2泊3日の滞在でも

ヤマギシ会からの紹介でお母さん、お姉さんと一緒にファミリーを訪れたけいくん。仕事から来るストレスで3年前に統合失調症だと診断され、いさどんに相談をするためにファミリーを訪れました。2泊3日の滞在後、「一度家に帰りますが、またケア滞在をしに戻ってきます」と言って、ここを出発しました。

それから数日後、けいくんからファミリー宛てにメールが届きました。今回のブログではその彼からのメールを紹介したいと思います。

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いさどん、皆さん、先日は二泊三日でお世話になりました。二泊三日は本当に色々感じる事ができました。自分は周りの声に流されるまま、母や姉に連れられ木の花ファミリーにやって来ました。最初にケアに当たっての必要事項を紙に書き、いさどんと面談、何故、病気になったかを説明。いさどんは笑顔で聞いてくれましたね。

病気と感じた時の自分は仕事、借金、周りに理解されない苦しさから涙が止まらず、頭がぼーっとして自分で自分を責める声に苦しいと感じて病院に助けを求めました。病院の出す薬に頼り、楽になりたくて処方される薬を飲んでいました。睡眠薬…寝るための手段。安定剤数々…楽になりたいという欲望の数。本当にそうでした。今、こんなに苦しいのに、いさどんに伝わらないと感じていました。

次にいさどんは紙に従い学歴を聞いてきました。高校中退です。学生当時を振り返り、正直、勉強が好きな子供ではありませんでした。親、先生に怒られるのが恐くて学校の授業に行っていました。学業終えた今でも学校行くことって何かわかりません。流されるまま無理やり勉強して入った高校は苦痛に感じて、よくサボっていました。家にいても怒られるからゲーセンや公園でサボっていました。

高校は義務教育ではありません。出席日数というものが存在して日数が足りずに留年…。高校だけは出なきゃいけないという固定観念から退学ではなく、もう一度、高校に行くことに…。留年=格好悪いという観念に囚われ、行かない日々に戻り、出席日数が足りずと部活の人間関係のトラブルで何も考えたりしたくないと思い、退学を選択して一度目の引きこもり生活に入ります。何も考えたくありませんでした。

こんな自分に業を煮やした父にどやされ、渋々仕事をしました。寮付きのパチンコ屋から始まりました。お客さんや上司、先輩にとやかく言われるのが苦痛で、当時できた彼女のもとに逃げ場を求めました。彼女と遊ぶためにお金は必要だったから仕事をするも、他の人にとやかく言われるのが苦痛ですぐ辞めるということを繰り返していました。

半生を語ると長くなりそうなのでまたの機会にしておきますが、自分は他人の言葉に感受性が強いのと他人と比べられるのが苦手な子供でした。そのせいか、集団生活、学校や会社は苦手でした。それをいさどんは笑い飛ばしながらこれからどうするか?を語ってくれましたね。

話が進まないと思ったのと、逃げると格好悪いという固定観念から、いさどんのさしのべる手を受けました。また、ヤマギシ会が薦める木の花ファミリーはどんなところだろう?という興味もありました。事前に調べて聞いた内容は静岡で農業を生業にして、自然食、主に野菜中心の食事。自分みたいな心の病を持った方にケアもしている団体さん。

どんな人がいるのか?お風呂で一緒になった方にお話を聞いてみました。自分と同じ年で農作業を生業としているファミリーさん。ケアで一度来ていて今回が2度目の滞在。今回は1ヶ月半ぐらいいるとのことでした。自分もケアで長期滞在になるかもしれないので、ここの生活が辛くないか聞いてみました。「辛いと言われれば辛いけど、外の世界に辛さがないとは限らない。」彼の言葉はこの時点では辛いとしか捉える事ができませんでした。

次はファミリー全体の協議〈大人会議〉へ参加しました。みんなで円になるヤマギシの研鑽とは違い、各自ボードや挙手で今日の報告をしあっているようでした。お風呂に入っていて途中参加だったため、何を話しているかは理解できませんでした。元メンバーの人からのメールなのでしょうか?木の花ファミリーから脱退した人から来た手紙でした。内容を簡潔にいうと「いさどんやメンバーさんたちとは合いません。さようなら」というメールでした。ここの環境が合わない人もいるんだ。人間十人十色、いても当たり前なのですが、この段階では嫌で逃げ出す人もいるのだと尻込みしました。このメールを聞いてみんな思うところはあるのでしょうね…。それを悟ってか、いさどんは口を開きました。何を話していたかは思い出せませんが、伝えている姿は優しく感じました。

