2泊3日の滞在でも~その後

いさどんブログ「2泊3日の滞在でも」に登場したけいくん。ヤマギシ会からの紹介でここを知り、いさどんとの面談を受け、ここに2泊3日滞在しただけで断薬することが出来たとブログの中でお伝えしました。そして数日前、ここを訪れたことがあり彼を知るヤマギシの方から、「僕のブログにこんなことを書きました」というメールが届いたのです。

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先日、大阪のおっさんの集いに参加したら、けいくんが参加していた。彼は長い間、精神的な病気で家にずっと引きこもっていた青年なんやけど、そういう自分を変えたくて、今年の最初に木の花ファミリーに行ってきた。
1月の中旬ごろに彼に会ったときは、「今の自分でええんやなあと思えた。他人と比較しても仕方がない。今出来ること、今思えることからやってみようと思う」と言って、何かしら明るくなったように思った。
そして1ヶ月経過して、今週彼に会ったら、別人のようになっていた。何と人材派遣会社に就職して仕事をやり始めていて、今後はパソコン教室に通って、安定した生活をしていけるようにしたいと前以上に明るく話していた。
自分の気持ちに素直に表現しているように思う。とっても楽そうに話している。彼の発言に、みんなうなずくことが多い。こんなけいくんを見て、その日のおっさん達は驚きやら感動やらで、その場にいい風が吹いているように思えるんや。
彼をこんな短期間に変えさせたのは一体何やろうかね?勿論自分しかないんやけど、その自分のエネルギーはどこから涌いてきたのかな?

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そして、今日けいくん本人から次のようなメールが届いたのです。

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過日は二泊三日でお世話になりました。今、姉がお世話になっているのと、現状を伝えるため報告も兼ねてメールを送らせてもらいました。

あれから脳から何かが溢れてくるような感覚に襲われました。止まっていた思考が動きだしたような…。
物や物事が点で捉えられるようになり、思考は常に「それは本当はどうなんだろうね?」と自問自答を繰り返す毎日でした。例えば、「寒い。」「本当はそれはどうなんだろうね?」「案外寒くない、暑いかも知れない。」「冬だから」みたいに固定観念にとらわれない感覚になり、思い込みが少なくなり、冬なのに裸で過ごしたりしても平気なぐらい、人とは感覚がかなり狂っているようでした。今はその脳から溢れる感覚は大分落ち着き、寒いものは寒いといった感じになりました。落ち着いたらおかしな事に、長年あった震えの体質がほとんど出なくなりました。だから今は元気といえば元気です。

現状ですが、木の花から帰ってから今まで精神安定剤や睡眠薬の類いの薬を全く飲んでいません。薬抜け成功したと言ってもいいのでしょうかね…。最初は眠れなかったのですが、最近は睡眠時間が短いなりに熟睡もできています。上で書いたような震えも止まりました。かなり健康体です。

今は自分で環境を整えるべく、資格を取るため職業訓練の申し込みをしました。近々面接と試験です。受かれば補助金を受けながら職業訓練、今はパソコン時代なのでWindows検定を手に入れるつもりです。
試験の合否はわかりませんが、職業訓練が始まる3月までの間に繋ぎとして登録制の日雇い派遣を始めました。なので、微妙にですが引きこもりから復帰も出来ました。繋ぎとはいえ毎日仕事がないのが残念です。

沢山の人を導きたい自分…。いさどんほどではありませんが、自分もそれなりに人と出会っていろんな体験をしたつもりです。今、ネットを駆使してmixi内でアニメのキャラになりすまして、アニメキャラのカリスマ性を利用して人生相談所を開いています。悩みを抱えている人たちに対してアドバイスをして、いい方向に導いています。結構評判もよく、導いた人はいい方向に進んでくれています。いい方向に進んで感謝されたりするのが、堪らなく嬉しいですね。

小さいとはいえ、自分なりに環境を整えたり、導いたり、やりたいことをやれて前に進めているように感じているのが現状でしょうか…。今はこんな感じです。一つ一つを大事にして進んで行きたいですね。

追記:
今、姉が心の立て直しということでそちらに滞在していますが、弟としてはみんなの力で姉の認識の甘さを打ち砕いて、大事なことが何かに気づけるように導いてほしいと思っています。いさどん含め木の花にはそれだけの環境があると思っているので、姉をよろしくお願いします。

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そして、けいくんから「僕はもう元気になったから、今度はお姉ちゃんの番だよ。お姉ちゃんが木の花に滞在してきたら?」と言われたお姉さんが今、ここに滞在しています。こうやって、心が元気になっていった人が次の人を元気にしていく。この「弾み車の法則」があるからこそ、ここではみんなの心がどんどん健康になっていくのです。ひとりひとりの健康が社会全体の健康をつくっています。さあ、あなたの心は健康ですか?


聖者イサジ、道を説く

今回のブログでは、いさどん改め「聖者イサジ」がメンバーになるためにお試し滞在中のゆたかくんと面談した時の模様をお伝えします。(注:ちなみに、いさどんには1宇宙人ピトピ、2御中主命(ミナカヌシノミコト)、3聖者イサジ、4いさどん、5古田偉佐美の5つの名前があります。)

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

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イサジ:
今日は何が聞きたいの?

ゆたかくん:
とりあえず、今世の自分の役割を知りたいです。

イサジ:
今世での役割か。。。それはあなたの自覚です。

ゆたかくん:
自覚ですか?

イサジ:
人は自分の世界というものを自分の思考の中で持つ。そうしたら、自分を喜ばせる思考がどこにあるか。

ゆたかくん:
自分を喜ばせる思考。。。

イサジ:
あなたは毎日何を喜びとしている?

ゆたかくん:
今ですか?

イサジ:
今でもいいし、将来のことでもいい。

ゆたかくん:
今は作業をやっている間に色々と気づくことがあって、それが嬉しいです。

イサジ:
気づきというのは自分が成長するということ。新しいことを知ってそれを積み重ね、自分が広がっていくとか大きくなっていくこと。その結果、何か目的につながる。そうなることを喜ぶということは、その次に望むことがあるから。それは何?

ゆたかくん:
そこまでなっていない人をそこまで上げてあげることです。

イサジ:
それは世のため人のためということ。いつからそんなことを思っているの?

ゆたかくん:
25、26歳の時に仏教を勉強していて、そのくらいからです。

イサジ:
どうして25、26歳の時に仏教を勉強したの?

ゆたかくん:
それ以前にちょっと素行が悪くて、ちょっとひどい目にあって。。。

イサジ:
どんなことをしていたの?

ゆたかくん:
薬物を吸引していました。マリファナと幻覚系の合法ドラックです。

イサジ:
合法ドラックだけれど、今は合法じゃないけどね。

ゆたかくん:
はい。それをやっていて、事故に遭ったのです。

イサジ:
どんな事故?

ゆたかくん:
マンションの2階の手すりを乗り越えて、飛び降りたのです。

イサジ:
それは気分が良くて飛べるつもりだったということ?

ゆたかくん:
混乱していて、よくわかっていませんでした。

イサジ:
それで大怪我をした。

ゆたかくん:
はい。それで入院をしました。

イサジ:
マンションというのは自分の家の?

ゆたかくん:
会社の寮です。

イサジ:
会社の仲間とそういうことをしていたの?

ゆたかくん:
いえ、会社にそういう人はいませんでした。前の職場ではいました。

イサジ:
そのつながりでそういうことをしていた。

ゆたかくん:
はい。

イサジ:
それで?それをやって入院してどう思ったの?

ゆたかくん:
これじゃいけないと思い始めて、そこから指針を見つけようと仏教を勉強し始めました。

イサジ:
仏教といっても幅が広いけれど、どういう仏教ですか?

ゆたかくん:
全般的にです。色々なお坊さんが書いた本を読んでいました。

イサジ:
それで何に気づいたの?

ゆかたくん:
何に気づいたか。。。

イサジ:
仏教の本を読んで、さっき言っていた「自分を高めていきたい、学んでいきたい」という思いが湧いてきたわけだ。

ゆたかくん:
はい。

イサジ:
世の中の人に学んだことを伝えていきたい?

ゆたかくん:
まずは自分が出来るようになってからですが。

イサジ:
それから5年経ったけれど、学んだことはある程度マスター出来た?

ゆたかくん:
マスター。。。いや、全然出来ていないと思います。

イサジ:
今までの5年間は何をやっていたの?

ゆたかくん:
介護ヘルパーなどの仕事をしたり、インドに旅行に行ったりしました。

イサジ:
インドは仏教の勉強の延長に行ったということ?

ゆたかくん:
そうです。

イサジ:
何か気づきはあった?

ゆたかくん:
気づき。。。

イサジ:
インドも今は改革、解放だからね。あそこは精神性の発祥の地ではあるけれど、欲の世界でもある。その両方の誘惑の世界だからね。

ゆたかくん:
そこでもちょっとマリファナをやってしまって。。。

イサジ:
ハッハッハ。弱いね。

ゆたかくん:
でも、そこで精神的に高い人たちに会ったりして、ダライラマにも会ってきました。ダライラマが住んでいるところに行って、そこでティーチングのような講習を受けました。

イサジ:
その結果は?

ゆたかくん:
日本に帰ってからは、自分を逆に見失ってしまったというか。。。

イサジ:
自分を見失うということは、インドでは何かを持っていたわけだ。その前の飛び降りてしまったことから仏教を勉強した時にも、何かを持っていた。でも、日本に戻ってきて日本人を眺めていたらそれに流される自分がいて、その何かを見失ったということではないの?

ゆたかくん:
はい。。。

イサジ:
だから、日本に帰ってきて仕事に就き、今の一般的日本人の価値観の中に流されたということだね。

ゆたかくん:
はい、そうです。

イサジ:
それで、こういうところを探していたというわけだ。ここへ来て何日になる?

ゆたかくん:
1週間くらいです。

イサジ:
そうすると、「そろそろ自分の探していたところに行き着いたな」という感じはしていない?

ゆたかくん:
しています。

イサジ:
そうしたら、さっきの質問はもう既に答えが出ている。

ゆたかくん:
・・・?

ようこ:
今世の役割という質問。

ゆたかくん:
ここに来て、「一段落ついたな」というふうには思っています。

イサジ:
さあ、これからだ。これからどうするか?今編集していた原稿にこんなことが書いてあったぞ。「この世界は想いで出来ています。自分の中に今日はお酒が飲みたいとかパチンコをやりたいという思いがあったり、いつも子どものことやお金のことばかり考えていると、未来にその世界が展開されるのです。それがこの世界です。私たちが想ったことが起こるのです。」「自分の中から湧き出てくる無限の記憶。それが過去をよみがえらせてくるのです。そして、その結果次のステージはどうしようかと考えていて、そのどうしようかの想いの中から次の世界が実現していく。」

つまり、自分の考え、自分の中から想いが湧き出てくるということは、自分の中に想いの種があるから湧き出てくるわけだ。だから、自分の意識レベルに合わせた未来が訪れてくるわけだ。

ゆたかくん:
はい。

イサジ:
それが想念の連続となり、未来を創っていくわけです。そうすると、損得勘定をして辻褄合わせをしながら生きる姿は、今時の人々が生きている姿そのものです。それもお金が欲しいとか、欲しいから他人の物を盗むとか、そういうことも現実に創り出すけれど、しかしもっと大きなスタンスで捉えていくと、もっと古い過去、今世のものではなくて前世の時代というのは記憶から離れている。それが私たちの中で記憶の書棚、図書館のようなものになっていて、ふっと想いとして湧き出てくる。それが過去の軌跡の中で培ったもの。今湧き出てくるものは過去の延長にあるものであって、そういった過去から現在までのものが積み重なって今の魂が取る思考となり、人間性が出来ているわけだ。

例えばマリファナを吸うことも、飛び降りることも、その結果仏教に出会うことも、それからインドに行くことも、そして日本に戻ってきて普通の世界に入ってそこで矛盾を感じることも、今、新鮮に経験しているようで、実は過去のあなたの積み重ねが今の思考を生んでいるのであって、その思考がもとになって現在から未来を創っていくわけだ。

そうすると、「理由はないけれど何かがしたい」とか、「なぜだかわからないけれどあの国に惹かれる」というのは、いきなり今湧き出てきた想いではなく、ずっと積み重ねてきたその人の物語の中にあるもの。そして、その積み重ねの延長に今回生まれてきたというわけだ。

ゆたかくん:
はい。

イサジ:
そして、その話を今こうしてしているということは、つまり未来は決まっているということだ。わかる?

ゆたかくん:
いや、ちょっとわかりません。。。

イサジ:
過去があって、過去の積み重ねに今がある。今は今の上で今を生きているようだが、そのベースは過去の積み重ねによってここまで来ている。だから、今の思考はこれまでの過去の積み重ねでここにある。ということは、過去にも現在があって今にも現在がある。現在の連続が過去になっているということ。現在の連続が過去になっているということは、現在の連続が未来を創っていくということだから、今自分の中から湧き出てくることは過去の積み重ねの結果、今湧き出てくるのだし、今湧き出てくることはこれが積み重なって未来を創っていくわけだ。

自分がこれからどう生きるのかは、マリファナを吸いたくて仕方がない心があれば、未来にマリファナを吸っている自分がいて警察に捕まるという未来を創っていくわけだ。今、「人のためになりたい」と言っているということは、そういう過去の積み重ねがその心になっていて、これはそのまま想っていけば未来にそういう人になれるということになる。

「世の中のためになりたいという大事に気づいてそれを人に伝えるということが、僕の役割なのでしょうか?」と思ったことを誰かに「そうです」と言ってもらって、それで進んでいくのが本当に自分の目覚めなのだろうか。僕はその問いに私心をはさまない。あなたの人生にはあなたの私心をはさめばいい。

そうすると、今のようにあなたの思考を分析して、それはどのような思考の仕組みかを情報としてあなたに伝えると、あなたが自分で判断出来る。そうすると、人生というのは誰と契約して、どういう目的のもとに生きて、そして未来はどうすると観えるのかということがわかってくる。ここで注意しなければならないことは、私心がある人に相談するとそちらの目的プラスこちらの目的が合わさって、「あなたはこうあるべきだ」と言われ、あなたの心が濁ることにもなる。

ゆたかくん:
そうですね。

イサジ:
それはあくまでも、そちらの人生はそちらにあって、こちらの人生はこちらにあるわけだ。しかし、それでは冷たい、寂しいということにもなる。では、ここに集っている人たちが何をしているのかというと、独立して自分を観て、他者とつながり、そこからもう一つ大きな自分を観た時に、人は一つの枠の中で共通した他者との自分を持つことが出来るのだ。例えば私たちの体で髪の毛と皮膚が共通した自分を表現出来るのと同じように、我々も別々だけれど共通したものを表現出来ると気づいた時に、こういった世界が展開出来る。これは何を表わしているのかというと、宇宙の実相。自然界の実相。

その中に我々がいることに気づけば、この生き方はこの世界を表現しているすべての人々にそれを伝えることが出来る。人々に伝える方法として、過去には宗教などの教祖的な伝え方があったけれど、それはもう古い。なぜ古いのかというと、人々は独立した貴いものだからである。優れたものがいて一方的に伝えることは、教祖と信者という関係が出来て、いつまでも信者は信者で在り続け教祖が必要になってしまう。すべてが貴い。平等の貴さがそこでは現れてこないことになる。そういう時代は終わり、すべての人々が独立して自分の意志を持ち、平等の中で世界は出来ている。それがこれからの時代の在り方ではないか。

今、あなたが問いかけた「僕の今世の役割を知りたい」ということについて、私はその答えは出さないけれど情報だけは提供した。答えはあなたが持っているのだから、自分で出せばいい。そして、答えを出した人が今ここに集っている。それがあなたの問いに対する答えだ。

一人一人がしっかりと自立して光って生きている。教祖と信者というランクが出来たら、本当に平等に光っていることにはならない。この世界を自らが担っているということに気づいた時に、人は本当に生き生きしてくる。そうだと思ってやろうとした時に、どこで行動しても真実は観えてくる。宇宙の中の どこにいてもみな平等なのだから。例えば木の花で与えられている役割でもいいし、外で与えられている役割でも同じこと。ここだけが特別な世界なのではなく、すべて平等な世界だから。それを知っていくために、我々は敢えてこういうライフスタイルを取っている。そのスタイルがもっと展開されていけば木の花はなくてもいいかもしれない。しかし、これがある意味在り続けることも大事かもしれない。その答えは我々が持っているのではなくて、この世界を動かしているものの意志の表われであるということ。

ゆたかくん:
よくわかりません。

イサジ:
何が?

ゆたかくん:
わからないものからの意志?

