いさどんの「Mの精神」人生哲学

一つのことが長続きしない人は、
少しやると限界を感じ、
ダメだから次のことを選ぶということを繰り返していく。
それは色々なことに出会えていいようだけれど、
行き詰まりが来るということは、
自分の中の興味が変わっていったり、
直面する出来事に顔をそむけたりするような作用である。

一つのことを続けていくことで、
自分の中がせっかく変わろう(成長)しようとしている時に、
自分の眼の前のものを変えてしまうから、
いつも変わらない自分と付き合うことになる。
だから、変わらない自分に対して、
どこに行っても同じような現象が
待ち構えているということが起きてくる。
大体同じようなリズムでハードルが
眼の前に現れて来るようになっている。
そこでは常に直面する出来事を避けないで、
真っ直ぐ進んでいくことが大切である。

自分が嫌だな、うっとするなと思う方向へ進むと、
今の自分を離れ、人は成長する。
ところが、楽な方向へ行くと、
楽が待っているように思うけれど、
その人の問題の種はあり続け成長しないから、
また同じようなテーマが自分の眼の前に現れてくる。
そうすると、またうっとする。
楽な方へいく。
またテーマから逃げたのだから、
うっとするようなことが起きる。

つまり、心がうっとする方向へ進んで行った方が
その人に成長を与え、
心の段階をクリアしていく結果に結びつく。
そこに希望を見出していけば良い人生を歩める。

僕は、「先天性M」です(笑)。
僕の中にはうっとする方へうっとする方へ
行こうとする心がある。
「この先何があるのか見てみたい」
という思いが湧いてくるのです。

道路が渋滞していると、
「迂回して行こう」という心もあるのだけれど、
「迂回したら何が原因で渋滞しているのかわからない」と思い、
わざわざ渋滞の中にいたい僕がいることがあります。

これって僕にとっては、
人生の中でも重要なことなのです。

例えば畑で作物を作る時に、
虫が発生したり作物の出来が悪いと、
みんなはその対策を取ろうとする。
しかし僕は、
「それでは、この結果どうなっていくのかわからない」と思い、
そのまま何もしないで見ていることがある。
そうすると、その後良くなっていくこともあったり、
自分では想像出来ないことが起きることがある。
その方が学べる機会が多いというのが僕の発想である。

だから、自分流に拒否的解釈をせず、
「いただく」という精神が必要である。
自分流で日々を過ごしていけるからといって、
それだけでどんどん進めていっても人は成長しないし、
「これが正しい」という自分の枠に捉われてしまい、
狭い自分をつくってしまう。

人はとかく、楽な方に行きたがるものですが、
本当の意味での楽を自分にもたらすように、
賢明な物事の見方や判断の上で、
気持ちを込めて自分の内側に気持ちを向けていくことが
大切であると思います。

うっとする方向へ向かっていけ。
いさどんの「Mの精神」人生哲学でした。


美しいブルーの星へ降りてきた

いつ頃からか、
私の眼の前にある映像が浮かんでくる。
それは、地球に近づいていく映像で、
地球に近づけば近づくほど、
地球は太陽の当たっている状態だから、
「満地球」で明るい。
ずっと近づいていくと、
雲に出会い、雲の中に入って、
地上が近づいてくる。

そんな映像を想い浮かべた時に、
なぜ私たちはこの広大な宇宙の世界にいながら、
地上でしかありえない、
それも人間の世界でしかありえない、
人間の中でも捉われがなければありえないような
常識やルールに縛られているのだろうと思った。
すごく窮屈に感じる時がある。

そして、「ああ、忘れていた」と思った。
地球に近づき降りてくるという映像を観た時に、
「そういえば、自分は
この星の外から来たということを忘れていた。
この星のものではないのに。
ずっとこの星の人であったように、
物を考えていた。
外からこの星を観ていたはずなのに」
と思い出した。

その昔、地球が出来た。
ドロドロだった。
まだ地上に生命が誕生していない。
そのうち生命が誕生し、
人間の土台となった猿が誕生してきた。
そして、私たちは猿人といって猿から進化した。
しかし、猿が進化したものではない。
猿という体に人間の魂が降りただけである。
人間は猿から分かれたのだから、
人間と猿は別のものになる。

