木の花でのケアの事例を分析するため、ケア卒業生であり現メンバーであるいさおちゃんにインタビューをし、幼少期から現在に至るまでのレポートをまとめました。そして、さらに多角的にいさおちゃんの事例を分析するために、いさどんがいさおちゃんと面談する場がもたれました。その面談にはいさどん、いさおちゃんの他に数名のメンバーも同席しました。
今回のブログでは、その面談の様子をご紹介します。
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いさどん:
まず、いさおちゃんは男性ですが4人兄弟の末っ子で、精神的にも人に依存する体質が強く、自立心に欠けます。しかし、負けず嫌いで虚勢を張るという傾向も元々持っています。両親の組み合わせについては、あまり良くありません。父親はどちらかと言うと立派な発言をし、それにふさわしいどっしりとした中身がない人です。しかし、レポートを読むと、いさおちゃんは父親のことを非常に評価しています。
いさおちゃん:
親父が繊細だということは死んでから聞かされたことで、それまでは全然気がつきませんでした。
いさどん:
それは本人が父親を正しく見ないでイメージとしての父親像を持っており、そういうものを求めていたからです。だから、実際の人物ではなく自分のイメージとしての父親を見ていることになるのです。そして、それはどこから来ているのかというと、母親から来るプレッシャーを良しとしないことから、どこかに拠り所、救世主を求め、自分の中に偶像的な父親をつくったというところでしょう。母親がいさおちゃんに厳しく当たるのは、父親が父親としての役割を十分に果たさないことから、彼女が父親役も兼ねることになり、そういったことが負担になって、その負担の分だけヒステリックになって子どもに当たるということだと思います。長男、長女、次男、本人のいさおちゃんということからすると、長男は最初の子どもだったから比較的良かったのかもしれないし、レポートを読むと優秀だったということもあるのだと思います。次男と長女については、あまり母親の言うことを聞かないタイプだから、母親から見たらかわいくない子どもだったと思います。それに対していさおちゃんは、そういった上の人たちとの軋轢を見て、これは自分が母親から良い点をもらうチャンスということで母親に媚を売る傾向になってしまい、そこでは母親から褒められ期待されるということがあったのだと思います。
母親にしても本人にしてもここで言えることは、子どもの実態、親の実態を見て言っているのではないということです。色々な思惑の結果、自分が求めるものを対象に投影し、それを表現しています。そこでは偶像を追っかけているということです。だから、表面的にはそれがどんなに良いもののように見えたとしても、最終的にどこかで本当のところが見えてくると、いずれ屈折したものが現れてくるということです。
レポートの初めの方に「素の自分になりたい。それは非常にフレンドリーな自分」と書いてあるのですが、素の自分になりたいと言っているわりには、素の自分がわかっていません。そういうふうにバーチャルなものを追っかけているわけですから、本当の自分を見ていないし、対象の本当も見ていないのです。何か自分の思惑の中で対象に対してイメージがあったり、自分がこういうふうにありたいというイメージの中で生きている結果、それは現実逃避にもなるのです。そういうことを長年やってくると、不安定な確信のない毎日を送ることになります。憧れとして安定した自分でありたいのに、不安定な部分が人間関係など色々なところに出てくるものです。少し前まで母親はいさおちゃんに「神父になってほしい」と言っていましたが、これもまた相手を見ていないという例です。
いさおちゃん:
母親は今でもそう思っています。先日も、家に帰った時にそう言われました。
いさどん:
それはいさおちゃんになってほしいのではなくて、自分の息子の中でひとりそういう人がいてほしいということです。
いさおちゃん:
まったくその通りで、以前、母親が木の花を批判するようなことを言った時に、僕が「やめてくれ!ただでさえ僕は揺れるのに、親にまでそんなことを言われたらたまったものではない。頼むからそういうことを言うのはやめてくれ」と言ったことがありました。そうしたら、普段ならそこで反発する母親が、「本当に申し訳なかった」と泣き出し、「上の3人の子は自分の期待から外れていったけれど、あなたが生まれた時にこの子だけは神父さんにするんだというすごく強い想いがあったから、その願いが強すぎてそういうふうになってしまった」と言ったのです。その時に僕は、「そんなふうに想っていたんだ!」とびっくりしたのですが。
いさどん:
常に自分の中に強い思惑があり、それを実現したいという思いがある状態でそれを表明せずに内に秘めていると、そんなふうに歪んだ形で心を出すようになります。なぜそういうことをするのかというと、心のどこかではそれが実現しないとわかっているからです。そうすると、想いが達成されないという不達成感の想いだけが残っていき、非常にネガティブな心の環境をつくっていくのです。母親だったって暗いばかりの人ではありませんが、夫との関係によってよりそれが強くなっていったのだと思います。しかし、仮に父親が優秀でなければまだ救われるものです。この父親のようなタイプの人は、優秀であると鼻もちならない態度をまわりの人に取るので、まわりの人は不満があってもそれを言えない状態になってしまいます。だから、ここでは優秀であるということが問題をつくっているのです。優秀ではない方が謙虚な人格につながり、人間関係としては良いとも言えるのです。