イサジ:
そういうことか。わからないものはわかるんだよ。わからないというのは、わからないところから見たらわからないのであって、わかるところから見たらわかるんだよ。この世界にあるものの目的は何なのか。ただ、木があって土があって、植物と土の関係、空気、風、太陽の光、色々なものがある。そこにあるものがあることはわかりますか?ではこれは、ただただ無秩序にあるのかということです。そこには秩序があるのです。しかし、秩序は木を見ただけでは見えない。その秩序は見えるものから見ていってそれをつなげていくと、見えないものが見えてくる。それがあちら側の意志の現れ。それを観ようとするとそこに感じられる。そこに木があって雨が降っていたら木が濡れる。雲っていたら太陽が照らない。雲が去れば太陽の光が射してくる。すべては完全なる秩序の中にある。その秩序というのは意志がないと保てない。それがあちらの意志。我々はその秩序を学びながら、すでにその秩序の中に組み込まれている。我々はその秩序の中にいる。我々が個々に目的を持って生きているということは、結局そこにある木や土、雨や水、太陽の光の秩序と同じものであるということ。

難しい話だけれど、あなたが仏教の話を出すからこういう話になるのです。もし子どもにもっとわかりやすく言うとしたら、「生きていることは自分の力で生きているの?」と聞く。「今日、ご飯を食べたでしょ?今、呼吸をしているでしょ?水を飲んだでしょ?心臓が動いているでしょ?そういうふうに生かされているんだよ」と伝える。そういった原則、生かされているという原理の上に我々は表面的な意識を持っていて、自分が生きていると思っている人はそういう意識でいるわけです。しかし、その深いところまで気づいていったら自分の思考というものは薄くて、その前に大前提の原理、原則があって初めて現象が成立しているということに気づく。そうすると、その薄い思考で捉えているという意識は消え去ってしまい、生かされているという意識になる。

あなたが本当のことを人々に伝えたいと思ったとする。それはニセモノがこの世界にあると思うから、本当を伝えたいということを思う。何かを「本当ではない」と思うから、本当を伝えたいと思うのである。そうすると、今は人々が本当を知らない世界ということになる。自分も知らない。人々も知らない。そこで、自分は本当を知って本当を人々に伝えたい。では、その本当は何かといったら、思考のベースに観えてくる原理。その原理から生み出される現象が現れる。そして、その現象の奥にある知恵が現れる。宇宙の知恵、真理。その真理のもとに人がある。それが歓びであり、その歓びのもとに原理、原則が示すこの世界の目的がある。それは「浄土」とも言うし、「地上天国」とも言う。色々な言い方になる。

ここにあるメンバーのこまねちからもらった手紙にこんなことが書いてある。「正しい食べ物を正しい食べ方でみなと食べ、自分に正直に暮らしていく。こうした身魂磨きを続けていくことこそが、あちら側の意志に基づくことにつながると信じているのだがどうだろう。最後に一句。神様の 教え守りて 粛々と 歩み続ける 我こそ 神なり。」つまり、粛々と歩み続けることが目的なのだと。

ゆたかくん:
粛々と歩み続ける。。。

イサジ:
ただただ学び続けて、磨き続けること。それがこの世界に生み出された目的であって、形が現れるとさらに次の形が現れ、それは変化し続けるものだ。だから、求め続けること。

ゆたかくん:
求め続けること。。。

イサジ:
そこに歓びがあって、それが求める原動力、エネルギーになる。それが続いていく限り、我々はいつも新鮮な気持ちになっていく。それが生命。いのちの表現ということ。だから、どこかに終着地点を設けてはいけない。

それで、「僕のやるべきことは何でしょうか?」という最初の質問に戻る。あなたのやるべきこととは?

ゆたかくん:
何だろう。。。

イサジ:
いきなり答えを出そうとするのではなく、心の扉を開けた時に今目の前にあること、一番身近に想うことにまずは取り組んでいけばいい。テストをもらって満点を取りたいと考えるよりも、最初の一問目を見てそれを解くことをするべきなのだ。人はテストをもらったら、先に満点を取りたいという心が働く。満点を取りたいと思う前に、1問目から取り組んでいけばいい。

ゆたかくん:
目の前にあることからやっていけばいいだけか。。。

イサジ:
そうすれば、間違っていれば間違いがもらえるから、またやりなおせばいい。合っていればそれを糧にして次に進めばいい。

ゆかたくん:
それが心磨きですか?

イサジ:
心を磨くのも、「磨こう!」と思って磨いたら、正解を先に求めることになる。しかし、それで正解かどうかはわからない。それは磨いた結果、答えをもらうだけのこと。ということは、どうしたらいい?

ゆたかくん:
これからもよろしくお願いします!

イサジ:
ハッハッハ。これで今日の話は終わりだ。良い時間だった。

ようこ:
「聖者イサジに弟子の僧が教えをいただきに来た」という感じだったね。

ゆたかくん:
今日のような光景は、昔、映画で観たことがあるような気がします。

イサジ:
本来は、こうでなくてはいけない。つまり、師がいてすべてを伝える。それを忠実に守る弟子。それは師弟の関係をつくるだけ。たしかに、語りかけることは必要だけれど、自らの中から知恵を引き出し自らで悟っていくことが大切だ。そうでないと、人は成長しない。

ゆかたくん:
その通りです。

イサジ:
仏教の下地があってよかったね。

ゆたかくん:
ハッハッハ。たしかに。

ようこ:
インドに行ったことも、今日の学びの肥やしになっている感じだね。

ゆたかくん:
今日は本当にどうもありがとうございました。


銀河の旅へ

昨年の大晦日の大人会議では、いさどんが「銀河の旅」と題して2時間近くにわたるお話をしてくれました。今回のブログではその時の様子をご紹介したいと思います。

なお、今回の原稿のテープ起こしは、地球家族を実践している情熱家、もとやんも半分以上受け持ってくれました。もとやん、どうもありがとう!

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

いさどん:
今日は大晦日、通常のミーティングとは違ってこんな時間になりました。この時間が持たれるきっかけになったのは、1週間くらい前のことです。朝、ようこちゃんと話をしました。僕はいつものように夢の中から帰って来たわけです。最近の僕は、この世界に肉体を持っていることを不自由に思ってきています。僕の中にある想いはいつも広く大きな想いの中にあるのです。心を上の方に向けると、僕の中に浮かんでくるイメージの世界では雲が観えます。その雲は地球上で見える雲ではありません。なんとか星雲とよく言われるような、銀河の雲、宇宙雲です。それが想いの中に浮かんで観えます。日々、そんなことに想いを馳せていると、目が覚めてこの世界が現実なのかどうなのか考えてしまいます。

私たちの生きている世界は、移ろいゆく世界です。僕は来年の5月になると60歳になるのですが、ついこの間、3歳だったという意識があります。ついこの間小学校に上がった記憶があります。そして、ついこの間高校を出て、20歳で社会に出ました。自分の記憶をたどってくると、すべてがあっと言う間のように思います。一年前の今日を想うと、あっという間でした。元旦の初日の出を見に行った記憶があります。その時に「今年が始まる、今年も種蒔きが始まるなぁ」と思っている間に、もう今年が終わろうとしています。年が明けるとまた種蒔きの事を思います。そして、あっと言う間に月日は流れていきます。これがこの世界ですね。そして、生まれた時はこんなに小さかった。その時は髪の毛があったのかなかったのか記憶はありませんが、今は髪の毛がありませんけれど(笑)、途中はあった時もあります(一同、笑)。あの生まれてきた時の姿を想うと、今は妖怪のようですね(一同、笑)。

私たち人間は3年を区切りにしてすべての細胞が変わると言います。そうすると、60年という年月は、単純に言えば20回も入れ替わったことになるのです。どこからどこへ変えたかと言うと、土と自分の循環です。そして、そのエネルギー源はすべて光です。私たちは光と生きる旅をしているわけです。そういったことに想いを馳せていると、日々の移ろいゆく生の在り方が想い出されます。子どもの頃の無邪気だった頃から一人前になって恋をし、そして当たり前に欲を持ってお金を稼ぎたいと思い、それも実現してきました。僕は30歳で今の生き方の元になる心をいただくようになりました。普通の人たちより20年も早く、40歳にして定年を迎えました。それから20年を経て、来年の5月3日で60歳になろうとしています。その間には色々なことがありました。そして、「私はこういうものです」とか、「こうである」とか、自分を特定することは出来ませんでした。その時その時に起きる現象を通して一喜一憂しながら歩んできたのです。これは生きているということの証です。今までのことは良い思い出になっています。

そして、この間朝起きた時にようこちゃんに、「ようこちゃん、僕はそろそろこの器の中に入っていることが窮屈になってきた」と言いました。どうも今の自分の発想が、肉体の中に入っている魂にしては大きすぎて窮屈に感じています。ですから、魂が内側から圧力をかけ外側の皮をグングン押して、バカバカバカバカと圧力をかけてくるのです。バリバリとヒビが入ってきて、僕の中から魂のヒナが出ようとしている感じです。人間は肉体の中に魂が封印された状態でいます。これが肉体人間の姿です。肉体人間と言っても肉体が生きているわけではありません。魂が生きているのです。生命力のもとになる光が魂から放たれています。それは肉体の設計図でもあります。その光の設計図にふさわしく肉体ができている。原料は全て光です。原料が光だということは、我々が光で出来ている霊的なものだということです。それに対して肉体という物質は、陰陽で言えば陽です。そして、見えないものである魂(陰)がそれを束ねているのです。肉体人間という我々は3次元の世界にいただいている姿です。その体が窮屈で仕方がないと思い出したのです。ということで、まとっている衣(肉体)を取り去って魂だけになるということは、どういうことか分かりますか?

みんな:
死ぬ。

いさどん:
はい、死ぬということです。僕は「死にたい」と言っているのです。ただし、最近よく流行っている自死ではありません。30年前に流行っていたのは家庭内暴力でした。最近、離婚もよく流行っています。ここのところニートやひきこもり、うつ病が流行っていますね。ここ10年ばかり流行っているのは自殺ですね。あまり良い流行ではありませんが。こういった人々は生きることの意味を理解出来ないでいるために、生きることを儚んで、死を選ぶことになってしまいます。僕の言っている死はそういった暗いイメージの死ではなくて、「肉体の中にいることが窮屈だから、積極的に体の中から抜け出したい」という思考を持っているということです。ただし、これを実行するかどうかは、僕の意思にかかっているのです。僕がそれを望んだ時にはそうなるでしょう。望まない時にはそうならないでしょう。死ぬことは誰でも可能なわけです。ただし、それが自分の生きている目的にあっているかどうか、ということについては色々です。その結果、自分に何がもたらされるか。そこに大切があるのです。

そんな会話をしていたわけです。その結果、器を抜けて自分は何がしたいかということを思ったわけです。僕がその時に思ったのは、「旅がしたい」でした。それは新幹線に乗ってどこかに旅行に行くような、そういう旅ではないのです。ここでみなさんにお断りしておかないといけないのは、ここで一緒に家族として暮らしているメンバーの人たちは、僕が奇妙な人間であるということはよく知っていると思います(笑)。訪問されるゲストの中にも、奇妙だからこそここにおいでになる方もいらっしゃるのですが、今日はそういったことに全く慣れていない人もいるかもしれませんので、ちょっと断っておきたいと思います。今からお話しする話は、この大人会議の中の「みんなの心のシェア」ではありません。それから、みなさんに理解してもらいたいと思って話す話ではありません。ここにいる、「いさどんのひとりごと」です。「いさどんワールドを語る」ということで話します。そのことがみなさんの中で何か新しい視点を生むかもしれない。みなさんの価値観を正すかもしれません。

そんないさどんは、人間です。そして、みなさんと同じように生きていて、同じように思考も働いています。ただ、ちょっと普通の人と違うみたいです。ここの生活もこの日本という国にあって、もうじき18年目に入るのですが、こういった生活を提案してきたのも、そこいら辺りにはありそうにないことです。ひょっとして、このマニアックな生活は世界中に類を見ないかもしれないですね。こういった世界をみなさんに誘って歩んできたということは、ここに集った人たちも変わり者なのですが、僕自身が飛びっきり普通でない発想を持っているということです。その飛びっきり普通でない発想の奥にある、日頃みなさんにお話ししていない、そして最近生まれてきた新鮮な部分を公開しよう、というのが今日のこの場所です。それはいくつかの分野に分かれていまして、分けると五つにも六つにもなるものです。ようこちゃんやみかちゃんは日々そういったものに付き合ってくれています。(他にもいますけれど。)それを公開することは日々が忙しくて出来ませんでしたが、今日はその中の一つ、「銀河の旅」についてお話しします。

というわけで、そういうことを了承いただいて聞いていただければと思います。人によっては新しい視点、「それは面白い!ぜひ自分もそんな旅を行ってみたい!」と思うかもしれません。僕には以前から体から抜け出したい願望がありました。生きていることは不自由でした。ところでみなさん、毎日食べ物を食べる、これは自分の意思で食べていますか?面倒くさいでしょう。食べるだけならばいいのですが、美味しいとかまずいとか味覚もあってお腹も空きますから、それを満たすということで食べ、喜びもあるようですが、食べた結果全部自分に取り込めばいいのに、排泄しなければいけないですね。この排泄するのを喜びを持って排泄する人いますか(一同、笑)?1週間も便秘だったら出た時は嬉しいかもしれないです(笑)。そういうことは出来ればないほうがいいと思ってしまいます。食べた分を全部使い切れば、こんなに食べなくてよいはずです。それから、呼吸することは休みなくやっていますね。呼吸することを1分間止めることは、普通の人にはなかなか出来ません。たいていの人は1分以上止めると、みんな気絶しますね。僕は1分くらいはやれますが。昔、3分くらいやったことがあります。訓練すると長く出来ます。しかし、30分止めるといっちゃうかもしれません。そういうふうにして、私たちは日々自由に生きているかのごとく思っているのですが、この世界では縛られて生きているわけです。

極めつけは心臓の働きです。生命の始まりの時、お母さんの胎内で細胞分裂が始まります。細胞が2つ、4つ、8つというふうに2分割で分裂していく中で、最初に出来るのは血液です。機能としては始めに心臓が出来ますよね。それからどっくんどっくんと鼓動を始めます。これは一時も休みません。心停止ということは死ですから。これをなんとか休めてやりたいと思ってしまうのです。ずっと働いているのだから、私たちは毎日眠ります。疲れたら休みますね。しかし、それとは違う意味で休みなく働いているのがこの心臓です。血液の流れも休みがないのです。これだって休ませてやりたいと思うのです。へそ曲がりなことを考えるとですね、「生きているということはなんて不自由なのだろう」と思うわけですよ。この体というのは、さらに地上に縛られて生きている。それで心臓が止まらず呼吸も止まらず、食べ物も食べ続け、排泄し続け、そして赤信号も止まらなきゃいけない。もう、縛られっぱなしでしょ?

そういう中で、まだ縛られているものがある。そういったものの仕組みの中に取り込まれている、この「思考」がある。思考は見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるという五感によって反応して動いているのですが、それって表面的なことでしょう。人間はそんなことにも良いとか悪いとかで縛られているのです。もし五感がなかったら、そういう思いは必要ありません。美味しいとかまずいとか、美しいとか汚いとか、そういうことはなくなるのです。というふうに、私たちは不自由な世界で縛られている。どのくらい縛られて生きているかといったら、100%完璧に縛られている。何に縛られているかというと、この肉体に縛られているのです。私たちは肉体が思考しているわけではないのです。肉体が生きているわけではないのです。肉体が歩いているわけではないのです。物を食べているわけではないのです。話しているわけではない。そうすると、そこの中に自分と言える存在を特定する五感を束ねている意志、それは六感の部分ですね。それが「心」です。それがあって、それが五感を束ね、五感と心を合わせて「六根」と言います。その六根が健全であるから私たちは健康に生きられるのですが、そういう仕組みで私たちはこの世界に縛られているのです。この肉体というものを持つことで、この地上に縛り付けられているのです。肉体から私を取り去ってやると、肉体の殻を抜け出したということで死ぬということです。そして、死んでどうなるのかというと、どうなりますか、みなさん?     

ちなっぴ:
魂と分かれて、肉体は微細になって自然に還っていきます!

いさどん:
そうです。どうなるかというと、この肉体の生命を束ねている元が魂、生命力ですね、それが抜けますから、そうするとこの世界に微細になって広がっていきます。腐って、そして自然界に全部散らばっていきます。自然に還るわけです。今もそうですよ。自然からもらっては返し、もらっては返しているのです。60年僕が生きると、20回も総入れ替えしたことになります。それと同じように、死を迎えると肉体は繰り返しの因縁から解放されるものですから、全てをこの世界に還元します。そうすると、魂だけになります。これを見ることは出来ません。物質ではありませんから。これを消滅させることはとりあえず出来ません。消滅させる方法はあります。ありますが、この状態を消滅させることは出来ても、大元の魂を消滅させることは出来ません。これはこの世界を創っている元の二つの中の一つだからです。もう一方の肉体は塊との縁から離れて消えたのかということになりますが、これは消えたのでしょうか?

