「治療」としての情報提供~後編

今回のブログは、エリーといさどんの対談第2弾「『治療』としての情報提供」の後編です。

エリー:
個人的な質問ですが、私には「難治性うつ病」、
つまり、治癒するのが難しいうつ病という診断名がついていましたので、
精神的にハードな人格を生きてきたのだと思っていました。

しかし、ここに来た時に最初から「あなたは病気ではない」と色々な人から言われたことで、
非常に戸惑ったのを覚えています。
病気を治してもらいたくてここを訪れたわけですから、
病気ではなく性格の問題であるということを当時は理解することが出来ませんでした。

病気から抜け出した今ならわかることなのですが、
自分が病気だと信じ込んでいた時には「あなたは病気ではない」と言われたことが、
自分自身を否定されたような気がしていました。

いさどんは、病気というものをどう捉えているのでしょうか。
私は今まで病気というものをつくり上げ、病気の中に逃げ込んでいたのでしょうか。

いさどん:
病気の中に逃げ込んでいるというのも一つの捉え方です。
それはネガティブ、ポジティブで言うと、ネガティブな捉え方です。
「病気に逃げ込んでいる」という言い方に対して、
「病気の状態でいる必要があった」という表現もあるのです。

エリー:
ということは、言葉遊びになってしまうかもしれませんが、
それは病気であるということですか?

いさどん:
それを病気と言うのかそうでないのかは、捉え方によって大きく違います。
病的な捉え方がなくなれば、自動的に病気ではなくなるわけです。
私はそういった捉え方をしています。

エリーがここを訪れた時に、「この人は病的な状態である」という診断をしました。
しかし、病気であるかどうかというのは、捉え方によってはたちどころに病気でなくなるのです。
だから私は、これから病気がなくなるためにここに来ている人に、
「あなたは病気ではない」と伝えることがあります。
それは、今の状態の捉え方によって、どちらにでもなることだからです。

エリーの場合は、難治性うつ病ということですよね。
では、なぜうつ病に「難」までついているのかと言いますと、エリーは非常に優秀な方です。
その優秀な部分が難治性となっていたと僕は捉えました。

つまり、エリーのお話を聞いていればわかるのですが、
エリーは非常に思慮深く、物を深く捉えることが出来ます。
物を深く捉えることが出来るということは、
物を正しく捉えられるという点では大変重要なことですが、
難しく捉え過ぎてしまった時には深みにはまってしまいます。
それが難治性になっていたのだと思います。

それから、エリー自身が物事を捉える時に受身的な思考になります。
自分から物事に対して積極的に進めていくのではなく、
何かの作用を受けてそれに反応するというタイプです。

そういうタイプの人は健全な状態であれば、
物事を受けてからそれに対して必要なだけの反応を相手に返していくことが出来ます。
そうやって常に受け身の側で相手から出来事を受けて返す状態でいられればいいのですが、
そういった人が自分で何かをつくっていかなければならない状況になると、
その人の元々持っている性質以外のものを要求されるわけです。

これは、優秀である人がとかく陥りやすい状況です。
受けたものを返していく以上のことを要求され、
自分の中から何かをつくり上げ人に提供する側になった時に、無理が発生します。

つまり、この世界には役割分担として、
リーダー的な役割の人とアシスタント的な役割の人がいるとします。
リーダーが指示を出し、アシスタント的な人がそれを受けて
具体的な行動をすることにより事が成っていくとしたら、
それは優劣ではなく、その両方がないと一つの事が成り立っていきません。

そうすると、エリーはアシスタント的な役割を持っている人です。
その人が優秀であるがために、リーダーの役割や、
その両方をしなければならない立場に立った時に無理が発生したということです。
そこではバランスを欠いた状態になっています。

そういう場合は、自分にふさわしい役割に徹することが出来る環境と、
自分の役割に対する自覚を持てば、安定した状態を保つことが出来ます。
しかし、エリーは優秀ですから、まわりがそういったことを要求する環境にいましたし、
自分に合わないところで発想や行動が求められてきた、ということだと思います。

そのように求められると、エリーの場合はNOと言えません。
「それを受けてやらなければならない、~ねばならない」という発想になり、
それに常に応えようとする心が湧いてきます。
これも受身の人の特徴です。
わかりやすく言えば、「ええかっこしい」ということです。

受身ではなく、自分を積極的に表現する人はNOと言うことが出来ます。
しかし、NOと言えず、一生懸命それに応えようとするところに
そういったタイプの生真面目さが現れています。
そして、生真面目なエリーが色々なことを受ければ受けるほど、
それをやらなければいけない状況に自分を追いやってしまいます。

そのうちにエリーの中には、元々自分がやっていたはずなのに、
「私は何でこんな要求を受けないといけないのだろうか。誰のためにやっているのだろうか」と、
知らない間に人に圧力をかけられて
人のためにやっているという思考が生まれてくることになるのです。

そういったことは優秀であるがために起きてきます。
応えられなければ相手はそういったことを求めませんし、
自分も応えることが出来なければ、もっと早いうちにパンクして応えなくなります。
応えられるがゆえに、その連鎖が起き、
それが知らない間に被害妄想的になり、トラウマになっていきます。

これを紐解いていけば、「そういうことだったのか」という簡単な話です。
しかし、ずっとそういった連鎖が続いていくと、収集のつかない精神状態になっていきます。

私が先程から言っている情報提供と分析、
そこから自分を知ることによって、問題事から自分を解放していくことが出来ます。
こうやって私とエリーは対談していますよね。
私が情報提供をすることによって、
エリーは「なるほど、そういうことだったのか」と笑いながら聞いています。

深刻な状態にいる人は、こういったことを理解するのは難しいものですが、
こうやって客観的な情報として捉えれば、
自分のことすら笑えてしまうような状態になっていきます。

エリー:
大学時代に所属していた研究会の指導司祭が、私を呼び、
「あなたは今後、絶対にえらくなってはいけません」とおっしゃったんですよ。
私は自分がえらくなるために大学に行っていたわけではないし、
「なぜこの人はこんなことを言うのだろう」と、ずっとわからなかったんですね。
えらくなるという意味もよくわかっていませんでしたし、
それ以来気にもしていませんでしたが、ここに来てから時々思い出すことがありました。

自分の身の丈に合わないところに自分が知らない間に追いやられてしまう、
というある意味危機的な状態を神父様は感じたのでしょうか。
当時は私も若い娘でしたので、歌ったり踊ったりということが大好きで、
先輩を集めてテレビのコマーシャルソングに合わせて歌ったり踊ったりして遊んでいたんですよ。

だから、「なぜお馬鹿キャラをしている自分が、
そういうことを言われないといけないんだろう」と思っていました。
ただ、神父様がすごく深刻にきつい顔をされておっしゃっていたのが印象的でした。

いさどん:
深刻できつい顔をしておっしゃったということは、
きっと何か確信めいたものを感じられたということなのでしょうが、
私は深刻できつい顔はしないで同じことを思っています。
エリーがえらくなってはいけないと私も思うんです。

ただ、「えらく」というのは「立派」という意味もありますが、
これは方言かもしれませんが、えらいというのは「辛い」という意味もあるんですね。
辛い立場、つまり責任を負うリーダー的立場ですね。
そういう意味でのえらくなってはいけないというその両面があります。

そうすると、その人の人間性や魂の形によって役割分担、適材適所のポジションがあるとしたら、
エリーはどちらかと言うと、リーダー的立場よりも
サブリーダー的立場の方が自分をより発揮出来る人です。

しかし、逆にえらくなることによってそれを知るということも大切です。
つまり、サブリーダーのところにずっといたら、
そうでない立場に立った時の問題点を体験出来ませんから、
全体像を捉えるための表現をすることが出来なくなってしまいます。

だから、えらくなる立場に立ってはいけない人が、敢えてえらくなることによって、
「自分に合わないところに立つということは、どういうことなのか」
ということを理解することが出来るのです。