協議の最後にみんなで立って円になり、手を繋ぎ、意識合わせ。自分の為に説明してくれました。天から光が降りて来るイメージでお祈り。静かな中に鐘がなり響き、目を瞑り黙祷…。頭の中であれこれよぎり、天から光が降りて来るイメージは全然できませんでした。でも、円になり手を繋ぐのは一体感があっていいな~と思いました。

そのまま残っていると、いさどんが自分と同じ病気だと診断され苦しんだ経験を持つゆうちゃんを紹介してくれました。彼女は人格分裂、幻聴、幻触と自分と比べると症状が辛そうに感じました。ここの環境で心のケアをして、今は長期滞在をしている彼女。ここにはそれだけの魅力があるのかもしれませんが、来たばかりの自分には理解できませんでした。

とりあえず二泊三日で来た自分、明日から何をすればいいかがわかりません。聞いてもここのシステムは一週間自由とのことでした。1日目はこんな感じで過ぎました。

二日目です。朝御飯は七時半から用意できると言ってくださったのに、昨夜飲んだ睡眠薬が効いたせいなのでしょうか?起きれませんでした。今回、姉は農業体験も予約しているものだと思っていたので、農業を辛そうと思い込んでる自分は行きたくなかったのです。結果だけでいえば農業体験は予約しておらず、することはなかったのですが、誰かが呼びに来るまで布団に逃げました。布団の中で横になっていたら忘れていた過去の自分がいっぱい頭の中によぎってきました。ここでは集団生活をやらされる…。嫌だ。自分は小さな時から集団生活が苦手でした。したくないことをやらされる事が多かったからです。嫌だ嫌だばかり頭によぎってました。でも、嫌だといっても逃げる事も選べません。選ぶ勇気もありませんでした。

布団の中に全力で逃げることを選びましたが、トイレに、ご飯に、いつかは起きなければなりません。トイレで起きましたが、周りを見渡せば掃除中ですぐ戻りました。「掃除しなきゃいけないのかな?やだな…。」世の中はやりたくないことだらけ…。何故やらなければいけないのか?が根本的にわかっていない自分を再確認しました。

掃除が終わるのを見計らい出てきてみました。そうするとご飯が始まっていました。自分の分もあるということなので頂く事にしました。バイキングスタイルで好きなもの頂けるスタイルは食べるものに対しても好き嫌いが多い自分には嬉しかったです。少食ですますこともできますしね!お腹が空いているせいでしょうか?本当に美味しいからかもしれませんが、食事は美味しく感じました。でも、集団は苦手…。誰かに話しかけられないように、ついていたテレビに夢中のふりをしていました。

お皿をパンで拭くのは教えられた時、ビックリしました。多分洗剤を使わず水洗いをするせいなのでしょうか?洗う人の事を考えたシステムなのでしょうね!

食べた後、やることも見つからないので散歩がてら畑を探してみることにしました。探した範囲では木の花ファミリーの畑は見つかりませんでした。ちょっと見てみたかったです。結果的にいえば次の日に見ることができました。

部屋に戻り布団の中で考え事をしていると、昨日日帰りで帰った母と姉が来ていました。行ってみると、姉と母はいさどんと面談していました。自分の事を話しに来たというよりは、姉自身のことを話しに来ているようでした。昨日いさどんと接して思うところがあったのでしょうね…。姉の悩み相談になっていました。なんで自分の話じゃないのだろう?とも思いました。自分の話にも少しなりましたが、話を終えて母と姉が去った時は本格的に自分の事から逃げられないとも思いました。

部屋や布団に逃げ場を求めて部屋にいました。明日に帰ると言ったから明日までの我慢。そう思うと少し気が楽になりました。部屋でそのまま休んでいると、明日、農業見学ができると呼びかけがあったので、興味もあったし参加を決意。その後、いさどんのプレゼンテーションもあると言われてこちらも参加を決意。気が楽になったといっても集団は苦手です。お風呂、ご飯と共に誰にも話しかけずにいました。