みんな:
消えていない。

いさどん:
消えないでしょう。宇宙は何も供給されないし、減りもしない。ただ充満しているだけの世界なのです。ですから、肉体を構成している要素というのは、新しい構成物質として他者に移っているだけのことで、何も消えていないのです。この世界では私たちは消えることがないし、そういう意味では今世の縁が切れたことを死と言っているだけで、実は死んでいないのです。この世界に死はないのです。ただ在り続けているのです。それが「あってあるもの」という言い方なのです。

そうすると、僕が「この殻を破りたい」と言ったのはどういうことなのか。「抜け出したい」と言ったのはどういうことなのか。この姿から卒業したいということで、この姿を卒業して殻との因縁をお返しして、魂の縁だけになるということです。それはどういうふうになるかというと、質量がありません。先程の六根ということからすると、一根だけになる。意識だけになるのです。しかし、この意識がここの世界にとらわれていると、自由ではありませんよね。死んでからもこの世界に未練が残って成仏出来ない、というのがそういう例です。

僕はこの広い世界、宇宙のことをずっと考えているのです。そうすると、そこが自分の故郷なのです。自分の思考の中にあるルーツ、それが故郷です。それで、僕の故郷は銀河です。みなさんの故郷はどこですか?

けいごくん:
東京!

いさどん:
東京!ハハハハハッ。分かりやすかった。そういう言い方も出来るよね。他にみんなの故郷ってどこにあるの?

メンバー:
太陽!

いさどん:
それは全ては光だということ?それは物理的な光という意味でもあるよね。他に故郷ってどこにありますか?

メンバー:
地球!

いさどん:
地球。地球がみんなの故郷。他は?

メンバー:
大本の神様。

いさどん:
色々な捉え方で自分を捉えていった時の出発点が故郷ですよね。だから、僕で言ったら岐阜県の美濃市というところが故郷だと言ってもいい。そういうことでもいい。東京だと言う人もいるわけだよね。例えば、お母さんっていう人もいるでしょう。お父さんだとかね、土だとか、地球だとか、いくらでも故郷はあるじゃないですか。故郷ってどこにあるの?そうやって並べていったら、どこにあるの?

どんどんどんどん故郷を並べていったら、それをまとめるとどこにあるの?この世界が故郷じゃないですか。すると、私たちは故郷にいて、故郷を思っているという。僕が「銀河の旅」と言ったけれど、ここはどこにあるのですか?

みんな:
銀河!

いさどん:
銀河にあるじゃないですか。それで、今、宇宙の旅をしているじゃない(一同、頷く)。宇宙船と言ってもいいし、惑星と言ってもいい。それに乗って固定しているわけではないのです。太陽のまわりを高速で回っている。自転しながら。そして、太陽系の太陽は止まっているのかというと、実は天の川銀河の中の端のほうにあって、銀河自体が回っているのです。では、旅をしているんじゃない?みんな、銀河の旅をしていない?

みんな:
してまーす!

いさどん:
それじゃ、今日の話、「銀河の旅」は終わっちゃうじゃない(一同、笑)。今、実際に私たちは銀河の旅をしています。そして、私たちは地球人だろうか?

みんな
宇宙人!

いさどん:
宇宙人ですよね。というふうに捉えていくと、私たちは日々を特定してなんだかんだいって生きているのは何なんだろう?そう思えてくる僕の気持ちがわかりますか?「この殻から抜けたいなぁ」って。ご飯がどうだとか、ちょっと食べ過ぎてここが苦しいとか、ちょっと厚み増してきたなぁとか、髪の毛が薄くなったなぁとか。それこそどうでもいいことじゃない?単なる形状にしか過ぎなくて、それは一時のもの。変化するもの。なんだかどうでもいい話でしょう。そして、今のような気持ちになったのです。

ここでまた付録の話をします。(ここからいさどんは立って話し始めました。)僕の田舎の話をしたいのですが、「待っていました!」って言う人はいる(笑)?僕の故郷、岐阜県美濃市乙狩1872番地。江戸の中期頃から続いているうちのご先祖様。もしも僕が後を継いだら、14代目の家でした。今は猿と猪が住民登録をしているようなところです(一同、笑)。おじいちゃん、おばあちゃんばっかりでね。それで若い衆が75才を過ぎているかな(笑)。そんなところになっていますが、最近は行っていません。昔、僕はそこで木の花の生活を実現しようと思っていました。そこを「菩薩の里」と名付けようと思っていました。そこに住む人々は自らの喜びを喜びとするのではなく、他者の喜びを自らの喜びとする。そういった人々が集って、そして村を作り、桃源郷のような理想の世界を生きること。そんな村をつくる夢を持っていました。そこにはまだ両親が住んでいました。僕が40歳の頃です。

その前にもう一つ、大事な話をしなければいけません。僕は今度の5月3日で60歳になります。これは僕の認識では4回目の生まれ変わりなのです。ゼロ歳で生まれました。それから20歳で名古屋に出ました。それで職業を持つ時代を過ごしました。20年間。その間の30歳の時に心の道に出会ったのです。自分の人生を80年としたら、その半生の40年を折り返し地点として、あと10年自分の中から湧き出してくる欲の想いを実現していこう。そして、残りの半生40年は、世のため人のために生きていこう。40歳からはお金を得るために日々を生きることをやめようと決めたのです。そして、40歳で職業を辞めようと思いました。そこで定年を迎えたわけです。40歳で定年を迎えるのですから、普通の人と比べると20年は早いのです。おかげさまで20歳で社会に出て、25歳で会社を立ち上げ、30歳で啓示を受けて、そこから10年残り火のように仕事をして、そして40歳の誕生日の前日に、「もうこれからは日々をお金のために生きない。世の中のために自分の人生を生きる」と決意し、そこから始まったのがこの出会いです。

そして、木の花ファミリー、エコビレッジの生活。60歳からの20年間は僕の最後のステージです。ここでもうひとつ、この間ようこちゃんに話した内容をお話しします。それがまた、この銀河の旅の話のきっかけにもなっているのです。今までは5月の誕生日には当然誕生日会をやってもらいましたが、今度の60歳の誕生日には何をするでしょう?

メンバー:
お葬式?

いさどん:
もうだいぶ噂が広まっていますね(笑)。そうです。葬式をします。

みんな:
エッー!!

いさどん::
僕の肉体人間としての精神を葬ろうと想っています。そして魂として生きる。葬式をするといっても、肉体はまだ続きますから心配しなくても大丈夫(笑)。ただ、物質的な価値観のもとに日々を生きないというだけです。僕は40歳から「菩薩の里」を自分の故郷につくろうと思っていました。ところが、「両親のもとに行って両親の面倒を見ながらご先祖を守りたい」と思っていたら、両親があまり喜ばないのです。当時の僕は愛知県小牧市で内装の仕事をしていました。それまで仕事も順調にいっていたものですから、生きていくには十分なお金がありました。それで、これから両親のもとで暮らしながらこういう心を人々に伝えていく人生を歩もうと思って、半年くらい両親のもとにいたのですが、次第に両親が悩むようになったのです。40歳は若いですよね。いい若いもんが仕事もしないで、毎日箱の上に土を入れて種を蒔いているのです。何をやっているのかといったら、花の種を蒔く勉強をしていたのです。「お宅の息子さん、病気なのですか?うつ病になって、リハビリで家に帰ってきているのですか?」という感じ(一同、笑)。世間様にどう説明していいのかという親の気持ちは分かると思いました。

そして、そこでもう一つ僕は気づきました。自分は最高の親孝行をしようと思っていたのです。普段から求めている心は、世のため人のために生きていくはずだったのです。ところが、知らない間に自分の両親、自分のご先祖様のことが主になっていました。そのことを両親は教えてくれたのだと気づいたのです。親孝行や親切も、相手が望んでこそ初めて親孝行や親切になります。押しつけては不幸を生むことになると気づいたのです。そして、仲間の待つ小牧に帰ってきました。そこで今ここでともに暮らしている創設メンバーの人たちに伝えました。僕は結局、世のために生きると言っておきながら、自分の身内、親、先祖のことを優先に考えていたこと。人の喜びを自らの喜びとするのが菩薩の生き方だと言っておきながら、自らのことを優先していたことを伝えました。その反省から富士山麓での生活を決意しました。そして、それが今世の故郷からの出発だったのです。

僕は30歳で心の道をいただくようになりました。さかのぼって、19歳の時に頭の上におばあさんが座っていることに気がつきました。この人は僕が15歳の時に亡くなったおばあさんです。この方は一般の宗教でいう守護霊さんという存在でしょう。私たち子孫に色々な利益をもたらしてくれる存在です。ですから、僕にも仕事のことや色々な人間関係の中で、僕の努力以上に良いことを引き起こしてくれるのです。それは僕がそれにふさわしい人だったからです。子どもの頃から両親のことを大切にし、そしてご先祖様を敬う心が強くありました。そういう不思議な子どもでした。だからこそ、おばあさんが亡くなった後に、大事な子孫に対して先祖を代表して僕を守りに来てくれていたのだと思うのです。それはありがたいことです。

でも、今はそのようなことを全く歓迎しません。もしもおばあさんが今僕の上に現れたら、僕は伝えるでしょう。「ばあちゃん、自らに近いものを大事に想って、いつまでも後ろの方を向いていないで、まっすぐ前を見て次の自らの生き方に向かって、魂磨きにまた地上に降りておいで。そして、いずれ綺麗な心になって昇天する道を歩んでください。それが守護神であっても、そういった特定の人間の欲を叶え利益を与えるような神が存在するから、御利益宗教がいつまでも地上にはびこるのです」と。でも、その当時はそういうことを「ありがたい」と思っていました。僕もそういったレベルだったのです。そして、ご先祖様のおかげで商売は順調良くいきました。色々ありましたが、僕の努力以上のことが叶った時代だったのです。

そして、30歳の12月26日のことです。僕の頭の上にいたおばあさんに代わって、知らない男性が頭の上に現れたのです。そこから心の物語・木の花ファミリー物語が始まりました。本当はもっと前からあるのでしょう。実際には5年ほど前にのりちゃん、れいちゃん姉妹には出会っていました。その後じゅんじマンやはるちゃんにも出会いました。そんな中で僕の頭の上にいたおばあさんの代わりに現れた男性が、のちに黄金の仏となって僕の上に現れるのです。それがみなさん良くご存知のお釈迦様だったのです。。。(いさどんは目に少し涙を浮かべています。)その時のことを思い出すと言葉に詰まってしまいます。それから9年間、この道についての学びをいただくことになりました(みんな、静かにいさどんの言葉に耳を傾けています。)この学びの物語は、簡単に言葉で表わすことは出来ません。いつか改めてそのための機会があると思います。

僕はこの道をいただいてから29年になります。そして、世の中の不幸な人たち、問題事に出会った人たちの話を聞いて、問題事の奥にある意味を学んできました。そんな中で人の在り様を見て、それを活かしていくことを教わりました。ですから、お医者さんや心理学の世界で人の心を研究している専門の人たちでも理解出来ない心の仕組みを捉えることが出来るようになりました。これはどこかで学んだものではなく、この世界で他にはない方法であり、天からいただいたものです。それがあるからこそ、心身の病気や人々の行き詰まりがどこから来るのかということを僕は伝えることが出来るのです。そして、それが問題事なのかといったら、問題事は私たちに問題事の種があることを教えてくれるものです。問題事を避けて通る人は、常に問題事とともにあることになります。人生は常にひとつのことを克服すれば、新しい問題事がその人の前に現れてきます。それはその人に問題事の種があるからです。学習してそれを取り去った時に、病気でも何でもそうですが、その問題事は消えるものです。そういったことを学ばせてもらいました。

そして、その出会いから1年後に僕はお釈迦様の故郷へ行くことになりました。師匠の吸った空気、嗅いだ匂い、そして踏んだ土、それを体感したいと思ってインドへ行ったのです。でも、あの方はもう二千数百年前に亡くなってしまいました。僕のインドの旅は2週間ほどの旅だったのですが、毎日泣いていました。インドに着くまで全く気づかなかったのですが、インド行きの飛行機の中で同乗した添乗員に、なぜ自分がインドに来たのかという話をしていたのです。そうしたら、そろそろカルカッタですという機内放送が流れて、その時僕は「ところで今日は何日ですか?」と添乗員の田中さんに聞いたのです。「今日は12月26日ですよ」と彼は答えてくれました。12月26日はその方が自分の頭の上に現れた記念日なのです。誰もそんな計算をしていないのに、その記念日の日にインドのカルカッタ空港に降り立つことになりました。

そして、飛行機の扉が開いたのでした。その時にふぁーと吹いてきた風とともに出会ったその空気の匂い。その時に僕は何を感じたかというと、「帰ってきた」という想いです。今までの自分が懐かしいと思う経験の中ではもっとも強いもので、「久しぶりに帰ってきた」という感じがしたのです。そして、その時に僕はわかったのです。自分が過去にインド人だったことを思い出したのです。それからインドの旅をしました。その旅はブッダの聖地巡りの旅だったのです。行くところ行くところで、自分がそこにいたことを思い出す旅をしました。

今、僕が相談に乗る時には自分の中から話が湧き出してきます。僕が話す話で、僕自身も初めて聞く話をすることがあります。しかし、それは新しい話ではありません。僕の中には記憶の奥にある無限の泉があるのです。その中に折りたたまれている記憶がよみがえってきているだけなのです。だから、それは過去の事実なのです。そして、その記憶のもとに想いが湧き出てくるのです。その時も故郷へ帰ってきたという強い想いが湧き出てきました。それは、僕が今回日本人として生まれてきて、30年ちょっとこんなに強い郷愁を覚えたことはなかったことでした。「インドは私の故郷なんだ」と気づいたのです。それと同時にわかったのは、「僕はあのヒマラヤの標高が高いところで、長い間暮らしていたことがある。それから何回か人間の体をいただきながら、今回日本人として生きている」ということがわかったのでした。そしてその旅が終わり、日本に帰ってきました。

そして、いつの頃からか記憶にないのですが、毎日夜になると星が気になり出したのです。たった一つの星が気になるのです。その星がいつも僕の気を引くのです。チカチカチカチカしながら。それは風の作用でチカチカなる、そういうものかなと思ったのですが、そのチカチカが僕の心を引きつけるのです。それで、いつも気になるからその星を見るようになりました。そして、ある時それをジィッと見ていたら、その星に無償に郷愁を覚えるのです。その懐かしいと思う郷愁の強さは、あのカルカッタの空港で感じたものよりはるかに強いものでした。僕がインドで感じた郷愁よりもはるかに強いものがその星から感じられるのです。「この感覚は何だろう?」と思い、それをずーっと見ていました。そうすると、その星が何かを僕に言っているのです。何かを伝えてきている。「何を言っているのだろう?」と思っていました。

はい、ここでみなさんに質問です!その星は僕に何を言っていたでしょうか?

ちなっぴ:
早く帰ってキンセイ(一同、笑)!

いさどん:
その星は僕に、「早く帰ってキンセイ。早く帰ってキンセイ」と言っているのです(笑)。「あの星は何という星なのだろう?」と思っていたら、金星でした(一同、笑)。だから、「早く帰ってキンセイ」と言っていたのです。僕はその時に気づいたのです。「僕はあの星から来ているのだ。あの星が故郷なのだ」と確信しました。僕は以前インド人であったことを確信していましたが、でもその前はあの星から来ているのです。そして、今間違いないのは、僕は岐阜県の美濃市というところで生まれた。これも確信です。今、3つの故郷のことを言いました。

最近、僕はこの体の中にいることを不自由に感じています。だから、いつも死にたい願望があるのです。でも、自殺のような死にたい願望ではありません。この体の中にいるのが不自由で仕方がない。だから、いつでもこの体を返上したいと思っています。しかし、その時はまだ来ていません。今回生まれてきた目的があるからです。その約束は果たさないといけません。それは自覚しています。ですから、自殺するようなことはありません。でも、もし神様が僕に「おまえの願いを一つだけ叶えてやる」と言われたら、私には一つだけ願いがあります。それは、この体をお返ししたいということです。しかし、それは今は出来ないのです。僕が今回生まれた目的を果たすことが条件ですから。そのことは理解しているのですが、相変わらずそんなことを想っているわけです。それが強くなって、今回脱皮したいということを言っているわけです。

そして、これから僕の故郷、金星の話をします。僕には、以前より金星が自分の故郷であるということがわかってきました。でも、「自分がその故郷にいた頃、どうやって生活をしていたのだろう?そこにはどういう人々がいるのだろう?」ということまではわかりませんでした。これはみんなに話していないことですが、僕はヒマラヤで暮らしている頃の自分がどういう生活をしていたか、ということを知っているのです。それはまた別の機会に話をするとして、今日はもう一つの故郷、金星の話です。僕の田舎です。そこには車はありません。テレビもありません。家もないのです。僕の故郷にも大気はあります。地球の大気は何となくブルーですね。地球を外から見ると青っぽいじゃないですか。私たちが地上にいて見てもブルーに見えませんが。この大気が金星ではもうちょっと濃いのです。物理的にも太陽に近いところにあります。ただ、地球とはちょっと仕組みが違います。それは物理的な要素が優先されているところではないのです。霊的な要素が優先されているところなのです。宇宙はすべてそういった世界ですね。3次元で生命の形を取っているのは、今のところ地球だけだと思います。わざわざそういうふうに創ったのです。金星も物理的生命の世界ではないのです。ですから、金星にも人々はいます。僕の金星の家族というのは、あのウルトラマンに出てくるようなウルトラの父とかウルトラの母とか、そういうものではありません。でも、お父さんやお母さん、兄弟のような人はいます。

みんな:
・・・?

