延命治療から観る死生観

現代医療が進んだ今、私たちには終末を迎えた時、延命治療をするかしないかという選択肢があります。先日、知り合いの方から、「今、私の家族がお医者さんから『延命治療を受けなければ命が助かりません』と伝えられています。以前より本人の意志としては、延命治療を受けて植物人間のような状態にはなりたくない、という希望だったのですが、今は意識がない状態です。そこで、天上界の視点からすると、延命治療をどのように捉えたらよいのでしょうか?延命治療を受けないことは自殺と同じことになるのでしょうか?」という質問を受けました。

以下は、相談を受けたジイジからその方へのメッセージです。


 
まず、「植物人間になりそうな状態」と、「植物人間になってしまった状態」は違います。「植物人間になりそうな状態」というのは、まだ植物状態ではありませんので、当たり前のこととして、いのちが継続していると考えられます。しかし、「植物状態になってしまった」ということは、昔の治療ではいのちがない、という状態です。

ここで大切なことは、そのときのその人の状態を観て判断することです。私の場合は、その人に直接接してみたり、遠隔で感じてみて、「この人の魂はもう向こうに行っていますね」と判断したり、「今現在、魂はまだこの人の中にいますね」と判断することもあります。それはそれぞれのケースによって様々です。ですから、それを一概に言うことはできません。

今の世の中には、「延命治療はしない」という考え方はあることはあります。ただ、一番良いことは、生きている間に本人の意志を確認できるものを用意しておくことです。医者が家族に「延命治療は希望しません」と言われることはよくあるはずです。ただ、どのような病院かによって、病院の方針として点数を上げるために延命治療を頑なに行う病院もあります。そのあたりが難しいところです。

霊的なことを言えば、物理的にいのちはつながっているとしても、「この人の魂はすでに肉体を離れています」というケースはあるのです。

あなたの場合、ご家族が延命治療を希望しないということであるならば、お医者さんに「私たちの希望は、できるだけスムーズに旅立たせてあげたいのです。本人にも、以前よりそういった意志がありました。ですから、延命治療はしないようにお願いします」という意思表示はするべきだと思います。

このケースは、天上界から観なくても、地上の都合だけを考えても、本来人が植物人間でいる状態というのは不自然な状態と言えます。たとえば、本人の意志で自殺した場合、多くの魂は天上界には行けませんが、その人が延命治療を受けるかどうかについては、地上の都合で行われるものです。ですから、延命治療については、天上界の視点という話ではなく、地上の都合での話です。延命治療を受けないからといって、それが自殺になるわけでもなければ、殺人でもないということです。延命治療というものは、本来いのちがないものを人工の技術が進んだがために、永いこといのちが保てられるようになった、というだけのことです。

もし、延命治療を希望しないという本人の正式な遺言があるならば、病院ではそのような手続きで進めてくれるでしょう。そうすると、それは自殺ではなく、いのちがないから永らえない、という自然に則ったことなのです。それを永らえることのほうが不自然なことです。

それよりも、今のように旅立つ人をあなたのように送る家族が気にすることが一番の問題です。送る家族が執着を持つのであって、亡くなる人というのは自らの魂が旅立てば、執着はなくなり、死後のプロセスに入るのです。それを、送る家族が「どちらにしたらいいのだろう?」「良い選択肢を選びたい」などなど、亡くなる方の後ろ髪を引くようなことが、旅立つ人の迷いのもとになるのです。

一番大切なことは、亡くなる人がどのくらいの意識レベルにいるかということです。本人に自覚があれば、まわりの人に執着があっても、自分でスムーズに旅立っていきます。しかし、そこまでの意識が本人になければ、送る側が気持ちよく送ってあげることです。そこで「どうしよう?」「良い選択肢は何だろう?」と迷っていること自体が、送る魂を迷わせることになります。そこがポイントです。

 


このメッセージを受けて、相談者の方は「ありがとうございます。木の花ファミリー通信の死生観を、まずは家族にシェアしたいと思います」とおっしゃっていました。

それを受けて、ジイジには次回の木の花ファミリー通信の冒頭の文章が湧いてきました。


 
ジイジ:
次回の木の花ファミリー通信は死生観の第4部で、死生観シリーズの最終号になる。そのテーマは、生命の源である「性」ということになっている。

「死生観」というと、死というものが先にあって、人の生死について捉えている。生きていることを前提にすると、死が先に訪れるようだが、当たり前に私たちは生まれたということをスタートにして、死を迎えている。そうすると、死生観は、「生死観」という概念になる。そこで、「今、自分自身が生きている」という概念から離れ、人生を客観的に捉えたとき、「生死観」と言うことが自然になる。

人生をスタートする生というのは、自分の受け皿となった両親すなわち男女の性の交わりによって、宇宙の根本原理である対向発生による行為により、この世界に迎えられている。そういうことからすると、死生観の締めくくりとして、性の話が出てくる。だから、死生観の始まりに性があると捉えることが自然だ。そういった生(性)に対する認識の違いは、死生観の逆転現象となり、今の世の中の逆転を生んでいる。

さらに人生に対する視点を引いて客観的にその流れを観ると、生があって死があるのか。それとも死があるから生があるのか。卵が先か、鶏が先かという我々の物質世界の定めと同じように、始まりと終わりは連綿と続くサイクルであって区切りがない。そのように捉えれば、死生観でも生死観でも同じこととなる。だから、死生観と固定するものでもなくなる。

みちよちゃん:
面白いのは、英語だと「Life and Death」といって、生が先に来る。

ジイジ:
それは近代生命学の捉え方で言えば、生まれることの延長に死があることになるから、その順番になる。ところが、日本人は「死生観」といって死を先に置いているのは、何か日本人の伝統的な考え方の中に「死というものは終わりではない」という捉え方があるからだろう。私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。

ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・

そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

 


 

宇宙の真理の探究はどこまでも続きます。次回の木の花ファミリー通信は2018年冬至に発行されます。性の真実が紐解かれていく次回号をお楽しみに♪

 

 


手かざし(スピリチュアルヒーリング)

 
【他者にヒーリングを提供する場合】

手かざしは、人に内在する能力として、人々の健康や意識の向上に役立つものです。ですから、手かざしの正しい手法とそれを行なう時の姿勢を整えて、社会の健全に役立ててほしいものです。この手法は、私が今まで手かざしを行なう際に培ってきたことをもとに紹介します。

まず、手かざしをする時、そのエネルギーはどこから来て、どのような仕組みなのかを説明します。はじめに、目的の部位から適度な距離を置いて右手をかざし、同時に、眉間のチャクラを意識し、そこから斜め上45度に向かって、これからその行為を行う意志を天(大気)に発します。その際、目は半眼の状態を保ちます。それは、あくまでも、体は気の通り道として利用するものであり、この行為に思惑を乗せないことが目的にあるからです。
そうすると同時に、頭頂チャクラから大気のエネルギー(プラーナ)が頭部を通って体の中に入ってきます。その場合、体は気を圧縮するコンプレッサーの役割を果たします。その気のエネルギーは体の中で圧縮され、圧縮された気は右手の平から部位に向かって流れます。その時、想いを乗せて手の平に意識が行き過ぎると、流れに無理が生じます。この所作の目的は、大気の生命力を気として体内に取り入れ、それを圧縮し、強い流れとして、対象の不健全な細胞配列を健全に整えるものです。そのために、眉間チャクラから意志が発せられ、頭頂チャクラから大気のプラーナ(生命力)を取り入れ、体の中で圧縮し、強いエネルギーの流れを手の平から発する仕組みをよく理解し、イメージすることが大切です。
また、目的の部位を両手ではさみ(両手は部位から適度に離す)、右手の平から強いエネルギーの流れが発せられることをイメージしながら、左手でそのエネルギーを引き込みます。その場合、左手に入ってくる負のエネルギーは、左腕の付け根(肩)で止めるイメージをします。イメージとして、正のエネルギーは体の中に取り込んでもいいのですが、負のエネルギー(毒・矛盾)は必ず左腕の付け根(肩)にフィルターをイメージし、そこで止めます。病気や矛盾を持っている人に手かざしを行うと、左腕の付け根が重くなってきます。ですから、それがある程度溜まってくると、左手の平を上に向けて空中にその毒・矛盾を解き放ち、一度リセットしてから、次の所作に入ります。

左利きの人の場合は、引き込む左手のエネルギーが強いのですから、右手の押し出す力を強めることになります。左は陰の側ですから、内に引き込む役割を果たします。右は陽の側ですから、外に押し出す役割を果たします。そこで、「押す」と「引く」の間に強い流れができ、その間に手かざしをする目的の箇所を置くことによって、その気の流れが人間の細胞の配列を正常にしていくのです。そろばんで計算した後に、ご破算にするようなイメージです。

これは対向発生の原理であり、互いの役割の違いを有効に生かしていくことになるのです。ですから、右利きの人も左利きの人も、右手(押す力)と左手(引く力)のどちらが主になるかの違いだけで、右から左への流れが変わるわけではありません。