この場合、えらくならないということは、精神医学上では健全ということになりますが、
そういう人が敢えてえらくなることによって、
その人の人格的全体像を知るという意味ではえらくなる必要もあった、と私は捉えます。

だから、私はエリーの今までの歩みは正解だと思っています。
神父さんが言われた「えらくなってはいけない」というのは、
エリー個人の安定した精神状態を考えた時の話です。
エリー個人に貢献するという意味では必要だったと思います。

いみじくもその懸念された方へエリーは歩んできたわけです。
その結果、えらくなってしまって、その辛さや問題点を知りました。
今現在もこうやって話しながら、エリーの中にネガティブな発想が所々出てきますよね。
そのことによって、今話しているような全体像や社会の仕組み、
人の心の状態を捉えられる立場にいるのです。

そして今、こうやって対談をしていることが、
これから私たちが行おうとしている元にもなっていきます。
これは、そういう立場に立ったからこそ与えられていることであり、評価出来ることでもあるわけです。
敢えて自分に合わないところに行ったからこそ、わかったことです。
しかし、敢えて合わないところへ行ってわかったとしても、
皆が耳を傾け、誰もがわかるわけではありません。

そうすると、エリーのように、
そういったことを社会に伝えられるような立場にいる人が表現していくということは、
とても大切な役割だと捉えています。

エリーが難治性うつ病だったというところに話を戻しますと、
簡単に治ってしまっていたら、
エリーにとってうつ病をより深く知るということが出来なかったと思います。
難しかったからこそ、大変だったからこそ、
そしてエリーの特性である深く深くものを考えてきたからこそ、
今この場所まで来ているのだと思います。

そのように捉えたら全ては必要であったということです。
難しく深くネガティブに捉えられるエリーがいて、
それも常に受け身で、しまいには被害妄想的になって捉えていったからこそ(エリー笑)、
この事例に対してこのように考えられ、分析出来、それを表現出来るまでに至りました。

僕流にこれを捉えると、
「神様はこのくらい緻密で、心憎いくらいの配慮を持って、
私たちに知恵を与えて下さっている。育てて下さっている。
それも病気という、人間からしたら一見苦痛のように思えるようなことにまで配慮して、
私たちに奥深さを与えて下さっている」ということになります。
いかにありがたい世界に私たちは生きているのか、と考えています。

そういったことを心理学的にも科学的にも捉えることが出来ます。
科学的に捉えても、実際に難治性うつ病がここで治ったんです。
今、エリーにうつ病という状態は全くありませんよね。
それが一般の医療や大学の研究室では「難治性」ということなんです。
医療現場で捉えられているのは、難治性うつ病という病気なんです。

でも、私はエリーの状態を見て、それを病気の症状ではなく、
「人格的な表現から来た現象」と捉えています。
だから、これは心理学と言えば心理学ですが、数学のようなものでもあるのです。
足していった結果、引き過ぎた結果、掛け過ぎて拡大し過ぎた結果、
割り過ぎて縮小し過ぎた結果といったものです。
これは科学的、数学的と言ってもいいですし、物理的と言うことも出来ます。
実際に、18歳の頃は健康で明るくにこにこ笑っていた少女が、
えらい人になって難治性うつ病という負のスパイラルの中に入っていくわけです。

どのように捉えてもいいのですが、これには全て理由があって事が起きています。
その理由というのは、因果の法則から言えば、原因と結果の連鎖です。
その原因と結果の連鎖の先には目的があり、
病気の元が何であるのか、生きている目的は何であるのか、
そういった人が沢山いるこの社会の目的は何であるのか、
そして、この世界の目的は何であるのかというところに気づき、行き着くのだと思います。

だから、病気というものは、病気であると捉えた時に誰でも病気なんです。
健康食品を求め、毎日散歩をし、日々をバランス良く生活していかなければと考えた時に、
それもある種の「健康病」という病気じゃないですか。

それは、情報の連鎖から来ている現象にしかすぎません。
今のその人の魂、心を表現している現象だとすれば、それは単なる情報です。
現象というものは、次から次へと移り変わるものです。
ですから、「敢えて自分は病気的現象を楽しもう」という心になれば、
大いにその現象を楽しみ、表現すればいいことです。
それを楽しむために、情報として現象があるのです。

ただ、楽しんでいると、たちどころに病気ではなくなってしまいます。
逆に、苦痛が好きな人もいますから、魂が望むならそれをすればいいことです。
それも、いつかそこから抜け出すためには有益なことなのです。
どんな出来事もエネルギーの消費ですから、消費し尽せば消えていきます。
その時にありがとうという感謝の念が全てに表われてくるものです。

これはあまり良い方法ではないのですが、
ちょっと指に怪我をした。痛くて仕方がない。
それが辛くて仕方がない人には、もっと深刻な問題を与えればいいのです。
もっと大変な心配事を他につくってしまえば、そんな痛みは忘れてしまいます。

だから、いつでもそこから抜け出せる状態に私たちはいるということです。
私たちはそういう自由な世界にいます。
敢えて今、自分が心の目線をそこに集中し、
そこに目を向けないといけない状態にいる、それを見せてもらっている、
自分が望んでそれをしているとしたら、「もう、やめた」と思えばいつでもやめることが出来ます。
うつ病はそういうものだと思っています。

ここでうつ病が治るのは、その気づきを提供しているからです。
つまり、当事者が「自分は今こういう状態です」と言った時に、
「こういうふうに考えたらどうですか?
こういうふうに捉えたら楽じゃないですか?」とこちらが提案します。
こうやって、薬に頼らず、
代替案で薬を飲んでいた時と同じ安定した状態を保っていければ、
自然に薬が要らなくなります。
そうやって病気が治っていった、ということがエリーにも起きたのです。

薬の代わりにここの音楽であったり、ここの幼児たちとの接点であったり、
私との話やだじゃれであったり、笑いですよね。
そういったことが、ここにケアで滞在している人たちの回復に役立っているのだろうと思っています。

どの人にもそれをやりなさいといったら難しいかもしれませんが、
そういった捉え方は誰でも出来るはずです。
そうすると、治療する側とされる側という区別も必要なくなってきますし、
病気というもの自体がいつでも抜け出せる状態だということです。
これは精神的な疾患だけではなく、物理的な病気についても同じです。

例えば、糖尿病は生活習慣病です。
偏った生活習慣がなぜ起きたのかと言えば、その偏りはストレスから来ていると考えられます。
そのストレスの原因さえ取り除けば、アンバランスが消えて生活習慣も健全になっていきます。
「病気」という「気が病む」という状態から、自然の中にある元通りのバランスに戻り、
健全なる精神に健全なる肉体が宿るのですから、
心のバランスを正してやれば思考も肉体もバランスの良い状態になります。
元通りの気の状態、すなわち「元気」になるのです。

この世界は陰陽で出来ており、その陰や陽をネガティブやポジティブと捉えると、
問題事と良いことがあると捉えられますが、
双方が支え合ってこの世界をつくっているのです。
だからこそ、病気というのは大切です。良いことなんです。

ただ、病気を病気のままにしておくから問題事になるのであり、
病気の奥にはその病気を起こしている目的があるのです。
病気は陰でマイナスですが、その目的を知り、
「ここからこういうことを得られた」と捉えるとプラスに転じます。
ただ、その時に目的だけではわかりません。
病気が起こった原因と結果、現象と目的となってこの世界の仕組みが示されています。

そこで僕流の発想をすると、
「神様はそうやってこの世界をつくり、人を置いて、動かしておられる」ということです。
この世界はどんなこともありがたい世界です。

エリー:
私は小さい頃から、「理解力はあるけれど表現力はない」と言われていました。
それでいつも誤解されてきたというか。
今思えば、自分が理解していることを表現する力を磨くために勉強してきた、と思っています。