「神」という字は、
示す辺に申(さる)と書く。
申の中に神の魂が入り
成長したのが人間である。
つまり、この世界を創ったものの一部が、
元から分かれ、地上に降りてきた。
その時の受け皿になったのが申であった。
それが人間の始まり。

地上に人間として生きる土台が用意された時に、
私たちの魂は地球の外から訪れたものである。
その時は、この世界を外から観ていた。
そして今、この星の外からこちらを観る
ということを忘れていた。

私たちはこの世界を観た時に、
一人一人、自分とこの世界という視点を持っている。
それが無限にある。
人間の数だけある。
一つ一つのものがこの世界と密接に関わりながら、
自分というものをこの世界と対比させて生きている。

今自分がある。
自分がこの世界を認識するということによって、
この世界がある。
認識する自分がいなければ、
この世界はない。
自分があるからこの世界がある。
そういう見方がまず一つある。

もう一つ、自分がある事実として、
過去にこの世界が始まった時があるとする。
とりあえず始まりがあって、
過去から未来へずっと歴史が続いていく中で、
今ここに至り、自分があるという見方がある。

そして、もう一つは、
今現在この広大な世界がある。
その中に維持されているものとして自分がある。
そういう3つの捉え方がある。

ほとんどの人は
自我の視点だけでしか物事を捉えないから、
3つの方向から捉えるのは難しいかもしれない。
しかし、自我の視点だけでは
3分の1の視点しか持っていないことになる。
日々の中で自分の中から湧き出てくる感情の元に、
自分という側から外を観ているだけである。
それも、宇宙なんていう広いレベルは全く観ていない。
ただ湧き出す感情のままに生きている。

しかし、沢山の視点を持てば、
正しく次の世界を捉えることができる。

最近、私の前に宇宙からこの星へ降りて来た時の
映像がよく浮かんでくる。
「ああ、そうだった。
考えてみれば、地球がなかった時には宇宙のものだった。
地球が出来、申という器が出来て、
ここに降り立ったのだった」と。
地球に向かってくると、
地球のブルーがものすごく強烈で、
そのブルーの中に浮いている雲の中に入って
地上に降りてきたという記憶が湧いてくる。

誰もがそうであり、
誰もがその記憶を自分の中に持っているはず。
歴史は途切れることなくずっと続いているのだから。
誰もが宇宙のものであった。
今でも、ここにいても宇宙のものなのである。

もともと宇宙の中に存在していたものに、
地球という場所が用意され、
申という器に入り、
歴史の中で進化しながら今ここにいる。
皆の中にあるその記憶を思い出したら、
感情に縛られた不自由な生活は
しなくてもいいはずである。

とかく人間は、この世界がなぜ創られたのか
一生懸命考えようとするけれど、
それを解明する記憶が既に私たちの中にある。
宇宙の始まりから
ずっと記憶をつないできているのだから。

それを忘れているのは、
この地上にいる記憶があまりにも
強くなりすぎてしまったからである。
地上で生きていることに慣れすぎてしまい、
外から来ていることを忘れてしまっている。

次の時代を生きる新しい人たちは、
必ずそういう記憶を持ち、
宇宙的な発想で生きていくだろう。
その時に、ずっと遠い過去に宇宙からこの星を訪れた
という記憶を持って生まれてくる人たちも出てくる。

私が話し出すと、
こうやって色々な言葉が出てくるけれど、
それは魂的な過去に自分がマスターしたことが
外に出てきただけである。
語る必要がある時には、
記憶という本のページが順番にめくられるように、
私の眼の前に言葉が出てくる。

そういった情報は、
私自身にもすごく新鮮なように感じるのだけれど、
それは自分の記憶で封印されていたものである。
だから、私にとっては語った瞬間に、
新しいことを語っているなと思うと同時に、
それはただ蘇ってくることだから
何の違和感もなく受け入れることが出来る。

これからも自分の記憶のページが蘇り、
それを語り続けていくだろう。
自分にはその量がどのくらいなのかもわからないし、
内容がどこまでいくのかもわからない。
しかし、自分に与えられている役割の分だけは
出てくるのだと思う。

私は神様と対話していく中で、
「通訳としての役割を果たすために生まれてきている」
と言われているけれど、
これは私が特別ということではなく、
誰にでもある役割である。