さらに、手かざしを右手だけで行なうことも出来ます。その場合、右手の押し出すエネルギーをもって、目的の箇所に気の流れを当てることにより、細胞配列を正常にしていくという行為になります。

また、目的の箇所に手を当てて行なう場合は、「手当て」ということになります。「手かざし」の場合は、手かざしをする箇所から手を離すことによって、気の流れを創り、その間の流れを持って、目的の箇所の細胞配列を正常にします。ですから、手かざしは基本的には離してやるものです。

このように、人間の肉体に秘められた能力は、誰にでもあるものです。その能力を開発することは、日常生活の健全かつ社会の健全に大いに役立つものです。日本では、こういった行為が、宗教的な場所でご利益的に広められてきました。ですから、一般的に人の精神性向上や健康のために十分に理解されてきたとは言えません。イギリスなどでは、それをスピリチュアルヒーリングとして、医療機関も取り入れています。本来、人の優れた能力として、日常的にこういった所作を利用することは、個人かつ社会の健全において望ましいことであると考えます。

 

【自己ヒーリング】

ヒーリングの方法として、もうひとつの方法を取り上げてみます。一般に、人は生きていると、体に負のエネルギーを蓄えることになります。そういった場合、蓄積されたストレスや疲労を解消する手段として、自己ヒーリングという方法があります。それは、睡眠前など時間の余裕のある時に行うと良いでしょう。人の体に発生した負のエネルギーは、それを流し出し、健全で安定した状態にすることが大切です。一日の終わりのけじめとして、そういった取り組みをすることは、新たな日を迎えるにあたり、気持ちの良い一日を過ごすために大切にしたいものです。

自己ヒーリングの方法として、まず、仰向けになります。眉間チャクラから真上に向かって自らの意志を天(大気)に発し、頭頂チャクラから大気のエネルギーを受け取ることを意識します。両手の平は上に向け、両足は肩幅程度に開きます。その際、全身で天から降りてくる気を浴びることを意識し、全身の力を抜き、リラックスします。
はじめに、右腕から右手の平までを意識し、その日に活躍してくれた右手に感謝し、負のエネルギーを解き放つイメージで、手の平を軽く握り、ゆっくり開きながら空中にその負のエネルギーを放ちます。この所作はリラックスした状態で、エネルギーが解き放たれるのを意識しながら、ゆっくりと行ないましょう。「右手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、行なって下さい。その時に、細胞一つひとつを意識して感謝すると、日頃から細胞はそのように心を向けられることがありませんので、細胞はとても喜びます。負のエネルギーを放つ時には、同時に息を吐きながら行なってください。その際、まずは息を吸って、吐きながら負のエネルギーを解き放ちましょう。負のエネルギーを解き放つ行為は何回か繰り返し行なっても構いません。気持ち良くなるまで行なってください。
同じように、左腕から左手の平までを意識し、左手にも感謝し、負のエネルギーを空中に解き放ちます。細胞すべてを意識しながら、「左手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージし(口に出してもよい)、息を吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
次に、右足の付け根から足先までを意識し、右足に感謝しながら、右足の裏から負のエネルギーを空中に放ちます。「右足さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしましょう(言葉に出してもよい)。息を吸い、吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
同じように、左足についても行ないます。
次に、全身に感謝し、「体さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、息を吸い、吐きながら両手両足から負のエネルギーを空中に放出します。
最後に、頭を意識し、頭の中の思考を停止するイメージでリセットします。頭は思考がまわりすぎていると、ちょうど眉毛の上あたりが一番こっているものです。ここの筋肉を緩めて思考をなしにして行ないましょう。人が思考をする時には、必ず眉毛の上あたりに輪がはまり、この位置で思考を横にまわすようになっています。よく思考をまわす人は、この輪が強く締められています。ですから、これを緩め、なしにしていくことをイメージしましょう。その際、同時に全身の力も抜きましょう。全身の力を抜く時は、軽く深呼吸をして、息を吐きながら力を抜きます。そして、「ありがとうございます」と感謝しながら、思考エネルギーを眉間チャクラから空中に放出しましょう。
各部所で負のエネルギーを空中に放出するたびに、そのエネルギーが活躍してくれたことに感謝する意味で、「ありがとうございます」という言葉を添えて、放出したいものです。そのようにして、自らの中の一日に溜め込んだ負のエネルギーをすべて流した後に、もう一度、「今日一日、ありがとうございました」という感謝の心を込めて、全身を感謝の響きで包みましょう。これで自己ヒーリングを完了します。
イメージとしては、脳の思考をすべて空にした段階で、シャバーサナ(死体のポーズ)を意識するのが良いでしょう。シャバーサナのポーズに入ったら、出来る限り思考はまわさないように、全身の力を抜き、床に体がへばりつくような重力を感じてください。呼吸は常に吐くことを意識しましょう。最終的には、自分の体の質量がなくなり、体が空中に浮いていることをイメージします。そして最後は、無重力の宇宙空間に浮いているイメージをしましょう。星がたくさんある世界をイメージし、自分もその星のひとつになってみましょう。

そういった体に対する感謝の姿勢が日常の中で定着してくると、それを毎日行なわなくても、自動的に一日の終了時に無重力を意識するだけで、負のエネルギーをリセット出来るような人となります(ミノナライ)。

 

手かざしを行なうための心構え

手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。

このように、ヒーリングを行なう時の心構えとして、私たちは対象に対して何かをやってあげるのではない、ということです。「やらせていただきます」の姿勢が肝心です。それはなぜかというと、そのエネルギーを対象に発することにより、自らの全身の気の通りを良くする効果につながるからです。人にやらせてもらうことにより、やればやるほど、自分自身の気の通りは良くなってきます。ですから、常に、「やらせていただいて、ありがとうございます」の心構えで行なうことが肝要なのです。

そもそも私たち地球生命は、身近なところでは空気を吸い、食べ物を取り入れて生きています。このように、生命活動を維持するために必要なことを行ない、いのちをつないでいます。いのちがつながっていくということは、生命力があるからです。いくら生命活動をつなげようとして、いくら呼吸をしても、そしていくら食べ物を取り入れ栄養を摂ったとしても、生命力がなければそれで終わりになるのです。生命力がないということは、簡単に言えば、寿命が来たということです。寿命が来たかどうかは別にしても、それは心臓が停止したというような、生命を維持するための機能が働かなくなったということです。

そもそも、私たちは生命力の源がどこにあるのかということを認識する必要があります。それは、呼吸にあります。呼吸というのは、単に酸素を取り入れている行為ではありません。空気の中に酸素はありますが、「空気」は「空(から)の気」と書くように、空気というのは空っぽで駆け引きも何もないことを指します。つまり、空というのは、美しさや純粋さ、始まりを示し、そのような気が地球を包んでいるのです。

地球と大気の関係を語るのに、卵の中身が地球だとしたら、その外側の殻の厚みが大気となります。それはとてつもなく薄いのですが、実は空気の層には100kmの厚みがあるのです。地球上で最も高い山はエベレストであり、これは約9000m弱の高さです。それよりも上まで大気の層はあるのです。この大気の層があって、下へ行くほど気圧が高くなり、上へ行くほど気圧が低くなります。気圧が高いということは、生命力が高いということです。ですから、地表に生命は湧くようになっているのです。

私たちは常に空気を吸うことによって、大気の酸素を取り入れ、循環の中の生命活動をしています。同時に、私たちは空気から「気」を取り入れています。人によって健康であったり不健康であったり、生命力が強かったり弱かったりするものですが、それはその人の空気を取り入れる姿勢にあるのです。たとえば、呼吸をする時に、私たちは吐くことを意識するようにしています。吐くということは、自らの中にあるものを空(から)にすることにより、新しいものが自動的に入ってくるということです。

台風が来ると気圧が低くなり、1気圧(1013ヘクトパスカル)よりも低くなれば、海面を押さえている力が弱くなるため、海面が上昇します。先日の台風21号は、945ヘクトパスカルぐらいで大阪湾に上陸した時、潮位が3mを超えるほど上昇し、過去最も高い潮位を記録しました。それぐらい、日頃から空気の圧が海面を押さえているのです。

そうすると、私たちは今、気圧を感じながら、自分の体を保っているのです。実は、その気は吐き出せば吐き出すほど、入ってくるものなのです。それだけ、私たちには圧力がかかっています。それを、「気をたくさん引き入れてやろう」と思うのは、すでに我や欲が働いていることになります。呼吸は、吐けば自動的に入るようになっています。それが、この世界の仕組みです。それに欲をかけると、さらに自我に汚れることになるのです。ですから、「吸ってやろう」と思わないようにしましょう。日頃生活している時でも、「得をしてやろう」とか「良い思いをしたい」と考えている人たちの姿勢は、それはすでにこの世界に生かされている姿勢から外れているということなのです。

