課題に出会うことは

課題に出会うことは、その課題を超えて新たな可能性に出会うということであり、それは本来喜ばしいことだ。しかし、それまでに持っていた概念にとらわれていては、その課題は常に目の前にある障害物にしか見えない。

一年に四季があるように、人間が生きていく上で新たな発想が芽生え、伸びていく時がある。その成長が旺盛になり物事がどんどん様変わりしていく。そしてそれが熟して収穫をする秋を迎え、次の課題のための熟成の冬を迎える。そして、新たな課題に出会い、自らの新たな可能性の春に出会う。人間の生の一年の中にも四季のリズムがあり、それは一生の中にも同じように刻まれている。

大局的にとらえれば、どのような時も前向きに生を全うすることができるが、大局は人間の思考の中にあるのではなく、宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされている。それを人間一人ひとりが命の営みの中で受け取り、思考に転換し、自らの生の中に表現していく仕組みになっている。

我々の命は自然そのものであり、さらに自然の奥にある宇宙秩序そのものであり、自然の奥にある自然を法則化している天の意志・「天然」そのものである。それを理解するためには大局的にものをとらえないと、この世界の事象の奥にある本当を観ることはできない。
だから、人間が考える思考と、生命として生態系につなぐ自然と、さらにその自然を保つための宇宙の法則・天然、その3つの視点があってこそ、人間が生を受けてきた目的や役割、そしてこの地に降り立った意志を満たすことができる。

個の気付きがなされないことには人類の目的も達成されない。目的が果たされないことは本来与えられた役割も果たさないことであり、それは本来の道から外れることであり、人間の存在は天の意志からも、自然の法則からも、自らの目的からも外れることになる。

生きることは命を紡ぐことであるが、それは生涯を通して続くことであり、かつ我々は生死を超えた魂の存在である限り、それはあり続けることなのだ。その目的は、この世界を現象化している意志に目覚めることである。
その目覚めのための気付きを一つひとつ得ていくために、我々は日々の中で課題をもらう。それと向き合い、学んでいくのが本来の人生の姿である。人生の四季を経て年輪を刻む大樹となるように、あるいはその時々に応じて節をもらい育っていく竹のように、育っていくために人生の課題があるとしたならば、それは喜ばしく希望あることである。

だから、日々、瞬間瞬間、それに向き合い、味わい、そして伸びる時には思いっきり伸ばし、それを楽しんでいけばいい。

そのために、人間には考える力が与えられている。だから、よく考え、そしてよく観て、育っていく。それを怠るものは目覚めが遠くなる。怠ることの原因として、己にとらわれている。それでは新たな世界には出会えない。
常に今と出会い、いただいていく姿勢がそこには不可欠だ。その姿勢こそが道の扉を常に開くことになる。
 
 


“真学校”としての役割

木の花ファミリーでは、自分という枠から飛び出してこの世界の仕組みを学ぶ「木の花塾」や、それをさらに総合的に、1ヶ月間の滞在を通してじっくりと深めてゆく「エコビレッジ・デザイン・エデュケーション」などのプログラムを開催しています。これまでも受講生たちの人生に大きな変化をもたらしてきましたが、世界中が激動の時代へと進み始めた今、これからのさらなる役割についていさどんが語りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
人間の近くで生きている動物には多少の感情があると思う。それに対して、人間は感情の生き物といえるくらいの存在だ。

21世紀に入って14年目を迎え、社会にはまだまだ問題の種が山積している。その根本的原因がどこにあるかを考えてみると、私たち人間の感情の有様にあることがわかってくる。
人々の感情がエゴに向かって育てば対立するのだが、調和に向かって育てば平和が来る。しかし、どうしてもエゴに向かってしまうのが人間の本質。調和の方向へ向かうことも諦めてしまいそうなくらい、エゴの方向へ一方通行な人間の性質が強くあるとしたら、そのエネルギーを逆の方向に向けても然るべきだと思う。エゴに向かうことが生命としての本質はそうではないのだから。
小さくても人々のあるべき見本を創りたい。その為には人間を人間たらしめている精神構造に着目するべきだと思う。そこから根本的に組み立て直す必要がある。

ひとみ:
それはどうやって?

いさどん:
エゴに走るという事は感情が一方通行だろう?自分から周りへというように。だから、広い世界から自らへ帰ってくる視点で外から内へ、そして内から外へと、その両方の視点がバランス良く成立した時に、個人は全体の為に繋がるし、そこに調和が生まれるんだよ。お釈迦様が中道を説かれたけれど、個人の成り立ちと世界の成り立ちが同時に成立するとらえ方があるはずなんだよ。
今、地球の外、人工衛星のあるような位置から地球を眺めている意識で、そんなことを想って語っているんだよ。やはり視点がこの地上意識を離れないとそうはならない。その発想はいつでも人間の能力で出来ることなのだが、人はそれをなかなかしないんだよ。

ひとみ:
しないの?

いさどん:
そういった視点を持たないんだね。

ひとみ:
持てないのではなく、持たない?

いさどん:
持てないのではない。持とうと思えばできる。それだけの能力と情報が人間にはあるのだから。想いはいつでも広がるし、飛ぶ。だから出来るはずなんだよ。

ひとみ:
では持たないのは?

いさどん:
持たないのは視点が狭いんだよ。

ひとみ:
視点が狭いから持とうという気になれないということ?

いさどん:
視点が狭いからそういった発想が浮かんでこない。広い世界観が浮かんでこないんだよ。少し刺激をもらえばその能力は既に持っているわけだから、誰でもその視点に出会える。少なくとも視点が広くなりさえすれば、自分だけの一方的な価値観でこの世界を見ることはない。なんとかしなければ、と思うだろう。自らの内から目線、損得目線では繋がらない。

実際に人類は宇宙開発をしている。宇宙から見たら地球は狭くてひとつに観える。国境がないことも簡単に理解できるだろうに。海もひとつだし、大地もひとつだし、風もひと塊だし、大気もね。空気もみんな、ひとつの中に暮らしているんだよ。

救世教の岡田茂吉さんが今から70年ほど前に自然農法を解き出し、画期的な方法があると語った。肥料をやってお金をかけて大地を悪くして生産性が上がらないよりも、自然農法という神の力を使った方が確実に米の収量が1割〜5割上がる。そして、肥料の毒がない健全な農法と謳って、これはすぐにでも日本中に広がると言った。そしてその会員を募り出したら、100万部くらいのパンフレットを作らなければいけないと書いているんだよ。
それはよくある話で、人参をぶら下げてそれに欲の亡者たちが群がってくる姿だよ。結果、自然農法は科学的な根拠に基づいた農法に代わって一時火がついて世の中に広まりかかったものの、萎んでいった。