物質的なものの奥にある
本質的なことを解き明かす役割の人もいれば、
科学者や物理学者といった
物理的なことを探究する役割の人もいる。
中には一般社会的なことを担う役割の人もいて、
ただ役割分担が違うだけである。

時代が移り変わっていくというのも、
時代時代の魂の役割分担が違うからである。
未来に向かって次のステージへ旅立っていく時に、
それを進めていく側なのか、
抵抗する側なのかということも、
役割の違いなのである。

今の時代を生きているものたちは、
ずっと以前に過去の時代を担っていたこともあった。
そうやってくり返しこの世界に現れ、
この世界は進化していく。
新たに宇宙から参入してくるものもあれば、
ここの世界から外の世界へ帰っていくものもあり、
そういうふうに魂が交流しながら
この世界が創られていく。

人間は、地球上の表面の世界だけを
この世界だと観ているのだけれど、
それだけでは非現実的である。
私たちが思考し行動している世界が、
この小さな星のそれも表面だけであるわけがない。
この広大な宇宙からしたら、
細胞一つにも満たないようなこの星で、
外とは全然関係なく
ここだけが存在しているなんて考えられない。

だから、もうちょっと広いところから物を捉えないと、
私たちがなぜここにいるのかはわからない。
どの切り口から観ても、
全部関連性がありつながっているということは、
元は全て一つであるということである。
この世界の実体を
そろそろ人間はわかる必要がある。

それをどう説明しようと、
人々がそれぞれの立場で表現を変えただけであって、
それを神と言おうが、法則と言おうが、
自分と違う表現方法にアレルギー反応を
起こすようなことはやめないといけない。
「それは表現の仕方が違うだけで、
共通するものですね」
と皆が共有する意識を持つ方向に
進んでいくことが大切である。
その視点で物を観る自分の役割として、
これは皆に伝え続けるべきだなと思う。

人間は命をもらい、
その命が自分たちを
強制しているかのように感じている。
食べねばならない、
生きねばならないと。

しかし、自然を眺めると
そこには命の連鎖があり、
ただあるがままに生まれて、
あるがままに生き、
そしてあるがままに死んでいく。
鳥だったって獣だったって、
何も悩まず、しっかりと生きて美しく死んでいく。

本来私たちも自然の奥にある神秘、
芸術的な命の美しさの中にいるのだから、
そのことを理解すれば、
神秘的で美しい人生が送れるはずである。

そういったことを理解出来る人たちが、
これからは沢山生まれてくるであろう。
そこにつなげていくために、
一人一人が目覚めていくことが大切である。
目覚めるということは、
記憶を呼び覚ますということ。
もともとあるのだから。
新たに創り出さなくても、
目覚めて次の時代につなげていくだけである。


求めている人がいるからこそ

「おやじの館」の主のいさどんです。

皆さんからの温かいコメントを
いつも嬉しく読ませていただいております。

こちらは自分の中から湧き出てくるものを
そのままブログとして発信しているだけで、
皆さんからのコメントを求めるために
ブログを発信しているわけではありません。
しかし、それが読む人に伝わりコメントが返ってきた時に、
自分たちを支持してくれているということよりも、
その人の中で受け取ったものが活かされ、
その結果返ってくるものとして、
「役に立ててもらえて良かったな、
役に立ててくれてありがとう」という想いでいます。
大感謝です。

私たちは、世の中にここの暮らしや生き方を
求めている人たちがいるからこそ、
この生活を続けています。
だから、皆さんからのコメントに励まされ、
それによってこの生き方を大事なこととして
続けていく意欲が湧いてくるものです。

ですので、皆さんのコメントに対し、
こちらからも「ありがとうございます」とお返しいたします。
これからも、共につながり、
いい世の中づくりのために生きていきましょう。


個々の思考からこの世界の元の仕組みに沿った生き方へ

人間には個々に思考があり、
その個々の思考から外の世界を観、
判断するようになっている。
その個々の思考から生まれてくる価値観に基づき、
人間は生きている。
それは一つの方向であり、
その視点からだけでこの世界を観ると、
一人一人の人間が独自に存在しているということになる。