いさどん:
これからちょっとイメージしてみます。自分がいるでしょう?この自分の中にある自分が大きくなった。そうしたら、この器をパッと脱いで、そしてヤドカリのように新しい器をもらうでしょ。そういうスタイルとか、もう一つは自分が大きくなっていって、自分というものを形成するよりも余分なものが出来たら分裂していくのです。余分なところを切り取って、離してやるのです。そうすると、それが大きく育っていきます。クローンみたいなものです。すると、これは親子とも言えるし、兄弟とも言えるし、同じものとも言える。僕の田舎にはそういう人々がいます。わかるかな?宇宙にはそういう人々や生活あってもおかしくないでしょ?そういう人たちが故郷にいるとして、僕は単身赴任で来ているから、かみさんや子どもたちのような人々がいるのです。どの人もすべて身内なのです。

大気はピンクです。地球はブルーの星でしょ?それに対して金星はピンクです。鮮やかなピンクではなく、ちょっと爽やかなピンクです。そういった世界に人々はいるのです。その生活は地球とはちょっと違います。私たちは肉体と魂のセットになったものです。金星は3次元世界には生命のない世界です。ということは、肉体のない状態です。魂の存在だけです。そこで、暮らしている人々の姿をちょっと説明してみますと、ある人は楕円の縦長で、背の高い人は4メートルぐらいあります。細くて長いです。ある人は3メートルくらいでちょっとメタボかな。ひょろっとしている人もいれば、ちょっとメタボかなという感じの人もいます。私たちにはひとりひとりに個性的な表情があります。ところが、この人たちは顔を持っていません。足も持っていません。でも、個性はあるのです。どういう個性を持っているのかというと、色と先程の形です。その色が面白い!全部「虹」で表現されているのです。地上の虹というのは光が屈折して七色に変化します。これは霊的な世界でも物理的な世界でも同じです。そして、金星でも地球でも同じです。

今、私たちには肉体があります。そこから肉体を取っても、いきなり魂になるわけではないのです。肉体から魂(肉体の生命力)が抜けると肉体生命との縁が切れるから、肉体はすべて消滅して自然に還ります。私たちが通常生きている状態では、肉体の内側には幽体というものが形成しています。そして、その中に霊体というものがあって、その中心部分に私たちの元になる光の設計図があります。これは生命の完成されたものです。光の設計図ですから、宇宙の創造主が設計したもので完璧な姿をしています。それに基づいて肉体が形成されているのです。僕は今肉体人間です。たまたま指を落としてしまいましたが、これは物理的に指がないだけで、幽体、霊体の世界では指はあるのです。だから、僕が死んだとしても、幽体、霊体の状態でみんなの前に現れることは可能です。これはイエスの復活と同じです。その時には完璧な状態で、髪の毛もふさふさなのかは知りませんが(一同、笑)、その人が一番エネルギッシュな状態で現れます。僕の場合は今のこのままの姿かもしれません。

僕の故郷の人々は肉体を持っていませんから、いきなり幽体、霊体の世界です。幽体、霊体の状態を幽霊と言うでしょ?幽霊には足があるのです。完璧な姿なのです。その幽体、霊体というものが何で出来ているのかというと、わかるかな。例えば4メートルの背の高さの縦長の楕円形の人がいたとします。それは幽体の姿です。私たちにはそれにふさわしく肉体が形成されているわけですから、肉体がなくなっても霊体はあり続けるわけです。だから、死んでも健康な状態で出てくるのです。死んだ時に血をだーっと流していたり足がないという姿は、不健全な状態です。健全な幽霊は健康体です。肉体から解放されているわけですから。みんなは不健全な幽霊ばかり考えているけれど。うちの田舎の人たちの体は虹で表現されているのです。虹が横にチチチチチチッと表現されているのです。だから、七色になっているわけです。普通、地球上の虹というのは円形状に七色で出来ています。でも、僕の田舎の人々の姿を形づくっている虹は、虹が細かくみじん切りの状態になり、連なって体のまわりにある感じです。

みかちゃん:
プリズムシートで光見ると、全体がチチチチチチッとなっているよね。

いさどん:
そうそう!そういうイメージだと思ってください。つまり、もとの材料は光です。大気がピンク色のところに、ちょっとオレンジっぽいような、ちょっと黄色っぽいような、ちょっと赤っぽいような違いがあるだけです。薄いブルーもあります。黒いものとか、地球でいうネガティブ的な色の人はいません。ずんぐりの人がいたり、のっぽがいたりということです。

そこでお話しするわけです。対話をする時にその人の方を見るでしょ?名刺はありません(笑)。ぱっと見ると、「あなたはそうですね」、またこちらを見て、「あなたはそうですね」ということです。話さなくても姿を見ただけで、どういう人かわかります。音声ではないのですが、音声に変えると、「ブッ」「ブッ」「ブーン」「ブーン」「ブッ」と、なかなかリアルには出来ません。上手に出来ません(一同、笑)。でも、そうやってここの世界でも話せない?言語をやめてね。(「ブッ」「ブッ」といさどんはみんなに話しかけてみます。みんなも真似してみますが、なかなか難しそうです。)でも、こんなに不自由なものではありません。それで、話す時に光の強弱でバッ、バッと反応するのです。これは音声ではないのです。空気で伝導しませんから。光がザッ、ザッと振動するのです。それは音にしたら今のような不細工なことになって、イメージが壊れるのですが(笑)。それが僕の故郷の人たちです。

ともちゃん(書記):
あっ!データが消えちゃった(一同ざわめく)!

いさどん:
どうも話がぶっ飛び過ぎで、パソコンが飛んじゃったみたいです(笑)。でも、録音しているから大丈夫!さらに田舎のことを思い出してみると、自分の中の記憶が湧いてくるのです。僕は今ここの地球で変わりものでしょ?変わりものというのはある意味では良いかもしれないけれど、ある意味では孤独なところもあるのです。だから、こうやってここに変態ばかりを集めて(笑)、孤独じゃない世界をつくっている。一般社会に生きていたら、孤独になっているでしょう。僕はさみしがり屋ですから、同じような変態を集めて仲良し社会を創らないと寂しくて仕方がないのです(一同、笑)。

どうも向こうでも僕はあの人たちに馴染めなかったようです。「あなたたちは何が毎日楽しいの?」と。つまり、あの人たちは喜びを持っていない。そのかわり、悲しみもない。ただただ素晴らしい。素晴らしい、本当に素晴らしい世界!ブッダやイエスそのままの人ばかりがいる。そんなところで暮らしてどう思いますか、みなさん?

みかちゃん:
わからない(笑)。

いさどん:
わからない?例えば想像してみて下さい。そこで毎日暮らしていたらどうですか?

ちなっぴ:
素晴らしいだけで感動がなさそう。

いさどん:
でも、素晴らしい。素晴らしかったら感動するはずじゃない?しかし、私たちが素晴らしいとか感動するというのは、つまらないことを知っているからです(一同、頷く)。辛いことを知っているから、素晴らしくないことを知っているからでしょ?だから、ここには喜びが沢山あるのです。あそこは素晴らしい世界です。本当に素晴らしい!多分、宇宙はそういうふうにしてほとんど創られているのです。なぜ宇宙は始まったのか、なぜこの世界を創り出したのかという話ではその物語が出てくるのですが、そのままの物語が金星にも火星にもあって太陽にもあります。それぞれ個性は違うけれど。そこにいる人々にはそれぞれにふさわしい人柄というか、人類柄というか、星柄というものがあるのです。

僕はそこで思い出したのです。「そういえば、つまらなかったなあ」と。この世界を創造された神様も、はじめは一つだけだった。偏った一方の世界だけだったのです。それは完璧だから、つまらなかった。この世界は陰陽のバランスで出来ています。すべては相反する二つによって創られ保たれています。陰と陽は50:50の関係ですが、先にあるのは陰の方です。陰(魂)がもとになり、それにふさわしく陽(物質)が形成されていきます。聖書の言葉に「はじめに言葉ありき」とありますが、言葉は言霊であり陰のことを指します。はじまりは想いだけであり、物理的なことはなかったことになります。その陰だけの世界から物理的世界(陽)が生み出されてきたことになります。

そうすると、私たちの世界は観えない想いによって創られているわけです。創られた世界(陽)と想いから生み出す世界(陰)。想いの世界だけでは片方の世界なのです。善意、愛、調和(陰)の世界。幸せはそこにないのです。喜びもそこにはないのです。僕はその世界はつまらないと思っていたようでした。そうしたら、「おまえは劣等生ではないか(そこでは劣等生というものはなく単なる個性なのですが)。劣等生としてその個性を活かしてきなさい」ということで、1000年ほど前に地球に派遣されて来ました。それで、まずはインドに降り立ったのです。今回の派遣はとりあえず1000年契約です。時給がいくらかは知りません(一同、笑)。年給かもしれませんが、給料は多分ないと思います(笑)。「役割をしっかりと果たした」ということでおそらく何かはあると思うのですが。向こうでも馴染めなかった。僕がそれを間違いとしてではなく、愚かさとしてでもなく、「個性として役割を果たしてきなさい」ということで地球に来たのです。向こうの貴さをもとにして、ここにある喜びを表現すること、それが役割です。ここには喜びがあり、幸せがあるのです。そして、喜びや幸せがあるということは不幸がもとにあるということです。だから、両方がセットになっているのです。喜びも不幸も超越した一方の世界へ行きたいのなら、僕の田舎に行けばいい。それで、いつぞや故郷のことを思い出し、向こうは「帰ってキンセイ、キンセイ」と僕を呼んでいることがわかりました。最近になって、僕はそろそろこの殻を脱いで自由に世界を旅したいと思うようになりました。スペースシャトルはいらないのです。このままで行けます。

この世界は想いで出来ています。自分の中に「今日はお酒が飲みたいな」とか、「パチンコをやりたいな」という想いがあったり、いつも子どものことやお金のことばかり考えていたりすると、未来にその世界が展開されるのです。それがこの世界です。私たちが想ったことが起きるのです。その究極は核融合です。太陽の中には核融合が起きていて、毎日、水素爆弾、原子爆弾の爆発が起きているのです。そして、そういう世界を人間は頭の中で描いたのです。現実に兵器にして戦争のネタにしているのです。そんなことも出来るのです。つまり、私たちが想うことは何でも出来ます。パソコンでも携帯電話でも、全部私たちが頭の中で描いたことなのです。そこで想うのは、自分の中から湧き出る無限の記憶。それが過去をよみがえらせてくれるのです。故郷のこと、そこでどうだったのか、そしてここへ来てどうなったのか、心の旅はどうだったのか等です。

その結果、次のステージはどうしようかと考えていて、「旅行に行きたいな」と思ったわけです。その時に、「自分の故郷だけではなくて太陽系を旅したい」と思ったのです。それは可能だと思ったのです。普通の人々は地球由来の人たちですから、地球で肉体を終わると宇宙空間、地球の外側に行き、そこのどれほど高い位置にいるかによってまた下がったり上がったりするのです。外から来た人々は元いた惑星に戻ります。僕は「故郷には合わないから、違う惑星に行きたいな」と思うようになりました。

そこで今日の「銀河の旅」の話になるのです。いやいや待て、太陽系なんてそんな狭いことを考えなくても、天の川銀河だけでも200億もの恒星があるのです。その一つ一つに惑星があるのです。そこには私たちのような3次元世界の生命世界はほぼありません。そういう世界が現実にあって、3次元世界の思考ではこの宇宙は理解出来ません。その思考の延長に「太陽系を抜け出してしまおう!」と、宇宙雲のイメージが湧いてきたのです。「銀河から銀河へ旅しよう!」ということを考えていました。僕が「銀河の旅へ行くよ」と言ったら、ようこちゃんが「私も行こうかな」と言いました。ここにいるみんなは「一緒に行きませんか?」と言ったらどうしますか?

みんな:
行くー!!

いさどん:
今日のゲストの方、このとんでもない話はいかがですか(笑)?なかなか初めて出会ったゲストにこういう話をする人はいません。ここが怪しいところと思われるだけですから(笑)。僕は5月にお葬式をします。そして、物理的な目的のもとに日々を生きないという生活をしようと思っています。しかし、まだ肉体はあります。とりあえず契約はあと20年、今世の最終章です。その後どうするのかです。「ここに残るもよし、好きなようにせい」ということらしいです。それで、僕は銀河の旅に出ようと思っています。その時にみんなが一緒に行くかどうかはその時になってみないとわかりませんが、別にあわてなくても時間といったものを超越した世界ですから。多少後から来たって、最近良いナビも出来たし(笑)、いつでも合流出来る世界です。心配することはありません。

今、僕は現実世界のこの地球を自分の役割分治めているのですが、先程1000年ほど前にこの星に来たと言いました。1000年が派遣の一区切りですから、今世で僕の派遣が終了することになりますので、新たな旅に出ようかなと思っているのです。ひょっとして、みんなもそうかもしれない。みんなの記憶がそのようによみがえってくれば、そうなるでしょう。そして、人間はどうしてこの地球に生まれてきたのかということがわかってきます。今、アメリカでは何年か前から火星の地球化計画というものを立てているのを知っていますか?具体的な話は知りませんが、これは1000年かけて行なう計画です。火星の大気をつくるために地下に眠っている水を蒸発させるのです。そのことによって大気をつくり、1000年後に人類を移住させるという計画があるのです。それは物理的な体を持っていく計画ですから、非常に幼稚な方法です。

しかし、僕のシュミレーションは、人類が地球上で生き辛くなった時に、もしくは細胞分裂のような形で地球を離れる必要が起きた時や人類が増え過ぎてしまった時に、人類移住計画を考えているのです。その方法の前提として、人間が肉体人間であるという執着から離れる必要があります。離れるということはいのちを絶つということですが、絶たなくてもいいのです。自動的(自然)に抜ければいいのです。幽体離脱のように体から抜ければいいのです。そうすると肉体からの束縛から自由が得られます。肉体人間の時のように心臓が止まることはないし、呼吸に縛られ、体の機能のためには食べないといけないといったことから解放されるのです。では、何を持って存在しているのかです。それは、プラーナです。気、生命力を持ってのみ、生きている状態になります。

その状態でみんなで行くのだったら、簡単な乗り物でもつくりましょう。これは重力といった一切の物理的なものに影響されません。エネルギーは想念です。ですから、「みんなで移住しましょうか!」と旅に出るのです。「今度はどこに行こうか?」と語りながら銀河を旅していくのです。そのうちに新しい移住先も見つかるでしょう。移住先の星を見つけたら、魂たちはその星を取り囲みます。その魂たちは強い生命力の念を持っていますから、星のまわりにいてその星に念の影響を与えていくのです。そうすると、その星が変化していきます。二酸化炭素の熱い星だったのがだんだん冷やされていきます。冷やされていくと雨が降って海が出来ます。そこには色々な物質が存在しています。もし地球のようにしたければ、アミノ酸を原料にして細胞分裂させればいいのです。そうやって酸素対応型の生命の星を創ったとしましょう。その次に何をするのでしょうか。哺乳類を創ろうか?いや、やめておこう、それは前に失敗したじゃないか。二足歩行で不安定で、「不安だ不安だ」と愚痴ばかり言っていたじゃないか。四本でも安定するのだから、六本だったらさらに安定するだろう。六本足にしよう。そして、あの時失敗したのは、まず目が前に二つあるというのがまずかった。それを横にずらし、もっと広い視野にする。さらにそれをとび出させてもっと大きくして、ひまわりの花のように目の中にいくつもの目をつくったら、さあ、これを何というでしょうか?

みんな:
・・・・?