あの山岸巳代蔵(ヤマギシ会創設者)さんが理想世界を説いて、食べるのに困らない生活を謳って人を集め、ブームになった。特講(特別講習研鑽会。1週間ヤマギシ会に滞在して自己の思考を見直すというもの)なんて何十万人も今まで受けている。結果、それで下火になっている。それは何故かというと、人間の欲をくすぐって広めようとしたからだ。
逆に人間の欲をくすぐらないで、「欲から離れて本来の人間の生態に相応しい立ち位置に戻りなさい。それは欲に汚染されていないから人間の意識は高いのです」と伝えても、世の中にはなかなか広がらない。しかし、大事だということではこちらの方がはるかに上なんだ。『難しいことを与えておるゆえ、心して行け』と託されたわけだよ。しかし、それを大事の一番としたならば、難しいからといって止めるわけにはいかないんだよ。

何故、人間がこのように偏ったものになってしまったのか。何故、わざわざこのような思考回路を持つ者としてつくられたのか?はたまたこの身体をもらったばかりに、五感の刺激が強いばかりに、自己というものに意識が行き過ぎるのか?
それでも、人間以外のもののように感情的思考が強くなければそのようにはならないはずなのに、一方通行の感情・思考の強い者をわざわざつくってしまったが為にこういった現状があるとしたならば、難しいけれどそこを突破して越えていくだけの道があることは確かなんだ。それはその道を行くことを課せられているとも言えるよね。だから、そこに気付いたものはそこを行かなければいけない。

このようなことを考える人はなかなかいない。いたとしても、それは難しいと言うだろう。だからこそ行くのだ。そういった世界が人間にも創れることを示さなければいけない。
その為にまず取りかかるのは、自らの改造からだ。そして、それを外に示して人間が自らの内側の改造に取りかかった結果、できる世界の姿を示していく。シンプルになっていく豊かさ。分かち合うことによる豊かさ。エゴを手放して繋がることの豊かさ。このようなものは世の中にいくら宣伝してもなかなか広まらないけれど、小さくてもモデルをつくることは出来そうではないかと思うんだよ。世界がそのことになかなか気がつかなくても、可能性としての見本は見せることが出来る。

あと17年。それは個人的に理由のある数字だけれど、それをやりきって後に続く者に残して旅立とうと思う。

最近、『神学校』という言葉が浮かんでくる。イスラム教でもキリスト教でも神学校というものがあるけれど、年明け最初の木の花塾でどうだろうね。

ひとみ:
では、第3回目は実習はなくす?

いさどん:
“実習”はゲームのようだ。そうではなくて、イメージをどんどん膨らませて世界観を広げていくものにしたいね。

ひとみ:
なるほど。心の読み方自体は1回、2回で伝えたからね。

いさどん:
それは特別に大切なものではないんだ。心の読み方をマスターしてもしなくても、要は世界観が広がりさえすれば人間の意識は変わる。それが変わらないと、自らの心の構造を知ってもどう生かせばいいのかということになる。

ひとみ:
生かすために必要なんだね。

いさどん:
そう。どんな人でも世界観が広がりさえすれば、意識が高まっていく。人間が世界観を広くしないからやっているだけであって、それは一つのツールにしか過ぎない。それは最終目的ではないんだよ。それを最終目的にしたら、お金儲けの手段に使ったり、偶像崇拝的なことになってしまう。

ひとみ:
やはりいさどんは発想の元が違うね。いさどんの視点の位置で考えないと。

いさどん:
それでは“いさどん視点で見てみよう”というキャッチコピーになってしまうね(笑)

ひとみ:
そうそう。どうしても私の場合、“講座”というふうに発想がなってしまうので、狭い発想しか出て来ないことになる。

いさどん:
“自らの思考を柔らかくして新しい視点で観てみよう。”

ひとみ:
なんだろう?固定概念が邪魔をするんだよね。

いさどん:
それは“発想をフリーな状態にして囚われない思考を持とう”という事だね。そうすると、縛られている自らの枠から抜け出せます。そういったことをひとつずつ学んで身につけていくことだよ。

ひとみ:
学びに関しても自分の発想内(理解できる範囲内)の学びをしようと人間は考えるよね。

いさどん:
その学びは人の成長につながらない。

ひとみ:
でも、そういった人がほとんどだよね?「自分の発想内の気づきを得よう」とか「自分の発想内の予測できる学びをしよう」と人間は考える。

いさどん:
それを求めるんだよね。それはその人の心の枠の中にあるものだよね。それでは我は取れないし、意識が広がらない。

ひとみ:
学びや気づきを得ているつもりでどっぷり我に浸かっている状態だね。あーあ、たいへんだね!

いさどん:
この前、木の花塾の『宇宙おじさんの人生講座』である受講生から「公開面談をしてください」と頼まれたので、「それではあなたをバラバラにしてしまうよ」と言ったことに対して、彼女が「それをしてもらう為に来たんです。私はもう限界なので自分の枠を壊したいのです」と言ったんだよ。人はそこまで行き詰まらないとそうはならないけれど、そこまで行き詰まる前にそういったことを求める人でありたいね。そして、常に人はそうあるべきなんだよ。痛い思いをしなくても、冷静な自分観察を出来るようになれる。しかし、人は冷静な自分観察を始める前に、目の前に人参をぶら下げられると、それに魅力を感じてそちらの方へ行ってしまうんだよ。それで手法に走ったり、甘い方へ行ってしまい、本当の実力をつけることが出来ないんだ。

ひとみ:
それを突破できる?

いさどん:
それを突破できるようにずっとここでやってきたんだ。それは“わからなくても信じて行く”決意と、それからわからなくても信じる種が育つこと。

ひとみ:
種。その人に?

いさどん:
ひとりひとりにね。

ひとみ:
でもやはり先導する人が必要ではないですか?

いさどん:
だから、“真(神)学校”がいると思う。

ひとみ:
真学校もいるけれど、“いさどん”がいるのでは?

いさどん:
それを“真学校”というんだよ。

ひとみ:
いさどんが“真学校”なんだ!?