いさどん:
そうですね。それがバランスです。
だから、理解した分だけ表現することによって、自分に身につきますし、本物になるんですよ。
ところが、理解したことを表現出来ていない状態というのは、自分の中に鬱積した状態です。
それは、自分をもっと外に出したいという心から「出来ない」という心をつくってしまい、
自分を行き詰まらせる原因にもなります。

今の話を聞くと、エリーがうつ的になったのはよく理解出来ますし、
ある意味予定通りということです。
蓋を開けてみれば、「何だ、そういうことか」ということなのですが、
それが結構長かったですよね(エリー笑)。
でも、その長かった期間というのは、長い間病気でいたからこそ、
それをこれから表現して社会に大事として役立てていくということでもあるのです。

病気や色々な出来事の奥に大きな目的がある。
そこをこれからは見ていく時代なのでしょうね。
単に区切って病気を捉える、区切って現象を捉えるということではなく、
そういった奥にそれを表わしている目的を見ていく時代です。
それは今の人類が抱えている全ての問題に対して言えることです。

それを、神様の意志を知ることだと捉えています。
なぜこの世界がつくられているのか、
なぜあなたがここにいるのか、その目的を知るということです。
そこで初めて、宗教や学問、医療などのさまざまなことがつながり、
この世界がある目的というところにつながっていくのではないかと思います。


「治療」としての情報提供~前編

現代医療について語る」に引き続き、エリーといさどんの対談第2弾です。

エリー:
ご自身の治療者としての基本的な考えや思想性についてお話し下さい。
また、「木の花ファミリーは治す場所ではなく、心を振り返る場所」というお考えについて、
より具体的なイメージをご説明下さい。

いさどん:
私は一般的な立場の治療者としては資格も経験もないわけですから、
自分自身を「治療する者」として認識はしていません。
ですから、治療者が治療という立場から病気に対して持つ知見とは、
全く視点の違うところからものを観ることの出来る自由な立場にいると考えています。

もう一つ言えることは、私は病気を持ってここを訪れる方に治療をしているというよりも、
情報提供をしているということです。
情報提供をするというのは、その方に病気を発症させている現象に対して、
客観的な角度から捉えたことを伝えるわけです。

例えば、ネガティブな思考を持っている人にポジティブな捉え方を伝えることによって、
そのネガティブな思考からくる病的な状態を和らげる効果があります。
それによって、客観的に自分を捉えられるようになり、自分で心の調整が出来るようになります。
ここで生活していくと、そういった効果が現れてくると考えています。

この世界はエネルギーの交換、あるいはエネルギーの発散で成り立っていると私は考えています。
例えば、ある出来事に対してプラスのエネルギーが過剰に消費された時には、
そのバランスを取るために、マイナスのエネルギーが発生するようになっています。
誰かがネガティブなエネルギーを出し、それが過剰になっていたとしたら、
必ず逆のポジティブなエネルギーを用意してやらないとそれを相殺出来ないようになっています。

これは治療としての考え方ではなく、
この世界を成り立たせているルールとしてそのように捉えています。
そのように考えていくと、いわゆる精神疾患だけではなく、
病気やさまざまなトラブル、問題事、さらにあらゆる出来事が
そうした仕組みによって現象として現れてきている、と捉えることが出来ます。

そうすると、そうした偏ったエネルギーの消費によって発生した病気があるとします。
それに対して、逆のエネルギーの消費の仕方についての情報を提供すれば、
自らバランスを取ることが出来るようになるわけです。
それが、私の言う情報提供ということです。

もう少しわかりやすく説明しますと、
ケアを希望してファミリーを訪れる人がいらっしゃいます。
その方はうつ病にせよ、引きこもりにせよ、何らかの問題を持っておいでになるわけです。
当事者の方もそうですし、そのご家族も問題を抱えた状態になっています。

その時に、当事者の方は自分がそういう状態になった理由を語られるわけですが、
それが本当に客観的な視点に立った話かというと、そうは言えないケースがほとんどです。
やはりその人の人格的な問題であったり、
中には機能的な欠陥から来る偏った捉え方をしてしまっている人がいます。

当事者は当事者からの、保護者は保護者からの視点だけで捉えていて、
その症状がどういうものであるのかを見極められるような多面的な捉え方は出来ていません。
そもそも、バランス良く物事を捉えられていたら、その状態には至っていないわけです。

それに対して、ネガティブに捉えすぎていることについてはポジティブな見方を提供しますし、
ポジティブ、つまり楽観的な捉え方をしすぎている場合は、
より慎重に、正確な見方を情報として伝えます。
そうすることによって、当事者にも家族にも現状が正しく認識出来るようになります。
今までなぜその状態が起きていたのかを理解出来ていなかった人たちが、
「こういうわけでこの状態が起きていたのか」と捉えられるようになります。

そうすると、先の見通しが立つようになり、不安や恐怖から解放されていきます。
それまでは、わからないところで歩んできたから不安でしたし、
不安から発生する恐怖に脅かされてきたわけです。
現状を正確に理解することで、急速に楽になっていくのです。

また、当事者が非常に深刻に捉えているような問題であっても、
見方を変えれば「人間というのは面白い発想をするものだよね」と、
そこに愉快さや滑稽さを見出すことが出来るものです。
自分自身を滑稽と言われると不愉快に思う人もいるかもしれませんが、
自分自身を他人のように客観視する視点を提供することで、
「自分はなんて滑稽なことをやっていたんだろう」と
思わず笑ってしまうような方向に誘導することもあります。
当事者には非常に苦痛な状態であっても、
捉え方を変えれば笑いに持って行くことも出来るものです。
そのように心がけて対話をしています。

「治す場所ではなく心を振り返る場所」という考えについての
具体的なイメージをご質問いただきましたが、
それはこれまでお話したように、客観的に物事を捉えながら、
精神的な疾患に至った経緯を一緒に振り返っていくということです。
その中で、どこでどのような捉え方をしてきたのか、ということを一緒に考えていきます。

その時に、当事者の方は当然それまでの延長線上でものを考えられるわけですから、
こちら側からは常に代替的な捉え方を提供していきます。
そうすることによって、過去のイメージから作られているトラウマからその方を解放していく、
という作業をしていきます。

そういった情報は、面接という特別な時間だけではなく、
ここに滞在して生活している日常の中でも提供しています。
私が常にそういう立場を取って当事者の方について回るわけにはいきませんが、
普段はその方がファミリーの中でどのように過ごしているのかを眺めています。
その方の状態を観察し、その方の心の癖や性格的なものがどのように表われ、
変化していくかを見ているわけです。

その時に、ファミリーメンバーとのやりとりの中に表れるその方の性格や心の癖を観察しながら、
次に接点を持った時に情報提供するための材料を集めていきます。
ファミリーメンバーたちも、その方と接していて気づいたことを私にフィードバックして、
材料集めを手伝ってくれます。
こうして集めた情報を次の面接で伝える、というようなやり方をしています。
それがここで行われている、一般に言う「治療」ということにつながる方法ですね。

これまでエリーに対してもそのような接し方をしてきたと思うのですが、
それを受けた側としての感想はありますか?
あるいは、それに関する質問等もあればどうぞ。

エリー:
ネガティブな思考や発想について一貫しておっしゃっていますが、
それはうつ病に関してだけなのか、それとも病気全般に関して言える傾向なのか、
ということをお伺いしたいと思います。
また、ネガティブな思考に偏ってしまうということが、
それこそどこから来ているのか、ということについても知りたいです。

いさどん:
ネガティブやポジティブというと、一般的にはネガティブが問題であって、
ポジティブが問題を解決するための良い方向と捉えがちだと思うのですが、
そういった捉え方をすると、良いこと、悪いこととして分けてしまうことになります。
それでは問題事の本質を捉えることが偏ってしまい、
問題解決はかえって難しくなっていきます。