では、どのような姿勢で生きることが望ましいのでしょうか。それは、「生かされています」「ありがとうございます」「いただきます」という心になった時、この世界で生かされている姿勢にふさわしいものとなるのです。はるか彼方、13000年前のカタカムナ人たちは、現代のようなテクノロジーもなかったため、生きていくのに自然の仕組みの中でその仕組みのままに生きるしか術がありませんでした。その時に、自らの種を存続させ、生を全うするためには、いろいろな危険がありました。気候ももっと不安定だったでしょう。危険な動物に出遭ったり、1年を生きる時に現代のような施設栽培があるわけではないので、その都度自然からいのちをいただく必要があったのです。そうすると、彼らは常に自然と対話しながら生きていました。ハワイの先住民たちも、星と対話しながら生きていたのです。それは、特別なことではなく、日常当たり前に行なわれていた姿勢でした。星と対話し、危険についても自然から察知しながら生きていたのです。このように、自然の中で完全に生かされていたので、人間の姿をした宗教的な神様など想像しなくても、その人が生きているのと同じ意識レベルに見えない存在を感じ、生かしてくれていることを知っていたのです。そして、それが宗教心の始まりだったのでしょう。それは、生きることに対して真剣かつ純粋な生き方でした。

私は手かざしについて考えた時、今までの宗教のようなご利益的なものではいけないと思っています。そこを慎まなければ、この行為の効力は発揮しないでしょう。私たちがこの生命世界の中で健康に生きる仕組みをよく理解した上で、汚れのない美しい心のもとに行なうことが大切なのです。もしくは、自分は汚れていると思った人が、自らの心がよりきれいになっていくために行なうことです。

今まで、私はあえてこういった行為を、積極的に行なうことも伝えることもしなかったのは、それがご利益的な世界につながることを懸念し、控えてきました。しかし、これも人間に内在する神通力のひとつです。宗教のように欲が入ると害も出ますが、内に発生した滞りをきれいにしていくだけの浄化作業としての意識で行なうならば、人々の健康に大いに役立つものです。そして、人間を正しくきれいにし、細胞の配列を正しくするという目的のもとに行なっていきたいものです。そういった意味で、このような行為も正しい道理のもとに互いに行ない合うことにより、絆につながることにもなるのです。

「健全なる肉体のもとに健全なる精神がある」とは言いません。「健全なる精神のもとに健全なる肉体が宿る」と言います。この世界は「陽陰」ではなく、必ず「陰陽」です。そのことを理解した上で、手かざしを行なうべきです。ですから、そこでは真剣な姿勢が求められます。

体の歪んだ細胞の配列を治しても、心を正さなければ、物事の根本的な解決にはなりません。心が原因として生命力は本来あるべきです。心が伴わない生命力は、人生の狂いの元となります。つまり、生命力の内容は心が伴ってあるべきです。それは、本来の生命のあり方に基づき、心もあるべきなのです。

そういった意味で、手かざしを日常の中に取り入れることは大切なことですが、もし取り入れるのであれば、こういった心構えを徹底的に理解し、自覚した上で行なうことが肝要です。それが、「知意行一体」の精神です。そして、それを反復演練していくことによって、自然に身についていきます。そうした「ミノナライ」となった時、その人は美しい気をこの世界に発する者となれるのです。

 

 


どうぞウソをついてください ~ ジイジから子どもたちへ

この夏、韓国から7人の子どもたちがやって来て、約1ヶ月間を木の花ファミリーで過ごしました。彼らにとっては、毎日出会うものも聞くことも新鮮で、1ヶ月の間に様々な体験をしました。ある日、「どうしてウソをついたらいけないのか」について話してほしいというリクエストがあり、韓国と日本の子どもたちに向けて、ジイジがこんなお話をしました。


 
ジイジ:
では、まず質問です。ウソをついてはいけないと思う人!

子どもたち:
はーい!(子どもたちの約半数が手を挙げる。)

ジイジ:
じゃあ、ウソをついてもいいと思う人!

子どもたち:
はーい!!(残りの半数が手を挙げる。)

ジイジ:
さて、どっちが多いかな?ウソをついたらいけないと思う人は、きっとウソをついて叱られたことがある人だね。それから、ウソをついて困ったことがある人だね。
ジイジはね、ウソをついてもいいと思いまーす♪(子どもたち:「えっ」という顔をする。)だって、ウソをつくとどうなるかということを経験するためには、ウソをつかないとわからないでしょう?
子どもの時には、ウソをつくものです。子どもはウソつきだと思う人~!

子どもたち:
はーい!!(^O^)ノ

ジイジ:
そうだよね、子どもはウソつきだよね。じゃあ、ウソをつくとどうなる?

あやな:
怒られる。

ジイジ:
怒られる?でも、上手にウソをついたら怒られないでしょう?

あやな:
たしかに(笑)。

ジイジ:
だからね、上手にウソをつけばいいんだよ。怒られないように。

ゆうとう:
冗談なら怒られないよ。

ジイジ:
冗談はウソとは言わないよ。ウソをつくというのは、本当のことと違うことを言うことです。本当のことって、いくつあると思う?

ゆりか:
ひとつ!

ジイジ:
じゃあウソはいくつあると思う?

ひみこ:
無限!

ジイジ:
無限というか、たくさんだよね。そうすると、ウソをつく人はいろんなことを考えます。だから頭が良くなるね。そういうのを「悪だくみ」といいます。悪いことを考えるには頭をたくさん働かせないといけないから、賢くなります。
ウソをついて成功すると得した気分にならない?得した気分になる人!

子どもたち:
う~~ん。

みのり:
いや~、得というより、罪悪感がある。

ジイジ:
でも成功すると、ちょっとだけ得した気分にならない?

みのり:
まあ、ちょっとだけね。

かのこ:
罪悪感はあるけど、大人に怒られずに済んだ!っていうのはある。

ジイジ:
それをいっぱいやったら、得だよね。それでね、ウソをつくと頭が良くなるよ。だって、ウソがばれそうになったらどうする?ウソをつくと、本当のことがばれないようにする必要があるでしょう。だから本当のことがわかりそうになった時にどうする?

(「またウソをつく」「本当のことを言う」「黙る」「逃げる」などいろんな意見が出る。)

ジイジが言いたいのはね、なぜかわからないけどウソをつきたくなる時があるでしょう?そういう時には、たくさんウソをついていいんだよ。そうすると、それは本当じゃないから、後で本当のことがわかると困るでしょ?だからそれをずっと隠しておくためには、いろんなことを考えなければいけなくなって、頭が良くなる。でもね、その頭は、悪い頭だよ。それで、悪い考えが頭の中にいっぱい増えると、悪い人になるよ。

ウソをつく人というのは、まず人から信用されなくなります。(シャンリンに向かって)シャンリンはたくさんウソをついていいよ。シャンリンはウソをつくというけれど、実はシャンリンは、とてもわかりやすいウソをついています。それはウソでしょ、とわかるウソ。そういう人は、正直なウソつきです。
子どものころにウソをつくのは、ウソの練習をしています。問題なのは、ウソをついていることがわからなくなってしまうことです。自分が今ウソをついていることがわかっていれば、心のどこかに「自分はウソをついているなー」というのがあるでしょう。でも「自分はウソなんかついてない!」と本気で思っていたら、それは本当のウソつきですね。
シャンリンは、ウソをつく時に「自分はウソをついているな」ということを知っているでしょ?だからシャンリンは正直なんです。困るのは、自分がウソをついていることをわからなくなってしまうことです。

ウソをつきたい時にはウソをつけばいいんだよ。ただしその時に、「今、自分はウソをついている」ということをよくわかった上で、ウソをついてください。そうすると、後で困ったことが起きた時に、「ああ、自分がウソをついたからこうなったんだ」と気付くことができます。そうしたら、ウソをつくのをやめよう、と思うでしょう?
ウソは本当のことと違いますから、必ず後で困ったことになります。その時に、自分がウソをついたことをわかっていないと、その困ったことは自分に原因があるのではなく、人のせいだと思うようになります。これは本当に困った人です。自分がウソをついていることをちゃんとわからないまま大きくなると、ウソをついていることに気が付かないままウソをつく大人になるのです。それは心が汚れているということです。
そういうふうになっちゃいけないよ、子どもたち。わかった?