いさおちゃん:
父親が死んだ後のことですが、母親が父親に「あんたはものを知らない」と馬鹿にされていたと何度も聞きました。そんなにきつい物言いではなかったと思いますが、母親はそれを真に受け傷ついた節がありました。僕はそれを聞いて、「父親がそんなことを言っていたんだ」と思ったのですが。
いさどん:
母親は傷ついたと思います。しかし、彼女がもうちょっと精神的に強ければ、傷つく前にそこで言い返すことも出来たでしょう。ところが、彼女には傷ついてもそれを外に出さず常に自分の内に秘めるという傾向があるのです。そして、そういった負のエネルギーが溜まっていったのです。父親が優秀でなく出世しないような人であれば、まだ気持ちがおさまるのでしょうが、そうではありませんでした。だから、母親のストレスの行き場が子どもに向けられたのです。長男といさおちゃんの精神的な傾向は似たようなものですが、長男は期待されてある程度は期待に応えたのだと思います。だからこそ、親としては特別いじらなかったのでしょう。しかし、2番目、3番目の子は言うことを聞かないものだから、お母さんからしたら最後のいさおちゃんに対して「この子だけは」と思ったのだと思います。いさおちゃんは期待をかけると一応形としては応えてくれるタイプです。ただ、いさおちゃんが健全な想いに応えればよかったのだけれど、不健全な想いにすら応えてしまういさおちゃんがいました。不健全な想いに子どもが応えていけば、応えた子どもに結果として屈折したものが残っていくのです。だから、いさおちゃんはよく「他人の犠牲になった」というようなことを言うけれど、これはいさおちゃんの精神性と母親との組み合わせでそうなったのです。例えばいさおちゃんが長女や次男のような精神をしていれば、こういうことにはならないということです。
いさおちゃん:
長男はたしかに期待に応えてきたのだけれど、親を恨んでいます。
いさどん:
恨んでいるというのは、いさおちゃんと同じようにプレッシャーをかけられたからです。
いさおちゃん:
親は「あの子は言わなくても勉強したし、すごく出来て感心だった」と言っていたけれど、本人は「プレッシャーがかかっていて、辛くて辛くてたまらなかった」と言うのです。そこにすごくギャップがあります。
いさどん:
しかし、彼はそれだけ勉強が出来たから、いさおちゃんほど屈折していません。
いさおちゃん:
その通りです。
メンバー:
いさおちゃんはいつまで期待に応えていたの?
いさどん:
いさおちゃんの場合は期待に応えていたのではなく、ずっと相手のペースに付き合ってきたのです。今でもそれをやっています。レポートの中に「母親に対して対立的な時代があった」と書いてあるけれど、対立には色々な種類があります。例えば、「夫婦喧嘩は犬も喰わない」というようなじゃれあうように仲が良いからコミュニケーションとして対立するとか、余っているエネルギーを消費するために対立の場をつくるということもあります。また、絆を深めるために確認し合うとか、反対に相性が悪くて対立のエネルギーを消費する場合もあるのです。そうすると、この場合の対立というのは前者の方の対立でコミュニケーションを取る方法のひとつだから、夫婦でいうところの腐れ縁のような関係です。本当に相性が悪ければ、対立した結果距離が出来てしまうものです。しかし、この場合は距離が出来ずに対立を続けていくのです。
いさおちゃん:
まさに腐れ縁ですね。
いさどん:
いさおちゃんが人に媚を売るような傾向というのは子どもの頃からあります。自分の意志とは違った行動を敢えてすることによって人間関係を調整しようとすると、人から支持してもらおうと思ってやっていることが他者からはかえって不自然に感じられ、逆にいじめの対象になったりするものです。そうすると、またそこでさらに屈折が追加されるのです。だから、自分が一生懸命人に支持されようと思って努力していることが、「そういうおまえが嫌いなんだよ」と言われたことにつながります。このケースはよくあることで、対象の状態やそこにある問題を見ずに、自分の中にあるトラウマや思惑で人と接しているという状態です。だから、その現象に対処しているはずなのに、自分の思惑と外れたことが起きることになるのです。
いさおちゃん:
まったくその通りです。
いさどん:
だから、対話しているはずなのに対話出来ていないことになるのです。これは人間関係が難しくなる根本的な原因です。それと、この人の特徴として過剰に反応するところがあります。言葉でもより汚く表現したり、実態よりもはるかに過激な表現をするところがあります。それは自分の中に籠っている怒りなどの感情をその時その時素直に表現出来る家庭環境ではなかったということです。「素の自分でありたい」という想いが抑制され、さらに相手に気に入られようとするという心も働き、その両面が存在し、素直な自分を表現してこなかったということです。