それに対してもう一つの方向は、
自分を入れているこの世界という器があり、
器の側から自分とこの世界全てを観るという視点である。
この世界の方から自分を観ていくと、
この世界はずっとはるか彼方に生まれ、
そして今のような形になるために、
新陳代謝を繰り返しながら
ここまで進んできたことが観えてくる。

宇宙の原型が出来て、
銀河が、太陽系が、地球が出来、
そこに私たちの元となる生命が誕生しました。
地球自身も変化しながら、
その変化の中で生命が誕生し、
人間が生まれ、
その歴史の中で私たち一人一人がここにいる。

宇宙の始まりから、
この世界の原料は
新たなものを外から持ってきたのではなく、
ただあり続けるだけである。
つまり、特定のエネルギー、質量が
同じ量だけあり続ける世界で、
ぐるぐるかき回されるようにして
一つ一つが移り変わり、
この世界が変化してきた。
そうすると、私たち一人一人の存在は
この世界の新陳代謝にしかすぎない。

人間以外のものを観ると、
その法則の中で永久にあり続け、
そのことに不満を漏らさない。
人間も、自分の側に立って物を観るという
特別な能力を与えられさえしなければ、
愚痴を言ったり、争ったり、
差別したりはしなかっただろう。
しかし、そういった特殊な能力を得たがために、
人間は自分自身を自らの価値観の中に閉じ込め、
不自由になり苦しむという結果を与えられた。

人間以外の
元の世界からずっとその仕組みのままに存在してきたものには、
今の人間たちのような矛盾はないはずである。
この宇宙の天体の動きにしろ、
地球の中の自然の動きにしろ、
そういった仕組みのままにあり続けている。

自然を観ると自然はひとつらなりの命であり、
そこには不要なものが何一つない。
全てそこにあるべくしてある状態で、
お互いを生かし合うという命のつながり、
命の連鎖である。
それがこの世界の根本にある仕組みである。

この世界の中にあるものをぐるぐるかき混ぜ、
ひとつらなりの渦をつくり、
その中で変化させること。
それが進化である。
常にぐるぐる回っているわけだから、
変化は進化であり、
ある一定のサイクルによって
それが繰り返されている。
そして、人間もその渦の中にある。

しかし、最初に触れたように、
人間には個々の意識である自我があり、
他と自分を区別し観ることが出来る。
他と自分を区別するという能力は、
この世界と自分を区別することも出来る。
この世界と自分を区別出来た時に、
この世界と自分の関わりがわかり、
この世界の中の自分の存在、その意味、
そしてこの世界がなぜ創られたのか
ということがそこから観えてくる。

この世界が創られ、
ずっと変化し進化し続けてきた
その歴史の延長に自分がある。
この世界の原料も法則も全く変わることなく、
ぐるぐる回りながら変化してここまで来た。

この世界の元にある法則のままに、
人間も人間以外のものと同じように
自我を持たずに存在したら、
きっと対立もせず
今のような行き詰まりも
与えられずに存在できただろう。
しかし、それは人間以外の動物の種類が一つ増え、
それを人間と言うだけである。

この世界に人間のような特別なものを降ろされた。
宇宙の創造の過程のなかで
特別に出来た特殊な星、地球。
他にもあるかもしれないと言われているが、
まず同じようなものを発見することは不可能だろう。
この広大な世界の中で
不可能と言われるような可能性の中で、
この星は創られている。
これは意図的としか思えない。

この星は、そのもの自体が生命のつながりで、
命の宝庫、命の巣になっている。
そして、その中には無限なる生命の連鎖がある。
それもまた、他の天体とは全く違う特異な存在である。

この星は、
大気という薄いベールに包まれた
芸術とも言える仕組みによって維持されている。
その生命の宝庫、生命の海の中で、
私たち人間は存在している。
その膨大な数の生命の中でも
特異な存在として人間がいる。
さらに、沢山の人間の中の一人として自分がいる。

今、この一人の人間がこの世界を見て、
この世界を判断し、そこで思考が生まれ、
その思考の元に行動し、
自我というものの元に他と自分を区別している。
あるものはそこで思い悩み、
あるものは争うということをくり返している。