興味はあったから協議には参加しました。協議で「ゲストの皆さんも質問があればしてください」と言われました。問題点に対し、各々が意見を言い合う姿やスタイルは共感が持てました。菊いもについてどんないもなのか?疑問を聞けなかった自分に後悔です。

明日は七時半と早いので早めに寝ることを決意。睡眠薬を飲んで早々に寝ました。今思えば、木の花ファミリーのこと知りたいと思った自分に対しては勿体ない1日でした。でも、布団の中で半生を振り返れた貴重な1日でもありました。

三日目。七時半目覚ましにて起床。着替えて集合場所の玄関へ向かいました。説明してくれる係のお兄さんのもと、車移動。だから昨日の徒歩範囲には木の花ファミリーの畑は見つからなかったのだと納得。最初に見たのは蜂、蜂蜜だけではなく作物の受粉用にも使える。地下貯蔵庫もある。元気に飼育している鶏。白菜畑は虫が食べる部分と人間が食べる部分のお話、だから無農薬でやっている理由がわかりました。山羊の乳はちゃんと育てれば人間の乳に近くなる。匂わないリサイクルトイレ。知らないことばかりだったのでこの出会いは感動しました。

帰っていさどんのプレゼンテーション。ここができるまでの説明、画像を使い、経験、富士山で感じたことを天から降って来たと表現した事、宗教くさくも感じましたがいい表現だな~と感じました。もしかしたらこういう感じ方も天から降って来たのかも知れないと感じました。それから富士山の麓で環境を整えていった話を聞いて少し欲が出てきました。自分も今ある環境を整えてみたい。今ある環境で自分を変えてみたい。そのために何ができるか?そんな事ばかりが頭をよぎっていました。

一番感銘受けて影響を受けた言葉は、「かがみ(鏡)のが(我)を抜けば、人はかみ(神)になる。」自分は小さい頃、神様になりたかった…。色んな人を導きたかった…。あの言葉を聞いたら今からでも神になれるんじゃないかな?と思えました。本当に我が抜けたように感じました。

農場見学とプレゼンテーションが終わった後は、いさどんが仲間たちと作った環境が素晴らしかったということもあり、感激していました。

そしてそのままコンサートへ。歌い手のファミリーさん、うまかった。歌詞も木の花ファミリーの主旨にぴったりで共感を覚える歌詞でした。手拍子を求められた時、リズム音痴の自分にはずれてくるから辛かったです。ゲストも含めて円になりみんなで歌った時は、気がつけば音痴なりに歌詞を見ながら一緒に歌っていました。楽しかったです。最後は円のまま、手を繋ぎ天から光が降りてくるイメージでお祈り…。できたような気がしました。手を繋ぐ体温とともに円は温かかったです。

部屋に戻り、初日の面談の時いさどんが言ってくれた言葉を思い出していました。「三割は助けたる。七割は自分で頑張れ。」七割と言わず十割頑張れそうな気がする。

「私も冬なのに蝉の鳴き声がする。」いさどんは病気なのかもしれませんが病気だと思っていませんね。本当は自分も病気じゃないのかもしれない。何をもって病気とするか?自分の出した結論はこうでした。病気と感じ医者に頼った瞬間からだ。そう思うと震えるこの体も個性なんじゃないかな?と思えてきました。本当に自分でやれそうな気がする。だんだんそう思えてきました。

今一つ根拠はないし自信はありませんでした。自信が確信に変わったのは、帰る時間まで読んでいた、ケアで長期滞在で来ていた人の体験記を読んでからでした。受験に失敗して挫折感を味わい、うつになって薬を飲んで治療しようとしても治らず、いさどんのもとへ頼り、立ち直っていく少年の話でした。木の花ファミリーのケア方針で一週間は自由。その間に少年は薬断ちをしました。帰っても暇人な自分は、これなら木の花ファミリーに頼らなくてもできそうな気がする。少年は一ヶ月で帰りました。ケア滞在期間で三ヶ月もここにいる必要はないことが判明。色々気づいた今の自分なら、三ヶ月もかからず行けるんじゃないか?根拠のない自信にもかられました。

読み終わった頃には帰る時間。この事をいさどんに伝える時間はなく帰り、今になりました。

今、時間はたっぷりありますし、まずは自分でやれるところまでやってみます。それで駄目でしたら皆さんのお力をお貸しください。3日間は本当に貴重な体験でした。色々気づけてよかったです。長文乱文ですが失礼します。