子どもたち:
はーい!!! ヽ( ≧▽≦ )ノ

ジイジ:
もうひとつ、みんなに言いたいことがあります。人は赤ちゃんで生まれてきて、大人になり、いずれ死にます。その人生の中でウソをついていくということは、本当ではないことで生きていくということです。ウソをついていると、心が悪い人になるでしょう?そうすると、人生を生きていてもいいことが起きません。人生の途中ではいいことばかりに出会ったと思っても、必ず人は生きている間に、そのウソの分だけの困ったことを受け取らないと、死んではいけないようになっています。さらに、そのままで人生を終わると、ウソつきとして人生を終わることになります。そうすると、もしも次の人生があるとしたら、今度はウソつきとして人生が始まるのです。

ジイジは昔、木の花ファミリーを始めた頃に畑で作物を作っていました。畑へ行って土を耕して、種を播いて、野菜を育てたりしていました。畑では、植物はもちろん、動物や、土や、雨や、風や、いろいろなものに出会います。そこで、人間以外のものはウソをつきません。だから自然の中で生活していると、とても心が穏やかでした。それは、疑わなくてもいいからです。
でもそこに、ジイジを訪ねていろんな人がやって来ます。そして人間が来ると、その場にウソができるのです。そういったウソをつく人間から勉強できることは、あまりありません。自然の中で畑を耕していると、例えば作物の出来が悪ければ、それは土が間違っていたり、気候が合わなかったり、どこに原因があるのかを正直に教えてくれます。たくさん収穫しようと思って肥料をたくさん入れると、作物は病気になります。自然は、いつも正直に人間のやっている間違いを教えてくれます。自然は絶対にウソをつかないのです。
だけど人間は自分に都合のいいようにものを考えるから、ウソをつきます。大人は子どもに「ウソをつくな」と言いますね。それは子どもがウソをつくからです。でも実は、大人の方がもっとウソをついています。そういった経験があるから、大人は子どもに「ウソをつくな」と言うのです。つまり、人はみんなウソつきだということです。
そこで大事なのは、自分がウソをついている時に、ウソをついていることをわかっていることです。それは、自分が間違っていることを振り返る心があるということです。

ウソをつくと、それは本当のことと違いますから、生きていると必ずその間違いの結果が自分に返ってきます。欲が深い人は、畑で種を播くと、まだ作物が育つ前からたくさん収穫することを考えます。たくさん採るためにはたくさん肥料を入れて大きくしよう!と思うのです。でもそれは、作物のことを考えていません。その人が欲をかいた分、作物は病気になって、本当のことを教えてくれるのです。
ウソも同じです。ウソをつく時には、それを言うことでいいことがあると思っています。だからウソをつくんでしょう?でもウソをつくと、必ず自分が思っていたことと反対の、都合の悪いことが起きます。そこで、ウソをつくのはよくないな、ということを学ぶのです。ということは、みんなはウソつきの練習をしているのです。そのために、そういった仕組みがあるのです。

たくさんウソをつくと、たくさん困ったことが起きるよ。ウソつきの頭をたくさん働かせると、ウソつきの人になっていきます。でもウソをつくのは、ウソつきになるためではなく、ウソをつくとどうなるかということを勉強するためにあるのです。
その時に、自分がウソをついたことがわかっていれば、すぐに勉強ができます。ああ、あのウソがこういう結果になったんだ、と。でも自分がウソをついていることがわからない状態になっている人は、困ったことが起きても人のせいにします。だから、ウソから勉強することができません。そして本当に困った人になります。ジイジはそういう大人にたくさん出会ってきました。
ですから、そういう大人にならないように、ウソをつかないのではなく、練習のためにウソをついてください。そしてウソをつけば必ず困ったことが起きますから、そこでウソをつくとこうなるんだ、ということを勉強してください。
ジイジも子どもの頃にはたくさんウソをつきました。そしてウソをつくとまずいな、ということがわかって、だんだんウソをつかなくなりました。大人は子どもに「ウソをつくな!」と言うけれど、子どもの時にウソをついていないと大人になってからウソをつきますね。それは本当に困った人になりますから、小さいうちに練習としてたくさんウソをついてください。そしてたくさん困ってください。そしてどうして困ったのかといったら、自分がウソをついたからだということに気付いてください。そうしたらきっと、ウソをつかない人になるでしょう。

きよみ:
ウソついていいよって言われたら、ウソつく気がなくなる。

ゆうとう:
大人は「怒らないから正直に言いなさい」と言いながら、本当のことを言うと怒るよ。

みのり:
それ、めっちゃあるー!

ジイジ:
それでは、ウソをつく時には、正直にウソをついてください。そしてできれば、相手の人にもわかるようにウソをついてください。そうしたら相手の人は「ああ、ウソをついているな」と言って認めてくれるかもしれません。

人間以外のものはウソをつかないのに、人間はウソをつきます。ということは、人間が生きていると問題が起こるということです。
例えば、(スマホをいじっているイェヨンを見ながら)スマホは優れた機械ですね。でも人が話している時にそれをいじっていたら、相手の話を聞いていないことになります。場合によってはそれがないと眠れなくなったり、歩きながら使っていて人や車にぶつかったりもします。何でもそうですが、その人の考え方や使い方によって、いいものにもなれば悪いものにもなるのです。
でも本当はこういうことのために使うんだよ、という正しい使い方があります。人間はいろんなふうにものを考えて、いろいろな使い方をしますが、どんなものであっても、正しい使い方をしなければ、すべて悪いことになって返ってくるということです。そういった正しい人生の生き方や物の使い方を勉強するために、みんなは生きているのです。いっぱいウソをついても、それをしっかりと学んで、どうしたらいいかをわかる人になりましょう。

以上、ジイジのウソつき講座でした♪

 

 


あなたが人間である限り 〜 2018年終戦記念日を迎えて

8月12日の夜、木の花ファミリーでは「この世界の片隅に」という映画を皆で観る時間を持ちました。7月21日から韓国の7人の子どもたちが木の花ファミリーに滞在しており、その上映会には韓国の子どもも参加していました。その翌日の子どもミーティングでは、ジイジから日本と韓国の子どもたちに向けて、この映画を観たことを受けて戦争について話す時間がもたれました。

子ども達に話をするジイジ
通訳に耳を傾ける韓国の子ども達

あなたが人間である限り
〜 2018年終戦記念日を迎えて 〜

ジイジ:
今日は8月13日です。日本では、8月の13日・14日・15日にはお盆休みを迎えるのですが、これは仏教の盆会で、亡くなった人の魂を家に迎えるということをします。亡くなった人はいなくなってしまったのではなく、魂としてどこかにいると言うのですが、本当にいるかどうかというのは考えものです。それはなぜかと言うと、生きることは明日という未来へ向かって進むことです。それを止めることはできません。それは、私たちは時間と共に生きているからです。皆も、10年経って、20年経って、30年経って、67年経つと、ジイジのようになるのですよ(皆、笑い)。もうしばらくすると、ジイジも、形としては消えてしまいます。そうすると、皆の中のどこにいるかというと、おそらく心の中にいると思うのですが、形はなくなります。

それで、私たちは生きている間にいろいろなことをしますね。そうすると、その人の思い出がまわりの人たちに残ります。それが皆の心の中にたくさん残っている人は、死んだ後でも、皆の中にいつまでも生きています。悪いことばかりしていたら、それも残ります。そして、大した行いをしていない人は、すぐに忘れられてしまうのです。たとえば、100年経ったら、ほとんどの人たちは忘れられてしまいます。しかし、100年経っても忘れられない人もいます。それはどんな人ですか?

ゆうとう:
歴史上の人物!

ジイジ:
そうですね。それは、お釈迦様やイエス・キリストのような聖人と呼ばれる人たちのことですね。それで昨日、皆で「この世界の片隅に」という映画を観ましたね。あのような戦争があり、今からちょうど73年前に戦争が終わったのです。実は、ジイジも戦争を経験したことはありません。戦争が終わって6年経ってから、ジイジは生まれました。ジイジのお父さんやお母さんは戦争を経験しています。

あの映画を観て、皆はどう思いましたか?

みこと:
戦争の映画って聞いていたから、怖いのかなと思ってあまり観ようと思わなかったのだけど、観たら意外と面白かった。

ジイジ:
日本では8月15日が終戦記念日です。だから、このお盆と終戦記念日がちょうど重なっているから、亡くなった人たちのことや戦争のことを振り返るという意味で、この時期には毎年戦争に関する特集や映画がテレビで放映されます。今までは、戦争はとても悲惨な出来事で、たくさんの人が戦場で亡くなったということが取り上げられていましたが、昨日の映画は少し違っていました。その戦争が行われている時代にも、人々が笑ったり冗談も言いながら日常生活を過ごしていたことが描かれていましたね。

しかし、そもそも外国の人が日本に飛行機で飛んできて、爆弾を落とし、最後には原子爆弾というとてつもなく大きな爆弾を落とし、何十万人という人が死んだのです。ところが、同じ時に日本が外国へと行き、たくさんの人を殺していたのです。そのことを皆は知っていましたか?

(「知っている」と答える子どもたちと、「知らない」と答える子どもたちに対して)

知らない人もいますね。だから、戦争のことは皆、知らないといけないのです。

一昨日の晩、まりちゃんが「関ヶ原」という映画のDVDを借りてきてくれて観ました。それは、1600年のことですから、今から約400年前の戦国時代に、日本の武士たちが戦っていた映画でした。その時代には、日本人同士が殺し合っていたのです。

それから300年を経て、今度はアメリカや外国の人たちと日本が殺し合っていたのです。さらに、日本も外国へ行き、たくさんの人たちを殺したのです。単に殺したといってもよくわからないかもしれませんが、どうして戦争が起こるか知っていますか?どういう心の人が戦争を起こすか、皆はわかりますか?