いさどん:
複眼!これで視野が広がる。さらに、今までは地上に縛られて視野が狭かった。どうしても物質的な肉体を持つと、惑星の重力に縛られることになる。だから、この重力に縛られない装置をつけよう。地上に縛られていたからこそ、地表にはいずりまわって、「何か良いことはないかな?」と下ばかりを見て、物を拾うかケンカをするくらいだった。だから、もっと視野を広く高くしたい。そして、羽をつけた。でも、鳥の羽ではだめです。鳥はバタバタと羽ばたかなければ飛べません。ちょっと休みたいとなったらそのまま真っ逆さま。これは今、人間が考えている程度のことです。そうすると、今度の私たちの魂の受け皿は何がいいでしょうか?

みかちゃん:
トンボ!

いさどん:
そう。トンボは空気を泳いでいる。だから、羽が止まっているみたいに見えても瞬間移動出来るし、ちょっと疲れたなと思ったら風に乗っていればいいのです。こういう生命が出来るのを待っていて、魂の受け皿が出来上がったら天孫降臨です。地上が収まってきたゆえ、天の神々が地上の整備のもとに降りてきた。いのち(命)は「みこと」ですから、神々のことです。天のみことが降りてくる。そして、子孫を増やしていく。今度は不調和や対立のない世界、貴い魂だけが降りて、イエスやブッダばかりの世界を創ろうと。しかし、そうするとまた「つまらないなあ」ということになるのでしょうか(一同、笑)。「また旅に出ようか」と(笑)。そうやってどんどん繰り返して、きっと私たちの先祖も、「あの失敗はもうやめようか」ということになったと思うのです。そして完璧を目指したのです。それは一方の世界でした。それでここに来て、あの故郷を思い出し、「あの完璧はやめておこう」となって、またこの失敗作を創って今、楽しんでいるのかもしれない(笑)。

さて、私たちは今、銀河にいますよね。さっき、「銀河の旅に行く人!」と言ったら、みんな手を挙げました。でも、今この瞬間もその旅の途中なんじゃない?私たちは現在銀河の旅人なのです。10億年先だか30億年先だか、50億年先だか、次の旅立ちは来るでしょう。その時には、ぜひまたみんなで一緒に旅立って、新しいフロンティアを楽しみたいと思います。とりあえず今、いかに私たちが面白く広い世界にいるのかということです。今日はそういうことをみんなに伝えたいと思いました。これについて話をしていると、私たちの心は広がっていきます。そして、大晦日どころか、来年1年中でも話してしまいそうです(一同、笑)。また、この仕方のない話を聞いてくれるみんながいるからこそ、僕もまだここにいて生きがいがあります。誰も聞いてくれなくなったら、本当にこの殻を破って「さようなら!」と行きたいところですが、付き合ってくれる沢山の変態たちがいるから、僕は地球上にいてまだうつ病にならずにすんでいます(一同、笑)。こうやって話しながら、「僕は幸せものだ。まだ旅立たないぞ」という確信を持ちました。とりあえず、今日の話はここまでにします。どうもありがとうございました(一同、拍手)。

みかちゃん:
ここで2曲歌います!

♪岩の舟

月夜の晩に 岩の舟 人々乗せて 海へとすべり出す
人々どこからか集い来て 次々と舟にすべりこむ

人の世の海を渡る 岩の舟に乗って 夜の海をどこまでも 
雲の波かき分けてゆくよ 人々集い 人々歌う 月の宴

人の世の海を渡る 岩の舟に乗って 夜の海をどこまでも
月の光を浴びてゆくよ 月の宴

♪星がささやく
ああ 星が降る
ああ 星が降る夜
ああ 無限の星が
ああ 私にやってくる
ああ 星がささやく
ああ 星がささやく
忘れていた記憶 今よみがえる
星々の記憶が 私の中で目覚める
この宇宙のすべてが 私の中にある
星がささやく 私の体の中で
星がささやく 星がざわめく
星がささやく 星がざわめく
からだに こころに おまえが宇宙だと 星がささやく
星がささやく 星がざわめく
こころに からだに おまえが宇宙だと 星がささやく

(一同、拍手。)

―そろそろ我々も、宇宙人として地球の意識と対話して歩んでいきたい―
             宇宙人ピトピ(旧名 いさどん)


自己研鑽が足りません!

「自己研鑽が足りません!」

昨年に引き続き、今年もヤマギシ会から大勢の方がファミリーを訪れています。1泊2日のスケジュールの中で、農作業やお料理体験以外に「いさどんと座談会」というオプションも秘かな人気を呼んでいます。今回のブログではその座談会の模様の一部をご紹介したいと思います。ヤマギシ会からは、きくにい、としバァ、みのたん、こうじさん、しゅうちゃん、ファミリーからはいさどん、まり姉とようこが参加。まずは、きくにいの人生相談から座談会がスタートしました。

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

きくにい:
私には2人息子がいて、32歳の長男のことで相談があります。ヤマギシの幼年から高等部まで出た子なのですが、性格的には優しい面もあるし親想いの面もあります。ただ、仕事があまり長続きしないということがあります。

いさどん:
今はどこにいるのですか?

きくにい:
今は村にはいなくて、三重県に住む女の子のアパートで同棲をしています。

いさどん:
同棲は何年くらいになるのですか?

きくにい:
もう1年くらいになると思います。その前は千葉で一人暮らしをしていました。

いさどん:
その頃は自分で働いて暮らしていたのですか?

きくにい:
はい。1年半か2年くらい、宅急便か何かの会社に勤めていました。それで、その会社をやめてからしばらく働かない時期が続き、家賃も滞納するようになったのです。保障会社から「息子さんは家にいてもなかなか出てこないから、家賃も払ってもらえない」という連絡が、親である僕のところに来るようになったのです。それで、こちらも息子に連絡を取ってみることにしました。最初の頃はメールの返事がありましたが、そのうちまったく連絡がつかなくなって、電話しても出ないしメールを送っても返事が来ないし、「これではいかん」と思い、保障会社の方に息子の住所を聞いて会いに行くことにしたのです。

いさどん:
それまで息子がどこにいるか知らなかったの?

きくにい:
千葉にいるということは知っていたのですが、住所まではわかりませんでした。それで居所をつかんで息子に会って話をしたのです。その時の生活状況を見たらお金もほとんどなく、「このままでは生活が出来ないから村に帰って来い」と話しました。そして、2回目に会いに行った時に引っ越しをしてこちらに息子を連れてきたのです。後になって本人は、「本当は帰って来たくなかったけれど、親が来いと言うから嫌々来た」と言っていましたが。

そうして僕と一緒に1ヶ月くらい暮らしていたのですが、そのうち外でのアルバイトで出会った彼女と知り合い、彼女の家にちょくちょく泊まるようになってこっちに帰って来なくなったのです。結局、部屋は確保してあるけれど本人は帰って来ないので、ついこの間部屋を整理して、その部屋に今度結婚する人が入ることになりました。でも、住所はそのままになっているのです。本人には、「彼女のところに同棲しているのだから、彼女のところに住所を変更するように」と言っているのですが、「わかった」と言いながらなかなか行動が伴わないというのが現状です。今はアルバイトもやめて、また無職の状態でいます。

いさどん:
彼女は働いている?

きくにい:
はい。だから、彼女に食べさせてもらっている状態です。それをこれからどうしていったらいいのか。息子にメールを打ってもなかなか返ってこないし、今は居場所も教えてくれないという状況です。

いさどん:
ところで、あなたは息子がどういうふうになったらいいと思っているの?「これなら自分が心配しなくても大丈夫だ」というのはどのようになったらよいのですか?

きくにい:
普通に働いてもらって、自立して生活が出来ていれば、それが親が望むところです。

いさどん:
今、「普通」という言葉が出てきましたが、普通って何だろう(笑)?

としバァ:
今、ちょっと引っかかったことがあってね。子どもに「自立してほしい」と言っている父親の方が実は自立していないんじゃないの?私はきくにいのことをちょっと知っているからね。

いさどん:
さすがとしバァ!面白い観方をしますね。

としバァ:
村でも、みんな子どものことを色々と話すけれど、私は全部その人のことだと思って聞いているからね。「それってあんたのことじゃない?子どものことじゃないよ」とよく言うの(笑)。ちょっときついかもしれないけれど、そういうふうに反対に聞いてみる。「あんたは自立しているの?自立と自力は違うよ」って。子どもの問題じゃないと思っている。

きくにい:
実は、僕もそう思ったんですよ(笑)。木の花ファミリーに来て、「問題の種は自分の心の中にある」と気づいたのです。その種を取り除かない限りは、姿形を変えてまた問題が起きてくると。

いさどん:
その話を始めたら、もうアドバイスはいらないね(一同、笑)。

きくにい:
ここに来て、そうやって言われましたから(笑)。

いさどん:
これは法則だからね。「誰かが言ったから」というものではなくて、この世界の法則なのです。

きくにい:
だから、「子どものことはやはり自分の問題なのかな」と思ったのですが、ちょっと相談してみたい気持ちもあったものですから。

いさどん:
自己研鑽ですよ!

みのたん:
僕はきくにいの息子さんの話をヤマギシの研鑽学校で聞いていました。

いさどん:
そのことはみんなのこととして取り上げられているの?

みのたん:
きくにいがその話題を研鑽学校で出したので、知っている人は知っています。今、きくにいがここでもその話題を出すということは、まだそれが解決されていないということだよね。

きくにい:
解決されていない。

としバァ:
自分をちゃんと研鑽していないんじゃない(きくにい、苦笑)?それなら何のために研鑽学校に行ったのかわからないわね(一同、苦笑)。

いさどん:
僕はそういう話の相談に乗るのが得意なんですよ(笑)。ちょっと聞きたいのは、彼は今32歳でしょ? ヤマギシでずっと育って、いくつで社会に出たの?

きくにい:
はっきりとは覚えてないのですが、24、25歳です。

いさどん:
それまでは何をしていたの?

きくにい:
千葉に友達がいて、その友達を頼って新聞配達を始めたのです。その友達も新聞配達をやっていましたから、その子の紹介でね。でも、うちの子はねぼすけなんですよね。

いさどん:
新聞配達でねぼすけ(一同、笑)!それでは最初から適性検査ではねられてしまうんじゃない(笑)?でも、ねぼすけを直すために新聞配達に行く人もいるからね。

きくにい:
それでよく遅刻をしていたらしくて、結局そこはクビになりました。

いさどん:
クビになるということは良いことですよ。社会というものがどういうものなのか、それだけ覚えるわけでしょ?それで僕が聞きたいのは、彼が32歳になるまでそういった歴史があるわけです。きくにいはいきなり今の同棲の話からしたけれど、そこで問題が発生しているわけではないはずです。

きくにい:
もっと小さい時からということですよね。

いさどん:
そうそう!そこのところに原因があるはずなのです。そして、本当はもっと前の段階、彼が育っていく時の人間形成がどうだったのか、そこから社会に対してなぜ不適応になっていったのか、ということを観ていく必要があると思うのです。

きくにい:
心当たりはあります。

いさどん:
あるでしょ(一同、笑)!それがあるのに、いきなり結果である問題の話から始めるものだから、僕としては答えようがなくなってしまいます。そこには自分の性格が表われていると思いませんか?

きくにい:
はい(笑)。そう思います。

いさどん:
それなら自己研鑽すればいいじゃないですか(一同、笑)!ヤマギシには研鑽学校というものもあるのだし、そこで研鑽することをマスターすれば、日々の中で自分がそれをやっていけばいいじゃないですか?僕は冷たいかな(笑)?

きくにい:
いや。。。

としバァ:
当たり前のことよね。

いさどん:
としバァはそう言うけれど、出来ない人もいるんだよ。

としバァ:
やろうとしていないだけじゃない?

いさどん:
やろうとしていないだけだって(笑)。それと僕が想うのは、32歳の息子が千葉のどこで暮らしているのかわからない。結果として向こうから連絡があったとしても、それは親のことは忘れられているということだよね。忘れられているということは幸せなことでもあるのです。息子が何をやっているにしろ、親が色々な事情を知らなくてもいい状態で暮らせているということだから。世の中には四六時中子どもを監視しないといけない状態にいる親もいるのです。

息子が彼女と同棲しているというのも、彼女を見つけられない男の子もいるのです。それに働くことがあまり長続きしないと言っていたけれど、ヒモになっているのは甲斐性!それで食べられているのは大したもの、という観方もあるよね。そう考えると、息子は上手に生きているじゃないですか(一同、笑)。

きくにい:
ただ、さっき言ったように家賃は滞納しているのですよ。

いさどん:
滞納しているお金は息子にその支払いをさせればいいじゃないですか。別にきくにいが保証人になっているわけではありませんよね。

きくにい:
はい。

いさどん:
あなたは息子の人生を自分のものにしているけれど、息子の人生を息子に返したらどうですか。それって、所有ですよ(一同、笑)。最近、春日山ではともちゃんが醤油をつくろうと言っているんでしょ?

みんな:
・・・?

いさどん:
それはどうでもいい話。醤油と所有をかけただけだから(一同、爆笑)。僕に相談して来る親御さんに結構子どもを所有している人がいて、「こうであるべきだ」と子どもに接する人もいるのですが、「子どもの人生は子どもに返してあげなさい」と僕はいつもアドバイスするのです。

今、きくにいは息子のことだけ話すけれど、きくにいの奥さんの存在が息子との関係の中で全然出てきません。そうすると、この夫婦関係はどうなのかということが僕にはピンとくるのです。まずはこの夫婦関係から子どもの人格は形成されてきているのです。それでも、この息子は親に極端に依存しているわけではありません。

きくにい:
はい。どちらかというと、親から離れたいのだと思います。

いさどん:
つまり、きくにいは依存していない息子に対して、「おまえ、それでいいのか」とちょっかいを出しているのです。世の中にもっと病的な親子関係があるのだとしたら、この息子は結構自立心があると思うのです。それを評価していない。これは、やはり研鑽学校の学びが足らないということです。もう一回受け直してみたらどうですか(一同、笑)?

僕は通常相談に乗る時には家系図を書いてもらって、まず相談者がどのように育ってきたのか。その次に結婚していれば配偶者がどのように育ってきたのか。そして、当人の人格はどういう人なのか、配偶者の人格はどういう人なのか。夫婦の相性はどうなのか。そこでどういう心の環境が出来て、どういう子どもが出来たのか。その子どもの人格はどうで、親の影響をどう受けているのか。その関係の中で引きこもりやうつ病、社会に適応しない子どもになるのかを見ていくのか一般の相談の場合です。

でも、ヤマギシの人には「研鑽する」というベースがあります。そうすると、本来はそういうノウハウを持っていて、学びの中で自己研鑽が出来ているはずなのに、それが出来ていないということなのです。つまり、きくにいは怠慢ということです(一同、笑)!自己研鑽が怠慢ということです。

きくにい:
ずばり、その通りだと思います(一同、笑)!

いさどん:
研鑽学校のルールに沿ってやっていけば、「僕にはここが欠けていたな。わかっていても、ここをやっていなかったな」ということが観えてくると思うのです。そうしたら、あとは実行するだけです。

ようこ:
ここで重要なのは、きくにいの心の中に問題を引き起こす種があるということ。だから、ここで形に捉われて「今、息子との関係に執着があるから、息子と離れればいいんだ」とそれだけをやると、心の中にはまだ問題の種が残っているわけだから、今度は心の病になったり他の人間関係でトラブルが起きる可能性も出てくる。だから、息子との距離という物理的なことで終わらせないで、まずは自分の心の性質を知りそれを健全な方に持っていくという根本を変えていけばいいと思います。

いさどん:
それは木の花研鑽学校に入らないと結構難しいよ(一同、笑い)。それをここでは毎日やっています。今日自分に出てきた不満や、自分の中に湧いてきた想いが何だったのかということを毎日紐解く。きくにいのような心の状態で日々を生きるということは、ここではありえないのです。つまり、きくにいがそういう想いを持っているということは全体の問題だから、本人がそのままにしておいても、まわりがほっとかないのです。「今日、きくにいはこんなことを言っていたよね。本人が出さなくても、それってちょっと問題じゃない?」と出してくれるのです。それは木の花の良いところです。

まり姉:
基本的に自己研鑽は自分一人では出来ないと私は思っているから、みんなに「お願いします!」と委ねています(笑)。

みのたん:
ほっておくというのもありますよね。

いさどん:
それは一番大切なことなのですが、最初からほっておいてはダメなのです。味噌でも醤油でも仕込んだ後にそれでそのままほっておくのかといったら、醤油だってかい入れをするし、味噌だったら半年に一回くらい状態を見ます。だから、ほったらかしではダメなのです。仕込んでほっておいても、途中でちゃんと様子を見る。つまり、ただほっておくのではなく、熟成させながら見守ることが必要なのです。

だから、この場合の「きく味噌(一同、笑)」はいじくり過ぎています。それではダメなのです。きくにいは息子のことを変にいじくり過ぎているんだよね。頭がまわり過ぎるでしょ?