追伸…数日たった現在、薬に頼らず生活しています。寝られないといったら寝られないのですが、別に寝なくてもいいかな?という感じでいます。目と体は休めているから問題はなさそうです。未だに震える体も個性と感じれば全然気になりません。


改訂版・瞬間瞬間、所有の心を解放していけば

いさどんより:
先日このブログを公開しましたが、もう一度改めて読み返してみたら、修正したい箇所が何か所も出てきました。そこで、改訂版をみなさんに読んでいただければと思い、再度ブログにあげることにしました。

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今回のブログは、久しぶりにいさどんの朝のひとりごとです。

人と比べると、僕は心が複雑にまわる。良い方にまわれば、それだけ配慮が出来て広く多様に物事を捉えることが出来る。しかし、悪い方にまわれば、策略したり想いの中に迷うことになる。そういうことから、悪い方に行こうとする自分を監視して、自らにも人にも良いことが現れるようなものの捉え方を常に心がけている。しかし、最近は悪い方に行こうとする心が自分の中に現れてくることはほとんどない。もし、僕が必要なことで伝えないことがあるとしたら、それは相手のために伝える時期をずらし、旬を待っているのである。そういう意味で自分の中にやましい気持ちはない。自らを評価して暗い部分はないと今は胸を張っていられる。

僕は長年沢山の人と接してきた。僕と接する人たちの多くは、他の人には話せないようなことも心を開いて話してくれてきた。誰にも話せないどころか、自分の中の心の構造やそこから来る動きを把握出来ない人たちに沢山出会ってきた。そのような人たちは、今まで誰にも話せなかったことが溜まって病気になっていたり、様々な困難を自分のまわりにもたらしている。そういった場所は、僕に与えられたいくつかの役割の中でも特に大切なものだと思っている。役割として木の花という共同体の在り方を提唱し、ここまで歩んできたが、その歩みの中で人の心を解明し、人々にその仕組みを伝え、それによって人々が混乱から解放されていくことに出会ってこられたことは、大きな喜びだった。だから、今までお百姓になりたいとか、エコビレッジを推進していくとか色々なスタイルを取ってきたけれど、それは付属してあることであって、僕が役割として大事だと思っているのは、広く捉えれば人間社会全体に、狭く捉えれば人間ひとりひとりに、心の成り立ちを伝えること。そして、人の人生は心の成り立ちが反映されて表現され、そのカラクリを知ることが人が生まれてきた目的、生きている目的であり、そして死んでいく先に次につながるのである。これは生を認識した時から、人間にとってもっとも大切なテーマである。

僕には思考パターンというものがあって、それは心の奥の方に折りたたまれた長い手紙のようにしまわれてある。それを端から順番に引っ張り出してきて、ぱたぱたと広げながら読み上げていくようなものである。どんどん端から引っ張ると広がってくる。それを読み上げていくと、その中には答えがある。そして記憶がよみがえってくる。ただ、僕にはその多くを知りたいとか伝えたいという気はあまりない。それは自分のためというよりも、役割のように捉えているからである。

今まで僕は沢山の人に接してきて、人の性質というものを学んできた。ひとりひとり人間には自由が与えられており、生まれてくる時には過去の魂の結果を持って生まれてくる。それがその人の魂の今世の出発点となる。そして、それをもとにして今世をどう生きるのかというプランが組まれている。前世で死んだ時から今世生まれてくるまでに、そのプランを練って生まれてくるのである。つまり、私たちの魂は今世どう生きるのかということをおおむね掌握しており、それをもとに生きていくことになっている。だから、人に起きる様々な悩みや問題事というのは、その人の奥のところではすでに掌握済みのことなのである。人は肉体をいただくことによって五感的思考の方に影響を受け過ぎてしまうと、内なる声を聞けない状態になっていくのである。それは人生を修行と捉える時には大切な仕組みであり、この世界の仕組みとしてわざわざ仕組まれているのである。その仕組みは私たちの自由を完全に奪うようなものではない。そこでは個人が練ってきたプランが元となり、推測するに70%は自由が与えられ、残り30%は与えられたままに歩むように出来ている。そうすると、自らの魂やこの世界について悟っていくことも、プランを大きく外れて低い評価を得ることも、その人の取り組む姿勢にかかっているのである。それだけ人生には自由が与えられ、そういった仕組みの中で、人々は生まれてきた目的をひとつひとつ日々果たしながら、自らの学びのための修行をしていくというのが人生である。その修行の延長に、ふさわしい問題事を与えられながら生きている。その人々が出会う問題事に関わって、その問題事がどういった素姓のものであるのかということを伝えてきた。