あやな:
自分の欲が大きくなって、戦争になる。

ジイジ:
どういう欲が大きくなるのでしょうか?

ゆうとう:
「僕がいっぱい儲けてやる!」「世界中を支配してやる!」という欲!

ジイジ:
「僕がいっぱい儲けてやる」と思ったとしても、それは戦争をしなくても、商売をすればいいのです。何も戦争をする必要はありません。

みのり:
自分の意見と他人の意見が分かれたものが大きくなったもの。

ジイジ:
それが何ですか?

みのり:
喧嘩!

ジイジ:
自分の意見と他人の意見が分かれて、それが大きくなったものが喧嘩で、喧嘩がひどくなると戦争になるのです。皆は昨日の映画を観て、楽しかったですか?

みのり:
ううん。楽しいわけがない。

ジイジ:
ジイジもすごく悲しかったし、戦争に腹が立ってきました。あの小さい女の子が吹っ飛んで死んでしまいました。おそらくあの状態だと体はバラバラになっています。映画の主人公であるすずさんの右腕は手首から先がなくなってしまいましたね。

あきよし:
あれは何だったの??

ジイジ:
たとえば、飛行機は、頭が良い人が作るのです。飛行機に爆弾を積んで、運んで、落として、破裂させるのも、頭が良い人が計画をするのです。「こうやったら大きく破裂して、たくさんの人が死ぬぞ!」ということで、「そういうものを作ってくれ!」と誰かが頼んだら、それを工夫して頼んだ人の願いを叶えてあげたら、お金がたくさんもらえるのです。それで、たくさんの人を殺すことをそういった人たちは一生懸命考えてやるのです。さて、あの女の子が死んでしまった爆弾はどういうものだったのでしょうか。

すずさんと姪っ子のあの女の子が、空襲が終わった後に、軍港である呉市の港を見に行きましたね。そのときに、爆弾が落ちてできた穴のそばに行ったのです。つまり、海岸はすべて塀があって見えなかったのに、爆弾が落ちたからそこが壊れて見える状態になっていました。「ここから見えるよ」と言って港を見ていたら、おじさんたちが「爆弾の不発弾は時限爆弾だから気をつけるんだよ」と遠くから呼びかけていました。大きな爆弾を落とすと、それはドーンと爆発します。その破裂した大きな爆弾の中に、破裂しない小さな爆弾をいくつか入れておくのです。

子どもたち:
えっ!? なんで??

ジイジ:
それは、大きな爆弾が爆発すると、まずそれが破裂して破壊しますね。そのときに破裂した爆弾の中に、破裂しない爆弾が入れてあって、そこに残るのです。時限爆弾というのは、時間が来ると破裂するのです。だから、飛行機が飛んで来て、爆弾を落として、飛行機が行った後に皆が出てきて、「空襲が終わってよかったね」と言って外の様子を見に行ったら、「時限爆弾があるから気をつけなよ」というおじさんの発言につながるのです。あのとき、すずさんはそれが聞こえなかったから、「お疲れ様」と言って塀から海岸を覗いていたのです。そのときに、そこに落ちていた時限爆弾が破裂したのです。

そこでジイジが思ったのは、「それを考えた人は頭が良いな」ということです。なぜなら、破裂しない時限爆弾を残しておいたら、空襲が終わって安心して外に出る人たちをもう一度やっつけられるからです。だから、ジイジはそれを考えた人のことを思うのです。爆弾を破裂させただけでは皆をやっつけられないから、空襲の後に様子を見に来た人たちも時限爆弾でやっつけようと考えるのは、賢いと思うのです。

戦争の場所というのは、実際に爆弾やいろいろな武器を使って相手をやっつけます。それは、そういった人を殺したり物を破壊したりするものがどのくらい効果があったのかという実験場でもあるのです。だから、原子爆弾も、人間が住んでいる都市の上に破裂させると、どのくらいの破壊力があって、どのくらいの人が、どのくらいの期間に死ぬのかというデータをすべて集めているのです。そして、そのデータを次の爆弾のために活かすのです。よりたくさん、より効率良く、人を殺すことを考えるのです。それは、頭が良い人でないと、そういった工夫はできません。

皆は、学校の勉強をしていますね。学校の勉強をして、将来大きくなって、大きい会社へ入って、そこで良い製品を作って、それがたくさん売れたら、お金をたくさんもらえますね。その会社が爆弾を作る会社だったら、効率良くたくさんの人を殺す爆弾を作ったら、お金をたくさんもらえるのです。

たとえば、食べ物が安全でないものなのに、皆がたくさん食べたがるようなものをたくさん作るとします。そういう食べ物はコンビニなどでたくさん売られていますね。そうすると、安全でなくても、皆がたくさん食べたがるものを作ったら、会社は儲かって、これを作った人たちは給料をたくさんもらえるのです。だから、体に良いものではなくても、人がたくさん欲しがるものを作れば、お金になるのです。そういった食べ物をいつも食べないといられない人も出てきます。これを中毒と言います。そういった中毒の人がたくさん出てくるような食べ物を作れば、会社は儲かりますね。そして、それを考えた人はお金がたくさんもらえますね。お金がたくさんもらえたら、その人は優れた人になります。頭が良い人ですね。

そこで、戦争の話をもうひとつ話します。「悪魔の兵器」と言われるものがあります。

子どもたち:
何それ??

ジイジ:
名前は「クラスター爆弾」と言います。クラスター爆弾というのは、まず飛行機が爆弾を落とすときに、最初の爆弾は一つです。そうすると、途中でそれが破裂して、いくつかになります。たとえば、最初の爆弾が落ちると、それが破裂して、100個になります。そうすると、100箇所に広がっていくのです。そのうちに、その100個になった爆弾が、さらに破裂します。そうすると、それがまたいくつかになるのです。

このクラスター爆弾をインターネットで調べると、「広範囲に効果を及ぼすこの無差別兵器は、人口の多い地域で用いられると、特に危険。薄い膜で覆われた大きな爆弾には、10kg以下の小型爆弾がだいたい100個詰められている」とあります。それがドーンと落ちて破裂し、そこからたくさん広がった爆弾が、さらに破裂して広がるのです。最終的には、手榴弾ぐらいの大きさに分かれて、それが爆発するのです。そうすると、広範囲に破片がいっぱい飛んで、中に金属の玉が入っているのでたくさんの人を広範囲に効率良く殺せるのです。

ジイジはこういうものを知ると、「これを作った人は頭が良いな」と思うのです。こういうものを考える人は皆、学校で勉強がよくできた人たちです。だから今、学校で勉強ができる人に対して、「あなたはすごいですね」とは僕は思いません。勉強ができる人たちが皆、こういうことを考えるのですから。そして、お金をたくさんもらえて、良い生活ができるから、こういったものを考えて作るのです。

クラスター爆弾の他にも、「ナパーム弾」と呼ばれる爆弾があります。インターネットでナパーム弾について調べると、「主燃焼材のナフサにナパーム剤と呼ばれる増粘剤を添加してゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾。アメリカ軍が開発したもので、きわめて高温(900-1,300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊する」とあります。昨日の映画でも描かれていたように、花火のように火がついてヒューッと落ちてくる焼夷弾と同じです。すずさんの家の屋根を突き抜けて落ちて燃えていたのを、すずさんは消そうとしていましたね。しかし、あれは油だから消せないのです。油は水をかけたって、広がるだけなのです。アメリカはベトナム戦争でナパーム弾を用いて、多くの村や森林を燃やしました。また、「人体についたナパーム弾は落とすことが困難で、広範囲のやけどをもたらし、犠牲者は痛みによるショックでしばしば命を落とした」とあります。べっとりとくっついたら、もう取れないのです。そうすると、相手の人をよりたくさん苦しめてから、殺すのです。頭の良い人はそうやって効率の良いものを考えるのです。いっぺんに殺してしまうとそれで終わりです。でも、苦しんでいる人がたくさんいると、それを手当てする人も必要なわけです。だから、その現場がより大変な状態になるのです。たとえば、負傷した人たちがたくさん出て、その人たちが助けを求めていたら、その人たちを看病する人たちがいります。そうすると、そのまわりにいる元気な人たちも戦うことはできません。そして、負傷者が多くなると、その人たちの戦う気力もなくなっていきます。「なるべく苦しませて、死なせないように」という効果をもたらす武器を作る人たちは、頭の良い人たちです。

昨日観た映画は第二次世界大戦を描いたものですが、このような兵器は戦争をやるたびに、「もっと相手を傷つけるように」「もっと強力な兵器で効果が上がるように」という目的でどんどん進化していったものです。今なお、このような戦争の道具は、さらに効果が高いものを作るために研究されているのです。それを誰が研究しているのかというと、学校で勉強ができた人たちなのです。

もうひとつ、戦争のことでひどい話があります。東南アジアにカンボジアという国があります。ベトナムでもそうですが、特にカンボジアという国は国の中で内戦がありました。カンボジア人同士で戦ったのです。そのときに「地雷」というものをたくさん埋めたのです。

みのり:
足が吹っ飛ぶもの?