いさどん:
そう。それが“おやじの館”なんだよ。

ひとみ:
「ああ!いさどん様〜!」という感じ(笑)

いさどん:
いや、それは違う。人によって段階によってはそれもやむを得ないこともある。しかし、本来その目的は誰にも縛られない、自分にすらも縛られない者に成長するためのプロセスだから。そういった段階を踏みながら、ひとりひとりの種を芽生えさせていくネットワーク創りをしていくことだと思う。

今までは依存してきた者に対して、自立を促しながら緩急をつけて接してきた。しかし、“もどき”がその中に入っていると、その厳しさだけが際立って今回の現象とその変革となった。そこを教訓にして、やはり種のある者が自然に集まってくる場づくりをする。そして、種があるならば、水をやり、温かくして目覚めを誘発すれば芽が出てくるだろう。その作業をこれからやっていく。“火水(かみ・神)まつり”だね。

ひとみ:
質問です。“もどき”の人間は種があるのは同じなのに何故目覚めないんですか?

いさどん:
“もどき”という状態は、ことの大事はわかっているのだが、まだエゴの魅力に憑りつかれている状態。だから、「わかる」の後に常に「けど」「でも」を使う人。

ひとみ:
エゴに重きを置いている。

いさどん:
自分事を優先して物事を考えている人たちのこと。それはエゴをやりきっていないということさ。エゴをやりきってしまえば、後は調和の方に向かうだけだが、それをやりきれていないんだよ。

ひとみ:
では、「壊したいんです」という所まで行かないと切り替えられないの?

いさどん:
それは推奨できることではないよね。その前に積極的に大事に気がついて、自らを切り替えていけば痛い思いをする必要はない。そこは世界観が狭くてエゴ的カルマが強いからそこまで行くわけだ。
そういう人もいるだろうけど、これからの若い世代の人たちは新しい時代を背負っていく人たちだから、まったく痛い思いをしなくても当たり前にそれが出来る人たちが出てくる。しかし、彼らもそういった事を言いながらも、実際の社会を見れば彼らが思い描く社会や人々にはまだまだ出会えないわけだよ。
だからこそ、ここにそれを創る必要がある。そして、そのような心を育てていく必要があるんだ。今までの宗教団体のように巨大なものをつくる必要はないんだよ。小さくシンプルで、“これだ”というふさわしい本物をつくるだけでいいんだ。その研ぎ澄まされた美しいものは見本として、次の時代の指針となる。
 


「聖蛇」から真の「聖者」へ

ひとみ:
よく日本人は信仰心があると聞くけど、国民性として実際にそうなのですか。

いさどん:
そうだね。信仰心といっても、もともとの日本古来の信仰は八百万の神々で表される自然を神と見立てていた。自然は循環する命の仕組みのつながりであり、自然の循環に神を見ていたということだろうね。
例えば、言葉から発する言霊とか音霊とかいうとらえ方があるように、日本の信仰というのはもともと多神教で多様性があった。それはどういうことかと言うと、神(命)の働きであるこの世界の仕組みを大きく分類していくと、始まりは天御中主(あめのみなかぬし)といって唯一の神であり、そこから働きが別れて多面的(多様性)な一つの世界(一神教)が創られている。その世界が多面的であることから、同時に多神教であるという柔軟な考え方だ。
そういった宇宙の中に、私たち一人ひとりの人間の個が存在する。その個から世界を捉えて生きていると、この世界の仕組みによって活かされていることを生活の中に実感することになる。そうすると、そこに祈願とか感謝とか祭りの精神が生じ、そこから信仰心が生まれた。
その精神世界では、天の御魂が地上に降りて肉体を持つことによって、人間的な所有や執着のカルマ的汚れに汚染されることになり、それが苦しみのもととなっていった。そこで、その汚れを払い落とすことが必要になってきた。神道系の信仰では祓い清めることになるのだが、そのようなことでは人間についた欲が祓い落とせない状態になって、仏教とか、後にキリスト教の道が必要になってきた。

ひとみ:
十戒とか。

いさどん:
そうだね。十戒のような戒律が必要となり、仏教的、キリスト教的な規律で生きていくことが輸入された。
人々がもともとの自然の仕組みのままに生きていたら、それは美しい営みであり問題はなかったのだが、人間の欲望が強くなり、悩みや苦しみが多くなってきた。そして人々は自然の仕組みからはみ出すようになって、そのコントロールが必要になってきた。
そこで求められる世界は、人間の欲望や願望を超えた自然と一体の世界だ。自然は、宇宙法則により生命が一体になった境地を現象化した世界。それは過去の人間たちの中に存在していた。それが祭りなどの形となり、残ってきた。

その精神がなぜ薄れていったのかというと、明治維新により、天皇を神格化する国策が始まった。教育勅語のようなものを使って、国家神道という国をまとめるための宗教を軸にしたことから、本来の自然にまつわる精神を失っていったわけだ。
日本人は歪んだ宗教を与えられた結果、第二次世界大戦を起こし、宗教アレルギーになってしまった。それで、本来日本人の中にある八百万信仰という自然と一体となって生きていく精神が消えていくことになり、代わりに西洋文明の人工的、物質的な価値観が入ってきたり、多様な新興宗教が興ったりして、日本人の本質が骨抜きになってしまった。
そういった中で、多くの宗教は信者獲得の争いにまみれていく。大本教や天理教などの神道系から、仏教系、キリスト教系までの日本の宗教が、ご利益的な教えのもとに勢力を広げることになった。
そこで表現される信仰は御利益宗教であって、人々に目覚めを促す本来の信仰とは異なるものになってしまった。

ひとみ:
ここに来る前に私が調べたことの中に、天御中主命的な、世界はもともと一つだったということがどこの国の神話にも記されているのだけど、あまり他の国の人々はそれがわかっていないような感じがした。日本人はそれを覚えているような感じがする。

いさどん:
日本人気質の中には情報としてあるかもしれないけど、今の日本人は、あまり覚えていないね。

ひとみ:
日本人も忘れているということ?

いさどん:
今の日本の人々にそのようなことを意識している人はほとんどいない。それから、そういったことを意識している人たちもそれに偏ってしまって、生活に表わすことがおろそかになっている。

ひとみ:
そういう傾向があるよね。

いさどん:
分析すれば、歴史がそういった社会を誘導してきたということなのかもしれない。今、20世紀までの千年の区切りが終わって、21世紀型の社会が幕を開けようとしている。それで価値観が大きく変わろうとしていることは確かだね。
これまで、「陽」の時代が千年間続いて来た。そしてこれから「陰」の時代の千年間が幕を開ける。陰が主となる霊主体従の時代が開けようとしている。これまでの陽の時代は、物、金、形、テクノロジー、科学の刺激がとても強かった。しかし、そういったものは陰である霊性に根付いたものでなければ、健全な姿にはならない。そのことを、これから人々がわかっていくことになるだろう。
昨日、アメリカのイサカから来たゲストが彼らのコミュニティについて語ったが、その現状はまさしく、陽が優先し、豊かさと便利さをエコという言葉に変えて追及している、精神性の薄い生活になっている。また、エコについても、どちらかというと彼らはそれほど強い意識を持っているわけではなくて、自分たちの願いを優先し、プライバシーを守り、好きなように暮らせることを大事にしている。それは浅いところの願望は満たしてくれるかもしれないが、霊性などの深さには繋がらないことになり、地球に負荷をかけ続ける20世紀型の生活になる。

ひとみ:
日の本の国(日本)は霊性の世界の写しだから、そこが歪むとアメリカも中国も歪んでくる、と何かの本に書いてあって、以前私がいさどんにその話をしたら、「インドは特別なんだ」と言っていたような気がするのだけれど。

いさどん:
インドは“地球のへそ”といって、心が湧き出るところだ。

ひとみ:
インドは仏教が生まれたところ?