きくにい:
いや、まわらないと思いますが。

いさどん:
それはまわっているのだけれど、適確にまわさず成果が出ない形でまわっているから、まわっていないと感じるのです。

きくにい:
無駄にまわしているということですね(笑)。

いさどん:
そうそう!「息子はどうしているかな?」とああでもない、こうでもないと沢山まわしていると思うけれど、歯車が噛み合わない形でまわっているのです。

ようこ:
エネルギーをまわす方向が違っているということ。もっと社会のためとか、地球のためとか、世の中の方にまわすといいと思いますよ(一同、笑)。

いさどん:
だって、全人幸福でしょ?それでヤマギシに参画しているんでしょ?でも、実際には息子のことばかり考えているじゃないですか(一同、笑)。

きくにい:
息子のことばかり、ということではありませんが(笑)。

としバァ:
世の中のことや地球、宇宙規模のことが本当に自分の中にあるかどうか、というのはすごく大事だと思う。それがない限り、子どもに想いを向けたって上手くいかないと思うのよね。本当によく考えないとダメな時に来ているんじゃないの?

いさどん:
とりあえず、今の話は自己研鑽が足りないということに尽きるのではないでしょうか。もし、自己研鑽が難しいなと感じたら、ヤマギシの研鑽学校で何をやったのかをもう一度振り返ってみる。それで解答が出ないようなら、木の花研鑽学校に入学してみる。そんなところでどうでしょうか?

みのたん:
これできくにいの問題は解決したのですか?

いさどん:
この場合は解決しない方がいいのです。木の花でケア滞在者を預かる時に、僕たちはその人の問題を解決してあげません。みんなでアドバイスをするし一緒に考えることはしますが、解決はしません。こちらが直すと依存症になるからです。それから、もし教祖がいて解答を出していたら、信者が出来ますよね。信者が出来てしまったら宗教になるのです。誰でも自分の解答は自分で持っているはずなのです。それを自らが出せる人になった時に、この世界は理想世界になるのです。医者がいるから患者がいて、でも医者がいなければ自分で病気にならないようにしたり、自分で治すことを考えるはずです。だから、解答を出してあげることが良いばかりではないのです。それでは人は育ちません。

そうすると、息子の問題は息子に返してあげるのだし、きくにいの問題はきくにいに返さないといけないのであって、もしまわりの人たちが仲良しだからと言って解答を出してあげたら、きくにいはいつもみんなに解答をもらう人になってしまいます。きくにいは息子を所有していたし、みのたんはきくにいを所有していたことになる(笑)。

みのたん:
きくにいがここでも息子の話題を出すのかと思ったので。。。

いさどん:
きくにいはこういうことが好きなのだと思います。そういう心の体質をしているのでしょう。それがこの人の中にあるエネルギーの消費の仕方なのです。さきほどとしバァが、「もっと広いことを考えたらどう?」と言っていたでしょ。例えば地球のことで悩んでいたら、きっと息子のことにエネルギーを使わなくなるのです。つまり、他のところにエネルギーを使わないものだからエネルギーが余っていて、そんなことに使っているのです。ひとりの人間が使うエネルギー量というのは、多い人も少ない人もいますが決まっているものです。それをどこに使っているかによって人生が変わるのです。もっと広く世の中のことを考えている人は、身近なことにエネルギーを使わないのです。

これからはヤマギシの高齢化についてちょっと悩んでみるというのはどう(一同、笑)?そうすると、息子のことはどうでもよくなるものです。

みのたん:
いさどんの話を聞いていて面白かったのは、人生相談のようなことから社会のことにまで話が広がるんだなということです。最初は、「この話がどういう展開になるのだろう?」と思っていたのですが。

いさどん:
僕はいつも先の展開を考えず、行きあたりばったりで現場合わせです(笑)。社会にまで話がつながるというのは、こういう親がいてそういう息子がいるということも社会の問題を創っているからです。

きくにい:
ひとりひとりがね。

いさどん:
そうです。だから、社会をどうするのかは、みなさん一人一人に託されているのですよ。つまり、社会を良くするかどうかは社会を構成する一人一人の手にかかっているのです。ヤマギシもせっかく「全人幸福」と言っているのだから、自分たちの中で自己完結せず、ヤマギシの人たちで社会についてもっと悩めばいいと思うのです。今まであまり社会のことについては悩んでこなかったでしょ?

みのたん:
今まではヤマギシのためにヤマギシを拡大させてきたという感じがあったのだと思います。

いさどん:
ここには、常にケアの人が来るでしょ。まり姉もケアのような形でここに来ているしね。

まり姉:
私は教師だったから、教師によくあるパターンでうつ的に自分で何でも抱え、おかしくなっていった。真面目と言われている人ほど潰れていくという典型的なパターンです。そして、そういう人たちがここに寄ってくる(一同、笑)。だから、ここでは社会にあるものが先取りしてやってくると言われています。

いさどん:
ここでは社会のことが訪れる人によって観えるのです。だから、常に社会を把握し社会のことを考えているのです。自殺についてもそうです。これからのヤマギシもそういうふうに変身するべきだと思います。自分たちの充実は十分出来ているのだから!僕はこの前春日山に行って、「ここは桃源郷だな」と思ったけれど、「僕もここで暮らしたらボケるかもしれないな」とも思いました(笑)。

こうじさん:
僕は今の話を聞いていてね、うちにも25歳の息子がいるのです(一同、笑)。それで、ちょっとパターンは違うのだけれど、うちの息子も3年くらい同棲しているのです。僕は普段、「自分は自分だし、他人を変えることは出来ない。だから、自分が変わっていくしかない」という想いがあるのですが、今のいさどんの話を聞いていたら、「やっぱり俺は息子を所有しているんだ」とわかりました。

いさどん:
昔、こうじさんも同棲していなかった?

こうじさん:
いや、していません。

いさどん:
僕は同棲していたよ(一同、笑)。同棲時代!神田川の時代です(笑)。

こうじさん:
うちの息子は普通に働いて暮らしているのだけれど、ぼつぼつ身を固めたらいいんじゃないかとどうしても思ってしまうのです。うちの女房は「本人のことだからそんなこと言っても仕方がないでしょ」と言うのですが。

いさどん:
女房の方が賢いですね(一同、笑)。

こうじさん:
というふうにも思うのだけれど(笑)、やはり僕としては籍を入れずに中途半端なままでいいのかなという想いもあるのです。

いさどん:
あなたは決めつけが激しいですね。

こうじさん:
そうだと思います(笑)。

いさどん:
息子は息子の人生だし、自分だって親の言う通りに生きてこなかったでしょ?

こうじさん:
はい(一同、笑)。

いさどん:
それって、やはり自己研鑽の対象だよね(笑)。

きくにい:
自己研鑽したらどうですか(一同、爆笑)?

まり姉:
要は、同棲ではなくて2人が籍を入れたら悩まないということですか?

こうじさん:
まあ、わからないけれど、そうですね。

いさどん:
それって古いよ。大正時代の話だよ(笑)。

としバァ:
一緒に住んでくれる人がいるだけありがたいじゃん。

いさどん:
それと、一緒に住んでいたって籍を入れないといけないというルールなんてどこにもない。

こうじさん:
でも、籍を入れていなくて2人が別れた時に、相手がどのような気持ちになるのかなとか。。。

いさどん:
つまり、彼女の方が大事なの?

こうじさん:
いや、というよりも、彼女の方を傷つけることにならないかとか。。。

いさどん:
もし彼女がそういうふうに別れて傷つくのだとしたら、それは彼女の人生の問題だから、こうじさんは彼女まで所有していることになるんじゃない?

こうじさん:
そうかもしれませんね(笑)。

いさどん:
エネルギーが余っている!やはりこれからは地球や宇宙のことを考えていかないと(一同、笑)!

こうじさん:
今の話を聞いていて、やはり自分を所有しているのだと思いました。

いさどん:
よく考えると、それって越権行為だよね。だって、彼女と息子が考えればいいことなのに、「彼女が傷つくかも」ということまでお父さんが考えているのだから(笑)。だけど、傷ついてから彼女もそこで色々と学んで育っていくわけなのに、お父さんが息子の恋愛や人生まで「こうでなくてはいけない」と全部シナリオを描いている。僕はこういう親を持ったら困るね。あなたも困るでしょ(笑)?

こうじさん:
「自分もその立場だったら困るだろうな」と思うのだけど(笑)。

いさどん:
完全に自己研鑽が足りません!

まり姉:
その「けど」がダメですよ(笑)。

としバァ:
研鑽学校で習わなかった?「たらたらたら」と「でも」はありません!って。

いさどん:
やっぱりヤマギシでも同じことを言うんだ。ここでも「けど」は御法度です。二つの心を持つことになるからね。息子の話はもういいでしょ?

こうじさん:
はい(笑)。

いさどん:
あとは自己研鑽あるのみ(一同、笑)!

――

(座談会から10日後、きくにいから以下のようなメールをいただきました。)

1月24,25日に木の花を訪問し、座談会でまな板に乗ったきくにいです。

木の花から帰ってから座談会の様子を妻に話したら、「息子の事も考えて出したの?」と言っていましたが、私は包み隠さず出せて良かったと思っています。この事で一歩も二歩も進んだ様に思います。息子の事はもとより、自分をも所有していた事に気づかされました。  

私は小さな小さな細胞ですが、生かされるところで生かしてもらえればと思います。今までは「自分が幸せでなければ他の人を幸せに出来ない」と思っていましたが、今は「他の人の幸せや喜びに繋がる事で自分が生かされれば、それが自分の幸せになる」という、こういう思考回路はどうだろうかと思っています。

日々自己研鑽をしてますよ。


あなたはわたし わたしはあなた

木の花でのケアの事例を分析するため、ケア卒業生であり現メンバーであるいさおちゃんにインタビューをし、幼少期から現在に至るまでのレポートをまとめました。そして、さらに多角的にいさおちゃんの事例を分析するために、いさどんがいさおちゃんと面談する場がもたれました。その面談にはいさどん、いさおちゃんの他に数名のメンバーも同席しました。

今回のブログでは、その面談の様子をご紹介します。

PDFファイルはこちらからダウンロードできます

いさどん:
まず、いさおちゃんは男性ですが4人兄弟の末っ子で、精神的にも人に依存する体質が強く、自立心に欠けます。しかし、負けず嫌いで虚勢を張るという傾向も元々持っています。両親の組み合わせについては、あまり良くありません。父親はどちらかと言うと立派な発言をし、それにふさわしいどっしりとした中身がない人です。しかし、レポートを読むと、いさおちゃんは父親のことを非常に評価しています。

いさおちゃん:
親父が繊細だということは死んでから聞かされたことで、それまでは全然気がつきませんでした。

いさどん:
それは本人が父親を正しく見ないでイメージとしての父親像を持っており、そういうものを求めていたからです。だから、実際の人物ではなく自分のイメージとしての父親を見ていることになるのです。そして、それはどこから来ているのかというと、母親から来るプレッシャーを良しとしないことから、どこかに拠り所、救世主を求め、自分の中に偶像的な父親をつくったというところでしょう。母親がいさおちゃんに厳しく当たるのは、父親が父親としての役割を十分に果たさないことから、彼女が父親役も兼ねることになり、そういったことが負担になって、その負担の分だけヒステリックになって子どもに当たるということだと思います。長男、長女、次男、本人のいさおちゃんということからすると、長男は最初の子どもだったから比較的良かったのかもしれないし、レポートを読むと優秀だったということもあるのだと思います。次男と長女については、あまり母親の言うことを聞かないタイプだから、母親から見たらかわいくない子どもだったと思います。それに対していさおちゃんは、そういった上の人たちとの軋轢を見て、これは自分が母親から良い点をもらうチャンスということで母親に媚を売る傾向になってしまい、そこでは母親から褒められ期待されるということがあったのだと思います。

母親にしても本人にしてもここで言えることは、子どもの実態、親の実態を見て言っているのではないということです。色々な思惑の結果、自分が求めるものを対象に投影し、それを表現しています。そこでは偶像を追っかけているということです。だから、表面的にはそれがどんなに良いもののように見えたとしても、最終的にどこかで本当のところが見えてくると、いずれ屈折したものが現れてくるということです。

レポートの初めの方に「素の自分になりたい。それは非常にフレンドリーな自分」と書いてあるのですが、素の自分になりたいと言っているわりには、素の自分がわかっていません。そういうふうにバーチャルなものを追っかけているわけですから、本当の自分を見ていないし、対象の本当も見ていないのです。何か自分の思惑の中で対象に対してイメージがあったり、自分がこういうふうにありたいというイメージの中で生きている結果、それは現実逃避にもなるのです。そういうことを長年やってくると、不安定な確信のない毎日を送ることになります。憧れとして安定した自分でありたいのに、不安定な部分が人間関係など色々なところに出てくるものです。少し前まで母親はいさおちゃんに「神父になってほしい」と言っていましたが、これもまた相手を見ていないという例です。

いさおちゃん:
母親は今でもそう思っています。先日も、家に帰った時にそう言われました。

いさどん:
それはいさおちゃんになってほしいのではなくて、自分の息子の中でひとりそういう人がいてほしいということです。

いさおちゃん:
まったくその通りで、以前、母親が木の花を批判するようなことを言った時に、僕が「やめてくれ!ただでさえ僕は揺れるのに、親にまでそんなことを言われたらたまったものではない。頼むからそういうことを言うのはやめてくれ」と言ったことがありました。そうしたら、普段ならそこで反発する母親が、「本当に申し訳なかった」と泣き出し、「上の3人の子は自分の期待から外れていったけれど、あなたが生まれた時にこの子だけは神父さんにするんだというすごく強い想いがあったから、その願いが強すぎてそういうふうになってしまった」と言ったのです。その時に僕は、「そんなふうに想っていたんだ!」とびっくりしたのですが。

いさどん:
常に自分の中に強い思惑があり、それを実現したいという思いがある状態でそれを表明せずに内に秘めていると、そんなふうに歪んだ形で心を出すようになります。なぜそういうことをするのかというと、心のどこかではそれが実現しないとわかっているからです。そうすると、想いが達成されないという不達成感の想いだけが残っていき、非常にネガティブな心の環境をつくっていくのです。母親だったって暗いばかりの人ではありませんが、夫との関係によってよりそれが強くなっていったのだと思います。しかし、仮に父親が優秀でなければまだ救われるものです。この父親のようなタイプの人は、優秀であると鼻もちならない態度をまわりの人に取るので、まわりの人は不満があってもそれを言えない状態になってしまいます。だから、ここでは優秀であるということが問題をつくっているのです。優秀ではない方が謙虚な人格につながり、人間関係としては良いとも言えるのです。

いさおちゃん:
父親が死んだ後のことですが、母親が父親に「あんたはものを知らない」と馬鹿にされていたと何度も聞きました。そんなにきつい物言いではなかったと思いますが、母親はそれを真に受け傷ついた節がありました。僕はそれを聞いて、「父親がそんなことを言っていたんだ」と思ったのですが。

いさどん:
母親は傷ついたと思います。しかし、彼女がもうちょっと精神的に強ければ、傷つく前にそこで言い返すことも出来たでしょう。ところが、彼女には傷ついてもそれを外に出さず常に自分の内に秘めるという傾向があるのです。そして、そういった負のエネルギーが溜まっていったのです。父親が優秀でなく出世しないような人であれば、まだ気持ちがおさまるのでしょうが、そうではありませんでした。だから、母親のストレスの行き場が子どもに向けられたのです。長男といさおちゃんの精神的な傾向は似たようなものですが、長男は期待されてある程度は期待に応えたのだと思います。だからこそ、親としては特別いじらなかったのでしょう。しかし、2番目、3番目の子は言うことを聞かないものだから、お母さんからしたら最後のいさおちゃんに対して「この子だけは」と思ったのだと思います。いさおちゃんは期待をかけると一応形としては応えてくれるタイプです。ただ、いさおちゃんが健全な想いに応えればよかったのだけれど、不健全な想いにすら応えてしまういさおちゃんがいました。不健全な想いに子どもが応えていけば、応えた子どもに結果として屈折したものが残っていくのです。だから、いさおちゃんはよく「他人の犠牲になった」というようなことを言うけれど、これはいさおちゃんの精神性と母親との組み合わせでそうなったのです。例えばいさおちゃんが長女や次男のような精神をしていれば、こういうことにはならないということです。

いさおちゃん:
長男はたしかに期待に応えてきたのだけれど、親を恨んでいます。

いさどん:
恨んでいるというのは、いさおちゃんと同じようにプレッシャーをかけられたからです。

いさおちゃん:
親は「あの子は言わなくても勉強したし、すごく出来て感心だった」と言っていたけれど、本人は「プレッシャーがかかっていて、辛くて辛くてたまらなかった」と言うのです。そこにすごくギャップがあります。

いさどん:
しかし、彼はそれだけ勉強が出来たから、いさおちゃんほど屈折していません。

いさおちゃん:
その通りです。

メンバー:
いさおちゃんはいつまで期待に応えていたの?