それから、いさおちゃんは非常に環境に左右されやすいタイプです。いさおちゃんには元々持っている強い癖があるわけではないので、まわりの環境を反映しやすいタイプです。こういった人は鏡のような人なのです。そういう意味では正直なのです。つまり、自分なりに検討することなく与えられたものの影響を受け、そして他者に同じような影響を与えるのです。それは場合によっては良いことではありません。例えば誰か自分のまわりの人がいらいらしていたら、いさおちゃんはそれを受けて別のところにそのいらいらをぶつけるということをするのです。
いさおちゃん:
それがそのまま増幅されていくこともあります。
いさどん:
いさおちゃんにストレスがあれば、それは増幅して他者へ行きます。常に被害者的なものの捉え方をするのでその分だけは増幅しますが、それは子どもの時代にはなかったはずなのです。それは積み重なってきたものであり、大人になってそれが非常に強くなってきたのです。特に社会に出てからそういうことが強くなって、心の行き詰まりになっていったということです。
いさおちゃん:
たしかに、昔はそんなに過激な表現をしていなかったと思います。だんだんひどくなっていきました。
いさどん:
そういった感情は今でも消化されていません。だから、いさおちゃんにとって僕は良き理解者で非常に重要な存在なのに、そういう大切な人を陥れようとすることにもなるのです。だから、まわりの存在が自分に対して何であるのかをもっと理解するといいと思います。レポートにもありましたが、「まわりからすれば自分は嫌な奴だろうという反面、愛嬌のある一面もあった」というのは、そうやって二面性を持ってとりつくろいながら生きてきたのです。それで、「素の自分はフレンドリーである」と言いながら人に対して被害者的な感情を抱き、場合によっては攻撃もするのがいさおちゃんです。そういう感情を持って生きていると、沢山の問題事に出会うことになります。
いさおちゃんはこれほど親切に分析して接してくれる環境にいるから今の状態でいられるのですが、もしこの環境に出会わなければ、当然精神的にも場合によっては肉体的にも困難な状態に陥っていたでしょう。ひょっとして社会生活不適確者になっている可能性もあります。人はとかく現在の自分の状態を振り返ることをしませんが、日々を奇跡のように配慮されているということに気づくと、人は謙虚になれるものです。謙虚になると常に学習し受け取る心が出来ますから、賢明に生きられるのです。
それに引き換え、今までのいさおちゃんは欲しいばかりで、与えてもらっていてもそれを評価しないから、多くの不満を言ってありがたいという心がありません。だから、結局沢山もらっているにもかかわらず、文句を言っているどころか、くれないからと言って相手を攻撃するような人になってしまいます。
メンバー:
いさおちゃんはここに来てから素の自分になりたいと思ったのか、それとも元々「こんなのは本当の自分ではないはずだ」と思っていたのですか?
いさおちゃん:
「こうなりたい」というイメージをはっきり持っていたかはわからないけれど、とにかく枠があって辛いから、「自分がなんでこんなに不自然なんだろう」と思い、それをどうにかしたかった。
いさどん:
それは自我に目覚めて親からのプレッシャーがかかるようになってから、ずっと思っているはずです。思っているからこそ余計に現実を直視しなかった。そして、自分の中の正直な想いと違う顔をすればするほど屈折していき、それがどんどん育っていったのです。大人になってさらにそれが高じてきて、自分の平常心を維持することが出来なくなってきたということです。
いさおちゃん:
外に良いものを見せているのは努力のつもりでしています。「こんな自分ではいけない。ちゃんとしなきゃ」という想いがある。良い自分をやるというのはとりつくろうばかりではなくて、やっぱり良くあろうとしてやるのだけれど、やればやるほど辛いです。
いさどん:
それは努力の方向が違っているからです。つまり、努力の結果、「あなたは良い子ね」と評価されることが良いことと見ているから、自分自身を人格的に成長させ積み重ねていくというところを築いてこなかったのです。人が評価してくれるからそこで達成感を得て、止まってしまっていたのです。あなたの姿勢は学校のテストで答案に書いたら丸がもらえます。しかし、実際にあなたの心とその解答にはギャップがあるから、現実の世界では問題事の発生源になります。いさおちゃんは表面的な評価での合格が欲しいから、ダメと言われることに反応します。しかし、自分の本質を知ることが深い人をつくり、その人を育てていくのに重要だということ。そこに気づかず怠ってきたのです。本物になるためには上っ面だけの回答を得ることでは出来ない覚悟がいるのです。その覚悟を持つだけの潔さがなく、自信がないから、とりあえず表面的な答えで合格をもらおうとします。しかし、人間力としての実力を身につけるということをしないと、このことはいつまでたっても解決しません。
メンバー:
いさおちゃんにインタビューをしていた時は素の部分というのがよくわからなくて、いさおちゃんにも、「素の部分って何?」と聞いたのだけれど、今の話を聞いていたら、現実の自分があって素の部分があり、その奥にまた魂があると思うのですが。
いさどん:
ここで言う素の部分というのは、本人の憧れが素の部分になっているのです。
いさおちゃん:
そうです。
メンバー:
それはどこから来ているのですか?