私たちは一体全体何ものなのか。
私たちを創り出したこの世界は、
一つのものから分かれ、
相変わらず一つの宇宙の中で
変化の連鎖、生命の連鎖が続いている。
命と命がバトンタッチしながら変わり続けていく。

しかし人間は、
もともとそういう仕組みの中から生まれてきて、
現在もその中であり続けているのに、
そのことに気づかず、
自我という個に執着し、思い悩み、
争い、対立し存在している。
それが人間の姿である。

では、この人間を特異なものとして悪と観た時に、
今の人間はこの世界の悪なのか。
そうではなく、
それはプロセスとしての一つの進化の過程であり、
そういった状況を生みだすような
何か目的があるのだろう。
この世界が変化し続けていく中で、
それもこの世界を表現するための一つにしかすぎない。

では、そういった場所を与えられた人間は、
何をここで気づいたらいいのか。
どの道この世界は、
特定の決まったエネルギーと質量が
ぐるぐる回ることによって変化し、
それを進化として存在し続けている。
それがまた元へと戻っていくとしたならば、
変化をすることによって
人間の中にある精神が変わっていく、
ということにここでは気づかないといけない。

もともとはひとつらなりであり、
全てが関連し合い、
お互いがお互いを存在させ合っている。
そういった関係性の中でこの世界があり、
全てはつながっている。
つながるということは善意であり、
つながらなければ自分と他が発生し、
つながると他は自分になる。
自分と他という区別が消え、
全て自分になる。

そうやってつながっていくと、
この世界が一つになり、
自分がこの世界そのものであり、
この世界が自分そのものである
ということに気づく。
逆につながらなければ、
自分とこの世界は対比するものとして区別される。

つまり、この世界を観た時に、
捉え方によって
この世界と自分を区別することも出来れば、
全てを一つとして観ることも出来る。
区別して観ることを私たちは悪意と呼び、
そこでは差別や対立が生まれる。
反対に全体を一つとして観れば、
そこには善意があり、
絆が生まれ愛が発生する。

この世界はもともと一つから始まり
ここに至っているのだとしたら、
私たちがこの世界の始めから
未来までの全体像を理解した上で、
自分とこの世界を対比させて観た時に、
この世界が一つであり、
善意であり、
善意から絆が生まれ、
それが愛であり調和であることに
気づくことが出来る。

しかし、全体像を捉えないで
自分とこの世界を見たら、
もともとこの世界から生み出され
維持されている自分が、
この世界と自分を区別していることになる。
そこにはつながりがなくなり、
悪意、差別、対立が生まれる。
しかし、この世界の全体像、
たったそれだけのことを理解するだけで、
この世界は善意であり愛であり調和になる。

元が一つのところから
この世界が出来ているのだから、
わざわざそれを切り離すということは
悪意の行為である。
悪意だから問題事が発生する。
しかし、全てが一つであるというだけでは、
こちらと向こうという区別がなくなり、
全てが自分であることを観ることが出来ない。
つまり、こちらと向こうと区別していった時に、
元が一つであり
全てが自分であるということが観えてくる。

そうすると、
わざわざ悪意や差別、対立をつくり、
この世界の奥にある元が
一つだということを理解させようとした
意図が働いていることが観えてくる。
それがこの世界をつくっているものの意志。
それを神としたならば、神。
それを法則としたならば、法則。
それを仕組みとしたならば、仕組み。

色々なものがあってこの世界が構成され、
その一つ一つの存在は認められる。
全てはこの世界の一部にしかすぎない。
だから、そこで対立する必要もなければ、
差別する必要もない。

5月に行われる「エコビレッジ国際会議」で、
自分は一体全体何を伝えたいのだろうと思った時に、
一番の根本的なところを伝えたいという想いがあった。
エコビレッジのエコにはつながる、命という意味がある。
だから、エコビレッジというのは、
つながる村、命の村。
私たちを生かしている自然や宇宙の
仕組みに基づいて生きている暮らしが、
エコビレッジである。

そうしたら、
私たちはこの世界に生み出されたものとして、
そろそろ自分の側から自分を観るという時代から、
この世界の側から自分を観て生きることを
選択する時代が来ているだと思う。

だから、何も特定の場所に
エコビレッジという場所をつくらなくてもいい。
私たちは地球という命の星に生み出され、
その一部分としてこの一つの家、
一つの村に暮らしている。