いさどん:
仏教だけではないよ。インドでは仏教のもとであるヒンズー教、イスラム教、実は原始的なキリスト教もインドから生まれたという説もある。

ひとみ:
インドが要になるの?

いさどん:
インドは地球の魂が湧き出るところ。

ひとみ:
日本は?

いさどん:
インドは地球の魂という生命宇宙の法が湧き出るところだけど、日本は逆に宇宙の法が降りて来るところなんだ。だから、富士山のことを天教山(天の教えの山)といって、エベレスト・ヒマラヤのことを地教山(地の教えの山)という。

ひとみ:
そういったものを日本人は忘れてしまっているということ?

いさどん:
DNAの中には情報としてある。そして、それに目覚めてきている人が現れ出している。今までの日本では、そんなことを言おうものならそれこそ宗教団体に見られてしまった。

ひとみ:
そうなんだね。

いさどん:
そのうちに民族意識が目覚めて重ねられる時が来るんじゃないかと思う。

ひとみ:
今でも一部のマニアックな人たちはそういった部分だけ取り上げて、実生活がそれに見合っていない人たちがいるよ。

いさどん:
それも次の時代につなげるための役割で、どこかでつながって100匹目の猿現象のように広がっていく時が来るのだろうと思う。

ひとみ:
今年は“龍のうねり”といさどんが言ったけれど、世界の神話の中には共通して龍のような生き物が出てくるんだよね。どこの国の古い神話の中にも、蛇や龍が表現されている。そして、それが意識される現代はある意味末期の世なんだろうね。

いさどん:
末期の次は始まりということになるからね。

ひとみ:
そうそう。末期が始まり。古代神話の創世の部分に龍のような動物が登場する。古い時代が終わって新しくなるということだね。

いさどん:
だからこそ、人間はそれを察知して新しい意識を持って生きる必要がある。新しい意識を持つとは、ここでは“古い”意識を想い出すとも言える。それは“復活する意識”で、忘れていたものを想い出すことが新しいということになる。
そのことが今の人間たちには大事なことだけど、それがなかなか一番にならないんだよね。どうしても20世紀型の物・金・カタチのところに魅了されてしまっていて。決して物やお金がなくなってしまうわけではないのに、優先順位を間違えている。優先順位の一番が欲を満たすことになってしまっている。イサカのエコビレッジの話を聞いても、個人の願望が優先されて、コントロールすることによるシンプルな豊かさや尊さがまだ理解されていない。

ひとみ:
物理的な生活はシンプルかもしれないけれど、シンプル違いなんだよね。個人の願いとか趣味とかにまだ意識がある。

いさどん:
それはシンプルではないんだよ。個人の欲望が少し方向が変わっただけであって、個人の概念を満たすということについては同じことなんだよ。

ひとみ:
同じなんだよね。そうそう、それが言いたかった。

いさどん:
この世界(宇宙)では個人は全体の為にあって、個人が生きるための意識の先に全体が存在しなければいけないのに、その全体ということが優先できない我が勝っている状態にあるわけだ。

ひとみ:
一般社会と同じなんだね。エコビレッジというカタチをしているだけで。

いさどん:
それが“もどき”なんだ。他にも世の中にもどきはいっぱいいる。

ひとみ:
なるほど。

いさどん:
エコビレッジに限らず、いろいろなものが“もどき”になっているんだよ。自分を優先する理屈で正邪を決めているんだよ。

ひとみ:
自分が元にあることのカラクリに気が付かない人が多いね。

いさどん:
そうだね。自分という存在はすごく大きな存在だからね。だから、自分を越えていくことは難しい。しかし、美しくなるためには、それを越えていかなければいけないんだよ。

ひとみ:
そこが古い時代と新しい時代の違いだね。

いさどん:
根っからの宇宙人というか、この世界の法に基づいてというか、“法に目覚めて”生きていこうとする者と、自分の中から湧き出てくる我に翻弄されながら生きていこうとする者との違いがそこにある。そこを超えて創られる時代がこれからの時代で、21世紀の物理的に難しい時代を楽しく乗り越えられる人々の心の姿なんだ。そこをいくら言っても、個の我が優先している者には解らないんだよ。

ひとみ:
伝わらないんだよね。

いさどん:
時期が来れば、誰にも目から鱗の時期が来るだろうと思って、伝えようとしているんだけど、伝えようとしても伝わるときにしか伝わらないから、まあしょうがないと思っている。

ひとみ:
なるべく、大難にならないうちに気がつかないといけないね。

いさどん:
そこに気がつかないと、自然現象や天変地異的なものは収まらないよ。

ひとみ:
収まらないね。ますます激しくなる。

いさどん:
しかし、ひとりふたりとそこに気付こうとする者たちが出てきている。

ひとみ:
その為に揺さぶられているんだね。

いさどん:
逆に“もどき”が明らかになって外れていくからね。

ひとみ:
本当だね。

いさどん:
それが新たな次の時代に移行するときの選別なんじゃないかな。

ひとみ:
そうだね。意識の選別。

いさどん:
我々は陽的(物質的)な時代から扉を開けて、次の時代を見た者として、新たな、生きるという現象化を大事にして進めるのが役割。そしてそれを自覚して生きることなんだ。

ひとみ:
だから肉体を持って生まれてきたんだね。

いさどん:
そういった大事を表現しない人生なんて意味があるんだろうかと思うんだよ。自分の私利私欲で食べ物を食べて酒に溺れて、単に物理的な豊かさを追求してお金を求めて、その豊かさの延長に生きてなんの意味があるのか。
生きることに対して死があり、それは繋がっている。魂の旅である宇宙の法則の中に生きる認識と比べたら、何の意味もないことだ。それどころかそれが自らの足枷になり、人生の旅の重荷になって、自らの成長を妨げるものになることを感じると、そんなものにまったく魅力を感じない。
しかし、物質的なものは霊的な豊かさの表現の手段のひとつでもあるのだから、そこを避けて生きるということではない。豊かさの優先順位を間違えないように心して生きるということだ。