いさどん:
育ってきた環境から、「人から評価されたい」という想いが出来てきて、そこからつくられたのです。だから、求めている部分が本当の自分と違っているのです。もっとも、それは環境からつくられたものなので、違う環境だったならば本当の素の部分が表現されることになります。そうすると、この親子関係という背景ではなくて別の環境でのびのびと育ったならば、きっとフレンドリーな人が生まれたはずなのです。
メンバー:
いさおちゃんと元々の心の形が似ているまこっちゃんのように、ストレートに表現出来るということだよね。
いさどん:
そうです。いさおちゃんにもそれが出来たはずなのです。しかし、それが出来なかったばかりに、素の部分が憧れになっているのですが、環境によってはその素の部分と憧れの部分が一致するということです。
メンバー:
そうすると、理想的な素の部分というのは、魂の形というか、本来の自分ということですよね。
いさどん:
理想というより本人の願望が強くあるということです。その願望が素の部分になっているのです。人はそれぞれに理想を持っているわけです。それはその人の成り立ちによって変わるわけです。さらに、その人の背景を変えると理想はまた変わるということです。そして、素の部分が求めていることを与えるような環境であれば、本人の理想と素の部分が一致するということです。
ここで言う素の部分というのは、魂が元々生まれ持ってきたものです。だから、環境から来る自分の求める部分と、元々の魂が表現したい素の部分があるのです。いさおちゃんの場合は、そこで明らかにギャップがあります。
メンバー:
「こういう環境を与えると、こう反応する」というパターンという意味では、今表わされていることはすべていさおちゃんの素を表現しているということだよね。
いさどん:
そういう意味では、どんな場合でも現れているものはすべて素なのです。つまり、屈折していること自体がそういう屈折の種が自分の中にあるということなのです。
みかちゃん:
きっと、いさおちゃんはこういう環境負荷がかからない場合のもっと明るいイメージの素の部分を求めているんだよ。
いさおちゃん:
そう。
いさどん:
それは、憧れの素の部分です。
メンバー:
だから、現実の自分から逃げているのよね。
いさどん:
逃げるというよりも現実にそれが現れてこないから、バーチャルの世界で自分に負荷がない状態をイメージするのです。
いさおちゃん:
そうですね。
いさどん:
それを素だと言っているのですが、その素というのはバーチャルな世界なのです。
いさおちゃん:
いつもしんどいと思う心が自分の中にあって、それがない状態というのをいつも考えています。発想がそこから来ているから、「これさえなければいいのに」と思っているところはあります。
いさどん:
それは物事を正しく捉えずに、逃避的に捉えているのです。いさおちゃんは常にそういうふうに逃避しながら被害者的にものを捉えています。それは冷静さに欠けているから、その経験が次に活かされないのです。
メンバー:
生きていること自体が被害という考えだよね。
いさどん:
それは極端な表現ですが、そういうことも言えます。
メンバー:
お母様がそういう方ですものね。
いさどん:
そういう意味ではいさおちゃんは鏡のような人だから、お母さんがそういう形で彼に接してきた結果、彼にその人格が表われているのです。しかし、環境が変われば全く違う人にもなります。それに対して、母親は環境が変わってもあまり変わらない人です。それは根本の素の部分が違うからです。彼女は取り越し苦労のように非常に難しく物事を考えるタイプの人であり、しかも長女として生まれてきたのでプレッシャーのかかった中で育ってきましたから、性格上、辛い人生を生きた人です。
いさおちゃん:
母親はシスターになりたかったのだけれど、親が「そんなのとんでもない」と言って、親が持ってきた縁談の相手と結婚したと聞いています。
いさどん:
そうやって自らの希望が裏目に出るものだから、自分自身にも悪いイメージが起きてきて思考が屈折することになるのです。だから、大変辛い人生を歩んできたかもしれませんが、実はそれも自らが招いたことなのです。そして、それがいさおちゃんにもそのまま引き継がれています。「親の因果が子に報い」ということです。
そうすると、そういった感情が自分の中にあって他者に出さないうちは単なる個性で終わっていくのですが、それが外に対して出た時に必ず反応するものが現れて、そこでまた伝承されていくのです。その時に、それを学びにして消化し、外に負の現象を表わさないということが因縁断ちということになります。因縁というのは、結果をもらった時にそれを次の原因として、次へ伝承するということです。一般的には親子の因縁が代々引き継がれ、その家系に特徴的に見られる出来事や人の性格のようなことによって表われてきます。それは個人が自らの原因を消化しないで他者に伝承することから来るものです。しかし、個々が結果を受けた時にその因縁が自分に来た原因を理解し、そこで消化してしまえば他者に因縁は行かないのです。これは世の中を綺麗にすることであり、因縁断ちということになります。家族のみならず、他者と接する時には常に自分の因縁が表現されているのですから、悪因縁を他者に渡さないこと。その因縁断ちの出来る人になることが大切です。
ですから、自分の人間性が他者に伝承されていく時に、何をもたらすかによってその人の価値が決まるのです。その時に有益なものをもたらしたいものです。単なる情報伝達くらいにしておきたいものです。ところが、世の中には有害をもたらす人が沢山います。ここでもいさおちゃんは、場合によって有害をもたらす人になることがあります。もし、一般社会の中でいさおちゃんが生きていれば、それは生活の行き詰まりになることです。そして、ここの人としてはあるまじき姿勢です。
いさおちゃん:
それを何とかしようと努力してはいるのですが、自分では結構的外れな努力をしてきていると思います。