ジイジ:
そうですね。昔の地雷は、地雷が爆発すると、ほとんどそれを踏んだ人は死んでいました。ところが、今の地雷は、死なないのです。死なないように作ってあるのです。たとえば、足だけが吹っ飛んでしまったほうが苦しいですよね。その人が歩けなくなったら、その人を看病する人が必要になりますから、他の人の戦力がそこに取られてしまいます。だから、そんなに強い爆発をさせないようにして、負傷した人をいかに増やすか、ということを考えた兵器なのです。

かのこ:
え――!!

ジイジ:
今、かのこは「え――!!」と言いましたが、相手をいかに苦しませて、戦えないようにさせるのかを考えるのが、兵器の目的です。相手が苦しいことを平気で考えるのが、兵器の目的なのです(チーン♪)。

なぜ、ジイジは昨日の映画を観ていて腹が立ったのかというと、あの映画は日本が攻撃されている映画ですね。なぜ、日本は攻撃されたと思いますか?

みのり:
喧嘩を売ったから。

ジイジ:
そうです。そもそも、外国とあんな戦争を始める国だから、そのような攻撃を受けたのです。しかし、人というものは、自分が攻められると自分がかわいそうで、攻める側が悪くて、攻められる自分はかわいそうだと思ってしまうのです。そういう一方的な見方だけをしてはいけません。自分の側が正しいとか、自分の側がかわいそうと思うだけでは、本当のことはわかりません。相手には相手の考えがあるのです。大切なことは、両方の考えを聞いて、喧嘩をしなくてもいいようにすることが大切なのです。

ここで、もうひとつ大切なことは、戦争は今でもあります。どこでそれが起きていますか?

みのり:
世界で。

ジイジ:
そうです。地球で起きているのです。地球の中の誰が起こしているのですか?

子どもたち:
人間!

ジイジ:
では、人間以外のもので戦争をするものはいますか?

子どもたち:
いない!

ジイジ:
人間だけですね。皆はその人間の仲間ですね。皆が「自分が正しい」とか「自分だけがかわいそう」と、自分のことばかり考えていたら、それが戦争の元になるのです。だからジイジは、「もっと広い意識の心を持ちましょう」といつも伝えています。

今、人間というこの馬鹿な生き物が地球にいて、戦争のような行いをするのです。人間はそこから勉強すればいいのですが、こういう馬鹿な戦争をして、その結果それを元にして、さらにひどい爆弾を作ったりするのです。さらに自分の都合の良いことを考えるのです。それでは、いつまでたっても平和な世の中は来ませんね。

子どもたち:
うん。

ジイジ:
自分のことばかりを考えるのではなく、皆のために良い世界を創ればいいのに、とジイジは思うのです。

みのり:
みのりもそう思う。

ジイジ:
でも、学校で、自分のことしか考えていない人たちがいっぱいいるでしょう?木の花の中でも、自分の都合だけを考えている人はいませんか?そういう人たちがこういう生活をしていても、似合いませんね。

それで、日本は戦争をして、300万人の日本人が死にました。1945年に戦争が終わって、その5年後の1950年に、そこにいる韓国の子たちが住む朝鮮半島でまた戦争が起きたのです。朝鮮戦争があったのは知っていますか?それはジイジが生まれる前の年に起きた戦争です。そのときには、今の北朝鮮と韓国のある朝鮮半島全部が戦場になったのです。朝鮮の人たちは日本よりも人口が少なかったのですが、その戦争で400万人の人が死んだのですよ。そのときに、日本よりもさらに不幸だったことは、北と南に分かれた同じ朝鮮の人たちが戦ったのです。だから、日本でいうと、北海道や東北の人と、九州や四国・大阪の人が戦ったということです。同じ民族の人たちの間で戦いがあったのです。それで、人々の関係が近いから、余計に憎しみが強くなったのです。それは、とても悲惨な戦争でした。

今も、国境が朝鮮半島の真ん中にあって、北と南に分かれています。それで北朝鮮は原子爆弾を作り、まだ戦争は終わっていないのです。あれから何十年も経ったのですが、戦争は停戦ということで戦いはありませんが、まだ終わっていません。

そういったたくさんの歴史を振り返ると、人間は馬鹿だと思うのです。それで、人間を観ていると、頭が良いのか馬鹿なのか、どちらか分かりません。それでも、そういった人たちと自分は同じ人間なのですよ。だから、ジイジは皆にこういう話をしたいのです。

あなたが人間である限り、その心の持ち方によっては、戦争を起こす人になります。でも、あなたが人間である限り、その心の持ち方によっては、平和で豊かな幸せな世界も創れるのです。

そのときに――、先程誰かが言っていましたが、戦争の元の心は何ですか?

みのり:
自己中心の心。

ジイジ:
そうです。自分のことしか考えない心です。相手のことなど考えない。そこで、皆は今、このように毎日を生きていますね。どこに生きているのかというと、一つの地球に生きているのです。そして、地球は動いています。地球という一つの乗り物に乗って、私たちは宇宙を一緒に旅しているのです。この地球に命がたくさんあるのは、なぜだと思いますか?どうして地球に命がたくさんあるようになったと思いますか?

なお:
空気があるから。

ジイジ:
そうですね。他にはどうですか?

ゆうゆ:
水があるから。

子どもたち:
太陽があるから!

ジイジ:
そうです。太陽が命の元になっているのです。あとは?

なお:
海があるから!

ジイジ:
海があるということは、水ですね。海からはじめの命は生まれました。もう一つあります。それは、風です。風は空気をかき混ぜて、地球全体にいつも新鮮な空気を送るようにしています。この地水火風空の5つの自然の要素があるから、地球には命があるのです。これはすべて、一つです。大地も一つです。水も一つです。火というのは太陽のことで、太陽も一つです。風も空気もすべて一つです。その中心の太陽があるから、すべてが命の循環としてつながり、人間や他の生き物の命が健全にまわっているのです。そうすると、みんな一つだとしたら、「あなたは何者ですか?」と質問されたら、「私は光です」ということになりませんか?それは、私たちは太陽の子どもだからです。「あなたは何ですか?」と聞かれたら、「私は水です」ということになりませんか?なぜなら、私たちは水でできているからです。そこで「大地です」と答えたら、それは私たちが大地の子どもだからです。皆、大地から生まれてきた命を食べて、生きているのです。「風です」と答えたら、風のおかげで私たちは健康に生きられるからです。風がなければ、この世界の命は弱くて、育つことができません。そして、「私は空気です」と答えたら、空気がなくて生きていける人はいませんね。空というのは空間のことも示しています。この空間があるから、皆、生きていられるのです。

そこで、自分と人は違うとか、自分のことしか考えないという人がいるとして、そういう人たちがこういう考え方を持てば、皆同じということに考えが変わると思いませんか?皆、こうした自然の要素の子どもなのですから。

その前に、今日一番最初に話したことで、皆、同じ時間の上にいますね。地球上にいる限り、そして宇宙空間にいる限り、皆、同じ時間を生きているのです。だから、皆、同じ時の人なのです。皆、時間の子どもなのですよ。地球上に存在する命はすべて、地球という宇宙船に乗って宇宙を旅しているのです。

さらに、地球というのは、地球だけで宇宙に存在しているわけではありませんね。そうすると、太陽や地球と同じ仲間である惑星と共に、太陽のいろいろな働きを手伝いながら、宇宙空間を旅しているのです。ですから、他の星も仲間なのです。

ここでもう一回、なぜ戦争が起きるのかを考えてみると、たとえば戦争をするときに、戦場にはほとんど男の人が行きますね。そうすると、そのときに、「自分の家族を守る」とか「自分の国のために」と思って戦うのです。そこで、自分の家族を攻撃する人はいません。なぜなら、家族は身内といって自分の内にある存在だからです。そうすると、他人の家族なら殺してもいいのですか?

子どもたち:
ダメ!

ジイジ:
では、外国の人なら殺してもいいのですか?

みのり:
No, no, no, no!