ひとみ:
魂で生きることを意識していたらそうなんだろうね。今の人々はそれを忘れている。

いさどん:
だから、多くの人を惑わす。物、金優先の社会や“もどき”の宗教や、“もどき”の神通力を使うものたちが出てくる。そういう人たちは必ず有名になろうとしたり、お金に溺れていくことになる。

ひとみ:
表面的な知識だったり。

いさどん:
そう。知識や理屈に溺れていく。

ひとみ:
あとは表面的な“仲良し”に走ったり。

いさどん:
結局そういったものは自らの中にある微妙なもの(けじめのない心)を優先している。それは無意識に我が優先している状態。

ひとみ:
一見良さそうに見えるものね。

いさどん:
聖者と言われていても、それとは対極の者もいて、紙一重なんだよ。魔はいつでも差してくる。しっかりとした意志がないと道は歩めないもどきになってしまう。田んぼの畦道の話をいつもするけれど、左側は尊い生命の米を作っていて、右側はいつでもカルトに落ちるという真ん中の細い一本道を歩いていることを、常にわかっていることが大切なんだ。

ひとみ:
本当に謙虚に歩いていないと、すぐに魔に足をすくわれることになる。

いさどん:
謙虚だけでは駄目だね。やはりしっかりとした意志を持って真実から外れないという魔に打ち勝つ覚悟がないと駄目だね。覚悟が、自らの中にある我や魔から自らを守るんだよ。

ひとみ:
頭ではなく、腹で決めるということ。

いさどん:
そうそう。頭で考えているのではなく、腹から湧き出てきたものでないといけないんだよ。

ひとみ:
その感覚が現代の世の中にないんだね。

いさどん:
ないね。頭があって腹がない。

ひとみ:
頭があって腹がないのは蛇だね。

いさどん:
だから“聖蛇”というんだよ。

 
※ひとみ注:最後にある“せいじゃ”は漢字を“聖蛇”としました。
聖蛇・・・聖人の形(なり)をした蛇、“もどき”のこと。
 
 


毎日が「おめでとうございます」!!

時代の大きなうねりを予感させる2014年の幕が開け、早9日。木の花では、日々この暮らしを生きることの意味を皆で確認し合っています。
今日は、元旦の日にメンバー全員を前にしていさどんが語った新年の挨拶をお届けします。

大人から子どもまでメンバー全員を前に語るいさどん
大人から子どもまでメンバー全員を前に語るいさどん

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せっかくの新年ですから、今年の方針を確認したいと思います。それは、私たちのためだけに確認するのではないのです。

木の花ファミリーの成り立ちは、世の中の人々の幸せを願い、それが社会に実現されるためにどのような暮らしをしたらよいか、ということから始まりました。それを世の中の人々に見ていただいて、人間の創る社会の一つのモデルとすることが、この生活が始まった時からの目的です。そしてそれは今も変わっていません。それに共鳴して、このような生き方をしようという志を持った人たちがここに集っています。
現代社会は、個人の欲望を叶えることを優先してそういった考え方をしない人々が、日本だけではなく、地球上に蔓延しています。今の人間のあり方が、地球環境どころか国や人々の関係すらもおびやかしています。それが、およそ70年前にあった大戦前夜のような状況を創り出しています。
時代はすでに21世紀を迎えています。しかしながら、地球上に280万種いると言われる生命の中で、能力が極めて高く優秀であるはずのたった1種類の人間が、なぜこのような状況を創り出しているのかを、人々は考えなければいけません。

私たちは、世界に名だたる富士山のふもとでこういった暮らしを表現することが、これからの新しい時代を切り開く大切な役割だとして、この暮らしを始めました。今まさしく、その真価が問われています。

今朝NHKで、1300年続く伊勢神宮の式年遷宮を取り上げた番組がありました。遷宮は20年ごとにあり、昨年がちょうどその年でした。昨年新しい神殿を建てて、今年は20年ごとに新たな年を迎える始まりの年です。それが、出雲大社の60年ぶりの遷宮と同じ年になっています。そして木の花ファミリーは、20年前にここで始まりました。その20年目の区切りが、伊勢神宮の式年遷宮の新年と重なるわけです。
今日ちょうど、そのことをNHKの番組でやっていました。その中で、古事記という日本の神話はねつ造されたものであるということを、NHKが伝えているのです。そのように表現されたことは私の記憶にありません。それは直接そう伝えているわけではありませんが、あの番組を見ればねつ造だと言っているのと同じです。

日本の信仰では、天照大御神を伊勢神宮に祀り、それを頂点とする神の国を日本と位置づけてきました。その延長に戦争もしてきたのです。ところが、1300年以前の日本の信仰は八百万信仰であって、そこでは神々の存在は自然そのものだったのです。それは宇宙の仕組みを司る法則だったのです。地球暦で言う星と星との対話が、我々人間に命として伝播され、人間は地上で、宇宙の法則を生態系の営みとして表現する。このような人々の暮らしがまさしく、1300年前まで営まれていました。縄文時代や弥生時代はそういった時代だったのです。
それが、のちの権力によって、人間の姿で、服を着て、食べ物を食べる、そういう神に変えられて、そしてそれが天皇の先祖ということになって今に至っているということを、その番組では伝えていました。
1年前の2012年12月21日に私たちの太陽系は銀河の冬至を迎えて、それがもとに戻る時が来ています。我々は何者であるのか。その真実に戻らなければいけないのです。

時代は宇宙が刻んでいるものです。それを人間意識に任せていたら、常に自らの立場で主張をして、対立をするばかりです。人間以外のものはそのようなことはしないのです。人間だけが自我を持って、それが巨大化し国家をつくり、そしてあさましい対立の世界を創ってきたのです。それぞれの国を一人の人格に例えたら、とても愚かで幼稚な姿が観えてきます。そのあさましい人間の表現として、国と国が争っています。

去年の暮れにまた一つ大きな問題が起きました。安倍首相が靖国神社に参拝したことで、日本は東アジアの兄弟の国々とさらに難しい関係になりました。戦後日本はアメリカの核のもとで守られ依存してきました。そして自らの主張ができなくなっていました。それが主張をし始めると、これまで自分たちを守ってきた傘が取り払われるのです。
昨日、アメリカの国務大臣が中国の閣僚と連絡を取り合い、今後は密接に連絡を取り合っていきましょうと話し合いました。靖国参拝や、日本の問題についてこれから協議していきましょう、ということだそうです。つまり、アメリカにとって日本はもう守る国ではなく、アメリカの国益から考えたら、問題解決の対象になったのです。