いさどん:
それは自分の中だけで考えて努力するから、いつまでたっても変わらないのです。つまり、的外れであるのならば、謙虚に人の言うことに耳を傾けようという姿勢がありさえすれば立ち直るものなのです。しかし、そこで自分流にばかり行動していれば、どんどん的外れになっていくわけです。自分流を繰り返しやり続けているということは、謙虚さが足らないということです。
いさおちゃん:
そうだと思います。
メンバー:
以前いさどんが、「みかちゃんが反発するよりもいさおちゃんが反発する方が傷つく」と言っていたよ。
いさどん:
それはなぜかというと、みかちゃんは元々人の言うことを聞かない人で、自分で悟って歩んでいく人だからです。しかし、いさおちゃんのように自分をしっかり持っていない人で、こんなに有益なものを与えられている人が、それでもって反発するとガッカリするのです。こんなに宝物をもらっておいて、それをしっかりと使った挙句に、「甘いものが欲しい」と言ったら甘いものをあげ、しかも「食べすぎはダメだよ」と指導までさせておきながら、最終的にいさおちゃんは「僕に甘いものばかり食べさせて!僕はずっと甘いものばかり食べさせられてきた!」と文句を言っているような状態です。今まで体に悪いからほどほどにと気まで使ってきたのに、親の心子知らずというのはこのことです。
いさおちゃん:
それは一体どこから来るのですか。
いさどん:
いさおちゃんは物事の価値を深く捉えていません。ありがたいという感謝の気持ちもないし、自分の側からしか物事の判断をしないのです。だからよく言うのは「一回、相手の代わりをやってみたらわかるよ」ということです。そうしたら、少しは価値が分かるはずです。
いさおちゃん:
自分の中にある変な理想を外してみたら、一体自分の中に何が残るのかと思ったのですが。。。
いさどん:
何もない。
いさおちゃん:
そう。
いさどん:
何もなくていいのです。何もない自分だからこそ、目の前に健全なものがあったら健全なものになれるのです。しかし、いさおちゃんは今までそういうチャンスを沢山逃してきました。
人が道を求めていく時には、「ある自分」から「ない自分」を目指していきます。世の中には自分がある人が沢山いますが、そのある分だけ人は苦労しています。いさおちゃんにもないわけではなくて、あるのです。「欲しい欲しい」という心があるのです。そして、いさおちゃんにないのは、「欲しい」を前に進めていく力です。
いさおちゃん:
例えば、母親から与えられた「神父さんになってほしい」というイメージや、自分が辛い想いをしたから創りあげたものが仮になかったとしたら、自分の中に道を求める気持ちがあるのだろうか。
いさどん:
それはあるでしょう。理想というものは、自らの想いと環境によっていくらでも創られていくものなのですから、環境次第でいくらでもあるのです。そしてあなたには、それを求める気持ちがあります。ただ、それがどういう形で成し得るのかは人によって違うのです。理想ばかりを掲げて行動が伴わない人もいれば、確実にそこに進んでいく人もいます。そうすると、あなたはどちらですかということです。
いさおちゃん:
何だか混乱してきました。。。
メンバー:
ケアとしてこういう人は扱いやすいですか?
いさどん:
そうとは言えません。ケースバイ、ケースです。いさおちゃんのお母さんのように複雑なものを持っている人が身近にいると、その人自身を生きているというよりも、お母さんの心の状態を引き継いでいる人もいるのです。そうやって、家族の因縁が代々受け継がれていきます。それは過去のことだから仕方がないということも言えるかもしれませんが、それではなぜ自分がそういう人なのかと振り返った時に納得がいかないものです。だから、そこをちゃんと紐解いていくことが大切なのです。例えば、たしかにいさおちゃんの母親はいさおちゃんに被害者意識を与えたのですが、母親も両親から色々な影響を受けて今の彼女があることが分かると、初めて相手を許せるものです。その許しが本人を回復させるきっかけとなるのです。
ですから、バランス良く生きるためには現在のあなたが何ものなのかということを正しく理解することが必要なのです。ここでこうやって共同生活をしていると、みんなが自分の鏡となり、隠していても歪んだ人間性が映し出されてくるものです。他人の姿勢を見て自分の姿勢を改め、さらに他人から指摘されたことを素直に受け取っていけば、自然に自分の心の歪みから過去の親との関係や親の存在を少しずつ理解していくことが出来るのです。そうやって確実に自分の実態を正しく把握することによって、意味もわからず被害妄想や怒りが出てきていたのが、理由がわかると収まっていくものなのです。納得しない状態で怒りが出てきたら、混乱するだけです。
そうすると気づきが生まれ、バランス良く生きていくことが出来るようになるのです。自分が直接それを受けてきているのだから、自分から発しているものが自分由来のものなのか、過去から来ているものなのか、その両方を見て自分の中でこなし、自分から他者に与えないということで悪因縁が断たれ、先祖供養になるのです。
いさおちゃん:
僕の中では自分由来のものと過去から来ているものとの区別がつかないのです。だから、結構難しいのですが。
いさどん:
それは全く難しくありません。それは自分の中で区別がついていないだけで、まわりから見たら区別がついて見えるのです。それをいつも伝えているのですが。学習しようという意欲があれば、いつでも理解出来ます。では、なぜ学習しないのかというと、いつも被害者意識になっているので与えられているということを評価しないで、「自分はもらっていない」ということを先に思うからそうなっているのです。「自分はもらっていない」という被害者意識が一番の原因です。だから、与えられているということを先に考えるようになれば、理解出来るのです。
いさおちゃん:
どうしたらそうなるのだろう?