僕がそういった仕組みを伝えてきたのは、人々が人生の意味を悟って、自らを高めていくためである。高めるということは何かを獲得することではなく、真実を知っていくということ。この世界の普遍の構造、それが元となる仕組みを知ることは、普遍ではない心の癖など、自分がプランを練ってきた70%の自由の部分を知ることでもある。そういった思考を展開しながら人は日々を生きている。

人というのはその時その時の悟りや学びを持続させるのはなかなか難しい生きものである。そして、知らない間にまた元の自分、それまで所有してきた心に戻ってしまうものである。ここでも多くの人たちとの出会いがあり、「己を捨てて世のため人のために生きる」という大切を伝えてきた。ある人には病気を通して、ある人には人間関係のトラブルを通して、なぜそれが起きているのかということを事例に合わせ、そして大きな意味でこの国や人類、この世界の在り様を見て、それに照らし合わせながら伝えてきた。そういったことを伝えても、そのことをすぐに受け取りそういった生き方に切り替わる人というのはなかなかいないものである。それは人生は修行であり学びであるから、聞いたからといってすぐに出来るものではないのである。すぐに取り入れられるような人であれば、最初からその問題事をもらわないものである。多くの人々はまだ自分の中にある問題事の種を表現しながら修行していく立場にいる。僕はそういう悟り切れていない人々と接しながら、同じように人間の在り様を学んでいく人生をいただいてきた。

そういった中で僕が想ってきたのは、「人にはよく裏切られる」ということ。それは今のような捉え方をすれば、人間は修行の身であり未完成であるがゆえに、心が定まっていない。だから、真理のところに少し触れて仮にそこで心が動かされたとしても、そのままであり続けるような人は少ないのである。ただ、こうやって生きてきて、この人は不動の精神になっていると思う人は何人かいる。そういった人たちとは生涯どころか、このいのちを世界に返してからも、同じ道を歩む存在だという認識を持っている。しかし、木の花以外のところでそういう人たちがいるのだろうかと振り返ってみると、そんな人はほとんどいなかった。そして、他の団体でそのような人たちがいるのかと思うと、そういう人たちとは出会ってこなかった。仮にその意識に近い人たちが何かで盛り上がったとしても、結局その人たちの執着で当初確認し合った心が色褪せてしまい、縁が切れていった。そういった人に沢山出会ってきて、そこで無所有、執着しないという心から、「いいんだよ、それが人というものであり、それは学びのプロセスだから」と、そういった人を認めてきた。しかし、その逆に自らはその精神を変わらず持ち続けていこうという想いを強くして、ここまで歩んできた。人はひとりひとり自らの学びのプロセスの中にいて、その人にふさわしい人生を歩んでいるのであって、それを特定の意識を持って捉えると裏切られたことになる。それもまた自分自身の学びとなり、ありがたいものであった。

そうしてまた新しいものに出会い、今まで歩んできた。そして、今回新たな出会いが起きている。それはヤマギシ会との出会いである。僕らは今までの情報で、違ったヤマギシを想像していた。しかし、実際に出会ってみたヤマギシの人々は、本質的に私たちと同じ歩みをしてきた。別々の歴史を通して歩んできたものたちが、同じものを求めてここで出会ったのだと思う。そこで僕の中に想いが湧いてくる。この関係はどこまで持続するのだろうか。私たち流に言うと、神はこのことを通して何を表現され、何を私たちにもたらそうとしておられるのか。この行く末にどのような目的を持たれているのかを知ることが、今の僕にとって大きな楽しみであるのです。出来れば双方の立場を超えて、「世のため人のため」にありたいものだと思う。