そのことに気づいたら、
地球がエコビレッジであり、
それこそが神がこの世界をつくって
私たちを降ろした目的なのではないか。
そういった意識のもとに生きていけば、
他と自分を区別せず、
全てのものとつながり、
全てのものが自分自身であることに気づく。
そうしたら、今の沢山の問題はたちどころに消え、
差別のない平等な世界が訪れる。

その元の仕組みに皆が気づけば、
自分だけが何かを抱え、
その抱えたものによって自分が縛られ、
さらにもっと不自由になって
抱え続けないといけないようなことはやめるだろうし、
自分の願いが叶わないからといって、
卑屈になり、心貧しく生きることもない。
皆一人一人が尊厳を持ち、
平等で対等な世界を生きていける。

そういう世界をつくるのが、
エコビレッジの目的だと思う。
私たちが新たに誰かと共に暮らそうとした時に
その暮らしが理想のように進まないのは、
他の誰のせいでもない、
自分の心の中にある区別や差別が原因である。
この世界が一つであるということを
まだ十分に理解出来ていない
自分たちの心を見直す必要がある。

そういったことに気づき、
私たちは学ぶために、
今身近な人たちとつながり
エコビレッジとして
生活を始めていくことが大切である。
そういう生活の仕方を学んでいくために、
また人類がそのように進化していくために、
私たちはこの運動を進めていかないといけない
ということを国際会議で伝えたいと思っています。


木の花と社会の架け橋として

今回のブログでは、
9年間のうつ病を克服するため
11月3日から2月8日までケア滞在をしていた
「きっこさん」とのインタビューを皆さんともシェアしたいと思います。

ようこ:
3ヶ月のケア滞在を振り返ってみていかがでしたか?

きっこさん:
ここは自分が願えば叶ってしまう
ミラクルなところだと思っています。
例えば、自分の想っていることが
そのままいさどんの口から出てきて、
まるで自分の頭の中を読みとられているような不思議な体験をしたり、
『ここではシュークリームは絶対食べられないんだ』となぜか思った時に、
4時のおやつになんとシュークリームが出てきたり
というようなことがよく起こるのです。
でも、その願いというのは
知的なレベルで「何かをしたい」とお願いするようなものではなく、
そういったレベルを越えた想いが
そのまま実現するように感じています。

私はここに来る前10年以上薬を飲んでいましたが、
ここに来た翌日には
自然に体から薬が離れていきました。
自分の意志で断薬したという感じではなかったですね。
1週間くらい眠れない日々が続いたにもかかわらず、
眠れなくてもかまわないんじゃないか、
必ず眠れる時が来るのだからと思えたのは、
ここの場の力だと思っています。

ようこ:
きっこさんは順調にケア滞在を過ごしていき、
そのまま薬を一切飲むこともなく、
規則正しい生活リズムを取り戻していきましたね。

そしてここの生活にも慣れてきた頃、
自分の中に根深く残っていた
今までの職場の人間関係やご家族に対する
ネガティブな感情をメンバーとシェアし、
手放すことによって、
きっこさんの心も安定してくるようになりました。

その頃、もともと言語病理学(言語障害学)の研究者であり、
言語聴覚士と臨床心理士の資格を持っていたきっこさんに、
「臨床の仕事を再開したい」という想いが
湧き上がってきたと話してくれました。

きっこさん:
「ここで与えられる仕事は全て自分のリハビリになる」と思って、
就職に向けて前向きに心身を整えていきました。
そうしたら、2月には
臨床のお仕事の話が舞い込んできました。

ようこ:
心身ともに健全になったきっこさんは、
2月8日にはケアを卒業し、
今後は一般の生活体験に切り替えてここで生活することを決めましたね。

きっこさん:
4月からは週2日東京で働き、
残りの5日間は木の花で暮らすという生活をスタートさせる予定です。

ようこ:
このケア滞在を今後のお仕事にどう活かしていきたいですか?

