人のあるべき生き方を世の中に広める場を創ろうと考えていたのです。
しかし、父親の想いを受けて、僕は気が付きました。自分は親孝行をしていたはずなのに、与えようとする意識とそれを受け取る意識の価値観が違うがために、親不孝をしていることがわかったのです。親孝行や人を想うことは、相手と通じたときに価値があるのです。どんなに相手を想う心であっても、それがいかに尊くても、相手と通じなければ意味がないと考えたときに、自分は間違っていたと気付きました。その極めつけとして、「自分は世のため人のための人生を生きると言っておきながら、結局自分の先祖や両親を優先して考えていた。ここにも我があることを知って、天はこの我も取りなさいと教えてくれているのだ」と気付き、親元を離れ、富士山へ行き、この生活をしようと決意したのです。
このようにして、ふるさとでの理想郷づくりを半年で断念した僕は、ふるさとを出発する当日、その志を滝神社の氏神様に報告しに行きました。そうしたら、氏神様から次のような言葉が降りてきました。「そなたのことは、上の神様より聞いておった。そなたがここに来て、わたしを盛り立ててくれることを喜びとしておった。だから、まさかここで別の地へ行くとは思わなかったが、それは理解できる。旅立ちのはなむけに、言葉を送る。どんな大海を行く者も、その始まりはふるさとに降るしずく一滴より始まることを忘れるな。」そこで、僕はその意味をこう解釈したのです。「この言葉の奥には二つの意味が隠れている。一つは、氏神であるわたしがそなたの魂の親であることを忘れるな。そして、そなたは肉の親とは心が通じなかったと思っているかもしれないが、そなたのふるさとである両親のことを忘れるな。」
それから月日が経ち、僕が42歳で富士山麓に移住してから、父親は持病が悪化し入院していました。僕も時々富士山から岐阜の病院へお見舞いに行っていたのですが、父親と僕の間には心の壁ができていました。父親からすると、最高の息子ができたと思って僕に賭けていたのが、自分の思惑と違う息子の生き様を見ていつも悩んでいたのです。父親が亡くなる1週間前、僕のいないときに父親はおふくろにこう言ったそうです。「おい、もしかして、あいつの言うことのほうが本当かもしれんな。」そう言って、父親は亡くなっていきました。
しかし、僕には不満でした。「わかるのであれば、生きている間にもっと明快にわからなければいけない。そんなツケを残したような形のわかり方ではダメだ」と思いながら、父親の葬式の日が来ました。僕は父親が生きている間にそれを伝えたったのですが、何しろ死ぬ間際でしたし、昔の人にそのようなことをわかれとは言えませんでした。しかし、肉体がなくなって魂だけになれば、親子ということではなく、魂同士で思う存分伝えられると思ったのです。それで、昭和天皇様が亡くなられたときに声をかけたように、僕は父親の葬式が終わってみんなが帰っていった後、仏壇に向かって、「親父、何もして行かなかったな。古田家は、後は自分のことばかり考える兄弟たちだから、もう決着がつかなくなる。あなたは筋道を通すと言うわりには、何も筋道を通さずに終わったじゃないか」という意味で、父親に死んだ心境を尋ねました。死んだ限りは僕と対面すれば、僕の心が何ものかがわかると思って語りかけたのです。そうしたら、父親はこう言いました。「俺にはようわからんがな。でも、これで良かったそうだぞ。」
そのとき、父親の魂の上を観たら、そこに光が観えたのです。それで、「父親は光を観たのだ」と思い、僕は気付きました。父親は自分が誇れる最高の息子を得たと思っていたのに、ガッカリして旅立っていったのです。ところがそうではなかったということと、僕は僕で「このケジメをつけない人は何なのだ!」と思っていた人が、実は神様の使いだったのだと気付き、お互いに発見したのです。
そのときに僕はこう思いました。「どんな人であっても他人というものはこんなに赤裸々に人間の愚かしさや矛盾を見せてはくれない。しかし、僕の両親が本当に赤裸々に人間の矛盾を見せてくれたことによって、自分は人というものを学ぶことができた。両親が無理解だったからこそ、自分は大きな道を歩めるのであって、もし両親が自分の想いを理解してくれていたなら、自分はこの小さな山の中で暮らしていたかもしれない。そうしたら、僕の人生はまったく別のものになっていただろう」と。ふるさとにいることと、大海を行くことの意味はまったく違うのです。
だから、すべては神の成せる業だと気付きました。思うようにならないことも、思うようになることもすべて、天の意志なのだと。しかし、そのようにこの世界を受け取っていないと、わたしたちは都合の良いことだけを天の意志だとしてしまうのです。
しかし、真実は、自らの襟を正して生きていくことが大切です。そして自分が生きた結果、世の中が襟を正していく ―― それが真の生き方です。
by 木の花楽団