今この時に来て、遠く離れていた人たちの中からこの心を持ち続けている人々との出会いがぼつぼつ現れてきた。今までは身近にいるからこそ、そういう心をお互いに確認し合ってその心を持ち続けている人たちとの暮らしがあった。これからは離れていても変わらずその心を持ち続ける人たちがいる。そして、そういう人々が現れてきていると評価すると同時に、この人たちもまた執着の中で「やっぱり私たちとあなたたちは違うよ」と心が変わって離れていくのでは、という想いが僕の中に湧いてきた。僕はいつもそういう思考が湧いてくると、「それが信仰心というものの証で、どのような答えになっても、それはいただくということだよ。すべては善意から起きていることだから」というところで自分の心を収めていく。しかし、その前の時点では、「もしかしたらこの出会いもまた一時の熱のように冷めていくのではないか」と想う心が働く。そして、その心の延長に、「自らは冷めることのないように、同じ志を持ち続けていこう」と思うと、自らが育てられているのである。しかし、相手に対して時々疑心暗鬼の心が湧いてくる。過去に色々な人と出会う中で最初は盛り上がったのに、そのうちに冷めていくことになり、「あの盛り上がりは何だったのだろう?あなたたちの盛り上がりはそんなふうに持続しないものなのですか?」というようなことがよくあった。

だから、ヤマギシに対しても一方的な疑心暗鬼を持っているところもある。あれだけの組織と歴史があれば今までも色々なことがあっただろうし、色々な人がいるのだから一枚岩にはなかなかなれないだろう。そんな中で、次のステージへ移行する時には抵抗しようとするものもいれば、痛みが発生することも当然あるだろうと思う。それはよく理解出来る。ただ、この人たちは過去にも沢山そういう経験を経てきているから、きっと乗り越えてくれるだろう。上下がないとは言え、その中心的な役割を担う人たちは、やはりそこでは心が痛む立場に立つことにもなるだろう。しかし、そういった理解を持ちながらも僕の中に悪心がひそんでいる。その心を超えていくからこそ、新しい世界が生まれてくることを知りながらである。

僕の中にある悪心は、そうやって疑心暗鬼になる心である。「もしかしたら、この出会いは一過性の熱のように過ぎ去っていくものなのかもしれない」と想う心である。なぜそう考えるのかというと、今まで出会ってきた人々の中にそういった人々が沢山いたからだ。それで人間に対して疑心暗鬼なのである。では、それに対してどうやって信頼の心を取り戻せばよいのか。それは、この世界を動かしている存在が何かの目的のもとにこの世界を表現している。その延長にはこういう心の波が必要であり、その存在がこの波を起こしているのである。それを自らの中に見て、自分にとって予測出来ること、出来ないこと、歓迎出来ること、出来ないことと仕分けするところから疑心暗鬼が生まれてくる。しかし、人生のすべてはいただく修行の場であり、疑いの心はそのバロメーターである。そうすると、まだ疑心暗鬼の心が出てくるということは、悪心があるということになる。それで、「この心がどこから出てくるのか?」と振り返っていくと、「信ずる心を忘れている。信じることを忘れているからこそ、疑心暗鬼の心が出てくるのだ」というところに立ち返る。大元にある善意を取り戻せば、その心は打ち消されていく。そして、どのような答えが出ても、善意のもとに新しいステージを与えてくれるための道としてその出来事は起こっているわけである。そういうふうに受け取っていく。そして、そこに立ち返るのである。

今こうやって振り返っていくと、整理が出来てくる。僕の中に悪心があると気づいた時には、疑心暗鬼がまだ残っていた。しかし、自らの心を眺めながら、それがどこから起きているのかを分析して捉えていけば、その発信源に行き着き、その発信源から出る歪みやギャップから、私たちがこの世界に生かされ、生きる目的が見えてくる。その理解のギャップの部分で人間は心の波を起こし、疑心暗鬼になったりする。そうやって、本来捨て去るべき心は波として出していけば、それを分析しながらその原因を知って取り去っていくことが出来るのである。その作業をしていけば、常に人は安定した志を持って変わらず歩んでいける。今回の悪心の出所は、最近のヤマギシ会との出会いの中で、「ヤマギシの人々も、これを機会に新たなステージに行くのではなく、またいつか自分たちの執着の中で心が変わらず、この流れを受け取れないで所有の中に戻っていくのかもしれない」と思う心である。これは先に進んでみないとわからないことである。なぜならすべてはいただきものだからである。見てみなければわからないことなのに、何となく疑心暗鬼がそこに出てくる。しかし、ここで気づかされるのは、それは自らが学ぶための疑心暗鬼だったということである。それは信じることを忘れた一人相撲のようなものである。