ネガティブということがここでは何を示しているのかというと、
その人の心の状態を表現する材料ということです。
それに対して、ポジティブが物事を前向きに捉えていくことだとすると、
自分や周囲にとって都合の良い部分を表現していくと、ネガティブな部分は封印されてしまいます。
ポジティブが進みすぎたら躁状態と考えてもらったらいいと思うのです。
それに対してネガティブが進み過ぎたら鬱状態ということになると、
鬱と躁というのは通常の人の中にもあるものです。
それを上手にバランス良く使い分けることによって、健全な状態を保つことが出来ます。

そうすると、物事をネガティブにしか捉えられない状態に偏ってしまった時に鬱になるわけです。
ここで悪意と善意という視点で見ていくと、
物事を悪意的に捉える傾向が極端になると、
物事や他人のことをどうしても好意的に捉えられない状態になってしまいます。
しかし、物事を悪意で捉えるということは、視点を変えれば慎重ということでもあります。
それは物事をより正確に見極めようとする心の働きですし、
疑ってかかるというのも「転ばぬ先の杖」で、大事な発想です。
反対に、ポジティブに考えるというのは何でも良いこととして捉えていくということですが、
人によってはきちんと物を考えずに進んでいってしまうこともあるわけです。

ですから、本来はネガティブさとポジティブさを使い分ける冷静さが必要とされます。
その偏りというのは病気として出てくるだけではなくて、
家庭内や会社の中といった日常のさまざまな人間関係においても表れてくるものです。

そこで、自分の中のネガティブな部分を物事を慎重に見極めるために使っている人は、
その部分をコントロールして個性として活かせているわけですね。
これに対して、ポジティブな部分を良い方向に活かせば、
物事をどんどん発展させていくことが出来ますが、
それが偏り過ぎてしまうと時期尚早なのに物事を進めすぎたり、
必要のないことまでやってしまったりして、
あとからそれを補わなくてはならないようなことにもなります。

これと関連するのですが、私は鬱を二つのタイプに分けて捉えています。
一つは、ネガティブな方向に偏りすぎた鬱ですね。
それは、もともと鬱的な要素がある人の鬱とも言えます。
ネガティブに考え続けた結果として、物事を悪く捉えることしか出来なくなってしまい、
思考が停止して行動出来なくなってしまうタイプです。わかりやすいタイプです。

一方で、ポジティブな方向に偏りすぎた鬱というのもあります。
物事を楽観的に考えどんどん行動を進めていくのですが、
慎重さを欠く結果として、物事が次第に行き詰まっていきます。
本来はそこで振り返らなければいけないのですが、
ポジティブに考えるものですから、どんどん前に進んでしまい、ますます行き詰まってしまいます。
結果的には自信を喪失して行き詰まり、鬱になってしまうというタイプです。
ですから、その方の鬱がどのようなタイプなのかをまず見分ける必要があります。

また、原因を捉える際、当事者の家庭環境が大きな材料を提供してくれます。
本人の兄弟、両親の精神性や関係、さらに両親の親の関係まで家系図を書いてもらい、
分析して、その家族の傾向を捉えていきます。
それがその人にどのように影響しているのか、を捉えていくことが有効になります。

どのようなタイプにしても、
どこかでバランスを欠いた結果として今の状態があるわけですから、
過去を振り返り、色々な時点の状態を思い出してもらいながら、
どこで自分が鬱に入っていってしまったのか、
どのような偏りが原因でそうなっていったのかを分析し、情報提供をしていきます。
そして、その時点からの思考を組み立て直しながら現在に戻ってくる作業をすれば、
持ってしまったトラウマを解消し、バランスの良いその人に戻れる、ということです。

ご質問は、ネガティブな発想がうつ病に特有のものなのか、というご趣旨でしたが、
ここまでお答えしたように、それは病気に限らず、人生の中で常にあることだと考えています。

それから、そうしたネガティブな発想がどこから来るのか、というご質問については、
宗教的に言えばカルマ(業)ということになり、そういった心の癖があるわけです。
それは、より宗教的な捉え方をすれば、
その人が現在のような魂の状態になるような歩みが過去にあった、ということになります。
その過去というのは、その人の人生における過去だけでなく、
いわゆる仏教的に言う過去世も含めた魂の歴史があり、
その上で生じた心の癖や性格から出てきている、と考えられます。

いずれにしても、病気の原因を捉えていく時にはホリスティックに原因を捉え、
それを遡りながら、一つずつ解決していくことが大切になります。

私はこれまでに沢山のケアの人たちを引き受けてきましたが、
親子や兄弟、夫婦といった魂として近い縁は、
心の癖をお互いに出し合うためにいただいている、と考えています。
お互いに役割を果たし合っているということです。
そういった心の癖をお互いに出し合い、
トラブルを発生させることによってエネルギーを消費させ、
そこから学び抜け出していくという作業をしている、と捉えています。

エリー:
そうすると、バランスを欠いた状態というのも、
やはりバランスを欠きやすい魂として生まれた結果、と捉えていらっしゃるのですか?

いさどん:
バランスを欠きやすいというよりも、
バランスを欠くことを必要としている、ということですね。
つまり、魂がアンバランスなものを持っていて、
それを解消するために生まれてきているということです。
まずは表現することが必要なわけです。
見方を変えれば、それを表現するために生まれてきている、とも言えるわけです。
それを表現することを約束し生まれてきた、と言ってもいいと思います。

そうすると、それが表現されるということは、
魂の目的が果たされているわけですから、いいことなんですね。
表現すればするほど、約束通りに自分自身を学んでいく作業が進んでいる、ということですから。

エリー:
そうすると、うつ病になるというのも、ある程度予想されているということでしょうか。

いさどん:
私が当事者の方とお会いする時には、
当然、その人がどのような歩みで今に至ったのかはわかりませんが、
その人と接することで人となりがわかると、
おおむねその人の魂の歩みを捉えることが出来るわけです。
そして、その方の現状と、生まれてから現在までを聞くと、心の傾向が見えてきます。

そうすると、その方が何を表現するために生まれてきているのか、ということが捉えられますから、
そこからうつ病に至った流れをつかむことが出来るのです。
その流れの全体をつかめると、どういう理由でそれが起きてきたのか、
ということを当事者の方に情報として提供することが出来ます。
それを受けた当事者の方が納得し、
自分がその状態であることが不必要になったことを悟れば、
自分でそこから抜け出してくることが出来ます。

つまり、当事者の方が自分の魂のアンバランスを表現した結果、
自分の意志でそこから抜け出すということです。
そこには治療者と患者という関係ではなく、
情報を提供する人と、それをもらうことで自分のことを知り、
自分の意志で病的な状態から抜け出してくる人、という関係があるのです。

エリー:
今の話は、現代医療の中で行き詰まっている人には大いに救いになると思います。
同じことを宗教的な視点を持たない人、
魂の存在といったことにあまり触れたくないと思っている人にも
わかりやすく説明していただくことは出来ますか?