いさどん:
何かに対して不満を感じた時に、一度止まって振り返りチェック出来ればいいのです。この不満はどこから来ているのかと考え、与えられていることと、与えられていないと思うことを冷静に考えてみればいいのです。そして、その本当に気づけばいいのです。自分でそれがわからなくても、「自分に不満な気持ちがあるのだけれど、これはどう思う?」とまわりに聞いたらいいのです。そうしたら、「今そういうことを言えるということは、これだけのことが与えられているからだよ。不満を言えるという贅沢な場所にいるんだよ」ということが分かるはずです。しかし、いさおちゃんは他者の言葉に耳を傾けないでこれまできました。これは心構えの問題です。
メンバー:
ここに来てから自分がもらったものや、自分がこれだけ変わったということを客観的に評価出来ればいいのに。いさおちゃんはもらっていない部分ばかりフォーカスしすぎて、「僕はこんなにもらっていない」と主張しているんだよ。
いさどん:
「変わった部分は他者のおかげ。変わっていない部分は自分の愚かさ」と考えると、常に正しく自分を見て、他人には謙虚に感謝をすることが出来ます。
メンバー:
変わってきた部分を自分の評価にして、「自分が頑張ってきたから変われた」と言っているから、逆なんだよね。
いさどん:
いさおちゃんは辛かった部分を自分の努力で超えてきたと思っているのです。しかし、辛いのは自分流に学んできた結果、しっかりと学ばなかったツケがあるから辛いのです。確実にそこで学習していれば、全部ポジティブに解釈出来てそれでいいことになるのです。問題事こそチャンスでありその人を学習させる要素なのですから、そういう問題事に出会えば出会うほど人は謙虚になり、学習が進むほどありがたいという心が出てくるものです。
いさおちゃん:
心の勉強をするぞと思ったところで、僕流の学び方になってしまうようで、やっていくとさらに辛くなってしまう気がします。時々、「よし、感謝するぞ!」と思うのだけれど、そのうち忘れてだんだん辛くなってきて、「ああ、ダメだ。辛いな」と2,3日でもう辛くなってきてしまいます。
いさどん:
自分に不愉快なことが起きた時に、その原因として過去のトラウマ的なものを引き出してきて、「自分は常に被害者だからいつも他者に原因がある」と考えるのです。しかし、そういう解釈の仕方自体が原因だということに気がつかないと、問題はいつまでも起き続けることになります。
だから、いさおちゃんの場合、母親が悪いということになってはいけないのです。いさおちゃんという素の自分があり、因縁で出会って母親に染まっただけだから、母親のせいだけではないのです。
メンバー:
そういうのに染まるいさおちゃんだったということ。例えば私がその環境にいても、彼女には染まらない。だから、人によって同じ立場にいても全然違うことが起こる。いさおちゃんは染まってしまう自分であるとただ気づけばいい。
いさどん:
逆にその自分の特性を活かして、それが不満であるならば、今まで染まってきたものとは違う新たなものに活かせばいいのです。そうすると、そこには新しい自分がいるわけです。いさおちゃんはこんなに良い環境をもらっていて、しかも本人がそのことを評価しているにもかかわらず、染まらない、染めない自分がいて不満を言っているのです。
いさおちゃん:
染めない自分がいるとは思います。
いさどん:
そして、昔のネガティブなところに留まろうとするのです。自分がそういう状態にいるくせに、「自分は良くならない」と他人に文句を言っているのです。
いさおちゃん:
今、完全に頭が馬鹿になってきているので、もう一回言ってください。
いさどん:
こういうものをもらって染まる自分に気づいたとしたら、そこでは「そういう自分である」と理解すればいいのです。つまり、「何にでもすぐ染まってしまう自分である」と。それはある意味、純真無垢であるということです。
いさおちゃん:
馬鹿ということか(笑)。
いさどん:
馬鹿という表現はあなたがネガティブ的に捉えるからそう表現をするのであって、綺麗であるとも言えるのです。宗教に染まってそれこそ先兵となり攻撃的に布教している人たちは、ある意味では純粋だからです。いさおちゃんはそういう先兵になりやすいタイプなのです。そういう自分だったならば、その純粋な素の自分に気づいて、今度はポジティブなものに染まる自分になればいいのです。ところが、常にネガティブ思考の中にいようとするいさおちゃんがいて、ポジティブな方へ誘導しようとするものに対して反発するのです。
いさおちゃん:
なぜそんなにネガティブな方にこだわるのか。
いさどん:
そうやって、客観的な話が出来るのです。しかし、「自分にはわからない!」と否定的になると、まったくそのことが受け取れないのです。それはこの人がそれだけ感情的だということでもあります。
いさおちゃん:
なぜそこまで抵抗するのか、自分でもよくわかりません。一回感情的になってしまうと、「何をそこまで抵抗しているのだろう?」と自分でも思うのですが。
いさどん:
キャンバスが白ければ白いほど、そういう一方通行の状態が起きるのです。つまり、柔軟性に欠け、不器用であるということです。しかし、柔軟性というのはどうにでもなるということだから、悪い表現をすれば企むことになります。だから、柔らかくても固くても良い方に活かせば、どんなことでも良い方に行けるわけです。その反対に、悪い方に使えばどちらも悪い方に行くわけです。そうやって、その仕組みを知って自分がどちらの方に行っているのかまず理解することが大切です。それが己を知るということです。そして、それを自己コントロール出来た時にさらに人間力がつくのです。ハードルは高いし、先は長い!ぐだぐだ言っている場合ではありません。
いさおちゃん:
今は頭がぼーっとしています。。。
いさどん:
今こうやって面談しているということは、いさおちゃんをフォローして気づきの方に誘導しているわけです。ということは、逆に言うとそのことに気づかないいさおちゃんがいるのです。その気づかない状態で一般社会の中で生きていったら、混乱から病気や対立の方に進んでいきます。夫婦だったら関係はめちゃくちゃ、子どもは上手く育たない、会社でも行き詰まるというように問題事が起きてくることになるのです。
いさおちゃん:
自分でもそう思います。
メンバー:
今、この場自体がすごくありがたいということはわかる?