これはある意味、良いことです。戦後アメリカのポチ(飼い犬)として生きてきたところから、日本が独立するということです。つまり、これまではアメリカの核の傘の下で守られていたわけです。その甘い立場で経済大国になってきた国が、いよいよ雨風に当たるところへ出るということです。それは日本にとって厳しいことになります。
去年の暮れのニュースによると、東京株式市場の株価が年初来の最高値を付け、1年で57.6%上がりました。そこに出向いた安倍首相は、新しい年を迎えてもアベノミクスは買いですよ、と言っているのです。ところが、それと時を同じくしてこのような情勢になって、すでに海外では日本は売られ始めているのです。安倍さんはものの見方が浅い。そして、考えていることが損得勘定だけ。損得を考えるなら、地球規模の長いスパンで時代を捉えた本当の損得勘定をしなければいけないのです。

そのためには、大きな世界観を持つことです。この地球上の人間という生き物を、有効なものとして生かさなければいけない時代に入ってきたのです。
先日見たNHKの解説委員の討論も、昨夜からの朝まで生テレビでも、頭のいい各界の専門家たちがいくら議論しても何も答えが出ないのは、同じ次元の話をそれぞれの立場で主張するばかりだからです。
人間の中に、広くて高い視点が生まれないと、この行き詰まりは突破できません。それを想うと、今まで独立独歩のように歩んできましたが、私たちの暮らし方は大切だと改めて感じるのです。

今朝、木の花のホームページに新年の挨拶が出ました。2014年の元旦にあたり、これからの時代を、この生活を通してどう表現していくかを確認するメッセージです。木の花は開かれた場で、社会のためにあるわけですから、それが世の中にどんな役割をしていくかを、やさしい言葉で表現しています。

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「うねりの年」を迎えて ――――― 木の花ファミリーより新年のご挨拶

今、時代が大きく変わろうとしています。

社会を見渡してみると、そこには様々な問題があります。人々が何事もないかのように振る舞おうとしても、その歪みはいたる所に現れ始めています。
そんな中、人々の不安や恐怖心を煽ることで利益を得る産業も多く生まれました。その問題点にも目を向けながら、改めて時代の流れを冷静に見つめてみると、今の社会の背景に大きな行き詰まりがあることが観えてきます。そして多くの人の中に、「このままでいいのだろうか?」という気付きが芽生え始めています。地震の前に動物が何かを察知して普段とは違う行動を取るように、人間の中には、さらに長いスパンでの変化を察知するセンサーがあります。今人々が漠然と感じている不安は、時代や価値観が変わろうとしていることへの予感の表れでもあるのです。

かつて人間は、自然を読み、自然とともに生きてきました。
そして今、時代を読み、時代とともに生きることが求められています。

これまで人々は、自らの内側からこの世界を見るという一方の視点だけで生きてきました。その視点は人の数だけあり、一人ひとりがバラバラの価値観に従って生きてきた結果が今の社会だとしたら、そのままの生き方で今の問題を解決できるでしょうか。
人間がこの世界に生み出されたということは、そこには世界から何かが託されているということです。その、自分をこの世界に生み出した側に立ち、外から自分を眺めるというもう一方の視点を持った時に初めて、自らの内から湧き出る想いと外から託されているものとが合致し、真にこの世界のために生きることができるようになるのです。

木の花ファミリーは、今から20年前に「富士のふもとに“菩薩の里”をつくろう」という想いから始まりました。
菩薩とは、社会や他者の喜びを自らの喜びとする存在を言います。
人々が心からつながり、助け合い、阿吽の呼吸で生きていく場 ――― それが菩薩の里です。

メンバーの一人ひとりは、生まれも育ちも全く違うオリジナルな個性を持っています。そんな雑多な私たちが、自分の内側からの視点だけで生きていては、つながることはできません。自らの枠から飛び出し、広い外側からの視点に立って共通の目的を見出した時、それぞれが存分に個性を発揮しながら、もう一つ大きな調和の世界を築くことができます。そしてそれは宇宙の構造そのものなのです。

2012年12月21日の銀河の冬至から1年を経て、世界は大きくうねり始めています。新たな年を迎え、木の花ファミリーでは、エコビレッジという枠組みを超えて、この激動の時代を生きていく大切な心を表していこうと、想いを新たにしています。そしてここを訪れる人々が自らの中に眠る同じ心に気付き、その気付きのネットワークが広がっていくための役割を果たしていきます。

2014年を、木の花ファミリーでは「うねりの年」と銘打ちました。
さあ、いったいどのようなうねりが待っていることでしょうか。

皆さま、本年もよろしくお願い申し上げます!

2014年 元旦
木の花ファミリー 一同

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本来、人間には動物よりも優れたセンサーが備わっているのです。しかし、今の人々はそのセンサーが鈍ってしまい、金や物の魅力に取り憑かれてしまって、本当の人間の能力が発揮できていません。
そのような中で、元々センサーが働いている人たちや、そのセンサーが働き出した人たちもいます。その人たちは、本来の役割を表現できないでいます。それが社会に対してなじめない人々です。今で言うニート、引きこもり、うつ病などの社会の問題事が、その人々に表れているのです。そしてその現象は、物質至上主義の現代社会に対するメッセージなのです。
そうすると、国と国が対立している問題も、社会に蔓延している様々な問題も、それを解き明かして次の時代に行きなさいという大切なメッセージだととらえられます。だから、表面的に出来事をとらえ、違いから問題をぶつけあっても解決するわけがないのです。
今こそ、その問題の奥にあるメッセージを読み解き、新たな時代につなげていく時が来ているのです。

これは、ただ問題の時代が来ていると考えてはいけません。今はどこを見ても行き詰まっていますが、行き詰まっている先にはそれを解決した時代があるということです。しかし、それがわかっていないと、歪みから痛みが発生するのです。それは、社会の格差や、人々の対立や孤独、病気や自殺などの様々な問題となって現れてきます。それが理解されず、根本的に解決されないと、さらなる矛盾が生まれていくのです。それは、私たち一人ひとりの中にある心の種がネットワークして、生み出しているものです。それがわかっていれば、行き詰まりの現状を楽しむこともできるのです。

私たちは、この暮れから、そのようなことをみんなで話し合ってきました。そして改めて、それを理解できている立場であるからこそ、今までの社会にはないこの生き方を自らの意志で歩んでいるのだと認識しています。
子どもたちは、このような話をしても言葉では理解できないでしょう。しかし、この空気を感じながら育ち出しているのです。魂は確実に、その目覚めの時代に入っているのです。