いさどん:
本来、宗教的な捉え方は、宗教という特別な枠の中にあるわけではないのです。
そういう意味では、宗教的なものを良いとか悪いと判断してしまうと、
かえってそれを宗教という枠に閉じこめることになってしまいます。

この世界を科学的、物理的に捉えたり、哲学的に捉えたり、宗教的に捉えたりと、
色々な切り口があるうちの一つだと私は考えています。
あくまでこの世界を知るための窓口の一つとして捉えればいいと思うのです。

今、私がお話ししているようなことは、私が歩んできた経緯がありますので、
どうしても宗教的、スピリチュアルな語り口になります。
ただ、宗教的な表現を否定されたり、魂という言葉を嫌がる方でも、
自分の個人的な考えや想い、その人のオリジナルなものの捉え方というものは必ず持っています。
それをここでは魂と表現しているだけですから、
それを心理学的に語ることももちろん可能です。

その魂の表現がバランスを欠いていれば、それが症状として表れてくるわけですから、
バランスを取っていくことを心がけましょうということで、
先ほどもお話ししたように情報提供をしていくわけです。
その時に、宗教的に捉えたい人には宗教的に、
心理学的に捉えたい人には心理学的に伝えればいいのです。

もっと科学的に、ということであれば、
例えば脳内物質が過剰に出ているとか足りないといった伝え方になるかと思いますが、
その場合も、いきなりそのようになったというよりは、
それ以前に何か原因があってそうなったわけです。
この世界というのは、常に物事が起きることによって次のことにつなげている世界です。
原因と結果の仕組みでつながっているわけです。

さらに、この世界は原因と結果だけで成り立っているわけではありません。
現象が起きているということは、必ず目的があるわけです。
原因と結果が無意味に、ただ機械的に連鎖しているのかというと、
原因があり、それが連鎖して結果になり、その結果によって何かを表現しています。
そこには常に目的があります。

例えば、鬱という現象があるとすると、
それはとかく問題事として捉えられるものですが、
その現象によって私たちが何かを知る、
その目的のために現象があり学びになっているということに気づいていきます。

ですから、病気を単に問題事として捉えている人は、
なかなかそこから抜け出すことが出来ません。
しかし、病気を通して何かを学び、自らが成長するための出来事として病気を捉えれば、
病気という結果には目的があることがわかります。
何かを我々に与えているのです。

病気を原因と結果という側面から捉えると、
例えばネガティブな思考があって、自分に過剰な負荷をかける行動によってストレスが溜まり、
自律神経の機能が低下した結果イライラして、人とのトラブルが起き、
それがさらにストレスになって、最終的に病気が発症した、というような連鎖があるわけです。

そこで、例えばトラブルによって人との絆が切れれば、そこに孤独が生まれます。
そうすると、孤独を学習することになります。
そして、その状態を体験することを通して、
調和や愛に目覚めるという目的がそこに表現されるわけです。

そういう捉え方をした時に、
私たちはアンバランスなことが起きることによって何かを学ばされ、
成長させられている、ということになります。
そうすると、病気などの問題事も、
それを与えられることによって育てられている、という解釈になります。

それを宗教的に捉えるのか、それとも心理学的、科学的に捉えるのかはそれもバランスですから、
色々な切り口で捉えていくスキルがあるほど、バランスの良い人が出来るということです。
病気などの問題事から自分を知り、この世界を知ることが出来ます。
知るということは悟るということです。
広い意味での世界が観えてきます。
そのことによって、社会が進化し、成熟して、問題が解決されていくと考えています。

(後編へ続きます。)


現代医療について語る

9年間にわたるうつ病をここに来てから3ヶ月で克服し、今はメンバーとして活躍しているエリー。
大学教授として言語病理学を研究していた経歴を活かし、週末は東京に通い臨床のお仕事もしています。
今日は、現代医療、特にうつ病への精神医療についていさどんにインタビューしました。

エリー:
現代医療、特にうつ病への精神医療について考えるところ、感じるところをお話し下さい。

いさどん:
まず、私が病気をどう捉えているのかについてお話します。
人が生きていく上で出会う色々なトラブル、困難の中の一つに、
医療で捉えられている「病気」というものがあります。
困難には病気だけではなく、人間関係の対立など色々な問題があります。
その中でも病気については、
「病気」という切り口で捉えると、病気を問題事として捉えています。

この世界はどんなものも、相反する二つのものによって形成されていると考えています。
ということは、全ては陰陽で成立しているということです。

そうすると、病気でもトラブルでもそうですが、それは陰陽どちらか一方に偏った現象です。
マイナス現象というのは、物事が起きた時に現象を終息させ、収めていく力です。
それに対し、プラス現象というのは物事が起きていく時の力です。
それを収めていく力がマイナス現象だとし、収める作用として病気を捉えれば、
そこに病気が発生する原因、つまりプラスの要因が働き、
その結果病気やトラブルが起きているということになります。

プラスが極端に発生した場合にマイナスを起こし、
本来の安定した状態に戻そうとする力、それがトラブルということです。
その一つの表われが病気であり、うつ病はその精神疾患の一つであるわけです。

一方、現代医療の病気に対する捉え方は、
症状を現象として特定し、その症状をなくすという考え方です。
例えば、湿疹が起きているとか、怪我をしたということに対して、
その湿疹をなくしていくこと、怪我を治療するという捉え方です。
湿疹をなくすということは確かに有効で、
湿疹がなくなれば見栄えも良いですし、苦痛もなくなります。
怪我も、当然治すために治療をしていくことになります。

ただ、湿疹が出た背景を捉えてみると、それは内蔵疾患かもしれませんし、
内蔵疾患につながる自律神経の問題かもしれません。
また、自律神経を不安定にさせている精神性にもつながっていきます。

怪我についても同様で、単に偶然に怪我が起きたのかといったらそうではありません。
怪我をした時のその人の注意不足、それは心の不安定が原因していると捉えられます。
そうやって観ていくと、その背景には必ずその人の精神性が現れてきます。

湿疹が起きている原因が内蔵疾患だとしたら、
適度な食を超え、食べ過ぎてしまうような原因がその人にあるのかもしれません。
そうしたら、なぜ食べ過ぎてしまうのかということを考える必要が出てきます。
それは、その人を取り巻く環境や環境に影響を受ける人柄、人間性につながっていきます。

人間に限らず生命には、常に健康体を保っていこうとする力が働いているものですが、
その生命が健康体になろうとする力以上に偏った行為をしてしまうと、
バランスを欠くことになってしまいます。
そこでは、何かストレス的なものやそういう自然に反するような精神性が原因となり、
そういった行動から症状を起こしています。

そうすると、精神疾患でも何でもそうですが、
バランスを整えるために薬で精神性を操っていくような治療を行ったとしても、
根本の精神性は変わらないために症状は改善されません。
病気というものは、まわりの環境から来る様々な心の葛藤や、
本人が元々持っている心の癖によって、バランスが崩れた結果起きてきます。

環境に起因することや、本人が元々持っている病気を引き起こす癖に起因することもあると捉えれば、
そこのところを観ずに治療を行うということは、「人を観て心を観ず」ということになります。
「人を観て心を観ず」の状態で相手と接していたのでは、
相手を観ていても相手を観ていないということになります。
今、そういう医療が多く行われていると思っています。

病気については、原因のところまで捉え対処していくことが出来れば、
表面的な治療をしなくても状況は改善されるでしょう。
元の原因とは心のボタンの掛け違いです。
ボタンの掛け違いというのは、全部のボタンがずれて掛けられている状態で、
やることなすこと違う結果が生まれてくることになります。

しかし、元は最初の一個のボタンが掛け違っていたに過ぎず、
そのままにしていくから、全部掛け違うということになるのです。
これを逆に捉えると、最初の一個だけ正せば、全て正され健全になっていくことになります。

そういった捉え方をすると、精神医療だけではなく他の病気でも、
広い意味で捉えれば人間が生きていく上で出会うトラブルの一つであり、
根本的な原因を観て振り返ることが出来れば、その問題は解決に向かっていくものです。

根本の原因を観ることが出来れば、そこに気づきが生まれます。
気づきというのは自分の中から湧き出てくるものです。
「自分は自分にバランスの悪い、負荷をかけるストレスを与えていたんだ」ということに気づけば、
たちどころにそれを止めることが出来ます。

私たちはここに滞在する人たちにそういった気づきを提供しています。
「健全な精神に健全な肉体が宿る」ということで、
心のバランスが良くなれば、体のバランスも自然に良くなるものです。

ホリスティック医療が叫ばれている中で、
医療現場がなぜそういったものの見方をずっとしてこなかったのかということを考えると、
近代医療はそこにお金が絡み、利益を生む産業になっているということが言えます。
人々の問題事を解決し社会に寄与していくために医療があったはずなのに、
それが産業になっていることに一番の問題があるのではないか、
そういう産業の担い手としての医師の教育がされているのではないか、
ということも大いに考えるところであります。