いさおちゃん:
はい。
いさどん:
そうかなあ?僕は被害者モードになっているから、いさおちゃんが信用出来ない(一同、笑)。
いさおちゃん:
これは人に聞くことではないかもしれないけれど、自分には感謝の気持ちが薄くて、それはどこから来るのだろうか?
いさどん:
それは、いさおちゃんが人からもらうことばかり考えているからです。
メンバー:
いさおちゃんは不足の部分にばかり焦点を当てている。さっきも言ったように、今までもらってきた部分を忘れてしまって、まだある不足の部分にばかりフォーカスし、そこをもらいたい、そこを変えてほしいという気持ちがある。
いさおちゃん:
今もまさにそうで、「この先どうしよう?」と確かに思っていました(笑)。
いさどん:
その途中では今までの自分が壊れていくわけだから、そうすると、「わからない!」と言い出すいさおちゃんがいて、そしてその挙句に本当に自分はわからないとなった時にいさおちゃんが何を言い出すのかというと、「じゃあ、僕はこれからどうしたらいいのですか?」というのがいつものパターンです。「どうしたらいいのですか?」と聞かれたら、普通だったら「自分で考えなさい」と言うのだけれど、自分が考えても出てこない人だとしたならば、人の言うことを聞くのが賢明なことです。しかし、聞く相手によっては自分に害をもたらす人もいますから、そこをよく見極めることが大切ですが、ここではみんなを信じて委ねることが出来るはずです。ところが、いさおちゃんにはみんなを信頼する気持ちがありません。
いさおちゃん:
まったくその通りです。自分の中を見ても何も出てこない自分がいます。これはほっておいても何も出てこないだろうと思います。
いさどん:
いさおちゃんが今まで生きてきたことを全部分析しているだけなので、本来ならばそれを生きてきたいさおちゃんの方がよく知っていないといけないことなのです。僕はあくまでもいさおちゃんからもらった情報をもとに分析して話しているだけです。ただ、その分析が正確だから、今こうしていさおちゃんは納得しながら聞いていますが、いさおちゃんはもっとリアルにそれを体験してきたわけです。
しかし、いさおちゃんはそれを歪めて屈折させて捉えてきているから、今のような状態になっているのです。屈折していなければ、もっと適確にわかるはずです。そして、今のような状態にはなっていないということです。それには今までの屈折やバランスの悪さが原因しているのですが、それがいさおちゃんの魂そのものということです。ですから、今、この状態になっているのは極めて順調良く正常な答えが出ているということです。
いさおちゃん:
もうお手上げ!もうダメだ!
メンバー:
いさおちゃんが屈折していて今までのことがよく見れないから、こちらが鏡となってただ伝えているだけなのに、「その鏡はおかしい!」と言っているようなもの。「こんなはずはない、自分はこんな姿であるはずがない!」と鏡に向かって文句を言っている状態だよね。
いさどん:
そのことがこのレポートに書かれている、「おそらく、素の自分はもっとフレンドリーな自分だ」という部分です。そういうことはいくらでもいさおちゃんの中にあるはずです。しかし、屈折すらもすべて自分自身なのです。だから、それを受け取るところから始めないといけないのです。屈折も何もかも全部含めて自分の歩みなのです。それが全部受け取れた時に「そうか!」と納得出来て、次のことが始まるのですが、受け取れていなければ次のステージに進むことは出来ません。そこに屈折ばかりがあるようではスタート出来ないのです。そして、素の自分に戻ってそれを理解した時に初めて、何を取り組んでいくべきなのかが見えてくるのです。まずは自分を知ることです。
いさおちゃん:
それが素の自分に戻るということですか?