きっこさん:
3ヶ月間のケア滞在で、
大きく2つのことを学んだと思っています。
まず1つ目は、精神性、魂の領域なくして、
自閉や重度の知的障害のような、
ある意味で治ることのできない
脳障害を持った人たちを救うことはできない
という確信を持つことができたことです。
以前からそういったことは
大切なこととして捉えていましたが、
それはここで言う精神性と比べると
非常に浅いものだったと感じています。

今までは重い障害児を見ていると、
辛くなって胸が痛くなり
こちらが先に絶望してしまって、
無力感で自分を責めてしまうことがありました。
また、自分の専門が活かされないという
ジレンマもありました。

今思うのは、
自分の持っている知識や科学的なものは、
もちろん勉強することによって
磨いていくことはできるけれども、
そこには限界があるということ。
やはり魂の領域の問題だというスタンスを持たない限り、
私は彼らに何もできないし、
親御さんを支えることはできないということに気づきました。

それを全面に出すことはしないけれど、
私自身自分を責めず、
そういう心で接していくことによって
親御さんが変わっていくことはできるんじゃないか。
そういう支えになら私はなれるんじゃないか、
と思うようになりました。

私の兄弟たちは
「重い障害のある子たちと関わったら、
またうつ病になるわよ」と心配していますし、
きっと、以前の私なら
同じことの繰り返しだろうと私も感じています。

でも、魂というものを
心の奥で実感している今の私なら、
親御さんがどんなに錯乱しようが、
私は混乱せずに必要なことを伝えることができる、
という確信をここで持つことができました。
ただ、私も強い人間ではありませんし、
心がだんだん擦り減っていくこともあると思うんですよね。
だから、木の花とのつながりは
ずっと持っていたいと思っています。

もうひとつ、精神性以外に私がここで学んだことは、
その精神性を支えている日々の体験の大切さです。
黙々とみんながやっている
毎日の金品に捉われない単純な作業が、
人間をどれくらい救っているか
ということを実感しました。
だから、東京で働くようになっても、
まず自分はトイレの掃除をして
部屋を拭いてまわるところから始めようと思っています。
偉そうな顔をして、
「はい、診断してあげます」というスタンスは絶対取らず、
そういうところから自分のスタイルを
しっかりつくっていこうと思っています。
そのことを仕事先の方にも伝えたら、
すごく喜んでくださいました。

この臨床のお仕事はお金のためではなく、
自分が木の花と社会の懸け橋になるために
するのではないかと思っています。
かつての物が見えなかった自分のような人が
世の中には沢山いるわけですよ。
自分はここにいることによって
自分を高められるかもしれない。
でも、世の中には以前の自分のように
苦しんでいる人が沢山いると思うんです。

だったら、自分だけがきれいになるのではなくて、
自分がその苦しさを味わってきたからこそ、
そういった人たちとの懸け橋になれればと思っています。
本当にそういうことが出来るのかは別にして。
そうすると、自分が一番必要とされていることが
見えてくるような気がしています。

ようこ:
もう1つ、きっこさんの中に湧いてきたのは、
「ここで色々なことを教えていただいた感謝の気持ちから、
本を出したい」という想いでしたね。

きっこさん:
幼児を含めたここの人たちの素晴らしさを
素朴に描いてみたい、と思っていたところ、
実はいさどんも
『本を誰か書いてくれないかな。
きっこさんしかいないかな』と
思っていたのだと話してくれました。
以前自分が何冊か本を出したことのある出版社に
企画書を提出したところ、
非常に前向きなお返事をいただきました。
これから色々な人のお力が
必要になってくると思いますので、
皆さんよろしくお願いします。

ケア卒業から一般の生活体験に切り替えた時に、
呼び名も「きっこさん」から「エリー」に変え、
社会復帰に向け順調に日々を送っています。
そんなエリーに、ケアの「主治医」である
いさどんはこう語りました。

いさどん:
エリーは、ここの生活や存在を世の中に伝えるために、
神様より私たちのもとに派遣された方だと思っています。
エリーと話をしたのは、
エリーがこういった職業にいること、
そこで病気になったこと、
良いことも悪いこともあったけれど、
そのどちらもここで私たちとつながるために
あったことだと思うと、
そのどちらも大切でありがたいことだと確認をしました。

エリーの高い能力が社会の中で活かされ、
エリーがさらに生き生きと輝けるよう、
みんなで応援しています。

幼児たちにピアノを教えるエリー
幼児たちにピアノを教えるエリー