病気やトラブルが私たちの人生に発生しているということは、
生きている上で私たちがそういった形の自己表現をしているということです。
私たちは、自分の心を表現し日々を生きています。
その表現が偏ってバランスを欠き、
プラスの過剰、「自分だけが」「自分さえよければ」という心で表現した時に、
マイナス現象が働き、病気を発生させているという仕組みになっています。

そうすると、病気などのマイナス現象は、「プラスが過剰ですよ。
あなたの心はバランスを欠いていますよ」ということを教えてくれているメッセージということです。
バランスを欠いていれば、人生という道を歩む時に不安定になり、辛いことになるのは当たり前です。
バランス良くいけば、健康で豊かに持続可能な人生を歩むことが出来ます。

また、バランス良く人生を歩むことが出来れば、
冷静さを持ってまわりの出来事から学び、
自らの心の問題事の種を取り去って成長していくことが可能です。

バランスを欠いていると何も成果がないどころか、苦痛が与えられることになります。
しかし、苦痛を与えられて問題なのかといったら、
苦痛はそこから学び、人生を尊いものにして自分の価値を高めるために与えられていると考えれば、
医療という視点から観た問題事としての疾患とは捉えられないと私は考えます。

そのことを人々が理解しなければいけません。
そういう視点で病気というものを捉えると、病気に対する認識が随分変わってくると思います。
病気は嫌なもので問題事である、退けるものである、病気はない方がいいという考え方は狭い視点です。
確かに病気はない方がいいのですが、
病気を生業の対象にする人がいていいのかということについては、そういう人は少ない方がいいでしょうし、
病気がなくなっていけば、そういう職業こそなくなっていくことが社会にとっては良いことでしょう。

そういう意味からすれば、現代医療が今のままでいつまでもあり続けるということは問題です。
問題といっても、人間がこの世界に生まれてきて、
その問題事に出会う意味を理解するために今の段階があるのだと捉えています。

今現在、病気が沢山起こり、問題事が山のようにあるということは、
その現象の奥にある根本的な意味を、
社会的にも個人的にも学習していくことが問われているのではないかと考えています。

社会と、その社会を構成している個人という二面で今の時代を捉え、
医療や社会に対する新しい在り方を皆で考えていくことが、
こういった現象の奥にあるメッセージとしてあるのではないかと思っています。

今朝読んだ新聞記事の中に、15年前の阪神・淡路大震災で6千数百名が亡くなったこと、
6年前のスマトラ沖地震では22万6千人が亡くなったこと、
そしてハイチの大地震では23万人が亡くなったと書いてありました。

その後に68万215人という数字があったのですが、
これは日本でこの4半世紀、約25年の間に発生した自殺者数です。
20年間で55万人を越えた人が亡くなっていて、
昨年には3万2千845人が自殺したという記事が載っていました。

日露戦争の時には年間1万人が死んだと言われていますが、
その3倍以上の人が自殺で亡くなっているのです。
そういった数字が12年も続いています。
自殺者をなくすには、社会的な問題と個人の心の問題の
2面の根本的な原因を捉えていくことが非常に重要だ、ということがこの記事からうかがえます。
動機が判明した中ではうつ病などの病気の悩みが最も多く、
その次に負債等のお金の問題が原因であるということです。

そうすると、お金というものの捉え方が心の問題になっているということです。
お金や心の問題で発生した病気を、
医療が薬だけで抑え込もうという矛盾的行いが起きているのが現状です。
その人の心の癖は個人的な問題であり、その背景にある負債は個人的かつ社会的な問題です。
そういったことを多角的に捉えて初めて、問題を解決することが出来ます。

単に病気を治すということよりも、社会にそういった問題が発生しているということに皆が気づき、
それを絶ち切っていけば、現代医療が今の限界を超え、
本当の意味での健全な社会と健全な人を生み出すことにつながるのではないかと考えています。

エリー:
今の話は、今まで自分が聞いたこともないような話なので目から鱗でした。
今のような捉え方をしたら、社会における全ての問題が解決出来るような気がしています。

今まで、「病は気の病」ということで、精神が大きく関わっているとはいうものの、
そのことによって脳に器質的な変化が起き、
それを薬によって調整していくから薬も必要であるし、
現代医療の価値はそこにあるのではないかと思っていました。

いさどん:
そうですね。脳に問題があるということは、
例えば分泌物が足りないとか、多く出てしまうというような症状を捉え、
そこを解明していくということはとても大切なことですし、それは医療の大きな使命だと思います。

先程の内蔵疾患であっても、脳の中に異常な分泌物が出たり足らなくなったりすることも、
元をただせばそうなるべき理由があるということです。

例えば、心が不安定でストレスが溜まっていくと、自律神経のバランスが崩れていきます。
自律神経は臓器の安定を司るところですが、
心が不安定になったからと言って、内蔵が悪くなる必要はないはずです。

しかし、そうなるような仕組みを私たちはいただいています。
ところが、医療現場ではまだ現象だけを捉え、治していこうとしています。
しかし、現象にはそれが起きる理由があり、
さらに観ていくと現象を引き起こしているストレスや、
ストレスを引き起こしている心の癖とつながって現象が起きている、ということが理解出来ます。

さらに、その人にはそのストレスを受ける必要がある、と言うことも観えてきます。
魂の不完全というものがあり、その不完全に気づくためにそういった現状を与えられているのです。
全てはプロセスの一部であり、それに沿った現象が起こり、
そこから最終的に対処療法的治療を受けていくことは、その現象の根本的解決にはつながらないのです。

今エリーが言った医療の考え方というのは、あるところまで来るとその先を捉えず、
表面的な症状を治せばいいということになるのです。
それだけでは「なるほど、そうか!」と納得がいくものにはなりません。

エリー:
今の現代医療を支えている人たちは、まず魂や心というものの存在を認めていない人が多いですからね。
心や魂というのは脳の活動の結果生じてきているものという捉え方からすれば、
原因を魂や精神性に持っていくという捉え方は最初から排除しているわけです。

そこに観えてくるものは現象と言われているものですが、
そこで観えている病気の症状にいかに対処していくのかということ以外に、
唯物論的な観方からすると限界があるわけです。
限界があるという考え方は唯心論の立場からするとそうですが、
唯物論の立場からすればそういう捉え方はありませんから、
限界と捉えないでそのまま行ってしまうということになります。

いさどん:
そこでは、症状を治せばそれで良しということですよね。

エリー:
それ以外にないというか、人間というのはそういうものだという観方です。

いさどん:
ここではうつ病がテーマになっていますが、
明らかに現象を起こしているのは、人の想いや想いにつながっている行動です。
想いというのは、唯物論で言われる「捉えどころのないもの」です。
それが元になり、うつ病的な現象が現れてきているわけですから、
そこを切り離してしまうと、逆にこういった医療現場に従事する人すら、
心の矛盾が発生する状態になるのではないかと思うのですが。

エリー:
そういったケースは非常に多いと思います。

いさどん:
そこから目を背け、とことん機械的に医療に従事するような人は
医療現場にい続けることが出来るかもしれません。
しかし、そこに矛盾を感じるような心を持っている人は、
自分が治す立場にありながら、バランスを欠いた不安定な状態になってしまいます。
しかし、それは物事の本質を捉え出してきた結果ですから、好ましいことだとも捉えられます。

エリー:
だから、精神医学者や精神科医、臨床家のかなりの人たちが、
心を病んだり、お酒に溺れたり、生活破綻者になっている現状があると思います。

いさどん:
そこのところは、先程お話した、それこそ「人を観て心を観ず」ということだと思います。
つまり、そういった人たちは原因がさらに遡ったところにあるのに途中までしか観ず、
立場上の仕事をしているところに問題があるのではないかと思います。