ジイジ:
でも、もしこのことがわかっていたら、地球の生き物はすべて、家族です。それで、25年前、富士山麓に木の花ファミリーができたのです。最初は「木の花農園」でしたが、最終的になぜ「木の花ファミリー」になったのかといえば、皆が血縁を超えて暮らしているからファミリーになったのではありません。同じ地球上で同じように生きているということは、皆が家族だからです。それは、外国とか日本ということではなく、地球上にあるすべての命が家族だということです。

ここでさらに大切なことは、戦争というものは、人間と人間がするものですね。その戦争は良くないということになりました。では、人間がわがままになって、ぜいたくをして、まだ食べられるものをゴミにして捨てたり、毒を自然に撒いたとします。

ここにプラスチックのコップがありますが、これはとても便利が良いものですね。こういうものを使って、いずれそれをゴミとして捨てると、これは長いこと経つとだんだんひび割れて、小さくなって粉になっていきます。さらにすごいことがあります。歯磨き粉には研磨剤という小さなプラスチックが入っています。それから、化粧品や日焼け止めクリームの中にはとても悪い成分がたくさん入っているのです。今、ハワイではサンゴ礁への有害性が指摘される物質を含んだ日焼け止めの販売や流通を禁止する法案が州知事によって署名されました。

でも、人間は良い生活をするためにそういった便利なことを考えるのです。それは、誰が考えるのですか?頭の良い人が考えるのです。そして、勉強ができる結果、いろいろなものを開発し、便利な生活を世の中に提案して、お金にするのです。その結果、たくさんの自然の生き物は、知らない間に死んでいくのです。つまり、戦争をして人間同士が殺し合っているだけではなく、「何も悪いことはしていない」と思っている普通の人たちが、自然にはないものをたくさん使い、それを何も考えずに捨てると、それがすべて自然にまわって、いろいろな生き物を殺していくのです。しかし、地球はいろいろな生き物がバランスよく生きているからこそ、健康な場所であるのです。人間がそうやっていろいろなものを殺してしまうと、自然のバランスが壊れてしまうのです。そうすると、人間たちも暮らしにくくなるのです。

先日、西日本豪雨の被害がありましたが、今日はここ富士宮市でも土砂災害避難勧告が出されました。日本なのに、韓国になってしまいました(チーン♪)。ジイジがここに来てから25年目になりますが、昔はこんなにひどい雨が降ることはありませんでした。最近の台風も変ですよね。たくさん発生していますし、猛烈になってきています。それは、地球が変になってきている証です。それはなぜだと思いますか?

かのこ:
それは人間が地球にしていることが原因です。

ジイジ:
人間が地球に変な影響を及ぼすような生活をして、そして「自分だけ良ければいい」という考えの人がたくさん集まって、地球が暖まり、台風が猛烈になって、雲がたくさんできて、雨がたくさん降って、人が死ぬのです。それは、人間が人間を殺しているようなものだと思いませんか?今の人間は皆、知らないけれど、地球を変にしているのです。

今日は、戦争の話をしようと思ってこの場に臨んだのですが、戦争のほうがわかりやすいですね。人と人が殺し合って大変なことになるのです。普通の人が「私は戦争なんかしていません。悪いことは何もしていません。お巡りさんにも捕まることはありません」と言いながら、他の生き物をたくさん殺したり、それどころか、「おいしいものを作ったから食べてね」と言って、そこには添加物や毒がたくさん入っていて、そういったものを長い間をかけて食べていると、それが原因で病気になって死ぬこともあるのです。癌が発生するのは、食べ物が原因で起こることが多いのですよ。そうしたら、食べ物を作っている人が癌ができる食べ物を作り、結果、人を殺しているのです。それは、誰がやっているのかといえば、頭が良い人です。学校で勉強ができる人です。

だから、皆は一生懸命勉強して、これからはそういった人にならないように、戦争が起きないように、他の生き物に迷惑をかけないように、地球がどんどん変になっていかないように、そしてそれを直していける人になってもらいたいと思うのです。今までの人間は、結果として悪い世の中にするために生きていたのです。だから、ジイジはあの映画を観て、嬉しくありませんでした。被害者のような顔をしている何でもない女の人や子どもたちも皆、地球に良くない生き方をしているのですから。

これからの時代を生きていく皆さんは、そこをよく考えて、もっと深く観て、世の中にあるいろいろなことに自分が関わっているのかどうかを観える人にならないといけません。それは、浅く物事を観ていたらわかりません。ジイジはそういうことを皆に気付いてもらうために生きています。いつまでも生きていませんが、生きている間は皆にそういうことをわかってもらうために生きています。でも、いつかは死にますからね。死んだ後は、皆にはそれを受け継いでいってもらいたいと思います。そうでなければ、地球は人間のために不幸な星になってしまいます。

地球はとても大切な星です。そして、人間は本来尊い存在なのです。

しかし、人々の暮らし方が今のままで進んでいけば、あのような戦争をやるどころか、他の生き物をすべて殺してしまいます。そして、自分たちにも不幸な世界を創ってしまうのです。そういった行いをするもののことを馬鹿というのです。私たちは馬鹿ではいけませんね。

子どもたち:
うん。

ジイジ:
ということで、今日は戦争の話をしましたが、戦争というのは爆弾や鉄砲で打ち合うことだけが戦争ではないのです。知らないで、自分のことしか考えない心を持っていたら、それはすべて戦争の元です。皆で一緒に生きていて、皆が同じものの子どもですよね。そして家族ですよね。

みのり:
うん。

ジイジ:
皆、地球の細胞のようなものなのですから、みのりの中の細胞がみのりの役に立たなかったら、そういうのを癌細胞というのです。だから、木の花ファミリーでたくさんの人たちが助け合って、幸せで豊かな世界を創っているとしたら、それにまったく合わないような人がここにいたら、木の花ファミリーの癌細胞です。今、人間はまさに地球の癌細胞です。しかし、それでは人間の価値はありませんから、地球を良くする良い細胞にならなければいけません。今の人間たちの地球上での生き方・行いは、地球にとって癌細胞です。ですから、大人の言うことをすべて聞いて、それをすべて勉強して、大きくならなくてもいいのです。もっと違う角度から、本当に皆が喜べる世界を創るためには、新しい発想がいるのです。皆さん、勇気を出して、新しい時代を生きるものとして、自分の中から湧き出してくる考えを大切に生きてください。

そういったことを思いながら、そしてこの時期に戦争の映画を皆で観ながら、「戦争で犠牲になった人たちはかわいそうだね」という浅い発想の捉え方を超えて、すべての人間がそういった悲惨な戦争を引き起こしている種を持っていることを知らないといけません。真実は、皆が戦争をつくってきたのです。その犠牲者たちだったって、戦争を引き起こしていることを知らないといけませんし、皆が戦争をつくってきたのです。これからは、皆の中から戦争の種を取り去って、皆で地球を良い場所にし、他の生き物たちと共に喜び合える世界を創っていきたいと願っています。

この間は中国から13人の子どもたちがやってきましたし、今は韓国から7人の子どもたちが来ていますし、日本の子どもたちもこれから大きくなったら外国へ行き、そうやって新しい世代の人たちには人間の本当の生き方を調和という形で、地球上に表現していってもらいたいと思います。

昨日、映画を観て、ジイジは悲しかったのと腹が立ったのとで、皆にこういう話をしたかったのです。戦争をやって、もっと苦しませたり、もっと人を殺すことができるというような頭の使い方はあっていいですか?食べ物をたくさん食べていたら、中毒になったり病気になるような食べ物があっていいですか?

みのり:
No!

ジイジ:
人間が幸せになるために使うもので、他の生き物たちが迷惑することがあってもいいですか?それは皆、賢い人たちがやってきたのです。でもそれは、賢くなかったからなのです。これから皆には、本当に賢い人になってほしいと思います。それは、世の中全体が良くなることに貢献し、地球や他の生命が喜ぶような行いをする人に皆さんになってもらいたいと願っています。

 

 


今、自らのエリアを超えることが人類に求められている

ジイジ:
一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

僕は今、眠りながらそういったことをとうとうと語っていた。そして、「エリア」という言葉が自分の口から出たときに、「これは新しい区分だ」と思って、今ふたりに語り始めた。その前は完全に眠りながら語っていた。

ようこ:
今、ジイジの語っている雰囲気がいつもと違う気がします。何か新しい感じを受けました。

ジイジ:
人はそうやって自らのエリアを確保しようとするのだが、それは僕が新しいのではなく、自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

ところで、今日は何日?