マスコミがどんなに今の社会問題を議論しても、何も解決されません。ただ、現状がいかに難しいか、そして今のような議論をしていても解決しないという情報は得られました。
その解決策は、一人ひとりの世界観を広げることです。人々はどうして自分だけを守って、てんでバラバラな世の中を創り、その中で幸せに暮らそうなどというおかしな考えでいるのでしょうか。それで良い社会を創ることなどできる訳がないのです。
世の中にはそういった矛盾がはっきりと表れてきているのですが、そのことに気付いている人々にはまだなかなか出会えません。我々がこうして出会っているということは、ぜひ、今年は今まで以上にその気付きを受けて、時代を生きる自覚のある者として、この生活をみんなで築いていきたいと思っています。

毎日ここで生活することは、本当にまれに見る世界に出会っているのです。ですから、ここに出会えたことを「おめでとうございます」と表現できます。
「おめでとうございます」は誕生日や正月だけではないのです。毎日の大切さに気付いたら、あなたは宝くじに当たったよりもっとおめでたい生活を毎日しているのです。この道を歩んでいることがどれほど大切なことなのか。それに気付いたら本当に幸せですよ。

そこでは不自然な欲求に惑わされることはないのです。そういった満たされた絶対調和の世界を創るのです。もともと私たちはそういったものとして、肉体と魂の調和の中で構成されています。これほど身近にありながら、この素晴らしい世界に気づくことがどれほど難しいことなのか。それは、私たち人間が「個」という我をもらったからです。これはカラクリであり、このカラクリの奥にある深い真意(神意)は、こんなにも身近にあるのです。
これほど近くにあるということは、簡単に出会うこともできれば、簡単に生きることもできるのです。しかし、これほど近くにあるからこそ、見つけられないものにとっては永遠に見つけられません。そのカラクリを紐解いて、私たちはその真意を表現しようとしているのですから、それは恐れ多いことをやっているのです。しかし、へりくだらずに、やり切ろうと思うのです。

そういったことを想っていても、一人で調和の世界は出来ません。自らの生命は調和の世界に存在していても、人が社会にそれを表現するときには他者の力が必要なのです。かつ、人間だけでは出来ません。そこでは自然との調和が必要なのです。さらに世界観を広げて、それを確固たるものにするためには宇宙と調和しなくてはいけません。最終的には、宇宙自体を私たちの意志が創っているところまで意識は広げられるのです。
そういったところに私たちは生きています。宇宙の中の絶対調和をこれほど身近に感じられる地球三次元生態系が、私たちに用意されているのです。さらに、私たちはそういった思考を巡らせながら、その神秘を解釈できる者なのです。

宇宙には無限の魂が存在していますが、地球に生まれて、人間として生きていることは特別なことなのです。その数はたった70億しかいないのですから。奇跡のように選ばれた、それは宝くじに当たるよりもはるかに幸運なことなのです。
人間であることが宇宙の奇跡の中にいるわけですから、地球に生まれてくることの奇跡と、さらにその人間として生まれてくることの奇跡、それから無限の世界の中でたった一人しかいない自分に出会えることの奇跡、それはおめでとうのおめでとうのおめでとうなのです。
そして、分からず屋の人間の中でこういったことを紐解いて、究極の世界を創ろうとしているこの場所にいることは、おめでとうの中のおめでとうの中のおめでとうの中のおめでとうなのです。この心で生きることは70億分のほんの少しなのですから。このように解釈するとしたら、本当に奇跡のような場所にいるのです。

そして、その場所を与えられたことを考えたら、今度は「おめでとう」に対して「ありがとうございます」という言葉がいくつ連なるのでしょうか。それくらいありがたいことなのです。
ここは20世紀型の価値観(唯物的価値観)で捉えれば、苦痛の世界になるかもしれません。それから、狭い価値観で人間たちが作ったルールから捉えれば、ここは特殊な人々の集まりでカルトかもしれません。しかし、世界観を広げて観ていけば、これはおめでとうございますの何乗、かつ、ありがとうございますの何乗の世界でもあるのです。そのくらいこの世界は捉え方次第で自由自在なのです。

今ここで僕が語っていることは、この世界の奥にある真実に毎日出会っていることです。この世界がこのように創られているということは、本当に不思議な縁なのです。『ヴォルテックス(The helical model – our solar system is a vortex)』の映像を観ても、極めて複雑な関係性の中で私たちの宇宙が紡がれていることがわかります。人間たちの世界観ではバラバラになってしまい不可能なことが、約束通り私たちに毎年四季を与え、命を紡いでくれているのです。

その本当に難しく為し難いことが今ここに起こっていて、私たちはその中にいます。それが、「ありがとうございます」ということです。
「ありがとう」という言葉は「有難い」、つまり「なかなかないこと」が「御座います」、それは現実にあるということです。それが本来の神の働きであり、私たち生命の姿なのです。それを理解することが神の秘密、すなわち神秘を知ることなのです。
私たちは、その「有難う御座います」の中で命(みこと)として生きていると同時に生かされています。それが本来の神(八百万)の働きであり、地球だけでなく宇宙全体がそういった生命構造になっているのです。人々はその意識に立ちかえらなければいけません。今の社会はどんな人もどんな団体も、国家ももちろんそうですが、自らの欲に絡んで、個人の益、国益で生きているのです。一人ひとりがその自らを突破した時に初めて、ユートピアの時代が幕を開けるのです。

僕が損得で皆さんにこのことを話しているか考えてみてください。たくさんの人が、自分の考えている方向に人を誘導して、実際に組織をつくってきました。しかし、僕は僕の考えているようにみんなを誘導したいと思っているわけではありません。僕の視点から観える情報を皆さんに提供しているだけです。

そろそろ、真実に気が付きましょう。真実に気付くためには、自らの考えにとらわれないで、たくさんの情報、広い情報を知って、その中から自分自身が本当は何が大切なのか、それをどう選ぶかを判断するということです。
一人ひとりが目覚めて、どのように生きていけばいいのかを判断する時代が来ています。そうすると宗教は必要なくなりますし、政治家に任せきりの国の運営もなくなります。そして、国際紛争でも個人の問題でも、人々の力で解決できるようになります。

それは、一人ひとりが自立して目覚めるということです。組織をつくって束ねていくのではなく、すでにある生命ネットワークがよみがえるのです。一人ひとりが目覚めて、本当に大切な人生をエンジョイしながら、この世界に貢献している。この世界の一員として生まれてきたということは、世界から一人ひとりがその役割を託されているはずです。
そのことに全く気付かない人々や社会は、利益だけを求め競争し、そこで豊かさを求めて大きな経済を作りましたが、その経済が今何を私たちに与えてくれているかということです。それが行き詰まりの現実をつくっているのです。
これは社会を批判しているのではありません。その実態を語っているのです。