エリーは、現代医療の治療現場に今までいたわけですよね。
それは良い悪いは別にして、結果としてここと出会ったわけです。
エリーはここでの治癒に対して、唯物的な治療方法ではない、
何か他の理由によって治っていったと捉えていますか。
どのような要因がエリーの病気の治癒につながったと捉えていますか。

エリー:
元々私は宗教的な家庭で育ちましたので、唯物論に対しては否定的な立場でした。
ただ、成長の過程で生きることのしんどさに耐えられなかったのではないかと思うのですが、
そういったことについては割り切って生きていきたいと感じていました。

そしてここと出会い、自分が今まで一生懸命目を背け、
逃げていたというか、忘れていたものと向き合わざるを得なくなったように感じました。
懐古的な言い方になるかもしれませんが、
ここにいることで、昔の自分の心に引き戻されたというふうに感じています。

今は素直になってしまえば、現代医療に対しては非常に否定的で、
唯物論の考え方の浅さ、愚かさを強く感じています。
自分のうつ病は、「心の問題から逃げない」というスタンスに立つことによって治癒したのだと思っています。

いさどん:
元々エリーは信仰的な家庭に生まれ、唯心的な育ち方をしました。
それが大学という学問の世界に入り、唯物的な視点で学問をしてきました。
そして、自分自身が心の疾患と出会うことにより、
また唯心的なところに出会って自分らしさを取り戻した、ということですか?

エリー:
そうですね。

いさどん:
そうすると、今エリーは唯物的なものを否定するという話をされたのですが、
そうではなく、唯物的なことと唯心的なことのバランスを取って織り交ぜて考えていく、
と捉えた方が適確なのではないかと思います。

私は現代医療に対して否定的ではありません。
ここでの効果は私たちの働きかけに反応する段階の人には有効です。
私たちは相手の心に働きかけ、
相手がその働きかけを受け取り、自分の中で解釈し、反応を返す、
それに対してこちらがまた働きかけるというキャッチボールが出来て初めて、
ここでの対処は効果があります。

それが出来ない段階の人、混乱してしまっている状態の人に私たちの対処法が効果的なのかというと、
強制的な場も必要でしょうし、ある意味では苦痛を和らげるための投薬的なものも必要だと思います。

本来はそこまで行く前に、唯心的なことと唯物的な捉え方のバランスを取ることが理想です。
しかし、現実には唯物的な治療も非常に有効だと捉えていますし、
過去にも自然の中にある薬草や鉱物を使って症状を治してきたと思うのです。
車の両輪のようにその二つのバランスを取っていくということが大切で、
今エリーが言ったような「唯物的なものが問題だ」ということではないと思っています。

ただ、唯物的なことが栄え過ぎ、そちらの方に偏り過ぎたとは思っています。

エリー:
普段から極端に走る自分の癖が出たのだと思います(笑)。
また、極端な教育を受けてきましたから、
その反動が大きくて、こういう考え方になったのだと思います。
私の性格はエキセントリックと言いますか、すごく極端なんですよね。

現代はヒステリー的社会だと思うのですが、ヒステリックに物理的なものを求め、
一方で非常にスピリチュアルを求めていると思っています。
私の目から観ると、それがすごくおかしく思える時もあります。

いさどん:
そうですね。今、やたらと物理的な世界が進んできた結果、
非常にスピリチュアルな、それこそバーチャル的な世界がもてはやされています。
私もそれは危険なことだと思っています。

全てが陰陽で成り立っているというところに話を戻しますと、
私たちは霊性と肉体という両方を持って存在し、そのバランスによって生きています。
そこにアンバランスが発生することによって、
そこから痛みをいただきながら学び、成長しているということが人生だということです。

成長するということを目的に問題事を捉えれば、
問題事も悪いものではなく、成長するための糧として希望が湧いてくるものです。
自分を発見するチャンスになります。
そうやって、広い意味での病気に対する捉え方が必要なのではないかと思います。

現代医療に対する想いということからすると、
そういった多面的な観方を医療現場の方たちが取り入れ、
精神疾患といったものを捉えていくことが必要な時代が来たのだと思います。
しかし、それすらもプロセスとしてそういう段階に来たということで、
決して今までの医療の在り方を否定してはいけないと思います。

今までの医療は非常に有効でした。
しかし、次の段階に進む時には、必ず今有効なものにも限界が来て、
問題事がそこから観えてきて、次のステージに行くということだと捉えています。

(エリーの対談後の感想)
私は宗教教育を受けて育ってきましたから、教祖的なものにすごくアレルギーがあるのですが、
いさどんの考え方というのは、すごく冷静で健全でいらっしゃるので感銘を受けました。
唯物論と唯心論を自分が分けて考えていると言われたことで、
自分が対立を生むような捉え方をしていたということにも気づきました。
いさどんのような考え方を自分が今まで求めてきて、今自分がここにいるのだと思っています。
今まで二極の対立する考え方のどちらかを選ぶ生き方しかしてきませんでしたから、
第三の道、新たな生き方があるということを知り、目から鱗でした。


ようこそ、ここへ

珍しくメンバーのひろっちが、
「大人会議前にいさどんと話す時間を持ちたい」ということで、
今日の夕食後、ひろっちといさどんの面談の場がもたれました。

ひろっち:
今日の大人会議でもシェアするけれど、
まずはいさどんに話をしようと思いました。
陽子ちゃんから手紙をもらったことがきっかけで、最近色々と思うところもあって。
とりあえず、考えがまとまってブログにしたので、読んで下さい。

(いさどんがひろっちのブログを読み終わりました。)

そういうことなので、いさどんに育ててもらいたいなと思っています。

いさどん:
はっはっは(笑)!共に歩むということだよ。
それと、そういう心境になった人というのは、
それこそ独立して一人の人としてあるのだから、本来は上下なんてないんだよ。
その状態に至るまでには、上下があるのかもしれないけれど。

このような心境になったということは、
「自分対この世界」であるし、「自分対神」だからみんな平等なんだよ。
それに気づいたということは、共に歩むということだから、
上下なく仲間として一緒にやっていこう。

今までの歴史のように、
教団や組織をつくるという発想に基づく目的があるのなら、
そこには上下もあるのかもしれない。
しかし、これからは、
もっと大きなものがこの世界で何かを表わそうとしているわけだから、
その役割をしっかり果たしていくことだと思う。

そうしたら、私たちはその中の一つ一つの材料であったり
手足なのだから、みんな平等なものです。
まして、そのことに気づいた人たちは全く対等なものです。

それこそ、桜田淳子の世界。

ひろっち:
桜田淳子?

いさどん:
♪ようこそここへって(笑)。
ようこそ、この心境になったんですね、ということだよ。

ここの人たちは、
どの人もそういう心を目指してここにいると思います。
しかし、人によってはそれが漠然としていたり、
まだつかみ切れていなかったりしています。
でも、最終的にはみんなそうなるために生きていると思うんだよね。
そうすると、ひろっちはけじめをつけてすごくいい方法をとってくれました。
みんながこれに見習い、しっかりとした決意を持って歩んでもらえればと思います。

気づきが生まれてこない人との違いは、
やはり決意が出来ているか出来ていないかということだと思う。
そういった決意さえあれば、気づきがどんどん出てくると思います。
その違いは大いにあります。

だから、ひろっちの決意は、
みんなの見本になって大変いいんじゃないかと思う。

ひろっち:
「師匠として、僕を弟子にして下さい!」という想いで今日は来たのですが。

いさどん:
それはそうかもしれないけれど、
私たちはあくまでパートナーであり、対等な人間関係であり、
仲間であり、家族であり、そこには上下がないと思う。
ただ、今までの心境のところでは差があったのかもしれない。