いさどん:
いさおちゃんの場合は期待に応えていたのではなく、ずっと相手のペースに付き合ってきたのです。今でもそれをやっています。レポートの中に「母親に対して対立的な時代があった」と書いてあるけれど、対立には色々な種類があります。例えば、「夫婦喧嘩は犬も喰わない」というようなじゃれあうように仲が良いからコミュニケーションとして対立するとか、余っているエネルギーを消費するために対立の場をつくるということもあります。また、絆を深めるために確認し合うとか、反対に相性が悪くて対立のエネルギーを消費する場合もあるのです。そうすると、この場合の対立というのは前者の方の対立でコミュニケーションを取る方法のひとつだから、夫婦でいうところの腐れ縁のような関係です。本当に相性が悪ければ、対立した結果距離が出来てしまうものです。しかし、この場合は距離が出来ずに対立を続けていくのです。

いさおちゃん:
まさに腐れ縁ですね。

いさどん:
いさおちゃんが人に媚を売るような傾向というのは子どもの頃からあります。自分の意志とは違った行動を敢えてすることによって人間関係を調整しようとすると、人から支持してもらおうと思ってやっていることが他者からはかえって不自然に感じられ、逆にいじめの対象になったりするものです。そうすると、またそこでさらに屈折が追加されるのです。だから、自分が一生懸命人に支持されようと思って努力していることが、「そういうおまえが嫌いなんだよ」と言われたことにつながります。このケースはよくあることで、対象の状態やそこにある問題を見ずに、自分の中にあるトラウマや思惑で人と接しているという状態です。だから、その現象に対処しているはずなのに、自分の思惑と外れたことが起きることになるのです。

いさおちゃん:
まったくその通りです。

いさどん:
だから、対話しているはずなのに対話出来ていないことになるのです。これは人間関係が難しくなる根本的な原因です。それと、この人の特徴として過剰に反応するところがあります。言葉でもより汚く表現したり、実態よりもはるかに過激な表現をするところがあります。それは自分の中に籠っている怒りなどの感情をその時その時素直に表現出来る家庭環境ではなかったということです。「素の自分でありたい」という想いが抑制され、さらに相手に気に入られようとするという心も働き、その両面が存在し、素直な自分を表現してこなかったということです。

それから、いさおちゃんは非常に環境に左右されやすいタイプです。いさおちゃんには元々持っている強い癖があるわけではないので、まわりの環境を反映しやすいタイプです。こういった人は鏡のような人なのです。そういう意味では正直なのです。つまり、自分なりに検討することなく与えられたものの影響を受け、そして他者に同じような影響を与えるのです。それは場合によっては良いことではありません。例えば誰か自分のまわりの人がいらいらしていたら、いさおちゃんはそれを受けて別のところにそのいらいらをぶつけるということをするのです。

いさおちゃん:
それがそのまま増幅されていくこともあります。

いさどん:
いさおちゃんにストレスがあれば、それは増幅して他者へ行きます。常に被害者的なものの捉え方をするのでその分だけは増幅しますが、それは子どもの時代にはなかったはずなのです。それは積み重なってきたものであり、大人になってそれが非常に強くなってきたのです。特に社会に出てからそういうことが強くなって、心の行き詰まりになっていったということです。

いさおちゃん:
たしかに、昔はそんなに過激な表現をしていなかったと思います。だんだんひどくなっていきました。

いさどん:
そういった感情は今でも消化されていません。だから、いさおちゃんにとって僕は良き理解者で非常に重要な存在なのに、そういう大切な人を陥れようとすることにもなるのです。だから、まわりの存在が自分に対して何であるのかをもっと理解するといいと思います。レポートにもありましたが、「まわりからすれば自分は嫌な奴だろうという反面、愛嬌のある一面もあった」というのは、そうやって二面性を持ってとりつくろいながら生きてきたのです。それで、「素の自分はフレンドリーである」と言いながら人に対して被害者的な感情を抱き、場合によっては攻撃もするのがいさおちゃんです。そういう感情を持って生きていると、沢山の問題事に出会うことになります。

いさおちゃんはこれほど親切に分析して接してくれる環境にいるから今の状態でいられるのですが、もしこの環境に出会わなければ、当然精神的にも場合によっては肉体的にも困難な状態に陥っていたでしょう。ひょっとして社会生活不適確者になっている可能性もあります。人はとかく現在の自分の状態を振り返ることをしませんが、日々を奇跡のように配慮されているということに気づくと、人は謙虚になれるものです。謙虚になると常に学習し受け取る心が出来ますから、賢明に生きられるのです。

それに引き換え、今までのいさおちゃんは欲しいばかりで、与えてもらっていてもそれを評価しないから、多くの不満を言ってありがたいという心がありません。だから、結局沢山もらっているにもかかわらず、文句を言っているどころか、くれないからと言って相手を攻撃するような人になってしまいます。

メンバー:
いさおちゃんはここに来てから素の自分になりたいと思ったのか、それとも元々「こんなのは本当の自分ではないはずだ」と思っていたのですか?

いさおちゃん:
「こうなりたい」というイメージをはっきり持っていたかはわからないけれど、とにかく枠があって辛いから、「自分がなんでこんなに不自然なんだろう」と思い、それをどうにかしたかった。

いさどん:
それは自我に目覚めて親からのプレッシャーがかかるようになってから、ずっと思っているはずです。思っているからこそ余計に現実を直視しなかった。そして、自分の中の正直な想いと違う顔をすればするほど屈折していき、それがどんどん育っていったのです。大人になってさらにそれが高じてきて、自分の平常心を維持することが出来なくなってきたということです。

いさおちゃん:
外に良いものを見せているのは努力のつもりでしています。「こんな自分ではいけない。ちゃんとしなきゃ」という想いがある。良い自分をやるというのはとりつくろうばかりではなくて、やっぱり良くあろうとしてやるのだけれど、やればやるほど辛いです。

いさどん:
それは努力の方向が違っているからです。つまり、努力の結果、「あなたは良い子ね」と評価されることが良いことと見ているから、自分自身を人格的に成長させ積み重ねていくというところを築いてこなかったのです。人が評価してくれるからそこで達成感を得て、止まってしまっていたのです。あなたの姿勢は学校のテストで答案に書いたら丸がもらえます。しかし、実際にあなたの心とその解答にはギャップがあるから、現実の世界では問題事の発生源になります。いさおちゃんは表面的な評価での合格が欲しいから、ダメと言われることに反応します。しかし、自分の本質を知ることが深い人をつくり、その人を育てていくのに重要だということ。そこに気づかず怠ってきたのです。本物になるためには上っ面だけの回答を得ることでは出来ない覚悟がいるのです。その覚悟を持つだけの潔さがなく、自信がないから、とりあえず表面的な答えで合格をもらおうとします。しかし、人間力としての実力を身につけるということをしないと、このことはいつまでたっても解決しません。

メンバー:
いさおちゃんにインタビューをしていた時は素の部分というのがよくわからなくて、いさおちゃんにも、「素の部分って何?」と聞いたのだけれど、今の話を聞いていたら、現実の自分があって素の部分があり、その奥にまた魂があると思うのですが。

いさどん:
ここで言う素の部分というのは、本人の憧れが素の部分になっているのです。

いさおちゃん:
そうです。

メンバー:
それはどこから来ているのですか?

いさどん:
育ってきた環境から、「人から評価されたい」という想いが出来てきて、そこからつくられたのです。だから、求めている部分が本当の自分と違っているのです。もっとも、それは環境からつくられたものなので、違う環境だったならば本当の素の部分が表現されることになります。そうすると、この親子関係という背景ではなくて別の環境でのびのびと育ったならば、きっとフレンドリーな人が生まれたはずなのです。

メンバー:
いさおちゃんと元々の心の形が似ているまこっちゃんのように、ストレートに表現出来るということだよね。

いさどん:
そうです。いさおちゃんにもそれが出来たはずなのです。しかし、それが出来なかったばかりに、素の部分が憧れになっているのですが、環境によってはその素の部分と憧れの部分が一致するということです。

メンバー:
そうすると、理想的な素の部分というのは、魂の形というか、本来の自分ということですよね。

いさどん:
理想というより本人の願望が強くあるということです。その願望が素の部分になっているのです。人はそれぞれに理想を持っているわけです。それはその人の成り立ちによって変わるわけです。さらに、その人の背景を変えると理想はまた変わるということです。そして、素の部分が求めていることを与えるような環境であれば、本人の理想と素の部分が一致するということです。

ここで言う素の部分というのは、魂が元々生まれ持ってきたものです。だから、環境から来る自分の求める部分と、元々の魂が表現したい素の部分があるのです。いさおちゃんの場合は、そこで明らかにギャップがあります。

メンバー:
「こういう環境を与えると、こう反応する」というパターンという意味では、今表わされていることはすべていさおちゃんの素を表現しているということだよね。

いさどん:
そういう意味では、どんな場合でも現れているものはすべて素なのです。つまり、屈折していること自体がそういう屈折の種が自分の中にあるということなのです。

みかちゃん:
きっと、いさおちゃんはこういう環境負荷がかからない場合のもっと明るいイメージの素の部分を求めているんだよ。

いさおちゃん:
そう。

いさどん:
それは、憧れの素の部分です。

メンバー:
だから、現実の自分から逃げているのよね。

いさどん:
逃げるというよりも現実にそれが現れてこないから、バーチャルの世界で自分に負荷がない状態をイメージするのです。

いさおちゃん:
そうですね。

いさどん:
それを素だと言っているのですが、その素というのはバーチャルな世界なのです。

いさおちゃん:
いつもしんどいと思う心が自分の中にあって、それがない状態というのをいつも考えています。発想がそこから来ているから、「これさえなければいいのに」と思っているところはあります。

いさどん:
それは物事を正しく捉えずに、逃避的に捉えているのです。いさおちゃんは常にそういうふうに逃避しながら被害者的にものを捉えています。それは冷静さに欠けているから、その経験が次に活かされないのです。

メンバー:
生きていること自体が被害という考えだよね。

いさどん:
それは極端な表現ですが、そういうことも言えます。

メンバー:
お母様がそういう方ですものね。

いさどん:
そういう意味ではいさおちゃんは鏡のような人だから、お母さんがそういう形で彼に接してきた結果、彼にその人格が表われているのです。しかし、環境が変われば全く違う人にもなります。それに対して、母親は環境が変わってもあまり変わらない人です。それは根本の素の部分が違うからです。彼女は取り越し苦労のように非常に難しく物事を考えるタイプの人であり、しかも長女として生まれてきたのでプレッシャーのかかった中で育ってきましたから、性格上、辛い人生を生きた人です。

いさおちゃん:
母親はシスターになりたかったのだけれど、親が「そんなのとんでもない」と言って、親が持ってきた縁談の相手と結婚したと聞いています。

いさどん:
そうやって自らの希望が裏目に出るものだから、自分自身にも悪いイメージが起きてきて思考が屈折することになるのです。だから、大変辛い人生を歩んできたかもしれませんが、実はそれも自らが招いたことなのです。そして、それがいさおちゃんにもそのまま引き継がれています。「親の因果が子に報い」ということです。

そうすると、そういった感情が自分の中にあって他者に出さないうちは単なる個性で終わっていくのですが、それが外に対して出た時に必ず反応するものが現れて、そこでまた伝承されていくのです。その時に、それを学びにして消化し、外に負の現象を表わさないということが因縁断ちということになります。因縁というのは、結果をもらった時にそれを次の原因として、次へ伝承するということです。一般的には親子の因縁が代々引き継がれ、その家系に特徴的に見られる出来事や人の性格のようなことによって表われてきます。それは個人が自らの原因を消化しないで他者に伝承することから来るものです。しかし、個々が結果を受けた時にその因縁が自分に来た原因を理解し、そこで消化してしまえば他者に因縁は行かないのです。これは世の中を綺麗にすることであり、因縁断ちということになります。家族のみならず、他者と接する時には常に自分の因縁が表現されているのですから、悪因縁を他者に渡さないこと。その因縁断ちの出来る人になることが大切です。

ですから、自分の人間性が他者に伝承されていく時に、何をもたらすかによってその人の価値が決まるのです。その時に有益なものをもたらしたいものです。単なる情報伝達くらいにしておきたいものです。ところが、世の中には有害をもたらす人が沢山います。ここでもいさおちゃんは、場合によって有害をもたらす人になることがあります。もし、一般社会の中でいさおちゃんが生きていれば、それは生活の行き詰まりになることです。そして、ここの人としてはあるまじき姿勢です。

いさおちゃん:
それを何とかしようと努力してはいるのですが、自分では結構的外れな努力をしてきていると思います。

いさどん:
それは自分の中だけで考えて努力するから、いつまでたっても変わらないのです。つまり、的外れであるのならば、謙虚に人の言うことに耳を傾けようという姿勢がありさえすれば立ち直るものなのです。しかし、そこで自分流にばかり行動していれば、どんどん的外れになっていくわけです。自分流を繰り返しやり続けているということは、謙虚さが足らないということです。

いさおちゃん:
そうだと思います。

メンバー:
以前いさどんが、「みかちゃんが反発するよりもいさおちゃんが反発する方が傷つく」と言っていたよ。

いさどん:
それはなぜかというと、みかちゃんは元々人の言うことを聞かない人で、自分で悟って歩んでいく人だからです。しかし、いさおちゃんのように自分をしっかり持っていない人で、こんなに有益なものを与えられている人が、それでもって反発するとガッカリするのです。こんなに宝物をもらっておいて、それをしっかりと使った挙句に、「甘いものが欲しい」と言ったら甘いものをあげ、しかも「食べすぎはダメだよ」と指導までさせておきながら、最終的にいさおちゃんは「僕に甘いものばかり食べさせて!僕はずっと甘いものばかり食べさせられてきた!」と文句を言っているような状態です。今まで体に悪いからほどほどにと気まで使ってきたのに、親の心子知らずというのはこのことです。

いさおちゃん:
それは一体どこから来るのですか。

いさどん:
いさおちゃんは物事の価値を深く捉えていません。ありがたいという感謝の気持ちもないし、自分の側からしか物事の判断をしないのです。だからよく言うのは「一回、相手の代わりをやってみたらわかるよ」ということです。そうしたら、少しは価値が分かるはずです。

いさおちゃん:
自分の中にある変な理想を外してみたら、一体自分の中に何が残るのかと思ったのですが。。。

いさどん:
何もない。

いさおちゃん:
そう。

いさどん:
何もなくていいのです。何もない自分だからこそ、目の前に健全なものがあったら健全なものになれるのです。しかし、いさおちゃんは今までそういうチャンスを沢山逃してきました。

人が道を求めていく時には、「ある自分」から「ない自分」を目指していきます。世の中には自分がある人が沢山いますが、そのある分だけ人は苦労しています。いさおちゃんにもないわけではなくて、あるのです。「欲しい欲しい」という心があるのです。そして、いさおちゃんにないのは、「欲しい」を前に進めていく力です。

いさおちゃん:
例えば、母親から与えられた「神父さんになってほしい」というイメージや、自分が辛い想いをしたから創りあげたものが仮になかったとしたら、自分の中に道を求める気持ちがあるのだろうか。

いさどん:
それはあるでしょう。理想というものは、自らの想いと環境によっていくらでも創られていくものなのですから、環境次第でいくらでもあるのです。そしてあなたには、それを求める気持ちがあります。ただ、それがどういう形で成し得るのかは人によって違うのです。理想ばかりを掲げて行動が伴わない人もいれば、確実にそこに進んでいく人もいます。そうすると、あなたはどちらですかということです。

いさおちゃん:
何だか混乱してきました。。。

メンバー:
ケアとしてこういう人は扱いやすいですか?