いさどん:
素の自分に戻るということは、自分を認めるということです。自分が考えていた印象の悪い自分を認めるということです。
メンバー:
ここに書いてある出来事はすべていさおちゃんを表わしているのであって、誰のせいでもない。
いさどん:
さらに言えば、いさおちゃんの母親はいさおちゃんを映す鏡としての役割を果たしてくれたのだし、父親もそうだったのです。
いさおちゃん:
最近僕が考えていたのは、「素の自分になりたい」ということでしたが、その時に良いイメージを描いていたわけではなくて、「自分らしく」ということでした。
いさどん:
自分らしくということは、人にどんどん染まっていく自分です。それは究極の素直です。そして、この環境であればこの申し子になることです。ただ、いさおちゃんの場合は屈折しているから、そこでも屈折した「自分らしくありたい!」と主張したい自分がいるのです。
いさおちゃん:
環境の申し子か。。。
メンバー:
本来いさおちゃんは、私以上に優等生になるということだよ。
いさおちゃん:
そこで「うわーー!」と思う自分がいます(笑)。
いさどん:
まこっちゃんも、どんどんまわりの環境に染まっていく傾向があるのです。この間も何人かとまこっちゃんの話をしていて、いさおちゃんの屈折とまこっちゃんのストレートは同じところから出ているという話をしました。「いさおちゃんの屈折は、ふさわしい環境で育ってきたら今のところで混乱しているのもわかる。まこっちゃんのストレートも喜ばしいばかりではなくて、あれがどこまで続くのだろうという意味では様子見だね。優等生だから」と話しました。「昔いさおちゃんが母親に対してやっていた点数稼ぎをするようなところがまこっちゃんにも出ているのかもしれないし、でも彼も苦労してきているから、やっとそこまでなれたのかもしれない。これは結論が出せないから、様子を見ていきましょう」と話しました。だから、僕はただそのままを見ているのではなくて、そういうふうに分析しながら見ているから、まこっちゃんがちょっとそちらの方に行っていると思ったら、「まこっちゃん、無理をしなくてもいいんだよ。もうちょっと素の自分を表現してもいいんだよ。人を意識しないで言葉を言わないといけないよ」と言う時が来るかもしれない。しかし、今のままでずっと進み、「そのまま育っていって、風に乗って飛んでいけ!」というくらい極めることになるかもしれない。それはこちらが決めることではなく、彼の歩みなのです。
いさおちゃん:
染まって申し子になる自分。。。
メンバー:
そうなれる人が一番羨ましいと言っていたでしょ?
いさどん:
それはそのはずです。自分を表現することにどこかしら被害者的で怒りモードのところがあるということは、自立して表現するということに苦手意識を感じていたり、それが出来ない自分に対していらだつ傾向があるからです。しかし、無条件に「あなたはこれをやっていけば大丈夫ですよ」と太鼓判を押されて終着駅の切符をもらったとしたら、いさおちゃんはすごく楽に生きられるはずなのです。
いさおちゃん:
それはそう思います。僕はものすごく現金だから(笑)。
いさどん:
しかし、そこで「どこで降りるのかを自分で考え、途中で乗り換えのことも考えながら行きなさい」と言われたら、いさおちゃんは色々と悩むのです。そういうことは本来いさおちゃんには似合わないのだから、「1本レールで行けるよ」と言われたらすごく安心出来るのです。ただ、そこまでカラクリがわかってしまったら、自分の道にはなりません。それでは他人の道を行くことになるから、いさおちゃんをわざわざ混乱させて、自分で道を選ばせてくれている神様の配慮が働いているのです。
いさおちゃん:
自分の中には、「いさおちゃん、これで絶対大丈夫だから!」と言われることを求めているところが確かにあります。
いさどん:
それなら、いさおちゃんじゃなくても誰でもいいことと考えるかもしれませんが、そういうふうには創られていないのです。以前、神様からこう言われたことがあります。「真っ直ぐ行けるのはおまえの信ずる心によって行ける。だから、真っ直ぐに行けるかどうかはおまえ次第だ。いつも私はおまえの前に真っ直ぐなレールを敷いている。しかし、おまえが肉体を持って地上に生きるものだから、地上を行くと平坦なところもあれば山もある。そうすると、坂道が恐いとか、昇ったら落ちそうで恐いとか、谷を渡る時には橋下駄を踏み外そうだとおまえは文句を言う。時には迂回しようとする。しかし、ひとたび迂回したら、もう二度と真っ直ぐな道はないぞ。ただただ行け」と言われたことがあります。
いさおちゃん:
そうすると、自分らしくというのは。。。
いさどん:
つまり、自分らしくというのは誰にも出来ないことなのです。「自分が」という我がある状態。それは濁りです。だから、最終的には誰もが「いただく」心にならないといけないのです。
いさおちゃん:
僕が「自分らしくなりたい」と言って、僕の考える「自分らしく」なって嬉しいのかというと、それはわからないです。
いさどん:
いさおちゃんは自分があってないようなものなのだから、「自分らしく」と考えること自体が迷いの始まりになるのです。しかし、それは誰にとってもそうです。ここでは子どもに接する大人に、「その子らしく、まわりからの影響を与えずに育てなさい」と言うのはなぜかというと、子どもが間違いなく育っていくということではなく、子どもの自己責任のもとに道を歩ませるということなのです。そうすると、いさおちゃんのような人に責任を転嫁するような人にはならないということです。
メンバー:
魂の形として、いさおちゃんはずっといさおちゃんらしく生きてきたんだよ。
いさどん:
本当はすべて自分らしく生きてきたのに、まわりが口を出せば出すほど、本人は「こうなったのは他人のせいだ」と思うのです。しかし、人はカルマを超えた大本の心を表現しようと思ったら、自分らしくは捨てないといけないのです。それは「あなたの御心のままに。あなたはわたし わたしはあなたですから、いただくままに」という精神です。「いのちの泉」の歌にある「あなたはわたし わたしはあなた」というのは神様と自分、この世界と自分との関係なのです。これは単なる人間同士の関係ではなくて、神と一体であり、この世界と自分が一体であるというところで生まれた歌なのです。