僕はひろっちの書いたブログを読ませてもらって、
自分もひろっちと同じ心だと思うし、
ひろっちもその扉を開いた限りはこれから一緒だからね。
ただ、経験上、多少僕の方が
色々な物の観方などは持っているかもしれないから、
大いに話し合ったり、お互いを活かし合っていければいいと思います。

ひろっち:
でも差はあるので。

いさどん:
はっはっは。そうかな(笑)。

ひろっち:
ちゃんと神様に使っていただける人材になれるように、
力をつけていこうと思っています。
まずは、その邪魔をしている我を取っていきたいと思っています。

いさどん:
その心を強くすればするほど、我は取れる。
例えば、自分が心細くなって天に向かって嘆いたとしよう。
心細いということは何か悩み事があるわけだけれど、
そこで「神様、私の問題事をどうしたらいいのでしょうか」と言おうが、
「世の中を救いたいのです。だからお力を下さい」と言おうが、
神に対してそういう形で語りかけている限りは、まだまだだね。

それは、神と自分を分けているということです。
そういうふうに語りかけた時に、
「自分は何て馬鹿なことを言っているのだろう。
神の表われが自分であるのに、神に願いを言ったり、
迷い事を言っているような心境になっていた」ということに気づけばいい。
「我即神なり」だから。

これは一般の人にはなかなかわかりづらいことかもしれないけれど、
宇宙の法則だからね。
そこで道が開かれる。
そういう心境になったら、いくらでも道は開かれる。
最も、どんな人間にもその人にふさわしく、道は開かれているのだけれどね。

ただ、私たちは二人三脚のように神と一緒に生きている、
生かされているわけだよね。
神が生きている状態が自分だから。
そうすると、よりその存在が感じられるようなことが起きてくる。
そういうふうに生きる人が、これから時代をリードしていくんだと思う。

今これを読んでいて、
そういえばひろっちは今度のエコビレッジ国際会議で発表するのに、
こういう精神を表現するんだなと思った。
ひろっちがやろうとしていた「みろくビレッジ」は、
一か所のみろくではなく、この世にみろくをもたらすということ。
今回の決意があって、発表者にふさわしい心になったんじゃないかなと思います。

ようこ:
ひろっちは、メンバーが誕生日を迎えると
その人にお祝いのお手紙を書いてくれるのだけれど、
先日、私の誕生日の時にもお手紙をくれたんだよね。
きっと、ひろっちはお手紙を書くことはあっても、
もらうことはあまりないだろうと思って、遊び心で返事を書いたの。

そうしたら、ひろっちが「5月の末か6月の頭には、
ようこちゃんに手紙の返事を出すから」と言うものだから、
「返事をもらえるのであれば、ちょっと時期を早めて、エコビレッジ国際会議前にほしいな。
その方がひろっちも、よりふわさしい発表が出来るだろうから」と言ったんだよね。

いさどん:
ということは、これは全部、上の意志が働いて私たちが動いているわけだ。

ようこ:
でもこれって、すごい進歩だよね。
ひろっちがまだここに来たばかりの去年の11月に、
全く同じような内容の話をひろっちにした時には、ひろっちに聞く耳がなくて。
ここの大人会議の在り方が指摘モードに偏りすぎているんじゃないかとか、
当時のひろっちの中にはいさどんに対する反発心があったよね。
まあ、男の人であれば多くの人が通る道だけれど。

それが今は、「いさどん、弟子にして下さい」という心になり、
ひろっちはこの半年で色々なことがあって、心が変わっていったんだと思います。

いさどん:
ただ、僕はどの人にとっても師匠という気持ちはないんだよね。
あくまでもパートナーシップだから。
でも、僕はこの道を先に歩んできただけのものを持っているから、
いくらでも惜しみなくそれを提供する。

なぜそれを提供するのかといったら、
この世界でその人により働いてもらわないといけないからね。
まだまだ、これからみんながやることは沢山ある。

それと、僕もだんだん年をとってきて、
役割の転換をしないといけなくなってきています。
その空いた部分にみんなに入ってもらわないといけないということもある。
大いに条件をつけずに活躍してもらいたいと思います。

ようこ:
与えられたものをいただきながら。それこそ、みんなに委ねて。
人間も神のうちだもの。そこに区別はないから。

ひろっち:
自分の我の強さというのが大分取れてきたと思っていたけれど、
「ここまでまだあったんか!」とこの数日でまざまざと見せつけられて。

いさどん:
我はあり続けるものだよ。
ただ、我というものがどういうふうに表現されているのか、ということだよね。

まずは自分だけの我、
つまり、自分の健康やバランスの良さを見ないといけない場合もある。
また、自分と今目の前にいるパートナーとの関係で我を見ていかないといけない場合もあるし、
木の花という我やもっと大きな我で見ていく場合もある。

自由自在に我を使い分けた時に、
我が有効に活かされているという状態だと思う。
我を取り去るというと、何にもなくて
色即是空の話みたいだけれど、それは違うと思うんだよね。
もちろん、そういう解釈もあるけれど、
それは解釈であって、解釈で人は生きているわけではない。
この世界の仕組みの中で生きているわけだから。

その仕組みの中で、しっかりと自分を有効に使い切るということです。

ひろっち:
今までは小さい我だったと思うから、
まずは、それを広げていけるようにと思っています。

いさどん:
ひろっちだから、広げていけられる(笑)。

ひろっち:
大和には、せまっちとか言われているから(笑)。
「おでこはひろっち、心はせまっち」って(笑)。

いさどん:
大和がそう言った?それは面白い(笑)。
まあ、そんなところだから、後はみんなに発表してもらえればいいね。
大変いいことだと思うから。

そういう心になれば、
何の制限のない、自由な生き方が出来ると思う。
その心が出来ないと、人間というのは自由に生きているはずなのに、
ものすごく狭い世界を生きていることになる。

だから、その心であれば人生を楽しめる!
これからもよろしく!

ひろっち:
こちらこそ、よろしくお願いします!

ツꀀ

※ひろっちが書いたブログは、木の花ファミリーブログに載せてあります。


ちよこさんのその後

ちよこさんの娘さんに電話をかけ、
ちよこさんの近況について伺いました。
4月24日に現在いる病院に入院し、
5月24日で1ヶ月になるので、とりあえず退院する予定になっているそうです。
ただし、それは5月24日の状態で安定していればということです。

今は病院にいるので、
携帯で誰にも連絡出来ない状態になっていますが、
ちよこさんの状態は比較的安定しているそうです。
しかし、霊がついているということについては、同じように言っているそうです。

病院の先生は大変親切で、いいところに入院出来たようですが、
手にはギブスをはめ、転んでも絶対大丈夫な状態にしているそうです。
始めは、「手が全然動かないのではないか」と思ったそうですが、
リハビリを1週間した後、ぐーが握れるようになったと言っていました。
手については、不幸中の幸いですという話でした。

娘さんは、「24日に退院してからがすごく心配です」と言っていました。
「お母さんを家に一人に置いておけないし、
でも置いておかないといけないことから、すごく心配です」と言っていました。
ただ、病院側もいつまでも預かることが出来ないので、
退院することになっているそうです。

霊について解決がつかないということが一番の問題で、
「明日、霊能者に見てもらうことを非常に期待しています」と
ちよこさんは言っているそうですが、
娘さんは、「今までどれほどそういう人たちに見てもらってダメだったのか。
私は全然信じていないので、わからないんですけれど」と言いながら困っていました。

僕も、「そういうものはあるでしょうが、仮にあったとしても、
そういうものと共鳴しないような心をつくるということが一番だと思います」という話をしました。
そうしたら、「どこに行っても、そう言われるんですよ。
それしかないんですよね」と困っていました。

木の花のことについて、
ちよこさんは「本当にいいところだった」と言っているそうです。
娘さんも、「将来、私とお母さんと子供で、木の花へ行きたいという想いもあります。
そうなったらよろしくお願いします」と言っていました。