いさどん:
そうとは言えません。ケースバイ、ケースです。いさおちゃんのお母さんのように複雑なものを持っている人が身近にいると、その人自身を生きているというよりも、お母さんの心の状態を引き継いでいる人もいるのです。そうやって、家族の因縁が代々受け継がれていきます。それは過去のことだから仕方がないということも言えるかもしれませんが、それではなぜ自分がそういう人なのかと振り返った時に納得がいかないものです。だから、そこをちゃんと紐解いていくことが大切なのです。例えば、たしかにいさおちゃんの母親はいさおちゃんに被害者意識を与えたのですが、母親も両親から色々な影響を受けて今の彼女があることが分かると、初めて相手を許せるものです。その許しが本人を回復させるきっかけとなるのです。

ですから、バランス良く生きるためには現在のあなたが何ものなのかということを正しく理解することが必要なのです。ここでこうやって共同生活をしていると、みんなが自分の鏡となり、隠していても歪んだ人間性が映し出されてくるものです。他人の姿勢を見て自分の姿勢を改め、さらに他人から指摘されたことを素直に受け取っていけば、自然に自分の心の歪みから過去の親との関係や親の存在を少しずつ理解していくことが出来るのです。そうやって確実に自分の実態を正しく把握することによって、意味もわからず被害妄想や怒りが出てきていたのが、理由がわかると収まっていくものなのです。納得しない状態で怒りが出てきたら、混乱するだけです。

そうすると気づきが生まれ、バランス良く生きていくことが出来るようになるのです。自分が直接それを受けてきているのだから、自分から発しているものが自分由来のものなのか、過去から来ているものなのか、その両方を見て自分の中でこなし、自分から他者に与えないということで悪因縁が断たれ、先祖供養になるのです。

いさおちゃん:
僕の中では自分由来のものと過去から来ているものとの区別がつかないのです。だから、結構難しいのですが。

いさどん:
それは全く難しくありません。それは自分の中で区別がついていないだけで、まわりから見たら区別がついて見えるのです。それをいつも伝えているのですが。学習しようという意欲があれば、いつでも理解出来ます。では、なぜ学習しないのかというと、いつも被害者意識になっているので与えられているということを評価しないで、「自分はもらっていない」ということを先に思うからそうなっているのです。「自分はもらっていない」という被害者意識が一番の原因です。だから、与えられているということを先に考えるようになれば、理解出来るのです。

いさおちゃん:
どうしたらそうなるのだろう?

いさどん:
何かに対して不満を感じた時に、一度止まって振り返りチェック出来ればいいのです。この不満はどこから来ているのかと考え、与えられていることと、与えられていないと思うことを冷静に考えてみればいいのです。そして、その本当に気づけばいいのです。自分でそれがわからなくても、「自分に不満な気持ちがあるのだけれど、これはどう思う?」とまわりに聞いたらいいのです。そうしたら、「今そういうことを言えるということは、これだけのことが与えられているからだよ。不満を言えるという贅沢な場所にいるんだよ」ということが分かるはずです。しかし、いさおちゃんは他者の言葉に耳を傾けないでこれまできました。これは心構えの問題です。

メンバー:
ここに来てから自分がもらったものや、自分がこれだけ変わったということを客観的に評価出来ればいいのに。いさおちゃんはもらっていない部分ばかりフォーカスしすぎて、「僕はこんなにもらっていない」と主張しているんだよ。

いさどん:
「変わった部分は他者のおかげ。変わっていない部分は自分の愚かさ」と考えると、常に正しく自分を見て、他人には謙虚に感謝をすることが出来ます。

メンバー:
変わってきた部分を自分の評価にして、「自分が頑張ってきたから変われた」と言っているから、逆なんだよね。

いさどん:
いさおちゃんは辛かった部分を自分の努力で超えてきたと思っているのです。しかし、辛いのは自分流に学んできた結果、しっかりと学ばなかったツケがあるから辛いのです。確実にそこで学習していれば、全部ポジティブに解釈出来てそれでいいことになるのです。問題事こそチャンスでありその人を学習させる要素なのですから、そういう問題事に出会えば出会うほど人は謙虚になり、学習が進むほどありがたいという心が出てくるものです。

いさおちゃん:
心の勉強をするぞと思ったところで、僕流の学び方になってしまうようで、やっていくとさらに辛くなってしまう気がします。時々、「よし、感謝するぞ!」と思うのだけれど、そのうち忘れてだんだん辛くなってきて、「ああ、ダメだ。辛いな」と2,3日でもう辛くなってきてしまいます。

いさどん:
自分に不愉快なことが起きた時に、その原因として過去のトラウマ的なものを引き出してきて、「自分は常に被害者だからいつも他者に原因がある」と考えるのです。しかし、そういう解釈の仕方自体が原因だということに気がつかないと、問題はいつまでも起き続けることになります。

だから、いさおちゃんの場合、母親が悪いということになってはいけないのです。いさおちゃんという素の自分があり、因縁で出会って母親に染まっただけだから、母親のせいだけではないのです。

メンバー:
そういうのに染まるいさおちゃんだったということ。例えば私がその環境にいても、彼女には染まらない。だから、人によって同じ立場にいても全然違うことが起こる。いさおちゃんは染まってしまう自分であるとただ気づけばいい。

いさどん:
逆にその自分の特性を活かして、それが不満であるならば、今まで染まってきたものとは違う新たなものに活かせばいいのです。そうすると、そこには新しい自分がいるわけです。いさおちゃんはこんなに良い環境をもらっていて、しかも本人がそのことを評価しているにもかかわらず、染まらない、染めない自分がいて不満を言っているのです。

いさおちゃん:
染めない自分がいるとは思います。

いさどん:
そして、昔のネガティブなところに留まろうとするのです。自分がそういう状態にいるくせに、「自分は良くならない」と他人に文句を言っているのです。

いさおちゃん:
今、完全に頭が馬鹿になってきているので、もう一回言ってください。

いさどん:
こういうものをもらって染まる自分に気づいたとしたら、そこでは「そういう自分である」と理解すればいいのです。つまり、「何にでもすぐ染まってしまう自分である」と。それはある意味、純真無垢であるということです。

いさおちゃん:
馬鹿ということか(笑)。

いさどん:
馬鹿という表現はあなたがネガティブ的に捉えるからそう表現をするのであって、綺麗であるとも言えるのです。宗教に染まってそれこそ先兵となり攻撃的に布教している人たちは、ある意味では純粋だからです。いさおちゃんはそういう先兵になりやすいタイプなのです。そういう自分だったならば、その純粋な素の自分に気づいて、今度はポジティブなものに染まる自分になればいいのです。ところが、常にネガティブ思考の中にいようとするいさおちゃんがいて、ポジティブな方へ誘導しようとするものに対して反発するのです。

いさおちゃん:
なぜそんなにネガティブな方にこだわるのか。

いさどん:
そうやって、客観的な話が出来るのです。しかし、「自分にはわからない!」と否定的になると、まったくそのことが受け取れないのです。それはこの人がそれだけ感情的だということでもあります。

いさおちゃん:
なぜそこまで抵抗するのか、自分でもよくわかりません。一回感情的になってしまうと、「何をそこまで抵抗しているのだろう?」と自分でも思うのですが。

いさどん:
キャンバスが白ければ白いほど、そういう一方通行の状態が起きるのです。つまり、柔軟性に欠け、不器用であるということです。しかし、柔軟性というのはどうにでもなるということだから、悪い表現をすれば企むことになります。だから、柔らかくても固くても良い方に活かせば、どんなことでも良い方に行けるわけです。その反対に、悪い方に使えばどちらも悪い方に行くわけです。そうやって、その仕組みを知って自分がどちらの方に行っているのかまず理解することが大切です。それが己を知るということです。そして、それを自己コントロール出来た時にさらに人間力がつくのです。ハードルは高いし、先は長い!ぐだぐだ言っている場合ではありません。

いさおちゃん:
今は頭がぼーっとしています。。。

いさどん:
今こうやって面談しているということは、いさおちゃんをフォローして気づきの方に誘導しているわけです。ということは、逆に言うとそのことに気づかないいさおちゃんがいるのです。その気づかない状態で一般社会の中で生きていったら、混乱から病気や対立の方に進んでいきます。夫婦だったら関係はめちゃくちゃ、子どもは上手く育たない、会社でも行き詰まるというように問題事が起きてくることになるのです。

いさおちゃん:
自分でもそう思います。

メンバー:
今、この場自体がすごくありがたいということはわかる?

いさおちゃん:
はい。

いさどん:
そうかなあ?僕は被害者モードになっているから、いさおちゃんが信用出来ない(一同、笑)。

いさおちゃん:
これは人に聞くことではないかもしれないけれど、自分には感謝の気持ちが薄くて、それはどこから来るのだろうか?

いさどん:
それは、いさおちゃんが人からもらうことばかり考えているからです。

メンバー:
いさおちゃんは不足の部分にばかり焦点を当てている。さっきも言ったように、今までもらってきた部分を忘れてしまって、まだある不足の部分にばかりフォーカスし、そこをもらいたい、そこを変えてほしいという気持ちがある。

いさおちゃん:
今もまさにそうで、「この先どうしよう?」と確かに思っていました(笑)。

いさどん:
その途中では今までの自分が壊れていくわけだから、そうすると、「わからない!」と言い出すいさおちゃんがいて、そしてその挙句に本当に自分はわからないとなった時にいさおちゃんが何を言い出すのかというと、「じゃあ、僕はこれからどうしたらいいのですか?」というのがいつものパターンです。「どうしたらいいのですか?」と聞かれたら、普通だったら「自分で考えなさい」と言うのだけれど、自分が考えても出てこない人だとしたならば、人の言うことを聞くのが賢明なことです。しかし、聞く相手によっては自分に害をもたらす人もいますから、そこをよく見極めることが大切ですが、ここではみんなを信じて委ねることが出来るはずです。ところが、いさおちゃんにはみんなを信頼する気持ちがありません。

いさおちゃん:
まったくその通りです。自分の中を見ても何も出てこない自分がいます。これはほっておいても何も出てこないだろうと思います。

いさどん:
いさおちゃんが今まで生きてきたことを全部分析しているだけなので、本来ならばそれを生きてきたいさおちゃんの方がよく知っていないといけないことなのです。僕はあくまでもいさおちゃんからもらった情報をもとに分析して話しているだけです。ただ、その分析が正確だから、今こうしていさおちゃんは納得しながら聞いていますが、いさおちゃんはもっとリアルにそれを体験してきたわけです。

しかし、いさおちゃんはそれを歪めて屈折させて捉えてきているから、今のような状態になっているのです。屈折していなければ、もっと適確にわかるはずです。そして、今のような状態にはなっていないということです。それには今までの屈折やバランスの悪さが原因しているのですが、それがいさおちゃんの魂そのものということです。ですから、今、この状態になっているのは極めて順調良く正常な答えが出ているということです。

いさおちゃん:
もうお手上げ!もうダメだ!

メンバー:
いさおちゃんが屈折していて今までのことがよく見れないから、こちらが鏡となってただ伝えているだけなのに、「その鏡はおかしい!」と言っているようなもの。「こんなはずはない、自分はこんな姿であるはずがない!」と鏡に向かって文句を言っている状態だよね。

いさどん:
そのことがこのレポートに書かれている、「おそらく、素の自分はもっとフレンドリーな自分だ」という部分です。そういうことはいくらでもいさおちゃんの中にあるはずです。しかし、屈折すらもすべて自分自身なのです。だから、それを受け取るところから始めないといけないのです。屈折も何もかも全部含めて自分の歩みなのです。それが全部受け取れた時に「そうか!」と納得出来て、次のことが始まるのですが、受け取れていなければ次のステージに進むことは出来ません。そこに屈折ばかりがあるようではスタート出来ないのです。そして、素の自分に戻ってそれを理解した時に初めて、何を取り組んでいくべきなのかが見えてくるのです。まずは自分を知ることです。

いさおちゃん:
それが素の自分に戻るということですか?

いさどん:
素の自分に戻るということは、自分を認めるということです。自分が考えていた印象の悪い自分を認めるということです。

メンバー:
ここに書いてある出来事はすべていさおちゃんを表わしているのであって、誰のせいでもない。

いさどん:
さらに言えば、いさおちゃんの母親はいさおちゃんを映す鏡としての役割を果たしてくれたのだし、父親もそうだったのです。

いさおちゃん:
最近僕が考えていたのは、「素の自分になりたい」ということでしたが、その時に良いイメージを描いていたわけではなくて、「自分らしく」ということでした。

いさどん:
自分らしくということは、人にどんどん染まっていく自分です。それは究極の素直です。そして、この環境であればこの申し子になることです。ただ、いさおちゃんの場合は屈折しているから、そこでも屈折した「自分らしくありたい!」と主張したい自分がいるのです。

いさおちゃん:
環境の申し子か。。。

メンバー:
本来いさおちゃんは、私以上に優等生になるということだよ。

いさおちゃん:
そこで「うわーー!」と思う自分がいます(笑)。

いさどん:
まこっちゃんも、どんどんまわりの環境に染まっていく傾向があるのです。この間も何人かとまこっちゃんの話をしていて、いさおちゃんの屈折とまこっちゃんのストレートは同じところから出ているという話をしました。「いさおちゃんの屈折は、ふさわしい環境で育ってきたら今のところで混乱しているのもわかる。まこっちゃんのストレートも喜ばしいばかりではなくて、あれがどこまで続くのだろうという意味では様子見だね。優等生だから」と話しました。「昔いさおちゃんが母親に対してやっていた点数稼ぎをするようなところがまこっちゃんにも出ているのかもしれないし、でも彼も苦労してきているから、やっとそこまでなれたのかもしれない。これは結論が出せないから、様子を見ていきましょう」と話しました。だから、僕はただそのままを見ているのではなくて、そういうふうに分析しながら見ているから、まこっちゃんがちょっとそちらの方に行っていると思ったら、「まこっちゃん、無理をしなくてもいいんだよ。もうちょっと素の自分を表現してもいいんだよ。人を意識しないで言葉を言わないといけないよ」と言う時が来るかもしれない。しかし、今のままでずっと進み、「そのまま育っていって、風に乗って飛んでいけ!」というくらい極めることになるかもしれない。それはこちらが決めることではなく、彼の歩みなのです。

いさおちゃん:
染まって申し子になる自分。。。

メンバー:
そうなれる人が一番羨ましいと言っていたでしょ?

いさどん:
それはそのはずです。自分を表現することにどこかしら被害者的で怒りモードのところがあるということは、自立して表現するということに苦手意識を感じていたり、それが出来ない自分に対していらだつ傾向があるからです。しかし、無条件に「あなたはこれをやっていけば大丈夫ですよ」と太鼓判を押されて終着駅の切符をもらったとしたら、いさおちゃんはすごく楽に生きられるはずなのです。

いさおちゃん:
それはそう思います。僕はものすごく現金だから(笑)。

いさどん:
しかし、そこで「どこで降りるのかを自分で考え、途中で乗り換えのことも考えながら行きなさい」と言われたら、いさおちゃんは色々と悩むのです。そういうことは本来いさおちゃんには似合わないのだから、「1本レールで行けるよ」と言われたらすごく安心出来るのです。ただ、そこまでカラクリがわかってしまったら、自分の道にはなりません。それでは他人の道を行くことになるから、いさおちゃんをわざわざ混乱させて、自分で道を選ばせてくれている神様の配慮が働いているのです。

いさおちゃん:
自分の中には、「いさおちゃん、これで絶対大丈夫だから!」と言われることを求めているところが確かにあります。

いさどん:
それなら、いさおちゃんじゃなくても誰でもいいことと考えるかもしれませんが、そういうふうには創られていないのです。以前、神様からこう言われたことがあります。「真っ直ぐ行けるのはおまえの信ずる心によって行ける。だから、真っ直ぐに行けるかどうかはおまえ次第だ。いつも私はおまえの前に真っ直ぐなレールを敷いている。しかし、おまえが肉体を持って地上に生きるものだから、地上を行くと平坦なところもあれば山もある。そうすると、坂道が恐いとか、昇ったら落ちそうで恐いとか、谷を渡る時には橋下駄を踏み外そうだとおまえは文句を言う。時には迂回しようとする。しかし、ひとたび迂回したら、もう二度と真っ直ぐな道はないぞ。ただただ行け」と言われたことがあります。

いさおちゃん:
そうすると、自分らしくというのは。。。

いさどん:
つまり、自分らしくというのは誰にも出来ないことなのです。「自分が」という我がある状態。それは濁りです。だから、最終的には誰もが「いただく」心にならないといけないのです。

いさおちゃん:
僕が「自分らしくなりたい」と言って、僕の考える「自分らしく」なって嬉しいのかというと、それはわからないです。

いさどん:
いさおちゃんは自分があってないようなものなのだから、「自分らしく」と考えること自体が迷いの始まりになるのです。しかし、それは誰にとってもそうです。ここでは子どもに接する大人に、「その子らしく、まわりからの影響を与えずに育てなさい」と言うのはなぜかというと、子どもが間違いなく育っていくということではなく、子どもの自己責任のもとに道を歩ませるということなのです。そうすると、いさおちゃんのような人に責任を転嫁するような人にはならないということです。

メンバー:
魂の形として、いさおちゃんはずっといさおちゃんらしく生きてきたんだよ。

いさどん:
本当はすべて自分らしく生きてきたのに、まわりが口を出せば出すほど、本人は「こうなったのは他人のせいだ」と思うのです。しかし、人はカルマを超えた大本の心を表現しようと思ったら、自分らしくは捨てないといけないのです。それは「あなたの御心のままに。あなたはわたし わたしはあなたですから、いただくままに」という精神です。「いのちの泉」の歌にある「あなたはわたし わたしはあなた」というのは神様と自分、この世界と自分との関係なのです。これは単なる人間同士の関係ではなくて、神と一体であり、この世界と自分が一体であるというところで生まれた歌なのです。