ヤマギシ会との出会いは、今までの歩みは違っていたとしても私たちと同じものの捉え方をして、日々研鑽していく人たちとの出会いだった。そして、心の変化を喜びとする人たちに初めて出会った。そういう特別な出会いであるから、この人たちの気持ちが変わっていくことはないだろうと思う。しかし、ヤマギシの人たちの中には相入れなく別れていく人たちもいるだろう。そして、ヤマギシの人たちもヤマギシとしての癖を持っている。僕が長い間人間と付き合ってきた結果、どこかに「人間とはそういうものだ」という固定概念がある。しかし、それを固定してはいけないのである。なぜかというと、それは時代と共に変化し、その存在の意味も変わるからである。今、木の花にこういった生活がある。そして、時代が変化していく必要を感じる出会いをもらっている。そこでは信頼するということで、未来をいただいていくことだと思っている。

そうやって、私たちは常に瞬間瞬間、所有という心から解放させるための修行をもらって生きている。人生は修行、まことにありがたいことである。


 次の人間は“トンボ”?!by エリー

23日、朝、いさどんは調子が悪く、床に臥せっておりました。数人のファミリーが心配して集まっておりましたが、私のルームメイトのようこちゃんも体調不良で深いねむりについておりましたので、お助けマン登場、エリーが「ごきげんいかが?」と部屋を訪れました。いさどんの西側の窓は開かれ、冬の透明な空が、心地良く、抜けかえるように広がっておりました。
  
いさどんは言いました。「数百万年前、人間の原基がサルであったことが間違っていたのかな。もし、人類が滅亡したら、次に魂の受け皿としてこの地球に生息するのは、複眼で、滑空し、足が6本ある動物だよ。」 さて、それは何でしょうか。
 
私はちょっと考え、「トンボ?!」と答えました。正解でした。トンボ、トンボ、あの身体をスイと垂直移動させ、また、スイと直進する、通常ではありえない、滑空する生物。トンボ!!その繊細で、無駄のない身体と動き、朝焼けに、夕焼けに、気高く空中を浮遊する トンボ。
  
人はそのように、軽やかに、しなやかに生きてゆきたいものです。

いさどんの未来への想い、宇宙への想いは、とどまることなく、流れ出てきます。次には、ようこちゃんから、いさどんの銀河鉄道の旅が報告されることでしょう。

  


いさどんの朝の医療問題ご講話 by エリー

12月5日、日曜日の朝8時過ぎ、木の花ファミリーの本宅の居間で、いさどんは、一人、朝刊を読んでおりました。近くのテーブルでは、ファミリーの子どもたちが朝ごはんの真っ最中。にぎやかな動的風景の中で、いさどんの周囲はしんと静か。そこに、1歳5ヶ月のまりんがにじり寄って参りました。

ふと、いさどんが近くにいた私に、某朝刊の広告を指しながら、帯津良一医博の推薦文の付く「がんを治す新漢方療法」の宣伝広告についてコメントされました。

「まだ、がんは治すものなのでしょうか。」
「病気にならないように生きる、そういう考えはないのでしょうか。」

私はいさどんの手元を覗き込み、そして、「がんは治るものなら治した方がよいと思うけれど、でも病気にならないような手立てを行う方がベターだな」と思い、「予防ですね」と言いました。

するといさどんは、「さらにその先があるのです。病気になるということは、その人の気づきのためにいただくということではないでしょうか」と呟かれました。

病気になるということは、決して悪いことではない。病気には深いメッセージがある。ファミリーで語られる言葉が、私の心に落ちた一瞬でした。

その後、いさどんが理事をされている養蜂協会の理事仲間の一人が、プロポリスの宣伝にて、最近検挙されたことを話されました。病気を治したい、どんなにお金を払っても治したいと思う人々、そして、そうした人々に法を犯しでも高く売ろうとする人々。新聞やTVのメデイアはそうした現代の姿を刻一刻と報道しています。

「時代はまだそこまでしか来ていないのですね。」
「僕らの生き方にまだまだ追いつかない。」

いさどんの憂国の思いは、確実に今、一人の「現代人」に届きました。その思いをさらに皆様に届けます。新しい医療のあり方を目指して。