ですから、これからの21世紀、木の花に集ってこの心に出会った人たちは、新しい生き方をするべきなのです。それはたいへん貴重なことですから、それに出会って生きることは、ありがたくて、おめでたいことなのです。これから毎日正月、毎日誕生日、毎日毎日が節目で、「おめでとうございます」「ありがとうございます」で生きていきたいと思います。どうですか、みなさん。

一人ひとりが自分を大切に生きるということは、目覚めるということです。本当に自分はこれでよかったんだというところに到達する。一人分、自分を謳歌してください。

今日は、この目覚めの新たな年である2014年の第1日目です。そしてこれから365日、ずっと「おめでとうございます」でいきたいと思います。新しい年を迎えて、これからずっと「おめでとうございます」とみんなが生きるきっかけとして、まず最初の「おめでとうございます」の乾杯をしたいと思います。

新しい自分がこれから開かれてきます。
それが、世の中が開かれるきっかけになりますように。

みなさんとの出会いにありがとうございます。

そして、おめでとうございます、乾杯!!
 

「おめでとうございます!!」で乾杯
 
 


一人ひとりの心の中にユートピアを

いさどん:
人間は理想を求めているのに、それを生きるのにふさわしくないものであることが多い。まずはそれを認識する必要がある。人間の中にはそういった矛盾が常にある。だから、まずはその矛盾に気付き、理想を生きる者になることが求められる。
多くの人間は人間らしい行動をしているのだが、それをしている限り理想の世界と出会うことはできない。人間の性(さが)を突破し、奥にある本質に目覚めないとその世界と出会えない。たとえば、宗教を熱心に信仰している人は、その信仰を持って夢見心地に生きていても、その夢は現実化しない。
結局、宗教の構成員としてその仕組みの中にいるだけのことで、その宗教が世の中を変えるような動きにはなってはいかない。その目的が個人の救済にあるか、もしくは真理を本当に求める気がないのかもしれない。だから、我々には理想郷を現象化してみせる必要がある。

木の花塾に来る人の中には何度か通ってくる人たちがいる。この人たちもどこかで理想を求めて、そこに身を置きたいと思っているのだが、結局いつ歩み出すのか。自らのエゴを未処理にしておきながら、理想が現れるのを待っている。そうやって受け皿を探しているのだが、常に受け身で、自らその世界をつくろうとはしない。

今、多くの人たちが現実の矛盾や生き辛さに疑問を持ちながら、それを持ったまま解決しないで毎日を過ごしている。
僕は朝目が覚めると、「いつまでこの毎日の延長が続くのか」と思う。この社会の矛盾を浮き上がらせている人たちがまだこの世界にい続けて、その人たちと時空をともにしている。僕はいつかすべてが溶け合って、このギャップがなくなればと思っているのに、現実にはギャップがあり続ける。
それは一方的にこちらの都合の良い世界になれということではない。本来この宇宙も地球も我々の体の構造もそれぞれ役割を持ちながら一体の世界なのだよ。それから考えると、今の人間たちはバラバラの意識を持って通じ合わないところがある。それがわからなくて外れることはいいとしても、せめてここにとどまり共に歩む人たちとだけでもそれを互いに考えて、ひとりひとりがその世界を現実化するための推進役になってもらいたい。その決意を示さないと、人間はいつまでたってもこういった生き物であり続ける。

神様は人間に特殊な役割と能力を与えたが、それは人間のために与えたのかどうなのか。このゲームを終わりのないゲームとして、矛盾を発生させ続けてこの世界の状態を表現し続けていくのか。
信じる、信じないは人それぞれであるが、神はたしかにいる。そして神の存在を知ると、この矛盾がなぜ創られているのかがわかる。それは人間の未熟さと神の仕掛けが表していることである。
神が仕掛けたその罠に人間の愚かしさが引っかかっている。人間はいつでも自分というものを捨てて、神様のつくったこの一体の中に入ることができる。だから、我々はそこに向かって進むだけだ。

一体世界を表現しようとするのが、本来の我々の集う目的である。それは地球と一体、自然生態系と一体であり、すでに自分自身は自らを構成しているものと一体で存在している。このように、我々はすでに一体である。
エコビレッジをつくろうとしている人は自らに都合の良い一体世界を考えているが、その前提として己をなくし、この世界を知って、地球生態系のように一体を表現していくことが必要だ。そのためには個がありながら、なくならないといけない。その境地に立たないと頭でっかちになって、理想は語るが現実が伴わない。
エコビレッジの精神は、人間が抱えているすべての問題を解決する。しかし、その認識を間違えると、エコビレッジは個の願いを満たしてくれるものだと思ってしまう。エコビレッジとは個の欲望を超えたところで自然にできるものなのだよ。

そうすると、理想郷はすでにどこにでもあることになる。その世界を木の花では実現していく。
木の花の「花」は、「桜」のいのちの美しさと潔さを表している。それは、美しく咲いて、潔く散っていく精神。それから、「梅」の健康と不老長寿。そして、「桃」の全体のための精神を持つことによって個の価値が生まれる。それは菩薩の精神。菩薩たちが暮らす桃源郷の世界。
その木の花の世界は、一人ひとりがオリジナルに、宇宙にたったひとつしかない個性の花を咲かせている姿。それがネットワークしながら、宇宙の大樹に花を咲かせる。来年はそれを完成形にして見せる年になる。

そういったことを希望として生きる人々がいることを世に知らしめる。それは、人生を生活に追われて、金に追われて生きていくような貧しい世界ではない。その理想を生きる一員として、個の花を咲かせる。
多くの人が本当の世界を求めているのに、それが信じられないから、大樹の満開を観ることができない。それを表現するために生きている。一人ひとりは、たったひとつの花にしかすぎない。だから、みんなが一体となって力を合わせることで可能となる。

ようこ:
一人ひとりが自分の心の中にユートピアがあるか、いつも確認しながら生きていくことが大事だね。

いさどん:
そうだね。

ようこ:
そうすれば、その一人ひとりの心が形となって表れてくる。最近のいさどんの話がユートピアのことばかりなのは、一人ひとりがその認識が薄いからだと思っている。一人ひとりの心の中にユートピアができていったら、確実に雰囲気が変わる。
木の花でも、今は人がそぎ落とされて少し雰囲気が変わってきたけれど、その心がみんなの中に浸透していったらさらに変わっていく。それが実際に形となってどう現れてくるのかを観ていくのは、楽しみだね。