ゆうこ:
今日は7月10日です。エリアが変わったから、この場の雰囲気も今までと違う気がする。

ジイジ:
その前の確保しようとしているのも、自分の意識がそうさせているのだが、人はそれを自分がしているとは感じていない。それは、無意識にそうしているからね。

ようこ:
エリアというものがあって、その中に自分自身がいることを意識していなかったことがわかると、そこを超える選択肢ができる。自らのエリアが固定されていることにひとたび気付けば、そこを超えられる。

ジイジ:
まずはそこに気付かないといけないのだが、人にはそれが観えないものだ。無意識に自らの許容範囲の中で毎日を送ろうとする。それが、自我というものだ。そういう性質を卒業できている人間は、一つ一つの出来事に感情的に反応しなくなる。それは、起きたことを情報として受け取るだけのことだから、事が起きると、それを自らの内に入れ、取り込み、次へと進んでいく。たとえば、賢いと認識している人にその人にとって許容範囲に入らないことが起きると、理屈をこねて、「これはこういうふうで、こうだから、こうなったのだ」と納得しようとすることも、自らのエリアの中であがいている状態だ。だから、自我のエリアの中にいるという意味では、何も考えないでエリアの中にいるものも、考えてエリアの中にいるものも、結局同じことだ。

ようこ:
許容範囲を超えた出来事が起きて、それをいただくということは、自らのエリアを超えるためにあるのですよね。

ジイジ:
そう。エリアを超えるために、許容範囲を超えた出来事は与えられる。通常、人間が生きていると、それが常に起きるようになっている。たとえば、先日西日本に起きた記録的豪雨による水害もそうだ。それは、もっと大きな規模で与えられたこと。そこで、自分の許容範囲を超えたところでそれを受け取る心があれば、その人間の精神性は広がっていく。それは、日常の些細な出来事でも、親子関係でも、仕事のことでも、学校の勉強でもそうだ。

ようこ:
逆に言うと、このカラクリがわかっている人には、エリアを超えるための大きな現象は起きない。

ゆうこ:
自分の概念を超えたところに、いろいろなことがあるということですね。

ジイジ:
自らの概念を超えたものを与えられるのが、人間世界で生きるということだ。でも人は、気持ちとしては、許容範囲の中にいようとするものだ。ここで言っているエリアとは、簡単に言うと、自分の許せる許容範囲ということ。

ようこ:
エリアの広さと、世界観の広さは比例しますね。ジイジのように、世界観が宇宙観で、宇宙そのものが自分自身だったら、エリアという言葉自体が存在しないような領域だと思いました。

ジイジ:
宇宙がエリアだ。でも、現象界を生きていると、どうしても現象界に意識が行き過ぎて、そこに囚われる。

ようこ:
ジイジは現象界に囚われていないから、四拍手(下記参照)の所作も閃いたのだと思います。これは、ジイジがふと空間を観ていたときに、潜象界からのエネルギーが空間の至るところから入ってくるのを感じたところから始まっているのですよね。

ジイジ:
そう。ある日、ぼーっと空間を観ていたら、いろいろなところから「カ(宇宙最極小微粒子)」がふわーっと噴き出しているのが観えた。「あれ??」と思ってさらに観ていたら、エアコンの吹き出し口のように空間の切れ目が垂れては、そこから生命エネルギーが湧き出してくるのが感じられた。だから、「こちらから意図的に空間を切ってみてもいいのだ」と思いつき、あの四拍手の所作が生まれた。あれは、天然循環だからね。四拍手の所作をもって、人間がケガレチ(汚れ地)としたこの世界を清浄にしていく。ところが、人間がケガレチにする速度が速くなり、そのケガレが大量になってきたことから、今、世界にたくさんの矛盾が起きている。

ようこ:
自然災害でも、矛盾を0にする作用ですものね。

ジイジ:
自然災害も、破壊だからね。破壊が起きているということは、破壊が起きるだけの負のエネルギーが溜まったわけだ。負のエネルギーが一気に爆発して自然災害が起きるということは、「負のエネルギーを溜めている」というメッセージなのだから、今の姿勢を改めなさいということだ。だから、大きな病気にかかって大変な目にあうのと同じことが、人類の共通点として起きている。個人が自らの負のエネルギーを溜めて病気になるのと同じように、今、地球規模でそれが起きている。それは、人類のエリアを壊し、人類が次のステージに進んでいくために起きている。

「五風十雨」という言葉があるのだが、それは五日に一回風が吹き、十日に一回雨が降り、とても穏やかな日々が過ぎていくということ。五日に一度吹く風は優しい風だ。そして、十日に一回雨が降り、あとは良い天気に恵まれて、「ありがたい毎日が送れています」ということ。だから、五風十雨というのは、「おかげさま」という意味だ。

ようこ:
2018年が「再スタートの年」というのは、木の花ファミリー内だけの話ではなく、地球規模の再スタートというイメージが湧きました。先日の西日本での水害もそうですし、自分たちがこれまで生きてきたことの答えをもらって、実態を知らされる年ということを思いました。それで、次に進んでいくというイメージがあります。

ジイジ:
天誅(てんちゅう)が下った後に、それをどう受け取って、どのようにスタートさせるのか、ということが再スタートという意味で、天誅が下って実態を思い知るのが2018年になるのだろう。そして、2019年、2020年と共にこの3年が1セットになっており、東京オリンピックが開催される2020年はクニツクリの再スタートということになるのだろう。

ようこ:
ジイジの地球暦で、組織化の星である土星にスイッチが入っていないということも、エリアを壊す役割があるからですね。

ジイジ:
そう。土星は英語でサターンと言うだろう?つまり、土星は魔(サタン)なんだよ。悪魔とか、惑わすとか、翻弄するとか、サタンというのはあまり良い印象ではないね。しかし、神の使いでもあり、非常に重要なのだが、そこに取り込まれると、それが絶対になってしまって、自らの枠が壊せなくなってしまう。それを壊しゆるくして、自由自在になることが、本来の交わりの目的ということを今、イメージしていた。

ようこ:
アマウツシのアマは宇宙ということだから、宇宙をうつすということは、自由自在に生きるということ。

ジイジ:
そのために、本来交わりはあるべきだ。ところが、たとえば快楽に目的が行ってしまうと、見当違いのほうへと進んでいってしまう。

エリアを超えるということは、エリアを超えて感動するものもいれば、エリアを超えて腹が立つものもいる。そこで、感動とともにエリアを超えていけば、自らのエリアは無限に広がっていく。地球上でたくさんの矛盾や問題が噴き出している今、自らのエリアを超えることが、人類が次の時代を切り開いていくための突破口となる。

 


 

木の花ファミリーでは、食前や大人ミーティング開始時、畑や田んぼ作業の締めくくりなど、日常の節目に「四拍手」という所作を行っています。以下は、四拍手についての解説です。

 

四拍手の示すところ

カタカムナの第五首・第六首と同じように、「四拍手」も宇宙の創造・発展・消滅の法則を示しています。「四拍手」を行ずる者は宇宙の仕組みを知り、宇宙(天)と共に世界を創造していく者としての意識でこれを行うことになります。この世界を清浄(イヤシロチ化)に導くための所作として、厳粛な気持ちで行ってください。

潜象界は現象界(三次元世界)と同時に重複して存在しています。その潜象界に存在する現象化の元となるエネルギー(カ)は現象界の至るところに供給されています。現代の人間の活動によりそういった美しい世界は汚れ穢れ(ケガレチ化)ています。それを清浄(イヤシロチ化)な世界に戻すために、そのエネルギーを意識的・積極的にこの世界へと迎え入れるための所作として、空間を指で指して切ると①、その空間が垂れ②、その切り口から無垢な生命エネルギー(カ)が現象界に流れ出てきます。この所作を三回(至るところの意)行ってください。

【宇宙創造の仕組み「フトマニ図」の作成】

      天は丸く⑦ 地は方なり⑩

そうすると、美しい生命エネルギーの響きがその場に流れ出て広がっていきます。それは宇宙創造の仕組みであり、その宇宙創造の仕組みを積極的に行い現象世界の穢れを清浄にするものです。
宇宙には始まりも終わりも方位もなく、ただ巡り続けています。ですから、宇宙は丸いのです。
宇宙の枠(球)が出来ると、縦方向にトキ(縦のライン⑧)とトコロ(横のライン⑨)が発生します。そのことにより、現象化の仕組みが整い形の世界が始まり、星が生まれます。
方位は星の上に存在します。ですから、四方(東西南北)が地球上に現れます。

【宇宙の心を表現する所作】

現象化(形)が始まるためには、初めに宇宙(天)の意志(ア)が発生します。現象の始まりである「ア」という高次元の響きの発生(ア)⑪から、宇宙の根本法則であるアマノミナカヌシ⑫(トキ軸)が降りてきます。同時にカムミムスヒ(ヒタリ回り)⑬とタカミムスヒ(ミキリ回り)⑭を示す陰と陽の働き(トコロ軸)が発生します。この世界は宇宙(天)の心から創造されることを示しています。

【四拍手の所作⑮】

宇宙の創造原理が整いエネルギーが、下図のように八方向に整うと、現象化の段階に入ります。両手を合わせ、四回拍手することによって、右手と左手で合わせて二×四回拍手(四)する(二×四=)八方宇宙を意味します。その場合、左手は陰を示し、右手は陽を示します。ですから、左手は前(陰)に差し出し、右手は手前に引き(陽、第一関節分手前にずらす)、両手を合わせてください。
この表現は、陰(精神性)が陽(物質性)より優先され、この世界の本来の姿である「霊主体従」を表します。
指さす方向も意識も斜め上45度(天)へ向けて、四拍手で締めてください。

【終わりに】

天の心を忘れた現代の人々は、豊かさの追求の結果、自我に囚われ、本来人が生まれ生きる目的であるこの世界の清浄化(地上天国)を忘れ、今や地球は宇宙のオアシスから宇宙のごみ溜めと化しています。私たち人間はその尊い役割を取り戻し、もう一度、天の意思と共にこの地球に美しく光り輝く響きを取り戻すために、宇宙創造の精神を悟り、地上のイヤシロチ化のために心を整え所作を行うことにより、地上天国の実現に向け、その志しを表現しましょう。